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夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺 ~前編~」

西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。


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山頂までは麓から登山すると1時間以上かかるそうで、この日はロープウェイで登ります。


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ロープウェイは黒田官兵衛キャラでラッピングされています。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』以降、姫路市周辺はこの官兵衛くんキャラでいっぱいです。


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ロープウェイを降りたらすぐ圓教寺というわけではなく、そこから20分ほどの登山です。

この日は8月13日の真夏日

私はこのところ休日は史跡めぐりばかりしているため、こういったシチュエーションは慣れているのですが、山に慣れてない人は、結構キツイかもしれません。

体力に自信のない人のために、バスもあります。

ちなみに私の妻は、迷わずバスに乗車しました。


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登山道途中の展望台からの眺望です。


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そこに設置されたベンチに、眺望の詳細な説明書きが・・・。

これって、落書き?

落書きとしては、かなりクオリティ高いです。

この説明(落書き)によると、ここから姫路城が見えるとのことでしたが、見えるような見えないような・・・。


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展望台で記念撮影。


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しばらく登ると、ようやく仁王門にたどり着きました。

ここから、書寫山圓教寺です。


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圓教寺は、康保3年(966年)に天台宗の僧・性空によって創建されたと伝えられ、花山法皇(第65代天皇)の勅願所となりました。

以後、後白河法皇(第77代天皇)や後醍醐天皇(第96代・南朝初代天皇)など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われています。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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姫路の人は、「摩尼殿の舞台から飛び降りる」って言うんですかね?(笑)


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圓教寺は広大すぎて、とても一回では紹介できません。

次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-10-13 19:11 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(0)  

平清盛 第44話「そこからの眺め」

 治承3年(1179年)、平清盛の身辺をふたつの悲劇が襲う。まずは6月17日、清盛の娘で前関白・藤原基実の未亡人である盛子(白河殿)がこの世を去った。奇しくも亡き夫と同じ24歳という若さだった。彼女は先に病没した清盛の義妹・建春門院滋子や、高倉天皇(第80代天皇)の中宮となり安徳天皇(第81代天皇)の生母となった建礼門院徳子と並んで、清盛の権力上昇に大きく貢献した女性だった。9歳で基実の継室となり、わずか11歳で未亡人になった薄幸の娘の死に(参照:第32話)、さすがの清盛もひとりの親として暗澹たる思いだったことだろう。

 ところが、そんな清盛の気持ちを逆撫でするかのように、後白河法皇(第77代天皇)は「内の御沙汰(天皇の命令)」と称し、盛子が亡き夫から相続していた領地を没収し、高倉帝の管理下に置いた。背後で糸を引いていたのは、関白・藤原基房だったようだ。摂関家領を我が子・藤原師家に相続させたいと考えた基房は、後白河院をそそのかして平家から領地を横領したのである。同時にこの措置は摂関家の後継者が師家であるというアピールでもあった。娘婿である近衛基通を摂政関白につかせるつもりだった清盛としては、この事態は受け入れられるものではなかった。

 さらに7月28日、清盛より平家の棟梁の座を継いでいた嫡子・平重盛が死去した。享年42歳。鹿ヶ谷事件以降、気力を失い臥せりがちだった重盛は、この年の3月の熊野詣の途中に吐血して倒れたという。死因は胃潰瘍とも脚気、腫瘍とも。幾度となくぶつかりながらも平家の後継者として最も頼りにしていた息子の死は、清盛にとって大きなショックだったに違いない。清盛を悪玉として描く『平家物語』ですら、さすがにこのときばかりは清盛に同情的で、子に先立たれた親の悲しみを代弁している。親が子を思う心は、いつの時代でも、たとえ清盛でも同じだろう。

 しかし後白河院は、またしても清盛の悲しみを逆撫でするかのように、重盛が10年以上知行国主を務めた越前国を没収して院の直轄地とし、近臣の藤原季能を越前守に任じた。さらに、『平家物語』によると、後白河院は重盛の喪が明けないうちから石清水八幡宮へ遊びに行き、嘆きの色さえ見せなかったという。長年に渡って後白河院に忠実に仕えた重盛の死に対して、まったく痛みを感じていない様子で、これは明らかに平家への挑発行為だった。これに激昂した清盛は10月14日、大軍を率いて摂津福原から上洛。15日には徳子と皇太子・言仁親王(のちの安徳天皇)を自邸に移し、二人を伴って福原に引き籠ると脅した。清盛の怒りの大きさに恐れをなした法皇は、すぐさま清盛のもとに使者を送り、今後は国政に関与しない旨を伝えた。しかし清盛は許さず、17日には太政大臣・藤原師長をはじめ、公卿、殿上人、院近臣など39名を解官、法皇を平安京南郊の鳥羽殿に幽閉した。そして、娘婿である近衛基通を関白・内大臣にすえ、大量解官によって欠員となった知行国主や受領に、平家一門や家人を任じた。世に言う「治承三年のクーデター」である。

