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平清盛 第16話「さらば父上」

 仁平3年(1153年)1月15日、平清盛の父・平忠盛がこの世を去った。享年58歳。当時の日記などによると、忠盛は死の2年前に就任していた刑部卿に職を、死の2日前の1月13日に辞任したという記録があるそうで、そのことから考えれば、忠盛の死は急死ではなく、おそらく病没だったのだろう。位は正四位上という四位の最上位に達していた。その上は三位、すなわち公卿である。国政に携わる一歩手前まできていただけに、まことに惜しい死であった。

 若き日の忠盛は白河法皇(第72代天皇)に重用され、検非違使などの官職、越前守などの受領を歴任し、山陽道、南海道の海賊討伐で活躍、治安維持に務め実績をあげた。白河院の没後は鳥羽法皇(第74代天皇)に忠節を尽くし、院庁の判官代別当(長官)などの要職を歴任した。後半生の忠盛はさらに、中務大輔尾張守播磨守内蔵頭などの要職を歴任する一方、鳥羽院の御厩の別当、美福門院得子年預(執事別当)なども兼ねた。そして長承元年(1132年)には清涼殿南廂の殿上の間への昇殿を許された。武家出身者が昇殿人となるのは異例のことで、これは、千体の観音像をおさめた得長寿院の造営の功により許されたものだといわれている。その後も忠盛は、保延元年(1135年)にも海賊討伐で実績をあげ、さらに保延5年(1139年)には興福寺宗徒が起こした強訴を洛外で阻止した。このように忠盛は、人並み外れた手腕、軍事力を有する時代を代表する武将だった。

 もっとも忠盛は武力財力だけで出世したわけではなかった。宮廷貴族として認められるには、それに相応しい教養を身に着けていなければならない。忠盛は武家の棟梁としてのみならず、和歌音楽にも造詣が深い人物として知られていた。特に和歌は『金葉和歌集』(白河院の命により編纂された勅撰和歌集)に載るほどの名手だったようだ。『平家物語』にも、備前から帰ってきた忠盛が鳥羽院に「明石浦はどうであった」と聞かれて、即座に「有明の月も明石のうら風に浪ばかりこそよるとみえしか」(残月の明るい明石浦に、風が吹かれて波ばかり寄ると見えた)と詠んだエピソードが残されている。「明石」「明かし」「寄る」「夜」をかけた歌で、その出来栄えに鳥羽院も大いに感心したという。

 管弦ではをよくしたという。「小枝(さえだ)」という笛を鳥羽院から賜り、それを三男の平経盛に譲り、それがさらに孫の平敦盛に伝わったことが、『平家物語』「敦盛最期」に見える。その他、舞は元永2年(1119年)の賀茂臨時祭で舞人を務め、見物の公卿に「舞人の道に光華を施し、万事耳目を驚かす」と称えられたほどであった。ドラマでの忠盛は無骨な武家の棟梁としての一面だけしか見られなかったが、実際の忠盛は和歌、管弦、舞などの芸術面にも優れた文化人でもあったようである。いや、武力一辺倒の武士のイメージを払拭するため、また、朝廷での平家の地位を高めるため、血のにじむような努力を重ねた上のものだったのかもしれない。

 ちなみに、平家一門には平忠度(清盛の末弟)の和歌や平経正(経盛の長男)の琵琶など、和歌や管弦など芸術面に優れた人物が多いが、これも忠盛の血を引く遺伝的素質だったのだろう。そう考えれば、清盛が芸術面でこれといった才能を見せなかったのが興味深い。ひょっとしたら、ドラマのとおり清盛と忠盛には血の繋がりがなかったのだろうか・・・。

 忠盛の死にあたって、祇園闘乱事件では忠盛・清盛父子の刑を主張した悪左府・藤原頼長でさえ、自身の日記『台記』に次のように記している。
 「数国の吏を経て、富は巨万を重ね、奴僕は国に満ち、武威は人にすぐる。然るに人となり恭倹にして、未だかつて奢侈の行あらず。時の人、これを惜しむ」
 巨万の富と多くの家来を持ち、人にまさる武威を持ちながら、あくまで慎み深く、贅沢な振る舞いはなかった・・・と、あの憎たらしい頼長からは想像できないほどの賛辞を書き残している。この一文からも、忠盛の人となりが窺えるというものである。若き日の清盛が飛ぶ鳥を落とす勢いで異例の出世を遂げたのも、父・忠盛の配慮によってのもので、この時期はまだ忠盛あっての清盛だった。

