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平清盛 第30話「平家納経」

 後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)の対立関係は深まりつつあったが、それでも重要な国政は天皇と上皇、摂関家の合議によって行われていた。そのバランスが崩れたのは、応保元年(1161年)9月、平清盛の義妹で後白河院の寵姫となった滋子(のちの建春門院)が、皇子の憲仁親王(のちの第80代高倉天皇)を産んでからである。

 全話の稿(参照:29話)でも述べたとおり、滋子は清盛の妻・時子の異母妹で、実兄には稀代な野心家として名高い平時忠がいた。妹が皇子を出産したことで有頂天になった時忠は、清盛の弟・平教盛と結託して憲仁親王を皇太子の座に据えるべく画策した。しかし、彼らの陰謀はあえなく露見し、激怒した二条帝は時忠たちを解官、後白河院は政治から排除され、国政は天皇と摂関家の合議によって行われることになった。さらに翌年6月、時忠は源資賢ら後白河院政派と共に二条帝を呪詛したという罪をきせられ、出雲国へ流罪となった。このとき後白河院の近臣が多数処罰され、こうして、後白河院政は完全に停止に追い込まれたのである。

 「保元の乱」の敗北によって讃岐国に配流となっていた崇徳上皇(第75代天皇)は、その後、二度と京の地を踏むことはなかった。『保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒し、五部大乗経の写本づくりに心血を注いだという。そして完成した写本を、先の乱での戦死者の供養と反省の証に京の寺に収めてほしいと朝廷に送ったところ、後白河院が「呪詛が込められているのではないか」と疑って送り返したという話はドラマのとおり。これに怒り狂った崇徳院は自らの舌を噛み切り「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と写本に血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿のなり、生きながらにして天狗になったとされている。まさしく、ドラマの鬼気迫る演出そのものの伝承である。

 崇徳院が崩御したのは長寛2年(1164年)8月で、「保元の乱」から8年後のことである。ドラマでは、最後は穏やかな顔で逝った崇徳院だったが、実際には死後も怨霊として恐れられ続けた。こののち時の為政者たちは、事あるごとに崇徳院の呪いを意識するようになり、慰撫に躍起となっていったという。そうして怨霊としての崇徳院のイメージは武士の時代になっても歴史の中に定着し、死後700年以上経った慶応4年(1868年)には、明治天皇(第122代天皇)の即位に際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳院の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建するに至った。さらに崇徳天皇800年祭に当たる昭和39年(1964年)には、昭和天皇(第124代天皇)の意向によって香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、式年祭を執り行わせている。まさしくその予言どおり、崇徳院は日本史の中で800年近くもの間「日本国の大魔縁」であり続けた。その生前、天皇・上皇という立場にありながら一度として実権を持てなかった崇徳院だったが、死後、日本史の中に強烈な存在感を残した。

 清盛の次男・平基盛が死去したのは崇徳院の怨霊ではなく、同じく「保元の乱」の敗北者である藤原頼長の怨霊に祟られ溺死したと、『源平盛衰記』には記されている。享年24歳。先に述べた時忠の教盛の憲仁親王皇太子擁立の企てに関わっていたようで、彼らと同日に解官されていたが、その人となりは兄の平重盛に勝るとも劣らない有能な人物だったとか。その早世に、さぞや清盛は嘆き悲しんだことだろう。

 長寛2年(1164年)9月、清盛は一門の栄達を感謝し来世の冥福を祈るため、厳島神社に写経を奉納した。今も同社に伝わる国宝『平家納経』である。『平家納経』は平家の繁栄を願って一門同族郎等が1人1巻を分担して書写したもので、清盛の自筆願文に「書写し奉る妙法蓮華経一部廿八品、無量義、観普賢、阿弥陀、般若心経等各一巻」とあるように、32巻の経典のことで、願文を合わせると33巻になる。清盛を始め、重盛とその子息、頼盛教盛経盛等、32人にそれぞれ1品1巻ずつを当てて制作にあたった。ドラマでも描かれていたように、表紙絵や経典の外装、それらを収める経箱の工芸美など、当時の技巧の粋を集めた豪華な巻物で、平安末期美術工芸史上の代表作品とされている。その善美を尽くした経典は平家の絶頂を示すものといわれ、その栄華のほどを物語っている。今まさしく、平家は全盛期を向かえようとしていた。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-30 21:34 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第23話「叔父を斬る」

