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龍馬伝 第46話「土佐の大勝負」

 下関でお龍と別れた坂本龍馬は、慶応3年(1867年)9月24日、土佐・浦戸に入港した。2ヵ月前に「英艦イカルス号事件」の談判のため帰国した際は、藩内佐幕派をはばかり上陸することはなかった龍馬だったが、この度は上陸して浦戸沿岸の種崎の民家に潜んだ。ドラマでは、龍馬と後藤象二郎が直々に山内容堂に会い、大政奉還建白書を書くよう説得する内容だったが、通説では既に容堂は大政奉還を土佐藩の藩論とする意向を固めており、9月上旬には建白書を書いて後藤を上京させている。龍馬が土佐入りしたこの時期は既に後藤は京にいて、大政奉還の周旋活動をしていた。

 龍馬が容堂に会ったという事実はもちろんない。龍馬は帰国後すぐに藩参政・渡辺弥久馬、大目付・本山只一郎、同じく大目付・森権利次らと会合し、武力討幕に向け薩長の活動が活発化している緊迫した情勢を伝えた。龍馬の談ずるところを聞いた3人はことごとく感服して引き上げ、彼らの周旋によって事態を悟った土佐藩は、龍馬が持参したライフル銃1000挺を全て買い入れることに合意した。つまり、このとき龍馬が帰国した理由は、大政奉還を藩論として幕府に訴えながらも、それが受け容れっられないときには薩長の推し進める武力討幕に参戦せよ、と説得しにきたのだ。

 私は、しばしば龍馬が“平和主義の象徴”のように描かれることに不満を覚える。先日の拙稿でも述べたが<参照:坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)(後編)>、龍馬は決して平和主義の非戦論者ではなかった。この一月ほど前に長府にいる三吉慎蔵に宛てた手紙の中で、「幕府との開戦のあかつきには、薩、長、土三藩の連合艦隊を編成し、強大な幕府海軍に対抗したい。」と述べており、また、土佐に向かう直前に木戸孝允(桂小五郎)に宛てた手紙でも、「後藤が用兵を躊躇するならば、むしろ後藤を見限って乾退助を動かす。」という旨を述べている。平成の現代の価値観で、「歴史の英雄・坂本龍馬は、常に平和的解決を望む素晴らしい人物だった」といった虚像を描き、視聴者に植え付けるのはいかがなものだろうか。

 思惑どおりに事が運んだ龍馬は、藩役人らのはからいもあって、家族の住む実家を訪ねた。文久2年(1862年)3月に脱藩して以来、約5年半ぶりの帰省だった。そのときの様子を、「維新土佐勤王史」では次のように伝えている。
 「今度こそは我家をも訪ふて、兄姉と一宵の歓を尽さやばと、そのまさに発せんとする前一夕、京侍の戸田雅楽を伴ひて、己が生長せる本丁兄権平の宅を叩きて、姉の乙女とも、絶えて久しき対面に及び、神祭に醸せし土佐の白酒に、うましうましと下打ち鳴らし、主客ともに談笑のうちに語り明かしぬ。」
 龍馬に同行して土佐を訪れていた同志・戸田雅楽を引き連れて、坂本家に帰ったらしい。家族がいかに龍馬の突然の帰省を歓迎していたかが手に取るように伝わってくる。このときの様子を伝える史料として、もうひとつ、龍馬に同行して土佐に入った海援隊士・岡内俊太郎が、佐々木高行に宛てた手紙の中では、
 「さて龍馬、高知へ旅人となりて滞留中、夜中密かに上町の自宅に参り、実兄権平、姉乙女、姪春猪たちと五年ぶりにて面会、旧を語り、戸田雅楽も参り、権平より鍔を貰ひ大いに喜び申候。」
 と記されている。兄・権平から刀の鍔を貰い受けたようで、大そう喜んでいた龍馬の様子を伝えている。黙って家出していった薄情な弟に対するこの歓迎ぶりはどうだろう。末っ子の龍馬が、いかに兄・姉から愛されていたかがうかがえる史料だ。このとき坂本家の人々は、これが龍馬と今生の別れになるとは知る由もなく・・・。

 「答えや!坂本。武士も大名ものうなってしもうた世の中に何が残る。何が残るがじゃ!」
 ドラマ中、大政奉還建白書を書くよう説得する龍馬に対して容堂が言った台詞。
 そして龍馬が答える。
 「日本人です。異国と堂々と渡り合える日本人が、残るがです。」

