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おんな城主 直虎 第33話「嫌われ政次の一生」 ~小野但馬守政次の最期~

 すごいものを見てしまった・・・というのが今の率直な感想です。今話に限っては、ここでわたしごときが何を語っても安っぽくなるだけで、正直、あまり起稿意欲がわきません。まさに、筆舌に尽くしがたいとはこのことですね。長年大河ドラマを観てきましたが、昔は壮絶な最期惨い処刑シーンは結構あったものの、これほどの衝撃を受けたのははじめてかもしれません。


 『井伊家伝記』にみる小野但馬守政次は、謀略によって井伊直親を死に追いやり、井伊直虎の発布した徳政令に乗じて井伊領を乗っ取った奸臣として伝わります。その最期は、徳川家康の派遣した井伊谷三人衆によって捕らえられ、家康の命によって処刑されます。その罪状は、直親を讒言によって死に追いやったこと、井伊家を乗っ取り、虎松(のちの井伊直政)を亡き者にしようとしたことでした。この通説でいえば、当然、直虎も政次の処刑を望んでいたはずです。


 ところが、今年の大河の基軸は、おとわ、亀之丞、鶴丸の幼馴染3人の友情、愛情物語。政次は直虎を生涯思い続け、直虎も政次を頼り続けます。だから、政次の最期をどう描くのか、政次の処刑を直虎にどう受け止めさせるのか、ここが最も注目の場面でした。ここの描き方次第で、本作は名作にも駄作にもなり得る、と。



 いろいろ考えました。泣き叫びすがる直虎に見送られて死ぬのは、政次の望むところではないだろう・・・これは、大方の視聴者の方々もわかっていたんじゃないでしょうか。ならば、捨て石となるため最期にまた直虎を謀り、あえて憎まれて死んでいくのではないか・・・わたしが想像できたのは、所詮ここまででした。まさか、その意を汲んだ直虎に手を下させようとは・・・。度肝をぬかれました。
 

 「忌み嫌われ井伊の仇となる。恐らく私はこのために生まれてきたのだ。」


 奸臣の汚名を着てでも直虎を守ることが小野の本懐ならば、その本懐を直虎自らの手で遂げさせてやる。壮絶な愛情表現ですね。左胸を突いたのは、苦しむ時間を少しでも短くしてやろうという直虎の情けだったのでしょうか? 通説では、政次には妻子があり、このとき、二人の息子も共に処刑されたと伝えられます。しかし、ドラマの政次は生涯独身でした。それは、直虎を思い続ける政次に妻子は不要、ということもあったのでしょうが、この政次処刑のシーンのためでもあったのかもしれません。だって、直虎に二人の息子まで処刑させるわけにはいかなかったでしょうから。


 「地獄へは俺が行く」


 第31話で政次が言った台詞ですが、直虎は政次をひとりで地獄へ行かせなかったんですね。あとから行くから地獄で待ってろ、と。誰かが言っていましたが、まさに究極のラブシーンです。


 前話の稿でも述べましたが、通説となっている小野政次奸臣説を伝えるのは、江戸時代中期に書かれた『井伊家伝記』のみです。いつの時代でもそうですが、歴史とは、勝者が勝者の都合によって作るもので、歴史に客観的な正史など存在しない。そんな当たり前のことを、あらためて教えてくれた本作だったような気がします。


白黒をつけむと君をひとり待つ 天つたふ日そ楽しからすや 政次


もちろん、小野但馬守政次の辞世は伝わっておらず、ドラマのオリジナルです。でも、見事な辞世ですね。この「嫌われ政次」という人物像を作り上げてくれたすべての関係者の方々に感謝します。


https://youtu.be/v9IdRtzkGQQ

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by sakanoueno-kumo | 2017-08-21 21:55 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第32話「復活の火」 ~井伊谷三人衆と小野但馬守政次~

 永禄11年(1568年)12月6日、甲斐国の武田信玄は甲府を出発して駿河への侵攻を開始します。対する今川氏真は、12月12日、武田軍を迎撃するため重臣の庵原忠胤に1万5千の軍勢を与えて、薩埵峠へ向かわせました。しかし、ここで今川は有力な国衆21人の裏切りにあい、12月13日、今川軍は潰走し、駿府は武田軍に占領されます。今川氏滅亡劇が始まりました。