 後白河天皇(第77代天皇)方の勝利で幕を閉じた「保元の乱」。その戦後処理を一手に引き受けた信西は、敗者への苛烈極まりない処分を断行していった。まず、仁和寺において拘束された崇徳上皇(第75代天皇)を讃岐国に配流。天皇もしくは上皇の配流は、奈良時代に起きた「藤原仲麻呂の乱」における淳仁天皇(第47代天皇)の淡路配流以来、およそ400年ぶりのことだった。敗軍の将とはいえ、既に出家を果たしており、また上皇という高貴な身分を考慮するなら、京のしかるべき場所に幽閉される程度の刑に留めおかれると思われたが、処分は遠国に流罪という予想外に厳しいものだった。後白河帝を頂きに権勢を振るいたい信西としては、力を失ったとはいえ上皇という立場にある崇徳院の息の根を完全に止めておきたかったのだろう。

 また信西は、これを機に藤原摂関家の弱体化をはかった。崇徳院方の参謀だった藤原頼長は、奈良の興福寺にいた父・藤原忠実に助けを求めるも拒否されて自害(参照:第22話)。忠実にしてみれば、頼長に連座して罪人になることを避けるための苦渋の選択だった。しかし、信西は忠実を罪人として扱い、洛北にある知足院に幽閉。崇徳院のように流罪とならなかったのは、79歳という高齢が主な理由だったようである。そして信西は忠実、頼長が持っていた摂関家領を没収。後白河方についていた関白・藤原忠通が残っているとはいえ、摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕する。『保元物語』によれば、忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。

 その他、頼長の息子たちを始め、崇徳院方についた公家の多くが流罪に処せられたが、その武力となって前線で戦った武士たちへの処分はより苛烈なもので、源氏では源為義とその4人の息子たち、平氏では平忠正とその4人の息子たちに対して信西は、大同5年(810年)の「薬子の変」を最後に、およそ350年行われていなかった死罪を言い渡した。しかもその刑の執行を、源氏、平氏のそれぞれの棟梁である源義朝平清盛に命じたのである。ドラマでは、義朝、清盛ともに刑に不服を申し立てていたが、実際に助命を嘆願していたと伝えられるのは義朝だけである。清盛と忠正は、もともと平氏内でも対立関係にあった。義朝と為義も対立していたという点では同じだが、叔父と甥、父と息子では関係の深さが違いすぎる。さして仲の良くない叔父一族を斬った清盛に比べて、実の父や年若い弟たちに手をかけた義朝の心痛は並々ならぬ大きさだったといえよう。

 断腸の思いで父と弟たちを処刑した義朝だったが、歴史書として信憑性が高いとされる『愚管抄』によると、
「為義は義朝がり逃げて来りけるを、かうかうと申ければ、はやく首を切るべきよし勅定さだまりにければ、義朝やがて腰車に乗せてよつつかへ遣りてやがて首切りてければ、『義朝は親の首切りつ』と世には又ののじりけり。」
(意訳:為義は義朝のもとへ逃げてきたのを、義朝が朝廷に報告すると、速やかに斬首にするよう帝から命令が下されたので、義朝は為義を輿に乗せて、よつつか(地名?)へ連れて行って間もなく首を刎ねたので、『義朝は親の首を斬った』と世の人々は騒ぎ立てた。)

とある。実の親を斬った義朝への世間の風当たりは強かったようだ。

 一方で『保元物語』では、義朝は自分で斬ることができず、側近の鎌田次郎正清に命じたと書かれている。ドラマは、この説をベースにアレンジしたのだろう。念仏を唱えながら斬首を待つ描写も、同物語からの引用のようだ。さらに同物語では、清盛は自分が忠正を斬れば、義朝も為義たちを斬らざるを得なくなることを見越して、すすんで叔父の処刑に踏み切ったと記されている。ドラマでは同時進行となっていたが、実際には為義たちの処刑は忠正たちの処刑の2日後のことで、たしかに、それが義朝に刑の執行を決断させることになったのかもしれない。平氏にとってはこの刑はさほど痛手ではなく、むしろ清盛にとっては、かねてから意見が合わなかった傍流を始末するいい機会だったと言えなくもない。一方の源氏は、義朝自身は昇進したものの多くの兄弟を失うこととなり、勢力の弱体化は避けられなかった。それこそが、信西のねらいだった。摂関家を武力で支えた源氏の勢力を削ぐことは、とりもなおざず摂関家の弱体化につながる。忠正は、いわばそのダシとして処刑されたといっても過言ではないかもしれない。その策謀に清盛が一役買っていたかどうかは定かではないが・・・。

