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三木合戦ゆかりの地めぐり その28 ~御着城跡~

とうとう姫路市まで来ました。
姫路市の城というと、世界遺産姫路城をいちばんに思い浮かべると思いますが、三木合戦当時の姫路城は現在のような立派なお城ではなく、ここ御着城支城にすぎませんでした。

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当時の姫路城主は黒田官兵衛孝高、そして、その本家の御着城主は小寺政職
大河ドラマ『軍師官兵衛』片岡鶴太郎さんが演じていた赤鼻のバカ殿さまですね。
当時の官兵衛は小寺官兵衛と名乗っており、小寺家の傘下にありました。
いうなれば、御着城が本社で姫路城が支店だったわけです。

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現在、かつての城の敷地は国道2号線で分断されており、本丸跡城跡公園として整備されています。
遺構は堀切が少し確認できるくらいで、ほとんど残っていません。
公園内には、御着城をイメージした姫路市東出張所が建てられています。

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御着城は政職の祖父にあたる小寺政隆が永正16年(1519年)に築いたと伝わりますが、現地説明看板によれば、昭和52~54年の発掘調査で、14世紀後半からこの地に城が存在していたことが判明したそうで、小寺家がこの地に来る以前から、播磨国の守護大名である赤松氏の支配下として、何らかの機能を果たしていたようです。

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公園内には、黒田官兵衛顕彰碑があります。
ここの城主は小寺氏なんですけどね。

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ほかにも、小園内には「黒田官兵衛ゆかりの地」と書かれた幟がたくさん立てられていました。
まあ、昨年の大河ドラマのブームもありましたし、知名度から言ってやむを得ないのでしょうが、あくまでここの城主は小寺氏です(笑)。

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公園の隣には、官兵衛の祖父にあたる黒田重隆と、官兵衛の生母廟所があります。
黒田家は重隆の時代に小寺家に仕えるようになりました。
官兵衛の生母は、「その16」で紹介した枝吉城主の明石氏の出身だと伝えられます。

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写真左が重隆公、右が官兵衛の生母の五輪塔です。
でも、なんで御着城跡に黒田家の廟所が?・・・と思ったのですが、調べてみると、元は隣村に葬っていたものを、享和2年(1802年)に末裔の福岡藩主の命で、この地に移されたそうです。
じゃあ本家本元の小寺家ゆかりの史跡は?・・・と探してみると、公園の隅に小さな誘導表示が・・・。

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で、国道2号線を渡ってみると、小さな古い公園があり、そこに、小寺大明神と呼ばれるがありました。
ここには、小寺家一族が祀られているそうで、説明板によると、宝暦5年(1755年)の絵図も載っているそうです。

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初代城主・小寺政隆の歌碑があります。

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黒田家の廟所に比べると、本丸跡から離れた場所にひっそりと遠慮がちに建っているように思えた小寺大明神ですが、それも、のちに大大名となった黒田家と、没落した小寺家の格差といえるでしょうか。

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周知のとおり、小寺政職は当初、織田方に与していましたが、三木合戦が始まると別所氏に呼応して反旗を翻し、荒木村重と組んで家臣である官兵衛を陥れました。
しかし、三木城が落城すると政職はたちまち城を捨てて毛利領へ逃亡し、その後、羽柴秀吉軍の攻撃を受けた御着城は、残された別所氏家臣の岡本秀治が降伏し、落城しました。
そんな歴史を思うと、小寺大明神の扱いがこの程度なのは、仕方ないかもしれませんね。
公園の片隅には、旧御国小学校校庭の発掘調査で出土した、羽柴軍との戦いでの戦死者を弔うために立てられた五輪塔があります。

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さて、今年2月から始めた三木合戦ゆかりの地めぐりシリーズですが、気がつけば7月、になってしまいました。
姫路市まできましたし、他のテーマもやりたいので、このへんで一旦おきたいと思います。
といっても、播磨にはまだまだ三木合戦に関連する史跡がたくさんあります。
ですので、終わりではなく、いったん休憩して、また機会を作って続きができたらと思っています。
そのときは、またお付き合いくださいね。



次回、これまで紹介した史跡の分布図を起稿します。

「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
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三木合戦ゆかりの地