 この時期の龍馬は、まぎれもなく「日本人」だった。土佐藩士ではなく、「日本人」だったのだ。この時代に生きる人々のいう国は、「藩」だった。あの西郷隆盛ですら、最期まで「薩摩人」から脱却できなかった。木戸孝允もまた然り。そんな志士たちの中で、龍馬ただ独り「日本人」たり得たことが、後世に英雄視される所以だが、それはかなり危険な思想でもあった。平成の現代において、「世界平和のためなら日本一国など無くなってもいい」などと言ったら、これはよほど危険な考えだということがわかるだろう。龍馬のいう「大政奉還」「船中八策」とは、つまりはそういうことなのである。土佐も薩摩も長州も幕府もない、日本という国を作る・・・山内容堂や後藤象二郎が、それをどこまで理解していたかはわからないが、龍馬が「日本人」たり得たことが、彼の寿命を短くした所以だといっても、言いすぎではないだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-19 01:46 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(6)  

龍馬伝 第43話「船中八策」

 「いろは丸事件」の談判のため、坂本龍馬が長崎で足どめされている間に、京では四侯会議が開かれていた。四侯とは、薩摩藩・島津久光、土佐藩・山内容堂、越前藩・松平春嶽、宇和島藩・伊達宗城の賢侯4人である。これは、前年の慶応2年(1866年)に正式に将軍となった徳川慶喜の独裁を許さず、政治のイニシアティブを幕府から雄藩連合に移そうと、西郷隆盛が周旋したものだった。西郷は自分の主君である久光を本心では軽蔑しきっていたし、容堂のことも宗城のことも信用はしていなかったが、それでも彼は、高知へ足をはこび、宇和島へまわり、彼らをおだてて上京を約束させた。それも、「家康の再来」などと言われた慶喜の足をひっぱり、幕権の巻き返しを許さないためだった。容堂を説得するにいたって西郷は、今度こそは中途半端で帰ってもらっては困ると念を押した。「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された容堂。事の成り行き次第では、容堂は途中で逃げ出してしまうのではないかという懸念が西郷には拭いきれなかった。容堂は答えた。「このたびは、東山の土となるつもりぞ。」と。

 しかし結局は、慶喜の巧みな政局操作の前に、4人束になっても敵わなかった。四侯会議の議題は兵庫開港勅許長州処分案。彼ら4人には開港を止められるはずはなかった。そもそも、4人とも開港派だったのだから。それを幕府が行うのことがいけないとは、この時点ではまだ政権を保持していた幕府に対して、筋の通る論ではなかった。しかもまずいことに、四藩とも安政以来、慶喜の「英明さ」をもって将軍にしようと尽力してきた藩だった。4人は慶喜に圧倒された。そして4人の足並みがそろわないうちに、慶喜は兵庫開港勅許を朝廷から取り付けたのである。勅が出てしまえば慶喜の行動は正当化される。四賢侯といわれた4人は、慶喜の政治力の前に完敗した。

 容堂は帰国した。つまり、逃げたのだ。「東山の土となる」とまで言った容堂だったが、彼が京にいたのは半月余りだった。帰国した理由は、虫歯だった。歯茎が膿んで口もきけないという。これは事実だったようだが、しかし実に子供じみた理由だ。容堂が逃げ去った京で、人々はこのうように歌ったという。
 「ゆんべ見たみた四条の橋で 丸に柏の尾が見えた」
 丸に柏の三ツ葉は、山内家の紋だった。

 容堂と入れ違いに、「いろは丸事件」の決着をつけた坂本龍馬後藤象二郎が京に入った。二人を乗せた夕顔丸が長崎を出港したのは慶応3年(1867年)6月9日、兵庫に入港したのが12日、大坂を経て京に入ったのが15日、この船中で龍馬が考案し、後藤に説き聞かせたといわれているのが、大政奉還とその後の政策を示した八カ条の条文、有名な「船中八策」と呼ばれるものである。

 船中八策
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内(うだい)万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟(いやしく)も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。


 この「船中八策」は、その後の「薩土両藩盟約」の主要条項となり、ひいては土佐藩が建白した「大政奉還建白」の基案となり、大政奉還後に龍馬の手で「新政府綱領八策」と更に具体化され、やがては龍馬の死後、明治元年の「五箇条の御誓文」にも引き継がれる、幕末維新史上、もっとも注目すべき文書とされている。

 第一条は朝廷への政権の奉還、第二条は二院制議会の設置、第三条は人材登用と朝廷の内部刷新。「船中八策」とは、実はこの三条項がすべてだといってもいい。第四条から八条までは、開国に向けての規約の立法、法制度の確立、海軍の拡充、親兵の設立、諸外国との不平等条約の改定など、いわば日本国の近代化案で、これらは現徳川政権のままでも可能なことである。第一条から第三条までの三条項が、現政権と現秩序を否定する、いわば龍馬の倒幕論だった。