 承久の乱に敗れた後鳥羽法皇(第82代天皇)のように島流しになったわけではないが、実質的には治天の君が臣下である清盛によって配流されたのも同然のことで、武力が朝廷の秩序を破壊した瞬間だった。この政変により、約13年続いた後白河院政は終わり、平家による独裁政治が幕を空ける。ここに、日本史上初の軍事政権が誕生し、いわゆる“武士の世”が訪れたといえる。まさしく人臣の頂にたった平清盛。そこからの眺めはどのようなものか? 白河法皇(第72代天皇)が言った、のぼりきったその果ての景色とは・・・? もうすぐ答えが見えてきそうだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-13 23:44 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第42話「鹿ヶ谷の陰謀」

 延暦寺の山門衆徒の要求を全面的にのむかたちで決着をみた「比叡山の強訴」だったが、いったんは引き下がったものの腹の虫がおさまらない後白河法皇(第77代天皇)は、強訴の責任は延暦寺座主の明雲にあるといいはじめ、座主職の罷免と所領の没収を命じ、廷臣の反対を押し切って明雲の伊豆配流を断行する。しかし、山門の大衆はこの決定に反発し、護送中の明雲を力づくで奪還して比叡山に連れ帰った。これに激怒した後白河院は、平重盛平宗盛の兄弟に出撃を命じたが、二人は父の平清盛の指示を仰ぐといって態度をはっきりさせない。業を煮やした法皇は、福原に使者を送って清盛を呼び出し、比叡山総攻撃を命じた。平家にとって比叡山を敵に回しても得るものは何もなく、清盛はかねてから比叡山との協調姿勢をとっていたが、さすがの清盛も治天の君である後白河院直々の司令を拒むわけにはいかなかったようで、やむなくこれを受諾する。

 ところが比叡山攻撃直前の治承元年(1177年)6月1日、事態は急変する。明け方、明雲を讒言したという罪状で西光が捕縛されて拷問にかけられ、清盛を倒す計画を法皇や近臣と謀議したことを白状。翌日、五条坊門朱雀で斬首された。『愚管抄』によれば、ことの発覚は多田行綱の密告だったと伝えているが、事実かどうかは定かではない。行綱は摂津国多田荘を本拠とする摂津源氏の有力者で、摂津福原に拠点をおいていた清盛とは協調関係にあったと考えられており、その行綱が平家打倒の謀議の席に呼ばれるのは不自然であるという意見もある。また、ドラマでは囚われの身となった西光が清盛に向かって「無頼の高平太」と罵り、激高した清盛が西光を何度も蹴り倒すというシーンがあったが、このエピソードは『平家物語』の中に描かれている有名な逸話で、西光が「卑しい身分の出でありながら太政大臣にまで成り上がるなど過分である」と罵り、激怒した清盛は西光の顔を踏みつけた上でその口を切り裂かせ、首を打たせたと記されている。ドラマで描かれていた狂気の沙汰は、この逸話から連想した描写だろう。

 続いて、藤原成親藤原成経父子、法勝寺の執行・俊寛僧都、検非違使の平康頼など、院近臣が次々と逮捕されて解官・配流に処された。そして6月6日には明雲の赦免が決定され、法皇が清盛に命じた比叡山への武力攻撃は未然に回避されたのであった。

 以上が「鹿ヶ谷事件」または「鹿ヶ谷の陰謀」といわれる平家打倒未遂事件のあらましである。平家の専横が招いたクーデター未遂事件ともいえるが、一方で、タイミング的にあまりにも平家にとって都合がよすぎる展開だけに、清盛が院近臣の勢力を一網打尽にするため、あるいは比叡山との武力衝突を避けるために仕組んだ演出だったという見方も少なくない。実際、この事件によって後白河院近臣の実力者は一掃され、断るに断れなかった法皇の命令も回避することができた。まさしく平家にとっては渡りに船であり、願ったり叶ったりの事件だった。この陰謀が、清盛のでっち上げた謀略だったという説も頷ける気がする。ただ、捕まった西光が打倒清盛の謀議を白状したのは事実であり、このとき参加した院近臣の名簿まで作成されている。また『愚管抄』にも、「後白河院が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まりさまざまな議をこらした」とあるから、「火のないところに煙は立たぬ」で、何らかの謀議はあったようだ。