 公卿を目前にして叶わなかった忠盛だったが、その最終の位である正四位上というのは、通例ではあまり与えられる者のない位階で、公卿になる人はこれを飛び越えて三位になる場合がほとんどだった。忠盛が異例の正四位上についたのは、なんとしても武家を公卿にしてはならないという政治力がはたらいた結果と考えられなくもない。いかに富を蓄え、武力を持ち、宮廷人としての素養を身につけても、武士が公卿に上る道は依然として険しかったのである。その道は、こののち清盛に引き継がれていく。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-24 16:37 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第15話「嵐の中の一門」

 平清盛の異母弟・平家盛の死から2ヶ月後の久安5年(1149年)5月、高野山の根本大塔が落雷による火災で焼失し、その再建を父・平忠盛鳥羽法皇(第74代天皇)より命ぜられる。このとき清盛は父の代官として高野山に登り建立奉行を務めた。清盛はこの再建事業にあたり、金堂に掲げる大きな両部曼荼羅を寄進した。その制作過程において 、胎蔵曼荼羅の中尊に、清盛自らの頭の血を絵具に混ぜて描かせたという逸話が『平家物語』のなかにある。もっとも、ドラマのように忠盛に殴られて血を流したわけではなく、自ら額を割って血を抜いた、というのが、オリジナルのエピソードである。この造営事業は7年後の保元元年(1156年)まで続けられ、その竣工を待たずして忠盛は没している。

 改元したばかりの仁平元年(1152年)2月、清盛は安芸守に任命された。後年、清盛が安芸の厳島神社を熱心に信仰したことはよく知られているが、平家と厳島の関係は、清盛の安芸守就任と、このときの高野山大塔の造営事業が大きく関係していたという。

 鎌倉初期に生まれた『古事談』によると、高野山大塔の造営事業の最中、清盛自ら材木を担いで運ぶなどの作業をしていたが、ある日、香染めの衣をまとった僧侶が現れ、「わが国の大日如来は伊勢大神宮と安芸の厳島である。大神宮はあまりにも尊い。汝はたまたま安芸の国司となった。早く厳島に奉仕しなさい。」といって忽然と姿を消した。その後、厳島に参詣し社殿の修築を行ったところ、巫女の口をとおして「あなたは従一位太政大臣になるであろう」と告げられたという。

 『平家物語』にも同じような話がある。高野山の大塔修理を終えた清盛が弘法大師(空海)の廟である奥院に参ったとき、眉毛の太い二股の杖をついた僧侶が現れて、「厳島を修理すれば肩を並べる者がないほどに出世するだろう」と予言した。弘法大師の化身だと思った清盛は忠告どおりに厳島の造営に着手。やがて工事が終わって清盛が厳島に参詣すると、うたたねの夢のなかに神の使者が現れて銀柄の小長刀を清盛に与え、「この剣をもって一天四海を鎮め、朝廷の守りとなれ」と告げた。その後、厳島大明神のお告げがあり、「高野の聖がいったことを忘れるな。ただし悪行があれば、子孫まではかなうまいぞ」と述べたという。

 どちらの話も何とも神秘的な話で、とても実話とは考えづらいエピソードだが、長寛2年(1164年)に平家一門が厳島神社に奉納した清盛自筆の「願文」にも、夢に一沙門(僧侶)が現れて厳島を信仰するように勧められ、そのお告げどおりにひたすら信心した結果、一門に栄華がもたらされた、と、これらの逸話をなぞるような体験が記されている。具体的に太政大臣になると予言していることや、のちの平家滅亡の結果を知っているかのような戒めのお告げなどは荒唐無稽な話だとしても、何らかの神秘的な宗教体験がこの時期の清盛にあり、そのことが厳島信仰のきっかけになったことは事実だったのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-04-16 19:48 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第8話「宋銭と内大臣」

