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太平記を歩く。 その33 「五社八幡神社」 神戸市北区

神戸市北区にある「五社八幡神社」を訪れました。

元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際、摩耶山城を本拠とした赤松則村(円心)は、北方の備えとしてこの背山に支城を築き、荒廃した社殿を再建して戦勝を祈願したと伝えられます。


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その甲斐あって赤松軍は幕府六波羅軍に大勝し、倒幕の勢いにのります。

鎌倉幕府の瓦解は、遠く離れた神戸のまちから始まっていました。


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時代は下って戦国時代、三木城主別所長治の家臣・小野三郎義晴切畑城を築き、ここの境内に居館を設けていたそうですが、羽柴秀吉軍の三木攻めの際、兵火により社殿を焼失したと伝わります。

その際、義晴は御神体に兵火がかからないよう、背後の谷間に埋めたといわれ、その後、村民が御神体を掘りおこし、社殿を再建して奉安したと伝えられますが、その年月は不明です。


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しかし、昭和55年(1980年)に文化庁の調査が行われ、社殿が室町時代のものと判明。

そこで、国の重要文化財に指定するかの審議がなされていたそうですが、その最中、放火によって全焼してしまいまったそうです。


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現在の社殿は、昭和60年(1985年)に鉄筋コンクリートで再建されたそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-30 20:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その31 「六甲八幡神社」 神戸市灘区

阪急六甲駅のすぐ南にある森が、六甲八幡神社です。

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『太平記』によると、元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」において、摩耶山城に籠る赤松則村(円心)に対し、幕府六波羅の軍勢が「八幡林よりぞ寄たりける」とあるのですが、その「八幡林」が、ここ八幡神社の森と考えられています。

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いまは街なかにありながらも、境内は広い森となっています。

このあたりの住所は現在も八幡町といい、たぶん、当時はこの辺り一体が森だったのでしょう。

5000の大軍が身を隠すには、もってこいのロケーションだったのでしょうね。

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六甲八幡神社の創祀は、万寿3年(1026年)、この地に水原氏が八幡神を祀っていたものを、治承4年(1180年)の福原遷都に伴い、平清盛石清水八幡宮を勧請したものといわれています。

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その後、戦国時代の戦乱によって荒廃していましたが、天正年間(1573~92年)に林播磨という人によって修築され、寛政7年(1795年)には、その孫の林清兵衛が社殿等を改築。

さらに、領主の石河氏春日大社旧社殿移築したのが、現在の本殿だそうです。

このあたり一帯は、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた地域であり、本殿も全壊してしまいましたが、現在は彩色も鮮やかに復興されています。

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ここはわたしの会社から近く、よく通る場所だったのですが、このたび太平記のことを調べていて、ここが関連史跡だと知りました。

いにしえの先人たちの足跡は、けっこう身近にあるものですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-03-26 01:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その25 「持尾城跡」 大阪府南河内郡河南町

前稿で紹介した嶽山城(龍泉寺城)から千早赤阪村を挟んで6kmほど北西にある、持尾城跡を訪れました。

ここも、元弘2年(1332年)に楠木正成が築いたと伝えられる城です。


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持尾地区は道が狭く車を停める場所がないと聞いたので、途中で車を置いて歩きます。


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こんな誘導サインがあるので、すぐにわかります。


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ここから西側の眺望です。

右に見えるのが某教団の平和の塔、左に見えるのが嶽山城(龍泉寺城)のある嶽山です。


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嶽山の拡大です。

山頂に見えるのが「かんぽの宿」です。


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前方に見えるのが、持尾城跡のある山(丘?)です。

標高336mあります。


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集落全体が坂道しかありません。


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二ノ丸跡らしき削平地に、眞念寺という小さなお寺があります。


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同じく二ノ丸跡には、磐船神社という古い神社が鎮座します。


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その向かい側に、本丸跡に登る登城口があります。


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その側に設置された説明板。


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本丸跡です。

小さな石碑と説明板が設置されています。


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説明板によると、持尾城は元弘2年(1332年)に楠木正成が築いた城のひとつで、平岩氏がたてこもって戦ったといわれるそうです。

大和国から河内国へ進入する北条幕府軍の様子がよく見えるため、のろし台の役割を果したのではないかと思われるそうです。


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本丸跡はそれほど広くなく、小さな砦のような城だったのではないでしょうか?