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by sakanoueno-kumo | 2015-07-01 18:49 | 三木合戦ゆかりの地 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第24話「帰ってきた軍師」 ~三木合戦の終結と小寺政職の逃亡~

 黒田官兵衛が有岡城に幽閉されたため戦線離脱してしまった羽柴秀吉三木城攻めは、有岡城が落城して官兵衛が帰還してもなお続いていました。秀吉がとった作戦は、三木城の周辺に付城を構築して持久戦に持ち込むというもので、『信長公記』によると、秀吉の築いた付城は5~60に及んだといいます。毛利氏は三木城に籠城する別所氏に兵糧を補給するため、さまざまなルートから搬入を試みますが、秀吉による包囲網はこれをことごとく遮断。じわじわと別所陣営は追い詰められます。後世に「三木の干殺し」と称される最も有名な兵糧攻めですね。

 籠城兵が餓えに苦しむなか、秀吉はそれを日和見に茶会を催したといいます。なんとも残酷で趣味の悪いいやがらせですよね。やがて城内の食糧が底をつくと、餓死者数千人に及んだといいます。飢えた城兵たちは、はじめは飼葉(馬の餌)を食べていたそうですが、それが尽きると、を食べ、さらにはネズミ土壁のなかのをも食べたといいます。その光景はまさに地獄絵図。よく、兵糧攻めは血を流さない戦法のため、人をあまり殺さない方針の秀吉が好んだ人道的な策と勘違いする人がいますが(また、そう描いているドラマなどがありますが)、実際には、餓死ほど酷い殺され方はなく、むしろ極悪非道な戦法といっても過言ではありません。秀吉や竹中半兵衛(もしくは黒田官兵衛)が殺したくなかったのは、自軍の兵のことであり、決して、血を見ることを好まなかったというわけではなかったと思います。

 天正8年(1580年)1月、長い籠城戦に力尽きた籠城軍は、城主・別所長治とその一族の切腹と引き換えに、城兵たちの助命を求め、秀吉もこの条件を了承します。このとき長治は若干23歳。若き領主の自刃によって、1年10ヵ月に及んだ三木合戦は終結しました。以下は、長治の辞世の句です。
 「いまはただ うらみもあらじ諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」

 長治の死によって、生きながらえていた城兵たちの命は助けられたというのが通説でしたが、近年の研究では、その後、城内の兵たちはことごとく首をはねられた、という記述がいくつかの史料に確認されているそうで、最近では、その可能性が高いと見る歴史家の方々が多いそうです。籠城兵を助けたという美談は、のちの備中高松城の戦いと混同されて伝わった話かもしれません。どうもこの頃の織田軍は、戦後処理の大量虐殺がお好きなようで、後味の悪い結末が目立ちますね。

 後味が悪いといえば、官兵衛のかつての主君・小寺政職。三木城が落城すると、たちまち御着城を捨てて逃亡します。自分が陥れた官兵衛が生きて戻ってきたことも、政職にとっては恐怖だったでしょうね。「なんで殺さなかったんだ!村重!」と思ったに違いありません。官兵衛が生きて戻ってきたからには、追っ付け「自分を討ちにくるに違いない」・・・おそらくそう考えた政職は、西へ西へと流浪し、毛利領の備後国鞆の浦へ落ち延びたといいます。先述した別所長治が、若干23歳ながら自らの死と引き換えに家臣の助命を嘆願したことを思えば、なんとも情けない最後ですね。小寺政職という人は、身分の低かった黒田職隆・官兵衛親子の能力を見出して引き上げるなど、決してドラマで描かれているようなどうしようもない暗君ではなかったと思いますが、官兵衛を陥れたことと、人生最後の往生際の悪さが、後世に評価が低い所以でしょうね。

 結局、毛利領に亡命して数年で政職はこの世を去りますが、その子・小寺氏職(ドラマではいつきという幼名)は、のちに官兵衛によって客分として迎え入れられ、さらにその子たちは、福岡藩士として代々黒田家に仕えます。あまりにも寛大すぎる官兵衛ですが、寛大な処遇を受けた政職の子孫たちは、決して居心地はよくなかったでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-06-17 23:16 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第19話「非情の罠」 ~小寺政職の陰謀~

