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八重の桜 第33話「尚之助との再会」 〜征韓論争と明治六年政変〜

 時代は一気に征韓論争まで進みましたね。この「征韓論」を詳細に解説するとめちゃめちゃ長文になっちゃいますし、いろんな解釈があるのでたいへん難しいのですが、ここではできるだけ簡単にまとめます。

「征韓論」とは、読んで字のごとく、お隣の朝鮮に出兵して征服する、あるいは、武力を後ろ盾に政治体制の変革を迫るという主張です。このときより遡ること約20年前、日本も米国ペリー艦隊の来航によって開国を迫られ、それをきっかけに幕末の動乱がはじまり、長く続いた封建国家体制が崩れ、近代国家を目指すべく明治政府が樹立されましたが、今度は、そのペリー艦隊の役目を日本が行おうというもので、このときまだ鎖国攘夷の策をとっていた朝鮮にとっては、ありがた迷惑な話だったわけです。朝鮮側は日本の新政府の要請を頑なに拒絶し、そんななか、明治6年(1873年)ごろから急速に日本国内で征韓論が沸騰し始めます。

 その頃、岩倉具視大久保利通木戸孝允ら政府首脳陣は欧米諸国を外遊中(岩倉使節団)、その留守政府を預かっていたのは西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣らでした。西郷以外は土佐藩肥前藩の出身者で占められており、明治初期の政府としては、唯一、薩長閥政府ではなかった時期でした。その留守政府が征韓論を推し進めます。

 まずは板垣が閣議において、居留民保護を理由に朝鮮への派兵を主張。しかし、留守政府の実質首相的立場だった西郷は派兵に反対し、自らを大使として朝鮮に派遣するよう求めます。この意見に後藤、江藤らも賛成し、いったんは閣議において使節として西郷を派遣することを決定しますが、ときを同じくして順次帰国の途についた岩倉具視や大久保利通ら外遊組は、時期尚早だとしてこれに猛反対。留守番組と外遊組の対立の板挟みとなった太政大臣・三条実美は病に倒れてしまい、最終的には、太政大臣代理となった岩倉の工作により(大久保の書いたシナリオとも)、明治天皇のご裁断で遣韓は中止されます。閣議でいったん決定しながら土壇場で覆されるという異常事態に、西郷をはじめ板垣や江藤ら征韓論派は一斉に参議を辞職してしまいます。

 この征韓論争に始まった政変を明治六年政変(征韓論政変)といい、やがてこれが、明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る内乱につながっていくわけです。

 なぜ、この時期に「征韓論」が沸騰したのか、また、彼らの主張した「征韓論」の真の目的は何だったのか、あるいは、「征韓論」が政変の真の火種だったのか、などなど、この政変については専門家の間でも様々な解釈があり、いわゆる史実・通説というものがありません。ドラマで西郷が朝鮮出兵の理由について、「不平士族(行き場を失った元武士たち)の目を国内から外に向けるため」といった意味の説明をしていましたが、それとて、後世の歴史家が説いたひとつの説であって、西郷自身がそのような記述を残しているわけではありません。後世に征韓論の首謀者的扱いとなっている西郷ですが、一説によれば、西郷はあくまで平和的な交渉を目的とする遣韓論者だったという人もいますし、いやいや、西郷の目的は武力を用いて朝鮮を植民地化しようというものだった、という歴史家もいます。結局のところ、いまもって真意はわからないんですね。

 ただ、外遊組と留守番組の間に、激しい温度差があったということは間違いなさそうです。近代文明国家を目の当たりにしてきた大久保たちと、ずっと国内にいた西郷たちとでは、見えているものが違ったんでしょうね。結果的に政局は外遊組に軍配が上がり、西郷や江藤らは政界を去ってしまうわけですが、それが、後世の日本にとって良かったのか悪かったのか、今となっては確認のしようがありません。

 さて、本話のタイトルは「尚之助との再会」でしたが、八重川崎尚之助が離縁後に再会したという記録は残っていません。そもそも八重は尚之助との結婚、離婚についてほとんど何も語っていないそうですから、実際のところは何もわかってないんですね。ただ、斗南藩の罪を被って訴訟を起こされた尚之助が東京で暮らしていたというのは事実のようです。時代が時代ですから、たぶん、八重と会うことはなかったでしょうね。のちに尚之助は、裁判の判決を受けることなく明治8年(1875年)に病死します。ドラマには、たぶんもう出てこないでしょうね。八重の女紅場での活躍を尚之助が知っていたかどうかは、知る由もありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-21 18:57 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第19話「慶喜の誤算」 ~王政復古の大号令~

