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三木合戦ゆかりの地めぐり その29 ~丹生山城跡~

約1年半ぶりの三木合戦シリーズ再開です。

今回は神戸市北区にある丹生山城跡を訪れました。

標高514mの丹生山山頂にあった丹生山城は、三木合戦の際には別所長治側に与し、兵糧補給ルートの拠点となっていた城です。


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写真正面の山が丹生山です。

1年半前の三木合戦ゆかりの地めぐりの際に、ここを訪れるかどうか迷ったのですが、標高514m、比高370mの約1時間の登山はさすがに躊躇し、パスしていました。

歴史は好きですが、登山は素人ですからね。


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ところが、やはり歴史オタクの悲しい性で、自身の住む神戸市内に城跡があると知りながら捨て置くに忍びず、意を決して登山に訪れました(今回ここを訪れるにあたって、わざわざリュックとトレッキングパンツを購入しました)。


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季節はが散りかけた4月中旬。

たぶん、ハイカーの人たちに言わせれば、最もいい季節なんでしょうが、素人のわたしには、じゅうぶんキツかったです。


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写真では伝わりづらいですが、結構な勾配です。


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道中、古い墓石群を見つけました。


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ひとつの墓石には「天保五年」と刻まれていますので、三木合戦とは関係ないようです。


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およそ2.5kmの山道をひたすら登ること約1時間強、ようやく城跡にたどり着きました。

現在は、何らかの建物跡と思われる石垣上に、「丹生山城跡 丹生山明要寺跡」と刻まれた石碑があるのみです。


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丹生山明要寺とは、6世紀に百済から渡来した童男行者という人物がこの地に建立した寺院で、平安時代末期には多くの僧兵と幾多の伽藍を擁し、一大勢力を誇りました。

この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。

ここ丹生山城は、武将が構える城ではなく、寺院が要塞化した僧兵たちの城でした。


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天正6年(1578年)に始まった三木合戦では、羽柴秀吉の包囲網を掻い潜って三木城に兵糧を輸送していたのが、ここ丹生山城を経由したルートでした。

城を守っていたのは、備中勢の中島左京、祢屋与七郎、日幡八郎左衛門、生石中務らが300騎と、近隣の野武士や農民ら500名あまりでした。


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これに対し羽柴秀吉は、天正7年(1579年)5月、籠城する近隣の農民の妻子を生け捕り、城内から内応させることを強要。

内部からあがった火により丹生山城は混乱に陥り、落城したそうです。

丹生山城が秀吉の手に落ちたことで、三木城の補給路は完全に絶たれます。


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本丸跡と思われる山頂には、現在、丹生神社があります。


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丹生神社境内からの眺望です。

見えているのは南側、三木城方面ではありません。

霞がかっていてわかりづらいですが、うっすら明石海峡大橋が見えます。


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ここ、丹生山城は、三木合戦より遡ること250年前の南北朝時代にも、戦乱に巻き込まれています。

その話は、また別の稿でふれてみたいと思います。


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下山は緩やかなハイキングコースをくだりました。

時間はかかりましたが、こっちの方が素人向けでしたね。


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麓のバス停横には、丹生神社の鳥居が。

その鳥居の中に映っているのが、丹生山です。


さて、次稿では、その丹生山城の戦いで命を落とした幼子たちの悲話が残る稚児ヶ墓山を訪れます。




「三木合戦ゆかりの地」シリーズの、他の稿はこちらから。
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三木合戦ゆかりの地

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by sakanoueno-kumo | 2016-10-27 20:19 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その2 「福田寺」

南山田城跡の公園から150mほど西にある福田寺を訪れました。

ここは、南山田城主・後藤家の菩提寺だそうです。


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後藤氏の出自は諸説ありますが、藤原氏の流れをくむ後藤基清の子、基重が、承久の乱の後に播磨国安田荘の地頭となったことに始まったといいます。


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その後、建武年間、播磨国の守護職・赤松則村(円心)の幕下であった後藤基明が、ここから2kmほど北にある春日山城の初代城主となり、時代は下ってその9代目にあたる後藤基信のとき、中国征伐に向かう羽柴秀吉によって城は攻め落とされました。

