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八重の桜 総評

 遅ればせながら、2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』の総括です。最終回が終わって2週間が経ちましたが、なかなかまとめの稿をアップできなかったのは、年の瀬で多忙だったこともあるのですが、イマイチ起稿意欲がわかなかった・・・というのも正直なところです。その理由は、これといった感想が思い浮かばない、特筆すべき点が見当たらない、というのが率直な感想なんですね。じゃあ今年の大河は駄作だったのか・・・というと決してそうではなく、わたしの中ではけっこう良い評価です。だけど、終わってみればとくに何も印象に残っていない・・・。矛盾したことを言っていますが、わたしにとって『八重の桜』は、そんな作品となりました。

 演出は実に丁寧できめ細やかでしたね。映像も綺麗でしたし、史実時代考証も、近年の他の作品と比べれば丁寧に描けていたと思います。脚本もしっかりしていましたし、でも決して作者の主観を押しつけるようなクドさもなく、丁寧なストーリーだったと思います。そう、このドラマを一言でいえば、とても「丁寧」に作られたドラマだったと思うんですね。ただ、丁寧=面白い作品となるかといえば、必ずしもそうではないということでしょう。ドラマがエンターテイメントである以上、観る人を引きつける「魅力」がなければ「名作」とはなりません。その魅力が、本作には足りなかったような気がします。

 魅力に欠けたのは、新島八重というマイナーな人物を主役にしたからだ・・・と言う人もいるでしょう。たしかに、わたしもこの作品の制作発表時に、はじめて新島八重という人物を知ったひとりです。でも、無名だから魅力がないという見方は短絡的だと思うんですね。たとえば、2008年の『篤姫』なども、決してメジャーな人物ではありませんでしたが、あれほど多くの支持を受けました。逆に、誰もが知ってる『平清盛』が、視聴率的には超低空飛行でしたよね(わたし個人的には評価は高いですが)。要は有名か無名かではなく、どれだけ主人公の魅力を引き出せるか・・・だと思うんですね。

 このドラマで、会津藩士たちの無念さはよくわかりましたし、定番の薩長史観の幕末史とは違う、会津視点の幕末史を楽しめました。詳しく知らなかった山本覚馬の維新後の活躍も知ることが出来ましたし、新島襄という人物のことも、同志社の成り立ちも深く知ることができました。でも、どれもこれも丁寧に描きすぎたがゆえに、八重の存在感がイマイチなかったですよね。別に八重がいなくても物語は成立していたのでは?・・・と言ったら言い過ぎかもしれませんが、物語は丁寧な会津史であり同志社史ではありましたが、新島八重史ではなかったというか・・・。だから、八重に感情移入したり共感したりすることが難しかった・・・というのが正直なところです。

 魅力に欠けていた・・・というのは、そういうところだと思うんですね。たとえば、先述した『篤姫』などは、あのドラマをきっかけに篤姫を好きになった人や、篤姫という女性に興味をもったひとが大勢いたと思いますし、もっとわかりやすく言えば、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』を読んで、坂本龍馬ファンになった人は世の中に山ほどいるでしょう。もちろん、素材そのものの持つ魅力もあるでしょうが、作家さんの力も大きいと思います。このたびのドラマで新島八重ファンになった人がどれだけいたでしょうね。そのあたりが、丁寧に作られた作品なのに、イマイチ支持が得られなかった大きな理由ではないでしょうか。

 ちょっと辛口のまとめとなりましたが、俳優さんたちは皆、素晴らしかったですね。とくに主演の綾瀬はるかさんは、あらためてスゴイ女優さんだと思いました。綾瀬さんといえば、同じ幕末を舞台としたドラマ『JIN -仁-』が思い出されますが、あのときのという女性の役と、今回の八重役とでは、表情発声姿勢もまったく違ったもので、同じ女優さんが演じているとは思えないほど別人になりきっていましたね。素人が知ったようなことを言って恐縮ですが、何を演じても同じ人物に見える俳優さんもたくさんいます。その点、綾瀬さんは素晴らしかった。もはや大女優といっていいかもしれません。普段は超天然だそうですが(笑)。