 一方、三河国の徳川家康も、信玄に呼応するかたちで動き始めます。『三河物語』によると、信玄と家康は事前に示し合わせ、大井川をはさんで駿河国武田領遠江国徳川領にする密約を交わしていたといわれます。三河国から遠江国に侵攻するには、その国境に位置する井伊谷は重要な拠点となります。その徳川に取り入って井伊家の再興を図るというのが、ドラマでの井伊直虎小野但馬守政次の狙いでした。


 『改正三河後風土記』によると、遠江を攻略すべく岡崎城を発った家康は、まず、井伊谷城を攻めようと三河野田城主の菅沼定盈とその家臣・今泉延伝案内役を命じます。その定盈は家康に対し、「井伊谷城は要害の地にある城ゆえ攻めるに難しく、力攻めにすれば空しく月日を費やし、兵を多く失うことになります。そこで、わたしの一族である菅沼忠久や近藤康用、鈴木重時という井伊谷の三人の豪傑に恩を施して味方につけ、戦わずして城を手に入れましょう。」と進言したといい、これを受けた家康は「その申すところ、もっともである。」として、井伊谷近くまで馬を進め、三人に知行の宛行状を渡したと伝えます。このシーンはドラマにもありましたね。


 一方で、『井伊家伝記』によると、家康は菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の三人に井伊谷城を攻めさせ、小野但馬守政次を敗走させたと伝えます。三人の軍勢はよほど強かったようで、政次は満足に戦うことなく逃亡したといいます。ただ、井伊谷城を攻撃したという記述は『井伊家伝記』のみに見られるもので、史実かどうかは定かではありません。何度か紹介してきたとおり、『井伊家伝記』は江戸時代中期に書かれた家伝で、その信憑性については疑問符が打たれる史料なので(・・・ただ、それを言ってしまうと、井伊直虎=次郎法師というのも、この『井伊家伝記』に基づく説なんですが)。


 『井伊家伝記』の記述を信用すれば、井伊家を横領して我が物にしようとした奸臣・小野但馬守政次が悪者で、その政次を捉えて処刑に追いやった近藤康用こそが、井伊家を救った恩人ということになります。ところが、ドラマではまったく逆の設定。政次こそが井伊家のために命を張った忠臣で、近藤はこれまでの遺恨(材木泥棒の話)などから井伊家を快く思っておらず、この機に乗じて井伊谷を乗っ取ろうとする悪役に描かれていました。その真偽はどうなのか・・・。先述したとおり、『井伊家伝記』は徳川を批判することが許されない江戸時代中期に書かれたもので、歴史家のあいだでは、小野を悪役に仕立てることで、徳川、井伊谷三人衆、井伊の大義名分を確保した可能性が指摘されている史料です。そう考えれば、ドラマのような解釈はまったく否定できませんよね。実際、『井伊家伝記』の記述にみる井伊谷城横領後の政次の行動は、あまりにもお粗末すぎて不自然です。案外、ドラマのような物語があったのかもしれません。


「にわかには信じられぬであろうが、井伊と小野はふたつでひとつであった。井伊を抑えるために小野があり、小野を犬にするため井伊がなくてはならなかった。ゆえに憎み合わねばならなかった。そして生き延びるほかなかったのだ。」


 それが、大国・今川氏の傘下で小国が生きていくための手段だった・・・と。かつて「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」と語った政次の亡き父・小野和泉守政直の言葉は、こういうことだったんですね。しかし、それも今日で終わりだ・・・と。ここから、新しい井伊家が始まるんだ・・・と。


 しかし、その新しい井伊家に小野は参加できません。政次という人物の見方は、いくらでも角度を変えて解釈できるでしょうが、歴史上起こった出来事までは変えることはできません。次回、その悲痛な結末が描かれます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-14 16:13 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第31話「虎松の首」 ~小野但馬守の井伊谷城乗っ取り~

 永禄11年(1568年)11月19日、井伊直虎は2年間はねつけていた徳政令をとうとう布告しました。これは、単に徳政令の発動ということだけではなく、直虎の政治的敗北を意味していました。駿府の今川氏真はこれを機に直虎を地頭職から罷免し、井伊谷の統治権を奪います。そして、その代わりに城代となったのが、小野但馬守政次でした。このため、一般にこの事実は、政次の井伊谷城乗っ取りと解釈されています。