 9世紀末に藤原道真の建議によって遣唐使が廃止されて以来、わが国の外国との正式な国交は途絶えていた。京の貴族の間では、中国文化の影響から離れたわが国独自の国風文化が発展する一方で、外国をケガレの対象と見るようになり、国際社会に対する無関心や外国人に対する排外思想が広まっていった。平清盛が生きたこの物語の時代より200年以上前の宇多天皇(第59代天皇)の時代には、「天皇が外人と面会しなければならない場合は簾の中から見よ」と皇子に対して戒めており、そんな海外に対する忌避感は、実現不可能な攘夷を主張し続けた幕末の孝明天皇(第121代天皇)まで、実に1000年近く続くのである。

 しかし、遣唐使が廃止された後も、日本と中国との交流が完全になくなったわけではなかった。対外貿易は九州の大宰府が一元管理していたが、やがて国禁を破って海外に渡り大陸の文物を輸入する商人が現れ、日宋貿易はかえって活発化していった。そして12世紀半ばには、太宰府による管理貿易とは別に、九州沿岸の有力な荘園領主による密貿易も行われるようになる。清盛の父・平忠盛もそのひとりだった。

 公家・源師時の日記『長秋記』によると、長承2年(1133年)に鎮西(九州)へ宋国の商船が来航した際、太宰府の役人が商船と交渉して取引を始めようとしたが、荘園を管理していた忠盛が下文を作成し、院宣と称して役人たちを追い払ってしまった。宋船が来着した場所は神埼荘の飛地で、当時の神埼荘は鳥羽上皇(第74代天皇)の直轄領であり、忠盛は院の命令により荘園を管理する立場にあった。その特権を利用して、大胆にも鳥羽院の院宣を偽造して貿易を独占したのである。現代ならば、公文書偽造の罪に問われかねない行為だが、当時の忠盛は鳥羽院から重用されており、院宣が偽物であることを気づいていた大宰府や院庁の面々も、忠盛の行為を不問に付すほかはなかったのだろう。

 忠盛が日宋貿易に目をつけたのは、海賊討伐によって配下となった海賊や西国の在地領主から貿易の知識を得ていたからだろう。また、忠盛はこれより10年以上前に越前守に任じられていたときがあり、この頃から既に貿易にかかわっていたという推測もあるようである。宋商人は太宰府のほか、ときには日本海の敦賀へ来て交易を行う場合もあったらしい。敦賀は越前守の管轄下にあり、このとき貿易のメリットを実感したのかもしれない。そう考えれば、神埼荘の管理も、端から密貿易をするために鳥羽院に頼んで許されたものだったのかもしれない。そんな忠盛の日宋貿易に対する熱心さは、やがて息子の清盛に引き継がれ、さらに活発化していくこととなる。

 「内大臣になった暁には、徹底して粛清致いたします」
 と、ただならぬ威圧感で不気味な笑みを浮かべていたのは、当時、「日本一の大学生(だいがくしょう)」と称されていた藤原頼長。「大学生」とは学者という意味で、その学識の高さは当時の貴族の中では右にでる者はなかったとか。父は白河院(第72代天皇)時代の関白で藤原忠実、兄も鳥羽院の関白となる藤原忠通である。父・忠実は、白河院の養女・璋子と忠通の縁談を破談にしたことや(参照:第5話)、娘・勲子(のちの泰子)の鳥羽院への入内にまつわる行いが白河院の怒りを買うところとなり、関白職を罷免され宇治で10年に及ぶ謹慎生活を余儀なくされる。この謹慎中に生まれたのが頼長だった。幼き頃から聡明努力家だった頼長は、忠実の期待を一身に受けて育ち、若干17才で内大臣となり、やがて、実質的に朝廷内の執政を握ることとなる。

