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太平記を歩く。 その15 「千早城跡」 大阪府南河内郡千早赤阪村

上赤坂城跡から直線距離にして5kmほど南東にある、千早城跡を訪れました。

数ある楠木正成の築いた城のなかで、たぶん、ここがいちばん有名なんじゃないでしょうか?


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『太平記』によると、わずか1000人足らずで幕府軍100万と対峙した城として伝えられます。

その兵数の真偽は別にしても、大軍に攻められながらも落城しなかった城として、後世に伝説的な存在となります。

現在、日本100名城のひとつにも数えられています。


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現在、城跡は千早神社となっており、比高150mの急斜面に敷かれた約600段の石段を登ります。


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ここを訪れたのは初夏の7月3日。

600段の階段はめちゃめちゃハードでした。


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「四の丸跡」です。


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振り返ると、和泉国が見渡せます。


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ところどころで、兵の人形が迎えてくれます。

これは、楠木正成が用いた奇策のひとつ、藁人形作戦をイメージしたものだと思いますが、残念ながら藁人形ではなくブリキ人形でした。


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四の丸奥の鳥居をくぐると、長い参道が続きます。


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その奥が「三の丸跡」


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そして石段を上がったところが「二の丸跡」です。

二の丸跡には「千早城跡」と刻まれた石柱があります。


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「昭和十四年三月建設」とあります。

下赤坂城、上赤坂城に建てられていた石柱と同じときに造られたもののようですね。


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そして、石段を上ると「本丸跡」です。

現在、千早神社の本殿があります。


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元弘3年(1333年)2月27日、上赤坂城を落とした幕府軍は、楠正成の籠るここ千早城を包囲しました。

『太平記』によると、

「城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり」

とあり、数十倍の大軍が千早城に押し寄せて来た様子がうかがえます。


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幕府軍は上赤坂城の戦いと同じく城方の水源を断とうとしますが、千早城には長期戦を睨んで水も食料も十分に蓄えられていました。

そして正成は、城に攻めあがる幕府軍に対して、石礫や大木の丸太糞尿などを浴びせかけて応戦し、敵兵を退けます。

また、長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、武装させた藁人形を夜のうちに城外のに並べて敵兵をおびき寄せ、大量の大石を投げ落として撃退したといいます。

この攻撃で、幕府兵300人が即死、500人が負傷しました。
また、幕府軍がむかい近くの山から100尺(約300m)のを架けて城に攻め入ろうとした際には、かねてより用意していた水鉄砲の中にを入れ橋に注ぎ、松明を投げ入れて敵兵もろとも橋を焼き落としました。

谷底には敵兵のが積み重なり、『太平記』では、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと伝えています。


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これらの伝承のどこまでが史実でどこからが虚構なのかはわかりませんが、実際に寡兵で大軍から城を守り切ったという話は事実で、まさに難攻不落の城として後世に名を遺すことになりました。


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本殿の裏山もおそらく城跡だと思われますが、山全体がご神体ということで、立入禁止となっていました。


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こちらは、千早赤阪村郷土資料館にある千早城の縄張り模型です。


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千早城の戦いは翌月の閏2月29日まで1か月以上続きます。

幕府軍が千早城に釘付けになっている間に、隠岐国の配所を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の討幕の綸旨に呼応した武将が各地で挙兵し、千早城を攻めていた武将が次々に帰国。

関東では手薄となった鎌倉を新田義貞が攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなります。

千早城の戦いが終了した12日後のことでした。


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城跡近くには、楠木正成の三男・楠木正儀の墓(異説あり)があったのですが、時系列的にずいぶん先になるので、また稿を改めます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-17 18:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その12 「院庄館跡(作楽神社)」 岡山県津山市

岡山県津山市にある作楽神社にやってきました。

ここは、かつて美作国守護の館「院庄館」があった地で、元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が宿泊したと伝わる場所です。


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ここを訪れたのは11月6日、木々が色づくいい季節だったのですが、残念ながら天気はあいにくの曇り空で、見てのとおり暗い写真ばかりです。


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前稿、前々稿で紹介した船坂峠、杉坂峠天皇奪回を計画して失敗した児島高徳が、それでもあきらめきれず、ここ院庄館まで追ってきたといわれます。