 ところが、ドラマでは全く違う設定で、政次は誰よりも井伊家のことを考え、直虎を守るために自らを犠牲にする人物として描かれています。自身が裏切り者を演じることによって今川から井伊谷を任され、井伊家のとなる腹積もりなのでしょう。既に今川から疑念を持たれている政次でしたが、百姓の座り込み騒ぎをとっさに利用して関口氏経に取り入り、信頼を得ることに成功。この政次の機転をアイコンタクトで理解して乗っかる直虎。ふたりのコンビネーションは、もはや主と家老の域を超えています。


 『井伊家伝記』によると、今川氏真は政次を井伊谷城の城代に据える条件として、来る武田氏との戦に備えて軍勢を出すこと、そのうえ、井伊虎松(のちの井伊直政殺害するよう命じたといいます。これを事前に察知してか、直虎は虎松を龍潭寺松岳院に逃し、南渓瑞聞和尚の協力を得て三河国の鳳来寺に逃しました。鳳来寺は徳川氏の領内なので、今川の手が及ぶことはありません。そして直虎は実母の祐椿尼とともに松岳院に残り、徳川軍の救援を待つことになります。


 この徳政令をめぐる一連の出来事は、直虎が関口氏経と連署で蜂前神社に奉じた文書と、今川家から瀬戸方久に送られた赦免状以外、実はほとんど何もわかっていません。政次の専横を伝える『井伊家伝記』は後世に記された家伝で、多分に井伊家に都合よく書かれた創作も多く、一次史料としては扱われていません。つまり、2年間はねつけていた徳政令を発布すると同時に井伊家は井伊谷を追われ、政次が代官として井伊谷に入ったということは事実としても、それが乗っ取りだったという確証はどこにもないんですね。だから、今回のドラマのような解釈があってもいいんじゃないかと。ただ、となれば、この先の政次処刑まで物語をどう持っていくかが見ものですが。


 「すべてを含めて、だまされておられるということはございませぬか?」


 この中野直之の台詞が鍵となってくるのでしょうか?


 それにしても、虎松の首あらためのシーンは引き込まれましたね。「虎松君は疱瘡を患っておいででしたので」という台詞で首が虎松のものではないということを伝え、それを聞いた直虎が、涙ながらに首を抱えてを上げる。あの涙は関口の目を欺くための演技ではなく、身代わりとなった名も無き少年に対する哀悼の悲嘆だったのでしょう。そして、井伊家のために政次にここまでさせてしまったという心痛もあったかもしれません。さすがの政次も、この局面を無血では収められませんでした。身代わりとなって死んだ子は助からない病に罹って親に売られた子で、その子にとっても、あとは死ぬだけなのに銭を親に与えられてよかったんだ・・・という龍雲丸の言葉は、本当の話なのか、それとも直虎を慰めるための作り話だったのか・・・。


 「案ずるな。地獄へは俺がゆく」


 おとわを思う政次の心が、あまりにも悲痛です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-07 15:04 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第30話「潰されざる者」 百尺竿頭進一歩、大死一番絶後再蘇

 駿府の今川氏真に呼び出されて、気賀に新しいを作ることを認める代わりに、井伊家を取り潰す手助けをするよう求められた瀬戸方久。三河の徳川家康との戦いに備え、その間に位置する井伊谷を今川の直轄領にしたいというのがその狙いで、具体的には、2年間据え置きになっていた井伊谷に対する徳政令を発布し、井伊家の領国経営を立ち行かなくしてしまおうという筋書きです。その対価として、方久の所有する土地、財産に関しては安堵する・・・と。


 これらはすべてフィクションですが、荒唐無稽な創作ではなく、史実、通説を上手く利用した上手い設定でした。方久が井伊家潰しに加担したという話は創作ですが、氏真から方久が徳政令発布後の安堵状を得ていたのは史実で、堀川城の根小屋に方久が蔵を設けたのも本当です。ただ、歴史家・楠戸義昭氏の著書によれば、方久が安堵状を得たことは方久を支援してきた井伊直虎にとっても望むところで、また、堀川城の蔵は、氏真が方久に命じて作らせたとしています。史実はひとつでも、見方を変えればぜんぜん違う解釈に描けるんですね。


 氏真の命を受けた関口氏経が井伊家を訪れて徳政令を行うよう下知していましたが、これは史実に沿った設定で、このあと、直虎は氏経と連盟で徳政令を布告することになります。百姓たちが氏経の元に押しかけて座り込みをしたという記録はありません(笑)。


