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太平記を歩く。 その2 「笠置山・中編」 京都府相楽郡笠置町

前編の続きです。

笠置町産業振興会館の東に見える標高288mの山が、笠置山です。


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登山口です。

車でも山頂近くまで登れると聞き、この日は車で登りました。


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古道の入口には、古い石碑があります。


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車を停めて5分ほど登ると、笠置寺の山門に到着します。

傍らには、「天武天皇勅願所、後醍醐天皇行在所」と刻まれた石碑があります。


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笠置寺の歴史は古く、その創建は不明ですが、出土品から見て飛鳥時代すでに造営されていたと考えられています。

木津川の南岸にそびえる笠置山は、古くからの修験道場信仰の山として崇められてきました。


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笠置山全景です。

このあと、このMAPを右回りにめぐっていきます。


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向こうに見えるのは本堂の「正月堂」

その頭上に、巨大な岩が見えます。

笠置山は、こんな巨石が至るところに見られます。


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写真では伝わりづらいですが、ド迫力の巨石群です。


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日本では、太古の時代から山岳、滝、巨岩、巨樹などの自然物が崇拝の対象とされ、巨岩は磐座(いわくら)などと呼ばれて、神の依代(よりしろ)、すなわち目に見えない神の宿る場所とされてきました。

日本の神道には教祖などはなく、八百万の神ですからね。

山の神、海の神、森の神、水の神、自然を司るすべてのものに神が宿るという信仰です。

笠置山は、そんな巨石信仰山岳信仰が仏教思想と結び付き、山中の巨岩に仏像が刻まれ、聖地として崇められるようになったと考えられます。


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文殊石笠置石です。

縁起によると、のちに天武天皇(第40代天皇)となる大海人皇子が、鹿を追って狩りの途中にこの岩上に行き着き、岩から転落しそうになったときに山神に弥勒像を刻むことを誓願して助けられたといいます。

感謝した皇子は、身に付けていた笠を置いたことから、笠置山と呼ばれるようになった・・・と。

手前の十三重塔の鎌倉時代のものと推定され、重要文化財に指定されています。

一説には、元弘の乱の供養塔であるとも・・・。


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本堂を見下ろすようにそびえる弥勒石(大磨崖仏)です。

高さ約16メートル、幅約15メートルあります。

かつてはこの表面に弥勒磨崖仏が刻まれていたといいますが、元弘元年(1331年)9月の笠置山の戦いで石の表面が火の熱で剥がれおち、いまは見ることができません。


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写真では伝わりづらいですが、現地に行くとその巨大さに圧倒されます。


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本堂からさらに奥へすすんだところにある「虚空蔵菩薩磨崖仏」です。

こちらは元弘の乱の戦火をまぬがれ、現在でもその姿を見ることができます。

高さ約12メートル、幅約7メートルあります。


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弘法大師(空海)の作とも言われるそうです。


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岩と岩の狭い間を通る「胎内くぐり」です。

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その説明板。


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大人は体を斜めに傾けながらやっと通れる狭さです。


長くなっちゃったので、次回もう1回だけ笠置山を続けます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-19 21:06 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)  

大坂の陣401年記念ゆかりの地めぐり その41 ~豊臣秀頼首塚(清涼寺)~

約1年前、「大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり」と題して、40回に渡って大坂の陣関連史跡を紹介しましたが、今年、どうしてもシリーズに加えたい史跡を訪れる機会があり、大坂の陣401年目ではありますが、稿を起こしました。

その史跡とは、右大臣・豊臣秀頼首塚

京都市右京区嵯峨の清凉寺にあります。


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今年の秋、別の目的で嵐山界隈を訪れたのですが、目的地に駐車場がなかったため、たまたま近くにあった清凉寺の駐車場に車を停め、同寺の境内を通ったところ、何かの石碑が目に入り近づいたところ・・・。


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「秀頼公首塚」と刻まれています。

「秀頼」って、あの秀頼?

