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平清盛 第48話「幻の都」

 富士川の敗戦による平家の威信の低下は深刻だった。平清盛にとって一世一代の大事業だった福原遷都事業は思うようにはかどらず、平安京に都を戻す「還都」を望む声が日増しに高まっていた。もともと福原遷都に意欲的だったのは清盛ひとりで、朝廷内はもちろん、平家一族内でも反対意見が多かっただけに、ひとたび権威が落ち始めると「還都」の声が大きくなるのは当然の成り行きだったといえよう。なかでも京周辺の寺院の反発が激しく、以仁王に味方した園城寺興福寺はもちろん、長年平家と協調関係を保っていた延暦寺の衆徒までが東国の反乱勢力に呼応して、還都の要求を激化させた。彼ら寺院たちの国家的使命は、儀式や祈祷によって朝廷を守ることにあり、その守るべき朝廷が福原に引っ越してしまえば、自身の存在価値はなくなる。京周辺の寺院が還都を要求するのも当然の主張だった。

 さらに清盛にとって不運だったのは、高倉上皇(第80代天皇)のだっただろう。福原に移って以来、遷都による心労や慣れない海辺の環境によるストレスなどが重なってか、上皇の健康状態は悪くなる一方だった。高倉院政を傀儡として権力の基盤を保っていた清盛にとって、上皇の存在は無視できないものだった。なんとしても健康状態を回復してもらわねばならない。「このような辺土で死にたくない」という上皇の願いに、さすがの清盛も耳をかさざるを得なかっただろう。

 清盛の三男・平宗盛が生涯一度だけ清盛に反抗したといわれるのも、このときだったといわれる。死んだ兄・平重盛と比べて凡庸無能と酷評される宗盛だが、このときばかりは一族の前で還都をめぐって清盛と激論を交わし、周囲を驚かせたと九条兼実の日記『玉葉』に記されている。宗盛にしてみれば、おそらく相当な覚悟で清盛に意見したに違いない。従来であれば、清盛の威厳で一蹴されたであろうが、上皇の病など悪条件が重なり、もはやこの時点で清盛の主張を理解する者はおらず、清盛の孤立は明らかだった。

 数日後、ついに清盛は平安京への還都を決意した。清盛の描いた福原京の構想は、わずか5ヶ月で幕を閉じた。

 福原遷都の失敗は清盛の権威をますます失墜させた。人望も権威も失いつつあった清盛が威信の回復を図るには、武力によって反乱勢力を潰すしかない。清盛はまず手始めに近江の園城寺を焼き討ち、続いて畿内最大の反平家勢力・南都興福寺を討伐すべく、平重衡を総大将とする追討軍を南都に差し向ける。南都に攻め入った追討軍は、興福寺、東大寺など七寺院に火を放った。興福寺では金堂や南大門をはじめ堂舎38ヶ所が燃え尽き、東大寺も正倉院を除いてほとんどの堂舎が消失。大仏もむざんに焼きただれた。『平家物語』によると、大仏殿の2階には老僧や子供などが避難していて、追手が来ないよう梯子をはずしていたため迫り来る炎から逃れられず、無惨極まりない地獄絵図が繰り広げられたという。焼死者の数は数千人にものぼったとか。このとき討ち取られた悪僧49人の首級は、ことごとく溝や堀に打ち捨てられたという。

 この「南都焼討」について『平家物語』では、夜戦となり明かりが必要になったため民家に火を放ったところ、風にあおられて瞬くまに燃え上がったとある。あくまで過失だったというのだ。しかし、南都攻めの手始めとして追討した園城寺を焼き討ちしていることを思えば、この南都焼討も計画的だったと考えていいのではないだろうか。

 「それこそが、もはや運が尽きたということよ。天は平家を見放したのじゃ」

 平家の悪行の最たるものとして後世に伝わるこの南都焼討。計画的だったにせよ過失だったにせよ、天が平家を見放し始めていたのは確かだった。それは歴史の示すとおりである。



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by sakanoueno-kumo | 2012-12-10 21:09 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第45話「以仁王の令旨」 その1

 「治承三年のクーデター」を敢行して覇権を掌握した平清盛は、翌年2月には高倉天皇(第80代天皇)に譲位をせまり、孫の安徳天皇(第81代天皇)を即位させた。天皇には自身の孫が、上皇には義理の甥が、そして摂政には娘婿の近衛基通が就き、平家の縁戚で朝廷中枢を固める体制を確立した。いうまでもなく高倉院と基通は平家の操り人形にすぎず、事実上、清盛の独裁政治が始まったといえた。ただ、そんな清盛もその専制体制を強める段階でいくつかのミスを犯した。この政変によって失脚した後白河法皇(第77代天皇)の第3皇子・以仁王の領地を奪った点もそのひとつといえるだろう。

