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太平記を歩く。 その123 「尊良親王墓所」 京都市左京区

金ヶ崎城の戦いで自害した尊良親王が、紅葉の名所として知られる京都の禅林寺(永観堂)の近くにあると知り、訪れました。


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尊良親王は後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子で、『太平記』『梅松論』などには「一宮」と記されていることから、後醍醐天皇の数多い皇子のなかで最初に生まれた皇子と考えられています(大塔宮護良親王の方が先という説もあり)。

母は権大納言二条為世の娘・為子で、宗良親王が同母弟と伝わります。

幼いころに母を亡くしたこともあってか、幼少期は後醍醐天皇の側近・吉田定房に養育されました。


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元弘の乱では父帝とともに笠置山に赴くも、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流されました。

鎌倉幕府滅亡後に京に戻った尊良親王でしたが、足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、新田義貞・脇屋義助兄弟と共に討伐軍を率いますが、箱根・竹ノ下の戦いで敗北し、京へ撤退。

その後、足利尊氏が京を占領すると、幼い恒良親王とともに新田義貞に奉じられて越前国に落ち、約半年間におよぶ金ヶ崎城での籠城戦のすえ、義貞の息子・新田義顕や他の将兵らとともに自害して果てます。

享年27

尊良親王の最期については、「その110」「その111」で詳しく紹介しています。


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金ヶ崎城にて自害した尊良親王のは、京都禅林寺(永観堂)の住職・夢窓国師のもとへ送られ、葬礼のあと、この地に埋葬されたと伝わります。

つまり、ここは首塚ということですね。


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『太平記』には、尊良親王の死を知ったその后・御匣殿(みくしげどの)の深い悲しみが描かれています。

その信憑性については定かではありませんが、『太平記』によると、御匣殿には別の婚約者がいたにもかかわらず、彼女に一目惚れした尊良親王は1000通におよぶ熱烈ラブレターを送り続け、やがて自分の后にしてしまったという馴れ初めが描かれています。

今流行のゲス不倫ですね(婚約だけだから不倫にはならないかな)。

しかし、二人の幸せな結婚生活は元弘の乱以降の戦乱によって終わりを告げます。

そのときの逸話は「その9」で紹介しています。


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尊良親王の死を知って深い悲しみに打ちひしがれた御匣殿は、嘆き苦しんだ末にになり、親王の四十九日も済まない間に、その後を追うように亡くなってしまったと『太平記』は伝えます。

この話は「金ヶ崎恋物語」として後世に広く知られるようになりますが、一方で、『太平記』と同じ時代に成立した『増鏡』によると、御匣殿は元弘の乱時には既に亡くなっていたと伝えます。

どちらが事実はわかりませんが、『太平記』の伝承のほうが、ドラマチックでいいですよね。


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そんな劇的な生涯を歴史に刻んだ尊良親王の墓所の前の道が、あろうことか附近のゴミステーションになっていました。

これ、なんとかならないのかなぁ・・・。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-15 01:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その113 「下長谷の洞窟」 福井県南条郡南越前町

「その110」で紹介した金ヶ崎城跡から敦賀湾沿いに海岸線を25kmほど北上した国道305号線沿いの崖に、「下長谷の洞窟」と呼ばれる小さな洞窟があるのですが、ここは、かつて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・恒良親王が身を隠したという伝承があります。


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延元元年/建武3年(1336年)10月13日より約半年間続いた新田義貞軍と足利方・斯波高経軍の攻防戦は、翌年の3月6日、義貞の息子・新田義顕と後醍醐天皇の皇子・尊良親王の自刃によって幕を閉じますが、尊良親王の弟でまだ13歳だった恒良親王は、金ケ崎城落城の際に気比神宮の神官が保護し、小舟に乗せてこの地に逃れ、洞窟の中にかくまったと伝えられています。


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この洞窟は、長い年月をかけて少しずつ波が岩を削りできた海食洞だそうで、入り口は広く奥は狭くなっています。


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入口の高さは約7m、間口はいちばん広い部分で約5m、奥行きは20mほどしかありません。

こんな浅い洞窟に身を隠しても、すぐに見つかりそうな気も・・・。


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洞窟の最奥部の岩壁には、矢じりで彫った「延元二年・・・・恒良云々」の文字があると言われていますが、今はほとんど判読できないと知り、しかも、奥は子どもでも身を屈めないと進めない狭さで、わたしはこのあたりまで来て引き返しました。


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ところが、帰宅してPCで洞窟のことを調べていると、文字を判読して解明されている方のブログを発見。

    ↓↓↓

下長谷洞窟の文字を解読しよう


今は判読できないなんて嘘じゃないですか!