 だが、それが平家を武力で排除するような計画だったかどうかは甚だ疑問である。彼らの動かせる兵力が平家の足元にも及ばないことは火を見るより明らかであり、武力での政変など無謀極まりないことは、いくら軽率な院近臣にもわかることだったはずだ。謀議といっても、せいぜい反平家の貴族があつまって愚痴をこぼし合っていた程度のことだったのではないだろうか。『平家物語』によると、謀議が終わったあとの宴席で酔った成親が立ち上がった勢いで瓶子(へいし)が倒れ、後白河院が「あれはいかに」と問うと、成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。これが本当なら、何とも幼稚な行いで滑稽な話ある。いってみれば、サラリーマンが仕事のうっぷん晴らしの不平不満をいい合う程度の呑み会が「謀議」とされたというわけだ。酔った勢いで調子に乗って瓶子の首をもぎ取った西光は、のちに自身の首がもぎ取られることになろうとは、夢々思っていなかったことだろう。

 「そなたの国づくりは志ではない。復讐だからじゃ。おのれを犬と扱う王家への恨みつらみに突き動かされておるだけだからじゃ。さようなものにつきあわされて、よい面の皮じゃ。民も、公卿も、うぬらもな。」
 西光に罵られて激高する清盛。少なからず図星をつかれたということだろうか? 人臣の頂に立ち、酸いも甘いも噛み分けた清盛が、あそこまで我を忘れて狂態を晒した理由は? どうやらその辺にドラマの清盛の根っこの部分があるようだ。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-30 00:48 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第41話「賽の目の行方」

 建春門院滋子の崩御をきっかけとして、栄華を極めていた平家一門の前途に暗雲が漂いはじめる。事実、滋子の崩御後、後白河法皇(第77代天皇)は側近の藤原成親平康頼西光俊寛らを重用するようになり、次第に平家を疎んじるようになっていった。法皇の後ろ盾を頼りに出世を狙う近臣たちにとっては、平家の専横を崩すチャンスが巡ってきたように思えたかもしれない。

 滋子の崩御後まもなく、仏門に入っていた後白河院の第九皇子第十皇子を還俗させ、高倉天皇(第80代天皇)の猶子としたのはドラマのとおりである。後白河院にしてみれば、高倉帝が成人して自分の意志で政治を行うようになる前に退位させ、自身の意のままになる幼帝を立てて政治権力を維持しようとしたか、あるいは平家の血を引く帝の出現を阻もうとしたのか、いずれにせよ、高倉帝退位工作の一環であったことは間違いないだろう。しかし、平家にしてみれば高倉帝の中宮である徳子に皇子が生まれる前の退位は、絶対に認められるものではなかった。そんなこともあって、清盛、後白河院の両者の対立はいっそう深まっていく。

 反平家の機運が高まるなか、治承元年(1177年)3月に事件は起きた。のちの「鹿ヶ谷事件」の前哨戦とも言うべき「比叡山の強訴」である。ことの発端は、加賀守・藤原師高の弟で目代(国守に代わって現地に赴任する代官)を務める藤原師経が白山中宮の末寺・湧泉寺(ゆうせんじ)とイザコザを起こし、師経が末寺を焼き払ったことにあった。怒った白山衆徒は本寺である比叡山に訴え、これを受けた延暦寺の山門衆徒は師高・師経の解官と配流を求めて強訴の挙に出る。だが、師高・師経は後白河院の側近中の側近・西光の息子であったため、後白河院は師経だけを罰して事態を収拾しようとした。西光という人物は、もとは信西の家人で俗名を藤原師光といったが、信西が死んだのち出家して後白河院に仕え、「法皇第一の近臣」と言われるまでのし上がった人物である。

 しかし、延暦寺側は後白河院の処分に納得せず、4月13日には七基もの神輿を担ぎだして高倉帝の閑院内裏に押し寄せた。このとき、内裏を警備していた平重盛の軍兵の放った矢が神輿のひとつに命中し、延暦寺の衆徒にも死傷者がでる事態に発展した。怒った大衆は神輿を放置して帰山。しかし、武力攻撃を命じたのが後白河院自身であったということを知った大衆は、ふたたび強訴を行う姿勢を見せる。やむなく朝廷は祇園社に神輿を預けて対応を協議、師高の尾張国への配流を決定し、神輿に矢を射た重盛の家人を監獄へ送った。結局は大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着する。

 この事件に際して、平清盛と延暦寺が何らかの気脈を通じたいたという見方はあるようだが、師経が白山の末寺と起こしたイザコザまでもが清盛の仕組んだことだったというのは、ドラマの創作だろう。師経と延湧泉寺とは、かねてから所領問題でもめていたようだ。ただ、この事件の2ヶ月後に起きた「鹿ヶ谷事件」は、清盛が反平家勢力を一掃するために仕組んだ演出だったという見方が強い。おそらくはその伏線として、本話の設定となったのだろう。

