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太平記を歩く。 その31 「六甲八幡神社」 神戸市灘区

阪急六甲駅のすぐ南にある森が、六甲八幡神社です。

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『太平記』によると、元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」において、摩耶山城に籠る赤松則村(円心)に対し、幕府六波羅の軍勢が「八幡林よりぞ寄たりける」とあるのですが、その「八幡林」が、ここ八幡神社の森と考えられています。

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いまは街なかにありながらも、境内は広い森となっています。

このあたりの住所は現在も八幡町といい、たぶん、当時はこの辺り一体が森だったのでしょう。

5000の大軍が身を隠すには、もってこいのロケーションだったのでしょうね。

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六甲八幡神社の創祀は、万寿3年(1026年)、この地に水原氏が八幡神を祀っていたものを、治承4年(1180年)の福原遷都に伴い、平清盛石清水八幡宮を勧請したものといわれています。

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その後、戦国時代の戦乱によって荒廃していましたが、天正年間(1573~92年)に林播磨という人によって修築され、寛政7年(1795年)には、その孫の林清兵衛が社殿等を改築。

さらに、領主の石河氏春日大社旧社殿移築したのが、現在の本殿だそうです。

このあたり一帯は、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた地域であり、本殿も全壊してしまいましたが、現在は彩色も鮮やかに復興されています。

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ここはわたしの会社から近く、よく通る場所だったのですが、このたび太平記のことを調べていて、ここが関連史跡だと知りました。

いにしえの先人たちの足跡は、けっこう身近にあるものですね。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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太平記を歩く。


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by sakanoueno-kumo | 2017-03-26 01:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その2

昨日のつづきです。

神戸は幕末になってから開かれた港町と思われている人が多いですが、実はそうではなく、この兵庫城のあった兵庫津は、奈良時代より1300年の歴史があります。
古くは「大輪田の泊」と呼ばれ、平安時代には平清盛によって日宋貿易の拠点とされたことで有名ですね。
この近くには、清盛廟所や史跡も数多く存在します(下記参照)。 
KOBE de 清盛 史跡めぐり その2
KOBE de 清盛 史跡めぐり その3
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その後、応仁の乱で壊滅的に破壊された兵庫津は、一時歴史のなかから姿を消しますが、恒興がこの兵庫城を築いたことによって、ふたたび都市として機能しはじめます。
恒興はわずか2年で美濃国大垣城に移封となりますが、その後、豊臣秀吉の時代になると、兵庫城下は豊臣家の直轄地となり、片桐且元が代官として入城します。

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江戸時代に入ると兵庫津一帯は尼崎藩領になり、兵庫城は廃城、兵庫陣屋(奉行所)となります。
その後、港町や西国街道の宿場町として栄え、江戸時代中期には、人口2万人を数えるほどのにぎわいをみせたそうです。
このころの元禄9年(1696年)に作成された『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』には、兵庫のまちの様子が克明に描かれており、兵庫津遺跡を調査するうえで貴重な史料となっています。

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しかし、今回の発掘調査によって、堀の形状が絵図のものとは異なることが判明したそうです。
おそらく、江戸時代中期頃に、それまであった堀の一部を埋め戻したり、新たに堀を開削するという土木工事が行われ、堀の形状を変えていたのだろうと考えられます。

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外堀と内堀の間には、二の丸が広がり、内堀の内側に本丸がある城郭だったことが明らかになりました。
上の図でもわかるように、大手道から幅約7m、長さ約16m土橋を渡り、城内に入ります。
この日、二の丸には入れましたが、本丸には入れてもらえませんでした。
本丸に天守のような建物があったかどうかは、史料がなくわからないそうです。

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直角に折れ曲がった石垣は、内堀の外側です。
角には、ここにも墓石が使用されていました。

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「悪水抜溝」の跡です。
「悪水」とは、今で言う下水のようなもので、「悪水抜溝」とは、下水道のことだと思います。

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今回詳らかになった城郭の構造は、安土城から大坂城への過渡的な様相を示しているそうです。

またまた長くなっちゃったので、もう一回続きます。

二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その1
二度と見られない兵庫城跡を訪ねて その3

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-05 17:01 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

平清盛 総評

 2012年NHK大河ドラマ『平清盛』の全50話が終わりました。ブログで大河ドラマのレビューを始めて4年、私自身の率直な感想をいえば、近年(今世紀)の大河作品の中では三本の指に入れてもいいほど優れた出来だったと思っています。しかしながら世間の評価は私とはどうも違ったようで、大河ドラマ歴代最低の視聴率を記録したそうですね。そんなこともあってか、巷では本作品を酷評する記事が乱立していました。歴史ドラマといえどもドラマである以上、大衆娯楽ですから、視聴率をひとつの指標として評価することは間違っていないと思います。ですが、高視聴率=名作低視聴率=駄作というレッテルの貼り方は、いささか短絡的すぎるのではないでしょうか。そこで今日は、なぜ『平清盛』が視聴者の支持を得られなかったかを考えながら、物語を総括してみたいと思います。

 ドラマ開始早々物議を醸したのが、「画面が汚い。鮮やかさのない画面ではチャンネルを回す気にならない」といった兵庫県知事のクレームでしたね。これに対してNHK側の回答は、「時代考証を忠実に再現した映像」との説明だったと記憶しています。県知事という立場の人が公の場でこのような発言をしていいものかとは思いますが、それはここでは横において、知事の苦言が的を射たものだったかどうかを考えます。