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鳥居横に設置された後醍醐天皇御製の碑です。


あはれとは なれも見るらむ わが民を 思ふこころは 今もかはらず

よそにのみ 思ひぞやりし 思ひきや 民のかまどを かくて見むとは


後醍醐天皇がここ美作国で詠んだとされる歌二首

一首目は国民に対する仁愛、二首目は庶民の生活を見たときの心をうたったものだそうです。


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敷地内には、児島高徳のがあります。


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杉坂峠を後にして単身この地に乗り込んだ高徳は、夜になって院庄の天皇行在所に侵入するも、これまでとは段違いの厳重な警護になすすべもなく、天皇奪還を断念せざるを得ませんでした。


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そのとき、そばにあった桜の木「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れたといいます。

よして翌年、その言葉どおりになるんですね。


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像の土台には、その漢詩が刻まれています。


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こちらは、東大門跡にある十字の詩跡の碑です。

ここに、高徳が漢詩を刻んだ桜の木があったと伝えられます。


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江戸時代になって、津山藩家老・長尾勝明が高徳の忠義心を讃え、貞享5年(1688年)に建てた碑だそうです。


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その説明書き。


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こちらは、戦前に教科書に載っていたという高徳の忠義を称えた文部省唱歌の碑


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こちらは、昭和9年(1934年)に建てられた建武の中興600年記念碑


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そして、こちらは昭和59年(1984年)に建てられた建武の中興650年記念碑です。


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こちらは、敷地内に建つ噫忠義桜十字詞之碑塔

戦艦大和の建造者である海軍技術中将・庭田尚三を会長とする忠桜会が、昭和46年(1971年)に建設したもので、表面に「天莫空勾践時非無氾范蠡」と、後醍醐天皇御製二首および斉藤監物七言律詩「題児島高徳書桜樹図」を、裏面に道家大門の和歌二首を記してあります。


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作楽神社拝殿です。

ここは明治2年(1869年)に創建された神社で、後醍醐天皇を正祀に児島高徳を配祀しているとのことです。


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とにかく、右を向いても左を向いても後醍醐天皇と児島高徳を称えるものばかりです。

明治政府としては、天皇崇拝を国民に浸透させるためにも、こういった場所が必要だったのでしょうね。


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児島高徳は元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えました。

そして時代は下って江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄となります。

しかし、実は高徳の活躍が記された史料は『太平記』以外にはないそうで、現在ではその実在性にも疑問符がつく人物となっています。


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実在したかどうかはわかりませんが、第二次世界大戦後になると高徳の知名度がどんどん低下していったことを思えば、楠木正成同様、皇国史観における忠臣の象徴として利用された英雄だったということは間違いありません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-11 00:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その5 「鷲峰山金胎寺」 京都府相楽郡和束町

笠置山から10kmほど北にある鷲峯山山頂に金胎寺という寺院があります。

ここも、笠置寺と同じく山内に奇岩怪石が多く、古くから山岳修行の地とされてきたと伝わりますが、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が笠置山に落ち延びる途中、ここに立ち寄ったと伝えられます。


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『太平記』によると、元弘元年(1331年)8月24日の夜、三種の神器を携えて京の御所を脱出した後醍醐天皇は、四条隆資ら側近とともに奈良の東大寺に入りますが、東大寺内には幕府方の僧も多くいて歓迎されず、やむなく僧の聖尋の導きで26日にここ甲賀境の和束の里にある鷲峰山金胎寺に入ります。


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しかし、あまりにも山奥過ぎて、食糧の補給を不安視し、翌27日に笠置山に移動したと伝えられます。

かなりのドタバタ行幸だったようですね。

吉川英治の小説『私本太平記』の中で吉川氏は、この行幸について、「あわただしさのほど言いようもない。」と述べています。


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鷲峯山は山頂近くまで車で登れるのですが、かなり狭くて曲がりくねった道を5km以上走ります。

駐車場はないので路肩に車を停めて、10分ほど登山すると山門が見えてきます。

山門を潜って入山料を払うと、約2時間の行者めぐりができます。

につかまって岩場を降りたり、崖っぷちを歩いたり、なかなかハードな体験ができるようですが、高所恐怖症のわたしはパス。


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境内を目指して更に山を登ります。


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5分ほど登ると平地があり、本堂多宝塔があります。


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多宝塔は伏見天皇(第92代天皇)の勅願で、重要文化財に指定されています。