 で、小野但馬守政次ですが、いよいよ直虎との関係が大きな山場を迎えそうです。少しネタバレになりますが、通説では、政次はこの徳政令発布から氏真と家康、そして武田信玄らの戦いの混乱に乗じて井伊谷を乗っ取るものの、すぐさま徳川軍によって奪還され、その後、処刑されます。しかし、この物語での政次は、今川の犬の仮面をかぶった直虎の。どう物語を展開していくのか興味深かったですが、どうやら、その方向性が見えてきたようです。


 百尺竿頭に一歩を進む

 大死一番絶後に再び蘇る


 久々に禅語が出ましたね。たとえ頂点に達していても、決して現状に満足することなく、次なる一歩を見出さなければならない。死んだつもりになって挑めば、たとえ失敗しても、必ず再び挽回できる・・・といったところでしょうか?


あえて井伊を潰して今川に領地を差し出し、その後、徳川の協力を得て取り戻す。まさしく、「大死一番絶後に再び蘇る」ですね。直虎がこの時点でそこまでの計算をしたかどうかはわかりませんが、歴史はまさにその道をたどります。ただ、その生贄になるのが、政次なんですね。


 政次「俺を信じろ。信じろ、おとわ。」


 但馬ロスが近づいています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-31 19:30 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第19話「罪と罰」 ~地頭職の司法権~

 今話もまた、おんな地頭職となった井伊直虎国づくりのお話。今川家との外交政策、綿花栽培に着手した経済政策、領民の教育政策、そして種子島(火縄銃)の導入によ軍事政策と、稚拙ながらも試行錯誤しながら領主として成長していく直虎の国づくりを描いてきたここ数話ですが、今話のタイトルは「罪と罰」盗人として捕らえた罪人をどう裁くかという話で、つまり司法政策の回でした。


 盗人は死罪という慣例に従って、罪人・龍雲丸打ち首にすべしと主張する中野直之小野但馬守政次に対して、龍雲丸にはがあるから、死罪は免じてほしいと願う直虎。


政次「知らぬ者なら打ち首、知っておる者ならば見逃すと、そう仰せか?」

政次「あの男を見逃せば、井伊は盗人を打ち首にせぬところと噂が立ちましょう。さすれば次から次へと賊が入ってきましょう。そのうち民は襲われ、さらわれる者も出るやもしれませぬ。」


 まったくもって、政次のいうとおりです。司法、行政、立法の三権において、司法ほど情に左右されてはならない機関はありません。もちろん、三権分立が成されていない時代の話ですから、領主は知事警視総監最高裁判所長官を兼ねているような存在で、現在のアメリカ大統領より権限を持っていたといえ、領主の決断ひとつで判決などどうにでもなったでしょうが、一方で、「武士は二君にまみえず」といった江戸時代の主従関係とは違い、この時代の主従関係は利害関係で成立していましたから、主君は常に家臣たちから力量・器量を試されていました。だから、領主はいかにして家臣たちの心をつかむかを腐心する必要があり、とくに司法においては、すこぶる公明正大でなければならなかったでしょう。自分に捜査が及びそうだからといって、FBI長官を罷免したりしたら、たちまち家臣たちから愛想を尽かされ、辞任に追いやられるでしょうね。司法は常に政治の外に存在しなければなりません。


直虎「戦わぬのが最上!そう、われに教えてくれたではないか! 太刀を交えて殺し合うのではなく、その前に敵に屈させるが最上。さすれば兵も銭も最も失することがない。裏を返せば、命をやり取りしてしか物事を決められぬというのは、決して上等でないということじゃ! 偉そうに説教を垂れたそなたが、なぜちっぽけな盗人一人の命を取ろうとする。」


いやいや、そういうことじゃないんですよ、直虎さん。司法とヒューマニズムごっちゃにしてはいけません。現代でも、凶悪犯罪の判決に対して死刑廃止論をもって語る的外れな評論家がいますが、あれと同じです。いのちの尊厳は否定しませんが、死罪そのものを無くしたいという話は、司法府ではなく立法府の管轄です。現行の刑法極刑死刑ならば、司法はその刑法に則って裁かなければなりません。命のやり取りが外道だというのであれば、まず法を変えないと、直虎さん。まったくもって、頓珍漢にもほどがあります。