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石碑の横にはあずまやが建てられています。


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本丸跡から見る西の眺望です。

樹が邪魔だなあ。


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ここからも、嶽山城(龍泉寺城)が見えます。


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遠く北西には、大坂市街地が見えます。

高く聳えているのはあべのハルカス


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こっちは南西の眺望。

千早赤阪村方面です。


さて、次回も楠木ゆかりの城跡です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-03-10 18:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その23 「烏帽子形城跡」 大阪府河内長野市

千早赤阪村の隣、河内長野市にある烏帽子形城跡にやってきました。

ここは、元弘2年(1332年)に楠木正成上赤坂城支城として築城したといわれ、楠木七城のひとつとされています。


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烏帽子形城跡は国の史跡に指定されており、城跡公園として整備されています。


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城跡は標高182m烏帽子形山の山頂にあり、北と西は断崖でその足元には石川、東側は河岸段丘が広がり天見川に落ち込んでいます。

したがって、東西北の三方は川に囲まれ、南方のみを開けた構造で外堀の役割を果たしています。
ここは京と堺と高野山を結ぶ東高野街道西高野街道高野街道に合流する地点で、河内国から和泉国へ抜ける河泉街道、紀伊国とを結ぶ九重道、大和国へは大沢越えの道などが分岐しており、交通の要衝でした。


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登城道は公園整備されているので歩きやすく、15分ほどで本丸跡までたどり着きます。

ただ、勾配は結構キツイです。


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見事に土塁跡が残ります。


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本丸跡です。

それほど広くはありません。


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本丸跡に設置された復元予想図です。


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築城時は、楠木正成の部将・高向氏が籠もって戦ったと伝わります。

その後、応仁の乱以後は守護畠山氏の持城となり、たびたび戦場となります。

天正年間には橘長治が城主となり、大阪夏の陣後の元和3(1617年)に廃城となります。


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本丸跡から見た北側の眺望です。

ここからも、某教団の平和の塔が見えます。


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二ノ丸跡です。

本丸跡はそれほど広くありませんでしたが、二の丸跡は結構な広さです。


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めちゃめちゃ立派な堀切跡です。


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とにかく、遺構の保存状態が良好で、THE城跡・・・といった感じです。


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城跡公園内には、烏帽子形古墳もあります。

6世紀後半から7世紀にかけてのものと考えられているそうです。


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烏帽子形山の東麓には、烏帽子形八幡神社があります。


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楠木一族の楠小二郎という人物が創祀したものと伝えられ、その後、しばらく荒廃していましたが、烏帽子形城が廃城となった元和3年(1617年)、楠木一族の後裔といわれる甲斐荘喜右衛門正保が改修したそうです。


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本殿は国の重要文化財に指定されています。


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本殿の向かいには「楠公武威松」と刻まれた石碑と、古い切株が祀られたがありました。


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説明板によると、楠木正成が湊川の戦いに出陣の折、武運を祈願して植えたとされる老松の巨木「楠公武威の松」がこの場所にあったそうですが、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れ、樹齢約600年の寿命を閉じたそうです。

その老木を輪切りにして祀ったのが、これだそうです。


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ガラスが反射して、写真ではよくわかりませんね。


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さて、次稿も楠木七城のひとつを訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-03-08 20:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その21 「建水分神社・南木神社」 大阪府南河内郡千早赤阪村

前稿で紹介した「奉建塔」のすぐ近くにある「建水分神社」を訪れました。

「たけみまくりじんじゃ」と読みます。

難しい読みですね。

ここは、楠木氏の氏神として崇拝された神社です。


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その社伝によると、建水分神社の始まりは崇神天皇(第10代天皇)の時代に遡り、2000年以上の歴史があるとされています。

祭神はその名のとおり水を司る神で、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池を作ることが勧められましたが、このとき、金剛葛城の山麓水分神が祀られたのに始まるそうです。


