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山崎合戦のまちを歩く。 その9 「油祖離宮八幡宮」

JR山崎駅の南側に、離宮八幡宮があります。

門前にある神社の縁起によると、貞観元年(859年)に清和天皇(第56代天皇)が九州は大分の宇佐八幡宮より大安寺の僧行教が勧進したといい、淀川を挟んで対岸にある石清水八幡宮はここから分祀されたもので、石清水の名はこの地に涌き出ている霊泉『石清水』に因んだとしています。


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その後、嵯峨天皇(第52代天皇)の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので、社名を離宮八幡宮としたそうです。


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離宮八幡宮は、わが国におけ製油発祥地とされ、「油祖」の称号をとして知られます。

平安時代の後期(貞観年間)、時の神官が神示を受けて「長木」という搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油の製油を始めたところ、次第にこの業が全国に広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜ったそうです。


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境内には、「本邦製油発祥地」と刻まれた石碑があります。


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油脂販売業者の店頭標識だそうです。


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こちらは油祖像だそうで・・・。


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山崎の油の関係は、司馬遼太郎氏の小説『国盗り物語』にも出てきますね。

素浪人から山崎の油商人となり、その冨と策略を駆使してついには美濃国主となった「美濃の蝮」こと斎藤道三の物語で、離宮八幡宮が油の専売特許を持ち、「油座」として栄えていた当時の様子がわかりやすく描かれています。


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やがて、楽市楽座を推し進めた織田信長が室町幕府を倒したことにより、独占販売の特権を持つ「座」のシステムが崩壊し、油のまち山崎も衰退していきました。

しかし、それ以後も、離宮八幡宮は油の神様として、全国の油商人から崇敬されていたそうです。

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幕末の「禁門の変」時には、周りの民家とともに焼失し、明治9年(1876年)には鉄道の開通により、その敷地は大幅に縮小されました。

現在の社殿は昭和初期に再建されたものだそうです。

その社殿には「崇敬発起人」として日本製油・カネダ・吉原製油・昭和産業・豊年製油・味の素・日本油脂など、日本の製油大企業の名が連なっています。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-15 18:42 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その7 「山崎院跡」

天王山の麓を走るJR線路沿いの道路脇に、「山崎院跡」と刻まれた石碑が立っています。

「山崎院」とは、奈良時代の高僧・行基が建てた寺院で、神亀2年(725年)、山崎の地に来た行基は淀川に「山崎橋」を架け、その維持管理と布教活動の拠点として、山崎院を建立したと伝わります。


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平成元年(1989年)と平成11年(1999年)の発掘調査により、日本最古級の彩色された壁画片約100点や、陶器、瓦、釜などが出土し、それまで不明瞭だった山崎院の所在地が、天王山の南側山麓のこの場所にほぼ比定されました。


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行基は河内国生まれの高僧で、畿内を中心に貧民救済、治水、架橋などの社会事業に大いに尽力しました。

天平13年(745年)には、聖武天皇(第45代天皇)より東大寺大仏造立の責任者として招聘され、力を尽くします。

その他、わかっているだけでも49の寺院を建立し、その他、伝承レベルのものでは、全国各地に行基が開基したとされる寺院が存在します。

「その2」で紹介した宝積寺も、行基が聖武天皇の命で建立した寺院として伝えられていますね。

山崎の地は、行基にゆかりの深い地といえそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-08 20:08 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その5 「禁門の変十七烈士之墓~酒解神社」

山崎合戦旗立松のすぐ上には、酒解神社大鳥居があります。

酒解神社は山崎の産土神で、大山崎町のある乙訓郡では最も古い神社だそうです。

ただ、この大鳥居は新しいもののようですね。

鳥居をくぐると、「その3」で紹介した道陶板絵図があります。


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大鳥居をあとにして山道を登っていくと分かれ道になっていて、標識を見ると、「十七烈士の墓を経て酒解神社」と書かれた誘導が・・・。

何かわからぬまま、そちらの誘導に従ってみました。


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で、石段を登ってみると、「禁門の変十七烈士之墓」とありました。


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思い出しました。

元治元年(1864年)7月19日に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」のとき、山崎のまちには長州藩の陣所が布かれましたが、敗走する際、長州藩士じゃない真木和泉ら十数人が長州藩主力兵たちと山崎で分かれ、自刃したんですね。


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以前、あるブログで、この地に真木たちの墓があると紹介されていたのですが、すっかり忘れていました。