 ドラマでは、八カ条のひとつひとつが、これまで出会ってきた人たちから学び得てきたものとされていた。私もそうだっただろうと思う。勝海舟松平春嶽横井小楠河田小龍、ドラマには出ていないが、幕臣・大久保一翁から得たものも影響していたに違いない。グラバーからの入れ知恵もあったかもしれない。幕臣、学者、商人と相手を選ばずに学んだ、固定観念にとらわれない龍馬の「やわらか頭」が、この奇跡の条文を作り出したのだろう。私は、一般にイメージされているような、龍馬が平和主義の非戦論者だったとは思っていない。幕府が大政奉還を受け入れないときは、武力討幕も辞さない考えを龍馬も持っていたと私は思っている。ただ、誰もが不可能だと思った「薩長同盟」を成立させたように、ものごとをひとつの角度から見ずに、あらゆる可能性を模索する、つまりは既成の概念に執着しない龍馬の「やわらか頭」が、大政奉還という一見現実味がなさそうな道に向かわせたのだろう。そこが、坂本龍馬の最大の魅力だと私は思う。

 後世の私たちには魅力的に思えるその龍馬の行動は、同時代に生きる者にとっては必ずしも魅力的ではなかった。そのことによって龍馬は多くの敵を作り、孤立していったことは間違いない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-25 01:29 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(8)  

土佐勤王党と山内容堂 (後編)

 土佐藩の政変から京における土佐勤王党の台頭までの流れを、江戸で謹慎中の山内容堂はどんな思いで見ていたのだろうか。彼ら勤王党は、自身が信頼を厚くしていた吉田東洋を殺した憎き集団であり、しかし、「君辱かしめを受る時は臣死す」と容堂に忠誠を誓っている集団でもあった。容堂にとって土佐勤王党は、物語などで描かれるような、不快な存在でしかなかったのだろうか。

 約8年ぶりに謹慎が解かれ藩政に復活した山内容堂は、ちょうど時を同じく京で政変が起き、攘夷派が一掃されたことも相俟って、公然と土佐勤王党弾圧に乗り出した。これより勤王党は一変して衰退の道を辿ることになる。手始めは平井収二郎間崎哲馬弘瀬健太の3名が切腹。そして文久3年(1863年)9月21日、武市半平太が投獄されたことにより、土佐勤王党は壊滅する。結局、彼ら勤王党が活躍したのは、文久2年(1862年)4月8日に吉田東洋が暗殺されてから、わずか1年半足らずの間に過ぎなかった。

 武市半平太の投獄生活は1年8ヶ月にも及んだ。他の軽格党員たちは過酷な拷問を受けたが、半平太は同年1月に白札から留守居組という上士格に昇格していたため拷問は受けなかった。党員たちは厳しい拷問に耐え、吉田東洋暗殺を否認し続けた。中には拷問に屈することを恐れ、服毒自殺した者もいた。結局、東洋暗殺の罪状を立証出来ぬまま、「君主に対する不敬行為」という罪目で半平太は切腹を命ぜられ、慶応元年(1865年)5月11日、「三文字の割腹」の法という壮絶な最後を遂げる。

 ここで少し疑問に思うことがある。それは、武市半平太の投獄から切腹までになぜ1年8ヵ月もの年月を費やしたのかだ。容堂にとって半平太が、嫌悪の対象でしかなかったのであれば、すぐにでも処罰できたはずだ。東洋暗殺の罪を暴くためといっても、結局は立証できず、「君主に対する不敬行為」という曖昧な罪状で切腹に至っている。その気になれば、罪状なんてどうでも良かったはずだ。実際、平井収二郎たち3名は、投獄後間もなく処刑されているし、土佐の独眼竜・清岡道之助と、野根山23士の悲劇。の稿で紹介した清岡道之助たち23名などは、一度も取調べを受ける事もなく首を落とされている。半平太は上士格だったということが理由ならば、即刻降格させればいい。もともと彼の昇格は容堂の隠居中のことであり、容堂の認めるところではなかったのだから。もっと言えば、隠居中の身であっても藩政にまったく口を差し挟めなかったわけではなく、勤王党の台頭を阻むこともできたはずだ。しかし彼はそれをせず、彼らが江戸に下った際には逆に力になったりしている。容堂にとって半平太は、本当に不快な存在でしかなかったのだろうか。