 まず、このようなフィルム調の暗い映像は今回に始まったことではなく、『龍馬伝』『江~姫たちの戦国』そしてスペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』でも使われていた手法です。夜は暗く、昼間でも決して俳優の正面から光を当てず、光源は常に斜め上か真後ろ。だから、ときには逆光となって、役者の顔がまったく見えなくなったりもします。時代劇といえば、俳優さんはドウランをテカテカに塗って、照明は常に俳優さんの顔に当たるというのが当たり前でしたが、近年の大河ではその常識を覆しました。その深みのある画面は、そこにスタッフの存在を匂わせないリアリティあふれる映像世界を作り出していると私は思います。この映像に対する好き嫌いはあると思いますが、兵庫県知事のクレームは、近年の大河作品を全く見ていなかったゆえに出た言葉で、時代劇に対する知事の固定観念からきた意見でしょう。それ自体が視聴率に影響したとは思えません。

 ただ、コーンスターチというとうもろこしの粉を使ったホコリ演出は、少々やりすぎだったんじゃないでしょうか。「荒廃したホコリ臭い時代を表現するため」というのがNHKの説明でしたが、その点についてある方のブログでの指摘を読んで、なるほど・・・と頷きました。空気が乾燥した大陸の西部劇ならともかく、日本の湿潤な気候では、あんなにホコリは立たないのでは?・・・と。たしかにそうですよね。リアリティを追求するなら、時代考証だけではなく、日本の風土も考証すべきだったのではないでしょうか。ホコリ演出は戦闘シーンだけで良かったんじゃないかと・・・。

 次に、俳優さんたちに目を向けると、主演の松山ケンイチさんはもちろん、父・平忠盛役の中井貴一さん、藤原頼長役の山本耕史さん、信西役の阿部サダヲさんなど演技派の実力派揃いで、完璧なキャスティングだったと思っています。とりわけ松山ケンイチさんにいたっては、清盛の12歳から64歳という半世紀以上を演じきっておられ、その演技力は見事というほかありません。特に平家政権を樹立した後の暴君・清盛像の演技は素晴らしく、本当に60歳を超えた老人に見えました(決してメイクの力だけではなかったと思います)。気の毒なことに、主役の役者さんは低視聴率の責任を負わされるのが宿命ですが、この作品に限って言えば、松山さんと低視聴率はまったく関係ないと思うのですが、いかがでしょうか。

 ただ、清盛の描き方については、多少の不満がなきにしもあらずです。物語の設定は吉川英治著の『新・平家物語』と同じく白河院ご落胤説をベースにしており、その境遇に対する反発から、攻撃的な性格の異端児として成長するストーリーでした。その設定そのものは悪くなかったと思うのですが、その反発の矛先が父・忠盛や平家内部という幼稚な演出で、あれではただの反抗期を迎えた駄々っ子でしかありません。のちに忠盛の死によって覚醒する清盛ですが、忠盛が死んだとき清盛はすでに35歳。いつまで反抗期やってたんだ?・・・と。

 これは本作品に限ったことではなく、『龍馬伝』『天地人』など近年の作品に共通していえることですが、若き日の主人公の姿を、無理に現代のありがちな少年像にラップさせて描く傾向にあるようです。そのほうが視聴者の共感を得られるという意図かもしれませんが、それでは偉人としての本来の魅力を削ぐことになるんじゃないでしょうか。偉人は少年時代から良きにせよ悪しきにせよ非凡な人物であったほうが魅力的だと思います。第1話で描かれた清盛の生母の壮絶な最後や、忠盛が清盛に語った「心の軸」の話。そして「死にたくなければ強くなれ!」のラストシーンを観て、「今年の大河は違うぞ!」と思ったのは私だけではないのではないでしょうか。ところが第2話以降、繰り返し描かれていたのは、いつまでもウジウジとスネている反抗期の少年の物語で、第1話を超える回はしばらくありませんでした。このあたりで見限って離れていった視聴者がたくさんいたように思います。保元・平治の乱のあたりから物語はぐっと面白くなるのですが、そこまで視聴者を引きつけておけなかったことが、後半の低視聴率に大きく影響したように思います。

 あと、天皇家のドロドロした人間模様も今までになく踏み込んで描いていたと思いますし、本筋とは直接関係のない当時の貴族社会のエピソードなども、細やかに拾って描いていました。実に丁寧な演出だったと思いますし、作り手の作品にかける情熱がうかがえました。しかし、矛盾したことをいうようですが、いささか丁寧すぎた。きめ細やかにエピソードを描きすぎたことで、かえって視聴者に要点が伝わらない結果になったように思えます。これはおそらく、近年の作品で史実を歪曲した虚構ストーリーや割愛されたエピソードなどを批判する声が跡を絶たなかったことから、できるだけ通説に添ったかたちで作品づくりに臨んだ結果だと思われます。史実かどうかはともかく、『平家物語』『愚管抄』『玉葉』などに記された有名なエピソードをたくさん採用していましたよね。ところが、平家や源氏をはじめ天皇家や摂関家など、あらゆる角度からいろんなエピソードをくまなく描ききったことから、結局何が描きたかったのか視聴者に伝わりにくかった。やはりこういったドラマでは、ある程度大胆な省略や簡素化が必要なんでしょうね。毎年、史実云々と照らしあわせて浅薄な知識をひけらかすだけの批判者たちは、今回の結果をみて一度考えなおしてみてもいいんじゃないでしょうか。