 慶応3年(1867年)10月15日、徳川慶喜から受けた大政奉還の上表を承認した朝廷でしたが、やはり慶喜が考えていたとおり、ただちに政権を運営できる能力が朝廷にはなく、どうにも手のうちようがありませんでした。したがって、ことごとに慶喜の意見を聞き、指示を仰ぎ、結局は政務を慶喜に委託するしかありませんでした。慶喜の思惑どおりにことが運んでいたといえるでしょう。

 薩摩を始めとする討幕勢力は、なんとしても諸大名を京都に召集し、列藩の衆議によって今後の政治のあり方を決定したいと考えていました。そこで朝廷は諸大名に京都参集を命じますが、旧幕府の顔色をうかがって容易に足並みが揃いません。大政奉還という事態を前にして、諸藩主がどう対処すべきか迷うのも、当然といえば当然のことだったでしょう。これを薩長の陰謀と考える藩主、あくまで幕府に対して忠節をまっとうすべしという藩主、あるいは病気と称して上京の延期を願い出る藩主、あるいは藩主に代わって重臣の上京を出願する藩主など、さまざまでした。

 これでは諸藩主会議による国是決定など、とてもできるものではない・・・そう考えた討幕側は、こうした状況を打開するために、次なる手立てを画策します。それは、武力を背景として王政復古の大号令を出すという宮廷クーデターでした。この計画を中心的に進めたのは、薩摩藩士・大久保一蔵(利通)岩倉具視。まず、大久保は討幕の盟約を結んでいる長州藩と芸州藩に京へ派兵するよう依頼し、自身もすぐさま藩地に帰って藩兵を促します。さらに大久保らは、土佐藩にも強力を仰ぎます。土佐藩は大政奉還論の中心的存在であり、彼らにクーデター計画を漏らすのは危険なことでしたが、しかし、土佐藩が反対側に立ってはあとあと面倒なことになると考えたのでしょう。

 大久保は西郷吉之助や長州藩士・品川弥二郎などと協議して、このクーデターをの決行日を12月8日に決定します。列席者は薩摩藩を中心に、土佐・尾張・越前・安芸(広島の浅野)の5藩でした。長州藩は、長州戦争が正式に終結していないので、京都に兵力を動員できず参加できませんでした。また、西郷と大久保も下級藩士のため朝廷の会議には参加できません。クーデター実行部隊で会議に参加できるのは公卿である岩倉のみ。岩倉を会議に出席させるには、まず出仕を停止させられている岩倉の罪を解かなければなりません。

 そして決行日の12月8日。この日、朝廷内では会議が開かれていました。その議題は、朝敵となっている長州藩主父子の罪の赦免と復位、先の八月十八日の政変によって追放されている三条実美を始めとした公卿の赦免についてでした。昼夜を通して行われた話し合いの結論は、長州藩主父子の罪の赦免が決定、罪人となっている公卿の赦免も認められ、このとき、蟄居の身であった岩倉具視の罪も解かれます。じつはこの徹夜の会議は、そのために行われた伏線だったんですね。

 翌朝、朝議を終え摂政ら親幕府メンバーが御所から退出するのを待って、薩摩藩を初め5藩の藩兵が御所を封鎖しました。そして、たったいま罪を解かれたばかりの岩倉が、かねてから用意していた王政復古の大号令なる文書を読み上げ、これを天皇に献上しました。その内容は、徳川幕府を廃止すること、摂政などの旧制度を廃止し、代わりに総裁・議定・参与の3職を置くことを置くことなど。そして、ただちにその3職による会議を開きます。これが小御所会議と呼ばれる会合です。メンバーは岩倉のほか、越前藩主・松平春嶽、土佐前藩主・山内容堂、尾張藩主・徳川慶勝ら。3職でない西郷と大久保は、別室で控えていました。

この会議のポイントは、徳川慶喜が出席していなかったことでした。春嶽、容堂、慶勝らは、幕府が廃止されても新政府の一員として慶喜が参加すると考えていました。彼らは事前にこのクーデターのことは了承していましたが、まさか、慶喜抜きの展開になるとは考えていなかったんですね。3人は岩倉の示す新政府案に難色をしめします。特に容堂の反論は激しく、クーデター政権を批判します。さすがの岩倉も押されぎみになり、会議は一旦休憩に入ります。この休憩時間が、歴史を大きく変えることになるんですね。