「当人同士の思惑に関わりなく、たまたま出た目に突き動かされるが、双六というもの。おのれの番が巡って来た時に、よりよい目を出すよりほかに、勝つ道はござりませぬ。」
 乙前が後白河院に対して言った台詞。清盛と後白河院の出した賽の目の行方は・・・?
「賽の目は、目まぐるしく変わるものぞ・・・あがりじゃ。」
 このときの清盛の政治力は、たとえ相手が治天の君であっても敵ではなかった。あるいは賽の目さえ自在に操れたのかもしれない。



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by sakanoueno-kumo | 2012-10-22 23:21 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第40話「はかなき歌」

 承安元年(1171年)に平清盛の娘・徳子高倉天皇(第80代天皇)に入内して以来、後白河法皇(第77代天皇)の院政を平家が支える安定した政権運営が続いていた。嘉応元年(1169年)に起きた「嘉応の強訴」以来(参照:第36話)、清盛と後白河院の関係に暗雲が立ち込めはじめた観は否めなかったが、それでも清盛はその後もたびたび法皇を福原の千僧供養に招いたりして、表面上は蜜月ぶりを演出した。ドラマにもあったように、承安4年(1174年)には法皇が建春門院滋子とともに厳島に参拝した。厳島に治天の君や女院が赴くのは前代未聞であり、これにより厳島の権威は飛躍的に高まったと考えられている。

 そんな中、安元2年(1176年)3月には後白河院の50歳を祝う賀宴が行われた。この宴では清盛以下、平家一門をあげて法皇の50歳を祝い、これを受けた法皇は「此度の御賀に、一家の上達部、殿上人、行事につけても、殊にすぐれたる事おほし。朝家の御かざりと見ゆるぞ」と、特別に院宣を下して平家一門の働きを褒めたたえたという。清盛の孫・平維盛が青海波(舞楽の曲名)を華麗に舞って、「光源氏の再来」とたたえられたのはこのときである。

 しかし、平家と法皇の蜜月はこの催しまでだった。この賀宴からわずか3ヵ月後の6月に滋子が病に倒れ、法皇直々の看病も虚しく7月8日にこの世を去った。35歳という若さだった。死因はニ禁(にきび)と呼ばれる悪性の腫れ物が胸部に出来たためといわれている。今で言う乳がんのような病気だろうか?

 滋子が崩御すると、平家と後白河院をとりもつ人物がいなくなり、両者の関係は急速に悪化しはじめた。そもそも後白河院と清盛は、滋子の産んだ高倉天皇の擁立という点で利害が一致していただけで、治天の君である法皇にとっては、福原にいながらにして政界に隠然たる影響力をもつ清盛の存在は煙たいものだったに違いない。院近臣の間では、平家一門が権勢をバックに高位高官を占めることに対して、不満がつのる一方だった。その衝突を抑止して調整役を果たしていたのが滋子だったのである。滋子の死により、今まで隠されていた対立が一気に表面化することになった。

 安元3年(1177年)1月、平重盛が左近衛大将、平宗盛が右近衛大将になり、両大将を清盛の息子二人が占めたのは平家の栄華を象徴するものとなった。大将の地位を狙っていた藤原成親をはじめとする院近臣たちにとっては、面白いはずがない。そんな彼らによって引き起こされた打倒平家の陰謀「鹿ヶ谷事件」が起こるのは、滋子の死からわずか1年後のことだった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-10-15 01:12 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第36話「巨人の影」

 仁安四年(1169年)3月20日、平清盛は隠棲生活を送っていた福原に後白河上皇(第77代天皇)を招き、千人供養を催した。千人供養とは、読んで字の如く千人の僧侶によって行われる法会で、極めて功徳の大きい仏教儀式として古代より尊重された。清盛主宰の供養は、こののちたびたび催されたようで(少なくとも6回催されたことが記録に残っている)、特別な理由がない限り後白河院も臨席していた。ときには後白河院自身が千僧のひとりとして供養に参加したこともあったというから、清盛と後白河院の蜜月ぶりを演出するイベントでもあったといわれている。後白河院の第二皇子・守覚法親王や、亡き鳥羽法皇(第74代天皇)の第七皇子・覚快親王などの名だたる高僧も数多く参加しており、千人供養は清盛の権勢をアピールする一大セレモニーでもあった。