 そんなエリートを絵に描いたような頼長だったが、一方で、何事にも妥協を知らない完璧主義者で、わずかな落ち度も許さないといった冷厳な性格の持ち主だった。自他ともに厳しい性格は役人向きといえなくもないが、その厳格さは苛烈を極め、一説には、公務に遅刻した同僚の家を燃やしてしまったという逸話も残されているほどである。ドラマで、たった一本の枝の切り残しを見つけ、その庭師を即座にクビにするという場面があったが、あながちフィクションでもないかもしれない。後年、左大臣まで昇り詰めた頼長を、人々は「悪左府」と呼んで恐れたという。

 ちなみに、「悪左府」以外にも、「悪源太義平」「悪七兵衛景清」など官名や人名の接頭語として「悪」という文字が使われている例が見られるが、これは現代語で意味するところの「悪人」とは少しニュアンスが違っていて、人並み外れた能力や厳しさ、猛々しさに対する畏敬の念をこめた言葉だそうである。つまり頼長の異名「悪左府」を訳せば、「尋常でない才覚を持った左大臣」といったところだろうか。もっとも、遅刻したくらいで家を燃やしてしまうような過激な逸話をみれば、現代語で意味するところの「悪人」といってもいいような気がしないでもないが・・・(笑)。

 さて、次週は雅仁親王、のちの後白河法皇(第77代天皇)が登場するようだ。ようやく保元・平治の乱の役者が揃ってきたが、保元の乱が起こるのはこれより20年ほど先の話。物語はまだまだプロローグである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-27 19:50 | 平清盛 | Comments(2)  

平清盛 第6話「西海の海賊王」

 保延元年(1135年)4月、平清盛の父・平忠盛に瀬戸内海に荒らしていた海賊討伐の命が鳥羽上皇(第74代天皇)より下った。この当時、瀬戸内海では海賊がはびこり、数十艘の船を操って輸送船を襲い、乗員を殺害して貨物を略奪していた。のちに西国では“水軍”と呼ばれる武力集団が生まれるが、その前身がこの頃から形成されつつあったのである。

 忠盛はこの6年前の大治4年(1129年)にも一度、山陽・南海道の海賊討伐を命じられており、おそらく、このときの手腕が買われたのだろう。公卿たちの忠盛の人選の理由は「西海に勢力を有する」というものだった。このとき、もうひとりの候補としてあげられていたのが源義朝の父・源為義である。公卿たちが最終的な判断を鳥羽院に委ねたところ、「為義では追討使が進む路次の国々が滅亡してしまうので忠盛がよいであろう」という指示があったため、忠盛の派遣が決定されたという。為義では国々が“滅亡”してしまうというのは、西国に地盤のない追討使を派遣することで、かえって混乱を生じるかもしれないといった懸念からだったのであろう。その点、忠盛はすでに伯耆や備前などの西国の受領を歴任し、6年前の海賊追捕の実績もあった。源氏一門は、またしても伊勢平氏の後塵を拝すことになったのである。

 清盛がこの追討に参加したかどうかは記録が残っていないのでわからない。ただ、当時清盛は18歳であり、父に従って参戦していたと考えるのが妥当であるかもしれない。平氏にとって海賊討伐は、瀬戸内海の水軍や在地武士を組織して西国に幅広く平氏の勢力を拡大するためのものでもあった。時期棟梁である清盛の姿を、西国衆に披露する良い機会にもなったはずである。ドラマのとおり、清盛にとってこれが初めての実戦経験だったかもしれない。

 まるで、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』ジョニー・デップが演じているジャック・スパロウのような扮装で登場した西海の海賊王・兎丸だったが、彼はドラマオリジナルの架空の人物。おそらくドラマでは、この兎丸が清盛の水軍形成の柱となっていくのだろう。だた、実際にも海賊討伐の際に、こうして能力のある人材と主従関係を結んで、平氏の勢力の拡大をはかっていたとしてもおかしくはない。その意味では、清盛にとってこの初陣は、武勇を磨く以上の意味があったといっていいだろう。