 ここで私見を述べさせてもらうと、容堂は迷っていたのではないだろうか。「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と揶揄された山内容堂。「錦旗ひるがへるの日」と誓ったのも彼の本心で、しかし関ヶ原以来の徳川恩顧を重んじるのもまた彼の本心だった。「開国やむなし」と考え至ったのも彼の本心で、しかし「帝の御心に添いたい」と思うのもまた彼の本心だった。参政としての吉田東洋の行政能力には絶大な信頼を置いていたものの、「婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか」といった東洋の考えと容堂は違っていた。下士の分際で藩政を掌握した土佐勤王党には不快感を抱くものの、自身が出来なかった「錦旗ひるがへるの日は、列藩、親藩を問はず、その不臣はこれを討ち、王事に勤めん。」の言葉どおりに行動した勤王党に対して、半ば痛快に思えたときもあったのではないだろうか。そして「君辱かしめを受る時は臣死す」と容堂に忠誠を誓った武市半平太を、殺すに憚られる思いがあったのではないだろうか。半平太投獄から切腹までの1年8ヵ月、容堂は半平太を生かす道を模索していたのではないだろうか。

 結果的に山内容堂は「秩序」を選んだ。藩を治める立場の者の判断としては当然だったのかもしれない。しかし、このとき多くの有為な人材を失ったことによって、維新に際して土佐藩は完全に薩長の後塵を拝することになる。維新後、木戸孝允(桂小五郎)が酒席で容堂に向かって「殿はなぜ武市を斬りました?」と責めた際、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたという。明治5年(1872年)脳卒中で倒れ病床に伏した容堂は、「半平太、許せ。半平太、許せ。」と何度もうわごとを繰り返したといわれている。容堂の本心はどこにあったのか、彼自身にしかわからない。

 幕末の一時代を猛スピードで駆け抜けた土佐勤王党。彼らは新しい日本が生まれるための「陣痛」のような存在だった。「産みの苦しみ」がなければ、新しい命は生まれない。その苦しみが大きければ大きいほど、生まれてくる命は強いものとなる。彼らの存在がなければ、後の坂本龍馬中岡慎太郎の活躍もなかったかもしれない。新国家誕生の産みの苦しみ。彼ら土佐勤王党は、歴史に大きな役割を果たしたといえよう。

土佐勤王党と山内容堂 (前編)
土佐勤王党と山内容堂 (中編)


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by sakanoueno-kumo | 2010-07-24 00:37 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

土佐勤王党と山内容堂 (中編)

 土佐勤王党の掲げる「一藩勤王」を実現するには、どうしても邪魔な存在、それが吉田東洋だった。武市半平太は何度も東洋と会見し、その重要性を説くも、東洋は一向に理解を示さない。事態は思うように好転せず、武市半平太は行き詰っていた。しかし彼らにとって有利だったのは、東洋に敵が多かったことである。まずは民衆だった。彼の推し進める改革によって藩の出費がかさみ、税が厳しくなっていた。それに商人たちは、東洋が作った専売制によって、利益の大部分を藩に吸い上げられ、恨んでいた。そして東洋は下僚には節約を命じていながら参政の職分は別格だとし、豪放な暮らしを平気で行っていた。

 官僚内にも敵が多かった。急激な藩政改革を推し進めていた東洋に対して、それを不満とする保守派グループが形成されていた。これまで世襲が決まっていた、軍学、弓術、槍、剣、居合、馬術、砲術、儒者、医者、などの家格を廃し、家筋によらず能力によってその役を任ずるといった東洋の改革によって、「芸家」の当主たちは当然失職のおそれが出てきた。必然、東洋の失脚を願う者たちが出来た。行き詰まった土佐勤王党と藩内保守派の共通の政敵。思わぬ利害の一致がそこに生じた。

 土佐勤王党と藩内保守派の、そのどちらが先に歩み寄ったのか、また、どちらが先にその計画を打ち出したのかはわからないが、彼らの共通の敵が排除された。吉田東洋暗殺である。実行犯は勤王党と考えてほぼ間違いないだろう。東洋は江戸で謹慎中の山内容堂から全面的信頼を受けている。その東洋を殺すことに、武市半平太に迷いはなかったのだろうか。そこで半平太の背中を押したのは、「錦旗ひるがへるの日」と誓った容堂のあの言葉だったのではないだろうか。容堂が東洋を信頼しているのは、その実情を知らないからだ。東洋は君側の奸なのだ。「その不臣はこれを討ち、王事に勤めん」。この言葉が、東洋暗殺の追い風になったのではないだろうか。