 黒田官兵衛荒木村重の謀反に際して伊丹・有岡城幽閉された話は、あまりにも有名ですね。その後の彼の人生を大きく左右することとなったこの出来事は、官兵衛の前半生のヤマ場とも言えます。おそらく、本作でも複数話にわけて描かれるのでしょうね。

 天正6年(1578)10月、織田信長配下の重臣・荒木村重が、突如、叛旗を翻します。村重の謀反は信長にとって大きな痛手だったようで、信長らしからぬ譲歩案を提示して翻意の説得にあたりますが、交渉は失敗に終わった・・・という話は、前話の稿で述べました(参照:第18話)。弱った信長は、一度は朝廷を通して石山本願寺との和睦を模索したといいますから、信長がいかに村重を引き留めようとしていたかがわかります。信長にとって村重は、それほど信頼を置いていた武将だったのか、あるいは、村重の謀反によって摂津一国を敵に回すことを恐れたのか、いずれにせよ、信長は相当動揺していたようですね。ドラマのとおり、羽柴秀吉明智光秀、あと蜂須賀小六なども説得に送り込みますが、村重の決意は揺るぎませんでした。

 そして、最後に村重の説得に向かったのが、ほかならぬ官兵衛でした。その経緯を詳細に伝えているのが、黒田家の正史『黒田家譜』です。それによれば、そもそもは、官兵衛の主君・小寺政職が、村重に呼応するかたちで信長に叛旗を翻すとのがたち、それを聞きつけた官兵衛が、政職を翻意させるために御着城に向かったことにはじまります。官兵衛は政職を思い止まらせるべく説得にあたりますが、官兵衛の進言を受けた政職が出した答えは、「村重が翻意するならば、自分も思い改める」というものでした。この答えに従って官兵衛は、有岡城に出向いて村重の説得にあたることを決意します。しかし、本話のタイトルどおり、これがだったんですね。

 政職と村重は既につながっていました。政職は有岡城に向かった官兵衛に先回りするかたちで村重に密使を送り、説得に訪れた官兵衛を暗殺するように依頼していたといいます。そうとは知らない官兵衛は、村重とはかねてから昵懇の仲だったこともあり、ほぼ単身で有岡城に入ります。ところが、城に足を踏み入れるやいなや、村重によって捕らえられ、城内の土牢へ投獄されてしまいます。村重は官兵衛と旧知の仲だったせいか、殺しはしませんでしたが、ここから官兵衛の約1年間に及ぶ長い幽閉生活がはじまります。

 というのが、『黒田家譜』が伝える官兵衛幽閉までの経緯です。ほぼドラマのとおりですね。あまりにもドラマチック出来すぎともいえるストーリーですが、村重の謀反と小寺家の叛旗のタイミングといい、このときの官兵衛を取り巻く播磨の情勢から考えても、ない話ではないと思います。すべてが史実だとはいいませんが、遠からずといったところではないでしょうか?

 それにしても、このときの官兵衛の警戒心の薄さは不思議ですね。政職の陰謀に気づかなかったのは仕方がないとしても、殺気立った籠城軍にわずかな手勢で入ったらどうなるか、官兵衛ほどの鋭敏な頭脳の持ち主なら分かりそうなものです。よほど説得工作に成功する自信があったのか、あるいは、村重を侮っていたのか、はたまた、自身の危機管理というものにはまるで無頓着な人物だったのか、この点について、小説『黒田家三代』の著者・池田平太郎氏は、同小説のなかで次のように述べています。
 「官兵衛はこれほどの才人でありながら、いや、才人であるがゆえに・・・・と言うべきか、自らのこととなると、韓非子そのままにまるで物が見えていなかった。(中略)官兵衛という男はまったく奇妙な男である。謀を帷幄の中に巡らし、千里の外に勝利を決するほどの頭脳を持ちながら、この期に及んでもまだ、状況が把握できていなかった。」
 IQが高いからといって賢い生き方ができるとは限らない。権謀術数に長けているからといって、危機管理に厚いとも限らない。人間の頭脳というのは面白いものですね。ただ、結果的に官兵衛は、このKYなミステイクのお陰で、その後の人生が大きく好転していったというのも面白いところです。人生、何がどう転ぶかわからないものです。