 それと、新島襄役のオダギリジョーさんもさすがでしたね。容姿も去ることながら、実際の新島襄という人物も、きっとこんな人だっただろうと思わされました。あと、山本覚馬役の西島秀俊さんは、ちょっとカッコ良すぎた気がしないでもないですが、今回のドラマでもっとも興味を持ったのは、山本覚馬という人物でした。もっと覚馬という人物のことを知りたい・・・と。その意味では、いちばん魅力的に描かれていたのは山本覚馬かもしれません。あと、忘れてはならないのが、小泉孝太郎さん演じるところの徳川慶喜。わたしの知る限り、これまでの慶喜のなかでもっとも慶喜っぽい慶喜でした(笑)。

 さて、来年は黒田官兵衛孝高が主人公ですね。そして、先ごろ発表された再来年の大河は、吉田松陰の妹が主人公だとか。来年の官兵衛は、戦国ファンなら誰もが知っている人物でしょうが、再来年の吉田松陰の妹なんて、大河ドラマ史上もっとも無名な人物かもしれません。ただ、先般申し上げたように、大切なのは有名無名ではありません。その人物の魅力をどれだけ引き出せるか・・・ですね。もちろん、だからといって虚像で固めた人物であってはいけないでしょうし、たぶんそれでは魅力的な人物にはならないでしょう。素材の持つ魅力をどれだけ描けるか・・・これって、決して簡単なことではないんでしょうけどね。でも、視聴者はそれを待っています。作り手の腕の見せどころですね。

 いささか辛口なことばかり述べてきましたが、冒頭で申し上げたとおり、わたしにとって本作は、けっして評価の低いものではありません。名作とはいえませんが、良作ではあったと思います。ただ、少し塩コショウが足りなくて、薄味な物足りなさがあった・・・というのが率直な感想です。昨年、今年と低視聴率が続いていますが、わたし個人的には、一昨年までの作品から一変した大河ドラマの方向性としての趣旨は間違っていないと思います。あとは塩コショウの加減だけかと・・・。ともあれ、1年間楽しませてもらえました。このあたりで、『八重の桜』のレビューを終えたいと思います。

●1年間の主要参考書籍
『新島八重の維新』 安藤優一郎
『新島八重 愛と闘いの生涯』 吉海直人
『会津落城』 星亮一
『幕末史』 半藤一利
『日本の歴史19~開国と攘夷』 小西四郎
『日本の歴史20~明治維新』 井上清
『明治という国家』 司馬遼太郎
『幕末維新のこと』 司馬遼太郎
『明治維新のこと』 司馬遼太郎



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by sakanoueno-kumo | 2013-12-28 22:04 | 八重の桜 | Comments(4)  

八重の桜 49話「再び戦を学ばず」 ~山本覚馬と松平容保の最期~

 新島襄の死後、山本覚馬が同志社臨時総長を務めますが、その覚馬も、明治25年(1892年)12月28日にこの世を去ります。享年64歳。思い起こせば文久2年(1862年)、京都守護職に就任した会津藩主・松平容保に従って京に上ってから30年、波乱に満ちた・・・とか、苛烈極まりない・・・などというありきたりな形容では言い表せない、まさに、筆舌に尽くしがたい人生だったといえるでしょう。

 賊軍として捕らえられ、盲目足が不自由という二重の障害を抱えながらも、明治新政府にその才を買われ、京都府顧問、京都府議会議員、同初代議長、京都商工会議所会頭と要職を歴任。人材が少ない時代だったとはいえ、覚馬がいかに有能な人物だったかがわかりますね。とくに、慶応4年(1868年)の幽閉中に獄中から覚馬が新政府に宛てて出した新国家構想ともいうべき『管見』は、「三権分立」の政体にはじまり「二院制」「女子の教育機会」などなど、実に先見性に富んだもので、西郷隆盛岩倉具視など新政府の要人たちをうならせたといいます。同時代のものとしては、坂本龍馬の『船中八策』『新政府綱領八策』が有名ですが、この山本覚馬の『管見』も、もっと注目されてもいいように思います。

