タグ:寺社 ( 77 ) タグの人気記事

 

太平記を歩く。 その60 「福厳寺(後醍醐天皇御駐蹕之處)」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある福厳寺の入口には、「後醍醐天皇御駐蹕之處」と刻まれた石碑があります。

ここも、配流先の隠岐島を脱出して京に帰る帰路の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が立ち寄ったとされます。


e0158128_11000001.jpg

後醍醐天皇は元弘3年/正慶2年(1333年)5月31日から6月2日までの間滞在し、この地で楠木正成の参向を受け、また、東国で挙兵した新田義貞によって鎌倉幕府壊滅したという報せを受けたといいます。

『太平記』は、「兵庫の福厳寺といふ寺に、儲餉(ちょしょう)の在所を点じて、しばらく御座ありける」と伝えています。


e0158128_11000316.jpg

石碑の横には、説明看板があるのですが、色あせてしまって読めません(笑)。

ご関係者さまは、ぜひ作り直してください。


e0158128_11000601.jpg

本堂です。

もっとも、当時の福厳寺は、ここよりもっと北東の会下山にあったそうですけどね。


e0158128_11000967.jpg

その後、京に戻った後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う建武の新政を開始するんですね。

ところが、元弘の乱の論功行賞において赤松則村(円心)足利尊氏を怒らせてしまい、やがてそれが、南北朝の分裂に繋がっていきます。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-05-30 23:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その59 「法華山一乗寺」 兵庫県加西市

兵庫県加西市に「一乗寺」という大きな寺院があるのですが、ここも、配流先の隠岐島から帰京中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が立ち寄ったと伝わる寺です。


e0158128_16592931.jpg

後醍醐天皇の護持僧・文観は、東寺長者・醍醐寺座主をつとめた真言律宗の高僧ですが、もともとは、ここ一乗寺の僧だったそうです。


e0158128_17010141.jpg

南北朝時代の播磨国の地誌『峰相記』によると、建武2年(1335年)に後醍醐天皇のを受けた文観が一乗寺を訪れ、西国第一の大堂と称された講堂落慶法要が行われたと記されているそうです。


e0158128_17053358.jpg

大非閣(金堂)と呼ばれる本堂です。


e0158128_17073194.jpg

残念ながら後醍醐天皇が建てた大堂は火災で消失してしまい、現在の本堂は寛永5年(1628年)に姫路藩主・本多忠政の援助で再建されたものだそうです。


e0158128_17085048.jpg

一乗寺の創建は白雉元年(650年)、孝徳天皇(第36代天皇)の勅願で法道仙人が開いたとされています。


e0158128_17103236.jpg

安元年(1171年)に建てられた三重塔は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔として国宝に指定されています。


e0158128_17113036.jpg

三重塔は本堂から見下ろすことができます。


e0158128_17125409.jpg

他にも、数多くの国指定重要文化財兵庫県指定文化財を所有しています。

下の写真は室町時代に建てられたと言われる弁天堂妙見堂


e0158128_17150947.jpg

続いて鎌倉時代に建てられたと言われる護法堂


e0158128_17151306.jpg

こちらは、正和5年(1316年)と刻印された石造笠塔婆です。


e0158128_17171071.jpg

ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日。

でも、ケイタイも圏外になるほどの山奥にあるため参拝客もそれほど多くなく、うぐいすの声を聴きながら悠久の歴史にふれ、ゆったりとした時間を過ごしました。

ここ一乗寺は、西国三十三所二十六番札所となっています。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-05-27 18:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その58 「書寫山圓教寺」 兵庫県姫路市

兵庫県姫路にある、西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。


e0158128_19040523.jpg

大塔宮護良親王楠木正成、さらには播磨国の赤松則村(円心)らが各地で倒幕の兵を上げると、その機に乗じて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵します。