 鳥羽院から海賊追討を命じられてからわずか4ヵ月、捕虜にした海賊たちを引き連れて、忠盛率いる平氏軍が京に凱旋した。これにより、京における平氏の武威はいやが上にも高まっただろう。だが、華やかな凱旋パレードの影では、黒い噂が囁かれてもいたのである。忠盛が京に連行してきた海賊たちは、日高禅師をはじめとする70人であったとされるが、そのうち28人が検非違使に引き渡されたものの、忠盛の家人ではない手下を「賊虜」と称して引き渡したに過ぎないというのである。忠盛にとっての海賊討伐は、西国の武士との主従関係を強める機会であったとともに、平氏の武勇を京の人々に示すためのパフォーマンスでもあったようである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-13 01:08 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第4話「殿上の闇討ち」

 平清盛の祖父・平正盛の代に白河法皇(第72代天皇)の引き立てによって中央政界へ進出した伊勢平氏は、清盛の父・平忠盛の代には鳥羽法皇(第74代天皇)の側近として脇を固め、さらに、得長寿院をはじめとする寺院を寄進するなどして忠勤にはげみ、清盛がが15歳となった長承元年(1132年)、忠盛は初めて武士として内昇殿を許された。内昇殿とは、天皇の居所である清涼殿の殿上の間に上ることを許されることで、貴族にとって非常に名誉なことであった。ましてや、武士である忠盛がこれを許されるのは破格の待遇であり、当時の貴族の日記のなかには「未曽有の事なり」と記した者もいたほどであった。

 殿上人となった忠盛に貴族たちが向ける視線は当然厳しかった。「出る杭は打たれる」のはいつの世も同じで、新参者の出世を快く思わない風潮はどんな社会にもあるものだが、平安時代末期のこの頃は、古参の公家たちが、新たに内昇殿を許された者に恥辱を加えるという、悪しき風習が蔓延っていたという。とくに、毎年11月に朝廷で行われる豊明節会の夜に、古参の公家が新たに内昇殿を許された者を罵倒嘲笑したり、暗闇に乗じてリンチするといった行為が頻発していたと伝えられる。当然、武家出身者としてはじめて内昇殿を許された忠盛に対してはいつも以上に情け容赦のない行為が計画されたはずで、そのことについてよく示しているのが、『平家物語』巻一の「殿上闇討」である。

 長承元年(1132年)11月の豊明節会の夜、陰湿かつ苛烈な「闇討ち」行為を予想した忠盛は、木刀を腰に差して節会へ参加すると共に、秘かに側近・平家貞を御所の小庭に待機させた。「闇討ち」などというと暗殺を想像してしまうが、この場合せいぜい乱暴狼藉をはたらく程度のことで、いってみれば集団リンチのようなもの。もっとも、殺人を生業とする武士の、しかもその棟梁である忠盛を集団リンチしようというのだから見上げたものだが、その程度の嫌がらせしかできないところに、斜陽の貴族階級と新興勢力である武士の違いを見ることができる。

 「闇討ち」を企てた古参の公家たちだったが、忠盛が懐に忍ばせた刀を抜き放ったため度肝を抜かれ、さらに家臣の家貞が小庭に潜んでいたことも知れたため、公家たちは「闇討ち」を断念せざるを得なかった。結果として忠盛の作戦勝ちといったところだが、気が治まらない公家たちは、直後の宴席でさらに卑劣な嫌がらせ行為を実行する。天皇の命により忠盛が得意のを披露していたところ、伴奏していた公家たちが急に拍子を変えたかと思うと、「伊勢平氏はすがめなりけり」とはやし立てたのである。「すがめ」とは、斜視のことで、忠盛は生まれつき斜視だったという。伊勢平氏の忠盛が斜視(すがめ)であったことと、伊勢国産の瓶子(へいし)が粗悪で酢瓶(すがめ)にしか使えないことをかけて、このように嘲笑したのである。人の肉体的欠陥をついて誂うという小学生レベルの行為から見ても、当時の貴族階級がいかに末期症状であったかがわかるというものである。

 公衆の面前で恥をかかされ怒りに震える忠盛であったが、宮中の酒席ではいかんともしがたく、悔しさを押し殺しながら早々に退出するしかなかった。その際、差していた刀を女官に預けて帰った。これが、後に思わぬかたちで忠盛の役に立つ。