 清盛の義妹であり高倉帝の生母である建春門院滋子の妨害によって、親王の地位さえも得られぬまま成長した以仁王は、かねてから平家の専横に並々ならぬ反感を抱いていた。そんななか領地を奪われ、さらに翌年の春には甥の安徳帝が即位したことで、自らの皇位継承の道が完全に断たれたことを悟った以仁王は、これまで以上に清盛に敵愾心を抱くようになったに違いない。以仁王は打倒平家の令旨を諸国の源氏に発し、決起を呼びかけたのである。

 この決起に至る経緯にはいくつかの見方があって、『平家物語』によると、源頼政が以仁王に挙兵するよう説得したことになっている。これを受けた以仁王は熟慮の末に頼政のすすめに従った・・・と。ドラマで描かれていた、頼政の嫡男・源仲綱の所有する名馬「木下(このした)」平宗盛が欲しがり、強引に借り受けたまま二度と返さず、その馬の名前を「仲綱」と改めて尻に「仲綱」の焼印を押して、源仲綱に屈辱を味わわせたという話も『平家物語』の中にあるエピソードで、その恨みが頼政を平家打倒の挙兵に向かわせたと物語っている。いってみれば、社長のドラ息子が親の権力をかさに部下の息子のスポーツカーを借りパクして傷をつけたようなもので、この話が本当なら許し難い愚行である。

 しかし、頼政はこの2年前に清盛の推薦によって公卿に昇進し、しかもこのとき既に77歳にもなっていた頼政が、乾坤一擲の勝負に出るとは考えづらい。ドラマのとおり、以仁王に頼み込まれた頼政が、やむなく立ち上がったという見方のほうが真相ではないだろうか。いずれにせよ、以仁王の令旨には、自らを最勝親王と称し、自身を「壬申の乱」に勝利して即位した天武天皇(第40代天皇)になぞらえ、王権を我がものにした平家を倒して自らが天皇になる決意が述べられていた。

 結局のところ、この謀反はすぐに平家の知るところとなり、以仁王も頼政もあえない最期を遂げることとなる。結果的にこの一件だけみれば、彼らの起こした行動は平家にまったくダメージを与えられなかったが、この出来事きっかけに、源頼朝木曾義仲を始めとする反平家勢力が各地で勢いづくこととなる。その意味では、平家打倒の原動力となったという意味においては、以仁王の令旨は歴史的にみて実に大きな意義があったといえよう。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-22 23:57 | 平清盛 | Comments(0)  

KOBE de 清盛 史跡めぐり その3

その2で紹介した清盛塚から歩いて4〜5分の場所にある能福寺に、平清盛の墓と伝わる「平相国廟」があります。
e0158128_1342182.jpg清盛と能福寺の縁は、治承4年(1180年)の福原京遷都にともない清盛が能福寺で剃髪入道(浄海)し、平家一門の祈願寺に定められ大伽藍が建設され八棟寺と称されたそうです。
養和元年(1181年)に死去した清盛は京都で荼毘にふされ、その後この寺の住職・圓實法眼が清盛の遺骨を持ち帰り寺領内に葬ったと伝えられています。
その後、平家の滅亡により能福寺と共に「平相国廟」も灰燼に帰したそうですが、約100年後の弘安9年(1286年)、時の執権・北条貞時が平家一門の盛衰を哀れみ、石塔を建て清盛の霊を弔ったと伝えられています。
その2で紹介した「清盛塚」と同じ伝承ですね。
どちらかが本物でもう一方は間違いなのか、あるいはどちらも同時期に建てられたのか、定かではありません。
というのも、ここ能福寺は暦応4年(1341年))兵火により全焼したといわれていおり、その後、慶長4年(1599年))長盛法印によって再建されたと伝えられています。
現在ある「平相国廟」は、平清盛の800年忌を迎えるに際して、昭和55年(1980年)に再建されたものです(中央に建つ「十三重石塔」は、貞時が建設した当時のものだとか)。

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「平相国廟」の復興に伴い、「十三重石塔」の右側に、かつて能福寺の住職で清盛剃髪出家の師匠である圓實法眼を弔った「圓實法眼宝篋印塔」、左側には清盛の弟・平教盛の長子で圓實法眼の弟子であり、かつて能福寺の住職であった忠快を弔った「忠快法印塔(九重塔)」も同時に建てられたそうです。
これら両印塔は、いずれも鎌倉時代に作られたものだと伝わっています。