やがて六波羅陥落の知らせを聞いた後醍醐天皇は、元弘3年(1333年)5月23日に船上山を出発し、京へと向かいます。


e0158128_19040851.jpg

その帰路、後醍醐天皇はここ書寫山圓教寺に立ち寄り、一泊したといいます。

ここで、天皇方として摂津と山崎を何度も往復して幕府軍と戦っていた円心に会いました。

このとき後醍醐天皇は、円心を「天下草創之功」と称えたといいます。


e0158128_19041187.jpg

有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


e0158128_19041550.jpg

圓教寺は、康保3年(966年)に天台宗の僧・性空によって創建されたと伝えられ、花山法皇(第65代天皇)の勅願所となりました。

摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


e0158128_19272610.jpg

こちらが有名な三之堂

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財ですが、後醍醐天皇の行幸以降に再建されたものです。


e0158128_19273299.jpg

ここは、天正6年(1578年)に起きた羽柴秀吉別所長治三木合戦において、一時秀吉が本陣を置いた場所でもあります。


e0158128_19273628.jpg

ここ三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』、同じく平成15年(2003年)の 『武蔵-MUSASHI-』、そして、あのトム・クルーズ主演のハリウッド映画『ラスト・サムライ』のロケ地にもなっています。


e0158128_16375535.jpg

書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

  ↓↓↓

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺~後編~」

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~


「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-05-26 00:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その56 「名和一族郎党の墓」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した長綱寺の裏山に、名和一族郎党の墓と伝わる300基以上の五輪塔があります。

墓所への参道は、境内に誘導板が設置されているので、すぐにわかります。


e0158128_20171403.jpg

急な階段を登ります。


e0158128_20171994.jpg

ここが、その場所です。


e0158128_20172208.jpg

この五輪塔群は、名和長年船上山で幕府軍と戦ったときに戦死した一族を祀ったものか、あるいは、そのとき館に残った一族の女性や子どもたちの墓とも伝えられています。


e0158128_20191984.jpg

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が都を追われて足利尊氏の天下になったとき、足利方によって墓を荒らされることを心配した長年の子孫が見つからないように土中に埋めたといわれ、それが、昭和5年(1930年)になって偶然、地元の農家の人によって発見されたそうです。


e0158128_20192451.jpg

発見当時は何の墓かわからなかったそうですが、名和長年の妹婿の家に伝わる古文書によって判明したそうで、その後、現在のかたちに祀られたそうです。


e0158128_20210777.jpg

ほとんどが五輪塔ですが、最上段の中央に1基だけ、大きな宝篋印塔があります。


e0158128_20212583.jpg

これが、名和長年の墓と考えられているそうです。


e0158128_20224157.jpg

参道から西を見下ろします。

右端に見えるのが、日本海です。


e0158128_20224444.jpg

下山して長綱寺とその裏山を見上げます。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-05-24 00:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その55 「長綱寺(名和一族菩提寺)」 鳥取県西伯郡大山町

前稿的石前々稿名和氏館跡のすぐ東側に、名和氏一族の菩提寺・長綱寺があります。

この寺には、名和長年、その長男の名和義高、三男の名和高光、そして後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の位牌が祀られてあり、寺紋は帆掛け船で後醍醐天皇から名和氏に賜ったものと言われています。


e0158128_20073458.jpg

寺の創建は名和長年によるもので、元は長年の父・名和行高の還暦を祝って建てた隠居所だったそうです。

長綱寺(ちょうこうじ)という名称は、長年の以前の名である長高から取ったものだそうです。

ちなみに、船上山挙兵時は、長年は長高の名乗っていたといい、後醍醐天皇の「長くて高いのは危険なことではないか」との御言葉を受け、長年の名を贈られたと伝わります。


e0158128_20073738.jpg

説明板によると、創建当初は長高の名前にあやかって「長高庵」と言ったそうですが、後醍醐天皇が足利尊氏に追われて足利氏の天下になってからは、ここが長年(長高)に関係する場所であることを知られないため、「長高庵」を「長綱庵」と改名したそうです。


e0158128_20074125.jpg

その後、長綱庵が火災で焼けたのを機会に、屋敷を前々稿で紹介した場所に移し、再建した寺院は現在の長綱寺と再度改めまたそうです。


e0158128_20105297.jpg

境内の片隅には、「硯岩」と称する遺跡があります。


e0158128_20105655.jpg

その説明書きによると、長年が後醍醐天皇を船上山へ案内する途中に休憩した岩と言われ、上部に墨つぼの様なくぼみがある形状から、「後醍醐天皇の硯岩」と呼ばれ、伝承されてきた岩だそうです。


e0158128_20110072.jpg

ところが、昭和30年代に突然行方不明になり、人々が嘆いていたところ、住職の夢枕に名和長年が立ち、「米子の皆生温泉の辺りで硯岩が粗末に扱われている。持ち帰るよう。」とのお告げがあったそうです。

これを聞いた有志たちが手をつくして探し回ったところ、そのお告げ通り皆生温泉の近くで硯岩を発見。

平成22年に寺へ帰ってきたそうです。


e0158128_20110486.jpg

夢枕云々はどうかわかりませんが、昭和30年代の話ですから、岩がなくなったという話は本当なんでしょうね。

この岩は10トン300kgあるそうです。

誰が? どのようにして? 何のために?