 あと、前半の演出(特に天皇家の人間模様)は少々陰気臭かったですね。たしかに白河院鳥羽院待賢門院璋子の関係など、ドロドロしたエピソードが多かったのですが、物語全体を通して陰気なイメージを拭いきれなかった。やはり大河ドラマでは、歴史上の偉人の颯爽とした姿を観たいもので、視聴者はそこにカタルシスを感じるものだと思います。残念ながら今回のドラマでは、颯爽と武家の頂点への階段を駆けのぼっていくような清盛像はありませんでした。そのあたりも、視聴者が離れていった理由のひとつではないでしょうか。

 最後に、ドラマ開始前から話題になっていた「王家」という呼称の問題について少しだけふれます。天皇家を「王家」と呼ぶことは皇室に対する侮辱であるという意見で、一部の過激な右傾の方々の抗議がNHKに殺到したようですね。この問題については、以前の拙稿(大河ドラマ『平清盛』の王家問題について。)で述べましたので、ここで繰り返し述べることは控えますが、彼らの言い分では、ドラマの視聴率が悪かったことまでイデオロギー的な理由にされているようです。正直、実に不愉快でくだらないですね。「王家」という言葉に不快感を抱いていたのは、戦前の「皇国史観」から脱却できていない一部の化石のような方々だけです。彼らにしてみれば、ドラマの内容などどうでもいいことで、自分たちのイデオロギー論争をドラマに持ち込みたいだけです。純粋にドラマを楽しみたいと思っている者にとっては、迷惑千万な話ですね。

 さて、連連と私見を述べてきましたが、冒頭でもお伝えしたとおり、私にとって『平清盛』は名作とまではいかなくとも良作でした。少なくともここ2~3年の作品の中では最も良かったと思っています。それだけに、歴代最低の視聴率という結果は残念でなりません。大河ドラマといえば、戦国時代幕末維新の物語が圧倒的に多く、清盛のような中世を描いた作品は数えるほどしかありません。それだけ戦国と幕末の人気が高いということでしょうが、私が危惧するのは、今回の結果でまた中世を描くことを躊躇するようになることです。たしかに視聴率を狙うのなら、戦国モノや幕末モノが鉄板でしょう。だからといってそればかりやってたんでは、今後の大河ドラマの発展はありません。その観点からも、冒頭で述べたとおり、視聴率をひとつの指標として評価することは間違っていないとは思いますが、視聴率が全てではないと思うのです。特にNHKの場合、民放と違って視聴者やスポンサーに媚びることなく作品づくりが出来ることに良さがあると思います。今回、歴史上あまり人気のない平清盛という人物と、同じく歴史上あまり人気のない中世を描くことにNHKはチャレンジしました。その意気込みは高く評価したいと思います。結果は残念ながら万人にウケるものとはなりませんでしたが、私のように支持する視聴者も少なからずいます。制作者の方々はこの結果に怯むことなく、この作品をベースとして、次はどうやったら中世という時代を多くの人に楽しんでもらえるかを考え、また挑んでほしいものです。

 とにもかくにも1年間楽しませていただき本当にありがとうございました。このあたりで私の拙い『平清盛』のレビューを終えたいと思います。毎週のぞきにきていただいた方々、時折訪ねてきてくれた方々、コメントをくださった方々、本稿で初めてお会いした方々、どなたさまも本当にありがとうございました。

●1年間の主要参考図書
『平清盛のすべてがわかる本』 中丸満
『平清盛をめぐる101の謎』 川口素生
『日本の歴史6~武士の登場』 竹内理三
『日本の歴史7~鎌倉幕府』 石井進
『新・平家物語』 吉川英治



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by sakanoueno-kumo | 2012-12-31 02:14 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(8)  

平清盛 第50話(最終回)「遊びをせんとや生まれけむ」

 平清盛が病に倒れたのは、治承5年(1181年)2月末ごろ。福原京から平安京還都して3ヵ月後のことだった。同年閏2月に入るとますます病状は悪化をたどり、やがて危篤状態に陥ったという。『平家物語』「入道死去」によると、清盛は発病以来、湯水ものどをとおらず、身体の熱いこと火の如くだったと伝えている。病床の清盛の口から出る言葉は「あた、あた(熱い、熱い)」だけで、あまりの熱さのため水風呂につけて身体を冷やそうとしても、たちまち水が沸き上がって湯になってしまい、筧で水を引いて注ぎかけても、熱した石に水をかけたときのように、水がはじけて一瞬で蒸発したという。

 にわかに信じがたいエピソードではあるが、物語では清盛の病死を、治承4年(1180年)に南都の興福寺東大寺焼き討ちした報いだとしているため、このような大げさな描写になったのだろう。ただ、清盛が高熱を発して苦しんだという記述は当時の貴族の日記や寺社の記録などにも見られるそうで、全くの作り話でもなさそうだ。そして物語では、「悶絶躃地してついにあつち死にぞし給ける」と続けている。「あつち死に」とは難しい言葉だが、発作、痙攣をするうちに高熱や激痛にたえられずに飛び上がり、悶え苦しんだ末に息絶えたという意味らしい。まさしくドラマの描写のとおりだ。

 九条兼実の日記『玉葉』によると、発病当初、清盛は「頭風」すなわち頭痛に悩まされたという。頭痛やめまいが起こり、高熱を発した末に痙攣を起こして死に至ったという症状から、死因は髄膜炎だったのではという説もある。また、清盛の盟友である藤原邦綱も同じ時期に似たような症状で死去していることから、同じ感染症で死んだのではないかとも考えられ、肺炎インフルエンザマラリアなどの可能性も指摘されている。いずれにせよ、当時の貴族たちの間では清盛の死は南都焼討の仏罰であるという認識が強かったようで、九条兼実は『玉葉』のなかで「清盛は本来骸を戦場に晒すべきところを、戦乱を免れて病没するとは運がよい」と述べつつ、その死が「神罰・冥罰によることは疑いない」と述べている。清盛の死をあからさまに喜ぶ者も少なくなかったようだ。