こんなことなら、わたしももっと深く掘り下げるべきだった・・・と、後悔先に立たず。


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洞窟内部から外を眺めます。


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洞窟外に設置された説明板。


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洞窟の正面は道路を挟んですぐ海で、いまは漁港になっています。


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南西には敦賀湾と、原発のある敦賀半島が望めます。

そして西の海は広い若狭湾


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その後、恒良親王は足利方に捕らえられ、京都に護送されました。

『太平記』では、弟の成良親王らとともに花山院第幽閉され、その後、共に毒殺されたと伝えられ、その墓所も不明です。

また、同じく『太平記』によると、後醍醐天皇は恒良親王に譲位し、新田義貞らと共に北陸に向かわせたとも伝えられます。

これは『太平記』にしか見られない逸話ですが、恒良親王は金ヶ崎城から各地の武将に綸旨(天皇の命令書)を発給しており、自らを天皇と認識していたことは事実のようです。

でも、だったら、なんで年長の尊良親王に譲位せず、年若の恒良親王に譲位したんでしょうね。

結局、後醍醐天皇が吉野朝(南朝)を開いたことにより、恒良親王の皇位は無効となり、歴代天皇には数えられていません。

たぶん、北朝の天皇と同じく、偽の三種の神器を持たされていたんでしょうね。

自身の野望のためなら皇子も謀る。

さすがは後醍醐天皇です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-30 21:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その112 「金崎宮」 福井県敦賀市

前稿前々稿で紹介した金ヶ崎城の麓には、恒良親王尊良親王を祭神とする金崎宮があります。

ここは全国にある「建武中興十五社」のなかの一社で、旧社格は官幣中社です。


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神社の歴史はそれほど古くなく、明治23年(1890年)に始まります。


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ホームページにあるその由緒によると、敦賀の人々の熱烈なる請願により創立されたとありますが、他の「建武中興十五社」がそうであるように、南朝正統論を国民に浸透させようという当時の国策が背景に見える、多分に政治的意図が含まれた神社といえるでしょう。


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境内にある由緒書きです。


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こちらが案内図。

金ヶ崎城跡と一体化した神社ということがわかります。


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鳥居の向こうに社殿が見えます。


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まず手前にあるのが、舞殿


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そしてこちらが拝殿です。


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当然のことながら、紋章はすべて菊の御紋です。


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創立した明治23年(1890年)9月当初、祭神はこの地で命を落とした尊良親王だけでしたが、2年後の明治25年(1892年)11月、弟の恒良親王も祭神に合祀されたそうです。

恒良親王は金ヶ崎城が落城した際に脱出しましたが、足利軍に捕らえられて京都に拘禁され、翌年に毒殺されたと伝わります。


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こちらは境内・拝殿横にある摂社・絹掛神社です。


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絹掛神社は、尊良親王に殉じて自刃した新田義顕以下321名を祭神とします。


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ここ金崎宮の境内も、かつては金ヶ崎城の一部だったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-29 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その111 「尊良親王御墓所見込地」 福井県敦賀市

前稿で紹介した金ヶ崎城跡の一角に、尊良親王自害したと場所が伝えられています。


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その場所は、本丸跡に登る途中の脇道に設置された階段を上った、小高い丘の上にあります。


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尊良親王は後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子で、幼いころより聡明容姿も端麗だったといい、次期皇太子として期待されていたそうですが、鎌倉幕府の介入によって後二条上皇(第94代天皇)の長子・邦良親王が皇太子となります。

その後、元弘の乱では父帝とともに笠置山に赴くも、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流されました。

そのときの逸話は、「その9」で紹介しています。


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その後、京に戻って新田義貞と共に足利軍と戦いますが、父帝の降伏に伴い義貞と共に越前国に逃れ、ここ金ヶ崎城にて半年間の攻防戦の末、義貞の息子・新田義顕や他の将兵らとともに、延元2年/建武4年(1337年)3月6日、この地で自害したと伝わります。


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石碑には「見込地」と刻まれています。

たぶん、このあたりだったんじゃないか、ということでしょうね。


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石碑の裏には、「明治九年十月」とあります。

これまで見てきた『太平記』関連の石碑のなかでは、いちばん古いかも。


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一説には、新田義顕は尊良親王に落ち延びるよう勧めたといいますが、親王は同胞たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶し、強く自刃を希望したため、義顕は応じたと言われます。

『太平記』によると、親王は義顕に「自害の方法とはどのようなものか?」と問い、義顕は涙ながらに「自害とはこの様にするものでございます。」と、親王の目の前で腹を切って倒れました。

それを見た親王も、直ちにを手にして腹を切り、義顕の上に折り重なるように倒れ、続いて付き従っていた300人も同じく親王に殉じたと記しています。

このとき、尊良親王27歳、新田義顕は18歳でした。


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この半年間の戦いの最中、後醍醐天皇は吉野に逃れ、吉野朝(南朝)を開きました。

たぶん、そのことは尊良親王も聞き及んでいたでしょう。

あるいは、父に付き従っていれば、南朝第2代天皇は尊良親王だったかもしれません。

無念だったでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-25 22:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その9 「善通寺・秦武文の碑」 兵庫県尼崎市

尼崎市にある善通寺を訪れました。

ここは、阪神電鉄尼崎駅の南側にある街中の寺ですが、その境内に、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の忠臣・秦武文の碑が建てられています。


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元弘の乱に敗れた後醍醐天皇は隠岐に流されますが、このとき、皇子の尊良親王も、土佐国に配流となります。

このとき親王の共をしたのが秦武文でした。


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武文は親王の后・御匣殿(みくしげどの)を土佐に迎えるため、尼崎から船を出しますが、その途中、海賊松浦五郎に襲われ、后を奪われてしまいます。

松浦の船を小舟で追った武文は、戦場で腹を切り、そのまま海へ飛び込むと、武文の怨霊渦潮となって松浦の船を襲い、后は助けだされたといいます。


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怨霊話はにわかに信じられるものではありませんが、武文が后を奪われた責任をとって自刃したのは本当かもしれません。


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『太平記』「金ヶ崎恋物語」に記されたこの物語は、謡曲舞曲などで人々に広く知られ、尼崎の地に永く伝えられることになったそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-03 18:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)