 これまで、沈着冷静な政次の意見に対して、稚拙ながらも熱意赤誠をもって凌いできた直虎ですが、今回ばかりは身勝手な主張としか思えず、どう決着をつけるのかと思って観ていましたが、龍雲丸の逃亡という曖昧なかたちで終わらせました。まあ、今回は直虎を勝たせるわけにはいかなかったでしょうからね。かといって、これから物語に関わってくるであろう龍雲丸を死なせるわけにもいかない。まあ、無難な着地点だといえるでしょうか? 今回は、司法が情に左右されてはいけないという直虎のお勉強の回だったのでしょうか? であれば、これが、のちの政次に対する処断に繋がっていくのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-15 15:33 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(4)  

おんな城主 直虎 第14話「徳政令の行方」 ~徳政令と逃散~

 今話はそのタイトルどおり、「徳政令」のお話。前話の稿でも述べましたが、「徳政令」とは、債権者・金融業者に対して債権放棄を命じる法令で、簡単にいうと「借金帳消し」の制度です。その始まりは鎌倉時代の元寇の折、御家人の窮状を救うために永仁5年(1297年)に発令された「永仁の徳政令」からとされています。その後、室町時代から戦国時代にかけて、土一揆などの鎮静にたびたび徳政令を発布しています。


 徳政令の対象はその時々によって様々でしたが、井伊直虎のときの井伊谷における徳政は、度重なる戦で疲弊した農民が対象でした。戦によって田畑が荒らされ、凶作が続いた農民たちは、寺や商人たちから借金をして食いつないでいましが、今度はその借金の返済に苦しみ、生活が立ち行かなくなっていました。そんな農民たちを救うには、徳政令を施行して借金をチャラにしてあげることが最良ですが、そうすると、今度は貸した側が被害を受けます。場合によっては貸主が破産することも想定され、債権者にしてみれば、これほど理不尽な制度はないわけです。


 実はこのとき、井伊家は度重なる出陣策謀の被害などから、人的損傷もさることながら、経済的にも大いに疲弊していました。そのため、「銭主」と呼ばれる豪商から多額の借金をして、なんとか領主の対面を保っていました。じゃあ、徳政令を発布すれば井伊家も借金返済を免れていいじゃないか・・・というのは短慮で、徳政令によって銭主が破産すると、井伊家はこののちお金を借りることができなくなり、井伊家の財政が立ち行かなくなります。だから、直虎としては、農民より銭主を守らなければならない事情があったわけです。


 徳政を願い出る場合、本来は在地領主の井伊家に訴え出るのが筋でしたが、このとき、百姓たちは井伊家を飛び越えて駿府の今川氏真に訴えました。これを手引したのが、本来は直虎をサポートすべき立場にあった小野但馬守政次でした。理由はわかりませんが、徳政令を利用して直虎の失脚を図り、井伊家を乗っ取ろうとしていたと考えられます。政次は蜂前神社の神職・祝田禰宜と結託して、氏真から徳政令を出させます。


 祝田禰宜は祝田の市場の特権井伊直盛のときに安堵されており、神職でありながら商人でもあって、井伊谷の経済の中核にいた人物でした。ところが、この頃、瀬戸方久をはじめとする新興勢力が現れ、商人としての祝田禰宜は圧迫を受けはじめていました。祝田禰宜にとっては、この徳政令を道具にして方久ら新興勢力にダメージを与えようとの狙いがあったんですね。


 それぞれの立場のそれぞれの思惑が込められた徳政令でしたが、直虎はこれを握りつぶします。というより、先送りにしたというほうが正しいかもしれません。新興勢力の商人に支えられていた井伊家としては、徳政令を施行するわけにはいかなかったんですね。直虎はできるだけ徳政令の施行を引き伸ばし、その間に、銭主の被害がなるべく少なくすむための対策を講じていきます。直虎が単なる虎松成人までのお飾りではなく、優れた行政能力を持った人物であったことが窺えるエピソードです。


 ドラマ中、「逃散」という言葉が出てきましたね。「逃散」とは、農民が集団で荘園から退去して一時的に他の土地へ逃げ込み、年貢の軽減などを訴える行為で、一揆のように武力に訴えることはないものの、いわばストライキのようなものでした。一応、合法なのでボイコットとは違います。ただ、合法と認められるには、訴えの対象になっていない年貢はちゃんと納めているなど、領民としての義務を果たしている必要があります。合法と認められない場合には、領主が妻子や家、田畑などを差し押さえることができました。いずれにせよ、領民に逃げられてしまっては、年貢が入らずに領国経営が立ち行かなくなります。領主というと、農民の血税の上にあぐらをかいているイメージがありますが、決してそんなことはなく、逃散や一揆などが起こらないようにする統治能力が求められていたんですね。前話のタイトルじゃないですが、まさに「領主はつらいよ」です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-10 18:00 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第11話「さらば愛しき人よ」 ~小野但馬守政次の讒言~