大坂城と共に散った秀頼の首塚が、なんで嵐山に?

そもそも、秀頼の首って城とともに灰になったんじゃないの?

・・・などと考えを巡らせながらスマホでググってみると、たしかにあの豊臣秀頼の首塚でした。


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ウィキペディア情報によると、昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見されたそうで、骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので、顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認されたそうで、年齢や骨から類推する体格から、秀頼のものではないかと推測されたのだとか。

その後、昭和58年(1983年)に、この地に埋葬されたそうです。

ぜんぜん知りませんでした。
でも、それだけの情報で秀頼の骨と断定するのは、いささか無理がある気もしますけどね。

20代の体格のいい武者など数多くいたでしょうし、仮に本当に秀頼の遺骨と知って埋葬されたのであれば、記録が残っていないはずがないんじゃないかと・・・。

そういうツッコミを入れるのは無粋かもしれませんが。


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傍らには、「大坂の陣諸霊供養碑」と刻まれた石碑があります。


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一方で、秀頼には俗説として生存説も数多く存在します。

有名なものとしては、秀頼は肥後熊本藩主の加藤家、もしくは大叔父の織田長益(有楽斎)の用意した舟の船倉に潜んで徳川方の追及をかわし、真田信繁(幸村)と共に薩摩国谷山に逃れたという説。

しかし、谷山では大酒を呑んでは暴れるため、領民には嫌われていたとか。

のちに秀頼が生存していることを幕府に訴え出た者がいたそうですが、「秀頼はもはや死んだも同然」ということで、不問に付されたと伝えられます。

また、秀頼が地元の女性との間に谷村与三郎という男子をもうけたとか、真田信繁(幸村)も鹿児島県頴娃町に隠れ住んだなどともいわれています。

現在、鹿児島市のJR指宿枕崎線谷山駅の近くに、秀頼のものと伝えられる墓碑があるそうです。

また、他の説としては、日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号して45歳まで生きたという異説も残っています。

いずれも、信憑性に乏しい俗説ですけどね。


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上の写真は、大坂城山里丸に建つ、「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の碑」です。

わずか21年の生涯のなかで、徳川家康との二条城会見のとき以外、大坂城の外に出ることは皆無だったといわれる秀頼。

その秀頼の墓が、大坂城から遠くはなれた嵐山の地にあるというのは、少し違和感を覚えなくもないです。

360年以上大坂城内に眠っていたのだから、そのまま城内に埋葬してあげられなかったのかなあと・・・。

なんとなく、居心地が悪そうに思えました。


以上、豊臣秀頼没後401年目に立ち寄った、秀頼首塚でした。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-15 15:25 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~

前稿で黒田官兵衛が出てきましたので、引き続き官兵衛つながりで。

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。

三木合戦は始まった当初、羽柴秀吉は一時この地に本陣を置きました。

それを進言したのが、他ならぬ黒田官兵衛だったといいます。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。

ロープウェイは黒田官兵衛キャララッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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そしてこちらが有名な三之堂

秀吉が本陣を置いた場所です。

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財です。


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三木城攻めが膠着状態に入ると、官兵衛は秀吉に書写山まで一旦撤退するよう進言。

その後、ここを拠点に神吉城・志方城・魚住城・端谷城・高砂城などの別所方の支城を攻め落としながら、三木城を取り囲む付城網を築きます。

当時の大寺院というのは、ある種、城と同じくらいの防御力がありましたからね。


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食堂のなかには、当時、羽柴軍の家臣が書いたとされる「羽柴子一郎秀長」という落書が残っていました。

左側に写るアクリルでカバーされた柱がそれです。

写真を撮ったのですが、アクリルが反射して上手く撮れてませんでした。


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ここ、三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』ロケ地となっています。

場面は当然、秀吉の播磨攻略時の拠点としてです。

また、平成15年(2003年)の『武蔵-MUSASHI-』でもロケ地になっていますし、あのトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』の撮影も、ここで行われました。

