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太平記を歩く。 その84 「鏑射山城跡」 神戸市北区

舞台を東に移して、神戸市北区にある獨鈷山鏑射寺を訪れました。

ここ獨鈷山鏑射寺とその裏山に、かつて鏑射山城があったとされています。


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赤松則村(円心)の家臣・貴志庄の貴志五郎四郎義氏は、建武3年(1336年)3月26日に円心の子・赤松範資に属して湊川の戦いでは南朝軍と戦い、やがてここ鏑射山城に籠城。

翌月2日よりこの地で合戦したといいます。

この戦火により鏑射寺の建物はすべて焼け落ちたそうです。


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現在の獨鈷山鏑射寺の建造物は、すべて近年に建て替えられたもので、当時を偲ぶものはなにも残されていません。


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この三重塔も、昭和48年(1973年)に建てられたそうです。


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こちらの本堂も、見るからに新しそうですもんね。


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標高327メートルの裏山の山頂に向かう山道です。

途中まで登ってみましたが、草深くかなり険しそう。

ここを訪れたのは初夏の7月2日で、マムシが怖かったので、登山は諦めました。


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鏑射寺の戦いで南朝方の攻めに後退した義氏は、13日には摂津西宮の瓦林城に移りました。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-12 00:25 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その79 「宝林寺(円心館)」 兵庫県赤穂郡上郡町

松雲寺赤松居館跡がある赤松から千種川を挟んだ西側の河野原に、宝林寺という寺院があるのですが、ここは、赤松則村(円心)の三男・赤松則祐が、円心の死後、播磨国守護・惣領家を継いだときに建てたといわれています。


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もともと宝林寺は円心の生前から、則祐の自領だった備前国新田荘中山に創建されていましたが、惣領を継いだ後の文和4年(1355年)にこの地へ移されたとつたわります。

その後、赤松惣領家の氏寺として、代々手厚く保護されました。


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かつては河野原集落の全域が境内地であったとみられているそうですが、戦国時代には赤松氏とともに衰微したとみられています。


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現在、境内には赤松氏の資料館「円心館」が設けられ、館内には、赤松則村(円心)、赤松則祐、雪村友梅別法和尚説も)、覚安尼(千種姫)木坐像が安置されています。


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本来は撮影禁止ですが、館を管理する松雲寺の住職さんに、フラッシュをたかないという条件で特別に撮影の許可をいただきました。


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まずは赤松則村(円心)坐像

右手に、左手にを携えた法体姿で、禅僧の九条袈裟と異なる五条袈裟を掛けているは、円心が半僧半俗の沙弥(しゃみ)であったことを示すそうです。


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アップです。

眼球は水晶球だそうですが、眼光鋭く、圧倒されます。


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こちらは、円心の三男・赤松則祐坐像

ここ宝林寺の建立者ですね。

こちらも右手に扇を持っていますが、刀は携えていません。

則祐坐像は、元は京の建仁寺にあったのが、後に宝林寺に移されたといわれているそうです。

禅僧の九条袈裟を掛けた姿は、若くから出家して僧侶のまま武将として活躍した則祐の人生を物語ります。


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アップです。

円心に比べると、顔が小さく首も細いようです。


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こちらは雪村友梅坐像

宝林寺の開山「別法和尚」坐像と伝えられていますが、実際の開山・雪村友梅の像とみられるそうです。

雪村友梅は、「その74」で紹介した法雲寺の開山でもあります。

その隣の坐像は、覚安尼坐像

覚安尼は、円心もしくは則祐の娘千種姫が出家剃髪した姿と伝えられます。


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友梅のアップです。


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この際なので、いろんな角度から。


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ご住職の話によれば、坐像を調査したところ、のちの時代に手を加えた修理銘が見られるため、「国宝」扱いににはならなかったそうです。


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でも、鎌倉彫刻の名残をとどめる価値を認められ、「赤松三尊像」として兵庫県の指定文化財となっています。


