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平清盛 第39話「兎丸無念」

 『平家物語』巻一の「禿髪」によると、平清盛が栄華を誇っていたとき、14歳から16歳までの少年を300人集めて、赤い直垂(ひたたれ)を着せて都中に放ったという。少年たちは髪を切り揃えたままで束ねていなかったため、「禿髪(かぶろ)」と呼ばれた。こういったおかっぱのような髪型の少年は、宗教的に神聖な存在と考えられていたらしい。そして、平家の悪口をいう者がいれば禿髪は徒党を組んで家へ乱入し、家財道具を没収した上で、その者を逮捕して六波羅へ連行したという。都人たちはこれを恐れて平家に対する不満を一切口にしなくなった。禿髪を見かけると牛車馬車も道を譲り、御所の諸門を守る門番でさえ禿髪をフリーパスで通すようになったとも伝えられる。平家の恐怖政治を象徴するエピソードである。

 この禿髪については『平家物語』のみに記されている逸話で、事実かどうかは定かではない。そもそも同物語巻一の「禿髪」は、平家による強権政治を象徴的に物語った章段であり、清盛の義弟・平時忠「平家にあらずんば人にあらず」と放言したとされる逸話も、この章で紹介されているエピソードである。史実としては清盛が都中に密偵を放って反平家勢力を弾圧したという裏付けはない。だいいち、禿髪頭に赤い直垂といった目立つ格好で密偵が務まるとはとても思えない。清盛独自の諜報部隊は存在していたかもしれないが、それが禿髪だったというのは『平家物語』の創作だと考えてよさそうだ。

 そんな禿髪の逸話が生まれた背景には、清盛が応保元年(1161年)から1年8ヵ月に長期間にわたって検非違使別当に任じられていたことに関係があると考えられている。検非違使別当とは、今で言う警察庁長官である。検非違使は犯罪者の追捕だけではなく、諜報員を操って情報収集にもあたった。その諜報員の中には、犯罪を犯して刑罰を受けたのち出獄した前科者や、少年たちも含まれていたという。もっとも、それは清盛が別当だったときのみ行われていたことではなく、検非違使としては当然の職務だった。

 ただし、このころ検非違使は平家によって掌握されていたのは確かだった。実際に犯罪者を追捕するのは検非違使尉(判官)だが、その多くが平家の有力家人に独占されていたという。さらに注目すべきは、平時忠が検非違使別当に3回も就任していることだ。同一人物が別当に3回も就任した例は歴史上初めてのことであり、九条兼実はその日記『玉葉』のなかで、「物狂いの至り」とまで酷評している。時忠の別当時代にはかなり強引な捜査が進められることもあったようで、今話のドラマより少し先の話だが、福原遷都が失敗に終わり京に還都してからは、反乱勢力の追討のために上級貴族への取締も厳しくなり、源頼朝に通じたと噂された貴族に対して、かなり強引な家宅捜索も行なっている。そんな風に、都の警察権力を一手に握った平家の権勢が、禿髪のような逸話を作る下地になったと言えそうである。

 元海賊の兎丸という男は本ドラマのオリジナルで架空の人物。したがって今話はほとんどがフィクションの回である。平成の物語で作られた架空の人物・兎丸が、800年近く前の物語で作られた架空の少年たち・禿髪に殺されるという設定は実に秀逸だった。兎丸という人物を登場させたときから、この最期を想定していたのだろうか・・・? 若き日の清盛が互いに夢を語り、40年近くも清盛の右腕として過ごしてきた兎丸を、“おごる平家”の象徴とも言うべき禿髪に殺させたのは、この後の平家の行く末を予見させるものといえるだろうか・・・。

 「今のわしは、白河院のようだと言いたいのか? ・・・わかるまい・・・お前にも、兎丸にも・・・誰にも」
 腹心である平盛国に諌められ際に言った清盛の台詞。
 「全ては殿が邁進するために起こったこと。どれだけ欲しても兎丸は戻りませぬ。それでも進みまするか? この修羅の道を」
 果たして清盛の邁進なのか・・・? あるいはその先に何かを見ているのか・・・?
 「そちはまだ知らぬ。のぼり切ったその果ての景色を・・・」
 第34話で白河法皇が言ったように、位人臣を極めた清盛は、その果ての景色を見ているのかもしれない。そこに何があるのか・・・。今後の展開を楽しみにしたい。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-08 02:20 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)  