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説明看板のよると、長州藩主力兵たちを見送った真木以下17名は、禁裏のある京都の地を去るに忍びないとして天王山に登り、7月21日、幕府追討軍の来襲を前に、烈士そろってこの地で壮烈な自刃をとげた、とあります。

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その直後、敗兵掃討によって離宮八幡宮・神宮寺等の社寺や、民家200余戸を焼失した、と。


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埋葬されている志士17名を列挙すると、


土佐・千屋菊二郎菅原孝健

土佐・松山深蔵橘正夫

宇都宮・岸上弘安臣

宇都宮・廣田精一執中

土佐・能勢達太郎平成章

肥後・小坂小二郎源雄宗

久留米・加藤常吉任重

土佐・安藤真之助強怒

久留米・真木和泉守平保臣

久留米・松浦八郎寛敏

久留米・池尻茂四郎懋

筑前・松田五六郎

肥後・加屋四郎藤原時雄

肥後・中津彦太郎藤原義直

肥後・酒井荘之助

肥後・宮部春蔵

肥後・西嶌亀太郎


だそうです。

幕末が好きなわたしですが、残念ながら、真木和泉以外で知っていたのは、土佐の千屋菊二郎菅原孝健(菊次郎?)くらいでした。

調べてみると、肥後の宮部春蔵という人は、宮部鼎蔵実弟だそうです。

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真木和泉の墓石です。


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彼らが自刃してから151年が経ちますが、山の風景はきっと当時とそう変わらず時がとまったままで、いまでも彼らの無念の叫びが聞こえてきそうです。


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墓を過ぎたところにある三社宮です。

三社とは、天照大神・月讀大神・蛭子神だそうです。


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で、酒解神社のお社が見えてきました。


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が、残念ながら改装工事中で、本堂の中はみれませんでした。


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説明板によると、ここは山崎地方で最も古い神社で、創建は奈良時代だそうです。
詳しくは看板をお読みください(笑)。


酒解神社を過ぎると、いよいよ山頂です。

次回に続きます。

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by sakanoueno-kumo | 2016-07-01 18:24 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その2 「大念寺~宝積寺」

登山口からしばらく急な坂道を登っていくと、これまた急勾配の石段があります。

ここを登ったところに、大念寺という小さなお寺があったので、立ち寄ってみました。


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大念寺は弘治元年(1555年)、この地に住む井尻但馬守長助が、京都知恩院徳誉光然上人を開山として建立したお寺だそうです。

本尊には「阿弥陀如来立像」(国指定の重要文化財)があるそうですが、拝観するには予約が必要だそうで、この日は見送り。


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小さな鐘楼があります。


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かつては力のあったお寺だったそうですが、元治元年(1864年)の「禁門の変」の際、長州藩士の一部が大念寺に布陣していたことで巻き込まれて焼失し、再興されたのは明治12年(1879年)になってからだったそうです。

当時、山崎地区は長州藩の屯所となっていました。


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大念寺からさらに坂を登ると、宝積寺という広い敷地を持つ立派な寺院があります。


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山門に立つ金剛力士像は鎌倉時代のものだそうで、重要文化財指定されています。


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山門から一直線にのびる参道の右側には、桃山時代の建築で重要文化財の三重塔があります。


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その側には、「豊臣秀吉一夜之塔」と書かれた立て札がありました。

なんでも、山崎合戦で明智光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉が、その勝利を記念し、一夜で建立した塔なんだとか。

そんなわけないやろ!・・・と言うのは無粋というもの。

墨俣一夜城といい石垣山一夜城といい、秀吉は一夜で仕事を済ませる達人なんです(笑)。


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宝積寺は、奈良時代に聖武天皇が僧・行基に命じて建立したといわれる由緒ある古寺です。

この近くには、同じく行基が建てたと伝わる「山崎院」跡もあり、王山周辺は行基にゆかりの深い地なんだそうです。

ただ、宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で行基時代の建造物はすべて焼失しており、現存する仏像等は、すべてそれ以降のものだそうです。


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天正10年(1582年)の山崎合戦では、ここに秀吉の本陣が置かれました。

その後、秀吉は天王山の山頂に山崎城を築城し、大坂城に移るまでの拠点としますが、その際、ここ宝積寺も城郭の一部として取り込まれたため、「宝寺城」とも呼ばれたそうです。


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「秀吉の出世石」だそうです。

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何の変哲もないただの石ですが、秀吉はこの石に座して天下統一を考えたんだそうです。

座るだけで史跡になっちゃう秀吉です(笑)。


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時代は進んで幕末の「禁門の変」の際には、尊皇攘夷派真木和泉を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた歴史があり、また、大正4年(1915年)には夏目漱石がここを訪れ、「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠みました。

