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八重の桜 第7話「将軍の首」 ~足利三代木像梟首事件と言路洞開~

 文久2年(1862年)から翌3年にかけて、都では攘夷を唱える不逞浪士たちによる天誅騒ぎが相次いでいました。「天誅」とは、天に代わって罪あるものを誅伐するということですが、このころ尊王攘夷派激徒が行った天誅は、天の名を借りた猛烈なテロ行為であったというべきでしょう。標的となったのは、安政の大獄に関わって尊攘志士の怨みを買った者たち、また、公武合体運動、とくに和宮親子内親王降嫁に関係した公卿などでした。

 天誅の第一陣は、文久2年(1862年)7月の九条家の家士・島左近の暗殺でした。左近は、安政の大獄に活躍した人物です。犯人は「人斬り新兵衛」こと薩摩藩士・田中新兵衛らで、左近の首は四条河原に晒されました。翌月には目明しの文吉本間精一郎などが凶刃に斃れます。いずれも、新兵衛と同じく「人斬り以蔵」と恐れられた土佐藩士・岡田以蔵の犯行といわれていますが、目明しの文吉は、島左近とともに安政の大獄の際に志士の逮捕に当たった人物ですが、本間精一郎の場合は、尊皇攘夷派であったにもかかわらず、同志から疎んじられて暗殺されました。このことからも、「天誅」とはもはや正義の刃ではなく、利己的なテロリズムだったことがわかります。時代は殺伐としていました。

 京都守護職に就任した松平容保が1000人の会津藩士を率いて京都に入ったのは、文久2年も押しつまった12月24日のことでした。容保は黒谷の金戒光明寺内に本陣を構え、屋敷は御所のすぐ西隣に置きます。そして年が明けた正月2日、容保は御所に参内し、孝明天皇(第121代天皇)に拝謁します。小御所で孝明帝に拝謁した容保は、天盃および御衣を賜ります。武人に御衣が下賜されたのは異例のことで、徳川政権になってからは前代未聞のことでした。その後も孝明天皇は、容保にきわめて厚い信頼を寄せます。そんな容保が、やがては朝敵扱いとなってしまうのですから、なんとも不憫な話ですね。

 入京当初、容保は「言路洞開」を掲げて尊攘派公家や志士たちとの融和を目指します。しかし、そんな容保の考えを一変させる事件が起きてしまいます。「足利三代木像梟首事件」ですね。2月22日夜、尊攘激派の一味は、洛西等持院に押し入り、そこにあった足利尊氏足利義詮足利義満三代の木像の首と位牌を持ち出し、これを賀茂川原に晒しました。その立札には、「逆賊足利 尊氏・同義詮・名分を正すや今日にあたり、鎌倉以来の逆臣一々吟味を遂げ謀戮に処すべきところ、この三賊臣巨魁たる似よって、先ずその醜像天誅を加える者なり」と記し、また別に三条大橋の制札場に、足利将軍十五代の罪を攻撃する一文を貼り、その文章の終わりには、次のような意味の文が記されていたといいます。

 「今の世に至り、この奸賊になお超過している者がある。それらの者の罪悪は足利尊氏などよりも、はるかに大きい。もしそれらの者どもが、ただちにこれまでの罪を悔い改めなければ、満天下の有志は、追い追い大挙してその罪を正すであろう」

 この一文は、明らかに足利氏にかこつけて「倒幕」の意味を含むものであり、第14代将軍・徳川家茂の上洛が目前に迫るなか、幕府首脳部を脅迫するものでした。この事件に容保は激怒し、尊攘派取締対策を強硬路線に切り替えます。こうして、当初容保が目指した「言路洞開」絵空事に終わってしまうんですね。