その後藤基信の弟が、後藤又兵衛基次の父・元国でした。


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山門の横に、最近建てられたと思われる「後藤又兵衛顕彰碑」と刻まれた石碑がありました。

その背後に見える森が、南山田城跡の公園です。


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高さは約2.5mあります。

やりの名手として知られた又兵衛にちなみ、やりの穂先の形に仕上げられたのだとか。


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石碑裏面の説明書きです。

「又兵衛400年祭」と記されているように、没後400年を記念して建てられたようですね。

2015年5月6日とあります。

又兵衛が討ち死にしたのは、大坂夏の陣大坂城が落城する1日前の慶長20年(1615年)5月6日、現在の住所でいえば大阪府柏原市で行われた道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦でした。

石碑は、その400年後の命日に建てられたわけですね。

ちなみに、又兵衛は一般に「基次」の名で知られていますが、実は、当時の記録に「基次」と記された史料は存在せず、「正親」が実名だったようです。

真田信繁における「幸村」という名と同じく、「基次」も後世の創作と考えてよさそうです。


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境内です。


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本堂です。

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本堂裏の墓苑の一角に、「後藤又兵衛父母の供養塔」があります。


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又兵衛の父母の没年は定かではありません。

別所氏滅亡後は仙石秀久に仕えたといわれますが、この地に供養塔が残っていることを思えば、あるいは三木合戦時に落命したのかもしれませんね。

息子の又兵衛が有名にならなければ、父の名前すら後世に残らなかったかもしれません。


もう1回だけ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-20 19:03 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺 ~後編~」

前稿に引き続き書寫山圓教寺です。

圓教寺の敷地内はあまりのも広大で、すべてをじっくり観光するには1日中かかるくらいの規模です。

この日は午後からの限られた時間での観光だったので、摩尼殿を訪れたあとは、その西奥にある有名な三之堂へ。


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摩尼殿から西へ向かう参道です。

豪壮な石垣群は、まるで城跡のよう。


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でも、城跡じゃないとわかるのは、石垣の上に無数の地蔵群が・・・。

なんとも神秘的な空間です。


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数分歩くと、有名な3つの堂の建つ空間にたどり着きます。

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財です。

写真では伝わりにくいですが、目の前に広がる雄大な光景に、しばし言葉がでませんでした。


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こちらが、大講堂側から見た常行堂


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こちらは、食堂2階から見た常行堂


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こちらも、食堂2階から見た大講堂です。


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ここ三之堂は、映画やドラマのロケ地に何度もなっていますが、そのいちばん有名なものとしては、あのトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』でしょうね。

トム・クルーズ演じる主人公のオールグレン大尉と、渡辺謙さんが演じる勝元の絡みのシーンは、ここ食堂で撮影されました。


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なんでも、映画スタッフがロケ地候補の姫路城の視察に訪れた際、近くのこの地に観光がてらに立ち寄ったところ、ひどく気に入られ、ロケ地に決まったそうです。

ということは、トムもあのロープウェイに乗って来たのかと思ったのですが、宿泊先の神戸からヘリでここまで着たそうです。

さすがは超スーパーハリウッドスターですね。

庶民的な謙さんは、たぶんロープウェイで来たんじゃないでしょうか?


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他にも、NHK大河ドラマでは平成15年(2003年)の 『武蔵-MUSASHI-』や、平成26年(2014年)の『軍師官兵衛』でもロケ地となっています。

宮本武蔵と圓教寺の関りについては記録に残っていませんが、武蔵と姫路の関りは深く、武蔵の養子となった宮本三木之の墓が、ここ圓教寺にあります。


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黒田官兵衛
と圓教寺の関係は、天正6年(1578年)、織田信長の命により播磨攻めを開始した羽柴秀吉に、ここ書写山に陣を布くよう勧めたのが官兵衛だったと伝えられます。

食堂には、そのときの羽柴秀長の家臣の落書きが残されていました。


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毎年夏の旅行で子供たちには何か体験学習をさせているのですが、今年はこの食堂で、なんと写経体験に挑戦。