「諸君たちは学業を終えそれぞれの仕事に就かれる。どうか弱い者を守る盾となって下さい。かつて私は会津藩士として戦い、京の町を焼き、故郷の会津を失いました。その償いの道は半ばです。今世界が力を競い合い、日本は戦に向けて動き出した。どうか聖書の一節を心に深く刻んで下さい。」
『その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし、国は国に向かいて剣を上げず、二度と再び戦うことを学ばない』
「諸君は一国の、いや、世界の良心であって下さい。いかなる力にもその知恵であらがい、道を切り拓いて下さい。それが身をもって戦を知る私の願いです」


 ドラマで描かれていた同志社卒業式での覚馬の訓示ですが、実際に記録が残されている覚馬の言葉は、
「弱を助け強を挫き、貧を救ひ富を抑ゆるものは誰れぞ、諸子乞う吾が言を常に心に服膺して忘るゝ勿れ」
 となります。大意は同じようなものですが、聖書の一節を引用したのはドラマの創作でしょうね。でも、舞台は同志社の卒業式、決して的外れではなく、良い演出だったんじゃないでしょうか。

 『二度と再び戦うことを学ばない』

 敗軍となった会津藩を中心に描いたこの物語で、この言葉がもっとも伝えたいテーマだったのでしょうね。会津戦争までの前半の物語と、明治以降の同志社の物語は、まるでまったく違うドラマのような演出でしたが、いまここで二つの物語が結びつきました。

 覚馬が永眠した約1年後の明治26年(1893年)12月5日、松平容保もこの世を去ります。享年59歳。容保は会津藩改め斗南藩が廃藩置県で消滅したあと東京に移住し、その後、徳川家康を祀る日光東照宮宮司などを歴任しますが、決して表に出ることはありませんでした。既に謹慎処分は解かれていたものの、一度は朝敵とされたことを重く受け止め、自主的に謹慎状態を続けていたそうです。自身の言動が、政治的にどう利用されるかわからないことを知っていたのでしょうね。ただ、やはり朝敵の汚名を着せられたことは無念の極みだったのでしょう。八月十八日の政変後に孝明天皇から下賜された『宸翰』を、小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放さなかったといいます。のちにこの『宸翰』は、山川浩山川健次郎兄弟が編纂した『京都守護職始末』で公表されますが、それは容保の死から18年が過ぎた明治44年(1911年)のことでした。戦犯者扱いとなった者の汚名返上は容易ではないのは、いつの時代も同じようです。

 ひとつの時代が終わり、次回、最終回。



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by sakanoueno-kumo | 2013-12-10 11:11 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第45話「不義の噂」 ~時栄の不倫騒動~

 不自由な身体となった山本覚馬の後妻となり、20年近くもの長きに渡って献身的に支えてきた時栄(時恵とも)でしたが、明治18年(1885年)、真偽は定かではないものの、覚馬が自分のあととりに考えていた会津藩出身の青年(ドラマでは青木栄二郎)と、不倫関係になったそうです。このとき覚馬は58歳、時栄は33歳。下世話な見方をすれば、充分にあり得る話ですよね。

 この時栄の不祥事のエピソードは、徳富蘇峰の弟、徳富蘆花の自伝的小説『黒い眼と茶色の目』に登場します。この小説は、時栄の娘・久栄と蘆花との結ばれなかった恋物語を描いたものだそうですが、そのなかに、母・時栄のことが記されているそうです。それによると、ある日、体調を崩した時栄を来診したドクトル・ペリー医師が、帰り際に「おめでとうございます。妊娠5ヶ月です」と告げたそうで、これを聞いた覚馬が「身に覚えがない」と言い出したため、大騒ぎになったとのこと。問いただされた時栄は、鴨の夕涼みでうたた寝をしているときに、「見知らぬ男に犯された」などといいますが、さらに問い詰められると、最後には青年との不倫を認めます。このあたり、ドラマとはまったく違いますね。

 この話が事実かどうかは定かではありません。これはあくまで小説の中で描かれているものであり、登場人物の名前も、山下勝馬時代といった具合に、明らかに覚馬と時栄がモデルであることはわかるものの、偽名で真偽を濁しています。あるいは、蘆花の創作かもしれません。ただ、この時期に時栄が何らかの不祥事を犯して山本家を去ったのは事実のようで、この小説に描かれている話も、まったくのフィクションではないかもしれません。そんなこんなを考えて、ドラマではNHKらしくまとめていましたね(笑)。