 後日、公家たちは忠盛にしてやられた腹いせに、帯刀して節会へ参加した点と、無断で家臣を小庭に潜ませた点を捉え、忠盛に厳重な処分を下すよう鳥羽院に訴えた。これに対して忠盛は、預けていた刀を取り寄せてその場で抜いて見せた。その刀は先に述べたとおり木刀で、しかも本物に見せかけるように銀箔を貼ったものだった。これを知った鳥羽院は忠盛の機転に大いに感心し、家臣が小庭に潜んでいた件も、家貞が機転をきかせて独断で行ったものであることが判明し、結局はまったく罪に問われなかった。そればかりか、忠盛といい家貞といい、武士の機転と用意周到さに感心した鳥羽院は、これまで以上に忠盛を信頼するようになったという。

 というのが『平家物語』にある「殿上闇討」のくだりで、今話のストーリーはこの逸話を下敷きにしたドラマのオリジナルストーリーだと思われる。ドラマでは、忠盛を「闇討ち」しようとしたのは源為義となっていた。まあ、出典元の『平家物語』も読み物として書かれた物語である以上、そこに記された逸話も作り話である可能性も高く、ドラマでオリジナルの設定に作り変えるのは一向にかまわないと思うのだが、ただ少々、為義に気の毒な気がしないでもなかった。ドラマでは、あくまで平氏VS源氏という構図で展開されていくようである。

 「為義殿、斬り合いとならば源氏も平氏もここで終わりぞ。源氏と平氏どちらが強いか、それはまた先にとっておくことはできぬか。その勝負、武士が朝廷に対し、十分な力を得てからでもよいのではないか。」

 その勝負は、二人の息子、平清盛源義朝の代まで待たねばならない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-30 01:56 | 平清盛 | Comments(4)  

平清盛 第2話「無頼の高平太」

 現代の日本に生きる私たちは、生まれたときに命名された名前を原則として一生使い続けるが、明治維新以前の武家社会ではそうではなかった。武家の男子の場合は生まれるとすぐに幼名が付けられ、成人(元服)すると諱(いみな)と呼ばれる実名を名乗るようになる。また、幼名や諱の他に通称も用いたが、上級の武士の場合は朝廷から官職受領と呼ばれる公式な職、職名を拝領し、それを名乗った。さらに、雅号などを名乗る場合もあり、また出家して法名を称する場合などもあり、ひとりの人物でも生涯で複数の呼び名があって実にややこしい。ゆえに、小説やドラマなどでは、せいぜい幼名と諱の2種類くらいで通してしまう場合が多い。

 平清盛の場合、“清盛”というのはいうまでもなく諱で、祖父は正盛、父は忠盛、弟は家盛、経盛、教盛、頼盛と、“盛”という字を使った諱を名乗っていた。武士の家では特定の一字を諱に使用する風習があり、これを“通字”といった。清盛ら伊勢平氏が“盛”の一字を通字として織り込んでいたのは、きっと家運の隆盛を祈ってのことだったのだろう。他に、忠盛・清盛父子は腹心の家臣に“盛”の一字を与え、平盛国平盛俊などと名乗らせている。こういった風習を「偏諱(へんき)を賜う」、もしくは「一字拝領」といった。

 “清盛”という名の由来について、『平家物語』の中に次のような逸話がある。前話の稿でも述べたが、『平家物語』では清盛は白河法皇(第72代天皇)のご落胤説となっている。忠盛のもとで平家の子として育てられることになった皇子だったが、白河院はそれとはなく皇子のことを気にかけていた。あるとき、皇子の夜泣きがあまりに激しいと聞いた白河院は、次の歌を忠盛に贈った。
 「夜なきすとたゞもりたてよ末の世にきよくさかふることもこそあれ」
 (その子が夜泣きをしても大切に育ててくれ、忠盛よ。将来、平家を繁栄させてくれることもあるかもしれないのだから)

 そして、この歌の下の句にある「きよくさかふる(清く盛ふる)」から、清盛と名付けられたという。おそらくは物語の創作だろうが、よくできた話ではある。ドラマの白河院とは、随分とイメージが違うようだが・・・。

