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おんな城主 直虎 第5話「亀之丞帰る」 ~小野和泉守政直の死と井伊直親の帰還~

 信濃国で家臣の今村正實とともに潜伏生活を送っていた亀之丞(のちの井伊直親)が、約10年ぶりに井伊谷に帰ってきます。というのも、父の井伊直満讒言によって死に追いやり、亀之丞自身も逃亡生活を送らざるを得ない境地に追いやった元凶といっていい、小野和泉守政直が死んだからでした。『寛政重修諸家譜』「井伊直親」の項では、このときのことを次のように伝えています。


「伊那郡市田郷の松源寺にありて数年のあひだ、謀をめぐらし、奥山因幡守親朝をたのみ、舊地にかへらむとす。和泉死して後、直盛、直親を領内にまねき、ひたすら駿府に愁訴し、義元も許容ありしかば、弘治元年、ふたたび、井伊谷にかへりて直盛が養子になる。」


 文中に出てくる奥山因幡守親朝は、おそらくその息子・奥山朝利の誤りかと思われます。政直が死んだのち、井伊直盛が駿府の今川義元にひたすら助命嘆願して許された亀之丞は、弘治元年(1555年)、井伊谷に入ったとあります。亀之丞の帰還は、井伊家にとって待望の出来事だったことがわかります。


 政直の没年は詳しくはわかっていませんが、後世に編纂された『小野氏系図』によると、天文23年(1554年)8月27日と記されているそうで、これが正しければ、政直の死から亀之丞の帰還まで数ヶ月以上を要したことになります。その間、直盛は何度も今川家に懇願したのでしょうね。それが出来たのも、政直がこの世を去ったからでした。つまり、亀之丞を潜伏させていたのは、今川家への憚りというより、小野和泉守政直の存在によるものだったことがわかります。家臣の目を気にして主家の継嗣を潜伏させねばならないという、後世の目からみればなんとも不思議な関係ですが、当時の井伊家と小野家の関係は、そんなパワーバランスだったようです。


政直「お前はわしを卑しいと思うておるじゃろう。なりふり構わぬうそつきの裏切り者・・・。己はこうはならぬとわしをずっと蔑んでおるじゃろう。・・・じゃがな、言うておく。お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」

政次「和尚様のお心遣いで、私には次郎法師様や亀之丞様との間に育んだ幼い頃からの絆がございます。井伊の縁戚となりますからには、井伊のお家を第一に考えていきたいと思うております。そのなかでも、小野はさすがに頼りになると言われることこそ、まことの勝利かと存じます。」

政直「お前は、めでたいやつじゃのう・・・。」


 陰謀家の父と誠実な息子の会話。しかし、奇しくも後年、父の予言どおりになっちゃうんですよね。なぜ、そうなるのか・・・。なぜ、父・政直にそれがわかるのか・・・。誠実な政次が、この先どう変わっていくのか・・・。今後の展開が楽しみです。


 約10年ぶりに帰還した亀之丞。ドラマでは、爽やかな笑顔で何の屈託もなくおとわ次郎法師・のちの井伊直虎)に接し、幼い日の約束を忘れずいきなりプロポーズしていた亀之丞ですが、通説では、潜伏先の代官・塩沢氏の娘との間に一男一女をもうけたと伝えられています。まあ、通説であっても史実としての確証があるわけではないのですが、この話、描かないのですかね。女性脚本家さんは、やはりこの手の話はお嫌いなのかな? でも、であれば、おとわが亀之丞のプロポーズを断る理由がなくなるのでは・・・。とにもかくにも、今後の展開に注目しましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-06 17:31 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第2話「崖っぷちの姫」 ~井伊家と家老・小野家~

 井伊直満を陥れて死に追いやった小野和泉守政直は、駿府から井伊谷に帰国すると、次は、直満の息子・亀之丞(のちの井伊直親)の行方を探しました。『井伊家伝記』によると、「直満実子亀之丞を、失い申す可き旨、今川義元より下辞の旨申し候」とあります。つまり、政直は今川義元から亀之丞を殺すよう申しつかっていたわけです。しかし、これを事前に予想していた井伊家では、なんとしても亀之丞だけは殺させまいとして、家老の今村正實に託して逃亡させます。