 山本家としては、時栄を離縁すると家の恥が表沙汰になってしまうため、内分に済ませようとしたそうです。覚馬にしてみれば、長年の苦労に対する感謝の気持ちをあったかもしれません。しかし、封建道徳からいえば彼女のしたことは不義密通。許されるべきことではありませんでした。この事実を知った八重は、「臭いものに蓋をしてはいけない」と、兄・覚馬に時栄を離縁するよう強く求め、山本家から時栄を追い出したといいます。この事件以前の八重と時栄の関係がどのようなものだったかはわかりませんが、たとえ良好な義姉妹の間柄だったとしても、どうあれ「ならぬことはならぬものです」だったのでしょうね。

 その後の時栄と不倫相手の消息は記録が残っていません。そのとき妊娠していたとしたら、その子はどうなったかも定かではありません。時栄と覚馬の間の娘・久栄は、そのまま山本家に残ります。前妻・うらとの間の娘・みねもそうでしたが、どうも、覚馬の娘は幼くして母と生き別れる運命のようですね。そして、その娘たちのその後の人生も、決して幸せなものではありませんでした。そのあたり、来週描かれるようです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-11-11 19:25 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第41話「覚馬の娘」 ~山本覚馬vs槇村正直~

 槇村正直に登用されて京都府政に尽力してきた八重の兄・山本覚馬でしたが、同志社設立をめぐってふたりの関係に亀裂が入り、槇村が京都府知事となった明治10年(1877年)、覚馬は京都府顧問の職を解雇されます。しかし、そこで終わってしまう覚馬ではありませんでした。その2年後に行われた第1回京都府議会選挙において、上京区で51票を獲得して府議会議員に選出されます。西南戦争を最後に武力での反政府運動は終わりを告げ、自由民権運動などの追い風に乗って議会政治が始まろうとしていました。国会が開設されるのはこれより10年ほど先のことですが、府県会などの地方議会は先行して各地で開設されます。京都では95名の府議会議員が選出され、そのひとりが覚馬でした。

 府会議員の被選挙資格は、3年以上京都に住む満25歳以上で、地租10円以上を納める者だけでした。また、選挙権の資格も、満20歳以上の男子で、地租5円以上を納める者だけ。つまり、ごくひと握りの富裕層の男子だけの特権だったんですね。しかし、それでも、市民が市民の中から入れ札によって代表者を選ぶというのは画期的なことで、大きな前進だったといえるでしょう。

 初めて開かれた府会で、覚馬は初代議長に選出されます。選挙で議員は選出されたものの、議会制度自体を知る者は少なく、その運営方法についての知識も、ほとんどの議員が持っていませんでした。そこで、覚馬の知識が求められたのでしょう。たとえ盲目で不自由な身体でも、覚馬をおいて他にいなかったのでしょうね。覚馬も、それがわかっていたから引き受けたのでしょう。議長席の横には付き人を書記として就かせ、議事を進行させたそうです。

 府会には議案の提案権決算の審査権もありませんでした。一方で、知事には議事の停止権など強い権限が与えられていました。議会は立ち上がったものの、あくまでイニシアティブは知事にあったわけですが、ただ、地方税の審議権は府会にあったため、知事の権限を掣肘することは不可能ではありませんでした。ところが、明治13年(1880年)5月、知事の槇村は府会の権限を無視し、12年度の税収の不足を理由に、地方税5万8千円の追徴を府会にはかることなく布達してしまいます。当然ながら、無視された府会は猛反発します。そして府会は知事の横暴な越権を責め、内務卿に伺書を提出します。知事vs府会の対立は、槇村vs覚馬と言いかえてもよかったかもしれません。かつての同志は、完全に対峙する関係になってしまいました。

 この紛争の結末は、槇村が一旦布達を取り下げた格好で、あらためて議会に地方税追徴の議案を提出、結果的に原案どおり可決、執行されます。かたちだけでも府会を通したということですね。事実上、敗北となった覚馬は、この騒動のあと、議長および議員を辞職します。一方の槇村も、一連の横暴な越権行為が世論の反感を買い、その責任をとるかたちで知事を退任します。ここに、長く続いた槇村&山本府政は終わります。