 いずれにせよ、貴族は流罪、武士は死罪という処分に、清盛は何を感じただろうか。保元の乱によって武士の力をまざまざと見せつけたとはいえ、世の慣らいは依然として武士を見下したものだった。しかし、武士の世はもうすぐそこまで来ていた。そのことを、清盛はこの頃から少しずつ感じ始めていたかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-06-11 16:03 | 平清盛 | Comments(2)  

平清盛 第18話「誕生、後白河帝」

 久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇(第76代天皇)が17歳の若さで崩御した。近衛帝は鳥羽法皇(第74代天皇)の第9皇子で、生母は皇后の美福門院得子。これまで何度も紹介してきたとおり、近衛帝の兄である崇徳上皇(第75代天皇)は、鳥羽院と中宮・待賢門院璋子との間に長男として生まれながら、鳥羽院は祖父の白河法皇(第72代天皇)と璋子が密通して出来たのが崇徳院だと信じて疑わず、鳥羽院は終生、崇徳院のことを「叔父子」と呼んで忌み嫌ったと伝えられる。そのことが理由だったかどうかはわからないが、鳥羽院政下で崇徳院は23歳の若さで天皇位を無理やり退位させられ、わずか3歳の近衛帝が誕生した。崇徳院にしてみれば、天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳院にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

 その近衛帝が崩御した。近衛帝は病気がちで、藤原頼長の日記『台記』によれば、15歳の時には一時失明の危機に陥り、退位の意思を関白・藤原忠道に告げたという。17歳での早世で、しかも病気がちだったため皇子はおらず、近衛帝の崩御は、天皇家の内紛の序章となるには想像に難しくなかった。

 当然ながら、崇徳院はわが子の重仁親王を即位させ、自身が治天の君となって院政を行うことを期待した。嫡流という点でいえば、重仁親王の即位が最も相応しいといえた。一方で、鳥羽院亡き後も権勢を保ちたいと考えていた美福門院得子は、関白・藤原忠通と組んで、鳥羽院の第4皇子・雅仁親王の第1皇子・守仁親王(のちの第78代・二条天皇)を皇位につけようと画策し、鳥羽院もそれを支持していた。しかし、それには問題があった。存命中の父が天皇を経験していないにもかかわらず、その息子が皇位についた前例がなかったのである。そこで、にわかに浮上してきたのが雅仁親王だった。

 この頃の雅仁親王は政治的な問題には一切感心を示さず、当時流行していた歌謡・今様に耽溺する日々を送っていたという。兄である崇徳院は雅仁親王のことを「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評しており、また、雅仁親王の乳父だった信西(藤原通憲)でさえ、「和漢の間 比類少なき暗主なり」と、こき下ろしている。当時の朝廷内では、誰もが雅仁親王のことを「帝の器にあらず」と考えていた。そんな雅仁親王に白羽の矢が立ったのは、何としても重仁親王の即位を回避したい者たちの政治的な思惑から、いったん雅仁親王に即位させ、そのうえで守仁親王に譲位させるという、いわば中継ぎ投手的な役割での即位だった。こうして、本人さえなるはずがないと思っていた天皇、第77代・後白河天皇が誕生したのである。この皇位継承により、崇徳院が院政を行う望みは完全に絶たれたに等しかった。

 この重要な時期に、内大臣・藤原頼長が妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったのはドラマのとおりで、皇位継承を決める王者議定にも参加していなかった。常に正論をもって臨んだ頼長は重仁親王を推していた。守仁親王を推していた兄・忠道とは対立関係にあり、一説には、近衛帝の死は頼長が呪詛したためだという噂を立てられ、職務を停止されて事実上の失脚状態となっていたともいわれる。厳しい処罰を伴う頼長の厳格な政治姿勢は、多くの敵を作り、反頼長組織を生んでいた。政治とは、正論ばかりでは行えないというのは、今も昔も変わらないようだ。

