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平清盛 第44話「そこからの眺め」

 治承3年(1179年)、平清盛の身辺をふたつの悲劇が襲う。まずは6月17日、清盛の娘で前関白・藤原基実の未亡人である盛子(白河殿)がこの世を去った。奇しくも亡き夫と同じ24歳という若さだった。彼女は先に病没した清盛の義妹・建春門院滋子や、高倉天皇(第80代天皇)の中宮となり安徳天皇(第81代天皇)の生母となった建礼門院徳子と並んで、清盛の権力上昇に大きく貢献した女性だった。9歳で基実の継室となり、わずか11歳で未亡人になった薄幸の娘の死に(参照:第32話)、さすがの清盛もひとりの親として暗澹たる思いだったことだろう。

 ところが、そんな清盛の気持ちを逆撫でするかのように、後白河法皇(第77代天皇)は「内の御沙汰(天皇の命令)」と称し、盛子が亡き夫から相続していた領地を没収し、高倉帝の管理下に置いた。背後で糸を引いていたのは、関白・藤原基房だったようだ。摂関家領を我が子・藤原師家に相続させたいと考えた基房は、後白河院をそそのかして平家から領地を横領したのである。同時にこの措置は摂関家の後継者が師家であるというアピールでもあった。娘婿である近衛基通を摂政関白につかせるつもりだった清盛としては、この事態は受け入れられるものではなかった。

 さらに7月28日、清盛より平家の棟梁の座を継いでいた嫡子・平重盛が死去した。享年42歳。鹿ヶ谷事件以降、気力を失い臥せりがちだった重盛は、この年の3月の熊野詣の途中に吐血して倒れたという。死因は胃潰瘍とも脚気、腫瘍とも。幾度となくぶつかりながらも平家の後継者として最も頼りにしていた息子の死は、清盛にとって大きなショックだったに違いない。清盛を悪玉として描く『平家物語』ですら、さすがにこのときばかりは清盛に同情的で、子に先立たれた親の悲しみを代弁している。親が子を思う心は、いつの時代でも、たとえ清盛でも同じだろう。

 しかし後白河院は、またしても清盛の悲しみを逆撫でするかのように、重盛が10年以上知行国主を務めた越前国を没収して院の直轄地とし、近臣の藤原季能を越前守に任じた。さらに、『平家物語』によると、後白河院は重盛の喪が明けないうちから石清水八幡宮へ遊びに行き、嘆きの色さえ見せなかったという。長年に渡って後白河院に忠実に仕えた重盛の死に対して、まったく痛みを感じていない様子で、これは明らかに平家への挑発行為だった。これに激昂した清盛は10月14日、大軍を率いて摂津福原から上洛。15日には徳子と皇太子・言仁親王(のちの安徳天皇)を自邸に移し、二人を伴って福原に引き籠ると脅した。清盛の怒りの大きさに恐れをなした法皇は、すぐさま清盛のもとに使者を送り、今後は国政に関与しない旨を伝えた。しかし清盛は許さず、17日には太政大臣・藤原師長をはじめ、公卿、殿上人、院近臣など39名を解官、法皇を平安京南郊の鳥羽殿に幽閉した。そして、娘婿である近衛基通を関白・内大臣にすえ、大量解官によって欠員となった知行国主や受領に、平家一門や家人を任じた。世に言う「治承三年のクーデター」である。

 承久の乱に敗れた後鳥羽法皇(第82代天皇)のように島流しになったわけではないが、実質的には治天の君が臣下である清盛によって配流されたのも同然のことで、武力が朝廷の秩序を破壊した瞬間だった。この政変により、約13年続いた後白河院政は終わり、平家による独裁政治が幕を空ける。ここに、日本史上初の軍事政権が誕生し、いわゆる“武士の世”が訪れたといえる。まさしく人臣の頂にたった平清盛。そこからの眺めはどのようなものか? 白河法皇(第72代天皇)が言った、のぼりきったその果ての景色とは・・・? もうすぐ答えが見えてきそうだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-13 23:44 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)  

平清盛 第43話「忠と孝のはざまで」

 一週間遅れのレビューです。

 平清盛にとって娘の徳子高倉天皇(第80代天皇)の皇子を生み、天皇の外祖父になることが大きな願いであったが、徳子が入内してから2年、3年と過ぎても一向に懐妊の兆しはなかった。この結婚が朝廷と平家を結びつける重要な意味を持つことは高倉帝自身も承知のことだったが、いかんせん高倉帝はなかなかの女好きだったようで、次から次へと側女を作り、子どもまでもうけてしまう高倉帝の行動に(幸運にもみな皇女だった)、清盛は気をもんでいたに違いない。徳子の懐妊が知らされたのは、入内から7年が過ぎた治承2年(1178年)6月のことだった。