 覚馬の娘・みねが結婚しましたね。お相手の伊勢時雄(横井時雄)は、幕末の知識人・横井小楠の長男で、熊本バンドのひとりです。みね19歳、時雄24歳のときでした。ただ、ふたりの幸せな結婚生活は、そう長くは続かないんですね。そのあたりは今後のドラマに譲ることにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-15 23:51 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第32話「兄の見取り図」 ~山本覚馬の人物像~

 明治4年(1871年)、八重は処刑されたと思っていた兄・山本覚馬が生きていたことを知り、兄を訪ねて京都に訪れます。実に9年ぶりの再開でした。これまで当ブログでは、山本覚馬についてあまりふれて来なかったので(本筋である戊辰戦争に添っていくと、どうしても覚馬の話は横道にそれてしまうため)、ここで改めて、覚馬についてお復習してみましょう。

 鳥羽・伏見の戦いのとき、既に視力を失いかけていた覚馬は、戦争には参加していませんでしたが、京都近郊で薩摩藩兵に捕らえられ、薩摩藩邸内の獄舎に入れられます。しかし、覚馬の優秀さは諸藩の間で知られており、また、薩摩藩代表の西郷隆盛とも面識があったことから、決して粗略には扱われなかったようです。ただ、それでも獄中生活であることに変わりはなく、覚馬の身体は次第に衰弱し、やがて視力は完全に失い、脊髄も損傷し、ついには自力で歩行できないほどの身体になってしまいます。

 そんな過酷な獄中生活のなか、覚馬は自身の考えを口述して筆記させ、『管見』というタイトルの建白書を薩摩藩主宛に提出します。「管見」という単語を辞書で調べると、「知識や考え、意見などが狭くてつまらないものであること」とあります。つまりは、自分の意見を謙遜して使う古い言葉ですが、その内容は決して狭くてつまらないものではなく、政治、経済、外交、教育など、今後の日本のとるべき道が実に明確に示されていました。その先見性に、西郷隆盛や小松帯刀は大いに感服したといいます。

 やがて釈放された覚馬は、明治3年(1870年)4月14日付けで京都府に登用され、京都府権大惨事として府の実験を握っていた長州藩出身の槇村正直の顧問として、府政に関わります。当時の京都は、東京遷都のあおりをモロに受け、寂れかけていました。御所の周りの公家屋敷や武家屋敷が無人となり、それらの需要で成り立っていた京都の経済は一気に冷え込み、京都を去る町人らも続出します。

 明治政府は、荒廃していた「千年の都」をどうにか経済で立て直そうと、明治2年(1869年)には「勧業起立金」として15万両、翌明治3年(1870年)には「産業起立金」として10万両をつぎ込みます。京都府はこの資金を元に、殖産興業を推進して京都再生を図るのですが、その中心にいたのが槇村正直で、その知恵袋として活躍したのが覚馬でした。八重たちが京都にやってきたのは、そんなときだったわけです。

 「兄さまは人が違ったみてえだ。長州の者と笑って話して平気なのがし? 憎くはねえのですか?」

 槙村の下で働く覚馬を理解できない八重がいった台詞ですが、そんな八重に覚馬はこういいます。

 「殿は徳川を守り、都を守り、帝をお守りするその一心で京都守護の御役目を続けてこられた。だけんじょ、もっと大きな力が世の中をひっくり返した。薩摩や長州が会津を滅ぼしに行くのを、止められなかった・・・・。これは俺の戦だ!会津を捨石にしてつくり上げた今の政府は間違ってる。だけんじょ、同じ国の者同士、銃を撃ちあって殺しあう戦は、もうしてはなんねえ!」

 覚馬とて、故郷の会津が滅んだ無念さは同じだったでしょう。でも、その憎しみの矛先が薩摩や長州じゃないことがわかっていたんでしょうね。会津を滅ぼしたのは薩長ではなく、大きな歴史の波にのまれて押しつぶされたということを・・・。だから、薩長を憎んだところではじまらない。覚馬のみならず、元徳川方にいて新政府に仕えた者たちは、皆、わかっていたかもしれませんね。むしろ、わかっていなかったのは薩長閥のなかにいた人たちだったのではないでしょうか。自分たちの力のみで幕府を倒したという思いあがりが、のちの薩長閥政府を作り上げたといえるかも知れません。