 『平家物語』の「入道死去」によると、死を目前にして妻・時子が、「此世におぼしめしをく事あらば、少しもののおぼえさせ給ふ時、仰をけ(この世に言い残しておきたいことがありましたら、意識がある間に仰ってください)と語りかけたところ、清盛は「今生の望一事ものこる処なし」と前置きした上で、「思ひをく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頸を見ざりつることこそやすらかね。(中略)やがて打手をつかはし、頼朝が首をはねて、わが墓の前に懸くべし」と語ったという。太政大臣天皇の外祖父と位人臣を極め、「わが人生に悔いなし」としながらも、どうにも気がかりなのは挙兵した源頼朝の動向、そして自身の死後の平家の行く末だったのだろう。

 さらに清盛は、側近の円実法眼後白河法皇(第77代天皇)のもとに送って「愚僧(清盛自身)の死後のことは万事宗盛に命じておいたので、いつでも宗盛と申し合わせて取り計らってほしい」と伝えた。しかし、それに対する法皇の返答は清盛が満足するものではなかった。これに怒った清盛は「天下のことはひとえに宗盛が取り計らうようにしたので異存はございますまい」と恫喝したという。死を目前にした清盛の言葉が脅しになるはずはなかったが、自身の死後も平家を守りたいという清盛の悲壮な思いが伝わってくる。しかし、はからずもこれが清盛の発した最後の言葉となった。清盛が八条河原の平盛国邸で息を引き取ったのは、その日の戌の刻(午後8時ごろ)であった。享年64歳。遺骸は荼毘に付され、播磨国山田の法華堂におさめられたとも、福原の経ヶ島に埋葬されたともいわれているが、正確な墓所は今もわかっていない。

 清盛によって栄華を極めた平家は、清盛の死を境に没落の一途をたどり、そして4年後の「壇ノ浦の戦い」に破れ、安徳天皇(第81代天皇)とともに滅亡する。これをわずか4年で滅んでしまったと見るか、4年も持ちこたえたと見るかは意見の分かれるところだが、いずれにせよ、平家の栄華は平清盛という巨星ひとりの存在によって維持されていたものだったということは、その死後の一族の動揺ぶりから見ても明らかである。まさしく「おごる平家は久しからず」、清盛の築いた平家政権は、その権威にあぐらをかき、結局清盛一代で終わってしまった。

 ただ、清盛の築いた平家政権は久しからずだったが、清盛が築こうとした武家政権は久しからずではなく、こののち鎌倉、室町、織豊、江戸と、約600年間もの長きに渡って継承されていく。その最初の扉を開けたのが平清盛で、その意思を受け継いだのが源頼朝だったというのが、このドラマの最大のテーマだったようだ。その意味では、平清盛はわが国史上随一の革命児だったといえよう。ドラマでの西行の台詞を借りれば、日本随一の武士(もののふ)だったと・・・。

 まさしく、平清盛なくして武士の世はなかった。


 1年間、拙稿にお付き合いいただきありがとうございました。秋以降、仕事が忙しく、起稿が遅れがちになっていましたが、なんとか最後までやり遂げることができてホッとしています。近日中に総括を起稿したいと思っています。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-25 02:20 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(0)  

平清盛 第49話「双六が終わるとき」

 治承5年(1181年)1月14日、福原遷都以来、病に冒されていた高倉上皇(第80代天皇)が崩御し、東山の清閑寺に葬られた。享年21歳。8歳で天皇に即位して13年間、父の後白河法皇(第77代天皇)と義父である平清盛の政争に翻弄され続けた生涯だった。

 色白で美しい容姿だったと言われる高倉上皇。ドラマでは描かれていなかったが、なかなかの女好きだったようで中宮・徳子の他にも多くの側女がいたらしい。その中でもとりわけ入れ込んでいたのが、美貌の上に箏曲の名手であったといわれる小督局という娘だった。一説には、寵姫を亡くして悲嘆に暮れていた高倉帝を見かねて、徳子が小督を充てがったとも言われている。高倉帝の小督に対する寵愛ぶりはたいへんなものだったようである。

 これに怒ったのは義父の清盛だった。自身の娘である中宮・徳子との間にまだ皇子が出来ないのに、中宮を差し置いて小督に溺れる高倉帝に怒り狂い、小督を宮中から追い出し、東山・清閑寺で無理失理に剃髪出家させたという。『平家物語』などで伝えられる、有名な高倉帝と小督の悲恋話である(実話かどうかは定かではない)。

 そんな気の多い高倉院だったが、中宮・徳子との仲も悪くなかったようで、九条兼実の日記『玉葉』によると、高倉院の死後、清盛と時子夫妻が徳子を後白河院の後宮に入れようと画策したところ、「いっそ出家したい」とこれを拒絶したという。従順だった徳子が両親の意向に逆らったのは、後にも先にもこのときだけだったといわれる。やむなく清盛は代わりに厳島内侍との間にできた娘を後白河院に送ったが、法皇はそれほど喜ばなかったという。色好みの法皇といえども、そんなみえみえの懐柔策にのるほど愚かではなかった。

 高倉院の崩御により後白河院政の復活は避けられないものとなり、朝廷内における平家の立ち位置も微妙なものになった。清盛はその打開策として、惣官職というポストを新設して平宗盛に就かせた。この職は畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)と近江・伊賀・丹波の9ヵ国を統括する任で、強力な軍事指導権兵糧米の徴収権が与えられた職だといわれている。畿内を中心とする広域の軍事指導権を平家が掌握することで、朝廷内で実権の維持と、各地の反乱軍に対する牽制が目的だったようだ。