 松平元康(のちの徳川家康)が今川家に反旗を翻したことで、駿府に人質として残っていた瀬名姫(のちの築山殿)、嫡男の竹千代(のちの松平信康)、長女の亀姫は窮地に立たされますが、元康は鵜殿長照の籠る上ノ郷城を攻め落とした際、長照の子の鵜殿氏長・氏次を生け捕りにし、今川家に対して人質交換を求めます。長照の母は亡き今川義元の妹で、寿桂尼から見れば長照は孫、今川氏真から見れば従兄弟にあたります。桶狭間の戦い以降、配下の離反が後を絶たない今川家にとって、一族の命を守るのは是非に及ばず。家康の要求に応じます。見事な人質奪回工作でした。


 無事に救い出された瀬名でしたが、岡崎城に入ることを許されず、岡崎城の外れにある惣持尼寺幽閉同然の生活を強いられることになります。その理由は、元康の生母・於大の方が瀬名のことを嫌っていたからとも言われますが、もともと今川義元の養女という立場での元康との結婚だったわけですから、反今川の立場となった今となっては、持て余していたというのが正しいかもしれません。こののちも、瀬名は元康から死ぬまで冷遇され続けます。


 ドラマでは、元康の見事な人質奪回工作に感銘を受け、元康に興味をいだいた井伊直親でしたが、もともと元康の妻・瀬名の母方の祖父は井伊直平で、直親にとって瀬名は従兄妹にあたるため、その夫である元康に親近感を持つのは当然のことだったと想像できます。そんな背景もあり、今川家衰退著しいなか、直親は次第に松平家に傾倒していったのではないでしょうか。


 元康から鷹狩の誘いを受けた直親は、その招きに応じて元康と対面、親交を深めることになりますが、これが、実は寿桂尼の仕掛けただった・・・というのがドラマの設定でしたね。そうとは知らない小野但馬守政次は、駿府で寿桂尼に事の真相を突きつけられ、やむなく寿桂尼の前にひれ伏すこととなります。この展開、なかなか上手い脚本だったんじゃないでしょうか。


 通説では、今川家の目付けであり、もともと直親と折り合いの悪かった政次が、今川家に松平家との内通讒言したとされています。『井伊家伝記』は伝えます。


 「小野但馬急に駿府へ罷り下り、今川氏真へ讒言申し候は、肥後守直親は家康公、信長両人へ内通、一味同心仕り候。」


 直親は元康と織田信長に内通し、陰謀を企てている・・・と、政次が今川氏真に讒言したというんですね。まさしく、政次の父・小野和泉守政直が直親の父・井伊直満を讒言して死に追いやったときと同じです。


「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」


 まさに、親子二代の因縁です。


 このドラマのとなる部分が、直親と政次、そして次郎法師(おとわ)友情物語にありますから、この設定はうなずけます。結果的に直親を裏切ることになった政次ですが、その裏には、今川家目付けという立場から井伊家を守るための苦渋の決断があった・・・と。ただ、その代償はあまりにも大きいものとなってしまうんですね。その結末は次週。


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by sakanoueno-kumo | 2017-03-22 19:17 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第10話「走れ竜宮小僧」  ~奥山朝利殺害事件~

 桶狭間の戦いが起きた同じ年の暮れ、井伊家一族の奥山因幡守朝利殺害されるという事件が起きます。その加害者は小野但馬守政次でした。ドラマでは、先に刀を抜いたのは朝利の方で、政次はやむなく返り討ちにした正当防衛とされていましたが、実際にはどうだったのでしょう? Wikipediaでは、「小野道好(政次)に暗殺された」とあります。「暗殺」「正当防衛」では、ずいぶん違いますよね。


 龍潭寺古文書によると、「永禄三年十二月二十二日、奥山朝利、小野但馬により傷害される」と記されているのみで、詳細はわかりません。奥山家は井伊家の分家で、朝利は一族の実力者でした。その妹は新野左馬助親矩の妻で、朝利の8人の娘のうち、長女は井伊直親と結婚し、次女は、同じく井伊分家の中野越後守直由の妻となり、五女はのちに井伊家三人衆のひとりとなる鈴木三郎大夫重時の妻、そして、実は三女は、小野但馬守政次の弟、小野玄蕃朝直に嫁いでいました。つまり、朝利は政次から見れば、弟の舅ということになるわけです。