 政権から締め出された崇徳院と頼長が接近するのは時間の問題だった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-07 01:46 | 平清盛 | Comments(2)  

平清盛 第11話「もののけの涙」

 平清盛の最初の妻については、高階基章という廷臣の娘だったということと、長男・平重盛、次男・平基盛の二人の男子を産んだということ以外は何もわかっていない。したがって今話の彼女に関するストーリーは全て創作である。重盛が生まれたのは保延4年(1138年)、基盛が生まれたのは保延5年(1139年)とされており、清盛の2番目の妻となる時子が三男・平宗盛を生むのが8年後の久安3年(1147年)のことなので、おそらくはこの間に何らかの理由で死別したものと思われる。清盛と最初の妻との結婚は身分違いの“格差婚”で、出自からいえば2番目の妻である時子の方が上であることから、名前もわからない身分違いの最初の妻を「正室」と見るか否かは歴史家の中でも意見がわかれているらしい。ただ、清盛があくまで重盛を平家の後継者と考えていた様子から見れば、最初の妻を「正室」、時子を「継室」と考えるのが正しいのかもしれない。いずれにせよ、最初の妻と清盛との夫婦生活は、おそらく7~8年で終わったようである。

 永治元年(1141年)、朝廷では崇徳天皇(第75代天皇)が異母弟の体仁親王に譲位。わずか3歳の近衛天皇(第75代天皇)が即位した。崇徳帝が近衛帝への譲位を承諾したのは、近衛帝が自身の「皇太子」の立場で即位すると考えていたからだった。たとえ弟であっても皇太子に位を譲るのだから、崇徳帝は「父」の資格をもって院政を行えると期待していたのである。しかし、譲位の内容を記した宣命には「皇太弟」と書かれており、父権はあくまで鳥羽法皇(第74代天皇)のままだった。騙されたと知った崇徳帝は、鳥羽院を深く恨んだという。天皇の兄では院政は行えないのである。

 ここで鳥羽院と崇徳院の関係を今一度おさらいしておくと、崇徳院は鳥羽院と待賢門院璋子との間に長男として生まれながら、鳥羽院は祖父の白河法皇(第72代天皇)と璋子が密通して出来たのが崇徳院だと信じて疑わず、鳥羽院は終生、崇徳院のことを「叔父子」と呼んで忌み嫌ったと伝えられる。これがもし事実ならば、鳥羽院の白河院に対する恨みは相当なものだっただろう。崇徳帝を排して弟の近衛帝を即位させたのも、白河院の定めた「直系」を排して、自身が決めた「直系」に移行し、鳥羽院の思いどおりの院政が行えるようにしたばかりか、自身の死後も崇徳院に院政の権限を与えないためという意図もあったと思われる。白河院の命によって、わずか5歳の顕仁親王(崇徳院)に天皇の座を譲って以来、鳥羽院はずっとこの日を待っていたのかもしれない。鳥羽院の白河院に対する恨みはわからなくはないものの、崇徳院にしてみればすべて生まれる前の出来事。にもかかわらず、父からは「叔父子」と呼ばれて冷遇され、白河院への恨みをはらす対象となってしまった崇徳院は、少々気の毒な気がしないでもない。すべての悪の元凶は白河院にあった。「もののけ」と言われても仕方がないところである。

 鳥羽院の寵愛を受け、近衛帝の生母であることを背景に、皇后・美福門院得子の勢力は待賢門院璋子を日に日に圧倒していった。ドラマにあった、璋子に仕えていた判官代・源盛行とその妻・津守嶋子が得子を呪詛したという疑いで土佐国に流されたという話は史実で、近衛帝即位の直後の出来事だった。白河院の死後、凋落の一途を辿っていた璋子が、さらに崇徳帝の退位によって国母の座も奪われ、その恨みの矛先を得子に向けて呪詛の指示を出したといわれているが、一方で、これを機に待賢門院璋子とその一派を一掃するために、関白の藤原忠通と美福門院得子がしかけた謀略だったのではないかという見方もある。いずれにせよ、この約1ヶ月後に待賢門院璋子は出家した。おそらく、この呪詛事件に関連しての出家だったであろうことは間違いなさそうである。かつて鳥羽院から「もののけ」と罵られた待賢門院璋子。このとき「もののけ」の目に涙があったかどうかは知る由もないが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-21 00:32 | 平清盛 | Comments(2)  