 東洋の死後、土佐勤王党は隆盛を極めた。元々無能が故東洋に退けられていた保守派の藩政復活によって、武市半平太は身分こそ軽格であったが実質影の首相と言ってもよかった。彼らの掲げた「一藩勤王」は、ここに実現した。そして、藩主・山内豊範を奉じて京に上った彼らは、京における尊皇攘夷運動の中心的存在となり、半平太は朝廷の直参のような扱いを受けた。幕府に対する攘夷催促と御親兵設置を要求する勅使として三条実美姉小路公知が江戸に下った際には、警固役に勤王党の者が選ばれ、半平太は姉小路の雑掌となり江戸へ随行した。その際、隠居中の山内容堂も力添えをしている。土佐一藩に留まらず、日本をも動かしつつあったこの時期は、まさに土佐勤王党最盛期だった。一方で、「暗殺集団」としての色も増していった。岡田以蔵を刺客として開国派の人物を次々と殺していったのもこの時期である。彼らはこの暗殺を「天誅」と言った。これもまた、「その不臣はこれを討ち、王事に勤めん」という容堂の言葉に後押しされたものだったのかもしれない。

土佐勤王党と山内容堂 (前編)
土佐勤王党と山内容堂 (後編)

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by sakanoueno-kumo | 2010-07-23 00:00 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

土佐勤王党と山内容堂 (前編)

 幕末史に燦然とその名を残す土佐勤王党。尊皇攘夷をスローガンに立ち上がった彼らは、一瞬の花火のように燃え上がり、消えていった。同時代の同じような思想集団としては、水戸の天狗党や薩摩の精忠組などがあげられる。彼らは皆、藩内において低い身分の者たちの集団で、その多くは動乱の中に消え、あるいは藩上層部によって処刑された。

 彼らのような下級層にとってこの「尊皇攘夷論」は、250年もの長い間、身分によって虐げられてきた憤懣を晴らす、恰好の材料だった。元々「尊王論」「攘夷論」という、それぞれ独立した考えとしてあったものが、ペリー来航によって結ばれた不平等条約のため、諸物価の高騰や流通制度など日本経済に大混乱を招き庶民の生活を圧迫、その憤懣から「攘夷論」が叫ばれはじめ、やがてそれに、日本は神国であるというナショナリズムの発想である「尊皇論」が結びつき、「尊皇攘夷論」となって諸藩の志士や公卿に支持された。さらにそこに、天皇に忠義を尽すという「勤王論」が加わり、やがてそれが250年続いた「封建制」を瓦解させ、倒幕のエネルギーと化していった。

 武市半平太を首魁とした土佐勤王党も、当然この尊皇攘夷をスローガンとした。特に身分差別が激しかったとされる土佐藩下士たちにとっては、封建社会を打破する一筋の光であっただろう。そんな背景もあってか彼ら土佐勤王党は、上記の天狗党や精忠組のような単純な「思想集団」に留まらず、藩論を勤王に統一する「一藩勤王」というテーゼを掲げた「政治集団」となった。そしてその改革を実現するために邪魔者を排除する「暗殺集団」となっていったのである。「思想集団」「政治集団」「暗殺集団」の3つの顔を持ってしまった土佐勤王党。彼らはなぜ、ああも足早に時代を駆け抜けてしまったのだろう。

 当時、土佐藩の藩政を握っていた参政・吉田東洋は、半平太たち土佐勤王党とは180度違う「開国論」の持ち主だった。東洋にとって勤王党の主張は、書生の戯言でしかなかっただろう。そんな東洋を相手に、下士集団に過ぎない勤王党が「尊皇攘夷」を声高に訴えることが出来たのは、このとき江戸にて謹慎の身だった前藩主、容堂こと山内豊信の存在があったからだ。後に勤王党を壊滅させるに至る容堂だが、若き日の彼は熱心な尊王家だった。彼の正室が三条家の幼女だったこともあり、朝廷への政治工作にも加担し、そのことによって安政の大獄時に謹慎の身となった。謹慎前、朝廷に宛てた容堂の「使命覚書」がある。
 「豊信(容堂)は一朝事有り、錦旗ひるがへるの日は、列藩、親藩を問はず、その不臣はこれを討ち、王事に勤めん。」
 この言葉が、武市半平太たち勤王党員たちを後押しした。天皇に忠義を尽すことが、自藩の君主に忠義を尽すことでもある。彼らの思いには一辺の迷いもなかっただろう。

 土佐勤王党の盟約書(盟曰)には次のような文言がある。
 「かしこくも我が老公(容堂)夙に此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、却てその為めに罪を得玉ひぬ、斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉ひぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと。」
 「錦旗若し一とたび揚らバ、団結して水火をも踏まむと、爰(ここ)に神明に誓ひ、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払わんとす。」