後醍醐天皇が見たであろう多宝塔は、まだ建てられて30年余りだったはずで、もっと色鮮やかだったのでしょうね。


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本堂は江戸時代のものだそうです。


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こちらも江戸時代に建てられた行者堂です。

その前の囲いの中で、おそらく護摩が焚かれるのでしょう。


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説明板です。


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さらに山頂にのぼると、西安2年(1300年)の銘が刻まれた宝篋印塔があります。

これも、後醍醐天皇がこの地にきたときには既にあったもので、国の重要文化財に指定されています。


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その説明板です。


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ここから琵琶湖比叡山が一望できるそうですが、木が覆い茂ってよくわかりません

とにかく話に聞いていたとおりの山奥で、こんなところまで、ほんとうに東大寺から1日で来られたのか疑問です。

今ですら曲がりくねった山道ですから、当時の山道を、天皇を乗せた輿が通れたとはとても思えません。

おそらく人の背をかりたか、あるいは自らの足で歩いての登山だったではないでしょうか。


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最後におまけ。

鷲峯山の山頂を目指して狭い道を車で走行中、一瞬、視界が開ける場所があるのですが、そこで見た光景がこれ。


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有名な和束の茶畑です。

なんと美しい光景でしょう。

それまでの道のりが険しかっただけに、得も言えぬ感動でした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-26 15:08 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その4 「大覚寺・持明院仙洞御所跡」 京都市右京区・上京区

『太平記』の舞台である南北朝時代をめぐるには、まず、その動乱時代の発端となった背景を知らなければなりません。

そこで訪れたのは、京都市右京区にある大覚寺


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紅葉が残る晩秋の11月末に訪れました。


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鎌倉時代の仁治3年(1242年)に即位した後嵯峨天皇(第88代天皇)は、わずか4年で若干4歳の皇子・後深草天皇(第89代天皇)に譲位し、自らは上皇となって院政を行います。

ところが、その後に生まれたもう一人の皇子を溺愛した後嵯峨上皇は、後深草天皇を17歳の若さで退位させ、11歳の弟に帝位を継がせます。

これが、亀山天皇(第90代天皇)です。

その後、後嵯峨上皇は次の天皇を亀山天皇の皇子に定めますが、これには兄の後深草上皇も超不満

やがて、後嵯峨上皇が崩御すると、その遺言と称して亀山天皇は自身の皇子・後宇多天皇(第91代天皇)を帝位につけます。

これを不服とした後深草上皇は、鎌倉幕府に調停を願い出ます。

訴えを聞いた幕府は、後深草上皇の不服をもっともなこととし、後宇多天皇の次には後深草上皇の皇子・伏見天皇(第92代天皇)を即位させます。

しかし、今度はこれに対して後宇多天皇方が不服を申し立てます。

その後、両派すったもんだの泥仕合があったのち、幕府が提示した妥協案は、10年ごとに帝位を両派で交代に継承していくという、両統迭立でした。

この案に両者は納得し、以後、後伏見天皇(第93代天皇)、後二条天皇(第94代天皇)、花園天皇(第95代天皇)と、両派交代で帝位につきます。

これが南北朝の前身で、後深草天皇の子孫を持明院統といい、亀山天皇の子孫を大覚寺統といいます。

やがてその大覚寺統が南朝となり、持明院統が北朝となっていきます。

南北朝の動乱の発端は、皇室の兄弟喧嘩からはじまったのです。


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紅葉が綺麗です。


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現在の大覚寺は、広大な敷地面積を誇る国指定史跡となっており、桜や紅葉の名所として多くの観光客で賑わっています。


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一方、こちらは上京区にある持明院仙洞御所跡

かつては長講堂領という広い荘園を有していた持明院統ですが、現在は、光照院門跡の前に石碑だけが建てられており、この日も、ここを訪れていたのはわたしだけでした。

皇室の歴史の上では、南朝(大覚寺統)の方が正当とされているためなのか、寂しい姿でした。


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大覚寺統の血を引く後醍醐天皇(第96代天皇)は、この鎌倉幕府が調停した両統迭立に従おうとせず、それどころか、幕府を滅ぼして古代の天皇を中心とした政治を行おうと考えたんですね。

そして、その1~3で紹介した笠置山での決起に至るわけです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-25 21:08 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その2 「笠置山・中編」 京都府相楽郡笠置町