 徳子のお産はたいへんな難産だったらしい。出産に際しては、後白河法皇(第77代天皇)も一僧侶として祈祷に加わったという逸話も残っている。前年に鹿ヶ谷事件があり、清盛と後白河院の関係は修復不可能な程に悪化していたが、それでも皇子の出産をひたすら祈った後白河院の胸中は、どのようなものだったのだろう。一方の祖父である清盛はというと、ただうろたえるだけだったという。『平家物語』によると、一向に進まないお産に清盛は途方にくれ、人が何かを言っても「とにかくよきにはからえ」と言うのがやっとだったとか。やがて重衡が皇子出産の報を告げると、清盛は感極まって大声で泣いたという。いかに清盛がこの日を待ち望んでいたかがうかがえるエピソードである。皇子は言仁(ときひと)と名付けられ、翌月には早くも皇太子にたてられた。誰にとっても孫は可愛いものなのだろうが、清盛にとっては外祖父の地位が約束されただけに、ことのほか皇子が愛おしく思えたのだろう。

 後白河院を幽閉しようとする清盛に対して、嫡男・平重盛が涙ながらにその不忠を諌め、清盛を思い止まらせたという逸話は、『平家物語』に見られるエピソードである。ドラマでは言仁親王を皇太子に立てたあとに、「機は熟した」として法皇を捕らえるよう号令を発していたが、『平家物語』によると、鹿ヶ谷事件の際に怒りに任せて行おうとした暴挙として描かれている。臣下である清盛が法皇を幽閉するなどの不忠が許されるはずもないが、清盛のあまりの剣幕に圧倒され、平家一門だれひとり異を唱える者がいなかった。『平家物語』の「教訓状」によると、平家一門がみな甲冑に身を纏うなか、重盛はやや遅れて平服で伺候し、こう述べたという。
「悲しきかな、君の御為に奉公の忠を致さんとすれば、迷盧八萬の頂よりもなほ高き父の恩たちまちに忘れんとす。痛ましきかな、不孝の罪を遁れんとすれば、君の御為には、不忠の逆臣ともなりぬべし。進退これ窮まれり。是非いかにもたとえ難し。申請る所詮は、唯重盛が頸を召され候へ。」
(法皇に忠義を尽くそうとすれば親不孝となり、親不孝をしてはならないと思って行動すれば不忠者となってしまいます。進退は極まりました。もはや私の首をはねていただくしかありません。)


 この重盛の涙ながらの懇願に追い詰められた清盛は、自分の非を認めてほこを収めるしか術はなかった・・・というのが、『平家物語』に記されたエピソードで、ドラマでも採用されていた筋立てである。ただ、『平家物語』は清盛の暴君ぶりを誇張した物語で、その対比として重盛が必要以上に聖人君子として描かれているきらいがなくもない。実際に清盛は重盛の病没後に後白河院の幽閉を実行しており、その伏線として、清盛の横暴ぶりを際立たせるために作られた話だと見る人も多いようだ。ただ、このような重盛像は全くの虚像でもなく、『愚管抄』では「小松内府ハイミジク心ウルハシクテ」と述べられており、その他、当時の公家の日記などにも、重盛の人物を高く評価する記述が認められる。『平家物語』で見られるような聖人君子だったかどうかはわからないが、誠実で立派な人物ではあったようだ。

 ちなみに、このとき重盛が発した言葉、「忠ならんと欲すれば即ち孝ならず」は、明治維新以後の国定教科書に記載されることとなる。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-12 00:09 | 平清盛 | Trackback | Comments(0)  

平清盛 第37話「殿下乗合事件」

 嘉応2年(1170年)7月3日、平清盛から棟梁の座を譲られた平重盛の次男で、当時13歳だった平資盛が家臣30騎ばかりを連れて鷹狩りに出かけた帰路、寺院に参詣する途中の摂政・藤原基房の一行と鉢合わせになった。本来、貴族社会では身分の高い人にあったとき、下位の者は下馬して礼をしなくてはならない。しかし、このとき資盛一行は下馬の礼をとろうとしなかった。基房の従者たちはその無礼を咎めたが、資盛たちは下馬するどころか行列をかけ破って通りぬけようとした。怒った基房の従者たちは、その人物が清盛の孫であることを知ってか知らずか、資盛とその共の者たちを馬から引きずり降ろし、さんざんに辱めを加えるという出来事が起こった。