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by sakanoueno-kumo | 2014-05-12 22:52 | 軍師官兵衛 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第12話「人質松寿丸」 ~官兵衛、苦渋の決断~

 天正5年(1577年)9月、織田信長は播磨国に羽柴秀吉軍を派兵するにあたって、黒田官兵衛宛に書状を送ります。その内容は、備前国に進発していまだ去就を決めかねている国衆を味方に引き込むこと。そして、織田氏傘下に入ると表明した各領主たちから、人質を差し出させるよう命じたものでした。同盟関係を結ぶ際に人質交換を行うのは当時の武家のならい。とくに厳しい要求というわけではありません。人質であるからには、もし、裏切れば人質の命は保証しないという意味ですが、同盟関係さえうまくいっていれば、人質といっても粗略な扱いを受けることはなく、むしろ、客人のように手厚く保護されます。この場合、織田氏と運命を共にする覚悟さえ出来ていれば、さほど大きな問題ではないわけです。

 ところが、官兵衛の主君・小寺政職は、嫡男の氏職を人質として差し出すことに難色を示します。政職には他にも子どもはいたようですが、そのほとんどが夭折し、このときは氏職だけでした。たったひとりの継嗣を人質に出したくない親心はわからなくもないですが、理由はそんなセンチメンタルなものではなかったようです。その理由は、ドラマのように氏職は生来病弱で、人質としての役目を果たすのは不可能だった・・・というものや、また別の説では、氏職は愚鈍で評判が高く(軽い知的障害があったとも)、もし彼を人質として差し出せば、かえって小寺家に対する心証を悪くするおそれがあると考えたため・・・とも言われます。他にも、政職はすでにこの頃から毛利氏への寝返りを考えていたため・・・という見方もあるようですね。いずれにせよ、このままでは信長に二心ありと疑われかねません。困った末に官兵衛が出した結論は、我が子、松寿丸(のちの黒田長政)を代わりに人質として差し出すというものでした。

 松寿丸はこのとき10歳。氏職と同じく、黒田家にとって松寿丸は一粒種でした。そんな愛息子を人質に出すのは苦渋の決断だったに違いありません。しかも、官兵衛は小寺家の家老に過ぎませんから、織田家との同盟関係を今後も良好に保っていくか否かも、最終的には主君である政職しだいということになります。

光 「謀反を起こせば松永殿のように人質になった子は殺されてしまいます。」
官兵衛 「わしは謀反など起こさぬ。」
光 「違います! 私が案じているのは御着の殿です。あのお方がもし信長様を裏切れば、松寿は殺されてしまいます。」

 まさしく、の台詞どおりですね。政職にしてみれば、自身の腹を痛めていない以上、織田家と毛利家の間で半身の体勢をとれるわけです。裏切ったって、殺されるのは家老の息子ですからね。そんななかで官兵衛が松寿丸を人質に出す決断をしたのは、政職をそれだけ信頼していたのか、あるいは、政職を抑える自信があったのか、いずれにせよ、万策尽きたうえの、やむを得ない選択だったのでしょう。

 ただ、信長がよくそれで許してくれましたよね。
 「お主のせがれを預かって織田に何の得がある?小寺は織田に忠節を誓うつもりはないのだな?それゆえ家老の子を人質に出すのであろう。」
 と言ったのは、信長の嫡男・信忠の台詞ですが、まさしく、そう思われても仕方がないでしょう。あるいは、信長は端から小寺家など眼中になく、官兵衛さえ取り込めればよかったのでしょうか? ただ、結果的には、黒田家はこのおかげで織田家、羽柴家と太いパイプを持つことになったわけで、もし、小寺家から人質が出されていれば、のちに政職が毛利方に寝返ることもなかったかもしれませんし、そうなると、官兵衛のその後の人生も、まったく違ったものだったかもしれません。大河ドラマの主役にもなってなかったかもしれませんね(笑)。そう思えば、あるいはすべて官兵衛が描いた策だった?・・・なんて考えたくなりますね。まあ、それは結果を知っている後世の穿った見方で、このときの官兵衛は、ただただ純粋に主家を守るための、身を切る決断だったに違いありません。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-25 21:57 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第9話「官兵衛試される」 ~小寺政職の人物像~