 改元した嘉応元年(1169年)12月23日、延暦寺大衆が後白河院の近臣・藤原成親配流を求めて強訴を起こした。事の発端は延暦寺の末寺・白山と尾張目代の紛争で 、やがて中央に波及して後白河院と延暦寺の全面衝突となった。成親を守ろうとする後白河院は、福原にて隠棲している清盛に変わって武士を率いる平重盛に3度に渡って出動命令を下すものの、ドラマのとおり重盛はこれを拒否して動かなかった。重盛は成親の義弟にあたる。これにより強訴の武力鎮圧をあきらめた後白河院は、いったんは延暦寺の要求をのんで成親の流罪を決めたものの、その直後あっさりと決定を覆して成親を呼び戻し、成親の流罪を主張した平時忠たちを配流、天台座主・明雲を処罰した。延暦寺の大衆は激怒し、再び強訴を行う姿勢を見せ、またもや法皇と延暦寺の間に一触即発の雰囲気が漂った。

 そんな京の情勢を見かねた清盛は、年が明けた嘉応2年(1170年)1月13日に嫡男の重盛、14日に弟の平頼盛を福原に呼び寄せて状況を報告させると、17日に上洛。成親の解官や時忠の召喚などを次々と断行してあざやかに政局を収拾してみせた。後白河院といえども清盛がいなければ延暦寺の強訴相手に為す術もないことがここに明確となり、清盛が京にいないことが、かえって清盛の存在感を高めることとなったのである。まさしく、今話のタイトルどおり「巨人の影」であった。

 なぜ清盛が延暦寺の意向に沿うかたちで解決をはかったかについては、様々な理由が考えられる。ひとつには、清盛の出家の戒師が明雲だったこと。明雲は清盛からあつい信頼を受けており、福原の千僧供養では法華経供養の導師を務めるなど、その親密ぶりは「平氏の護持僧」といわれるほどであった。また、別の見方では、若い頃に引き起こした祇園闘乱事件の苦い教訓から、延暦寺を敵に回すことの恐ろしさを知っていたから・・・ともいわれる。他にも、成親ら後白河院の近臣たちの力を削ごうとした・・・などともいわれており、いずれにしても、清盛にとっては延暦寺側に付くほうが得策だったことは明らかだ。一方で、「治天の君」である後白河院にとって、自身の意向に従わず、福原にいながらにして政界に隠然たる影響力をもつ清盛の存在が煙たくなってくるのは、当然のなりゆきだったといえるだろう。この頃を境に、清盛と後白河院の相互不信は深まっていく。

 今話はほぼ通説どおりの脚本で、清盛の巨人ぶりが実に見事に描かれていたと思う。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-19 11:10 | 平清盛 | Comments(2)  

平清盛 第34話「白河院の伝言」

 仁安3年(1168年)2月2日、平清盛が突如に倒れた。「寸白(すばく)」という名の病で、寄生虫によって引き起こされる病である。一般にサナダムシのことだといわれている。おそらく当時は治療といえるような手立てはなく、ドラマのように祈祷するぐらいしか打つ手はなかっただろう。その寸白によって高熱にうなされた清盛は、1週間後には「危篤」といわれるほどの重体に陥った。事実上、政界のトップである清盛の危篤の報が朝廷に与えた衝撃は大きく、六波羅の清盛邸には多くの人々が見舞いに訪れたという。平家に批判的な九条兼実ですら、清盛の病を「天下の大事」として、もし万が一のことがあれば「天下乱れるべし」と、日記『玉葉』に記していることから見ても、この当時の政界における清盛の存在の大きさがうかがえる。

 清盛が病に倒れたとき熊野詣に赴いていた後白河上皇(第77代天皇)は、清盛危篤の報を聞いて予定を切り上げて帰京し、清盛を見舞った。このとき後白河院は、ドラマのとおり参詣の際に着る浄衣のままで清盛の枕元に現れたというから、二人の親密ぶりがうかがえるエピソードである。さらに上皇は近臣に「大赦」を行うように命じたという。「大赦」とは、国家の慶事凶事に際し、天皇・上皇の大権により罪人の刑罰を免除する律令制の既定である。摂関家以外の臣下の病で大赦を行った例はなかったが、国家の重臣であるという理由で特例扱いとなったとか。このエピソードからも、当時の清盛が後白河院からいかに期待されていたかがわかる。もっとも、ドラマのように二人の友情からくるものではなかった。このとき後白河院は憲仁親王を天皇に即位させる考えがあり、その計画には義理の叔父である清盛の協力が必要だと考えていたからである。熊野詣から急ぎ引き返してきた後白河院は、病床の清盛と相談しで5歳の六条天皇(第79代天皇)を退位させ、高倉天皇を即位させることを決めた。そして4日後には早くも天皇位を継ぐ践祚の儀式が行われ、平家と血縁関係を持つ天皇が初めて誕生したのであった。