 これに怒った平家は、その3ヶ月後の10月21日、基房が高倉天皇(第80代天皇)の元服の打合せのために牛車で御所へ参内しようとしたところを襲撃。このとき、基房方では複数の家臣が前駆をつとめていたが、そのうち5人が馬から引きずり降ろされ、4人がを切り落とされた。当時の社会において、髻を切られるというのはこのうえない恥辱であり、平家の怒りの大きさがうかがえる事件である。

 「殿下乗合事件」と呼ばれるこの報復事件について『平家物語』では、「平家の悪行のはじめ」といい、報復を命じたのは清盛だとしている。そもそも事の発端は平家の権勢をバックにおごり高ぶっていた資盛一行の無礼から始まったにもかかわらず、これを聞いた清盛は「いかに摂政といえども清盛の身内にこのような恥辱を与えるとは許せぬ」と大いに怒った。しかし重盛は「そもそも下馬の礼をとらなかった資盛に非がある」と諌めたという。それでも清盛の怒りは収まらず、重盛に内緒で300騎余りの兵を動員して基房を襲撃。上述したとおり従者の髻を切り落とし、さらに基房の牛車にまで弓を突き入れ、簾を落とすなどの狼藉を加えたという。このことを知った重盛は大いに驚き、関係した侍たちを罰した。そして資盛に対して「このような無礼な振る舞いをして、入道の悪名を立たせるとは不孝のいたりだ」として、資盛を伊勢国に下して謹慎させた。この重盛の公明正大さに人々は大いに感心したという。

 と、おごり高ぶる清盛と平家一門の横暴のなかで、ひとり道理をわきまえた重盛の姿が描かれている『平家物語』だが、のちに摂政となる藤原兼実の日記『玉葉』などをはじめとする当時の良質の史料では、ずいぶんと話が違っている。それらによれば、実際に基房への報復を命じたのは、清盛ではなく重盛だったというのだ。資盛一行と基房の行列が鉢合わせになって乱闘に及んだのは事実だが、それが重盛の子であると知って慌てた基房は、事件にかかわった家臣らを解雇した上で、重盛に引き渡して事件をおさめようとした。しかし重盛はそんな生温い謝罪では許さず、謝罪に訪れた従者たちを追い返した。震えあがった基房は、さらに多くの家臣らを検非違使に引き渡して処罰し、事態の収拾をはかった。それでも腹の虫がおさまらない重盛は、あくまで基房本人に報復を加えようとし、7月16日には二条京極に武者を集めて襲撃しようとしたが、企てを察知した基房が外出を取りやめたため、不首尾に終わっている。その後、しばらくは何事もなく過ぎていたが、重盛が報復を断念したわけではなく、事件から3ヶ月経った10月21日に事件は起こった。あとは、『平家物語』の描写と大同小異である。

 清盛が報復を命じたという『平家物語』と重盛が報復を首謀したという『玉葉』の記述。資盛の無礼が招いた事件であるという点では同じだが、その後の経過がまるで違う。どちらの説に真実味があるかといえば、同時代の史料である『玉葉』と見るのが正しいだろう。このとき清盛は福原にいて、事件には一切かかわっていなかったらしい。それどころか、むしろ重盛の尻拭いをしていたようで、この年の12月に基房が太政大臣を兼ねるようになったのも、基房の憤りをしずめるために清盛が根回ししたものと考えられている。また、資盛は事件翌年に越前守を重任(任期終了後も続けて任命されること)しており、重盛が資盛を伊勢で謹慎させたという事実もなかったようだ。そもそも『平家物語』は清盛を悪人に仕立て上げるために作られた物語といってよく、対照的に重盛は思慮分別のある聖人君子として描かれている物語である。しかし実際の重盛は、清盛と同じく荒々しい武人の血が流れた人物だったということだろう。

 ドラマではそのどちらの説でもなく、清盛がほのめかして実行したのは平時忠という設定。『平家物語』と同じく道理を通した重盛だったが、それによって人々に感心されることはなく、むしろ父・清盛との器の違いに打ちひしがれるという展開だった。これはこれで、実に面白い脚本だったと思う。ドラマではいつも汚れ役にされている時忠には少々気の毒な気がしないでもないが、野心家策謀家だったとされる時忠のキャラとしては、あながち的外れでもないかもしれない。そんな時忠がいった本話の名言。
 「正しすぎるということは、もはや間違うているも同じことにござります。」
 公明正大さだけでは人は束ねられない。リーダーたる者、ときには交渉の手段として、あるいは配下の者の立場を守るため、清濁併せ呑む必要がある・・・と。実に深い言葉である。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-24 22:53 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(0)  