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かつては現在の場所から北に約100mの水越川のほとりにあったそうですが、楠木正成鎌倉幕府軍との戦火に巻き込まれ、荒廃してしまいます。

そのため、建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在の場所に本殿、拝殿、鐘楼などを再建したそうです。


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鳥居の扁額は、もともとは楠木正行によって奉納された後醍醐天皇宸筆といわれる木額ものがあったそうですが、表面の文字が摩滅したため、宝永2年(1705年)に金銅製にて模造されたものだそうです。

揮毫は、時の前大納言・葉室頼孝によるものだとか。


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急な階段の上に社殿が見えます。


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本殿は重要文化財に指定されているそうですが、一般に参拝できるのは、ここ拝殿前まで。


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また、同じ境内には、摂社の南木神社(なぎじんじゃ)があります。

祭神は楠木正成。

「南木」は、「楠」の偏と旁をバラしたものですね。


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建武3年(1336年)5月25日、正成が湊川の戦いで討死すると、翌・延元2年(1337年)に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)自ら正成の尊像を彫り、建水分神社の境内に祀ったのが始まりと伝わります。

楠木正成を祀る神社は各地にありますが、ここ南木神社が最古だそうです。


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その後、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)より「南木明神」の神号を賜ったそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-02 20:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その16 「金剛山(國見城跡)・前編」 大阪府南河内郡千早赤阪村・奈良県御所市

千早城を背後から見下ろすように聳える金剛山を登りました。

見下ろすというか、千早城も上赤坂城も、金剛山系の一部なんですね。

その金剛山の最高峰に、楠木正成が築いたとされる國見城があったと伝わります。


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金剛山を登ったのは、千早城を訪れた日とは別日です。

千早城から金剛山に登る登山道もあるのですが、この日は楽してロープウェイで。


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ロープウェイは正成ラッピングです。


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ロープウェイからの景観です。


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ロープウェイを降りると、山頂までは緩やかな尾根伝いに登ります。

ゆっくり歩いて40分くらいの登山道です。


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標高1,053m大阪府最高地点だそうです。

ということは、金剛山の山頂は奈良県ということですね。


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頂上近くまで登ると、「史跡金剛山」と刻まれた石碑と、木製の鳥居が表れます。

これは、山頂にある葛木神社への参道を意味する鳥居です。


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その横に設置された説明書きです。


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樹齢500年と推定される「仁王杉」です。

残念ながら、『太平記』の時代には及びません。


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葛木神社にたどり着きました。


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葛木神社の境内が、標高1,125mの山頂にあたります。


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金剛山は、古代は高天山と呼ばれ、『日本書紀』によると、神武天皇(初代天皇)の大和平定の際、葛(くず)の網をきせて土賊を掩殺せられてから葛城という名がついたと言われています。

「人皇第十代崇神天皇戌寅七年 御造営神戸祠を附し給う。」とあり、神社の創始は約2000年前の崇神天皇(第10代天皇)の御代で事代主を奉祀していました。


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また、『古事記』『日本書紀』では、雄略天皇(第21代天皇)が金剛山に御狩に登山した話が記されています。


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葛木神社の向かいには、その「雄略天皇御猪狩の跡」があります。


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その説明書きです。


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神武天皇は別として、崇神天皇と雄略天皇は、神話に出てくる古代天皇のなかでは、実在していた可能性があると考えられている天皇ですね。

いずれにせよ、神話の時代まで遡れるほど歴史の深い山ということですね。


『太平記』の時代に関係ない話で長くなっちゃったので、もう一回、金剛山の続きをやります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-22 02:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その15 「千早城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

上赤坂城跡から直線距離にして5kmほど南東にある、千早城跡を訪れました。

数ある楠木正成の築いた城のなかで、たぶん、ここがいちばん有名なんじゃないでしょうか?