絵になるロケーションなんでしょうね。

書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

  ↓↓↓

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺 ~後編~」

さて、まだまだ播磨には三木合戦ゆかりの地がたくさんありますが、ここでまた、ひとまず休憩します。

また折を見て続きをやりますね。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-09 17:22 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その45 ~兵主神社・太閤の腰掛け石~

兵庫県西脇市にある兵主神社を訪れました。

ここは、三木合戦の際に羽柴秀吉が、黒田官兵衛孝高に戦勝を祈願させたと伝わる神社です。


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現地説明板によると、兵主神社の祭神は大巳貴命ですが、兵主は中国『史記』に出てくる軍神、武神でもあることから、秀吉は黒田官兵衛に代参させ、奉納金とともに灯明田七反を添えて戦勝祈願を行ったと伝えられています。


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奉納金は、拝殿の建設費に充てられました。

そのとき建てられたのが、現在に残る茅葺入母屋造り長床式の拝殿です。


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天正19年(1591年)8月27日造立の棟札があるそうで、三木合戦が終わってから11年後に建てられたということがわかります。


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戦勝祈願の伝承が史実かどうかはわかりませんが、安土桃山時代の建築物ということは間違いなく、兵庫県の重要文化財に指定されています。


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兵主神社のある兵庫県西脇市黒田庄町は、黒田官兵衛生誕の地との伝承があります。

通説では、黒田官兵衛の家系は近江国の出自とされていますが、江戸時代の史料などに見る別の説では、官兵衛やその父・黒田職隆は、多可郡黒田村(現在の兵庫県西脇市黒田庄黒田)生まれ」とする説が多数あり、この辺りでは昔からそう信じられてきたそうです。

すぐ近くには、黒田氏9代の居城だったといわれる黒田城跡もあるのですが、三木合戦とは無関係なので、また別の機会に紹介します。


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近くにある極楽寺の境内には、「太閤の腰掛け石」と伝わる石があります。


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その伝承によれば、三木合戦の際に秀吉が大志野(現在の西脇市黒田庄町南部)に陣を布いたとき、この石に腰かけて采配を行ったとされています。


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これが、その「太閤の腰掛け石」。


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太閤伝承がなければ、何の変哲もない単なる石です。


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説明板です。
その横には小さな祠が祀られています。


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「その23」でも紹介しましたし、「山崎合戦」の稿(山崎合戦のまちを歩く。その2)でも紹介しましたが、秀吉が座ったと伝わる石や岩は各地にあります。

事実かどうかは定かではありませんが、座っただけで伝説が残るっていうのは、やはり、それだけ伝説的な人だったってことですね。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-08 20:55 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その41 ~野上城跡(常泉寺)~

兵庫県加西市にあった伝わる「野上城跡」を訪れました。

現在、城跡とされている場所は、常泉寺というお寺になっています。


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野上城の築城時期は不明ですが、城主は別所長治の幕下だった岩崎源兵衛という人物でした。

三木合戦に際に源兵衛は、三木城に篭って大いに奮戦したそうですが、三木城開城前に自刃して果てたと伝わります。


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その後、岩崎伝兵衛という人物(たぶん源兵衛の一族?)によってこの地に常泉寺が開かれ、源兵衛の菩提寺となりました。

そしてその子孫は、この地に代々永住したと伝えられます。


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現在の常泉寺周辺は、城跡の遺構は何も残されていません。

ただ、お寺は田園風景のなかの高台にあり、まわりは水路で囲まれていて、なんとなく、城跡っぽい雰囲気を醸しだしていました。


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まあ、城跡と知って見ると、そう見えるのでしょうけどね。

元来、寺院と城というのは、一対だった場合が多いですから。


次回につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-26 05:24 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その32 ~五社八幡神社~