 織田信長との面会を果たした黒田官兵衛は、さっそく播磨に帰国し、周辺豪族の説得工作を開始。織田氏毛利氏か、今なおどちらの傘下に入るか迷っていた小領主たちを、次々に織田氏方へ引き寄せます。そして、主君である小寺政職をはじめ、龍野城主の赤松広秀、三木城主の別所長治らを揃って信長に謁見させます。官兵衛大活躍ですね。そんな官兵衛を刺激して手のひらで転がしていたのが、羽柴秀吉の名参謀として仕えていた竹中半兵衛だった・・・というのが、今話のストーリーでしたね。(余談ですが、このとき14歳の赤松広秀は、のちに、最近日本のマチュピチュとして観光客が急増している但馬竹田城の、最後の城主となる人物です。)

 前話の稿でも紹介したとおり、小寺氏、赤松氏、別所氏が揃って信長に謁見したという話は、『信長公記』のなかに記されているエピソードで、おそらく史実とみていいでしょう。しかし、それらの播磨豪族たちを説得して束ねたのが官兵衛だったという話は、たぶん後年に作られた話でしょうね。ましてや、それを裏で操っていたのが半兵衛だったという設定は、いうまでもなくドラマのオリジナルです。のちに「両兵衛」と称され、深く関わりを持つことになる二人ですが、この時点ではまだ面識がなかったか、あったとしても、せいぜい秀吉を介して名刺交換した程度の関係だったでしょうね。

 それにしても、ひどく優柔不断で臆病なバカ殿さまに描かれている小寺政職ですが、実際には、どのような人物だったのでしょう。今日は、そんな政職について少しふれてみたいと思います。

 政職の家系である小寺氏は、赤松氏の有力な家臣として鎌倉時代末期から活躍していたとされますが、史料でしっかり確認できるのは、長禄元(1457)年の「長禄の変」からだそうです。「長禄の変」とは、その16年前に起きた「嘉吉の乱」で没落していた赤松氏を、家臣たちの働きで再興させた出来事で、そのとき中心となって活躍したのが、政職の高祖父にあたる小寺性説という人物だったといいます。以後、小寺氏は赤松氏の重要な家臣として仕え、御着城を拠点として地位を保ってきました。しかし、世の中は下克上の時代へと移り、赤松氏の家臣だった浦上氏別所氏明石氏櫛橋氏とともに、小寺氏も徐々に赤松氏の配下から独立の様相を見せるようになります。政職が家長となったのは、そんな時代でした。

 家督を継いだ政職は、御着城を改修して防御を強化するとともに、播磨国内の香山氏真島氏らを制圧。その後も、赤松氏や浦上氏、別所氏らとの小競り合いを繰り返しながら、少しずつ播磨国内での勢力を拡大していきます。内政面でも善政を敷いていたようで、領民からも慕われていたとか。どうも、ドラマで描かれているような暗愚な人物ではなかったようです。何よりも、浪人同様の身分だった黒田職隆、官兵衛父子の能力を認めて引き上げたのは政職で、既成概念にとらわれない人材登用は、織田信長に相通ずるともいえますよね。決して、赤鼻のバカ殿さまではなかったようです。

 たぶん政職の優柔不断で頼りないキャライメージは、最終的に織田方から毛利方に寝返ったという1点のみで作られた人物像でしょう。ちょっと気の毒な気がしないでもないですが、ただ、政職が愚人に描かれているのは今回のドラマだけではなく、司馬遼太郎氏の『播磨灘物語』をはじめ、多くの物語で同じような描かれ方をしてるんですよね。人間やっぱ、人生の着地点を間違えると、こういう評価になるんですね。

 「兵の情は速やかなるを主とす(孫子)・・・戦いは迅速でなくてはなりませぬ。いつまで頼りにならぬ主君に振り回されているおつもりか。貴殿ほどの力がおありなら、いっそ小寺政職など討ち取り、御着の城を乗っ取ってしまう方が楽なのでは?」