 また、福原遷都に失敗して還都した清盛だったが、今度は京の九条周辺に六波羅に続く新しい拠点づくりを開始した。この付近には九条兼実や皇嘉門院崇徳天皇(第75代天皇)の中宮)などの上級貴族の邸宅もあったが、所領の一部を強制的に没収して、武者たちの宿所にあてた。さらに安徳天皇(第81代天皇)の内裏も八条に移した。これには南都や宇治に通じる交通の要衝をおさえる戦略的な意味があったと考えられるが、あるいは福原遷都に代わる首都移転プランの一環だったのではないかという説もある。しかし、このプランが進められることはなかった。安徳天皇の八条行幸から1ヶ月も経たない治承5年(1181年)2月、突如清盛が病に倒れ、帰らぬ人になってしまったからである。清盛の死後、宗盛はふたたび六波羅を平家の拠点にした。清盛の新都構想は、またしても幻のまま終わったのである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-12-21 01:50 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)  

平清盛 第48話「幻の都」

 富士川の敗戦による平家の威信の低下は深刻だった。平清盛にとって一世一代の大事業だった福原遷都事業は思うようにはかどらず、平安京に都を戻す「還都」を望む声が日増しに高まっていた。もともと福原遷都に意欲的だったのは清盛ひとりで、朝廷内はもちろん、平家一族内でも反対意見が多かっただけに、ひとたび権威が落ち始めると「還都」の声が大きくなるのは当然の成り行きだったといえよう。なかでも京周辺の寺院の反発が激しく、以仁王に味方した園城寺興福寺はもちろん、長年平家と協調関係を保っていた延暦寺の衆徒までが東国の反乱勢力に呼応して、還都の要求を激化させた。彼ら寺院たちの国家的使命は、儀式や祈祷によって朝廷を守ることにあり、その守るべき朝廷が福原に引っ越してしまえば、自身の存在価値はなくなる。京周辺の寺院が還都を要求するのも当然の主張だった。

 さらに清盛にとって不運だったのは、高倉上皇(第80代天皇)のだっただろう。福原に移って以来、遷都による心労や慣れない海辺の環境によるストレスなどが重なってか、上皇の健康状態は悪くなる一方だった。高倉院政を傀儡として権力の基盤を保っていた清盛にとって、上皇の存在は無視できないものだった。なんとしても健康状態を回復してもらわねばならない。「このような辺土で死にたくない」という上皇の願いに、さすがの清盛も耳をかさざるを得なかっただろう。

 清盛の三男・平宗盛が生涯一度だけ清盛に反抗したといわれるのも、このときだったといわれる。死んだ兄・平重盛と比べて凡庸無能と酷評される宗盛だが、このときばかりは一族の前で還都をめぐって清盛と激論を交わし、周囲を驚かせたと九条兼実の日記『玉葉』に記されている。宗盛にしてみれば、おそらく相当な覚悟で清盛に意見したに違いない。従来であれば、清盛の威厳で一蹴されたであろうが、上皇の病など悪条件が重なり、もはやこの時点で清盛の主張を理解する者はおらず、清盛の孤立は明らかだった。

 数日後、ついに清盛は平安京への還都を決意した。清盛の描いた福原京の構想は、わずか5ヶ月で幕を閉じた。

 福原遷都の失敗は清盛の権威をますます失墜させた。人望も権威も失いつつあった清盛が威信の回復を図るには、武力によって反乱勢力を潰すしかない。清盛はまず手始めに近江の園城寺を焼き討ち、続いて畿内最大の反平家勢力・南都興福寺を討伐すべく、平重衡を総大将とする追討軍を南都に差し向ける。南都に攻め入った追討軍は、興福寺、東大寺など七寺院に火を放った。興福寺では金堂や南大門をはじめ堂舎38ヶ所が燃え尽き、東大寺も正倉院を除いてほとんどの堂舎が消失。大仏もむざんに焼きただれた。『平家物語』によると、大仏殿の2階には老僧や子供などが避難していて、追手が来ないよう梯子をはずしていたため迫り来る炎から逃れられず、無惨極まりない地獄絵図が繰り広げられたという。焼死者の数は数千人にものぼったとか。このとき討ち取られた悪僧49人の首級は、ことごとく溝や堀に打ち捨てられたという。

 この「南都焼討」について『平家物語』では、夜戦となり明かりが必要になったため民家に火を放ったところ、風にあおられて瞬くまに燃え上がったとある。あくまで過失だったというのだ。しかし、南都攻めの手始めとして追討した園城寺を焼き討ちしていることを思えば、この南都焼討も計画的だったと考えていいのではないだろうか。

 「それこそが、もはや運が尽きたということよ。天は平家を見放したのじゃ」

 平家の悪行の最たるものとして後世に伝わるこの南都焼討。計画的だったにせよ過失だったにせよ、天が平家を見放し始めていたのは確かだった。それは歴史の示すとおりである。



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by sakanoueno-kumo | 2012-12-10 21:09 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(0)  