神戸市北区にある「五社八幡神社」を訪れました。

かつてこの地に、三木城主別所長の家臣・小野三郎義晴切畑城を築き、ここの境内に居館を設けていたそうです。


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当然の如く、三木合戦の戦火に巻き込まれ、時期ははっきりしませんが、羽柴秀吉軍によって攻め込まれ、社殿を焼失したと伝わります。


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その際、義晴は御神体に兵火がかからないよう、背後の谷間に埋めたといわれ、その後、村民が御神体を掘りおこし、社殿を再建して奉安したと伝えられますが、その年月は不明です。


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ところが、昭和55年(1980年)に文化庁の調査が行われ、社殿が室町時代のものであると判明したとか。

伝承というのは、いい加減なものですね。

でも、別所方の拠点である以上、社殿は焼けずにすんだとしても、何らかの被害は被ったのかもしれません。


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時代は遡って、元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際、摩耶山城を本拠とした赤松則村(円心)は、北方の備えとしてこの背山に支城を築き、荒廃した社殿を再建して戦勝を祈願したと伝えられます。

室町時代の社殿というのは、あるいはこのときのものかもしれません。


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その社殿ですが、調査後に国の重要文化財に指定するかの審議がなされていたそうですが、その最中、放火によって全焼してしまいまったそうです。

なんと、悪いやつがいたもんです。

現在の社殿は、昭和60年(1985年)に鉄筋コンクリートで再建されたそうです。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-03 20:41 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その29 ~丹生山城跡~

約1年半ぶりの三木合戦シリーズ再開です。

今回は神戸市北区にある丹生山城跡を訪れました。

標高514mの丹生山山頂にあった丹生山城は、三木合戦の際には別所長治側に与し、兵糧補給ルートの拠点となっていた城です。


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写真正面の山が丹生山です。

1年半前の三木合戦ゆかりの地めぐりの際に、ここを訪れるかどうか迷ったのですが、標高514m、比高370mの約1時間の登山はさすがに躊躇し、パスしていました。

歴史は好きですが、登山は素人ですからね。


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ところが、やはり歴史オタクの悲しい性で、自身の住む神戸市内に城跡があると知りながら捨て置くに忍びず、意を決して登山に訪れました(今回ここを訪れるにあたって、わざわざリュックとトレッキングパンツを購入しました)。


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季節はが散りかけた4月中旬。

たぶん、ハイカーの人たちに言わせれば、最もいい季節なんでしょうが、素人のわたしには、じゅうぶんキツかったです。


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写真では伝わりづらいですが、結構な勾配です。


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道中、古い墓石群を見つけました。


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ひとつの墓石には「天保五年」と刻まれていますので、三木合戦とは関係ないようです。


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およそ2.5kmの山道をひたすら登ること約1時間強、ようやく城跡にたどり着きました。

現在は、何らかの建物跡と思われる石垣上に、「丹生山城跡 丹生山明要寺跡」と刻まれた石碑があるのみです。


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丹生山明要寺とは、6世紀に百済から渡来した童男行者という人物がこの地に建立した寺院で、平安時代末期には多くの僧兵と幾多の伽藍を擁し、一大勢力を誇りました。

この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

ここ丹生山城は、武将が構える城ではなく、寺院が要塞化した僧兵たちの城でした。


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天正6年(1578年)に始まった三木合戦では、羽柴秀吉の包囲網を掻い潜って三木城に兵糧を輸送していたのが、ここ丹生山城を経由したルートでした。

城を守っていたのは、備中勢の中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎と、近隣の野武士や農民ら500名あまりでした。


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これに対し羽柴秀吉は、天正7年(1579年)5月、籠城する近隣の農民の妻子を生け捕り、城内から内応させることを強要。

内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城したそうです。

丹生山城が秀吉の手に落ちたことで、三木城の補給路は完全に絶たれます。


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本丸跡と思われる山頂には、現在、丹生神社があります。


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丹生神社境内からの眺望です。

見えているのは南側、三木城方面ではありません。

霞がかっていてわかりづらいですが、うっすら明石海峡大橋が見えます。


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ここ、丹生山城は、三木合戦より遡ること250年前の南北朝時代にも、戦乱に巻き込まれています。