 「言路洞開(げんろとうかい)」とは難しい言葉ですが、話し合いで解決の道を開くといった意味の言葉だそうです。平成の現代にも、「友愛」をもって近隣諸国と対話しようとしたものの、逆に相手につけ入る隙を与えて、尖閣諸島問題やら竹島問題やら北方領土問題やら、好き放題に荒らされて崩壊した政権がありましたね。「言路洞開」「友愛」・・・どちらも美しい言葉ですが、主義主張の違う相手に通用する言葉ではないようです。もっとも、だからといって容保のように強硬手段をとるのも賛成はできませんが・・・。強硬手段の行き着くところは「戦争」ですからね。戦争に持ち込まずに強硬な姿勢をとるにはどうすればいいか・・・歴史に学べ!・・・ですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-18 21:33 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(2)  

龍馬伝 第28話「武市の夢」

 文政12年(1829年)9月27日、土佐国長岡郡の白札郷士(郷士の中の最上位)に生まれた武市半平太。幼少の頃から学問と武芸に励み、まさに文武両道の秀才で、容姿端麗、人格高潔にして誠実、風雅をわきまえ、深沈で喜怒色にあらわさず、音吐高朗、見るからに人に長たる威厳があったという。その人物像をうかがい知れるものとしては、中岡慎太郎が後年、西郷隆盛を評して、「その誠実、武市に似」と語っているものや、また、人斬り新兵衛こと薩摩藩士・田中新兵衛も半平太を評して、「至誠忠純、洛西にその比を求むるならば、わが大島三右衛門(西郷隆盛)か」と述べていることなどからも、半平太の人物のほどがうかがえる。「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する」とも言われ、また、坂崎紫瀾が執筆した「維新土佐勤王史」によれば、「一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」と評されている。維新後、西郷、大久保、木戸の3人をもって「維新三傑」と呼ばれるが、歴史の「もし」はタブーではあるが、もし武市半平太が明治の世まで生きていれば、間違いなく彼を加えた「維新四傑」となったであろうという声も多い。

 そんな至誠の人・武市半平太だが、後世にあまり良い印象を残していないのは、暗殺事件の黒幕というイメージと、人斬り以蔵こと岡田以蔵との関係によるところが大きいだろう。中でも、拷問を受ける以蔵を毒殺しようとしたエピソードは、半平太の人生最後の汚点といえる。本来の言い伝えはドラマとは違い、強い思想を持たない以蔵の自白を恐れ、口封じのために毒入りの弁当を差し入れ殺そうとしたというもの。しかし、この計画は失敗に終わり、そのことを知った以蔵は憤りを覚え自白したと伝えられる。この逸話から思うのは、上記で述べたような至誠の人・武市半平太にあるまじき行動だということだ。たしかに彼は、暗殺事件の黒幕として岡田以蔵を使い、数々のテロを行った。しかし、それは彼にとっては「正義」の行いで、やましい思いはひとつもなく、だからこそ勤王党弾圧が始まり、久坂玄瑞や中岡慎太郎から脱藩を勧められても応じることなく、潔く縄についた。獄中でも臆することなく取り調べに応じ、尚も君主・山内容堂に対し意見を述べていたという。しかし、だとすればこの以蔵毒殺未遂の逸話はあまりに半平太像と異なるという思いがあった。ドラマでは、厳しい拷問で弱っていく以蔵を見るに見かね、楽にしてやろうという思いからの毒殺計画となっていた。半平太の人柄から考えて、この設定はありだと思う。

 岡田以蔵が捕えられたのは元治元年(1864年)6月ごろ、半平太投獄から遅れること9ヵ月後のことだった。半平太が土佐に戻ると、以蔵は土井鉄蔵と名を変えひとり京都に潜伏、女色に溺れ荒んだ生活をしていたという。些細な強盗事件を起こし幕吏に捕えられた以蔵は、「無宿者鉄蔵」と入墨をされ、京を追放、同時に土佐藩吏に捕えられ国元へ搬送される。半平太以外の投獄者は皆拷問を受けたといわれるが、中でも以蔵に対する拷問は苛烈を極めたという。思想を持たない以蔵で口が割れると考えた藩庁だったが、処刑されたのが翌慶応元年(1865年)5月11日のことだから、実に1年近くも厳しい拷問に耐え抜いたことになる。以蔵にも以蔵なりの強い意志があったのだろう。この日処刑された者のなかで以蔵の刑は最も重く、斬首の上、鏡川上流の雁切河原に三日間晒し首となった。享年28歳。

