タグ:小山田高家 ( 2 ) タグの人気記事

 

太平記を歩く。 その99 「処女塚古墳」 神戸市東灘区

神戸市東灘区御影町にある「処女塚古墳」にやってきました。

「処女塚」と書いて「おとめづか」と読みます。

前稿で紹介した「生田の森の戦い」から敗走した新田義貞軍が、追撃してきた足利軍に追いつかれたのが、ここ処女塚古墳だったと伝わります。


e0158128_20514956.jpg

義貞は味方の軍勢を落ち延びさせるため一人踏ん張りますが、義貞の乗る馬が敵の矢に射られて倒れてしまいます。

『太平記』巻16「新田殿湊河合戦事」では、このときの様子を「義貞の乗られたりける馬に矢七筋まで立ける間、小膝を折て倒けり」と伝えています。


e0158128_20515656.jpg

身動きの取れなくなった義貞は、処女塚の墳丘に駆け上り、敵の激しい攻撃を受けました。

足利軍の矢が雨のように降るなか、義貞の気迫もすさまじいもので、「鬼切・鬼丸とて多田満仲より伝たる源氏重代の太刀を二振帯れたりけるを、左右の手に抜き持て」と、二刀流を使って敵に立ち向ったと『太平記』は伝えます。


e0158128_20520063.jpg

この義貞の窮状をはるか遠くから眺めて気づいた新田方の小山田太郎高家が、これまで義貞から受けた恩義を感じ、すぐさま処女塚の上に駆け寄り、自分の馬に義貞を乗せ、高家は塚の上にとどまって、義貞を東へ逃れさせました。

義貞に代わって足利軍の攻撃に立ち向かった高家でしたが、味方の敗色は濃く、ついに墳丘の上で討死しました。

しかし、高家のおかげで、義貞は何とか京へ落ち延びることができました。


e0158128_20520530.jpg

『太平記』が描くこの小山田太郎高家の武勇を称え、処女塚の東脇には高家の碑が建てられています。


e0158128_20521052.jpg

現地説明板によると、この石碑は弘化3年(1846年)に代官の竹垣三左衛門藤原直道が、東明村塚本善左衛門・豊田太平・牧野荘左衛門に命じて建てさせたものだそうです。


e0158128_20553034.jpg

ところで、なぜ高家は、自らの命を犠牲にしてまで義貞を助けたのか・・・。

『太平記』によると、高家が従軍中、兵糧に困り付近の農家の麦を刈り取ったことから、軍法で死刑を宣告されますが、そのとき義貞が、「武将に兵糧の不自由をさせたのは自分の責任だ」と、麦の代金を畑の持ち主に支払い、麦を高家に渡しました。

このことから、高家は義貞に大きな恩義を感ずるようになったといいます。

実話かどうかは定かではありませんが、高家を庇った義貞も、そして義貞を守った高家も、どちらも武士の鏡といえるでしょうか。


処女塚古墳については、以前の稿「神戸の古墳めぐり その4」でも紹介していますので、

よければ一読ください。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-08-05 22:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~

神戸市東灘区御影町に、処女塚(おとめづか)古墳という全長約70m前方後方墳があるのですが、その処女塚を中心に東西約2kmの位置に、東求女塚西求女塚と呼ばれる古墳があります。

e0158128_19170731.jpg

その名称から連想されるように、この3つの古墳には、男女の三角関係の悲恋話が古くから伝わります。

e0158128_19272409.jpg

太古の昔、現在の神戸市東部から芦屋市にかけて、大阪湾沿岸の湿地に茂る芦を屋根にふいて葦屋(あしのや)と呼ばれていたそうですが、伝承によれば、その葦屋に菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、多くの若者が思いを寄せていたといいます。

なかでも、同じ里に住む菟原壮士(うないおとこ)と、和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の男が彼女を深く愛し、激しく争うことになりました。

これに心を傷めた処女は身を処しかね、嘆きつつ自ら命を絶ってしまいます。

処女の死を知った壮士たちは深く悲しみ、二人とも後を追いました。

親族たちは、このことを長く語り継ごうと、処女の墓を中央に、壮士たちの墓を両側に作ったと伝えられます。

e0158128_19273836.jpg

この『菟原処女の伝説』は、古くは『万葉集』にも歌が残されており、奈良時代から語り継がれてきたそうです。

しかし、発掘調査によると、実際には築造時期がそれぞれ異なっているそうで、事実とは考えられないようですね。

e0158128_19281993.jpg

処女塚古墳には、もうひとつの伝承があります。

建武3年(1336年)に起きた「湊川の戦い」で、敗れた新田義貞が敗走の途中この地に立ち寄り、処女塚に登って敵を防いだといいます。

このとき義貞に従っていた小山田高家という武将は、自身の馬に義貞を乗せて逃し、身代わりとなって討死したと伝わります。

e0158128_19304853.jpg

処女塚古墳の片隅には、弘化3年(1846年)に建てられたと伝わる小山田高家の石碑があります。

e0158128_19334238.jpg

上の写真は、東求女塚古墳

『菟原処女の伝説』で言うところの茅渟壮士の墓です。

e0158128_19343555.jpg

現在は公園になっていて、塚の原型は留めず石碑だけが建てられています。

e0158128_19373956.jpg

そして、こちらは西求女塚古墳

『菟原処女の伝説』で言うところの菟原壮士の墓です。

e0158128_19394575.jpg

こちらも公園となっているのですが、こっちの方は、全長約95m前方後方墳の形が復元されています。

発掘調査によると、卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡をはじめ、たくさんの埋葬品が出土したそうで、ヤマト朝廷と深く関わりを持った豪族の墓と考えられているそうです。

築造時期は3世紀後半で、神戸市内では最も古い古墳だそうです。

e0158128_19512456.jpg
(『摂津名所図会』より。生田川に浮かぶ水鳥を射んとする2人の男と見守る菟原処女)

いまは、ビルなどの建物に隠れてそれぞれの古墳は見渡せませんが、当時は、きっと処女塚を中心に東西に古墳が見渡せて、こんな伝承が生まれたのでしょう。



神戸の古墳めぐり その1 ~五色塚古墳と小壺古墳~
神戸の古墳めぐり その2 ~吉田王塚古墳~
神戸の古墳めぐり その3 ~狩口台きつね塚古墳~
神戸の古墳めぐり その5 ~大歳山遺跡公園・舞子古墳群~

ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
     ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


[PR]

by sakanoueno-kumo | 2016-04-06 21:45 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)