 「何かひとつ違うちょったら、薩摩と会津は立場が入れ替わっちょたじゃろう。そげんなっちょったら、薩摩は全藩討死に覚悟で征討軍と戦をした。新しか国を作るため、戦わんならんこつになったどん、おいは会津と薩摩はどっか似た国じゃち思うちょった。武士の魂が通う国同士じゃち・・・。」

 この人は、わかっていたかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-13 19:26 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第31話「離縁のわけ」 ~挙藩流罪の斗南藩~

 明治2年(1869年)末に待望の御家再興となり、会津藩斗南藩として生まれ変わりましたが、23万石あった所領は3万石に大幅減封。藩士全員を移住させるのは到底無理なことでした。それでも、約半分の藩士が移り住んだといいますから、財政が成り立たないのは当然です。さらに、斗南藩の所領の大半を占める下北半島の地は、火山灰土の風雪厳しい不毛の土地で、実際には石高3万石にはまったく及ばず、せいぜい7千石程度だったといいます。

 斗南藩大惨事として幼君・松平容大をサポートしていた山川大蔵は、懸命に農地開墾施策を展開しますが、慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず、飢えと寒さで病死者が続出します。斗南藩士の一人でのちに陸軍大将にまでのぼる柴五郎は、後年この斗南への転封を「挙藩流罪」と表現しています。彼らにとっては、籠城戦より過酷な日々だったといえるかもしれません。会津戦争は、明治になってもまだ終わっていませんでした。

 このとき八重は、斗南には移住せずに会津に残り、その後、ドラマのとおり米沢に出稼ぎに行っていたようです。鶴ヶ城開城後に東京にいた夫の川崎尚之助は、かつては東京でそのまま暮らしたといわれていたそうですが、近年に発見された史料によれば、斗南藩士として下北半島に移住していたようですね。いずれにせよ、八重と尚之助はこれ以後、会うことはなかったようです。なぜ八重が尚之助について行かなかったかはわかりませんが、このとき離縁したのは八重と尚之助だけではなく、多くの会津藩士らが斗南に移住するにあたって家族との縁を切っていました。離縁された妻たちは、知縁を頼って出稼ぎに行くなど苦しい生活を強いられることになるのですが、それでも、挙藩流罪の地に夫と連れ添うよりマシだったのかもしれません。八重と尚之助の離縁の理由は、そうせざるを得なかったということでしょうね。

 そんな斗南藩も結局は明治4年(1871年)の廃藩置県によって斗南県となり、わずか2年足らずで消滅。その後、財力のある弘前県に吸収合併され、さらに周辺の5県と合併して、現在の青森県となります。これを機に会津藩士は全国に散っていき、斗南での藩再建の思いは、彼らの無念とともに歴史の闇に消えていきます。でも、全国に散った会津スピリッツは決して消えることはありませんでした。八重もまた、そのひとりだったといえます。

 その八重の兄・山本覚馬が生きているという知らせが八重のもとに届いたのは、廃藩置県が行われた明治4年のことでした。誰よりも兄をリスペクトしていた八重にとっては、これ以上の朗報はなかったでしょう。父と弟を失い、故郷を離れ、夫と離別し、そんな筆舌に尽くし難い喪失感のなか、兄の生存の知らせは、彼女の心に一筋の光明を差し込み、生きる希望を与えたであろうことは想像に難しくありません。生まれ育った家を失ったいま、兄を訪ねて京都に向かう決意を固めたのは当然だったでしょうね。

 ところが、覚馬の妻・うらは八重たちの京都行きに同行しませんでした。娘のみねを八重と母・佐久に預け、自らは会津にとどまる道を選択します。それは、離縁を意味していました。その理由はわかりませんが、おそらくドラマのとおりだったのでしょうね。当時、覚馬には身の回りの世話をする時恵という女性がいて、その時恵との間に娘も生まれていました。9年前、覚馬が松平容保京都守護職就任に付き添って上京して以来、あまりにも長い別居生活が招いた必然だったかもしれませんね。それも、ただの9年間ではなく、互いに死の淵を生きた別居生活だったわけですから・・・。