平清盛 第35話「わが都、福原」

 出家して入道相国(入道は出家した人、相国は太政大臣)と呼ばれるようになった平清盛は、仁安4年(1169年)春、六波羅の邸宅を嫡男の平重盛に譲り、摂津国福原に山荘を作って隠棲した。これ以後、日常の政権運営は京にいる一門にゆだね、清盛自身は必要に応じて上洛し、政局を収拾すると福原に戻るといった政治スタイルを貫くことになる。これは鳥羽院政時代、藤原忠実が宇治に別荘を構えて隠居したことにならったといわれており、中央政界から距離をおくことで、かえって自身の存在感を高めようとする人心掌握の策だったとも考えられている。

 清盛と福原の関係は、「平治の乱」後ほどなくして始まったといわれている。背後にそびえる六甲山地と南に広がる海原の間に挟まれた風光明媚なロケーションに魅せられ、そして何よりも古代から良港として知られている大輪田泊(奈良時代に行基が開いた五泊の一つ)が、かねてから日宋貿易に意欲を燃やしていた清盛にとっては大きな魅力だったのだろう。九世紀末の遣唐使廃止以後、中国との正式な国交は途絶えていたが、博多を始めとする九州沿岸では有力な荘園領主による密貿易が盛んに行われていた。平家も清盛の父・平忠盛の時代から日宋貿易に携わり始め、保元2年(1157年)に清盛が太宰大弐(太宰府の実質的な長官)に就任して以降は、さらに積極的に関与するようになった。そしてそれをさらに大規模に推し進めるために、清盛は福原の外港である大輪田の泊を修築し、ここに宋船を迎え入れようと考えたのである。『愚管抄』「平相国ハ世ノ事シオホセタリト思ヒテ出家シテ、摂津国ノ福原ト云所ニ常ニハアリケル」とあるとおり、これ以後、清盛は福原を本拠として日宋貿易に注力しながら、京都の政治を遠隔操作していくことになる。

 清盛の弟・平頼盛が甥の重盛より出世が遅れていたのはドラマにあったとおりで、27歳で正三位、28歳で早くも参議となった重盛に対し、頼盛は33歳で正四位下・修理大夫に過ぎず、重盛の叔父という立場にありながら甥に遅れをとっていた。その理由については、清盛と頼盛の異母兄弟という間柄からくる確執といわれたりもするが、事実はどうだったのだろうか。もっとも、頼盛と重盛は叔父、甥の関係とはいえ、年齢差はわずかに5歳差。棟梁の嫡男である重盛が先に出世するのは当然のことだという見方もある。事実、頼盛はかつて清盛が自身が就いていた太宰大弐に任命され、重盛に遅れること3年後には従三位に叙せられ、重盛以外の清盛の息子たちよりは先に平家では3人目の公卿となった。参議となったのは平宗盛平教盛に次いで5人目だったものの、清盛の福原隠棲後は、重盛とともに清盛の代理人的立場として頼盛を重用していた。清盛は決して頼盛を疎んじていたわけではなかったようである。

 そんな頼盛が、参議就任直後に解官されたのはドラマのとおりである。その理由についてもドラマで描かれていたとおり、後白河上皇(第77代天皇)への出仕を度々怠ったことだといわれており、後白河院の怒りは激しいものだったようで、息子の平保盛ともども全ての官職を奪われてしまった。なぜ後白河院への出仕を怠ったのかは定かではない。摂政・藤原基房八条院暲子内親王、後白河院の第二皇子・以仁王の策略だったというのはドラマのオリジナルである(たぶん)。ドラマでは描かれていなかったが、この時期、重盛は病により健康がすぐれず、権大納言を辞任する事態に至っている。そんな中、もうひとり京を任せていた頼盛の軽々な行動を、清盛はきっと苦々しく思っていたことだろう。頼盛の失脚は長きに渡り、出仕が許されたのは1年後のことだった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-10 00:55 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(4)  

平清盛 第33話「清盛、五十の宴」

 仁安2年(1167年)5月17日、就任わずか3ヵ月にして太政大臣を辞任した平清盛だったが、それはあくまで形式的な引退に過ぎず、前大相国(前太政大臣)という権威をかさに、これまで以上に国政に影響を及ぼすようになった。まず、嫡男の平重盛に対して東山、東海、山陽、南海四道の賊徒追討を命じる宣司が朝廷より下された。この宣司は、それまで清盛が握っていた軍事、警察権を重盛に譲ることが公認されたことに他ならない。これにより重盛に家督が譲られ、清盛の後継者としての地位を名実ともに確立した。ときを同じくして清盛の弟・平頼盛大宰大弐となり、清盛の義弟・平時忠参議となったのもドラマのとおりである。平家一門は今、絶頂期を向かえようとしていた。清盛50歳のときであった。