 岡田以蔵の辞世の句。
 「君が為  尽くす心は  水の泡  消えにし後ぞ  澄み渡るべき 」
 歌中にある「君」は、勤王の志士らしく「天皇」のことともとれるが、実は、武市半平太のことだったのではないだろうか・・・。

 私はこれまでこのブログを通して、かなり半平太に肩入れした発言をしてきた。自由で闊達な坂本龍馬に対して、堅物で融通の利かない武市半平太というのが世間一般の見方だと思うが、そんな彼に、私は最も日本人らしい日本人の姿を見る。謹厳実直を絵にかいたような彼の生きざまは、まさに日本人の国民性といってもよく、彼のような真面目を常とする人たちが、少なくとも昭和期まではこの日本を支えてきた。だから多くの人が、自分たちにない坂本龍馬に憧れるのではないだろうか。私たち日本人のその多くが、坂本龍馬に憧れる武市半平太だと私は思っている。

 ドラマでは吉田東洋暗殺を自白した半平太だったが、言い伝えでは最後までその容疑を認めることはなく、結局その件は立証出来ぬまま、「党与を結び人心煽動し君臣の義を乱した」という「君主に対する不敬行為」の罪状で切腹を命ぜられた。以蔵が処刑された同日夜、南会所大広庭にて、切腹の作法としては最も難しいとされた「三文字の割腹」の法を用いたと伝えられている。介錯人は妻・富子の実弟・島村寿太郎と義理甥・小笠原保馬。この割腹法を用いるため、「合図をするまで首をはねるな」と、介錯人にあらかじめ指示していたという。結局、みごと三文字に割腹した半平太は介錯の合図をすることなく倒れ、介錯人は横から喉を刺したという。享年37歳。彼の最後の意地とも思えるこの死に際の潔さは、自己の武士としての誉れの為だったのか、それとも君主・山内容堂への無言の訴えだったのか・・・。

 武市半平太の辞世の句。
 「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」
 半平太の無念の叫びは、この後龍馬に引き継がれていく・・・。
 

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by sakanoueno-kumo | 2010-07-12 02:13 | 龍馬伝 | Trackback(6) | Comments(5)  

龍馬伝 第21話「故郷の友よ」

 「志士は溝壑(こうがく)にあるを忘れず、勇士はその元(こうべ)を喪(うしな)うを忘れず」という言葉がある。志のある者は、道義のためなら窮死してその屍を溝や谷に棄てられても良いと覚悟しており、勇ましい者は、君国のためならばいつ首を取られても良いと思っている・・という意味。元は孔子の言葉で、幕末には吉田松陰が志士の心構えとして説き、この時代を生きる全ての志士たちの共通したスローガンだった。近年では小泉純一郎元総理が、改革に向けての所信表明演説でこの言葉を使っていた。小泉元総理が本当にその覚悟があったかどうかは眉ツバものだが、坂本龍馬武市半平太も歩む道は違えど、当然、己の命は天に預けて生きていたことだろう。
 「武市さんらは元から侍じゃ。何があろうと覚悟は出来とったがじゃないですろうか・・・。」
 長次郎の言ったとおり、半平太は覚悟が出来ていただろう。志士は溝壑にあるを忘れず・・・しかし半平太には、溝や谷に棄てられることよりもっと無念な、信じていた者に裏切られるという、彼にとって思ってもみなかった最期が待っていた。