 『井伊家伝記』によると、正實は亀之丞を叺(かます)に入れて背負い、追手の目をくらませて逃亡。いったんは井伊谷の山中、黒田郷に潜みますが、そこもすぐざま政直の知るところとなったため、やむなくさらに北に逃れて渋川の東光院へと逃げ込みます。東光院の住持・能仲は、龍潭寺の住持・南渓瑞門の弟子でした。南渓は井伊直平の次男で、おとわ(のちの井伊直虎)の父・井伊直盛の叔父にあたり、殺された直満とは兄弟になります。東光院に逃れた正實は能仲を通じて南渓と接触し、この先のことを相談したところ、信濃国松源寺へ逃れるようじ助言されました。こうした僧門ネットワークを使って、亀之丞は追手の目をからくもすり抜けます。


 ドラマでは、直満の謀反を見抜けなかったこと、亀之丞を逃したことに対する今川義元からの下知として、小野和泉守政直を目付けとし、その子・鶴丸(のちの小野政次)と夫婦にせよ、とのことでした。つまり、鶴丸がのちの井伊家の当主となるわけですね。家老が主家を乗っ取るかたちで、小野家にしてみれば、なんとも都合のいい話です。実際にこのような話があったのかはわかりませんが、作家・高殿円さんの小説『剣と紅』でも、同じ設定が採られています。この小説では、もともと政直は自身の息子と直虎を夫婦にして井伊家を乗っ取ろうと企んでおり、そのため、直満を陥れて死に追いやり、亀之丞との婚約を破談にさせるという展開でした。


 それにしても、いくら戦国の世といえども、家臣の身でありながら、なぜ政直はここまで主家を苦しめたのでしょう。歴史家の楠戸義昭氏は、その著書のなかで、井伊家の代々家老を務めてきた小野家は、今川家のスパイであったとみて間違いない、と述べられています。小野氏といえば、古代から八色の姓朝臣に列せられた由緒ある家柄で、遣隋使になった小野妹子『令義解』を編纂した小野篁世界三大美人で名高い歌人・小野小町など、錚々たる顔ぶれが思い出されます。『井伊氏と家老小野一族』によれば、小野和泉守政直は小野篁から数えて21代目だといわれているそうですが、この時代の系図はあてにならないものが多く、事実どうかは定かではありません。小野家は政直の父が井伊直平に取り立てられて以降、代々家老職を世襲する家柄になったといいます。ところが、先述したとおり、小野家は井伊家の様子を逐一内偵して、今川家に報告していた形跡があるようで・・・。むしろ、直平の時代に井伊家が今川家の配下に入ったとき、公認の目付役として小野氏が今川家から送り込まれたのかもしれませんね。井伊家にしてみれば、形式上は家臣でも、実際には腫れ物扱いだったのかもしれません。


 「答えはひとつとは限らぬからの。」


 南渓和尚がおとわに言った台詞ですが、どうやら、この言葉が物語のテーマになりそうですね。既成概念にとらわれない発想が、思いもよらぬ答えを導き出すことがある。それが、「おんな城主・直虎」につながっていくわけですね。物語は始まったばかりです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-16 22:51 | おんな城主 直虎 | Trackback(2) | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第1話「井伊谷の少女」 ~井伊家のルーツと小野和泉守政直の讒言~

 2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』が始まりましたね。今年も1年間よろしくお願いいたします・・・と言いたいところですが、昨年末の「おんな城主直虎 キャスト&プロローグ」の稿でもお話しましたが、わたしは今年の主人公・井伊直虎のことも井伊家の歴史のこともよく知りません。なので、例年よりもゆる~いブログになるかと思いますが、よければ今年もお付き合いください。