なかなかミステリアスな話ですね。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-05-20 00:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その52 「名和神社」 鳥取県西伯郡大山町

「その50」で紹介した御来屋漁港から800mほど南にある名和神社を訪れました。

ここは、その名のとおり、名和長年を主祭神とした名和一族以下42名を合祀した神社で、「建武中興十五社」の一社です。


e0158128_19231254.jpg

名和長年は言うまでもなく、隠岐の島から脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、一族郎党を率いて船上山に立て籠もり、天皇方を勝利に導いた功臣です。


e0158128_19231504.jpg

入口の鳥居の横には、「別格官幣社」と刻まれた石碑があります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


e0158128_19264628.jpg

『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」では、後醍醐天皇と名和長年の出会いを、次のように伝えます。


さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。

六条少将忠顕朝臣一人先舟よりおり給て、「此辺には何なる者か、弓矢取て人に被知たる」と問れければ、道行人立やすらひて、「此辺には名和又太郎長年と申者こそ、其身指て名有武士にては候はね共、家富一族広して、心がさある者にて候へ」とぞ語りける。

忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申」とぞ被仰たりける。

名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。

「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。

俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。


ちょっと長いですが、以下、要訳すると、


後醍醐天皇を乗せた船が伯耆国は名和湊に到着すると、さっそく六条少将千種忠顕朝臣が舟を降り、「このあたりに弓矢の名手と知られる者はおらぬか?」と尋ねたところ、道行く人が立ち止まって、「このあたりでは名和又太郎長年という者が一番でしょう。彼はそれほど有名な武士ではありませんが、裕福で一族も多く、皆からも信頼の厚い者です」と答えました。

忠顕は名和長年について詳しく聞き、すぐに勅使を立てると、「先帝後醍醐殿は隠岐判官佐々木清高の舘を脱出され、今この湊にお着きになられた。名和長年の武勇については、予てから陛下のお耳に入っており、頼りにされている旨仰せられている。頼みとして良いのか否か、速やかに返事をされたい」と申し渡しました。

このとき長年は一族らと共に酒宴の最中でしたが、勅使の申し入れに思案がまとまらず黙っていました。

すると弟の小太郎左衛門尉長重が進み出て、「昔から今に至るも、人が望んでやまないのは名誉と利得の二つです。われらありがたくも先帝のご信頼を受けた以上、もし屍を敵の軍門に晒すこととなっても、生前には誇り高き行動であり、また死後には名誉ある行為となります。ここは何も迷うことなくお受けするべきです」と進言し、これを聞いた長年はじめ一族ら二十余人全員が賛同。

「では早速合戦の用意をしよう。きっと追手勢も近くまで来ているだろう。長重は先帝をお迎えに行き、すぐ船上山に登れ!」と言い捨てるや、鎧に身を固めて走り出すと、一族の五人も腹巻を取って身に着けながら、高紐を締めて共に先帝をお迎えに行きました。

しかし、突然の出来事だったので御輿などの用意もなく、長重が身に着けている鎧の上に薦で編んだ筵を巻きつけ、帝を背負って鳥の飛ぶような速さで船上山に登りました。


後醍醐天皇と長年ら名和家の出会いは、突然の出来事だったようですね。

その後、船上山の戦いに勝利した長年は、後醍醐天皇帰洛の際の護衛も務めて、幕府滅亡後に後醍醐天皇によって開始された建武の新政においては、伯耆守に任じられた。


e0158128_19264913.jpg

江戸時代はそれほど大きな神社ではなかったようですが、明治16年(1883年)に旧社を新しく建て替え、鳥取県内でも最大級の神社の規模となります。


e0158128_19265237.jpg

現在の社殿は、国粋主義の盛んな昭和10年(1935年)に建てられたものだそうです。


e0158128_19282439.jpg

説明板によると、境内は名和家の米蔵があった場所だそうで、合戦の際にこれを焼き払ったため、今でも神社の裏から焼き米が出て来るそうです。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-05-16 22:07 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その49 「船上山行宮跡(後編)」 鳥取県東伯郡琴浦町