 「八月十八日の政変」で政局が一変すると、山内容堂はついに公然と土佐勤王党弾圧にふみきった。容堂はこのときを待っていたのだ。にも関わらず、半平太はこの直前の8月7日の時点でもまだ容堂を信じていたらしい。7日付けの手紙にはその前日容堂に謁して、「種々様々の御はなしにて、一も争論申し上げ候事御座なく候。」とまで書いており、よほど半平太は容堂に気をゆるしていたらしいことがうかがえる。手紙は続く・・・。
 「天下の勢より、御国の勢、諸侯方の善悪、且つ、其他にて、昨年以来斬姦の次第等申し上げ、誠にしみじみ御談話排承仕候・・・。」
 「斬姦の次第」とか「諸侯方の善悪」云々など、郷士あがりが口にすることなど、容堂が最も嫌悪するところだっただろう。が、この時点ではまだ容堂は耐えた。煮えくりかえる思いで耐えていた。しかし、近々起こり得るであろう政変の匂いは嗅ぎ分けていたことだろう。政変後、なんの遠慮もなくなった容堂は、文久3年(1863年)9月21日、武市半平太、河野万寿弥、そして半平太の妻・富子の弟、島村衛吉など8名を逮捕、投獄した。罪名は、
 「右者、京都へ対し、そのままにおかれ難く、其の余御不審のかどこれ有り。」
という曖昧なものだった。容堂にとって罪状などどうでもよかった。目的は土佐勤王党壊滅にあったのだから。

 龍馬にも当然、この報は届いていた。勝海舟の10月12日の日記にはこうある。
 「聞く。土州にても武市半平太の輩逼塞せられ、其党憤激、大に動揺す。かつ寄合私語する者は必ず捕へられ、又打殺さるゆへに、過激暴論の徒、長州へ脱走する者今三十人斗(ばか)り、また此地に潜居する徒を厳に捕へ、或は帰国を申し渡すよ云ふ。」
 藩庁の手は当然、龍馬にものびた。この時点で、龍馬は再び脱藩者の身になったのである。

 半平太投獄の頃、京に一人残っていた岡田以蔵は、土井鉄蔵と名を変え潜伏していた。半平太と袂を分かち、龍馬とも音信不通になった以蔵は、女色に溺れ、荒んだ日々を送っていたという。追われる身となった以蔵には、「人斬り以蔵」という名で恐れられた面影は既になかった。志士は溝壑にあるを忘れず・・・といった覚悟は、おそらく彼にはなかっただろう。彼は龍馬や半平太のような、高い志を持った志士ではなかった。刀のみを信じたテロリストに過ぎなかった以蔵は、時勢に利用されるだけされ、不要になると、野良犬のような日々を余儀なくされた。時勢に暗い彼は、何故自分が追われる身となったかもわからなかったかもしれない。そこがまた彼の切なさでもある。

 八月十八日の政変や、半平太の妻・富子のことにもふれようと思っていたが、既に多くの行数を費やしてしまったため、また改めて起稿しようと思う。


追記:「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-24 01:17 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(4)  

武市半平太、岡田以蔵の命日に思う。

本日5月11日は、武市半平太、岡田以蔵の命日である。(旧暦)
山内容堂が行った土佐勤皇党弾圧によって、1年半の投獄生活を余儀なくされた武市半平太。
獄中闘争も虚しく、慶応元年(1865年)5月11日、切腹して果てる。享年37歳
同日、人斬り以蔵こと岡田以蔵は、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎とともに、軽格のため切腹も許されず獄舎にて斬首、晒し首となった。享年27歳
大河ドラマ「龍馬伝」では、まだそこまで話が進んでいないので、詳しい記述は控えることとするが、同ドラマの影響で一躍注目度が高まったこの二人。
死後145年経った2010年の命日の今日は、おそらく多くの人が墓参に訪れていることだろう。
きっと墓中で落ち着かないことだろうね・・。

ドラマでも、もうすぐその日が訪れようとしている。
145年の時を越えて・・・合掌・・・。


5月12日追記*************************************************************
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11日、武市半平太の墓所がある高知市の瑞山神社で慰霊祭があったそうで、本日の毎日新聞に掲載されていた。(→)
ネットニュースはこちら↓
半平太の慰霊祭に60人参加

同日、岡田以蔵の墓所がある高知県の真宗寺山でも、初の命日際が行われたらしい。
ネットニュースはこちら↓
岡田以蔵、刑死後145年、初の命日祭

ドラマ開始以前でも、幕末歴史ファンにとってはお馴染みの二人で、以蔵の墓所は人里離れた山奥にあるにもかかわらず献花が絶えなかったそうだが、今年は特に墓参者が後を絶たないそうだ。
今更ながら、大河ドラマのもたらす影響とは大変なものだ。