平清盛 第46話「頼朝挙兵」

 「以仁王の乱」祇王仏御前の逸話については、全話の稿でほとんど述べてしまったため(参照:第45話その1その2)、今回は福原遷都について。

 平家の軍事力によって「以仁王の乱」は、発覚から10日あまりという短さで鎮圧されたが、この乱が銃爪となってか、平清盛はある大きな決断をした。鎮圧から4日後の治承4年(1180年)5月30日、とつじょ安徳天皇(第81代天皇)の福原行幸が発表されたのだ。世にいう「福原遷都」である。いうまでもなく福原には清盛の別荘があり、その近くには清盛の手によって大輪田泊が整備されている。福原は清盛の街といっても過言でなく、その地に都を移すということは、清盛が名実ともに人臣の頂に立ったということだった。当初、安徳帝の行幸は6月3日に予定されていたが、遷都に反対する声がくすぶっていたためか、予定より1日早い6月2日、安徳天皇以下、高倉上皇(第80代天皇)、後白河法皇(第77代天皇)、平家一門や公卿たちとともに福原に向かった。

 しかし、「遷都」と呼ぶにはあまりに衝動的で無計画なものだったようで、安徳帝は清盛邸、高倉院は清盛の弟・平頼盛邸が仮の御所に充てられ、随行した人々は宿所が足りず、路上に座り込むありさまだったいう。本来であれば、新都を整備したうえで天皇の行幸を仰ぐのが遷都の手順であろうが、清盛の行った遷都は、まず天皇の移住ありきで、そののち新都を建設しようという、これまでの清盛らしからぬ無計画なものだったようだ。そんな状態であったため、遷都に対する反対派の声は日増しに大きくなっていった。新都の建設地も二転三転し、迷走のすえ、ようやく結論が出たのは1か月半後。とりあえず平安京を残したまま福原をしばらく皇居とし、道路や宅地を開発していくという路線に落ち着く。遷都を進めたい清盛と、平安京を維持したい反対派の双方の顔を立てる妥協的な結論だった。

 清盛がなぜ遷都に思い至ったかについては、さまざまな理由が考えられるが、一番の狙いは、平家の血を引いた安徳天皇を始祖とする「新王朝」の幕開けを見据えてのことだったのだろう。京都が都である限りは、摂関家藤原氏をはじめとする公家を無視して国政を運営することはできず、また、興福寺東大寺延暦寺といった大寺院の影響力も大きい。こういった点を勘案した清盛は、「新しい時代の国政を展開するには、遷都以外に道はない!」・・・そう考えたのではないだろうか。当然、激しい反発は予想していただろう。なんといっても平安京には、古より継承された歴史と伝統が刻み込まれている。しかし、清盛にとってその伝統は、武士が貴族の武力として利用され続けた屈辱の歴史でしかなかったのだろう。ドラマの表現を使えば、「王家の犬」の歴史である。平安京の歴史は貴族の歴史であり、清盛の目指した「武士の世」を作るには、歴史と伝統は悪しき旧弊でしかなかった。清盛の目指した遷都は、旧弊を払拭した新しい国家体制を宣言する・・・そのためには、遷都という荒療治が必要だったのだろう。ただ、計画があまりにも衝動的でずさんすぎた。

 桓武天皇(第50代天皇)により建都されて以来、380年以上日本の都として栄えた京都を捨て、辺鄙な福原に遷都したことを、『平家物語』「平家の悪行の極み」と評している。遷都の着想自体が悪行だったかどうかはわからないが、もし悪行だとするならば、計画のずさんさにあっただろう。清盛は何を焦っていたのだろうか・・・。

 「助けてくれ・・・誰か、助けてくれ・・・。暗闇ばかりじゃ・・・ここからの眺めは。果てしない・・・暗闇。手に入れても手に入れても、光は・・・光には・・・届かぬ・・・。」

 上りきったその果ての景色とは、どうやら孤独の暗闇だったようだ。孤独が清盛を狂気にさせた・・・? 古今東西、多くの独裁者がたどり着いたであろう境地に清盛も立っていた。頂に立つ者の孤独は、頂に立ったことのある者にしかわからないのだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-26 20:45 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(2)  

平清盛 第45話「以仁王の令旨」 その2

 平清盛悪人イメージを決定的に定着させる役割を果たしているのが、『平家物語』のなかの「祗王」の章の逸話である。物語よると、都で評判の白拍子だった祗王・祗女の姉妹が清盛の目に止まり、姉の祗王は清盛の邸に迎えられて寵愛を受けるようになった。清盛は二人の母親・とじにまで家を与え、手厚く面倒をみたという。清盛に見染められた祗王の名声は高まり、彼女にあやかろうと「祗」の字をつけた白拍子が急増したとか。祗王の存在は、当時の白拍子たちの憧れともいうべきシンデレラ・ストーリーだった。

 ところが、それから3年ほどたったころ、加賀生まれの16歳で名を仏御前という白拍子が現れた。たちまち都の売れっ子白拍子となった仏御前は、今をときめく祗王に対向すべく自ら清盛のもとを訪れたという。しかし清盛は「遊び女は呼ばれてから来るものだ。祗王がいる以上、神も仏も出入りは無用、さっさと帰れ」と追い返そうとした。しかし、それを見て同情した祗王が清盛に掛け合い、それならばと仏御前を招いて舞わせたところ、祗王に勝るとも劣らない芸達者だったという。清盛はたちまち仏御前に心を移し、邸にとどめようとする。しかし仏御前は、「祗王御前のとりなしで舞を観ていただいたのに、邸に召し置かれたら祗王御前に申し訳がたちません」と固く拒んだ。すると清盛は、「祗王をはばかるのならば、祗王を追いだそう」といって祗王を邸から追い出してしまったという。