その話は、また別の稿でふれてみたいと思います。


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下山は緩やかなハイキングコースをくだりました。

時間はかかりましたが、こっちの方が素人向けでしたね。


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麓のバス停横には、丹生神社の鳥居が。

その鳥居の中に映っているのが、丹生山です。


さて、次稿では、その丹生山城の戦いで命を落とした幼子たちの悲話が残る稚児ヶ墓山を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-10-27 20:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その2 「福田寺」

南山田城跡の公園から150mほど西にある福田寺を訪れました。

ここは、南山田城主・後藤家の菩提寺だそうです。


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後藤氏の出自は諸説ありますが、藤原氏の流れをくむ後藤基清の子、基重が、承久の乱の後に播磨国安田荘の地頭となったことに始まったといいます。


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その後、建武年間、播磨国の守護職・赤松則村(円心)の幕下であった後藤基明が、ここから2kmほど北にある春日山城の初代城主となり、時代は下ってその9代目にあたる後藤基信のとき、中国征伐に向かう羽柴秀吉によって城は攻め落とされました。

その後藤基信の弟が、後藤又兵衛基次の父・元国でした。


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山門の横に、最近建てられたと思われる「後藤又兵衛顕彰碑」と刻まれた石碑がありました。

その背後に見える森が、南山田城跡の公園です。


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高さは約2.5mあります。

やりの名手として知られた又兵衛にちなみ、やりの穂先の形に仕上げられたのだとか。


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石碑裏面の説明書きです。

「又兵衛400年祭」と記されているように、没後400年を記念して建てられたようですね。

2015年5月6日とあります。

又兵衛が討ち死にしたのは、大坂夏の陣大坂城が落城する1日前の慶長20年(1615年)5月6日、現在の住所でいえば大阪府柏原市で行われた道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦でした。

石碑は、その400年後の命日に建てられたわけですね。

ちなみに、又兵衛は一般に「基次」の名で知られていますが、実は、当時の記録に「基次」と記された史料は存在せず、「正親」が実名だったようです。

真田信繁における「幸村」という名と同じく、「基次」も後世の創作と考えてよさそうです。


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境内です。


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本堂です。

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本堂裏の墓苑の一角に、「後藤又兵衛父母の供養塔」があります。


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又兵衛の父母の没年は定かではありません。

別所氏滅亡後は仙石秀久に仕えたといわれますが、この地に供養塔が残っていることを思えば、あるいは三木合戦時に落命したのかもしれませんね。

息子の又兵衛が有名にならなければ、父の名前すら後世に残らなかったかもしれません。


もう1回だけ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-20 19:03 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺 ~後編~」

前稿に引き続き書寫山圓教寺です。

圓教寺の敷地内はあまりのも広大で、すべてをじっくり観光するには1日中かかるくらいの規模です。

この日は午後からの限られた時間での観光だったので、摩尼殿を訪れたあとは、その西奥にある有名な三之堂へ。


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摩尼殿から西へ向かう参道です。

豪壮な石垣群は、まるで城跡のよう。


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でも、城跡じゃないとわかるのは、石垣の上に無数の地蔵群が・・・。

なんとも神秘的な空間です。


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数分歩くと、有名な3つの堂の建つ空間にたどり着きます。

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財です。

写真では伝わりにくいですが、目の前に広がる雄大な光景に、しばし言葉がでませんでした。


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こちらが、大講堂側から見た常行堂


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こちらは、食堂2階から見た常行堂


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こちらも、食堂2階から見た大講堂です。


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ここ三之堂は、映画やドラマのロケ地に何度もなっていますが、そのいちばん有名なものとしては、あのトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』でしょうね。

トム・クルーズ演じる主人公のオールグレン大尉と、渡辺謙さんが演じる勝元の絡みのシーンは、ここ食堂で撮影されました。


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なんでも、映画スタッフがロケ地候補の姫路城の視察に訪れた際、近くのこの地に観光がてらに立ち寄ったところ、ひどく気に入られ、ロケ地に決まったそうです。

ということは、トムもあのロープウェイに乗って来たのかと思ったのですが、宿泊先の神戸からヘリでここまで着たそうです。

さすがは超スーパーハリウッドスターですね。

庶民的な謙さんは、たぶんロープウェイで来たんじゃないでしょうか?