前編の続きです。

笠置町産業振興会館の東に見える標高288mの山が、笠置山です。


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登山口です。

車でも山頂近くまで登れると聞き、この日は車で登りました。


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古道の入口には、古い石碑があります。


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車を停めて5分ほど登ると、笠置寺の山門に到着します。

傍らには、「天武天皇勅願所、後醍醐天皇行在所」と刻まれた石碑があります。


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笠置寺の歴史は古く、その創建は不明ですが、出土品から見て飛鳥時代すでに造営されていたと考えられています。

木津川の南岸にそびえる笠置山は、古くからの修験道場信仰の山として崇められてきました。


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笠置山全景です。

このあと、このMAPを右回りにめぐっていきます。


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向こうに見えるのは本堂の「正月堂」

その頭上に、巨大な岩が見えます。

笠置山は、こんな巨石が至るところに見られます。


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写真では伝わりづらいですが、ド迫力の巨石群です。


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日本では、太古の時代から山岳、滝、巨岩、巨樹などの自然物が崇拝の対象とされ、巨岩は磐座(いわくら)などと呼ばれて、神の依代(よりしろ)、すなわち目に見えない神の宿る場所とされてきました。

日本の神道には教祖などはなく、八百万の神ですからね。

山の神、海の神、森の神、水の神、自然を司るすべてのものに神が宿るという信仰です。

笠置山は、そんな巨石信仰山岳信仰が仏教思想と結び付き、山中の巨岩に仏像が刻まれ、聖地として崇められるようになったと考えられます。


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文殊石笠置石です。

縁起によると、のちに天武天皇(第40代天皇)となる大海人皇子が、鹿を追って狩りの途中にこの岩上に行き着き、岩から転落しそうになったときに山神に弥勒像を刻むことを誓願して助けられたといいます。

感謝した皇子は、身に付けていた笠を置いたことから、笠置山と呼ばれるようになった・・・と。

手前の十三重塔の鎌倉時代のものと推定され、重要文化財に指定されています。

一説には、元弘の乱の供養塔であるとも・・・。


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本堂を見下ろすようにそびえる弥勒石(大磨崖仏)です。

高さ約16メートル、幅約15メートルあります。

かつてはこの表面に弥勒磨崖仏が刻まれていたといいますが、元弘元年(1331年)9月の笠置山の戦いで石の表面が火の熱で剥がれおち、いまは見ることができません。


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写真では伝わりづらいですが、現地に行くとその巨大さに圧倒されます。


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本堂からさらに奥へすすんだところにある「虚空蔵菩薩磨崖仏」です。

こちらは元弘の乱の戦火をまぬがれ、現在でもその姿を見ることができます。

高さ約12メートル、幅約7メートルあります。


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弘法大師(空海)の作とも言われるそうです。


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岩と岩の狭い間を通る「胎内くぐり」です。

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その説明板。


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大人は体を斜めに傾けながらやっと通れる狭さです。


長くなっちゃったので、次回もう1回だけ笠置山を続けます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-19 21:06 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)  

大坂の陣401年記念ゆかりの地めぐり その41 ~豊臣秀頼首塚(清涼寺)~

約1年前、「大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり」と題して、40回に渡って大坂の陣関連史跡を紹介しましたが、今年、どうしてもシリーズに加えたい史跡を訪れる機会があり、大坂の陣401年目ではありますが、稿を起こしました。

その史跡とは、右大臣・豊臣秀頼首塚

京都市右京区嵯峨の清凉寺にあります。


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今年の秋、別の目的で嵐山界隈を訪れたのですが、目的地に駐車場がなかったため、たまたま近くにあった清凉寺の駐車場に車を停め、同寺の境内を通ったところ、何かの石碑が目に入り近づいたところ・・・。


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「秀頼公首塚」と刻まれています。

「秀頼」って、あの秀頼?

大坂城と共に散った秀頼の首塚が、なんで嵐山に?

そもそも、秀頼の首って城とともに灰になったんじゃないの?