 実際に、かつての主君から城を奪ったことのある半兵衛だからいえる台詞ですね。ということは、酒色に溺れて政務を顧みなかった斎藤龍興と、政職は同じレベルの愚かさだということでしょうか? 気の毒というほかありません。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-03 22:58 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第7話「決断のとき」 ~御着評定~

 室町幕府第15代将軍・足利義昭を京から追放した織田信長は、近江国の浅井長政朝倉義景を攻め滅ぼし、さらに、武田信玄亡きあとの武田勝頼軍をも打ち破ります。もはやその勢いはとどまるところを知らず、そしてその矛先は、ついに黒田官兵衛たちの播磨国へと向けられ始めます。信長の掲げた「天下布武」は、着々と形づいてきました。

 かたや、播磨国以西に目を向けると、毛利氏が圧倒的な強さを誇っていました。先君・毛利元就の時代に中国地方をほぼ制圧した毛利氏は、その元就亡きあとも、その孫・毛利輝元吉川元春小早川隆景が補佐する三本の矢体制で、今なお勢力を保ち続けていました。信長がこれ以上勢力を伸ばし続けると、西国の覇者である毛利氏と激突するのは時間の問題。その狭間にいたのが、官兵衛たちの播磨国だったわけです。

 板挟みとなった播磨国の領主たちは、どちらにつくかの決断を迫られます。歴史と伝統のある大企業の毛利氏の配下に入るか、新興ベンチャー企業の織田氏の下請けになるかは、中小企業の播磨国領主たちにとっては、大きな問題だったでしょう。彼らにとっては死活問題ですからね。判断を間違えれば、役員従業員共々露頭に迷うことになります。そう考えれば、新興企業よりも歴史ある老舗企業を選びたくなる気持ちはうなずけますよね。播磨国には、かねてより毛利氏とつながりの深い領主が多く、官兵衛たち小寺家の近隣の領主たちは挙って毛利氏支持を表明していました。小寺家内でも、毛利氏支持の声が多かったようです。ところが、官兵衛の意見は違ったわけですね。

 このときのことについて、『黒田家譜』には次のように記されています。あるとき、小寺政職は家臣たちを御着城に集め、今後誰が天下をとると思うかを問いました。そのとき、すかさず回答したのが、ほかならぬ官兵衛だったといいます。官兵衛は天下の情勢を具体的に説明し、織田信長と毛利輝元の二人を客観的に分析したうえで、天下をとるのは信長だと説きます。毛利は大国なれど、元就亡き後の輝元にその器量はなし・・・と。まさしくドラマにあったとおりですね。

 ただ、ドラマでは、織田氏につくべしと説いた官兵衛ひとりが小寺家中で先見の明があり、毛利氏を推す保守層は愚鈍であるかのように描かれていましたが、それは歴史の答えを知っている後世の私たちの目線ですね。当時に生きる彼らの立場で考えれば、名門の毛利氏を選ぶほうが無難な選択で、官兵衛の意見はかなり大博打だったといえます。にも関わらず、官兵衛の意見を採り入れて織田氏に与する道を選んだことを見れば、この時期、すでに小寺家のなかでの官兵衛の発言力が、たいへん大きなものとなっていたことがわかります。ただ、それでも、このとき政職のなかでは一抹の不安があったのでしょうね。最後まで官兵衛を信じきれなかったことが、のちに小寺家を滅びの道へと進ませてしまうことになります。
 
 「国を用(おさ)むる者は義立てば而(すなわ)ち王たり」

 官兵衛が政職を説得するために引用した荀子の言葉ですね。大義を掲げて国を治める者こそが王である、ということでしょうか。官兵衛が引用したのはここまでですが、荀子の言葉は、さらにこのあと次のようにつづきます。

 「信立てば而ち覇たり、権謀立てば而ち亡ぶ」

 王たるもの、信頼を得れば覇者となり、人をあざむけばやがて滅ぶだろう・・・ですかね。政職には、こっちの言葉を教えてあげるべきだったでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-02-19 22:21 | 軍師官兵衛 | Comments(2)