 会議の経過の報告を受け、助言を求められた西郷が、「短刀一本で用は足りもす」と答えたという有名な話。要は「刺し違える覚悟で臨めばことは自然と開ける」といった意味の言葉だったのでしょうが、この言葉を聞いた岩倉は、「容堂と刺し違える覚悟で臨む」と周囲の者に言い放ち、それを聞いて驚いた土佐の後藤象二郎は、主君である容堂に伝えます。これには容堂もビビったようで、再開された会議の席では、容堂はすっかり沈黙のひととなってしまいます。これで全ては決着。新政府に慶喜を加えないこと、慶喜に幕府領を差し出させること、慶喜が就任していた内大臣の官職を辞退するよう要求することなどが決定します。ここに、討幕勢力のクーデターは成功します。

 ドラマにあったように、慶喜自身はこの日、自分が出席すればかえって不利になると考えたらしく、ずっと二条城にいたようです。これが、本話のタイトルどおり、「慶喜の誤算」でしたね。もっとも、出席していたら違う結果になっていたかどうかは、今となってはわかりませんが。あるいは、本当に「短刀一本」でケリを付けられていたかもしれません。そう考えれば、やはり欠席は正解だったのかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-15 19:57 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第17話「長崎からの贈り物」 〜孝明天皇の死〜

 慶応2年(1866年)12月25日、孝明天皇(第121代天皇)が36歳という若さで崩御しました。その5ヶ月前には、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂も急逝しており、奇しくも慶応2年後半期に、公武の最高位にある天皇将軍が相次いでこの世を去ることとなりました。政局が混沌としていたこの年、将軍家茂が死んだときにも暗殺の風説が流れたといいますが、孝明天皇の死については、暗殺説がかなり流布していたようです。現代の学者さんたちの中にも、孝明天皇暗殺説を支持する方もいます。はたして真相はどうだったのでしょう。

 従来の定説となっている病状を見ると、亡くなる半月ほど前の12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、その翌日からひどく発熱します。12日、13日と熱は下がらず、14日に診察した医師によると、「痘瘡(天然痘)か陰症疫の疑いあり」と診断されます。睡眠も食事も満足にとれず、うわ言を発し、16日になると全身に発疹があらわれ、17日正式に痘瘡と公表されました。そこで七社七寺への祈祷が命じられ、将軍以下、京都守護職の松平容保らも見舞いに参内したようです。ドラマでは、天皇の急逝の報を受けて、「青天の霹靂」といった感じの容保でしたが、実際には、まったく予期せぬ出来事というわけではなかったようです。

 ただ、18日以降、少しずつ病状は回復に向かっており、その意味では寝耳に水だったかもしれません。病状が急変したのは24日夜からで、翌25日の公卿・中山忠能の日記に「何共恐れ入り候御様子」と書かれるほどの病状となります。嘔気をもよおし、痰は多く、しだいに体力を失い、脈も弱まり、25日亥の刻(午後11時ごろ)に、ついに崩御となりました。

 このような病状の急変が、さまざまな風説を生む原因となったようです。なかでも多くささやかれたのが毒殺説。私は医学については門外漢ですので、このような病状の急変についての知識はありませんが、専門家によると、何かに中毒したことによる急死の症状に酷似しているらしく、毒を盛られた可能性は否定出来ないとのことです。もっとも、当然のことながらそれを立証できる証拠はなにもなく、全ては憶測に過ぎません。

 ただ、当時このような風説が流布される客観的な条件はじゅうぶんそろっていました。この当時、政局は混沌としており、公武のトップである天皇と将軍の死は、佐幕派倒幕派ともに大きな政治的意味があったことはいうまでもありません。当時、日本に駐在していたイギリスの外交官・アーネスト・サトウが後年に書いた日記でこう述べています。

 「当時の噂では、帝の崩御は天然痘によるものだと聞いていたが、しかし数年後、その間の消息によく通じているある日本人が、わたしに確言したところによれば、帝は毒殺されたのだという。この帝は所信をもって、外国人に対していかなる譲歩にも断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなることを予見した人々によって、殺されたというのだ。この保守的な帝がいたのでは、戦争を引き起こすような事態以外のなにものも期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺に求めるのは、東洋諸国ではごくありふれたことであり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋のために毒殺されたという噂が流布した。しかし当時は、帝についてそのような噂は聞かなかった。帝が、ようやく15、6歳になったばかりの少年(睦仁親王)を継承者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役だったであろうことは否定できない」

 これによると、倒幕派が攘夷論者である孝明天皇を毒殺したということになりますね。攘夷論では朝廷が外国と関係を持つようになっては大障害になるという観点からの毒殺説ですが、イマイチ理由としては弱い気がします。それよりも、佐幕派の天皇では、倒幕を遂行するにはどうにも邪魔である、というほうがまだ説得力がある気がしますね。事実、岩倉具視がこれを画策したという風説があります。岩倉具視の義妹である堀河紀子が宮中女官として入っており、その紀子を操って痘瘡の薬のなかに毒物を混入させた・・・と。もちろん風説であって、岩倉にしてみれば迷惑千万なはなしかもしれませんが、岩倉の場合それ以前の和宮降嫁問題のときにも、天皇毒殺をはかったという評判がたったことがあった人物で、疑惑の目で見られたのも無理はなかったかもしれません。