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『太平記』によると、わずか1000人足らずで幕府軍100万と対峙した城として伝えられます。

その兵数の真偽は別にしても、大軍に攻められながらも落城しなかった城として、後世に伝説的な存在となります。

現在、日本100名城のひとつにも数えられています。


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現在、城跡は千早神社となっており、比高150mの急斜面に敷かれた約600段の石段を登ります。


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ここを訪れたのは初夏の7月3日。

600段の階段はめちゃめちゃハードでした。


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「四の丸跡」です。


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振り返ると、和泉国が見渡せます。


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ところどころで、兵の人形が迎えてくれます。

これは、楠木正成が用いた奇策のひとつ、藁人形作戦をイメージしたものだと思いますが、残念ながら藁人形ではなくブリキ人形でした。


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四の丸奥の鳥居をくぐると、長い参道が続きます。


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その奥が「三の丸跡」


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そして石段を上がったところが「二の丸跡」です。

二の丸跡には「千早城跡」と刻まれた石柱があります。


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「昭和十四年三月建設」とあります。

下赤坂城、上赤坂城に建てられていた石柱と同じときに造られたもののようですね。


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そして、石段を上ると「本丸跡」です。

現在、千早神社の本殿があります。


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元弘3年(1333年)2月27日、上赤坂城を落とした幕府軍は、楠正成の籠るここ千早城を包囲しました。

『太平記』によると、

「城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり」

とあり、数十倍の大軍が千早城に押し寄せて来た様子がうかがえます。


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幕府軍は上赤坂城の戦いと同じく城方の水源を断とうとしますが、千早城には長期戦を睨んで水も食料も十分に蓄えられていました。

そして正成は、城に攻めあがる幕府軍に対して、石礫や大木の丸太糞尿などを浴びせかけて応戦し、敵兵を退けます。

また、長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、武装させた藁人形を夜のうちに城外のに並べて敵兵をおびき寄せ、大量の大石を投げ落として撃退したといいます。

この攻撃で、幕府兵300人が即死、500人が負傷しました。
また、幕府軍がむかい近くの山から100尺(約300m)のを架けて城に攻め入ろうとした際には、かねてより用意していた水鉄砲の中にを入れ橋に注ぎ、松明を投げ入れて敵兵もろとも橋を焼き落としました。

谷底には敵兵のが積み重なり、『太平記』では、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと伝えています。


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これらの伝承のどこまでが史実でどこからが虚構なのかはわかりませんが、実際に寡兵で大軍から城を守り切ったという話は事実で、まさに難攻不落の城として後世に名を遺すことになりました。


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本殿の裏山もおそらく城跡だと思われますが、山全体がご神体ということで、立入禁止となっていました。


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こちらは、千早赤阪村郷土資料館にある千早城の縄張り模型です。


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千早城の戦いは翌月の閏2月29日まで1か月以上続きます。

幕府軍が千早城に釘付けになっている間に、隠岐国の配所を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の討幕の綸旨に呼応した武将が各地で挙兵し、千早城を攻めていた武将が次々に帰国。

関東では手薄となった鎌倉を新田義貞が攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなります。

千早城の戦いが終了した12日後のことでした。


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城跡近くには、楠木正成の三男・楠木正儀の墓(異説あり)があったのですが、時系列的にずいぶん先になるので、また稿を改めます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-17 18:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その12 「院庄館跡(作楽神社)」 岡山県津山市

岡山県津山市にある作楽神社にやってきました。

ここは、かつて美作国守護の館「院庄館」があった地で、元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が宿泊したと伝わる場所です。


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ここを訪れたのは11月6日、木々が色づくいい季節だったのですが、残念ながら天気はあいにくの曇り空で、見てのとおり暗い写真ばかりです。


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前稿、前々稿で紹介した船坂峠、杉坂峠天皇奪回を計画して失敗した児島高徳が、それでもあきらめきれず、ここ院庄館まで追ってきたといわれます。


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鳥居横に設置された後醍醐天皇御製の碑です。


あはれとは なれも見るらむ わが民を 思ふこころは 今もかはらず

よそにのみ 思ひぞやりし 思ひきや 民のかまどを かくて見むとは


後醍醐天皇がここ美作国で詠んだとされる歌二首

一首目は国民に対する仁愛、二首目は庶民の生活を見たときの心をうたったものだそうです。


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敷地内には、児島高徳のがあります。


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杉坂峠を後にして単身この地に乗り込んだ高徳は、夜になって院庄の天皇行在所に侵入するも、これまでとは段違いの厳重な警護になすすべもなく、天皇奪還を断念せざるを得ませんでした。