写経は、本格的な般若心経と、初心者向けの簡易な花びら写経があります。

花びら写経は約10分程度でできるのですが、般若心経は1時間以上かかります。

ほとんどのメンバーは花びら写経を体験しましたが、一応、書道の有段者である中3のわが娘だけは、高校合格祈願をかけて般若心経に挑戦。

集中力と根気を要する作業です。


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トム・クルーズと渡辺謙さんが絡んだシーンと同じ場所での写経です。


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わたしも、花びら写経に挑戦。

筆をとる前に、まずは手を合わせて般若心経を唱えます。


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皆が無言で机に向かう姿は、なかなか貴重な光景です。


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前日に転んで肘と膝を怪我したOL1年生の彼女の願掛けは、「ケガをしない!」


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そして、わが娘の般若心経が完成。

果たして志望校合格のご利益があるか!

静寂に満ちた空間で、背筋を正して写経。

たまには、そういった非日常な時間を過ごしてみるのもいいですね。


圓教寺を後にすると、中播磨といえばやはり世界遺産の姫路城

最後に少しだけ足を運びました。


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姫路城については、以前たっぷりレポートしていますので、よければ一読ください。

  ↓↓↓

白鷺の天守閣がよみがえった姫路城を歩く。 


以上、2016年の夏休みレポートを終わります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-14 18:57 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。


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ロープウェイは黒田官兵衛キャラでラッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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ロープウェイを降りたらすぐ圓教寺というわけではなく、そこから20分ほどの登山です。

この日は8月13日の真夏日

私はこのところ休日は史跡めぐりばかりしているため、こういったシチュエーションは慣れているのですが、山に慣れてない人は、結構キツイかもしれません。

体力に自信のない人のために、バスもあります。

ちなみに私の妻は、迷わずバスに乗車しました。


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登山道途中の展望台からの眺望です。


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そこに設置されたベンチに、眺望の詳細な説明書きが・・・。

これって、落書き?

落書きとしては、かなりクオリティ高いです。

この説明(落書き)によると、ここから姫路城が見えるとのことでしたが、見えるような見えないような・・・。


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展望台で記念撮影。


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しばらく登ると、ようやく仁王門にたどり着きました。

ここから、書寫山圓教寺です。


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圓教寺は、康保3年(966年)に天台宗の僧・性空によって創建されたと伝えられ、花山法皇(第65代天皇)の勅願所となりました。

以後、後白河法皇(第77代天皇)や後醍醐天皇(第96代・南朝初代天皇)など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われています。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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姫路の人は、「摩尼殿の舞台から飛び降りる」って言うんですかね?(笑)


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圓教寺は広大すぎて、とても一回では紹介できません。

次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-10-13 19:11 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その9 「油祖離宮八幡宮」

JR山崎駅の南側に、離宮八幡宮があります。

門前にある神社の縁起によると、貞観元年(859年)に清和天皇(第56代天皇)が九州は大分の宇佐八幡宮より大安寺の僧行教が勧進したといい、淀川を挟んで対岸にある石清水八幡宮はここから分祀されたもので、石清水の名はこの地に涌き出ている霊泉『石清水』に因んだとしています。


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その後、嵯峨天皇(第52代天皇)の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので、社名を離宮八幡宮としたそうです。


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離宮八幡宮は、わが国におけ製油発祥地とされ、「油祖」の称号をとして知られます。

平安時代の後期(貞観年間)、時の神官が神示を受けて「長木」という搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油の製油を始めたところ、次第にこの業が全国に広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜ったそうです。


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境内には、「本邦製油発祥地」と刻まれた石碑があります。


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油脂販売業者の店頭標識だそうです。


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こちらは油祖像だそうで・・・。


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山崎の油の関係は、司馬遼太郎氏の小説『国盗り物語』にも出てきますね。

素浪人から山崎の油商人となり、その冨と策略を駆使してついには美濃国主となった「美濃の蝮」こと斎藤道三の物語で、離宮八幡宮が油の専売特許を持ち、「油座」として栄えていた当時の様子がわかりやすく描かれています。


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やがて、楽市楽座を推し進めた織田信長が室町幕府を倒したことにより、独占販売の特権を持つ「座」のシステムが崩壊し、油のまち山崎も衰退していきました。

しかし、それ以後も、離宮八幡宮は油の神様として、全国の油商人から崇敬されていたそうです。

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幕末の「禁門の変」時には、周りの民家とともに焼失し、明治9年(1876年)には鉄道の開通により、その敷地は大幅に縮小されました。