 清盛の弟・平忠度(忠教)が新たに登場したので、今さらではあるが、ここで改めて清盛の兄弟についておさらいしてみたい。第1話でも触れたとおり(参照:第1話)、清盛の生母については正確なことはほとんど何もわかっていないが、わかっているのは、清盛が2、3歳の頃に亡くなり、清盛以外に子どもを産んだという記録はないことである。つまり、清盛には父母を同じくする兄弟姉妹は一人もいなかったようだ(ドラマでは、清盛の実父は平忠盛ではなく白河法皇(第72代天皇)の御落胤という設定になっているが、この説については賛否両論があって事実とは言い難い)。清盛の生母の死後、忠盛は宗子(池禅尼)を継室に迎えて平家盛平頼盛といった男子をもうけ、また他にも三人の側室や妾との間にそれぞれ、平経盛平教盛平忠度(忠教)という男子をもうけた。次弟の家盛の生年は正確には不明なのだが、これらの異母弟の長幼の順は、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度というものであったと考えられている。さらに、生母も長幼の順も不明だが、清盛には少なくとも3人の異母妹がいた。

 本話で登場した忠度は清盛の末の弟で、ドラマのとおり紀伊国熊野で生まれ育ったと言われている。天養元年(1144年)生まれという説を信じれば、甥にあたる重盛より6歳年下ということになる(この時代、年下の叔父などさほど珍しいことではない)。ドラマの雰囲気では、とてもそうは見えなかったが・・・(笑)。忠度がこの頃はじめて清盛に会ったかどうかはわからないが、清盛の兄弟のなかでも出世が遅れがちだったのは事実である。ただ、歌人としては優れた人物で、当代随一の歌人・藤原俊成に師事した文人武将として後世に名高い。『平家物語』の中でも、経盛の子・敦盛が落命する「敦盛最期」とともに、「忠教最期」の場面は涙を誘う話として知られる。そんな忠度の人物像を上手く表した設定だった。もっとも、あんな山男のような風貌だったかどうかは定かではないが・・・。

 兄弟の話になったついでに、本話で大宰大弐となった頼盛についても少しだけ。ドラマでは、あまり兄弟仲が良くないように描かれている清盛と頼盛だが、実際にも不仲だったという見方がある。一般にいわれているのは、家盛亡きあと頼盛は正室のただ一人の子として、忠盛の死後、清盛の家督相続を快く思っていなかったとする説だが、それ以前の逸話としても、忠盛が伊勢平氏の「伝家の宝刀」である「小烏丸」を清盛に与え、同じく「抜丸」を頼盛に与えたところ、両方を貰えると考えていた二人は、このことがきっかけでその後仲違いしたというエピソードがある。この話の当否はともかく、「保元の乱」の際に池禅尼が頼盛に対して、兄の清盛と同一行動をとるように命じたという『愚管抄』の記述もあり、母親がそんな言わずもがなのことを忠告せねばならなかったことから考えても、ドラマのとおり、二人の仲は決して良好なものではなかったようだ。その後、兄弟の間にはこれといったトラブルはなかったが、清盛の死後、頼盛が平家一門と行動を共にしなかったことから見ても、清盛の子供たちと頼盛の関係も同じく溝があったのかもしれない。

 本話の清盛の「五十歳の宴」は、ドラマのオリジナルである(たぶん)。ただ、この時期の平家一門の繁栄と結束の強さを上手く描いた創作だったと思う。清盛が扇で夕日を招き返したという逸話は宴の席のことではなく、音戸の瀬戸の工事にあたり、清盛は一日で工事を終わらせるために沈みゆく夕陽を扇で招き返し、工事を完成させたというエピソード。もちろん、荒唐無稽な伝承であることは言うまでもない。ただ、この時期の清盛はそれほど力を持っていた、思いどおりにならないものは何ひとつなかった、ということはいえるだろう。ところが、そんな清盛を思わぬ病が襲う。清盛、51歳のときだった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-27 18:00 | 平清盛 | Trackback | Comments(2)  