 ドラマでは、清盛は次週に出家するようだが、実際には病床のなか死を覚悟した清盛が、最後の手段として妻・時子とともに出家したという。つまりは、仏に仕えることによって病を追い払おうとしたのだ。実際にこの時代、出家することで病が癒えると信じられていたようで、時子の叔父である平信範の日記『兵範記』では、清盛の出家について「除病延寿菩提」は疑いないと記されている。出家した清盛の法名は静蓮、のちに静海(浄海)と改めた。その甲斐あってか、清盛の病は死の淵から奇跡的に回復する。こうして「天下の大事」は終わった。

 清盛の病に際して描かれていた嫡男・平重盛平宗盛の確執はドラマの創作で、清盛はあくまで重盛を嫡男として扱っており、少なくともこの時期にはこうした対立関係はなかったと思われる。おそらく今後の展開の伏線だろう。それにしても、毎度のことながらこのドラマでの平時忠は絵に描いたようなトラブルメーカーである。「平家にあらずんば人にあらず」の言葉を発した人物として後世に知られる時忠だが、実際にも野心家だったようで、三度も配流となるなどかなりの曲者だったようである。ただ一方で、二度の配流を経験しながらも復帰した後は高い官位、官職に昇っていることを思えば、ドラマのような単なる浅知恵のトラブルメーカーではなかったようだ。実際に後年、清盛亡き後の平家の実質的な指導者は、この時忠であったという。ドラマでも、そのあたりをもうちょっと留意した描き方はできないものだろうか・・・と、少しばかり時忠の名誉のために擁護しておくことにしたい。

 今話は清盛の病床でその半生を振り返った。ただ単に過去のシーンをフラッシュバックしただけではなく、これまでなかった話や過去のシーンと今が重なりあう描き方など、どれも秀逸な演出だったと思う。清盛の母・舞子白河法皇(第72代天皇)の命により処刑された場面に、50歳の清盛が現れてむせび泣く。あのシーンは、第1話のシーンと並行して撮影されたのだろうか・・・。とすれば、清盛役の松山ケンイチさんは清盛の50歳を演じたり15歳を演じたり、1年間の長丁場の中で何度も年齢を行ったり来たりしていたことになる。俳優さんの役作りも大変だなあ・・・と、そんなことを思った今話だった。そのあたり、もうちょっと視聴率アップに結びつかないものだろうか・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-03 01:47 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第31話「伊豆の流人」

 後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)の確執が深まるなか、平清盛は政治的には二条帝自ら政治を行う親政を支持していた。清盛が後白河院政を支持しなかったのは、ひとつには妻の時子が形式的にせよ二条帝の乳母になっていたからであろうが、もうひとつの理由は、『愚管抄』に清盛をして「後白河院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバイカガトノミ思エルケルニ」と記していることからも分かりるように、内心では後白河院の帝王としての資質に疑問を抱いていたからに違いない。それでも清盛は、二条だけに肩入れするこを避け、藤原経宗藤原惟方ら二条親政派を逮捕したように(参照:第29話)、後白河院にも奉仕することで双方に恩を売っていた。そうした清盛の姿勢を『愚管抄』は、「清盛ハヨクヨクツツシミテイミジクハカライテ。アナタコナタシケルニコソ」と、天皇・上皇両派と微妙な距離を保ちながら、巧みに政界を遊泳する政治スタイルを伝えている。

 長寛2年(1164年)12月、清盛は後白河院の命により、六波羅の南ある院御所の法住寺殿の敷地内に蓮華王院という寺院を造営した。現在でも京都有数の観光名所となっている三十三間堂がこれである(現在の堂舎は鎌倉中期に再建されたもの)。堂内に奉られている千体の観音像は見事なもので、これはかつて父・平忠盛が、鳥羽法皇(第74代天皇)のために千体の観音像を奉った得長寿院を造営して昇殿を許されたことにならったものだと考えられる。清盛は政治面で二条帝を支えながら、その卓越した財力によって、後白河院の信仰を経済面で支えていた。

 もっとも、蓮華王院の造営はかえって天皇と上皇の確執を広げる結果となってしまった。 『愚管抄』によると、落慶供養の日、後白河院は二条帝の行幸を促したものの、二条帝はまったく協力する姿勢を見せず、慣例となっている寺司の勧賞の沙汰もなかったという。このとき後白河院は目に涙を浮かべて「ナンノニクサニ」と嘆き、使者に立った藤原親範に八つ当たりする始末だったと伝えられる。