平清盛 第38話「平家にあらずんば人にあらず」

 もはや朝廷における地位は盤石になりつつあった平清盛の次なる目標は、自身の血を分けた娘・徳子(のちの建礼門院)の入内であった。幸いにも先ごろ元服した高倉天皇(第80代天皇)の生母は清盛の義妹・建春門院滋子であり、清盛からみれば帝は義甥にあたる。そして入内した徳子が皇子を産めば、清盛が天皇の外戚になるのである。『愚管抄』によると、清盛が「帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント」という望みを抱いたと記されている。代々、天皇家の外戚として政権を掌握してきた藤原摂関家が力を失いつつある今、新興勢力として平家が外戚になろうとする野望は自然のなりゆきだったといえるだろう。

 しかし、いかに政界を牛耳っていた清盛といえども、天皇家への輿入れとなると簡単にはいかなかった。ドラマにあったように、麝香など宋から輸入した珍しい品や動物を後白河法皇(第77代天皇)に献上したり、また法皇から馬を拝領した際、自ら手綱をとって臣下の礼をとったりと、治天の君の気を引くパフォーマンスを繰返した。後白河院にとっても、自身の政治基盤の強化のためには清盛の協力が不可欠だと考えていた。おそらくは、建春門院滋子の強力な後押しもあっただろう。そして承安元年(1171年)12月、徳子の入内が実現した。出家した清盛に代わって平重盛が父親役となり、さらに泊をつけるために後白河院の猶子とされたうえで、高倉帝に入内し、翌年、中宮に立てられたのである。徳子17歳のときだった。

 こののち徳子が産んだ皇子が即位すれば、清盛はいよいよ天皇の外戚になる。清盛の狙いがそこにあったのは明々白々だが、この清盛の婚姻政策がかつての摂関政治の焼き直しであり、のちの鎌倉幕府と違って平家政権は貴族的な古い政治だとする評価もある。しかし、院政が定着していたこの当時、天皇の外戚であることと政治の実権はすでに無関係といってよく、摂関政治のような政治形態が時代遅れであることを清盛は重々承知していたはずだ。清盛にとって徳子の入内は、最高権威である天皇の身内になることで、平家の権威を高める狙いに過ぎなかったと思われる。事実、鎌倉幕府樹立後の源頼朝も、晩年には娘の大姫を入内させようと血眼になったが、術策にたけた貴族たちにいいようにあしらわれて失敗した。逆に言えば、幕府樹立後の頼朝ですらかなわなかった入内を実現させたこのときの清盛の政治力が、並々ならぬものであったといえるだろう。

 清盛の義弟・平時忠が発言したと伝わる「平家にあらずんば人にあらず」。この言葉は言った時忠本人以上に知名度があり、時忠からひとり歩きして、いわゆる“おごる平家”の象徴のような言葉として人口に膾炙されてきた。この発言のオリジナルは『平家物語』に記されている、「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」というもの。ただ、ここでいう「人」とは、いわゆる「人間」という意味ではなく、「しかるべき官職につける人」という意味のようだ。つまり、「平家にあらずんば人にあらず」を直訳すれば、「平家の者でなければ人間じゃない」と解釈しがちだが、実際には「平家の者でなければ要職に就けない」といった意味のようで、現代でいえば、「〇〇派でなければ大臣にはなれない」といったニュアンスの言葉だったようである。解釈次第でずいぶんと印象が違ってくる。しかし、たとえそうであったとしても、この放言は貴族内で大いに反感を買ったようで、平家一門のおごりととられても仕方がない浅はかな発言だったといえるだろう。この言葉を聞いた清盛は、きっと眉をしかめていたに違いない。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-01 02:04 | 平清盛 | Trackback | Comments(2)  