 そんな親戚関係にありながら、政次はなぜ凶行に及んだのか・・・。歴史家・楠戸義昭氏の著書によれば、井伊家分家の最大の実力者が奥山氏で、その当主・朝利が一族内の婚姻関係によってさらに権力を掌握し、桶狭間の戦いで討死した宗家の井伊直盛に代わって、井伊家を支配しつつあったとし、それを恐れた政次が、駿府の今川氏真に何らかの讒言をし、氏真了解のもとに殺害したため、周囲は手が出せなかったのではないか・・・と、推察しています。かつて政次の父・小野和泉守政直は、井伊直満の息子・亀之丞(のちの井伊直親)と次郎法師(ドラマではおとわ)が結婚することで、直満が大きな権力を握ることを恐れて殺害しました。今度も同じ動機だったのではないかと・・・。あくまでも、井伊家の補佐役の筆頭小野家でなければならないということですね。


 「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」


 第5話で死に際の政直が息子の政次に言った台詞ですが、ドラマでは、まだその兆候は見られません。でも、あるいは、この奥山朝利殺害事件が、父と同じ道をたどりはじめたキッカケだったのかもしれませんね。ドラマでも、そんな風に描いてほしかったなぁ・・・。


 桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことで、今川軍が放棄した岡崎城に帰還した松平元康(のちの徳川家康)は、今川を見限って織田信長に急接近します。そして永禄4年(1561年)、三河の牛久保城を攻撃したことで、反今川の姿勢を明確にしました。しかし、そうなると、窮地に陥ったのが今川の人質となっていた、瀬名姫(築山殿)でした。ドラマでは、その命乞いにのために次郎法師が寿桂尼のもとを訪れていましたが、もちろん、ドラマの創作です。そこへ、元康が上ノ郷城を落とし、その城主で寿桂尼の孫にあたる鵜殿長照が自害したとの報せが届き、万事休す。瀬名の処刑が確定します。さてさて、このピンチをどう切り抜けるのか・・・。続きは次回ということで。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-13 20:25 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第7話「検地がやってきた」 ~隠田・忍田・隠地・隠没田~

 今回は全編創作の回だったので、特にここで補足、解説するネタはありません。もちろん、井伊家が隠し里を持っていたなんて話もドラマでのフィクションです。「隠し里」という言葉はあまり耳なじみがありませんが、「隠田」というのは実際にあったようで、「おんでん」あるいは「かくしだ」と読みます。ほかにも、「忍田(しのびだ)」、「隠地(おんち)」、「隠没田(おんぼつでん)」などといった言葉もあったそうで、これらはすべて同義語。読んで字のごとく、年貢の徴収を免れるために密かに耕作した水田のことです。つまり、脱税行為ですね。


 隠田は重罪で、発覚すれば土地は没収され、追放されたそうです。ただ、隠田はふつう農民が行うことで、今回のドラマのように、領主が隠し里を持っていたという例が、本当にあったのかどうかはわかりません。


井伊直平「ここはもしもの時に井伊の民が逃げ込むところでな。かつて今川に追い込まれたとき、わしらはここに隠れ住み、時を稼ぎ、命脈を保ったのじゃ。ここがなければ、井伊は滅んでおったかもしれぬ。」


ということだそうですが、でも、農民にとっては今川か井伊かに年貢を吸い取られることに変わりはないわけで、「井伊の民」にとっては、あまりメリットはなかったんじゃないかと・・・。


 この隠し里をめぐっての井伊直親小野但馬守政次のかけひきは、なかなか面白かったですね。


直親「川名の隠し里をないことにしてしまいたい」


と、政次に対してストレートにぶつけたあと、小野家の置かれた辛い立場を思いやったうえで、


直親「もし鶴が隠すことに加担したくないと思うなら、この冊子をつけてだしてくれ。もし、ひと肌脱いでくれるというなら、そのまま破り捨ててくれ。俺は鶴の決めたほうに従う。」