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by SAKANOUENO-KUMO | 2010-05-11 23:39 | 歴史考察 | Trackback(1) | Comments(2)  

龍馬伝 第18話「海軍を作ろう!」

 勝麟太郎(勝海舟)が神戸に海軍操練所を作るに至ったのは、文久3年((1863年)4月24日、幕府からの辞令によるものだった。坂本龍馬と麟太郎はその準備をするべく大坂へ向かう。大阪での宿舎は北鍋屋町の泉称寺とされ、そこで神戸海軍操練所の前身となる塾が開かれ、諸藩から派遣された塾生たちに様式操練の授業などが行われたいた。この頃の龍馬は、ドラマのように塾生の勧誘をして回っていたかどうかはわからないが、麟太郎の懐刀として操練所開設の準備に奔走していたようだ。

 土佐勤王党からも、望月亀弥太高松太郎千屋寅之助の3名が入塾する。ドラマでの彼らはこの入塾は藩命によるもので本意ではなかったようだったが、事実はどうだったかはわからないが、この入塾によって彼らの運命は大きく変わることになる。望月亀弥太は土佐勤王党の弾圧が始まったこの翌年、脱藩して長州藩に亡命。そしてその後、池田屋事件にて新撰組の凶刃に斃れる。享年27歳。高松太郎は同じく土佐勤王党の弾圧が始まると脱藩し、龍馬の甥という関係もあて海援隊に参加。龍馬の死後、坂本直と改め龍馬の家督を継ぐことになる。千屋寅之助は同じく海援隊に参加。のちに龍馬の妻・おりょうの妹を妻に娶り、龍馬とは義兄弟の関係になる。維新後、菅野覚兵衛と名を改め、新政府の海軍少佐にまでなった彼は、義姉にあたるおりょうの面倒をよく見たといわれる。こののち土佐勤王党弾圧によって武市半平太たちと運命を共にしたかもしれないことを思えば、池田屋に散った望月はともかく、高松と千屋にとってはまさに命拾いの入塾だった。

 岡田以蔵が龍馬に頼まれて麟太郎の護衛をしたという話は、明治中期になって刊行された勝海舟の自伝「氷川清話」に詳しい。「人斬り以蔵」として悪名高い彼だが、後世の私たちに何故か愛すべき人物として伝わるのは、この護衛のエピソードから来るものが大きいだろう。こののち以蔵は麟太郎に頼まれて、ジョン万次郎の護衛もしたというエピソードもある。そのまま龍馬や麟太郎のもとにいれば、後の哀れな運命も避けられたかもしれないと誰もが思うところだが、そう出来なかった彼の律義さが、彼を人斬りにしてしまった要因でもあり、そこが切ない。

 「酔えば勤王、覚めれば佐幕」と揶揄された山内容堂。彼は尊王主義ではあり、井伊大老の政策に反対したことで安政大獄に連座して隠居謹慎を命ぜられたものであるが、「尊王」ではあっても「勤王」ではなかった。そこに武市半平太の誤算があった。容堂はあくまで外交問題では開港論で、朝廷と幕府の調停を念願した。いわゆる公武合体策である。したがって公武の対立をよろこばず、その対立を激化し討幕の機会を得ようとする勤王党の態度を不快視した。しかし、一貫して土佐勤王党の主張を寄せ付けなかった吉田東洋とは違い、容堂は時勢を見ながら半平太たちを泳がせた。つまり利用していたのだ。そこに、この山内容堂という人物の強かさがうかがえる。半平太たちにとって東洋暗殺は誤りだった。吉田東洋という存在は、実は山内容堂という大波を遮る防波堤の存在だった。その堤を自ら取り除いてしまった半平太たちは、容堂というとてつもない津波にのまれることとなる。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-03 01:33 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(4)  