1300年近く、ずっとこの地に歴史を刻んできたお寺なんですね。


次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-10 00:23 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback(1) | Comments(4)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

福山城から東へ10分ほど歩いたところに、福山藩初代主・水野勝成をはじめとする水野家の墓所があります。


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公道沿いに誰でも気軽に入れるような墓所公園となっていて、厳かな雰囲気ではありません。


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見上げると、交通標識でも案内されています。


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入口はこんな感じ。

「福山開祖水野勝成公墓地」と刻まれた石碑が建っています。


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そして、これが勝成の墓。

墓石の五輪塔は、高さ5.1mの巨大なものです。


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勝成は永禄7年(1564年)三河国刈谷城主・水野忠重の嫡男として生まれます(他の説では刈谷岡崎生まれとも鷲塚生まれとも)。

16歳のときに遠江高天神城攻めで初陣を果たすと、武田勝頼を攻撃した天目山の戦い小牧・長久手の戦いなどに出陣して着々と戦功をあげますが、20歳のときに父との不和がもとで出奔し、その後、諸国を歴遊。

天正13年(1585年)に豊臣秀吉に仕えて以後、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田長政など、名だたる武将に仕えました。


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慶長5年(1600年)に父・忠重が死去すると、徳川家康の命により刈谷三万石を継ぎ、関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、大和口の先鋒として功をあげ(参照:大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~)、戦後、大和郡山6万石の領主となります。


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そして元和5年(1619年)に福島正則の改易に伴い、備後10万石の福山藩初代藩主となりました。

その後、勝成はこの地で、88歳の長寿を全うします。


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こちらは、父・忠重の墓です。

息子と喧嘩別れした親父でしたが、墓は出世した息子の領地にあるんですね。


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こちらは3代藩主・水野勝貞の墓。

これも、立派な五輪塔です。


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こちらは4代藩主・水野勝種の墓。

2代、5代、6代藩主の墓は、ここにはありませんでした。

福山藩水野家は6代で終わり、以後、阿部氏が10代藩主を務めます。


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ここには、ほかにも一族・家臣の墓が葬られていました。


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場所は変わって福山城の北にある福山八幡宮のなかに、聡敏神社という小さな社があるのですが、ここは水野勝成を祀った神社です。


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社殿には、勝成の絵馬が奉納されています。


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水野家の家紋
ですね。


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400年後の福山のまちにも、藩祖・水野勝成の足跡は各所に残されていました。

以上で「福山城のまち逍遥記」を終わります。

この日は昼前から夕方まで、実に25,000歩も歩きました。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-06 16:03 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

福山城北側三の丸には、備後護国神社があります。

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ここは昭和32年(1957年)まで阿部神社と称えていましたが、護国の英霊と合祀され、社名が備後護国神社と改められました。


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そもそものはじまりは、文化10年(1813年)、福山藩主・阿部氏の遠祖である大彦命・武沼河別命・豊韓別命と歴代藩主を祀る勇鷹(いさたか)神社として創建されたことに始まります。


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その後、明治10年(1877年)に阿部神社と改称、県社に列しました。


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最初と2枚目の写真は西側にある備後護国神社としての正式な参道で、3枚目4枚目の写真は南側にある阿部神社の時代の参道です。


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拝殿本殿です。


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境内には、7代藩主・阿部正弘の石像があります。

福山城二の丸にも正弘の像がありましたが、あっちの方がイケメンでしたね。

でも、こっちのほうが肖像画に似てるかな?


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若干25歳で老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任した正弘は、ペリー来航にあたり日米和親条約を締結したことで知られています。

教育の重要性を早くから唱え、その人材を育てるために藩校・福山誠之館を創立しました。

そのため、現在では受験合格、学業成就の神として信仰されているそうです。


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そういえば、正弘は薩摩藩主・島津斉彬や水戸藩主・徳川斉昭とともに、日本の国旗を「日の丸」と制定した人物でもあります。

昨今の卒業式などで日の丸に敬意を払わない教員さんを見て、正弘はどう思うでしょうね。


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あと、境内には「宮本武蔵腰掛石」があります。

読んで字のごとく、宮本武蔵が座ったとされる石ですね。


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元和元年(1615年)の大坂夏の陣において、武蔵は水野勝成の陣に属したとい伝わり、その後、福山藩初代藩主となった勝成を訪ねて福山城を訪れた際、家老・中山将監の屋敷の庭園で腰を掛けた石が、この石なんだそうです。