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館内には、他にも甲冑太刀書簡など、赤松氏関連の史料が展示されています。

見学料300円は安いです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-30 21:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その78 「松雲寺」 兵庫県赤穂郡上郡町

前稿で紹介した五社八幡神社のすぐ西隣にある「松雲寺」を訪れました。

ここは、元は白旗城の麓にあった栖雲寺(参照:その72)を継承する寺院として、江戸時代に創建されたと伝わります。


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元の栖雲寺は、赤松則村(円心)の次男・赤松貞範が建立したといわれ、禅宗寺院でしたが、この地に移って松雲寺と名を改めたとき、真言宗に改宗したそうです。


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貞範は『太平記』の中で、勇猛果敢な戦いぶりや情け深く敵と交わり味方に引き入れるなど魅力的な人物として描かれ、白旗城の籠城戦でも大きな戦果をあげたことから、その軍功として丹波春日部荘足利尊氏より与えられ、以後、春日部家として足利将軍家に仕え、播磨守護職の赤松惣領家同格の存在となります。


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ちなみに赤松惣領家は、円心の長男・赤松範資が病死したため、三男の赤松則祐が継ぎました。


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境内には、推定樹齢700年から800年といわれるカヤの大樹が聳えます。

説明板の解説によると、樹高は約24.8m、目通り直径約1.6m、根周り約8.3m、枝の広がりは東西約19m、南北16mあるそうです。


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樹齢700年以上といえば、ここ松雲寺はもちろん、赤松居館が作られる以前からこの地にあったかもしれない木です。

「その74」で紹介した法雲寺ビャクシンの大樹は、円心手植えの木という伝説があります。

あるいは、このカヤの大樹も、円心もしくは貞範、則祐らと関わりがあるのかもしれませんね。


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赤松の集落にそびえるその大樹は、今なお樹勢は衰えていません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-29 21:10 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その77 「赤松五社八幡神社」 兵庫県赤穂郡上郡町

前稿で紹介した赤松居館跡のすぐ西隣にある「五社八幡神社」を訪れました。

「五社八幡神社」という名の神社は「その33」で紹介したように神戸市北区にもありますので、ここでは便宜上、「赤松五社八幡神社」と呼ぶことにします(このあたりの住所は、上郡町赤松といいます)。


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参道には、「赤松圓心廟影堂」と刻まれた石碑がありましたが、これは近くの「宝林寺」のもののようです。


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赤松五社八幡神社は、赤松則村(円心)の三男で領家を継いだ赤松則祐が建立したといわれ、明治32年(1899年)には、白旗城麓にあった白旗神社を合祀したそうです(参照:その57)。


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拝殿です。

拝殿内には、中世から戦国時代にかけての武将が描かれた絵馬が、数多く奉納されていましたので、紹介ます。

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まずは、左から北畠親房、源頼朝、源義経


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左から毛利元就、源為朝


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左から吉川元長、小早川隆景、山名宗全


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左から平知盛、細川幽斎(藤孝)


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左から太田持資(道灌)、鈴木重幸、児島高徳


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左から足利義詮、大内義弘


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左から北条時宗、源義朝、北条時頼


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右が加藤清正


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左から源義家、平忠度


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左から斯波義将、武田信玄、楠木正行


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左から柴田勝家、豊臣秀吉


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左から伊達政宗、北条氏政


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左から織田信長、北畠信雄、名和長年


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左から平重盛、上杉謙信


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左から新田義貞、源頼政、新羅三郎義光(源義光)


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左は佐々木高綱、右は・・・明記されていません。だれでしょう?


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そして最後に細川勝元


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というわけで、人選配列も何を基準にしているのかよくわかりませんが、時代が違った英雄たちの絵馬がずらりと掲げられていました。

『太平記』関連でいえば、南朝方の児島高徳、楠木正行、新田義貞、北畠親房、名和長年の絵馬があるのに、なんで楠木正成がいないんでしょうね?