 この盟約の文言は、明らかに上記容堂の言葉を取り入れたものだとわかる。ここでは、天皇と「我が老公」である容堂が忠誠の対象となっている。幕府が容堂に謹慎を命じたことを批判し、そしてその志を自分たちが引き継ぐと誓っている。この思いが、彼らが臆することなく突き進む糧となった。そして容堂の本質を見誤る要因ともなったのである。

土佐勤王党と山内容堂 (中編)
土佐勤王党と山内容堂 (後編)

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by sakanoueno-kumo | 2010-07-22 02:38 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

龍馬伝 第21話「故郷の友よ」

 「志士は溝壑(こうがく)にあるを忘れず、勇士はその元(こうべ)を喪(うしな)うを忘れず」という言葉がある。志のある者は、道義のためなら窮死してその屍を溝や谷に棄てられても良いと覚悟しており、勇ましい者は、君国のためならばいつ首を取られても良いと思っている・・という意味。元は孔子の言葉で、幕末には吉田松陰が志士の心構えとして説き、この時代を生きる全ての志士たちの共通したスローガンだった。近年では小泉純一郎元総理が、改革に向けての所信表明演説でこの言葉を使っていた。小泉元総理が本当にその覚悟があったかどうかは眉ツバものだが、坂本龍馬武市半平太も歩む道は違えど、当然、己の命は天に預けて生きていたことだろう。
 「武市さんらは元から侍じゃ。何があろうと覚悟は出来とったがじゃないですろうか・・・。」
 長次郎の言ったとおり、半平太は覚悟が出来ていただろう。志士は溝壑にあるを忘れず・・・しかし半平太には、溝や谷に棄てられることよりもっと無念な、信じていた者に裏切られるという、彼にとって思ってもみなかった最期が待っていた。

 「八月十八日の政変」で政局が一変すると、山内容堂はついに公然と土佐勤王党弾圧にふみきった。容堂はこのときを待っていたのだ。にも関わらず、半平太はこの直前の8月7日の時点でもまだ容堂を信じていたらしい。7日付けの手紙にはその前日容堂に謁して、「種々様々の御はなしにて、一も争論申し上げ候事御座なく候。」とまで書いており、よほど半平太は容堂に気をゆるしていたらしいことがうかがえる。手紙は続く・・・。
 「天下の勢より、御国の勢、諸侯方の善悪、且つ、其他にて、昨年以来斬姦の次第等申し上げ、誠にしみじみ御談話排承仕候・・・。」
 「斬姦の次第」とか「諸侯方の善悪」云々など、郷士あがりが口にすることなど、容堂が最も嫌悪するところだっただろう。が、この時点ではまだ容堂は耐えた。煮えくりかえる思いで耐えていた。しかし、近々起こり得るであろう政変の匂いは嗅ぎ分けていたことだろう。政変後、なんの遠慮もなくなった容堂は、文久3年(1863年)9月21日、武市半平太、河野万寿弥、そして半平太の妻・富子の弟、島村衛吉など8名を逮捕、投獄した。罪名は、
 「右者、京都へ対し、そのままにおかれ難く、其の余御不審のかどこれ有り。」
という曖昧なものだった。容堂にとって罪状などどうでもよかった。目的は土佐勤王党壊滅にあったのだから。

 龍馬にも当然、この報は届いていた。勝海舟の10月12日の日記にはこうある。
 「聞く。土州にても武市半平太の輩逼塞せられ、其党憤激、大に動揺す。かつ寄合私語する者は必ず捕へられ、又打殺さるゆへに、過激暴論の徒、長州へ脱走する者今三十人斗(ばか)り、また此地に潜居する徒を厳に捕へ、或は帰国を申し渡すよ云ふ。」
 藩庁の手は当然、龍馬にものびた。この時点で、龍馬は再び脱藩者の身になったのである。

 半平太投獄の頃、京に一人残っていた岡田以蔵は、土井鉄蔵と名を変え潜伏していた。半平太と袂を分かち、龍馬とも音信不通になった以蔵は、女色に溺れ、荒んだ日々を送っていたという。追われる身となった以蔵には、「人斬り以蔵」という名で恐れられた面影は既になかった。志士は溝壑にあるを忘れず・・・といった覚悟は、おそらく彼にはなかっただろう。彼は龍馬や半平太のような、高い志を持った志士ではなかった。刀のみを信じたテロリストに過ぎなかった以蔵は、時勢に利用されるだけされ、不要になると、野良犬のような日々を余儀なくされた。時勢に暗い彼は、何故自分が追われる身となったかもわからなかったかもしれない。そこがまた彼の切なさでもある。