平清盛 第27話「宿命の対決」 その2

 その1の続きです。
 後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)を奪われたことで朝敵となってしまった藤原信頼源義朝だったが、『愚管抄』によると、天皇脱出を知った信頼、義朝は「アブノ目ヌケタル如クニテアリケリ」という状態になってしまったという。目をくりぬかれた虻のように自分たちの進む方向性を失ってしまった様子を表したものだろう。また、『平治物語』では、天皇を奪われたことを知った義朝は、その不手際に怒って信頼を「日本第一ノ不覚人」と罵ったという。しかし、すべてはあとの祭り、賊軍に転落した彼らは、攻め寄せてくるであろう官軍を迎え撃つべく直ちに迎撃体制を整えた。

 一方、官軍となった平家軍は、総大将である平清盛が皇居となった六波羅を固め、清盛の長男・平重盛と、清盛の弟、平頼盛が攻め手の大将として義朝たちの籠もる内裏を攻撃した。『平治物語』によると、重盛は並み居る兵を前に「年号は平治なり、花洛は平安城なり、我らは平氏なれば、三事相応せり。敵をたいらげん事、何の疑いかあるべき」と叫び、兵士たちの戦意を鼓舞したという。また、ドラマにあった重盛と義朝の長男・源義平(悪源太)との一騎討ちも、『平治物語』に描かれている一幕である。待賢門に攻め寄せた重盛は、迎え撃つ義平と大庭の椋の木を真ん中に挟んで左近の櫻右近の橘の間を7・8回も駆け巡った。やがて、重盛が内裏を引き退くと、義平は逃げる重盛を追い、堀河付近で再び激闘を繰り広げたという。堀河での激戦の模様は『愚管抄』にもあり、馬を射られながら材木(堀河は材木の集積地)の上に弓杖で立ち上がり、馬を乗り換えた重盛を「ユユシク見ヘケリ」と記している。さらに『平治物語』では、郁芳門を攻撃した頼盛についても、徒武者の熊手に兜を引っかけられながら、忠盛から譲られた名刀「抜丸」で熊手の柄を切り折り窮地を脱する様が描かれている。

 やがて平家軍は六波羅へ兵を退く。戦闘中に内裏を捨てて退いた重盛軍、頼盛軍だったが、『平治物語』によると、実はこの撤退はあらかじめ申し合わされてのことだったという。合戦前、公卿から新造なった内裏を火災で失わないよう策を求められた清盛が、義朝軍をおびき出して内裏を占拠するために立てた策だった。そうとは知らずに源氏軍は一斉に内裏を出て、重盛らに追いすがった。このあと、平家軍の別働隊が内裏を占拠して門を閉ざしたのはいうまでもない。清盛の立てた策にまんまと掛かって退路を断たれた源氏軍は、もはや六波羅に攻めこむしか道はなかった。

 同じ頃、平家軍は加茂川に架かる五条大橋を分解し、用材を使ってバリケードを構築していた。この奇策を立案したのもまた、誰あろう清盛だった。決死の覚悟で六波羅に迫った義朝軍だったが、五条大橋のあたりでバリケードに行く手を遮られ、さらに兵の数にも歴然とした差があり、あえなく六条河原敗退した。一時は義平が幾重もの防衛戦を突破して六波羅の板塀近くまで攻め寄せるという奮戦ぶりを見せたものの、結局は多勢に無勢、衆寡敵せずだった。ドラマで描かれていた清盛と義朝の一騎討ちはいうまでもなくフィクションである。味方だった源頼政や美濃源氏の源光保(二条帝の側近)たちにも裏切られ、家臣の多くを討ち取られて十騎ほどになってしまった義朝軍は、東国で再起を図るため落ちていった。ここに、「平治の乱」は平家軍の大勝利をもって幕を下ろした。敗走する源氏を見送った清盛は、「内裏に行って昨日信頼に渡した名簿(みょうぶ)を取り返してやろう」といって人々を笑わせたというエピソードが残っている。

 余談だが、小学校の運動会紅組白組に分かれて戦う形式は、源平合戦に由来するといわれている。『保元物語』には、「源平両家の郎等、白旗、赤旗をさして、東西南北へはせちがふ」とあり、ドラマでも描かれていたように、源氏が白平氏が紅の旗印を掲げて戦った。これ以後、わが国では対抗戦において紅白が用いられるようになったといわれ、小学生が運動会でかぶる紅白帽は、紅白の鉢巻の発展系だといわれている。つまり、最初の源平合戦であるこの「平治の乱」が、わが国最初の紅白対抗戦だったというわけである。ちなみに我が家では、息子は白組、娘は紅組になることが何故か多い。なるほど、どうりで仲が良くないわけだ・・・。上、さらに余談。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-10 18:00 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)  