それに、どういう理由か、郷土の英雄である赤松氏からの人選がありません。

ただ、こんなのがあります。


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左は長山遠江守、右が赤松弾正と明記されています。

長山遠江守がよくわからないのですが、名門・土岐氏の人物のようで、赤松弾正というのは、円心の四男で則祐の弟にあたる赤松氏範のことだそうです。

氏範は3人の兄と仲が悪く、円心の死後はひとり南朝方に与し、幾度となく兄弟対決を繰り返しながら、最後は京都の清水寺自害した人物です。

絵馬には、明治11年と記されています。

明治以降の天皇家の歴史認識では南朝が正統とされていますから、赤松氏では唯一南朝方に与した氏範だけが、絵馬としてここに祀られたのかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-28 22:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その74 「法雲寺」 兵庫県赤穂郡上郡町

苔縄城跡のある愛宕山の麓にある「法雲寺」を訪れました。

背後に見えるのが愛宕山です。


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ここ苔縄の地は赤松氏挙兵の地と伝えられ、建武4年(1337年)に赤松則村(円心)がこの地に新寺を建立し、雪村友梅を開山に招請したと伝えられます。


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以後、ここが赤松氏の菩提寺になりました。


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境内には、推定樹齢600年から800年とされるビャクシン杉の大樹がそびえます。

この木は、法雲寺建立の際に、円心が自ら植えたものと伝わります。


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樹高33.5m、最長幹周り9.83m、根周り14.3m、枝の広がりは東西23.5m、南北22mにも及び、日本最大級だそうです。


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とにかくデカイ


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写真ではなかなかその大きさが伝わりづらいので、スケール感を伝えるため、石碑の上にわたしのキャップを置いてみました。


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樹齢700年を経てなお、樹勢はいたって盛んだそうです。


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境内には、「赤松円心公六百年遠諱」と刻まれた石碑があります。


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後年、「嘉吉の乱」によって赤松惣領家が滅ぶと、山名氏によって寺領が押領され、享徳3年(1454年)には、室町幕府に反乱を起こして山名宗全に敗死した赤松則尚首実検が、ここ法雲寺で行われたと伝わります。
その後、赤松政則による惣領家再興後に寺領の回復が図られますが、戦国時代には赤松氏とともに衰微したとみられているそうです。

それらすべての歴史を詳らかに見てきたのは、ビャクシン杉だけでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-23 00:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その70 「慶雲寺」 神戸市須磨区

前稿の宝満寺につづいて、この時期の足利尊氏にまつわる伝承が残る寺院が神戸市内にもう1ヵ所あります。

湊川の戦いの舞台からはちょっと離れているのですが、須磨区車にある慶雲寺です。


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その伝承によると、湊川の戦いのとき、足利尊氏軍の軍勢の近くに一人の僧侶が現われ、その僧が尊氏めがけて飛んでくる幾本もの矢を空中で受け止めては投げ捨ててくれたといいます。

そのおかげで、味方をまったく傷つかずにすみ、尊氏軍の勝利に終わりました。

尊氏は戦勝後、その僧を日ごろ信仰してきた兵庫にある魚御堂地蔵の化身と考え、矢拾い地蔵としてここ車の地に移し、その仏像を祀る寺として善福寺を創建しました。

魚御堂は、平清盛が魚を供養するために建てた寺です。

その後、善福寺は明治20年(1887年)に慶雲庵と合併して、慶雲寺となりました。


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もちろん、この話も伝承の域を出ず、にわかに信じられる話ではありません。

ですが、寛政8年(1796年)に刊行された『摂津名所図会』という江戸時代の観光ガイドブックの文を引用すると、


「善福寺中村にあり。妙法寺より十町ばかり北なり。真言宗。本尊矢拾地蔵、長五尺二分。建武年中、足利尊氏公兵庫合戦の時、この本尊を信仰ありしゆゑ、応験ありて一法師と現れ、敵より射る矢を宙にて拾ひ味方の勝利としたまふゆゑにこの名を呼びけり。旧地は兵庫南浜魚御堂なり。」