 しばらくは母とともに都にとどまっていた祗王だったが、その後も「仏が退屈そうだから」といって邸に呼びつけられて仏御前と清盛の前で舞わせられるなどの屈辱を受け、やがて世の無常を悟った祗王・祗女の姉妹は髪を剃ってとなり、嵯峨野の奥に庵をむすんで母とともに念仏三昧の日々を送った。祗王21歳、祗女19歳だった。ところがその年の秋、驚くことに仏御前までもがその庵を訪れた。彼女は「いずれ自分も同じ身になると思うと、嬉しく思うことはなかった。娑婆の栄華は夢のまた夢、むなしいだけだ」といい、かぶっていた布をとると既に尼姿となっていた。それから4人は一緒に念仏を唱えながら日々を送り、いずれも往生を遂げたといわれている。

 この逸話が実話かどうかという点においては、そもそも祗王や仏御前が実在の人物であるかどうかも確かな史料は確認できず、伝説の域を出るものではない。ただ、史実かどうかという以前の問題として、この逸話における清盛の描かれ方はひどいものである。『平家物語』における「祗王」の章段は、ひとわたり平家の勃興と栄華が語られた後に、話の筋とは関係なく唐突に現れる。また、伝本によっては章の置かれている場所が違っていたり、載せていないものもあったりする。そもそも『平家物語』は事実を曲げてまで清盛を悪人に仕立てようとしている意図の物語であることは明確であり、この「祗王」の逸話も、仮にまったくの作り話ではなかったとしても、多分に虚構性の高いエピソードであると考えていいのではないだろうか。さらに言えば、寵愛していた遊び女を取り替えたり追い出したりすることが、当時の芸能者のパトロンである貴族社会でどれほどの罪悪だったのだろうか、という気もする。この逸話で清盛ひとりを悪人と評するのは、いささか短慮すぎやしないか・・・と。清盛にしてみれば、祗王の芸に惚れ込んでパトロンとなったが、それ以上に優れた仏御前の芸に魅せられ、祗王の支援をやめた。モーニング娘の追っかけをやめてAKBに乗り換えた・・・ただそれだけのことだったんじゃないか・・・と(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-23 23:58 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)  

平清盛 第44話「そこからの眺め」

 治承3年(1179年)、平清盛の身辺をふたつの悲劇が襲う。まずは6月17日、清盛の娘で前関白・藤原基実の未亡人である盛子(白河殿)がこの世を去った。奇しくも亡き夫と同じ24歳という若さだった。彼女は先に病没した清盛の義妹・建春門院滋子や、高倉天皇(第80代天皇)の中宮となり安徳天皇(第81代天皇)の生母となった建礼門院徳子と並んで、清盛の権力上昇に大きく貢献した女性だった。9歳で基実の継室となり、わずか11歳で未亡人になった薄幸の娘の死に(参照:第32話)、さすがの清盛もひとりの親として暗澹たる思いだったことだろう。

 ところが、そんな清盛の気持ちを逆撫でするかのように、後白河法皇(第77代天皇)は「内の御沙汰(天皇の命令)」と称し、盛子が亡き夫から相続していた領地を没収し、高倉帝の管理下に置いた。背後で糸を引いていたのは、関白・藤原基房だったようだ。摂関家領を我が子・藤原師家に相続させたいと考えた基房は、後白河院をそそのかして平家から領地を横領したのである。同時にこの措置は摂関家の後継者が師家であるというアピールでもあった。娘婿である近衛基通を摂政関白につかせるつもりだった清盛としては、この事態は受け入れられるものではなかった。

 さらに7月28日、清盛より平家の棟梁の座を継いでいた嫡子・平重盛が死去した。享年42歳。鹿ヶ谷事件以降、気力を失い臥せりがちだった重盛は、この年の3月の熊野詣の途中に吐血して倒れたという。死因は胃潰瘍とも脚気、腫瘍とも。幾度となくぶつかりながらも平家の後継者として最も頼りにしていた息子の死は、清盛にとって大きなショックだったに違いない。清盛を悪玉として描く『平家物語』ですら、さすがにこのときばかりは清盛に同情的で、子に先立たれた親の悲しみを代弁している。親が子を思う心は、いつの時代でも、たとえ清盛でも同じだろう。

 しかし後白河院は、またしても清盛の悲しみを逆撫でするかのように、重盛が10年以上知行国主を務めた越前国を没収して院の直轄地とし、近臣の藤原季能を越前守に任じた。さらに、『平家物語』によると、後白河院は重盛の喪が明けないうちから石清水八幡宮へ遊びに行き、嘆きの色さえ見せなかったという。長年に渡って後白河院に忠実に仕えた重盛の死に対して、まったく痛みを感じていない様子で、これは明らかに平家への挑発行為だった。これに激昂した清盛は10月14日、大軍を率いて摂津福原から上洛。15日には徳子と皇太子・言仁親王(のちの安徳天皇)を自邸に移し、二人を伴って福原に引き籠ると脅した。清盛の怒りの大きさに恐れをなした法皇は、すぐさま清盛のもとに使者を送り、今後は国政に関与しない旨を伝えた。しかし清盛は許さず、17日には太政大臣・藤原師長をはじめ、公卿、殿上人、院近臣など39名を解官、法皇を平安京南郊の鳥羽殿に幽閉した。そして、娘婿である近衛基通を関白・内大臣にすえ、大量解官によって欠員となった知行国主や受領に、平家一門や家人を任じた。世に言う「治承三年のクーデター」である。