 清盛の幼名については、正確にわかっていない。“平太”というドラマでの幼名は、おそらく『平家物語』に出てくる「六波羅のふかすみの高平太」というあだ名からきたものだろう。「ふかすみ」は墨黒の馬という意味で、「高平太」は高足駄を履いた平氏の太郎(長男)という意味。これは、清盛の姿を侮辱したあだ名だという。また、『源平盛衰記』では、京童に「高平太」といって笑われた清盛は、恥ずかしく思ったのか、扇で顔を隠したが扇の骨の間から鼻が見えていたので、京童は「高平太殿が扇に鼻を挟んだぞ」といって、その後は「鼻平太」と呼んで罵ったという。この逸話も、物語の中の創作かもしれないが、当時の京都や貴族社会には、そうした平家を侮るような雰囲気があったのは事実だろう。このよな屈辱を受けるたびに清盛は、いつか貴族たちを見返してやりたいという思いを抱いたかもしれない。

 大治4年(1129年)1月に元服した清盛は、従五位下・左兵衛佐に任じられ貴族の仲間入りを果たした。父・忠盛は白河院からあつい信頼を寄せられていたものの、その頃は内裏への昇殿すら許されていない一介の地方官に過ぎなかったが、清盛の任官は一般の武士に比べて格段に優遇されていた。武士の子どもが朝廷の武官に任じられる場合、三等官である「尉(じょう)」から始まるのが通例であったが、清盛は二等官である「佐」からのスタートだった。しかも、兵衛佐という官職は上流貴族が任じられるものであり、内裏清涼殿への昇殿が許される殿上人への最短コースだった。事実、この人事は貴族たちを大いに驚かせ、「人耳目を驚かす」と日記に記した貴族もいたほどだった。同年3月、12歳の清盛は岩清水臨時祭で舞を奉納した。舞人に選ばれた貴族の少年たちの中で、清盛の雄姿はひときわ注目を浴びたという。ここから、清盛の出世街道が始まる。


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by sakanoueno-kumo | 2012-01-16 02:14 | 平清盛 | Comments(2)  

平清盛 第1話「ふたりの父」

 平清盛は永久6年(元永元年)(1118年)に生まれた。平家が日の出の勢いで力を伸ばしていたときである。清盛の祖父、平正盛は、白河法皇(第72代天皇)の北面の武士(法皇の身辺を守る武士のことで、院御所の北側の部屋に詰めている武士のこと)として武力で法皇に仕えるとともに、数カ国の受領(国守)を歴任し、清盛出生当時は西国の大国である肥前守を務めていた。受領は税の徴収を行うため、やり方によっては莫大な収入を得ることができる。清盛は富裕な貴族の跡取りとして、比較的恵まれた環境で育ったようである。

 清盛の出生については、古くから清盛は白河法皇のご落胤だったという説がある。『平家物語』「祇園女御」の巻に、次のような話がある。白河法皇が寵愛する女性に祇園女御と呼ばれる女性がいた。彼女は正式な女御ではなかったが、法皇のあまりの寵愛ぶりからそう呼ばれていた。白河法皇がいつものようにこの女性のもとへ通っていたある夜、女御の邸の近くで不気味な光を発する鬼のようなものに出くわした。驚いた法皇は、北面の武士として警護にあたっていた平忠盛「あの鬼を成敗せよ」と命じた。忠盛は、鬼というのはおそらく法皇の見間違いであろうと考え、即座に弓を引かずに近づいて確認したところ、鬼と見えたのは麦わらをかぶり明りを手にした老法師だった。それを知った白河法皇は「あの者を殺してしまっていたらどれほど後悔したであろう。弓矢取る身(武士)とは感心なものよ」と、忠盛の沈着冷静な行動を褒めて、寵愛の深い祇園女御を忠盛の妻に与えたという。このとき彼女の腹には法皇の皇子が宿っており、それこそが、ほかならぬ清盛だったというのである。