平清盛 第24話「清盛の大一番」

 保元の乱後、政治向きに疎い後白河天皇(第77代天皇)のもとで中央政界の実権を握った信西は、自身の構想する天皇権威の復権を目指して体制を整えるべく、「保元新制七箇条」を発令した。その内容は、火災で失われていた大内裏の再建、税収を上げるための諸国の荘園整理神人・悪僧の統制などの諸改革。信西は、保元の乱で落命した政敵・藤原頼長よりも、さらに具体的で発展的な構想を持っていた。

 信西の手腕をうかがえる逸話として、大内裏の再建における『愚管抄』の記述を引用すると、
 「ハタハタト折ヲ得テ、メデタクメデタク沙汰シテ、諸国七道スコシノワズライモナク、サハサハト二年ガ程ニツクリ出シテケリ。ソノ間手ヅカラ終夜算ヲオキケル。」とある。
 意訳すると、大内裏の再建に際して信西は、自ら夜な夜な算盤をはじいて、再建経費が諸国の負担にならないように公平に分配し、2年足らずの短期間で民の不満もなくこれを成し遂げた・・・と。とにかく信西の采配は、メデタシメデタシの沙汰だった・・・というのだ。少々べた褒めすぎる気がしないでもないが、政局にあたっては腹黒い野心家のイメージが強い信西だが、行政家としての彼は、清廉で公正な理想家だったのかもしれない。

 その再建された内裏で、信西は長らく行われていなかった内教坊の舞姫の楽や、相撲節会(すまいのせちえ)などの古儀の復興を行った。「相撲」とは文字通り現代に通ずる「すもう」のことで、「相撲節会」とは、各地から相撲人を選出し、天皇御覧の元に国家安泰五穀豊穣を祈って行う大規模な天覧相撲大会のこと。古くは奈良時代の聖武天皇(第45代天皇)の時代の記録にも残されているという伝統ある宮廷行事だった。しかし、平安時代の後期には衰退していて、保元3年(1158年)と承安4年(1174年)に散発的に行なわれたのを最後に、宮廷行事としての相撲は廃絶したという。ドラマで描かれていた相撲節会は、この保元3年に行われたものである。

 ちなみにドラマの相撲節会で優勝した力士・長門を演じていたのは、現役力士で山口県出身の豊真将関。大河ドラマに現役力士が出演するのは初めてのことだとか。まわしも当時の形を忠実に再現したもので、取組も、立ったままの立ち合いという平安相撲をそのまま描写したそうだ。本当に平安相撲に忠実だったかどうかは私にはわからないが、いくらディテールにこだわっても、取組自体に迫力がなければリアリティは描けない。その意味では、さすがは豊真将関だったと思う。ただのデブを起用していたら、きっと台なしになっていたことだろう(笑)。

 相撲節会の復興を平清盛が手伝ったという記録は残っていないが、大内裏の再建には大きく貢献していた。仁寿殿の造営を任された清盛は、ドラマのとおり公卿昇進とはいかなかったものの、長男の平重盛がその譲りによって正五位下となった。また、貞観殿の造営を担当した清盛の弟、平頼盛従四位下に、また、平教盛平経盛らも、それぞれ位階の昇叙があった。そして清盛自身は、播磨守から太宰府の実質的な長官である太宰大弐にとなった。太宰大弐という役職は、通常は三位の公卿が就任する高官である。これにより、清盛の政界での存在感は、さらに大きなものとなっていった。
 
 「私には嫡男としての覚悟がござりません。一門のためとはいえ、大叔父上を己が手で斬ることができる父上の、それを命じた信西入道と平気で働ける父上の、跡を継げるだけの肝が据わりません!」
 「さようか。お前の考えはようわかった。だが、お前の戯言につきおうておる暇はない。つべこべ言うておらず、早う婚礼を済ませ、子でももうけよ!」

 父・清盛のやり方に疑問を抱く生真面目な重盛と、そんな息子の気性を理解した上で一蹴する清盛の会話。のちに「平家の良心」とよばれる聖人君子の重盛と、清濁併せ呑む清盛。『平家物語』では、専制君主の清盛をただ一人諌めることができた良識人が重盛だったと伝えられる。このとき重盛は19歳。アイデンティティを持ち始める年齢だ。信西と父のやり方に反発するドラマの重盛像は、あながち的外れではないかもしれない。

 平家の財力武力を借りて権力を拡大していった信西。その信西の引き立てによって出世を重ねた清盛と平家一族。この時期、信西と清盛はお互いがお互いを頼りにした、あるいは利用した、いわゆるギブ・アンド・テイクの関係だった。しかし、その関係が長くは続かなかったことは、歴史の知るところである。