 その後のうらは、、会津に戻ったとも、仙台または青森に移り住んだともいわれますが、正確なことはわからないそうです。その後、娘のみねと会うことがあったかどうかも、定かではありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-07 22:21 | 八重の桜 | Comments(2)  

八重の桜 第13話「鉄砲と花嫁」 〜八重と川崎尚之助の結婚〜

 ずいぶん遅れてしまいましたが、第13話のレビューです。八重川崎尚之助が結婚しましたね。二人が結婚したのは、慶応元年(1865年)のことだったそうです。八重は数えで21歳、尚之助が30歳のときでした。ただ、二人の馴れ初めや夫婦仲など、そのあたりの事情を伝えてくれるエピソードは何も残っていません。というのも、“最初の夫”となる尚之助について、晩年の八重はいっさい人に語らなかったそうです。言うまでもなく、八重はのちに新島襄の妻になるわけで、尚之助との結婚生活は戊辰戦争後にピリオドが打たれます。八重にとっては、尚之助との結婚の事実は触れられたくない重い過去だったのかもしれません。

 川崎尚之助という人物は、但馬出石藩の医家の生まれで、蘭学舎密術(理化学)を修めた有能な洋学者でした。同じ出石藩士で尚之助と同世代に、のちに帝国大学(現・東京大学)の総長にまで登りつける加藤弘之という学者がいますが、尚之助はその加藤と並んで称されるほどの屈指の洋学者として知られていたそうです。おそらく藩では将来を嘱望されていたのでしょう。加藤とともに江戸に遊学して蘭学を学ぶとともに、人脈を広げていました。その際、八重の兄である山本覚馬と知り合ったと思われます。このあたりはドラマで描かれていたとおりですね。

 その後どういうわけか、尚之助は覚馬を頼って会津を訪れます。尚之助が覚馬を慕ってきたのか、覚馬が尚之助の才能を買って招聘したのか、その辺りの事情はよくわかりませんが、覚馬の口利きにより会津藩校日新館の蘭学所で教授を務めることとなります。その縁で、尚之助は山本家に寄宿するようになり、八重と同じ屋根の下での生活が始まります。八重は10代前半、尚之助は20代前半のことでした。結婚前からずいぶん長い間、ふたりは家族として暮らしてきたんですね。英明な兄を尊敬していた八重は、その兄が認める尚之助に自然と心惹かれていたとしても、なんら不自然ではありません。

 いずれにせよ、兄の覚馬がとりもった仲であったことは間違いありませんが、いくら覚馬を慕っていたとはいえ、なぜ、尚之助ほどの優秀な人物が自藩に戻らずに会津にきたのか、そのあたりの事情がよくわかりません。あるいは自藩に戻れない何らかの事情があって脱藩してきたのでしょうか。だとすれば、脱藩浪人と八重を結婚させた?・・・それも考えにくいですね。藩士が別の藩に招聘される例は珍しくはなく、例えば熊本藩士の横井小楠が幕府政事総裁職を務める松平春嶽にその才を買われ、福井藩に招かれて政治顧問となったり、出身藩の承諾さえ得られれば、他藩士の召抱えは可能でした。

 ただ、尚之助については、会津藩に召し抱えられることなく戊辰戦争を迎え、落城とともに八重と離別して会津を去ったと言われています。であれば、八重はやはり脱藩浪人と結婚していたのでしょうか? ところが最近になって、尚之助が会津藩士として召し抱えられていたと解釈できる史料が見つかったとも聞きます。結局のところ、川崎尚之助という人物のことは、まだまだ謎だらけなんですね。大河ドラマで注目されたことをきっかけに研究が進み、あらたな史実・通説が詳らかになった例はたくさんあります。このドラマをきっかけに、こののち川崎尚之助という人物の人となりが、浮き彫りになってくるかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-05 14:43 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第3話「蹴散らして前へ」 ~山本覚馬と八重~