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実際には、清盛の遺骨はどこに埋葬されたのでしょうか?
『平家物語』「入道死去」『吾妻鏡』の記述によると、臨終直前の清盛は、自分が死んだ後は播磨山田の法華堂(神戸市垂水区)に埋葬するよう遺言を残しており、また、京都に立派な堂塔を建てたり、盛大な仏事を行ったりしてはならないと命じていたそうです。
法華堂は現存しませんが、播磨山田の地は明石海峡に面した風光明媚な場所で、おそらくは清盛が何度も船から眺めた地であり、平家にとって海陸の拠点のひとつであったと考えられています。
ところが、どういうわけか後継者となった平宗盛(清盛の三男)は、父の遺言を忠実に実行していません。
「入道死去」の記述によれば、宗盛は清盛の遺体を愛宕(京都市右京区)で荼毘にふした後、摂津の経ヶ島(神戸市兵庫区)へ埋葬したといいます。
経ヶ島とは清盛が大輪田泊を整備した際に、風浪を緩和するために築かれた人工島です(大河ドラマで兎丸が監督していた事業ですね)。
経ヶ島が築かれた詳しい場所はわかっていませんが、この説に基づいて、この付近の「清盛塚」「平相国廟」の伝承が後世に受け継がれてきたのでしょう。
それにしても、宗盛がなぜ父の遺言どおりに遺骨を法華堂に埋葬しなかったのかは謎です。
まあ、そもそもそんな遺言があったかどうかも定かではないですけどね。

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ちなみに清盛の墓碑と伝わるものとしては、京都市東山区にある六波羅密寺の境内にも存在するそうです。
六波羅密寺は清盛の父・平忠盛が堂宇を寄進した寺院であり、清盛の遺骨が埋葬されたとしても不思議ではありません。
ただし、だとすれば寿永2年(1183年)の平家都落ち以降は、そのままにしておくと源氏方の手で墓を暴かれる可能性があったでしょう。
事実、清盛の嫡子・平重盛の遺骨は都落ちの前後に平家側近の手によって掘り出され、紀伊高野山へ改葬されたとも伝わります。
あるいは清盛の遺骨も、都落ちの際に宗盛らの意向で掘り出され、どこかに改葬されたかもしれませんね。

「平相国廟」の隣には、「平家源氏将兵戦没者五輪供養塔」というものがありました。
説明看板のようなものがなかったため詳しいことがわからないのですが、これも鎌倉時代のもののようです。↓↓↓

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あと、清盛には関連しませんが、ここ能福寺に鎮座する兵庫大仏(胎蔵界大日如来像・毘慮舎那仏)を、ついでに紹介します。

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兵庫大仏は、兵庫港開港以来急速に増えたキリスト教信者に危機感を抱いた仏教徒らが、キリスト教に対抗して仏教徒のシンボルとなる大仏建立を進めたといいわれており、明治23年(1891年)に豪商・南条荘兵衛の寄進により建立されました。

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この兵庫大仏は身丈(像高)11m、重量約60t、蓮台高3m、台座高4m、総高18mあり、奈良の大仏(東大寺・蘆舎那仏)、鎌倉の大仏(長谷高徳院・阿弥陀如来)と並んで日本三大仏に数えられています。

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大仏座の下には永代祠堂があり、ここに安置されている十一面観世音菩薩立像は平安朝初期に作られた檜の一木造りで、滋賀県甲西町善水寺から請来したと伝えられ国の重要文化財に指定されています。
なかなか精悍な顔ですね。↓↓↓

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昭和19年(1944年)、第2次世界大戦金属回収令で兵庫大仏は解体されて国に供出され、また、翌年3月の神戸大空襲によって伽藍は全焼してしまいましたが、大仏建立100年目の平成3年(1991年)に再建されました。
金属回収の際、大仏の胎内に納められていた胎内仏は供出されることなく保存され、大仏が再建されたとき再び胎内に納められたそうです。

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日本三大仏といっても、他のふたつに比べてずいぶんと歴史は浅いものですけどね。

そんなこんなで、この辺でひとまず「KOBE de 清盛 史跡めぐりシーリズ」を終わります。
ただ、神戸にはまだまだ平家ゆかりの史跡が数多くありますので、折りをみてまた紹介出来たら、と思っています。