 しかし、天皇と上皇の対立関係による政権の分裂は、永万元年(1165年)の二条帝の崩御によって終わりを告げる。二条帝はこの年の正月明けから体調を崩し、4月中旬に病状が悪化。6月末に第一皇子である順仁親王に譲位、六条天皇(第79代天皇)が誕生した。このとき六条帝は満1歳に満たない乳飲み子で、母の実家の地位が低いため外戚からのバックアップも期待できなかったが、それでも譲位を強行したのは、何としても後白河院に政権を渡したくないという二条帝の最後の抵抗だった。譲位後、二条帝はすぐに院政を執り行う準備に取り掛かったが、その1ヵ月後の7月27日、23歳という短い生涯を閉じたのであった。

 二条帝の死にあたって後白河院が延暦寺の悪僧たちをを率いて騒動を起こしたドラマでの話は、もちろんドラマのオリジナルである。ただ、最後まで理解し合うことがなかった上皇と天皇の父子関係がよく分かる描き方で、ドラマでの後白河院の不気味な人間性を上手く使った創作だった。こののち、政治の主導権は自然と後白河院の方へ傾いていく。


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by sakanoueno-kumo | 2012-08-07 00:00 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第29話「滋子の婚礼」

 「平治の乱」後の政局は、後白河上皇(第77代天皇)と二条天皇(第78代天皇)による主導権争いにあった。「保元の乱」で摂関家の勢力は低下し、その後実権を握った信西も「平治の乱」で倒れ、代わって政権を掌握しようとした藤原信頼も短期間で滅ぼされた。本来であれば、後白河院が天皇家の長の立場で院政を行うところだったが、もともと中継ぎとして擁立された天皇であったことや、乱を通じて信西、藤原信頼という有力な側近を失ったこと、さらに、今様(当時の流行歌)にうつつをぬかす軽薄さから“治天の君”としての権威に欠けていた。そんな中、「末の世の賢王」と称されたほどの聡明な二条帝は自分で政治を行うことを望み、後白河院も権威がないなりに院政に意欲を見せていたことから、両者の対立が生まれたのである。

 ドラマでは描かれていなかったが、両者の対立関係を象徴する事件が乱の3か月に起きた。藤原経宗藤原惟方ら二条親政派の配流事件である。永暦元年(1160年)正月6日、後白河院が八条堀河の藤原顕長邸に御幸した折、後白河院が桟敷から大路を見物していると、経宗・惟方の命により突然桟敷に板が打ち付けられ、外が見えないようにされてしまった。経宗は二条帝の生母の兄、惟方は二条帝の乳母子という間柄で、「平治の乱」では当初、信頼のクーデターに加担していたものの、形勢不利と見るやたちまち清盛方に与したという節操のない二人である(参照:第27話)。乱のなかで巧みに立ち回り、まんまと信西、信頼を排除した二人は、天皇主導による政治を目指し、後白河院政を阻もうとしていた。この桟敷の一件も、そうした後白河院に対するあからさまな嫌がらせだった。

 『愚管抄』によると、このとき後白河院は清盛を呼んで、「ワガ世ニアリナシハコノ惟方、経宗ニアリ。コレヲ思フ程イマシメテマイラセヨ」(私の地位は惟方と経宗に握られている。捕らえて思う存分懲らしめてくれ)と泣きながら懇願したという。命を受けた清盛は平忠景平為長の二人の郎等を派遣して二人を捕らえ、連行して後白河院の前に引き据えて責め立てた。このとき清盛は二人を拷問にかけ、その悲鳴を後白河院に聞かせたという。このふたりの逮捕劇の背景には、当初信頼のクーデターに加担しながら、まるで乱収拾の立役者であったかのように振る舞うふたりに対する貴族たちの反発があった考えられる。独断で天皇の側近を処分できるほど、後白河院や清盛の力は強くなかっただろう。やがて経宗は阿波へ、惟方が長門に配流され、「平治の乱」の戦後処理はようやく終止符を打った。

 その翌年、清盛の義妹・滋子(のちの建春門院)が後白河院の子を身ごもった。滋子の父は公家平氏の平時信で、母は中納言・藤原顕頼の娘・祐子。清盛の正室・時子とは異母姉妹という間柄である。父・時信が鳥羽法皇(第74代天皇)に仕えていた関係で、滋子も鳥羽院の娘で後白河院の同母姉にあたる上西門院に仕えていた。滋子は貴族の中でも絶世の美女と謳われるほどの美貌の持ち主だったようで、当時の女官の日記にも、「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか」(なんと美しい、この世にはこのような人がいらしたのか)と記されているものや、「言ふ方なくめでたく、若くもおはします」(言葉にできぬほど美しく、若々しい)などと絶賛されているほどである。さらに滋子はその美貌だけにとどまらず、「大方の御心掟など、まことにたぐひ少なくやおはしましけん」(心構えが実に比類なくていらした)と評されるほどの聡明で心配りの行き届いた女性だったようで、その美貌と聡明さが後白河院の目に留まり、寵愛を受けるようになったという。ドラマでは気の強い風変わりなギャル風の女性に描かれていたが、実際の滋子は、どうやら人物、容姿ともに非の打ち所がない優等生だったようだ。巻き髪だったというエピソードはドラマのオリジナルである(たぶん)。