前稿の続きです。

標高616.5m地点に建つ「船上山行宮之碑」の丘をあとにし、「後醍醐天皇行宮跡」への誘導案内板に従ってさらに尾根道を奥に進みます。


e0158128_18183781.jpg

船上山は、平安時代の初期ごろ(約1,200年前)から山岳仏教が栄え、大山、美徳(三徳)山とともに伯耆三嶺とよばれた修験道の零場だったといいます。

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)と名和長年らがこの地で挙兵した頃、この山には金石寺という寺院があったと伝わります。


e0158128_18191733.jpg

しばらく進むと、石段石垣の遺構があります。

おそらくこれは、その金石寺の後身・智積寺のものと思われます。

智積寺とは、室町時代後期の享禄3年(1530年)に創建された寺院です。


e0158128_18223650.jpg

山道の左右には、「寺坊跡」とみられる削平地が何箇所もあります。

当時の智積寺の繁栄ぶりがうかがえますね。


e0158128_18223930.jpg
e0158128_18224257.jpg

この「寺坊跡」は、かなりの面積です。


e0158128_18233432.jpg

道中、「船上山古石塔群」と記された案内板がありました。

それに従って進んでみると、古い五輪塔宝篋印塔が100基以上、苔むした状態で乱立していました。


e0158128_18263283.jpg

形から察するに、鎌倉時代末期から室町時代中期のものかと思われます。


e0158128_18263667.jpg

その時代、立地から考えて、おそらく寺院関係の墓域かと思われますが、あるいは、後醍醐天皇らが挙兵した「船上山の戦い」での戦死者の墓だったりするかもしれません。


e0158128_18264014.jpg

それにしても、保存状態がよろしくなく、荒れ放題です。

数少ない中世墳墓の貴重な遺跡といえます。

船上山は国の史跡にも指定されているわけですから、なんとか維持管理できないものでしょうか?


e0158128_18274886.jpg

山頂の船上神社が見え始めた少し手前に、「文保二年銘台石」と名付けられた石塔の台石があります。

その説明板によると、後醍醐天皇が即位した文保二年(1318年)の年号が刻まれているそうで、鎌倉時代の僧・良賢によって建てられたものだそうです。

後醍醐天皇がこの地に籠もったのが元弘3年/正慶2年(1333年)ですから、その当時、すでにこの石塔があったということですね。


e0158128_18305704.jpg

そして、標高687m付近にある船上神社です。


e0158128_18310191.jpg

船上神社は、かつては船上山三所権現といい、寺僧が奉仕していたそうですが、明治11年(1876)の神仏判然令によって本尊等を山下の法蔵院に戻し、奥ノ院のご神体を権現社に移して、船上神社としたそうです。


e0158128_18310538.jpg

拝殿です。

戦後、正道館の講堂を移築したものだそうです。


e0158128_18311058.jpg

本殿です。

昭和9年(1934年)に船上山史跡保存会によって再建されたものだそうです。


e0158128_18325004.jpg

そして本殿から200mほど西に進むと、奥の院があります。


e0158128_18325342.jpg

奥の院には、後醍醐天皇が祀られているのだとか。


e0158128_18352620.jpg

船上神社の北側には、金石寺本堂跡(推定)があります。


e0158128_18353064.jpg

説明板によると、承和6年(839年)鋳造で「伯耆国金石寺」の銘が残る梵鐘が、現在も福岡県福岡市早良区にある西光寺国宝として保存されているそうで、そのことから、約1200年前には既にこの地にあったことがわかっています。