 承久の乱に敗れた後鳥羽法皇(第82代天皇)のように島流しになったわけではないが、実質的には治天の君が臣下である清盛によって配流されたのも同然のことで、武力が朝廷の秩序を破壊した瞬間だった。この政変により、約13年続いた後白河院政は終わり、平家による独裁政治が幕を空ける。ここに、日本史上初の軍事政権が誕生し、いわゆる“武士の世”が訪れたといえる。まさしく人臣の頂にたった平清盛。そこからの眺めはどのようなものか? 白河法皇(第72代天皇)が言った、のぼりきったその果ての景色とは・・・? もうすぐ答えが見えてきそうだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-13 23:44 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)  

平清盛 第42話「鹿ヶ谷の陰謀」

 延暦寺の山門衆徒の要求を全面的にのむかたちで決着をみた「比叡山の強訴」だったが、いったんは引き下がったものの腹の虫がおさまらない後白河法皇(第77代天皇)は、強訴の責任は延暦寺座主の明雲にあるといいはじめ、座主職の罷免と所領の没収を命じ、廷臣の反対を押し切って明雲の伊豆配流を断行する。しかし、山門の大衆はこの決定に反発し、護送中の明雲を力づくで奪還して比叡山に連れ帰った。これに激怒した後白河院は、平重盛平宗盛の兄弟に出撃を命じたが、二人は父の平清盛の指示を仰ぐといって態度をはっきりさせない。業を煮やした法皇は、福原に使者を送って清盛を呼び出し、比叡山総攻撃を命じた。平家にとって比叡山を敵に回しても得るものは何もなく、清盛はかねてから比叡山との協調姿勢をとっていたが、さすがの清盛も治天の君である後白河院直々の司令を拒むわけにはいかなかったようで、やむなくこれを受諾する。

 ところが比叡山攻撃直前の治承元年(1177年)6月1日、事態は急変する。明け方、明雲を讒言したという罪状で西光が捕縛されて拷問にかけられ、清盛を倒す計画を法皇や近臣と謀議したことを白状。翌日、五条坊門朱雀で斬首された。『愚管抄』によれば、ことの発覚は多田行綱の密告だったと伝えているが、事実かどうかは定かではない。行綱は摂津国多田荘を本拠とする摂津源氏の有力者で、摂津福原に拠点をおいていた清盛とは協調関係にあったと考えられており、その行綱が平家打倒の謀議の席に呼ばれるのは不自然であるという意見もある。また、ドラマでは囚われの身となった西光が清盛に向かって「無頼の高平太」と罵り、激高した清盛が西光を何度も蹴り倒すというシーンがあったが、このエピソードは『平家物語』の中に描かれている有名な逸話で、西光が「卑しい身分の出でありながら太政大臣にまで成り上がるなど過分である」と罵り、激怒した清盛は西光の顔を踏みつけた上でその口を切り裂かせ、首を打たせたと記されている。ドラマで描かれていた狂気の沙汰は、この逸話から連想した描写だろう。

 続いて、藤原成親藤原成経父子、法勝寺の執行・俊寛僧都、検非違使の平康頼など、院近臣が次々と逮捕されて解官・配流に処された。そして6月6日には明雲の赦免が決定され、法皇が清盛に命じた比叡山への武力攻撃は未然に回避されたのであった。

 以上が「鹿ヶ谷事件」または「鹿ヶ谷の陰謀」といわれる平家打倒未遂事件のあらましである。平家の専横が招いたクーデター未遂事件ともいえるが、一方で、タイミング的にあまりにも平家にとって都合がよすぎる展開だけに、清盛が院近臣の勢力を一網打尽にするため、あるいは比叡山との武力衝突を避けるために仕組んだ演出だったという見方も少なくない。実際、この事件によって後白河院近臣の実力者は一掃され、断るに断れなかった法皇の命令も回避することができた。まさしく平家にとっては渡りに船であり、願ったり叶ったりの事件だった。この陰謀が、清盛のでっち上げた謀略だったという説も頷ける気がする。ただ、捕まった西光が打倒清盛の謀議を白状したのは事実であり、このとき参加した院近臣の名簿まで作成されている。また『愚管抄』にも、「後白河院が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まりさまざまな議をこらした」とあるから、「火のないところに煙は立たぬ」で、何らかの謀議はあったようだ。

 だが、それが平家を武力で排除するような計画だったかどうかは甚だ疑問である。彼らの動かせる兵力が平家の足元にも及ばないことは火を見るより明らかであり、武力での政変など無謀極まりないことは、いくら軽率な院近臣にもわかることだったはずだ。謀議といっても、せいぜい反平家の貴族があつまって愚痴をこぼし合っていた程度のことだったのではないだろうか。『平家物語』によると、謀議が終わったあとの宴席で酔った成親が立ち上がった勢いで瓶子(へいし)が倒れ、後白河院が「あれはいかに」と問うと、成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。これが本当なら、何とも幼稚な行いで滑稽な話ある。いってみれば、サラリーマンが仕事のうっぷん晴らしの不平不満をいい合う程度の呑み会が「謀議」とされたというわけだ。酔った勢いで調子に乗って瓶子の首をもぎ取った西光は、のちに自身の首がもぎ取られることになろうとは、夢々思っていなかったことだろう。

 「そなたの国づくりは志ではない。復讐だからじゃ。おのれを犬と扱う王家への恨みつらみに突き動かされておるだけだからじゃ。さようなものにつきあわされて、よい面の皮じゃ。民も、公卿も、うぬらもな。」
 西光に罵られて激高する清盛。少なからず図星をつかれたということだろうか? 人臣の頂に立ち、酸いも甘いも噛み分けた清盛が、あそこまで我を忘れて狂態を晒した理由は? どうやらその辺にドラマの清盛の根っこの部分があるようだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-30 00:48 | 平清盛 | Trackback(4) | Comments(0)