現在の社殿は昭和初期に再建されたものだそうです。

その社殿には「崇敬発起人」として日本製油・カネダ・吉原製油・昭和産業・豊年製油・味の素・日本油脂など、日本の製油大企業の名が連なっています。




このシリーズの記事は、こちらから。

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山崎合戦のまちを歩く。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-15 18:42 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その7 「山崎院跡」

天王山の麓を走るJR線路沿いの道路脇に、「山崎院跡」と刻まれた石碑が立っています。

「山崎院」とは、奈良時代の高僧・行基が建てた寺院で、神亀2年(725年)、山崎の地に来た行基は淀川に「山崎橋」を架け、その維持管理と布教活動の拠点として、山崎院を建立したと伝わります。


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平成元年(1989年)と平成11年(1999年)の発掘調査により、日本最古級の彩色された壁画片約100点や、陶器、瓦、釜などが出土し、それまで不明瞭だった山崎院の所在地が、天王山の南側山麓のこの場所にほぼ比定されました。


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行基は河内国生まれの高僧で、畿内を中心に貧民救済、治水、架橋などの社会事業に大いに尽力しました。

天平13年(745年)には、聖武天皇(第45代天皇)より東大寺大仏造立の責任者として招聘され、力を尽くします。

その他、わかっているだけでも49の寺院を建立し、その他、伝承レベルのものでは、全国各地に行基が開基したとされる寺院が存在します。

「その2」で紹介した宝積寺も、行基が聖武天皇の命で建立した寺院として伝えられていますね。

山崎の地は、行基にゆかりの深い地といえそうです。




このシリーズの記事は、こちらから。

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by sakanoueno-kumo | 2016-07-08 20:08 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その5 「禁門の変十七烈士之墓~酒解神社」

山崎合戦旗立松のすぐ上には、酒解神社大鳥居があります。

酒解神社は山崎の産土神で、大山崎町のある乙訓郡では最も古い神社だそうです。

ただ、この大鳥居は新しいもののようですね。

鳥居をくぐると、「その3」で紹介した道陶板絵図があります。


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大鳥居をあとにして山道を登っていくと分かれ道になっていて、標識を見ると、「十七烈士の墓を経て酒解神社」と書かれた誘導が・・・。

何かわからぬまま、そちらの誘導に従ってみました。


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で、石段を登ってみると、「禁門の変十七烈士之墓」とありました。


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思い出しました。

元治元年(1864年)7月19日に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」のとき、山崎のまちには長州藩の陣所が布かれましたが、敗走する際、長州藩士じゃない真木和泉ら十数人が長州藩主力兵たちと山崎で分かれ、自刃したんですね。


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以前、あるブログで、この地に真木たちの墓があると紹介されていたのですが、すっかり忘れていました。


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説明看板のよると、長州藩主力兵たちを見送った真木以下17名は、禁裏のある京都の地を去るに忍びないとして天王山に登り、7月21日、幕府追討軍の来襲を前に、烈士そろってこの地で壮烈な自刃をとげた、とあります。

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その直後、敗兵掃討によって離宮八幡宮・神宮寺等の社寺や、民家200余戸を焼失した、と。


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埋葬されている志士17名を列挙すると、


土佐・千屋菊二郎菅原孝健

土佐・松山深蔵橘正夫

宇都宮・岸上弘安臣

宇都宮・廣田精一執中

土佐・能勢達太郎平成章

肥後・小坂小二郎源雄宗

久留米・加藤常吉任重

土佐・安藤真之助強怒

久留米・真木和泉守平保臣

久留米・松浦八郎寛敏

久留米・池尻茂四郎懋

筑前・松田五六郎

肥後・加屋四郎藤原時雄

肥後・中津彦太郎藤原義直

肥後・酒井荘之助

肥後・宮部春蔵

肥後・西嶌亀太郎


だそうです。

幕末が好きなわたしですが、残念ながら、真木和泉以外で知っていたのは、土佐の千屋菊二郎菅原孝健(菊次郎?)くらいでした。

調べてみると、肥後の宮部春蔵という人は、宮部鼎蔵実弟だそうです。

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真木和泉の墓石です。


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彼らが自刃してから151年が経ちますが、山の風景はきっと当時とそう変わらず時がとまったままで、いまでも彼らの無念の叫びが聞こえてきそうです。