 薩摩藩士・大久保利通は、「玉(天皇)をわが方に抱えることが、千載の一事で、もし幕府に奪われては藩の滅亡」としていました。天皇を味方につけた方が勝つということですね。しかし、ときの天皇である孝明天皇は、はっきりとした政治的発言をおこない、しかもそれは佐幕説でした。倒幕派にとっては、孝明天皇は邪魔な存在で、その死が倒幕派にとって有利なことであったのは明らかでした。だからこそ毒殺説が生まれたのでしょう。実際に毒殺が行なわれたのか、あるいは本当に痘瘡による病死だったのか、今となっては真相は闇の中ですが、いずれにせよ、孝明天皇の死が倒幕派を大きく勢いづかせたことは間違いありません。古代・中世はさておき、孝明天皇は日本の近世以降の天皇のなかで、珍しく政治的行動・発言をおこなった、ただひとりの天皇といえるかもしれません。そのため、36歳の若さでこの世を去ることとなってしまった・・・かどうかは定かではありませんが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-02 23:26 | 八重の桜 | Trackback | Comments(2)  

八重の桜 第14話「新しい日々へ」  〜岩倉具視登場〜

 岩倉具視が出てきましたね。岩倉卿といえば、現在40歳代以上の人は、まず500円札を思い出すでしょう。その肖像の人相が悪かったこともあってか、明治維新の元勲のひとりでありながら、後世にあまり人気がありませんね。かく言う私も、子供の頃は500円札を見て、「目つきの悪いガマガエルオヤジ」だと思っていました。実際にはどんな人物だったのでしょう。

 岩倉具視は下級公家の出身でしたが、1858年(安政5年)、幕府が日米通商条約締結の勅許を朝廷に求めてきた際、岩倉は幕府の苦境に乗じて朝廷の権威回復を図ろうと考え、中山忠能をはじめ条約調印に反対の考えを持つ公卿88人に呼びかけ、勅許を阻止すべくデモを起こします(八十八卿列参事件)。本来、朝廷内での列参(デモ行為)は許されていませんでしたが、岩倉はそんなことは一切頓着せず、このとき彼は、一晩で100人以上もの公卿のもとに訪問して説得して回ったといいますから、公卿には珍しい豪胆な人物だったことがうかがえます。結果、岩倉の起こした運動は受け入れられ、幕府大老・井伊直弼の独断での条約調印となってしまうんですね。これが、幕末動乱の銃爪になっていったのは、これまでのドラマで観てきたところです。

 その後、幕府と朝廷の対立が深まると、今度は「公武合体論」を掲げて幕府と朝廷の仲介に乗り出します。それが、孝明天皇(第121代天皇)の妹・和宮親子内親王と第14代将軍・徳川家茂との婚姻でした。これを機に岩倉は、「公武一和」を天下に示すべきとし、政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきだと画策しますが、ことは思うように運ばず、あまりにも派手に立ち回り過ぎたため、尊攘派の志士や廷臣の反発を買って失脚、京都の北に位置する岩倉村に隠遁せざるを得なくなります。そこでの生活は困窮を極めたものだったといいます。

 蟄居生活約5年、慶応元年(1865年)あたりから、次第に反幕派の志士たちが岩倉のもとを訪ねるようになり、土佐藩士・坂本龍馬、同・中岡慎太郎、薩摩藩士・大久保利通らとの交流を重ね、やがて政界復帰の準備をはじめます。本話で大久保と面会していた場面がこの頃ですね。大久保と岩倉は、こののちの王政復古から明治維新にかけて、深く関わっていくことになります。そういえば、岩倉同様、大久保も後世に人気がありませんよね。ふたりとも権謀術数の人というイメージが強いからでしょうか。マキャベリストという点で言えば、この時期の西郷隆盛も大同小異なんですが、どうもこの二人は人気がない。やはり、人相が大いに影響しているでしょうね(笑)。少々気の毒な気がしないでもないです。

 事実、権謀術数をたくみに操った人ではあったのでしょうが、明確な意思表示を避けて遠回しな表現を好む公卿たちのなかにおいて、岩倉のような豪胆な人物が公家社会にいたことが、明治維新の追い風になったことは間違いありません。もうちょっと評価してあげてもいいような気もしますね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-08 23:42 | 八重の桜 | Trackback | Comments(4)