 八重の生まれ育った山本家は、会津藩砲術指南役を務める家でした。山本家は、八重の祖父にあたる山本左兵衛の代より砲術指南の家柄となったようです。八重の生家の辺りは、家禄が百石~百五十石クラスの藩士たちの屋敷が立ち並んでおり、山本家もそんな中級クラスの家柄でした。山本家の祖先は、2007年の大河ドラマ『風林火山』の主人公で、あの武田信玄に仕えた軍師・山本勘助だという説があるそうです。系譜をたどれば、会津藩祖の保科正之に仕えた、武田家ゆかりの山本道珍なる人物にいきあたるそうで、その道珍の祖先が山本勘助だというのですが、いかがなものでしょう。道珍は保科正之が信州高遠藩主だったころ、遠州流の茶師として江戸で召し抱えられた人物だとか。後年、八重は茶道に深く傾倒していきますが、遠祖である道珍のDNAだったのかもしれません。

 祖父の左兵衛には跡取りがいなかったため、娘・佐久の婿として養子を迎え入れ、砲術指南役を継がせました。それが、八重の父・山本権八です。権八と佐久の間には三男三女が生まれましたが、次男、長女、次女は夭折し、成人したのは長男の覚馬、三男の三郎、そして三女の八重だけ。八重の人生に大きな影響を及ぼすことになる兄の覚馬は、17歳も年上でした。

 藩校・日新館で神童と呼ばれた秀才・山本覚馬は、嘉永6年(1853年)、22歳で江戸に出て蘭学を学びます。このとき、佐久間象山勝海舟と出会うのは前話までにあったとおりですね。嘉永6年といえば言うまでもなく黒船来航のあった年。覚馬がその目で黒船を見たかどうかはわかりませんが、この出来事が当時の若者たちに与えた衝撃ははかり知れず、おそらく覚馬もその例外ではなかったでしょう。この江戸出府の期間中、覚馬は蘭学や西洋砲術の研究に没頭していたようです。そして28歳のとき会津に帰国、このとき八重はかぞえで11歳でした。綾瀬はるかさんでは、まだちょっと無理があるかも・・・(笑)。

 帰国後、覚馬は西洋式の砲術や兵法の重要性を説き、軍備の近代化を推し進めようとします。しかし、執拗に軍制改革を主張したことが保守的な上層部の反感を買ってしまい、1年間ほどの禁足処分を受けてしまうのはドラマのとおりです。戦国時代、鉄砲は身分の低い足軽が持つ武器でした。それから時代は200年以上経っていましたが、依然として武士の世界では剣術槍術弓術が重んじられ、砲術に対する評価は低いものでした。軍制改革とは、すなわち武士が鉄砲を持つこと。とりわけ会津藩は宝蔵院流の槍術で知られた藩で、鉄砲にしても、戦国時代以来変わらず火縄銃。刀槍の時代ではないという覚馬の主張が容易に受け入れられるはずはなかったことは、想像に難しくありません。しばらくは不遇をかこつ覚馬ですが、しかし、時勢が覚馬を必要とするときが、こののちやってきます。

 お転婆娘の八重が柄にもなく裁縫を習っていましたね。でもこれは当時の武士の娘としては当然のたしなみで、幼少期の女子は、小笠原流の作法手芸機織り女今川、そして薙刀も習います。針仕事の稽古は、最初は雑巾、次は足袋の底、続いて袖口や褄、そして着物が一枚仕立てられるようになれば、嫁入りの資格ができたとみなされたそうです。もちろん八重も例外ではなく、幼馴染の日向ユキの談によれば、一緒に近所の高木のおばあさんから針仕事を習っていたとか。でも、どうやら裁縫はあまり得意ではなかったようです。

 立派な兄を慕い、兄のようになりたいと願っていた八重は、活発で男勝りの幼少期だったようです。駆けっこ石投げでも男の子に負けていなかったらしく、ドラマであったように、13歳の頃には四斗俵を掴んで肩に上げ下げできたとか。世が世ならば運動選手になっていたかもしれないと、後年の八重自身が語っていたそうです。現代ならば、重量挙げのオリンピックメダリストになっていたかもしれませんね。

 会津藩随一の秀才の兄と、会津きってのお転婆娘の妹。なんとも不つりあいな組み合わせの兄妹ですが、八重は兄・覚馬を生涯慕い、覚馬は妹・八重を生涯頼りにします。そんなふたりの強い絆の話は、今後の物語の展開にゆずることにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2013-01-21 01:04 | 八重の桜 | Comments(0)