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by sakanoueno-kumo | 2012-06-18 23:45 | 平清盛 | Trackback(2) | Comments(0)  

平清盛 第17話「平氏の棟梁」

 仁平3年(1153年)1月15日、父・平忠盛の死によって平清盛は伊勢平氏の棟梁となった。ときに清盛36歳。いよいよ歴史の表舞台へ飛び出していく。

 「平氏」「平家」という呼び方がある。「平氏」が平姓をもつ者全体を指しているのに対し、「平家」は、平清盛の一族をさすのが一般的だ。たしかにあの『平家物語』も清盛とその子孫たちの物語で、広く平氏全体を対象としていないことを思えば、この呼び方は正しいといえるだろう。ただし、厳密にいえば、清盛が三位以上の公卿になった時点で、「平家」と呼ぶべきであるという意見もある。三位以上の上流貴族の家では、政所(まんどころ)と呼ばれる家政機関を設置し、朝廷から職員が派遣され、個人の家でありながら公的なものになるのである。その論でいえば、清盛一家の場合も、本来なら永暦元年(1160年)に清盛が三位になった時点で「平家」と呼ぶべきで、それまではこれまでどおり伊勢平氏と呼ぶのが正しいのかもしれない。

 清盛を棟梁とした平家一門には、次のような顔ぶれがいた。まず、清盛は高階基章の娘(本ドラマでは明子という名)との間に、嫡男・重盛、次男・基盛の二男をもうけている。『平家物語』によれば、重盛と基盛は有能な人物で将来を嘱望されていたが、惜しいことに父に先立って早世してしまうことになる。わけても、重盛は平家一門の中で唯一、清盛を諌めることができる人物であったとされただけに、その死は惜しまれた。もし重盛が天寿を全うしていれば、文治元年(1185年)の平家滅亡を回避できたであろうという声が後世に少なくない。

 最初の妻の死後、清盛は継室(正室)・時子との間に、宗盛知盛重衡建礼門院徳子という三男一女をもうけた。宗盛とは、今話に出てきた清三郎のこと。先に触れたとおり、重盛と基盛が早世したため、三男である宗盛が清盛の死後に平家の棟梁、平氏一門の総帥となる。だが、残念なことに宗盛は、二人の兄ほどの人物ではなかった、と『平家物語』では伝えられている。

 また、清盛は正室、継室以外の女性との間に、知度清房の二人の息子と、少なくとも7人の娘をもうけたとされている。娘のうち、後白河法皇(第77代天皇)の女房(女官)となった女性の生母は、厳島内侍なる側室だったという記録が残っているが、他の6人の娘に関しては生母が不詳である。この6人の娘の中では、白河殿(平盛子)藤原基実の継室となり、他の娘も清盛の意向に従い、藤原兼雅藤原隆房藤原基通藤原信隆らの正室となっている。この娘たちの中には、清盛が自分の実の娘と称して嫁がせた養女も含むのかもしれない。さらに清盛は、平治の乱の後に源義朝の側室だった常盤御前源義経らの生母)と関係し、廊御方(三条殿)なる娘をもうけたという説もある。

 次に、清盛の孫たちをあげると、重盛は維盛資盛清経有盛師盛忠房、基盛は行盛、宗盛は清宗能宗、知盛は知章知忠知宗という子をもうけた。また、建礼門院徳子は高倉天皇(第80代天皇)の女御(のち中宮)となり、安徳天皇(第81代天皇)を産んだ。だが、その多くは清盛の没後、非業の最期を遂げることとなる。

 「重盛に 基盛それに清三郎 清四郎みな われらの子なり」

 このような歌を清盛が詠んだというのは当然ドラマのフィクションだが、清盛を棟梁とした平家一門の特徴は、一族が手を取り合って結束を守りぬいたところにある。それはおそらく、一門の大黒柱であった清盛の精神からきたもので、まさしく、「みな、われらの子なり、孫なり」といった思いだったのだろう。清盛の死後、都落ちに加わらなかった清盛の弟・頼盛や、途中で一門を離脱した重盛の子・維盛などもいて、必ずしも平家は一枚岩ではなかったことがよく指摘されるところだが、しかし、親子兄弟が殺し合い、一族が血で血を争う抗争を繰り広げて滅亡した源氏に比べれば、はるかに結束力があったことは確かであり、そうした一門の“絆”が平家の魅力でもあり、本ドラマのひとつのテーマでもあるようだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-01 00:26 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(0)