平清盛 第9話「ふたりのはみだし者」

 このドラマの中で頻繁に登場する双六遊びのシーン。現代の私たちは双六というと、家族ぐるみで楽しむ和やかな盤上遊戯というイメージだが、平安時代における双六は、を用いる博打で、射幸心を著しくくすぐる危険な遊戯だった。このため、ときの為政者は再三再四、双六禁止令を出したようだが、なかなか徹底されることはなかったという。今の世の中でも、どれだけ不況の中でもパチンコ屋の売上は落ちることはないと聞くが、博打の麻薬性というのは、いつの時代も変わらないらしい。『平家物語』によると、白河法皇(第72代天皇)は、自分の思いどおりにならないものとして「鴨川の水、双六の賽、山法師」の3つをあげて嘆いており(天下三不如意)、どうやら白河院も双六に熱中していたようである。そしてドラマ中、双六に負けて身ぐるみを剥がれていたのが、その白河院の曾孫であり、平清盛の後半生に深く関わってくることになる、雅仁親王ことのちの後白河法皇(第77代天皇)である。

 後白河法皇は鳥羽法皇(第74代天皇)の第四皇子として大治2年(1127年)にこの世に生を受けた。元永元年(1118年)生まれの清盛よりも9歳年下ということになる。生母はあの天然悪女系キャラの中宮・璋子(待賢門院)。鳥羽院の第一皇子である顕仁親王は言うまでもなくのちの崇徳上皇(第75代天皇)だが、崇徳院は鳥羽院の祖父である白河院が璋子と密通して生まれた子だといわれ、その醜聞を信じて疑わなかった鳥羽院は崇徳院を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたと伝えられる(参照:第5話)。その後、鳥羽院と璋子の間には、次々に皇子が生まれるが、第二皇子通仁親王は生後まもなく失明したそうで、しかも病弱だったらしく6歳で夭折したという。また、第三皇子君仁親王は足が不自由な身体障害児として生まれ、耳も聞こえなかったらしい。さらに、崇徳院になかなか子供が出来なかったため、この時点では顕仁親王にも帝位に就く可能性は少なからずあった。しかし、保延5年(1139年)、鳥羽院と皇后の得子(美福門院)との間に体仁親王(のちの第76代・近衛天皇)が生まれたことにより、その可能性はほぼなくなったと誰もが思った。そのことは、当時12歳だった顕仁親王こと後白河院自身が一番そう思っていたことだろう。

 事実、親王時代の後白河院は政治的な問題には一切感心を示さず、当時流行していた歌謡・今様に耽溺する日々を送っていたという。今でいえば、名家の御曹司に生まれながらロックミュージシャンを目指して音楽にうつつをぬかすドラ息子、といったところだろうか。後白河院の今様好きは度を越していたようで、後年、今様などの当時の歌謡を集めた全二十巻の『梁塵秘抄』という歌謡集を編纂した。このドラマのテーマ曲ともなっている「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん」という歌も、『梁塵秘抄』に収録された歌のひとつである。仮に顕仁親王が後白河天皇に即位していなければ、この『梁塵秘抄』を編纂した皇子として、芸能国文学の分野のみに名を残していたに違いない。

 しかし、誰もが天皇に即位することはないと思っていた顕仁親王は、様々な政治的思惑によって再び表舞台へ浮上することとなり、なるはずのなかった天皇の座に就くこととなる。兄である崇徳院は後白河院のことを「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評しており、また、後白河院の天皇即位を後押しした乳父の信西(藤原通憲)でさえ、「和漢の間 比類少なき暗主なり」と、こき下ろしている。たしかに、遊び人だったといわれる一面においてはそうだったかもしれないが、こののち天皇、上皇、法皇として三十数年もの長きに渡って君臨し続けたのも事実で、後世にその評価は分かれるところである。本ドラマでの後白河院はどう描かれるか・・・。今後の展開を楽しみにしたい。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-05 17:04 | 平清盛 | Comments(0)