平清盛 第34話「白河院の伝言」

 仁安3年(1168年)2月2日、平清盛が突如に倒れた。「寸白(すばく)」という名の病で、寄生虫によって引き起こされる病である。一般にサナダムシのことだといわれている。おそらく当時は治療といえるような手立てはなく、ドラマのように祈祷するぐらいしか打つ手はなかっただろう。その寸白によって高熱にうなされた清盛は、1週間後には「危篤」といわれるほどの重体に陥った。事実上、政界のトップである清盛の危篤の報が朝廷に与えた衝撃は大きく、六波羅の清盛邸には多くの人々が見舞いに訪れたという。平家に批判的な九条兼実ですら、清盛の病を「天下の大事」として、もし万が一のことがあれば「天下乱れるべし」と、日記『玉葉』に記していることから見ても、この当時の政界における清盛の存在の大きさがうかがえる。

 清盛が病に倒れたとき熊野詣に赴いていた後白河上皇(第77代天皇)は、清盛危篤の報を聞いて予定を切り上げて帰京し、清盛を見舞った。このとき後白河院は、ドラマのとおり参詣の際に着る浄衣のままで清盛の枕元に現れたというから、二人の親密ぶりがうかがえるエピソードである。さらに上皇は近臣に「大赦」を行うように命じたという。「大赦」とは、国家の慶事凶事に際し、天皇・上皇の大権により罪人の刑罰を免除する律令制の既定である。摂関家以外の臣下の病で大赦を行った例はなかったが、国家の重臣であるという理由で特例扱いとなったとか。このエピソードからも、当時の清盛が後白河院からいかに期待されていたかがわかる。もっとも、ドラマのように二人の友情からくるものではなかった。このとき後白河院は憲仁親王を天皇に即位させる考えがあり、その計画には義理の叔父である清盛の協力が必要だと考えていたからである。熊野詣から急ぎ引き返してきた後白河院は、病床の清盛と相談しで5歳の六条天皇(第79代天皇)を退位させ、高倉天皇を即位させることを決めた。そして4日後には早くも天皇位を継ぐ践祚の儀式が行われ、平家と血縁関係を持つ天皇が初めて誕生したのであった。

 ドラマでは、清盛は次週に出家するようだが、実際には病床のなか死を覚悟した清盛が、最後の手段として妻・時子とともに出家したという。つまりは、仏に仕えることによって病を追い払おうとしたのだ。実際にこの時代、出家することで病が癒えると信じられていたようで、時子の叔父である平信範の日記『兵範記』では、清盛の出家について「除病延寿菩提」は疑いないと記されている。出家した清盛の法名は静蓮、のちに静海(浄海)と改めた。その甲斐あってか、清盛の病は死の淵から奇跡的に回復する。こうして「天下の大事」は終わった。

 清盛の病に際して描かれていた嫡男・平重盛平宗盛の確執はドラマの創作で、清盛はあくまで重盛を嫡男として扱っており、少なくともこの時期にはこうした対立関係はなかったと思われる。おそらく今後の展開の伏線だろう。それにしても、毎度のことながらこのドラマでの平時忠は絵に描いたようなトラブルメーカーである。「平家にあらずんば人にあらず」の言葉を発した人物として後世に知られる時忠だが、実際にも野心家だったようで、三度も配流となるなどかなりの曲者だったようである。ただ一方で、二度の配流を経験しながらも復帰した後は高い官位、官職に昇っていることを思えば、ドラマのような単なる浅知恵のトラブルメーカーではなかったようだ。実際に後年、清盛亡き後の平家の実質的な指導者は、この時忠であったという。ドラマでも、そのあたりをもうちょっと留意した描き方はできないものだろうか・・・と、少しばかり時忠の名誉のために擁護しておくことにしたい。

 今話は清盛の病床でその半生を振り返った。ただ単に過去のシーンをフラッシュバックしただけではなく、これまでなかった話や過去のシーンと今が重なりあう描き方など、どれも秀逸な演出だったと思う。清盛の母・舞子白河法皇(第72代天皇)の命により処刑された場面に、50歳の清盛が現れてむせび泣く。あのシーンは、第1話のシーンと並行して撮影されたのだろうか・・・。とすれば、清盛役の松山ケンイチさんは清盛の50歳を演じたり15歳を演じたり、1年間の長丁場の中で何度も年齢を行ったり来たりしていたことになる。俳優さんの役作りも大変だなあ・・・と、そんなことを思った今話だった。そのあたり、もうちょっと視聴率アップに結びつかないものだろうか・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-03 01:47 | 平清盛 | Trackback | Comments(0)  