実話かどうかはわかりませんが、NHK大河ドラマ『武蔵』のなかでも紹介されていました。

まあ、武蔵の伝説は全国各地にありますけどね。


そんなこんなで、シリーズはあと1回だけ続きます。




備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

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備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」


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by sakanoueno-kumo | 2016-04-28 16:12 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~

男山・千姫天満宮の近くに、不動院という高野山真言宗のお寺があるのですが、かつてここに、現在に残る姫路城を築城した池田輝政の菩提寺があったと伝わります。

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不動院の創建は神亀5年(728年)、徳道上人によって開かれたのが始まりとされます。

徳道上人は奈良にある長谷寺を開いた人物で、当地にも同規模の寺院を開山させ長谷寺と称させたそうです。

当時は姫山の麓にありましたが、元亀3年(1572年)に姫路城の城代・黒田職隆黒田官兵衛の父親)が城を拡張した際、播磨国総社(射楯兵主神社)の境内に移され寺号を不動院に改称したそうです。


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天正9年(1581年)、羽柴秀吉が姫路城をさらに拡張すると、先に播磨国総社が現在地に遷され、万治3年(1660年)に不動院がその付近に移りました。

明治時代初頭に発令された神仏分離令により寺院として独立し、明治3年(1870年)に現在地である長徳寺境内に移転。

明治10年(1877年)に長徳寺が廃寺になると、不動院単独の境内地となりましたが、長徳寺の以前は、姫路藩主・池田家菩提寺国清寺(龍峯寺)があった跡地で、池田輝政、池田利隆はこの地に埋葬されたそうです(その後、池田家が転封すると改葬)。


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現在は、不動院境内に石碑が建てられているだけです。


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姫路城を築城した池田輝政は、同築城以前には、伏見城普請大和多内城普請を務め、姫路城以後も、高砂城、篠山城、江戸城、名古屋城などの普請に従事しており、とくに篠山城普請では総普請奉行を務めるほどの城づくり名人とされていますが、400年後の未来にその姫路城が世界遺産となり、世界各国から見物客が絶えない名所となろうとは、思いもしなかったでしょうね。

次回、シリーズ最終回。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-03 23:16 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その10 ~男山・千姫天満宮・配水公園~

姫路城の西北にある「千姫天満宮」を訪れました。

ここは、姫路城を一望する男山の中腹にある小さな社で、本多忠刻と再婚した千姫が、本多家の繁栄を願って建立し、西の丸長局の廊下から朝夕遙拝したと言われています。


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長男・幸千代をわずか3歳で亡くし、夫・忠刻も病気がちになると、千姫は化粧櫓から望むことのできる男山に天満宮を建立し、跡継ぎの誕生と、夫の回復を毎日のよう、西の丸長局の廊下から朝夕祈り続けました


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城内から、遙拝できるよう東向きに造営されています。


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千姫天満宮から少し山を登ると、男山天満宮があります。

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ここは、天正元年(1436年)に最初に姫路城を築いたとされる赤松貞範が、城の鎮守社としてここ男山の山頂に建立したもので、歴代の城主が信仰したと言われます。


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石鳥居は第34代目の姫路城主・榊原政邦が正徳6年(1716年)に建てたものだそうです。


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で、ここからさらに長い階段をのぼると、頂上に水道水を市街地に配水している池があるのですが、そこが市民憩いの公園になっています。


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階段を登り切ると視界がぱっと開け、振り返った眺望がこれ。↓↓↓


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みごとな絶景です。

ここからの城の眺望は、姫路城十景のひとつとされています。


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ここを訪れたのは夕方だったのですが、西陽を受けた姫路城もまた美しいですね。


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ここに来た目的は千姫天満宮で、ここへ来るまでこの公園の眺望は知りませんでした。

めっちゃ得した気分です。

シリーズはもうちょっと続きます。



白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その1 ~三の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その2 ~門~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その3 ~三国堀・二の丸・本丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その4 ~天守閣~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その5 ~西の丸~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その6 ~下山里~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その7 ~姫山公園・姫路神社~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その8 ~内堀~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その9 ~武蔵野御殿跡・千姫の小路~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その11 ~池田輝政公菩提寺旧蹟~
白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 その12 ~姫路城天守眺望~

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by sakanoueno-kumo | 2016-03-02 19:44 | 姫路城めぐり | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~

前稿で豊臣秀頼が修理した玉造稲荷神社を紹介しましたが、となれば、同じく秀頼が大修理を手がけた方広寺大仏殿の梵鐘を無視するわけにはいかないだろう、と思い至り、京都は東山まで足を運んできました。