 八月十八日の政変や、半平太の妻・富子のことにもふれようと思っていたが、既に多くの行数を費やしてしまったため、また改めて起稿しようと思う。


追記:「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-24 01:17 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(4)  

武市半平太、岡田以蔵の命日に思う。

本日5月11日は、武市半平太、岡田以蔵の命日である。(旧暦)
山内容堂が行った土佐勤皇党弾圧によって、1年半の投獄生活を余儀なくされた武市半平太。
獄中闘争も虚しく、慶応元年(1865年)5月11日、切腹して果てる。享年37歳
同日、人斬り以蔵こと岡田以蔵は、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎とともに、軽格のため切腹も許されず獄舎にて斬首、晒し首となった。享年27歳
大河ドラマ「龍馬伝」では、まだそこまで話が進んでいないので、詳しい記述は控えることとするが、同ドラマの影響で一躍注目度が高まったこの二人。
死後145年経った2010年の命日の今日は、おそらく多くの人が墓参に訪れていることだろう。
きっと墓中で落ち着かないことだろうね・・。

ドラマでも、もうすぐその日が訪れようとしている。
145年の時を越えて・・・合掌・・・。


5月12日追記*************************************************************
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11日、武市半平太の墓所がある高知市の瑞山神社で慰霊祭があったそうで、本日の毎日新聞に掲載されていた。(→)
ネットニュースはこちら↓
半平太の慰霊祭に60人参加

同日、岡田以蔵の墓所がある高知県の真宗寺山でも、初の命日際が行われたらしい。
ネットニュースはこちら↓
岡田以蔵、刑死後145年、初の命日祭

ドラマ開始以前でも、幕末歴史ファンにとってはお馴染みの二人で、以蔵の墓所は人里離れた山奥にあるにもかかわらず献花が絶えなかったそうだが、今年は特に墓参者が後を絶たないそうだ。
今更ながら、大河ドラマのもたらす影響とは大変なものだ。


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by SAKANOUENO-KUMO | 2010-05-11 23:39 | 歴史考察 | Trackback(1) | Comments(2)  

龍馬伝 第18話「海軍を作ろう!」

 勝麟太郎(勝海舟)が神戸に海軍操練所を作るに至ったのは、文久3年((1863年)4月24日、幕府からの辞令によるものだった。坂本龍馬と麟太郎はその準備をするべく大坂へ向かう。大阪での宿舎は北鍋屋町の泉称寺とされ、そこで神戸海軍操練所の前身となる塾が開かれ、諸藩から派遣された塾生たちに様式操練の授業などが行われたいた。この頃の龍馬は、ドラマのように塾生の勧誘をして回っていたかどうかはわからないが、麟太郎の懐刀として操練所開設の準備に奔走していたようだ。

 土佐勤王党からも、望月亀弥太高松太郎千屋寅之助の3名が入塾する。ドラマでの彼らはこの入塾は藩命によるもので本意ではなかったようだったが、事実はどうだったかはわからないが、この入塾によって彼らの運命は大きく変わることになる。望月亀弥太は土佐勤王党の弾圧が始まったこの翌年、脱藩して長州藩に亡命。そしてその後、池田屋事件にて新撰組の凶刃に斃れる。享年27歳。高松太郎は同じく土佐勤王党の弾圧が始まると脱藩し、龍馬の甥という関係もあて海援隊に参加。龍馬の死後、坂本直と改め龍馬の家督を継ぐことになる。千屋寅之助は同じく海援隊に参加。のちに龍馬の妻・おりょうの妹を妻に娶り、龍馬とは義兄弟の関係になる。維新後、菅野覚兵衛と名を改め、新政府の海軍少佐にまでなった彼は、義姉にあたるおりょうの面倒をよく見たといわれる。こののち土佐勤王党弾圧によって武市半平太たちと運命を共にしたかもしれないことを思えば、池田屋に散った望月はともかく、高松と千屋にとってはまさに命拾いの入塾だった。

 岡田以蔵が龍馬に頼まれて麟太郎の護衛をしたという話は、明治中期になって刊行された勝海舟の自伝「氷川清話」に詳しい。「人斬り以蔵」として悪名高い彼だが、後世の私たちに何故か愛すべき人物として伝わるのは、この護衛のエピソードから来るものが大きいだろう。こののち以蔵は麟太郎に頼まれて、ジョン万次郎の護衛もしたというエピソードもある。そのまま龍馬や麟太郎のもとにいれば、後の哀れな運命も避けられたかもしれないと誰もが思うところだが、そう出来なかった彼の律義さが、彼を人斬りにしてしまった要因でもあり、そこが切ない。