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そのとき、そばにあった桜の木「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れたといいます。

よして翌年、その言葉どおりになるんですね。


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像の土台には、その漢詩が刻まれています。


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こちらは、東大門跡にある十字の詩跡の碑です。

ここに、高徳が漢詩を刻んだ桜の木があったと伝えられます。


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江戸時代になって、津山藩家老・長尾勝明が高徳の忠義心を讃え、貞享5年(1688年)に建てた碑だそうです。


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その説明書き。


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こちらは、戦前に教科書に載っていたという高徳の忠義を称えた文部省唱歌の碑


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こちらは、昭和9年(1934年)に建てられた建武の中興600年記念碑


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そして、こちらは昭和59年(1984年)に建てられた建武の中興650年記念碑です。


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こちらは、敷地内に建つ噫忠義桜十字詞之碑塔

戦艦大和の建造者である海軍技術中将・庭田尚三を会長とする忠桜会が、昭和46年(1971年)に建設したもので、表面に「天莫空勾践時非無氾范蠡」と、後醍醐天皇御製二首および斉藤監物七言律詩「題児島高徳書桜樹図」を、裏面に道家大門の和歌二首を記してあります。


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作楽神社拝殿です。

ここは明治2年(1869年)に創建された神社で、後醍醐天皇を正祀に児島高徳を配祀しているとのことです。


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とにかく、右を向いても左を向いても後醍醐天皇と児島高徳を称えるものばかりです。

明治政府としては、天皇崇拝を国民に浸透させるためにも、こういった場所が必要だったのでしょうね。


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児島高徳は元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えました。

そして時代は下って江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄となります。

しかし、実は高徳の活躍が記された史料は『太平記』以外にはないそうで、現在ではその実在性にも疑問符がつく人物となっています。


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実在したかどうかはわかりませんが、第二次世界大戦後になると高徳の知名度がどんどん低下していったことを思えば、楠木正成同様、皇国史観における忠臣の象徴として利用された英雄だったということは間違いありません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-11 00:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その5 「鷲峰山金胎寺」 京都府相楽郡和束町

笠置山から10kmほど北にある鷲峯山山頂に金胎寺という寺院があります。

ここも、笠置寺と同じく山内に奇岩怪石が多く、古くから山岳修行の地とされてきたと伝わりますが、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が笠置山に落ち延びる途中、ここに立ち寄ったと伝えられます。


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『太平記』によると、元弘元年(1331年)8月24日の夜、三種の神器を携えて京の御所を脱出した後醍醐天皇は、四条隆資ら側近とともに奈良の東大寺に入りますが、東大寺内には幕府方の僧も多くいて歓迎されず、やむなく僧の聖尋の導きで26日にここ甲賀境の和束の里にある鷲峰山金胎寺に入ります。


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しかし、あまりにも山奥過ぎて、食糧の補給を不安視し、翌27日に笠置山に移動したと伝えられます。

かなりのドタバタ行幸だったようですね。

吉川英治の小説『私本太平記』の中で吉川氏は、この行幸について、「あわただしさのほど言いようもない。」と述べています。


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鷲峯山は山頂近くまで車で登れるのですが、かなり狭くて曲がりくねった道を5km以上走ります。

駐車場はないので路肩に車を停めて、10分ほど登山すると山門が見えてきます。

山門を潜って入山料を払うと、約2時間の行者めぐりができます。

につかまって岩場を降りたり、崖っぷちを歩いたり、なかなかハードな体験ができるようですが、高所恐怖症のわたしはパス。


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境内を目指して更に山を登ります。


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5分ほど登ると平地があり、本堂多宝塔があります。


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多宝塔は伏見天皇(第92代天皇)の勅願で、重要文化財に指定されています。