KOBE de 清盛 史跡めぐり その1
KOBE de 清盛 史跡めぐり その2


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-17 18:37 | 神戸の史跡・観光 | Comments(0)  

平清盛 第17話「平氏の棟梁」

 仁平3年(1153年)1月15日、父・平忠盛の死によって平清盛は伊勢平氏の棟梁となった。ときに清盛36歳。いよいよ歴史の表舞台へ飛び出していく。

 「平氏」「平家」という呼び方がある。「平氏」が平姓をもつ者全体を指しているのに対し、「平家」は、平清盛の一族をさすのが一般的だ。たしかにあの『平家物語』も清盛とその子孫たちの物語で、広く平氏全体を対象としていないことを思えば、この呼び方は正しいといえるだろう。ただし、厳密にいえば、清盛が三位以上の公卿になった時点で、「平家」と呼ぶべきであるという意見もある。三位以上の上流貴族の家では、政所(まんどころ)と呼ばれる家政機関を設置し、朝廷から職員が派遣され、個人の家でありながら公的なものになるのである。その論でいえば、清盛一家の場合も、本来なら永暦元年(1160年)に清盛が三位になった時点で「平家」と呼ぶべきで、それまではこれまでどおり伊勢平氏と呼ぶのが正しいのかもしれない。

 清盛を棟梁とした平家一門には、次のような顔ぶれがいた。まず、清盛は高階基章の娘(本ドラマでは明子という名)との間に、嫡男・重盛、次男・基盛の二男をもうけている。『平家物語』によれば、重盛と基盛は有能な人物で将来を嘱望されていたが、惜しいことに父に先立って早世してしまうことになる。わけても、重盛は平家一門の中で唯一、清盛を諌めることができる人物であったとされただけに、その死は惜しまれた。もし重盛が天寿を全うしていれば、文治元年(1185年)の平家滅亡を回避できたであろうという声が後世に少なくない。

 最初の妻の死後、清盛は継室(正室)・時子との間に、宗盛知盛重衡建礼門院徳子という三男一女をもうけた。宗盛とは、今話に出てきた清三郎のこと。先に触れたとおり、重盛と基盛が早世したため、三男である宗盛が清盛の死後に平家の棟梁、平氏一門の総帥となる。だが、残念なことに宗盛は、二人の兄ほどの人物ではなかった、と『平家物語』では伝えられている。

 また、清盛は正室、継室以外の女性との間に、知度清房の二人の息子と、少なくとも7人の娘をもうけたとされている。娘のうち、後白河法皇(第77代天皇)の女房(女官)となった女性の生母は、厳島内侍なる側室だったという記録が残っているが、他の6人の娘に関しては生母が不詳である。この6人の娘の中では、白河殿(平盛子)藤原基実の継室となり、他の娘も清盛の意向に従い、藤原兼雅藤原隆房藤原基通藤原信隆らの正室となっている。この娘たちの中には、清盛が自分の実の娘と称して嫁がせた養女も含むのかもしれない。さらに清盛は、平治の乱の後に源義朝の側室だった常盤御前源義経らの生母)と関係し、廊御方(三条殿)なる娘をもうけたという説もある。

 次に、清盛の孫たちをあげると、重盛は維盛資盛清経有盛師盛忠房、基盛は行盛、宗盛は清宗能宗、知盛は知章知忠知宗という子をもうけた。また、建礼門院徳子は高倉天皇(第80代天皇)の女御(のち中宮)となり、安徳天皇(第81代天皇)を産んだ。だが、その多くは清盛の没後、非業の最期を遂げることとなる。

 「重盛に 基盛それに清三郎 清四郎みな われらの子なり」

 このような歌を清盛が詠んだというのは当然ドラマのフィクションだが、清盛を棟梁とした平家一門の特徴は、一族が手を取り合って結束を守りぬいたところにある。それはおそらく、一門の大黒柱であった清盛の精神からきたもので、まさしく、「みな、われらの子なり、孫なり」といった思いだったのだろう。清盛の死後、都落ちに加わらなかった清盛の弟・頼盛や、途中で一門を離脱した重盛の子・維盛などもいて、必ずしも平家は一枚岩ではなかったことがよく指摘されるところだが、しかし、親子兄弟が殺し合い、一族が血で血を争う抗争を繰り広げて滅亡した源氏に比べれば、はるかに結束力があったことは確かであり、そうした一門の“絆”が平家の魅力でもあり、本ドラマのひとつのテーマでもあるようだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-01 00:26 | 平清盛 | Comments(0)