 物語は天文13年(1544年)、直虎の少女時代から始まります。といっても、直虎の生年は不明なので、年齢はわかりません。許嫁となった亀之丞(のちの井伊直親)が天文4年(1535年)生まれとされているので、おそらく、同年代だったのではないでしょうか。となれば、ドラマのこの時期は、満9歳前後ということになります。ドラマでは、おとわと名乗っていましたが、実名もわかっていません。つまり、ほとんど謎の人物なんですね。


 直虎の生まれた井伊家のルーツは古く、平安時代にまで遡ります。その伝承によると、寛弘7年(1010年)1月、井伊谷八幡の神主が社頭に参ったとき、御手洗の井戸のなかに生まれたばかりの男の赤ん坊を発見します。その容貌はたいそう美しく、瞳が輝いていたといい、神主はその赤子を養育することにしました。その後、7歳になった赤子は、公家の藤原共資の養子となり、共保と名付けられます。


やがて壮年になった共保は、自身の生誕の地である井伊谷に城をかまえて移り住みました。このとき、家名を藤原から井伊に改めたといいます。この井伊共保を祖とし、井伊家の系図ははじまっています。ドラマでおとわたちが訪れていた井戸がその伝承の地で、「ご初代様」と呼んでいたのが共保のことですね。つまり、井伊家の始祖は井戸から生まれた・・・と。まあ、にわかに信じられる話ではありませんが、それだけ歴史のある家柄ということは間違いありません。


その後、鎌倉時代には井伊谷を支配していたようですが、南北朝時代には南朝方に与したため、北朝方に攻められて井伊城は落城。遠江国の守護となった今川家の配下となります。しかし、戦国期を通して今川家とは微妙な関係だったようで、たびたび摩擦があったようです。直虎が生まれた頃の井伊家は、そんな不遇の時代でした。


 直虎の父・井伊直盛は男子に恵まれなかったため、直盛の叔父にあたる井伊直満の子息・亀之丞を養子に迎え、直虎と結婚させて後継者にしようとしました。ところが、その養子縁組が順調にすすむなか、井伊家筆頭家老の小野和泉守政直が、駿府の今川義元に対して、直満・直義兄弟が謀反を計画していると讒言します。この頃、井伊家では甲斐国の武田家が遠江国への圧力を強めたため、対武田軍に備える軍備を進めていました。これを、謀反の意としたわけです。なぜ、政直は自身の主君を売るような讒言をしたのか定かではありませんが、『寛永諸家系図伝』などの記録によると、もともと政直は直満と関係が悪かったらしく、その直満の子・亀之丞が井伊家の後継者となることを嫌って、直満を陥れたのだと伝わります。


 なんで家臣にそんなことが出来るのか・・・と思ってしまいますが、戦国時代においては家老の力は大きなもので、家の後継者を決めるのも、当主が勝手に決められず、当主を支える家臣の意向を無視できませんでした。同族会社といえども社長が変わるには、重役会議にかけて幹部の賛意を得なければならなかったわけです。となれば、筆頭家老である政直としては、不仲である直満の子息が当主になることに賛成するはずがありません。あるいは、直接反対の意を表したものの受け入れられなかった経緯があったのかもしれませんね。どうしてもこの養子縁組を破談させたいと考えた政直は、直満を陥れる策にでたわけです。


 天文13年(1544年)12月、直満・直義兄弟は駿府に召喚され、同月23日、処刑されました。みごと政直の思惑通りとなったわけですね。家臣の策略によって一族が殺されたわけですから、井伊家当主である直盛としては政直に報復すべきところだったでしょうが、今川家が絡んでいるとなれば、そうもいかなかったわけですね。きっと政直を八つ裂きにしたいほどの怒りだったでしょうが、その怒りをしずめて泣き寝入りするしかなかったわけです。ただ、亀之丞の命だけはなんとしても守りたい。直盛は家老の今村正らに亀之丞を託し、逃亡させます。当然ながら、直虎と亀之丞の婚約は、いったん白紙にせざるを得なくなりました。こうして、直虎の波乱の生涯がはじまります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-01-13 22:42 | おんな城主 直虎 | Trackback(2) | Comments(0)