とあります。

少なくとも、寛政時代には、この伝承はあったようですね。


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境内から見下ろした景色です。

湊川の戦いの舞台となった場所は、山の向こうです。

残念ながら、昭和28年(1953年)の火災によって、矢拾い地蔵は焼失したそうです。

次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-16 01:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その69 「福海寺(足利尊氏開祖)」 神戸市兵庫区

足利尊氏が開祖という神戸市兵庫区の福海寺に来ました。

建武3年(1336年)、京都を脱出して西へと敗走する足利尊氏が、新田義貞の軍勢に追われたとき、この地にあった観音堂の下に身を隠して難を逃れたといわれ、その報恩のため、のちに尊氏がこの寺を建立したと伝えられています。


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先の話になりますが、「湊川の戦い」楠本正成が戦死し、新田義貞が敗走したことにより、足利尊氏は京へ戻り、延元元年/建武3年(1336年)8月に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を廃し、持明院統光明天皇(北朝第2代天皇)を擁立します。

しかし、その12月、京を脱出した後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れ、自己が正統の天皇であると主張し、ここに京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)が両立することになり、南北朝の動乱がはじまります。


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そんななか、尊氏は延元3年/建武5年(1338年)8月に、光明天皇から征夷大将軍の宣下を賜り、幕府を開きました。

そして、興国5年/康永3年(1344年)、ここ福海寺を創建します。


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入口横の壁にあった「太平記合戦図」です。

先述した福海寺の前身である針ヶ崎観音堂の下に避難する様子が描かれているそうです。


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境内には、尊氏の歌碑があります。


「彼の岸へ 渡す誓いの船出には 我も乗りえん 賽は火の海」


尊氏が兵庫から落のびる心境を詠ったものだとか。


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寺の紋である「二引両」は、足利氏の家紋からきています。

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なお、足利尊氏が兵庫で敗れ九州へ逃げたあと、逃げ遅れた足利軍の軍勢は持っていた軍旗の「二引両」の紋の間を黒く塗って2本線1本線にし、にわか「一引両」(新田家の家紋)にしたという逸話が残されています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-15 00:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その68 「宝満寺」 神戸市長田区

神戸市長田区にある宝満寺を訪れました。

打出合戦に敗れた足利尊氏が敗走中にここを訪れ、再起を願い、武運を守るようにと祈願したと伝えられます。


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その後、尊氏は兵庫から九州へ敗走しますが、筑紫(福岡県)の多々良浜菊池武敏軍と戦った多々良浜の戦いのとき、突然、突風が吹き、その中から一人の少年が尊氏の前に現われ、矢竹をほしいと頼んだといいます。

尊氏は、その少年に一本の矢竹を与えました。

その後、勢力を立て直した尊氏は、再び兵庫へ攻め上ってきますが、その際、再びここ宝満寺を訪れ、矢竹のことを僧に話したところ、その僧はたいそう驚き、寺の本尊の下で見つけたという矢竹を尊氏に見せたそうです。

その矢竹は、まぎれもなく尊氏が少年に与えたものだったとか。

尊氏はこの寺の本尊が自分を守っていてくれたのだと悟り、戦勝後、尊氏はこの本尊を深く信仰したと伝えられます。


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もちろん、にわかに信じられる話ではありませんが、尊氏は湊川の戦いの際、ここ宝満寺に本陣を布き、また、戦勝後も宝満寺を崇敬し、伽藍の修復や寺領の寄進をしたことは本当のようですから、尊氏が何らかのご利益を感じていたというのは事実なんでしょうね。


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説明板によると、その後、宝満寺は天正7年(1579年)に荒木村重によって焼き討ちされ、寺録も没収されたそうです。

天正7年といえば、村重は籠城していた有岡城から9月に尼崎城に移っており、兵庫の花隈城に入ったのは翌年の2月頃のこと。

焼き討ちされたのは天正8年じゃないでしょうか?