後醍醐天皇が見たであろう多宝塔は、まだ建てられて30年余りだったはずで、もっと色鮮やかだったのでしょうね。


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本堂は江戸時代のものだそうです。


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こちらも江戸時代に建てられた行者堂です。

その前の囲いの中で、おそらく護摩が焚かれるのでしょう。


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説明板です。


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さらに山頂にのぼると、西安2年(1300年)の銘が刻まれた宝篋印塔があります。

これも、後醍醐天皇がこの地にきたときには既にあったもので、国の重要文化財に指定されています。


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その説明板です。


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ここから琵琶湖比叡山が一望できるそうですが、木が覆い茂ってよくわかりません

とにかく話に聞いていたとおりの山奥で、こんなところまで、ほんとうに東大寺から1日で来られたのか疑問です。

今ですら曲がりくねった山道ですから、当時の山道を、天皇を乗せた輿が通れたとはとても思えません。

おそらく人の背をかりたか、あるいは自らの足で歩いての登山だったではないでしょうか。


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最後におまけ。

鷲峯山の山頂を目指して狭い道を車で走行中、一瞬、視界が開ける場所があるのですが、そこで見た光景がこれ。


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有名な和束の茶畑です。

なんと美しい光景でしょう。

それまでの道のりが険しかっただけに、得も言えぬ感動でした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-26 15:08 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その4 「大覚寺・持明院仙洞御所跡」 京都市右京区・上京区

『太平記』の舞台である南北朝時代をめぐるには、まず、その動乱時代の発端となった背景を知らなければなりません。

そこで訪れたのは、京都市右京区にある大覚寺


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紅葉が残る晩秋の11月末に訪れました。


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鎌倉時代の仁治3年(1242年)に即位した後嵯峨天皇(第88代天皇)は、わずか4年で若干4歳の皇子・後深草天皇(第89代天皇)に譲位し、自らは上皇となって院政を行います。

ところが、その後に生まれたもう一人の皇子を溺愛した後嵯峨上皇は、後深草天皇を17歳の若さで退位させ、11歳の弟に帝位を継がせます。

これが、亀山天皇(第90代天皇)です。

その後、後嵯峨上皇は次の天皇を亀山天皇の皇子に定めますが、これには兄の後深草上皇も超不満

やがて、後嵯峨上皇が崩御すると、その遺言と称して亀山天皇は自身の皇子・後宇多天皇(第91代天皇)を帝位につけます。

これを不服とした後深草上皇は、鎌倉幕府に調停を願い出ます。

訴えを聞いた幕府は、後深草上皇の不服をもっともなこととし、後宇多天皇の次には後深草上皇の皇子・伏見天皇(第92代天皇)を即位させます。

しかし、今度はこれに対して後宇多天皇方が不服を申し立てます。

その後、両派すったもんだの泥仕合があったのち、幕府が提示した妥協案は、10年ごとに帝位を両派で交代に継承していくという、両統迭立でした。

この案に両者は納得し、以後、後伏見天皇(第93代天皇)、後二条天皇(第94代天皇)、花園天皇(第95代天皇)と、両派交代で帝位につきます。

これが南北朝の前身で、後深草天皇の子孫を持明院統といい、亀山天皇の子孫を大覚寺統といいます。

やがてその大覚寺統が南朝となり、持明院統が北朝となっていきます。

南北朝の動乱の発端は、皇室の兄弟喧嘩からはじまったのです。


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紅葉が綺麗です。


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現在の大覚寺は、広大な敷地面積を誇る国指定史跡となっており、桜や紅葉の名所として多くの観光客で賑わっています。


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一方、こちらは上京区にある持明院仙洞御所跡

かつては長講堂領という広い荘園を有していた持明院統ですが、現在は、光照院門跡の前に石碑だけが建てられており、この日も、ここを訪れていたのはわたしだけでした。

皇室の歴史の上では、南朝(大覚寺統)の方が正当とされているためなのか、寂しい姿でした。


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大覚寺統の血を引く後醍醐天皇(第96代天皇)は、この鎌倉幕府が調停した両統迭立に従おうとせず、それどころか、幕府を滅ぼして古代の天皇を中心とした政治を行おうと考えたんですね。

そして、その1~3で紹介した笠置山での決起に至るわけです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-25 21:08 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)