平清盛 第30話「平家納経」

 後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)の対立関係は深まりつつあったが、それでも重要な国政は天皇と上皇、摂関家の合議によって行われていた。そのバランスが崩れたのは、応保元年(1161年)9月、平清盛の義妹で後白河院の寵姫となった滋子(のちの建春門院)が、皇子の憲仁親王(のちの第80代高倉天皇)を産んでからである。

 全話の稿(参照:29話)でも述べたとおり、滋子は清盛の妻・時子の異母妹で、実兄には稀代な野心家として名高い平時忠がいた。妹が皇子を出産したことで有頂天になった時忠は、清盛の弟・平教盛と結託して憲仁親王を皇太子の座に据えるべく画策した。しかし、彼らの陰謀はあえなく露見し、激怒した二条帝は時忠たちを解官、後白河院は政治から排除され、国政は天皇と摂関家の合議によって行われることになった。さらに翌年6月、時忠は源資賢ら後白河院政派と共に二条帝を呪詛したという罪をきせられ、出雲国へ流罪となった。このとき後白河院の近臣が多数処罰され、こうして、後白河院政は完全に停止に追い込まれたのである。

 「保元の乱」の敗北によって讃岐国に配流となっていた崇徳上皇(第75代天皇)は、その後、二度と京の地を踏むことはなかった。『保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒し、五部大乗経の写本づくりに心血を注いだという。そして完成した写本を、先の乱での戦死者の供養と反省の証に京の寺に収めてほしいと朝廷に送ったところ、後白河院が「呪詛が込められているのではないか」と疑って送り返したという話はドラマのとおり。これに怒り狂った崇徳院は自らの舌を噛み切り「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と写本に血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿のなり、生きながらにして天狗になったとされている。まさしく、ドラマの鬼気迫る演出そのものの伝承である。

 崇徳院が崩御したのは長寛2年(1164年)8月で、「保元の乱」から8年後のことである。ドラマでは、最後は穏やかな顔で逝った崇徳院だったが、実際には死後も怨霊として恐れられ続けた。こののち時の為政者たちは、事あるごとに崇徳院の呪いを意識するようになり、慰撫に躍起となっていったという。そうして怨霊としての崇徳院のイメージは武士の時代になっても歴史の中に定着し、死後700年以上経った慶応4年(1868年)には、明治天皇(第122代天皇)の即位に際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳院の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建するに至った。さらに崇徳天皇800年祭に当たる昭和39年(1964年)には、昭和天皇(第124代天皇)の意向によって香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、式年祭を執り行わせている。まさしくその予言どおり、崇徳院は日本史の中で800年近くもの間「日本国の大魔縁」であり続けた。その生前、天皇・上皇という立場にありながら一度として実権を持てなかった崇徳院だったが、死後、日本史の中に強烈な存在感を残した。

 清盛の次男・平基盛が死去したのは崇徳院の怨霊ではなく、同じく「保元の乱」の敗北者である藤原頼長の怨霊に祟られ溺死したと、『源平盛衰記』には記されている。享年24歳。先に述べた時忠の教盛の憲仁親王皇太子擁立の企てに関わっていたようで、彼らと同日に解官されていたが、その人となりは兄の平重盛に勝るとも劣らない有能な人物だったとか。その早世に、さぞや清盛は嘆き悲しんだことだろう。

 長寛2年(1164年)9月、清盛は一門の栄達を感謝し来世の冥福を祈るため、厳島神社に写経を奉納した。今も同社に伝わる国宝『平家納経』である。『平家納経』は平家の繁栄を願って一門同族郎等が1人1巻を分担して書写したもので、清盛の自筆願文に「書写し奉る妙法蓮華経一部廿八品、無量義、観普賢、阿弥陀、般若心経等各一巻」とあるように、32巻の経典のことで、願文を合わせると33巻になる。清盛を始め、重盛とその子息、頼盛教盛経盛等、32人にそれぞれ1品1巻ずつを当てて制作にあたった。ドラマでも描かれていたように、表紙絵や経典の外装、それらを収める経箱の工芸美など、当時の技巧の粋を集めた豪華な巻物で、平安末期美術工芸史上の代表作品とされている。その善美を尽くした経典は平家の絶頂を示すものといわれ、その栄華のほどを物語っている。今まさしく、平家は全盛期を向かえようとしていた。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-30 21:34 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)