 滋子の懐妊によって後白河院と縁戚関係となった平家一門だったが、政局は依然として後白河院と二条帝の対立状態にあり、どちらかといえば二条親政派だった清盛は後白河院とは距離を置いて付き合っていたことから、この縁戚関係が清盛にとって歓迎すべきことだったかどうか微妙だ。いずれにせよ、こののち滋子は平家と後白河院をつなぐ太いパイプとなり、清盛、後白河院の両者の関係も否応なしにに深まっていく。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-23 18:00 | 平清盛 | Comments(0)  

平清盛 第18話「誕生、後白河帝」

 久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇(第76代天皇)が17歳の若さで崩御した。近衛帝は鳥羽法皇(第74代天皇)の第9皇子で、生母は皇后の美福門院得子。これまで何度も紹介してきたとおり、近衛帝の兄である崇徳上皇(第75代天皇)は、鳥羽院と中宮・待賢門院璋子との間に長男として生まれながら、鳥羽院は祖父の白河法皇(第72代天皇)と璋子が密通して出来たのが崇徳院だと信じて疑わず、鳥羽院は終生、崇徳院のことを「叔父子」と呼んで忌み嫌ったと伝えられる。そのことが理由だったかどうかはわからないが、鳥羽院政下で崇徳院は23歳の若さで天皇位を無理やり退位させられ、わずか3歳の近衛帝が誕生した。崇徳院にしてみれば、天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳院にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

 その近衛帝が崩御した。近衛帝は病気がちで、藤原頼長の日記『台記』によれば、15歳の時には一時失明の危機に陥り、退位の意思を関白・藤原忠道に告げたという。17歳での早世で、しかも病気がちだったため皇子はおらず、近衛帝の崩御は、天皇家の内紛の序章となるには想像に難しくなかった。

 当然ながら、崇徳院はわが子の重仁親王を即位させ、自身が治天の君となって院政を行うことを期待した。嫡流という点でいえば、重仁親王の即位が最も相応しいといえた。一方で、鳥羽院亡き後も権勢を保ちたいと考えていた美福門院得子は、関白・藤原忠通と組んで、鳥羽院の第4皇子・雅仁親王の第1皇子・守仁親王(のちの第78代・二条天皇)を皇位につけようと画策し、鳥羽院もそれを支持していた。しかし、それには問題があった。存命中の父が天皇を経験していないにもかかわらず、その息子が皇位についた前例がなかったのである。そこで、にわかに浮上してきたのが雅仁親王だった。

 この頃の雅仁親王は政治的な問題には一切感心を示さず、当時流行していた歌謡・今様に耽溺する日々を送っていたという。兄である崇徳院は雅仁親王のことを「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評しており、また、雅仁親王の乳父だった信西(藤原通憲)でさえ、「和漢の間 比類少なき暗主なり」と、こき下ろしている。当時の朝廷内では、誰もが雅仁親王のことを「帝の器にあらず」と考えていた。そんな雅仁親王に白羽の矢が立ったのは、何としても重仁親王の即位を回避したい者たちの政治的な思惑から、いったん雅仁親王に即位させ、そのうえで守仁親王に譲位させるという、いわば中継ぎ投手的な役割での即位だった。こうして、本人さえなるはずがないと思っていた天皇、第77代・後白河天皇が誕生したのである。この皇位継承により、崇徳院が院政を行う望みは完全に絶たれたに等しかった。

 この重要な時期に、内大臣・藤原頼長が妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったのはドラマのとおりで、皇位継承を決める王者議定にも参加していなかった。常に正論をもって臨んだ頼長は重仁親王を推していた。守仁親王を推していた兄・忠道とは対立関係にあり、一説には、近衛帝の死は頼長が呪詛したためだという噂を立てられ、職務を停止されて事実上の失脚状態となっていたともいわれる。厳しい処罰を伴う頼長の厳格な政治姿勢は、多くの敵を作り、反頼長組織を生んでいた。政治とは、正論ばかりでは行えないというのは、今も昔も変わらないようだ。

 政権から締め出された崇徳院と頼長が接近するのは時間の問題だった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-07 01:46 | 平清盛 | Comments(2)