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墓を過ぎたところにある三社宮です。

三社とは、天照大神・月讀大神・蛭子神だそうです。


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で、酒解神社のお社が見えてきました。


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が、残念ながら改装工事中で、本堂の中はみれませんでした。


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説明板によると、ここは山崎地方で最も古い神社で、創建は奈良時代だそうです。
詳しくは看板をお読みください(笑)。


酒解神社を過ぎると、いよいよ山頂です。

次回に続きます。

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山崎合戦のまちを歩く。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-01 18:24 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その2 「大念寺~宝積寺」

登山口からしばらく急な坂道を登っていくと、これまた急勾配の石段があります。

ここを登ったところに、大念寺という小さなお寺があったので、立ち寄ってみました。


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大念寺は弘治元年(1555年)、この地に住む井尻但馬守長助が、京都知恩院徳誉光然上人を開山として建立したお寺だそうです。

本尊には「阿弥陀如来立像」(国指定の重要文化財)があるそうですが、拝観するには予約が必要だそうで、この日は見送り。


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小さな鐘楼があります。


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かつては力のあったお寺だったそうですが、元治元年(1864年)の「禁門の変」の際、長州藩士の一部が大念寺に布陣していたことで巻き込まれて焼失し、再興されたのは明治12年(1879年)になってからだったそうです。

当時、山崎地区は長州藩の屯所となっていました。


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大念寺からさらに坂を登ると、宝積寺という広い敷地を持つ立派な寺院があります。


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山門に立つ金剛力士像は鎌倉時代のものだそうで、重要文化財指定されています。


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山門から一直線にのびる参道の右側には、桃山時代の建築で重要文化財の三重塔があります。


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その側には、「豊臣秀吉一夜之塔」と書かれた立て札がありました。

なんでも、山崎合戦で明智光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉が、その勝利を記念し、一夜で建立した塔なんだとか。

そんなわけないやろ!・・・と言うのは無粋というもの。

墨俣一夜城といい石垣山一夜城といい、秀吉は一夜で仕事を済ませる達人なんです(笑)。


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宝積寺は、奈良時代に聖武天皇が僧・行基に命じて建立したといわれる由緒ある古寺です。

この近くには、同じく行基が建てたと伝わる「山崎院」跡もあり、王山周辺は行基にゆかりの深い地なんだそうです。

ただ、宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で行基時代の建造物はすべて焼失しており、現存する仏像等は、すべてそれ以降のものだそうです。


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天正10年(1582年)の山崎合戦では、ここに秀吉の本陣が置かれました。

その後、秀吉は天王山の山頂に山崎城を築城し、大坂城に移るまでの拠点としますが、その際、ここ宝積寺も城郭の一部として取り込まれたため、「宝寺城」とも呼ばれたそうです。


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「秀吉の出世石」だそうです。

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何の変哲もないただの石ですが、秀吉はこの石に座して天下統一を考えたんだそうです。

座るだけで史跡になっちゃう秀吉です(笑)。


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時代は進んで幕末の「禁門の変」の際には、尊皇攘夷派真木和泉を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた歴史があり、また、大正4年(1915年)には夏目漱石がここを訪れ、「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠みました。

1300年近く、ずっとこの地に歴史を刻んできたお寺なんですね。


次回に続きます。



このシリーズの記事は、こちらから。

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山崎合戦のまちを歩く。



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-10 00:23 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback(1) | Comments(4)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」

福山城から東へ10分ほど歩いたところに、福山藩初代主・水野勝成をはじめとする水野家の墓所があります。


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公道沿いに誰でも気軽に入れるような墓所公園となっていて、厳かな雰囲気ではありません。


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見上げると、交通標識でも案内されています。


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入口はこんな感じ。

「福山開祖水野勝成公墓地」と刻まれた石碑が建っています。


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そして、これが勝成の墓。

墓石の五輪塔は、高さ5.1mの巨大なものです。


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勝成は永禄7年(1564年)三河国刈谷城主・水野忠重の嫡男として生まれます(他の説では刈谷岡崎生まれとも鷲塚生まれとも)。