 「酔えば勤王、覚めれば佐幕」と揶揄された山内容堂。彼は尊王主義ではあり、井伊大老の政策に反対したことで安政大獄に連座して隠居謹慎を命ぜられたものであるが、「尊王」ではあっても「勤王」ではなかった。そこに武市半平太の誤算があった。容堂はあくまで外交問題では開港論で、朝廷と幕府の調停を念願した。いわゆる公武合体策である。したがって公武の対立をよろこばず、その対立を激化し討幕の機会を得ようとする勤王党の態度を不快視した。しかし、一貫して土佐勤王党の主張を寄せ付けなかった吉田東洋とは違い、容堂は時勢を見ながら半平太たちを泳がせた。つまり利用していたのだ。そこに、この山内容堂という人物の強かさがうかがえる。半平太たちにとって東洋暗殺は誤りだった。吉田東洋という存在は、実は山内容堂という大波を遮る防波堤の存在だった。その堤を自ら取り除いてしまった半平太たちは、容堂というとてつもない津波にのまれることとなる。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-03 01:33 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(4)  

龍馬伝 第17話「怪物、容堂」

 坂本龍馬と結婚の約束をしていたといわれている千葉佐那。明治26年(1893年)に発行された「女学雑誌」の誌上に、「坂本龍馬の未亡人を訪ふ」というタイトルで談話が掲載され、その中で彼女は龍馬から求婚された事実を語っている。そして父・千葉定吉の承諾も得て、「天下静定の後を待って華燭の典を挙げん」と約束をしたという。司馬遼太郎著「竜馬がゆく」では、佐那(同小説ではさな子)が想いを打ち明け、そのお返しに龍馬は自分の着ていた紋付の片袖を破り渡したと描かれているが、明治26年の佐那が語るところでは、婚約のしるしとして千葉家から短刀一振りを贈り、龍馬からは松平春嶽から拝領した袷衣を返したという。佐那は生涯この袷衣を形見として側に置いていた。

 ドラマではつれなかった龍馬だが、実際には佐那に恋心を抱いていたようで、そのことがうかがえる姉・乙女に宛てた手紙が残っている。「此はなしはまづまづ人にゆはれんぞよ。すこしわけがある。」という書き出しで始まるこの手紙には、千葉家の佐那という娘の歳は26歳で、乗馬や剣、薙刀に優れ、琴、絵画にも通じ、もの静かで、よけいなことを言わず、平井かほよりも美人であると紹介している。「まあまあ、今の平井、平井。」と書かれており、「平井に変わって今一番好きな人。」といった意味らしい。かなりゾッコンだったようだ。

 この手紙から4年後にこの世を去った龍馬。このとき既に30歳になっていた佐那は生涯独身を通し、維新後、華族女学校(学習院女子部)の舎監をした後、千住の長屋の一角で千葉家家伝の鍼灸を生業として暮らし、明治29年(1896年)、59歳で生涯を閉じる。東京・谷中の墓地に埋葬されたが、独身ゆえ無縁仏になりそうだった為、鍼灸院の患者だった自由民権運動家・小田切鎌明の妻、豊次が不憫に想い、菩提寺だった清運寺に分骨し墓を建てたという。彼女の墓石の裏には「坂本龍馬室」と刻まれている。これまで剣術を学ぶ女性の墓参者は時折あったそうだが、今年はドラマの影響で訪れる人が後を絶たないらしい。きっとお墓の中で驚いていることだろう。

 山内容堂が牙をむきはじめた。
「土佐藩を動かしているのは藩主豊範侯でも武市半平太でもねぇ。あの御仁よ。」
麟太郎の言うとおり、まぎれもなく土佐藩を動かしていたのはこの怪物・容堂。
「最近は土佐にも、時勢に乗じて調子に乗りすぎている輩もおる。」
「土佐ではのう、下士は犬猫同然なのじゃ。下士の分際で藩を動かすなど虫唾が走る。」

 吉田東洋を消し、土佐藩のイニシアティブをとったと錯覚した武市半平太。しかし歴史上、暗殺をもってして大業を成した人物はいない。そんなことにも気がつかなかった半平太は、容堂の言うとおり、時勢に乗じて調子に乗りすぎていたのかもしれない。
「上り坂もここまでじゃ・・・武市・・・。」


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-26 23:42 | 龍馬伝 | Trackback(5) | Comments(8)