e0158128_18353389.jpg

船上神社の南側には、智積寺本堂跡があります。


e0158128_18353660.jpg

金石寺は南北朝時代の争乱に巻き込まれて衰退してしまいますが、室町時代後期の享禄3年(1530年)に智積寺として再興されました。

しかし、天文13年(1544年)に尼子氏と山名氏の戦乱により焼失。

これ以後、本堂は再建されていないそうです。

その後、太閤検地による寺院の没収などにより、文禄年間(1592~1595年)に山上の寺院を解散したそうです。


e0158128_18383829.jpg

で、本稿のメイン、船上神社の本堂と奥の院の間に、「後醍醐天皇行宮跡」があります。


e0158128_18384288.jpg

後醍醐天皇を奉じた名和長年らは、攻め寄せる隠岐守護の佐々木清高軍と激しい戦いを繰り広げます。

『太平記』によると、3000余りの佐々木軍に対して名和軍は僅かに150余り

しかし、名和長年は木に数百の旗をくくりつけて自軍を大軍であるかのように見せかけるなどの策を講じ、3日間の激戦の末、佐々木軍を打ち破ります。


e0158128_18384559.jpg

戦いに勝利した後醍醐天皇は、その後も約80日間この地に留まり、全国の反北条派の武士たちに檄を飛ばすなど、倒幕に向けての政治工作を執り行ったといいます。

いわば、倒幕の聖地といえますね。

そんな歴史を踏まえ、昭和7年(1932年)5月、「船上山行宮跡」として国指定の史跡となりました。


e0158128_18384893.jpg

ただ、当時は行宮跡の正確な場所が確定できず、頂上一帯が指定区域となっていたそうで、第二次世界大戦後に調査研究が進み、地元史の『伯耆民談記』に見られる「本社より乾に當りて三丁計り去り東西十四丁、南北十五丁の地あり、境内廣平にして辰巳の方に門の跡あり」という記述から、後醍醐天皇行宮跡をこの地と推定したそうです。


e0158128_18412570.jpg

行宮跡と船上神社の間には、樹高23m、幹周囲5.6mの杉の大樹が聳えます。


e0158128_18423258.jpg

推定樹齢1000年だとか。

後醍醐天皇の挙兵時にも、既に樹齢300年の大樹だったことになりますね。

歴史の守り人・・・もとい、守り樹といえるでしょうか。


e0158128_18431403.jpg

最後に、麓の船上山ダムから見上げる船上山屏風岩

絶景です。

この山が太古の昔から山岳信仰の対象となってきたことがわかりますね。

この『太平記を歩く』シリーズを続けるにあたり、当初は車で片道2時間程度以内で行ける関西の史跡をめぐる設定で、ここ船上山はリストに入れてなかったのですが、進めていくうちに、どうしてもこの神秘的な景色が見たくなり、このGWに神戸から片道4時間かけてこの地にやってきました。

いや~、来てよかったですね。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-05-10 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その46 「観音正寺~観音寺城跡(前編)」 滋賀県近江八幡市

琵琶湖の東岸、滋賀県近江八幡市にある標高433mの繖山(きぬがさやま)にやってきました。

この山の山頂付近に観音正寺という大きな寺院があり、その背後には、室町時代から戦国時代にかけて近江国南半部を支配した佐々木六角氏の居城・観音寺城跡があります。


e0158128_19284707.jpg

参道入口にある観音正寺全景です。


e0158128_14583969.jpg

寺伝によると、推古天皇(第33代天皇)13年(605年)、この地を訪れた聖徳太子のもとに人魚が現れ、「もとは漁師だったが、魚を殺生しすぎてこんな姿になってしまいました。太子さまがお堂を建てて、観音さまをお祀りしてくれれば、この苦しみから解放されます。」と訴えたそうで、その願いを聞き入れた聖徳太子は、千手観音菩薩像を刻み、同地に観音正寺を興したといいます。

にわかに信じがたい話ではありますが、その人魚のミイラと称するものが最近まで同寺に保管されていたそうですが、平成5年(1993年)の火災で焼失したそうです。

ホントかなあ。


e0158128_14591901.jpg

参道の崖には、巨岩を天然の祠とした「奥の院」があります。


e0158128_14592328.jpg

巨岩に神が宿るとする原始的な磐座信仰は古代からあり、聖徳太子が観音正寺を興す以前から、繖山は信仰の山だったようです。

その点は、「その1」「その2」「 その3」で紹介した笠置山と同じですね。


e0158128_14592929.jpg
e0158128_14593240.jpg
e0158128_19302315.jpg

境内の入口にあたる権現見附の石垣です。


e0158128_14594133.jpg

そして観音正寺境内。

露天に立つ仁王像というは、珍しいですよね。


e0158128_19462572.jpg
e0158128_14594482.jpg

『太平記』との関連は、元弘3年(1333年)に足利高氏(尊氏)ら討幕軍に攻められた六波羅探題北条仲時が、後伏見上皇(第93代天皇)、花園上皇(第95代天皇)、光厳天皇(北朝初代天皇)を伴って東国に下ろうとした際、ここ観音正寺を両院やと天皇の宿舎に充てられたと伝えられます。