16歳のときに遠江高天神城攻めで初陣を果たすと、武田勝頼を攻撃した天目山の戦い小牧・長久手の戦いなどに出陣して着々と戦功をあげますが、20歳のときに父との不和がもとで出奔し、その後、諸国を歴遊。

天正13年(1585年)に豊臣秀吉に仕えて以後、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田長政など、名だたる武将に仕えました。


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慶長5年(1600年)に父・忠重が死去すると、徳川家康の命により刈谷三万石を継ぎ、関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、大和口の先鋒として功をあげ(参照:大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~)、戦後、大和郡山6万石の領主となります。


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そして元和5年(1619年)に福島正則の改易に伴い、備後10万石の福山藩初代藩主となりました。

その後、勝成はこの地で、88歳の長寿を全うします。


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こちらは、父・忠重の墓です。

息子と喧嘩別れした親父でしたが、墓は出世した息子の領地にあるんですね。


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こちらは3代藩主・水野勝貞の墓。

これも、立派な五輪塔です。


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こちらは4代藩主・水野勝種の墓。

2代、5代、6代藩主の墓は、ここにはありませんでした。

福山藩水野家は6代で終わり、以後、阿部氏が10代藩主を務めます。


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ここには、ほかにも一族・家臣の墓が葬られていました。


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場所は変わって福山城の北にある福山八幡宮のなかに、聡敏神社という小さな社があるのですが、ここは水野勝成を祀った神社です。


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社殿には、勝成の絵馬が奉納されています。


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水野家の家紋
ですね。


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400年後の福山のまちにも、藩祖・水野勝成の足跡は各所に残されていました。

以上で「福山城のまち逍遥記」を終わります。

この日は昼前から夕方まで、実に25,000歩も歩きました。



備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-06 16:03 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」

福山城北側三の丸には、備後護国神社があります。

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ここは昭和32年(1957年)まで阿部神社と称えていましたが、護国の英霊と合祀され、社名が備後護国神社と改められました。


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そもそものはじまりは、文化10年(1813年)、福山藩主・阿部氏の遠祖である大彦命・武沼河別命・豊韓別命と歴代藩主を祀る勇鷹(いさたか)神社として創建されたことに始まります。


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その後、明治10年(1877年)に阿部神社と改称、県社に列しました。


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最初と2枚目の写真は西側にある備後護国神社としての正式な参道で、3枚目4枚目の写真は南側にある阿部神社の時代の参道です。


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拝殿本殿です。


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境内には、7代藩主・阿部正弘の石像があります。

福山城二の丸にも正弘の像がありましたが、あっちの方がイケメンでしたね。

でも、こっちのほうが肖像画に似てるかな?


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若干25歳で老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任した正弘は、ペリー来航にあたり日米和親条約を締結したことで知られています。

教育の重要性を早くから唱え、その人材を育てるために藩校・福山誠之館を創立しました。

そのため、現在では受験合格、学業成就の神として信仰されているそうです。


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そういえば、正弘は薩摩藩主・島津斉彬や水戸藩主・徳川斉昭とともに、日本の国旗を「日の丸」と制定した人物でもあります。

昨今の卒業式などで日の丸に敬意を払わない教員さんを見て、正弘はどう思うでしょうね。


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あと、境内には「宮本武蔵腰掛石」があります。

読んで字のごとく、宮本武蔵が座ったとされる石ですね。


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元和元年(1615年)の大坂夏の陣において、武蔵は水野勝成の陣に属したとい伝わり、その後、福山藩初代藩主となった勝成を訪ねて福山城を訪れた際、家老・中山将監の屋敷の庭園で腰を掛けた石が、この石なんだそうです。

実話かどうかはわかりませんが、NHK大河ドラマ『武蔵』のなかでも紹介されていました。

まあ、武蔵の伝説は全国各地にありますけどね。


そんなこんなで、シリーズはあと1回だけ続きます。




備後福山城のまち逍遥備忘録 その1 「本丸・伏見御殿跡」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その2 「天守」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その3 「二の丸」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」

備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」


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by sakanoueno-kumo | 2016-04-28 16:12 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)