と、政次に判断を委ねます。これは、政次にとってはキツイですよね。


政次「あいつめ、俺の了見を見越した上で最後は俺に決めよと言い放ちおった。俺に決めよと。」


 この怒りは当然だと思います。これでは、どちらを選んでも政次自身の責任。直親は汚れないですみます。ずるいですよね。主家である以上、「加担しろ!」と命令すべきでしょう。ここまで聖人君子キャラに思えた直親でしたが、実は、なかなかしたたかな男なのかもしれません。


政次「それがしを信じておられぬなら、おられぬで構いませぬ。されど、信じているふりをされるのは気分がいいものではありませぬ。」


 君を信じてこの仕事を任せる・・・といっておきながら、いざというときに責任逃れする上司みたいなもんですね。現代でもよくある話です。そんなこんなで、直親、政次の間の溝が深まっていくのでしょうか・・・。今後、ふたりの関係はどんな展開を見せるのか、ドラマ前半のいちばんの見どころかもしれません。。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-21 02:06 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第5話「亀之丞帰る」 ~小野和泉守政直の死と井伊直親の帰還~

 信濃国で家臣の今村正實とともに潜伏生活を送っていた亀之丞(のちの井伊直親)が、約10年ぶりに井伊谷に帰ってきます。というのも、父の井伊直満讒言によって死に追いやり、亀之丞自身も逃亡生活を送らざるを得ない境地に追いやった元凶といっていい、小野和泉守政直が死んだからでした。『寛政重修諸家譜』「井伊直親」の項では、このときのことを次のように伝えています。


「伊那郡市田郷の松源寺にありて数年のあひだ、謀をめぐらし、奥山因幡守親朝をたのみ、舊地にかへらむとす。和泉死して後、直盛、直親を領内にまねき、ひたすら駿府に愁訴し、義元も許容ありしかば、弘治元年、ふたたび、井伊谷にかへりて直盛が養子になる。」


 文中に出てくる奥山因幡守親朝は、おそらくその息子・奥山朝利の誤りかと思われます。政直が死んだのち、井伊直盛が駿府の今川義元にひたすら助命嘆願して許された亀之丞は、弘治元年(1555年)、井伊谷に入ったとあります。亀之丞の帰還は、井伊家にとって待望の出来事だったことがわかります。


 政直の没年は詳しくはわかっていませんが、後世に編纂された『小野氏系図』によると、天文23年(1554年)8月27日と記されているそうで、これが正しければ、政直の死から亀之丞の帰還まで数ヶ月以上を要したことになります。その間、直盛は何度も今川家に懇願したのでしょうね。それが出来たのも、政直がこの世を去ったからでした。つまり、亀之丞を潜伏させていたのは、今川家への憚りというより、小野和泉守政直の存在によるものだったことがわかります。家臣の目を気にして主家の継嗣を潜伏させねばならないという、後世の目からみればなんとも不思議な関係ですが、当時の井伊家と小野家の関係は、そんなパワーバランスだったようです。


政直「お前はわしを卑しいと思うておるじゃろう。なりふり構わぬうそつきの裏切り者・・・。己はこうはならぬとわしをずっと蔑んでおるじゃろう。・・・じゃがな、言うておく。お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」

政次「和尚様のお心遣いで、私には次郎法師様や亀之丞様との間に育んだ幼い頃からの絆がございます。井伊の縁戚となりますからには、井伊のお家を第一に考えていきたいと思うております。そのなかでも、小野はさすがに頼りになると言われることこそ、まことの勝利かと存じます。」

政直「お前は、めでたいやつじゃのう・・・。」


 陰謀家の父と誠実な息子の会話。しかし、奇しくも後年、父の予言どおりになっちゃうんですよね。なぜ、そうなるのか・・・。なぜ、父・政直にそれがわかるのか・・・。誠実な政次が、この先どう変わっていくのか・・・。今後の展開が楽しみです。


 約10年ぶりに帰還した亀之丞。ドラマでは、爽やかな笑顔で何の屈託もなくおとわ次郎法師・のちの井伊直虎)に接し、幼い日の約束を忘れずいきなりプロポーズしていた亀之丞ですが、通説では、潜伏先の代官・塩沢氏の娘との間に一男一女をもうけたと伝えられています。まあ、通説であっても史実としての確証があるわけではないのですが、この話、描かないのですかね。女性脚本家さんは、やはりこの手の話はお嫌いなのかな? でも、であれば、おとわが亀之丞のプロポーズを断る理由がなくなるのでは・・・。とにもかくにも、今後の展開に注目しましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-06 17:31 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)