・・・などと考えを巡らせながらスマホでググってみると、たしかにあの豊臣秀頼の首塚でした。


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ウィキペディア情報によると、昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見されたそうで、骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので、顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認されたそうで、年齢や骨から類推する体格から、秀頼のものではないかと推測されたのだとか。

その後、昭和58年(1983年)に、この地に埋葬されたそうです。

ぜんぜん知りませんでした。
でも、それだけの情報で秀頼の骨と断定するのは、いささか無理がある気もしますけどね。

20代の体格のいい武者など数多くいたでしょうし、仮に本当に秀頼の遺骨と知って埋葬されたのであれば、記録が残っていないはずがないんじゃないかと・・・。

そういうツッコミを入れるのは無粋かもしれませんが。


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傍らには、「大坂の陣諸霊供養碑」と刻まれた石碑があります。


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一方で、秀頼には俗説として生存説も数多く存在します。

有名なものとしては、秀頼は肥後熊本藩主の加藤家、もしくは大叔父の織田長益(有楽斎)の用意した舟の船倉に潜んで徳川方の追及をかわし、真田信繁(幸村)と共に薩摩国谷山に逃れたという説。

しかし、谷山では大酒を呑んでは暴れるため、領民には嫌われていたとか。

のちに秀頼が生存していることを幕府に訴え出た者がいたそうですが、「秀頼はもはや死んだも同然」ということで、不問に付されたと伝えられます。

また、秀頼が地元の女性との間に谷村与三郎という男子をもうけたとか、真田信繁(幸村)も鹿児島県頴娃町に隠れ住んだなどともいわれています。

現在、鹿児島市のJR指宿枕崎線谷山駅の近くに、秀頼のものと伝えられる墓碑があるそうです。

また、他の説としては、日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号して45歳まで生きたという異説も残っています。

いずれも、信憑性に乏しい俗説ですけどね。


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上の写真は、大坂城山里丸に建つ、「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の碑」です。

わずか21年の生涯のなかで、徳川家康との二条城会見のとき以外、大坂城の外に出ることは皆無だったといわれる秀頼。

その秀頼の墓が、大坂城から遠くはなれた嵐山の地にあるというのは、少し違和感を覚えなくもないです。

360年以上大坂城内に眠っていたのだから、そのまま城内に埋葬してあげられなかったのかなあと・・・。

なんとなく、居心地が悪そうに思えました。


以上、豊臣秀頼没後401年目に立ち寄った、秀頼首塚でした。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-15 15:25 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~

前稿で黒田官兵衛が出てきましたので、引き続き官兵衛つながりで。

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。

三木合戦は始まった当初、羽柴秀吉は一時この地に本陣を置きました。

それを進言したのが、他ならぬ黒田官兵衛だったといいます。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。

ロープウェイは黒田官兵衛キャララッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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そしてこちらが有名な三之堂

秀吉が本陣を置いた場所です。

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財です。


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三木城攻めが膠着状態に入ると、官兵衛は秀吉に書写山まで一旦撤退するよう進言。

その後、ここを拠点に神吉城・志方城・魚住城・端谷城・高砂城などの別所方の支城を攻め落としながら、三木城を取り囲む付城網を築きます。

当時の大寺院というのは、ある種、城と同じくらいの防御力がありましたからね。


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食堂のなかには、当時、羽柴軍の家臣が書いたとされる「羽柴子一郎秀長」という落書が残っていました。

左側に写るアクリルでカバーされた柱がそれです。

写真を撮ったのですが、アクリルが反射して上手く撮れてませんでした。


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ここ、三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』ロケ地となっています。

場面は当然、秀吉の播磨攻略時の拠点としてです。

また、平成15年(2003年)の『武蔵-MUSASHI-』でもロケ地になっていますし、あのトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』の撮影も、ここで行われました。

絵になるロケーションなんでしょうね。

書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

  ↓↓↓

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺 ~後編~」

さて、まだまだ播磨には三木合戦ゆかりの地がたくさんありますが、ここでまた、ひとまず休憩します。

また折を見て続きをやりますね。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-09 17:22 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その45 ~兵主神社・太閤の腰掛け石~

兵庫県西脇市にある兵主神社を訪れました。

ここは、三木合戦の際に羽柴秀吉が、黒田官兵衛孝高に戦勝を祈願させたと伝わる神社です。


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現地説明板によると、兵主神社の祭神は大巳貴命ですが、兵主は中国『史記』に出てくる軍神、武神でもあることから、秀吉は黒田官兵衛に代参させ、奉納金とともに灯明田七反を添えて戦勝祈願を行ったと伝えられています。