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方広寺は、豊臣秀吉が奈良の東大寺に倣って大仏を安置するために、天正14年(1586年)から10年もの歳月をかけて造られた寺院ですが、慶長元年(1596年に)京都を襲った慶長大地震によって大仏は大破してしまったそうで、その後、秀吉は大仏開眼供養を待たずにこの世を去ります。

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で、そのあとの再建事業を行ったのが秀頼・淀殿母子でしたが、このとき鋳造した梵鐘に彫られた銘文が、徳川家を冒涜するものとされて徳川家康の怒りを買うんですね。
そちらの銘文がこれ。↓↓↓

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「国家安康」の字句が、家康の名を分割し首を切断することを呪詛したものだとし、「君臣豊楽」の文字が、豊臣家の繁栄を祈願しているとの分析。
いや~、みごとな言いがかり、ほとんどヤカラですね。
この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、徳川家がこの銘文を曲解して豊臣家に因縁を付けたものとされていますが、よく見つけたものです。

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この言いがかりで苦境に立たされたのが、方広寺の作事奉行を務めていた片桐且元でした。
このあと且元は、徳川家と豊臣家の関係をなんとか修復しようと奔走しますが、それがかえって豊臣方から逆心ありとの疑われるもととなり、最終的には、豊臣家を去ることになるんですね。(はじめから家康とグルだったという見方もありますが。)
そこまで家康が描いたシナリオだったのかどうかはわかりませんが、且元を敵に回したことが、豊臣家にとって大きな損失となったことは間違いないでしょう。

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鐘楼は明治時代に再建されたものだそうです。
この梵鐘は豊臣家が滅亡してから明治時代に新たな鐘楼が再建されるまで、現在の京都国立博物館付近に雨ざらしとなっていたそうです。
よく傷まずに銘文が残ってくれていたものですね。

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見てのとおり、デカイ鐘です。

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大仏殿及び大仏は、寛政10年(1798年)の落雷により焼失しています。
現在は巨大な石垣の一部だけが当時と変わらぬ姿で残っています。

もうすぐシリーズ終わりです。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-24 15:43 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~

大坂城南外堀から500mほど南下したところにある玉造稲荷神社に、豊臣秀頼の銅像があります。
ここはかつて、豊臣時代の大坂城の三の丸にあたり、その鎮守社として、豊臣家から篤い崇敬を受けた神社でした。
戦国時代の戦火で荒廃していましたが、慶長8年(1603年)3月、秀頼により社殿が再建されたと伝えられます。

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関が原の戦い以後、豊臣家は摂津・河内・和泉3カ国65万石余の一大名に転落したといわれますが、しかし、朝廷から賜る位階官職はその後も昇進を続けており、一定の影響力を保っていました。
徳川家康の孫娘・千姫と結婚したのも、慶長8年(1603年)のことです。
家康はこの頃から、婿となった秀頼に対して、秀吉の菩提を弔って畿内一円の社寺の修理を行うように勧めました。
ここ、玉造稲荷神社の修理も、その一貫だったものと思われます。

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なんか、バカ殿様っぽい顔をしていませんか(笑)。

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家康が二条城で成人した秀頼と会見したとき、その凛々しい風貌を見て、豊臣家を滅ぼす決意をしたといいますが、このバカボン顔でそう思うかな?・・・と(笑)。

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秀頼が奉納したと言われる鳥居です。
もとは本殿正面に建っていたそうですが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災によって一部損傷を受けたため、現在は上部、脚部に分けて境内の片隅に保存されています。
400年の歴史を刻む鳥居ですね。

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秀頼公胞衣塚大明神です。
ここには、秀頼と母・淀殿を結ぶ胞衣(卵膜、胎盤など)が鎮まっているそうです。

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大坂の陣とは関係ありませんが、境内には、千利休居士顕彰碑があります。
説明板によると、かつてここの南西に、千利休の屋敷があったそうです。

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家康が秀頼に社寺の修理を進めた理由は、豊臣家に散財させて経済力を削ぐためだったといわれますが、だとすれば、千姫を嫁がせたこの頃から、すでに大坂の陣は始まっていたといえるでしょうか。
そして、その一連の修理事業をすすめるなかで、大坂の陣の銃爪となった方広寺鐘銘事件へと繋がっていくんですね。

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秀頼によって再興された玉造稲荷神社の社殿は、大坂夏の陣の際に再び焼失し、その後、元和5年(1619年)に徳川幕府によって再建されたそうです。

もうちょっと続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

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by sakanoueno-kumo | 2015-12-22 13:43 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)