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他にも、NHK大河ドラマでは平成15年(2003年)の 『武蔵-MUSASHI-』や、平成26年(2014年)の『軍師官兵衛』でもロケ地となっています。

宮本武蔵と圓教寺の関りについては記録に残っていませんが、武蔵と姫路の関りは深く、武蔵の養子となった宮本三木之の墓が、ここ圓教寺にあります。


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黒田官兵衛
と圓教寺の関係は、天正6年(1578年)、織田信長の命により播磨攻めを開始した羽柴秀吉に、ここ書写山に陣を布くよう勧めたのが官兵衛だったと伝えられます。

食堂には、そのときの羽柴秀長の家臣の落書きが残されていました。


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毎年夏の旅行で子供たちには何か体験学習をさせているのですが、今年はこの食堂で、なんと写経体験に挑戦。

写経は、本格的な般若心経と、初心者向けの簡易な花びら写経があります。

花びら写経は約10分程度でできるのですが、般若心経は1時間以上かかります。

ほとんどのメンバーは花びら写経を体験しましたが、一応、書道の有段者である中3のわが娘だけは、高校合格祈願をかけて般若心経に挑戦。

集中力と根気を要する作業です。


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トム・クルーズと渡辺謙さんが絡んだシーンと同じ場所での写経です。


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わたしも、花びら写経に挑戦。

筆をとる前に、まずは手を合わせて般若心経を唱えます。


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皆が無言で机に向かう姿は、なかなか貴重な光景です。


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前日に転んで肘と膝を怪我したOL1年生の彼女の願掛けは、「ケガをしない!」


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そして、わが娘の般若心経が完成。

果たして志望校合格のご利益があるか!

静寂に満ちた空間で、背筋を正して写経。

たまには、そういった非日常な時間を過ごしてみるのもいいですね。


圓教寺を後にすると、中播磨といえばやはり世界遺産の姫路城

最後に少しだけ足を運びました。


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姫路城については、以前たっぷりレポートしていますので、よければ一読ください。

  ↓↓↓

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 


以上、2016年の夏休みレポートを終わります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-14 18:57 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。


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ロープウェイは黒田官兵衛キャラでラッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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ロープウェイを降りたらすぐ圓教寺というわけではなく、そこから20分ほどの登山です。

この日は8月13日の真夏日

私はこのところ休日は史跡めぐりばかりしているため、こういったシチュエーションは慣れているのですが、山に慣れてない人は、結構キツイかもしれません。

体力に自信のない人のために、バスもあります。

ちなみに私の妻は、迷わずバスに乗車しました。


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登山道途中の展望台からの眺望です。


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そこに設置されたベンチに、眺望の詳細な説明書きが・・・。

これって、落書き?

落書きとしては、かなりクオリティ高いです。

この説明(落書き)によると、ここから姫路城が見えるとのことでしたが、見えるような見えないような・・・。


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展望台で記念撮影。


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しばらく登ると、ようやく仁王門にたどり着きました。

ここから、書寫山圓教寺です。


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圓教寺は、康保3年(966年)に天台宗の僧・性空によって創建されたと伝えられ、花山法皇(第65代天皇)の勅願所となりました。

以後、後白河法皇(第77代天皇)や後醍醐天皇(第96代・南朝初代天皇)など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われています。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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姫路の人は、「摩尼殿の舞台から飛び降りる」って言うんですかね?(笑)


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圓教寺は広大すぎて、とても一回では紹介できません。

次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-10-13 19:11 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)