 ご落胤伝説というと、たいていは根も葉もない噂話にすぎないものが多いが、清盛の場合は少し事情が違う。というのも、現在でもこのご落胤説を指示している歴史学者の方々が、数多くおられるのである。清盛の尋常でない出世のスピードを見ると、天皇家の血筋でなければ説明がつかないというのである。清盛は大治4年(1129年)、12歳という異例の若さで従五位下・左兵衛佐に任官を果たし、その2年後に従五位上、その4年後には正五位下、従四位下、その翌年には中務大輔、さらにその翌年には肥後守、その3年後には従四位上と、超スピード出世を重ねた。これは、当時の慣例からして、天皇家との血縁関係なくしては考えられないといわれている。もちろん、血縁関係のことだけに断言できる証拠はない。あるいは、清盛の異例の出世への妬みやっかみの噂話として、このご落胤説が生まれたのかもしれない。しかし、武士の子である清盛の順調な出世は、当時の公家たちを大いに驚かせる人事だったことは事実のようで、その真偽はともかく、清盛は皇胤であるという噂話が当時の貴族の間にあったというのも、間違いなさそうである。もし、この説が事実だったとすれば、清盛にとってそれは“誇り”だっただろうか。それとも、“恥”と感じただろうか。高貴な天皇家の血筋と現実の武士としての境遇のギャップに、きっと悩んだことだろう。

 では、清盛の生母はどのような女性だったのだろうか。保安元年(1120年)、忠盛の妻が亡くなっている。清盛3歳のときである。年齢から考えて、この女性が清盛の母であることは間違いなさそうである。どのような女性だったかは分かっていない。唯一伝わっているのは、白河院の身辺に仕えていた女房だったということだけだそうである。『平家物語』にみる清盛の生母が祇園女御であるという説は、彼女は保安元年以降も生き続けているので間違いのようである。では、祇園女御が清盛とまったく関係なかったかといえば、そうともいえない。清盛の生母は、祇園女御の実妹であったという説があるのだ。これは『仏舎利相承系図』という史料を根拠とする説で、これによれば、祇園女御の妹が白河院の子を身ごもり、忠盛に嫁いだ後に生まれたのが清盛であり、その女性の死後、清盛は祇園女御の猶子となり、彼女の後見を受けていたという。こちらは、あながち否定できない面もある。正盛・忠盛父子は白河院に仕える一方で、その寵姫である祇園女御にも奉仕しており、清盛が生まれる何年も前から、平家と祇園女御は密接な間柄にあった。そんな祇園女御の妹を妻としてもらい受け、その妹の死後、その子を猶子として祇園女御が後見していたとしても、何ら不思議ではない。幼少期の清盛の出世は、祇園女御の引き立てによるところも大きかったかもしれない。

 ドラマでの清盛の生母は祇園女御でもその妹でもなく、祇園女御が妹のように可愛がっていた白拍子・舞子という設定。彼女は白河上皇の子を身ごもりながらも、陰陽師「王家に災いする赤子」というお告げの為、命を追われる身に。その舞子を匿ったのが忠盛だった。しかし、結局は上皇の知るところとなり、祇園女御の助命嘆願によって赤子の命は助けられるも、舞子は御所の警護兵の矢によって壮絶な死を遂げる。死の直前、舞子から赤子を託された忠盛は、その子を平太と名付け、平家の子として育てる決意をする。すべて、ドラマのオリジナルストーリーだが、白川院の人物像や当時の天皇家の位置づけ、忠盛たち当時の武士たちの立場がとてもよくわかるストーリーだった。

 「己にとって生きるとはいかなることか。それを見つけたとき、心の軸ができる。心の軸が体を支え、体の軸が心を支えるのだ。」
 忠盛が幼い平太(清盛)にいった言葉。清盛の父・忠盛は武力のみならず、和歌などにも造詣の深い教養人だったという。
「父上は強うござりまするな。私もなりとうございまする。父上のような立派な武士に。」
「では、その気持ちを、心の軸にせよ。その軸を支えられるよう、しっかり体を鍛えよ。」

 この時代、武士は天皇家に仕える番犬のような地位にすぎなかった。彼らの望みは、朝廷のために働き、あわよくば功をあげて恩賞を得ることでしかなかったのである。正盛も忠盛も、天下を取るなど考えたこともなかっただろう。武士たちが自分たちの実力に気づくには、もう少し、清盛の成長を待たねばならなかった。

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by sakanoueno-kumo | 2012-01-09 18:42 | 平清盛 | Comments(10)