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奉納金は、拝殿の建設費に充てられました。

そのとき建てられたのが、現在に残る茅葺入母屋造り長床式の拝殿です。


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天正19年(1591年)8月27日造立の棟札があるそうで、三木合戦が終わってから11年後に建てられたということがわかります。


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戦勝祈願の伝承が史実かどうかはわかりませんが、安土桃山時代の建築物ということは間違いなく、兵庫県の重要文化財に指定されています。


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兵主神社のある兵庫県西脇市黒田庄町は、黒田官兵衛生誕の地との伝承があります。

通説では、黒田官兵衛の家系は近江国の出自とされていますが、江戸時代の史料などに見る別の説では、官兵衛やその父・黒田職隆は、多可郡黒田村(現在の兵庫県西脇市黒田庄黒田)生まれ」とする説が多数あり、この辺りでは昔からそう信じられてきたそうです。

すぐ近くには、黒田氏9代の居城だったといわれる黒田城跡もあるのですが、三木合戦とは無関係なので、また別の機会に紹介します。


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近くにある極楽寺の境内には、「太閤の腰掛け石」と伝わる石があります。


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その伝承によれば、三木合戦の際に秀吉が大志野(現在の西脇市黒田庄町南部)に陣を布いたとき、この石に腰かけて采配を行ったとされています。


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これが、その「太閤の腰掛け石」。


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太閤伝承がなければ、何の変哲もない単なる石です。


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説明板です。
その横には小さな祠が祀られています。


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「その23」でも紹介しましたし、「山崎合戦」の稿(山崎合戦のまちを歩く。その2)でも紹介しましたが、秀吉が座ったと伝わる石や岩は各地にあります。

事実かどうかは定かではありませんが、座っただけで伝説が残るっていうのは、やはり、それだけ伝説的な人だったってことですね。




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by sakanoueno-kumo | 2016-12-08 20:55 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その41 ~野上城跡(常泉寺)~

兵庫県加西市にあった伝わる「野上城跡」を訪れました。

現在、城跡とされている場所は、常泉寺というお寺になっています。


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野上城の築城時期は不明ですが、城主は別所長治の幕下だった岩崎源兵衛という人物でした。

三木合戦に際に源兵衛は、三木城に篭って大いに奮戦したそうですが、三木城開城前に自刃して果てたと伝わります。


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その後、岩崎伝兵衛という人物(たぶん源兵衛の一族?)によってこの地に常泉寺が開かれ、源兵衛の菩提寺となりました。

そしてその子孫は、この地に代々永住したと伝えられます。


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現在の常泉寺周辺は、城跡の遺構は何も残されていません。

ただ、お寺は田園風景のなかの高台にあり、まわりは水路で囲まれていて、なんとなく、城跡っぽい雰囲気を醸しだしていました。


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まあ、城跡と知って見ると、そう見えるのでしょうけどね。

元来、寺院と城というのは、一対だった場合が多いですから。


次回につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-26 05:24 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その32 ~五社八幡神社~

神戸市北区にある「五社八幡神社」を訪れました。

かつてこの地に、三木城主別所長の家臣・小野三郎義晴切畑城を築き、ここの境内に居館を設けていたそうです。


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当然の如く、三木合戦の戦火に巻き込まれ、時期ははっきりしませんが、羽柴秀吉軍によって攻め込まれ、社殿を焼失したと伝わります。


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その際、義晴は御神体に兵火がかからないよう、背後の谷間に埋めたといわれ、その後、村民が御神体を掘りおこし、社殿を再建して奉安したと伝えられますが、その年月は不明です。


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ところが、昭和55年(1980年)に文化庁の調査が行われ、社殿が室町時代のものであると判明したとか。

伝承というのは、いい加減なものですね。

でも、別所方の拠点である以上、社殿は焼けずにすんだとしても、何らかの被害は被ったのかもしれません。


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時代は遡って、元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際、摩耶山城を本拠とした赤松則村(円心)は、北方の備えとしてこの背山に支城を築き、荒廃した社殿を再建して戦勝を祈願したと伝えられます。

室町時代の社殿というのは、あるいはこのときのものかもしれません。


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その社殿ですが、調査後に国の重要文化財に指定するかの審議がなされていたそうですが、その最中、放火によって全焼してしまいまったそうです。

なんと、悪いやつがいたもんです。

現在の社殿は、昭和60年(1985年)に鉄筋コンクリートで再建されたそうです。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-11-03 20:41 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)