e0158128_14594881.jpg

本堂です。

以前の本堂は平成5年(1993年)に火災で焼失し、現在の本堂は平成16年(2004年)に再建されたものだそうです。


e0158128_15030203.jpg

本堂横にある石積みです。

いつの時代に積まれたものかはわかりませんが、壮観です。


e0158128_19492656.jpg

観音正寺の境内から約300mで観音寺城跡のようです。


e0158128_19503461.jpg

観音正寺境内の石垣です。

ほとんど城跡ですね。


e0158128_15060264.jpg

観音寺城はその名が示すとおり、観音正寺という大きな寺院と一体型になった山城でした。

この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

寺院に求められたのは、戦勝祈願祈祷戦力でした。

寺院にとっても、時の権力と結びついて、祈祷と戦功による恩賞としての所領を獲得しなければ、寺を運営していけない現実がありました。


長くなっちゃたので、城跡めぐりは次稿にて。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-05-04 00:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その43 「道誉桜(清瀧寺徳源院)」 滋賀県米原市

滋賀県米原市の清瀧寺徳源院に、佐々木道誉(高氏)が愛したと伝わる、通称「道誉桜」があると聞き、遠路訪れました。

道誉の時代、このあたりは佐々木京極氏の居城・柏原城があったとされています。


e0158128_19560744.jpg

清瀧寺徳源院の正門です。

「史蹟 清瀧寺京極家墓所」と刻まれた石碑があることでわかるように、ここは京極家の菩提寺です。


e0158128_20002029.jpg

そして、これがその「道誉桜」。


e0158128_20003463.jpg
e0158128_20051032.jpg

現在の「道誉桜」は二代目だそうです。

それでも、樹齢約350年と伝わり、幹周は2.3m、樹高は約15mあります。


e0158128_20004097.jpg

わたしの妻と娘を比較の対照にしてもらえば、そのスケールが伝わるでしょうか?


e0158128_20060887.jpg

エゾヒガンザクラの一種で糸ざくらとも呼ばれるそうです。


e0158128_20061280.jpg
e0158128_20061506.jpg

わたしたちのよく知るソメイヨシノに比べると、小さな花びらが特徴です。

ちなみに、ソメイヨシノはエドヒガン系の桜と日本固有種のオオシマザクラの雑種の交配で生まれた桜で、単一の樹を始源とするクローンだそうです。

ソメイヨシノが日本全国に植えられ始めたのは明治中期だそうで、したがって、「道誉桜」のように全国にある樹齢数百年といわれる桜の大樹は、すべてソメイヨシノではありません。


e0158128_20081329.jpg

境内にある県指定の重要文化財の三重塔前には、三代目の道誉桜も植えられています。


e0158128_20103878.jpg

三代目は昭和52年(1977年)に植えられたそうで、まだ樹齢40年の若者です。


e0158128_20104143.jpg
e0158128_20104466.jpg

塔は、寛文12年(1672年)に讃岐国丸亀藩主京極高豊が建てたものだそうです。


e0158128_20123853.jpg

二代目と三代目をワンフレームに。

手前が三代目、奥が二代目です。


e0158128_20124202.jpg

本堂位牌堂です。

ここを訪れたのは先週の4月15日の土曜日で、実はこの日、天気予報がはずれて午前中はで、仕方なく雨の中の桜を撮影して別の場所に移動中、にわかに天気が好転して晴れてきたので、午後からの予定を変更して、もう一回ここに戻ってきて撮影しました。

戻ってきて良かった。


e0158128_20144390.jpg

最後に、お堂裏の庭園の写真です。

道誉の時代からずいぶん時代が下った江戸時代のものですが、県指定の名勝で、秋には紅葉が美しいそうです。


e0158128_20144723.jpg

庭園の端に見える白塀の向こうは京極家の墓所があります。

次稿では、その墓を紹介します。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-04-21 07:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その40 「北条仲時以下432名墓所(蓮華寺)」 滋賀県米原市