龍馬伝 第15話「ふたりの京」

 「人斬り以蔵」として後世に名高い、土佐藩郷士・岡田以蔵。そして、その人斬り以蔵を影で操っていたとされるのが、土佐勤王党首魁・武市半平太。 坂本龍馬を主役とする物語の多くにおいて、この二人の存在は欠かせない。幕末の一時期、京の町を震撼させたテロリストの以蔵だが、物語の中に見られる彼の姿は、いつもどこか切ない。人を殺して殺して殺しまくった狂気の男のはずなのだが、後世の私たちが受ける彼の印象はなぜか同情的で、彼の墓前には今もたくさんの献花が絶えないという。

 以蔵の最初の暗殺は、前話にあった土佐藩下目付けの井上佐一郎。このときは人斬りではなく、ドラマのとおり絞殺だった。もっともこれは単独犯ではなく、以蔵を含め4人で犯行に及んでいたようだ。この暗殺事件には思想的な動機はなく、吉田東洋暗殺を捜査していた井上に対して危険を感じたというのが理由だろう。この後、「天誅」という名のもとに暗殺が繰り返されるのは、同じ時期に「人斬り」として恐れられていた薩摩藩士・田中新兵衛の犯行で、「安政の大獄」時に攘夷志士の摘発に励んだ九条関白の家臣・島田左近の暗殺が始まりといわれている。今話で以蔵が殺した目明しの文吉は、その島田左近の手下の岡っ引。井上佐一郎を殺害したのが文久2年8月2日。以後、同月20日に本間精一郎、2日後の22日に宇郷玄蕃頭を、その8日後の30日に上記の文吉を、その後も9月、10月、11月と、短期間で立て続けに暗殺を繰り返している。「暗殺とは癖になるような気がする。」と、第13話「さらば土佐よ」の稿でも述べたが、そのとおり、この時期の土佐勤王党は暗殺が癖になっていた。

 岡田以蔵と武市半平太の関係は、まさに光と影。この時期、事実上土佐藩を動かしていた半平太の影の部分を以蔵は支えていた。その支えを半平太が要求していたのか、それとも以蔵が自主的にしていたことなのかはわからない。後世の私たちに半平太がダーティーな人物としてイメージされるのは、この以蔵との関係によるものが大きいだろう。現代で言えば、大物政治家とその身代わりになって逮捕される秘書官といったところだろうか。似たような関係を例にあげれば、薩摩藩士・西郷隆盛などにも、上記田中新兵衛や中村半次郎(桐野利秋)といった影の部分の担い手がいたのだが、こちらはあまりダークサイドなイメージには描かれない。半平太と以蔵の関係がダーティーに感じられるのは、半平太の急激な出世と以蔵の短期間のテロ実行が、あまりにもラップしすぎることと、後に二人が人生の最期を迎えたときの、以蔵に対する半平太の態度によるものだろう。「邪魔者は抹殺する。」といった方法で暗殺を繰り返した以蔵だったが、やがて自分が邪魔者となってしまうことになるのだが、それは物語の今後に譲ることにしたい。

 浅学だったとされる以蔵だが、それだけに純粋さを感じてしまう。
 「人の道に外れたことをしてはいかんぜよ。」
 以蔵が人斬りになっていることを悟った龍馬が以蔵に向けて言った言葉だが、自分の行動が「人の道に外れたこと」だとは思ってもいなかっただろう。学のない自分にとって、己を生かせるのは剣の道だけであり、その剣を使って自身の師である半平太の力になる。間違っているわけがない・・・と思っていたに違いない。
 「人にはそれぞれの道があるきにのぉ、みんなぁが同じ道は歩いていけんがじゃ。」
 「世の中にはいろんな人がおるがじゃ。意見が違うてあたりまえちゃ。」

 龍馬の言うとおりだが、しかし、自分の意見を持たない・・・持てない人もいる。そういう人は、誰かの意見を信じて自分の進むべき道を決めるしかない。龍馬や半平太のように、自分の進むべき道を自分で決められる者ばかりではないのだ。

 以蔵は信じるべき人物を間違えた。信じる人を見定めたのが自分自身だとすれば、それも自分の意見だと言えるかもしれない。そこに岡田以蔵という男の切なさがある。


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-14 00:11 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(4)