さらに、第二次世界大戦時の神戸大空襲により寺は全焼し、残念ながら寺史に関する史料はすべて焼失してしまったそうです。


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太平記とは関係ありませんが、境内には尼崎藩第2代藩主青山幸利慰霊碑と、その家老の天野八郎兵衛の顕彰碑があります。


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青山幸利は尼崎藩主として現在の神戸一帯の領主でもありましたが、たいへん厳正で領民思いの善政を行ったため、その感謝の意を込めて、貞享元年(1684年)にこの碑が建てられたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-06-14 01:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その67 「藤之寺(北風家菩提寺)」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある、藤之寺にやってきました。

ここは兵庫津の豪商・北風家の菩提寺として知られますが、その北風家の祖先が、『太平記』に関わっていると知り、ここを訪れました。


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伝承によると、建武3年(1336年)2月10・11日の打出合戦に破れた足利尊氏軍が、兵庫津から船で九州に敗走しようとしていたとき、この地に古くから住む豪族・白藤氏の第44代・白藤惟村が、北風を利用して足利軍の船に火をつけ、足利軍に大きなダメージを与えたそうです。

その功により、足利追討軍の新田義貞から軍忠状とその佩刀を賜り、北風にあやかって「喜多風」の姓を受け、さらに、惟村は新田義貞から「貞」の一字を譲り受け、喜多風貞村と名乗るようになったそうです。


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しかし、その新田軍が湊川の戦いで敗走すると、喜多風一族もそれとともに隠遁、その後、なんとか一族の滅亡は逃れたものの、室町時代は目立った活躍はなかったようです。

やがて江戸時代に入り、姓を「北風」と改めると、廻漕業を営むようになり、寛永年間(1624~1648)には、北風彦太郎が越後米、加賀米を西廻り下関を経て瀬戸内海から兵庫に廻漕するルートを開き、莫大な富を築きます。

第63代・北風荘右衛門貞幹のときには、俳人与謝蕪村パトロンとなったり、無名時代の高田屋嘉兵衛を後援したりしたそうです。

また、幕末から明治にかけての当主・北風正造(第66代荘右衛門貞忠)は、表向き幕府の御用達を勤めながら、勤皇の志士側たちに資金と情報を提供し、倒幕を推進しました。

しかし、正造はあまりにも公徳心が強すぎ、明治に入って家業は倒産してしまいます。


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新田軍に与したことから始まり、倒幕軍に与して終わった北風家。

時代は違えど勤皇だったんですね。

その北風家の一族が、ここに眠ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-09 23:52 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その61 「薬仙寺(後醍醐天皇御薬水)」 神戸市兵庫区

同じく神戸市兵庫区にある薬仙寺を訪れました。

ここには「後醍醐天皇薬水」という名の井戸跡があります。


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現地説明板によると、元弘の乱によって隠岐島に流されていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、正慶2年(1333年)に島を脱出して還幸の途中、前稿で紹介した兵庫の福厳寺病床に伏したそうです。


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その際、当時の住職がここの霊水を薬水として献上したところ、たちまちにして快癒したことから、「薬仙寺」の号を賜ったといいます。


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井戸脇にある「薬師出現古跡涌水」の碑です。


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こちらの石碑はかなり古そう。


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説明板です。


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まあ、この種の伝承というのは、全国各地で数限りなくある話で、にわかに信じられる話ではありませんが、後醍醐天皇が兵庫津を通ったことは史実ですから、何らかの関わりはあったのかもしれませんね。


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また、太平記とは関係ないですが、ここ薬仙寺の場所には、平清盛後白河法皇を幽閉した「萱の御所」があったとされ、その石碑が建てられています。


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後醍醐天皇といい後白河法皇といい、帝が政治介入すると、歴史は乱れるんですよね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-31 23:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)