滋賀県米原市番場にある蓮華寺を訪れました。

ここは、足利高氏(尊氏)軍の攻撃を受けて落ち延びた六波羅探題北方の北条仲時が、進退窮まり、一族432人と共に自刃した場所と伝えられます。


e0158128_18052025.jpg

蓮華寺は名神高速米原ICを降りてすぐのところにあります。

このあたりは、かつて中山道の62番目の宿場、番場宿として栄えたところです。

道沿いに、「南北朝の古戦場・蓮華寺」と書かれた誘導看板が見え、その横に「境内在故六波羅鎮将北条仲時及諸将士墳墓」と刻まれた石柱があるのですが、なぜかその1面が、野暮ったいブリキ看板で覆われていました。

石柱に刻まれた文字が古くて読みづらくなったからかもしれませんが、なんだか安っぽくて・・・。


e0158128_18061785.jpg

山門です。

ここを訪れたのは年末押し迫る12月17日。

場所が米原ということもあったのですが、今にも雪が降りそうな寒い日でした。


e0158128_18075624.jpg

蓮華寺は聖徳太子の創建で、はじめは法隆寺と呼ばれたそうですが、弘安7年(1284年)、当地の地頭で鎌刃城主の土肥元頼が、良忠の弟子とされる一向を招いて寺を再建し、八葉山蓮華寺と号したと伝わります。

山門横には、寺院の由緒と、仲時自刃を説明する看板が設置されています。


e0158128_18090924.jpg

山門横には、「血の川」と書かれた立て札が。

伝承によると、432人の鮮血滴り流れて、辺りは川の如しだったといいます。


e0158128_18101127.jpg

本堂です。


e0158128_18110581.jpg

境内の奥にある、北条仲時ら432人の墓所に向かいます。


e0158128_18120617.jpg

墓所です。


e0158128_18130339.jpg

元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(尊氏)軍、赤松則村(円心)軍、千種忠顕軍らに六波羅探題の館を包囲され、追い詰められた六波羅探題北方の北条仲時は、六波羅探題南方の北条時益とともに、後伏見上皇(第93代天皇)、花園上皇(第95代天皇)、光厳天皇(北朝初代天皇)を伴って東国へ落ち延びようとしますが、道中の近江国で野伏に襲われて時益は討死し、仲時も番場峠野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺にて天皇と上皇の玉輦を移したあと、5月9日、本堂前で一族432人と共に自刃します。享年28。

『太平記』によると、仲時は自害するに際して、最後まで付き従ってくれた軍勢に感謝の意を表し、「自身の首を持って敵方に下り、恩賞を得よ!」と言って果てたといいます。

以下、『太平記』原文。


其時軍勢共に向て宣ひけるは、「武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら、弓矢の名を重じ、日来の好みを不忘して、是まで着纏ひ給へる志、中々申に言は可無る。其報謝の思雖深と、一家の運已に尽ぬれば、何を以てか是を可報。今は我旁の為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずる也。仲時雖不肖也。平氏一類の名を揚る身なれば、敵共定て我首を以て、千戸侯にも募りぬらん。早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ。」と、云はてざる言の下に、鐙脱で押膚脱、腹掻切て伏給ふ。


e0158128_18141681.jpg

寄り添うように眠る432人の墓。

境内奥の森のなかで、あまり光が挿さない場所ということもあったのですが、何かもの悲しげに思え、700年近く経ったいまも、その無念さが伝わってきます。


e0158128_18151651.jpg

説明板によると、仲時の墓だけは、享保年間(1716~36年)に近くの山に移されたそうです。

この日、周辺を探してみましたが、どの山も立入禁止で入れませんでした。


e0158128_18160808.jpg

432人の墓の側には、明治22年(1889年)に建てられた記念碑があります。


e0158128_18171086.jpg

境内には、樹齢約700年と伝わる「一向杉」と呼ばれる巨木があります。

あるいは、仲時らの最期を見届けていたかもしれません。


e0158128_18192416.jpg

六波羅探題が落ちた翌日の5月8日、新田義貞が関東の上野国で挙兵。

元弘3年(1333年)5月22日、激戦の末ついに鎌倉を落とし、北条一族は執権・北条高時をはじめ全員自害

ついに北条氏鎌倉幕府は滅亡します。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-04-14 15:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)