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真田丸 第49話「前夜」 その1 ~大坂夏の陣開戦~

 さて、いよいよ大坂夏の陣の開戦です。


 ドラマでは、慶長20年(1615年)4月29日に起きた「樫井の戦い」によって戦端が開かれたとされていましたが、史実では、その2日前の4月26日、豊臣方・大野治房隊2千が徳川方・筒井定慶の守備する大和郡山城を落としたことに始まります。徳川軍が大坂城南側の河内平野から進軍してくるであろうと睨んだ豊臣方は、その玄関口である大和口を押さえておきたかったのでしょうね。しかし、ほどなく徳川方・水野勝成隊が大軍で攻め寄せるとの報が届くと、大野隊は大坂城に引き上げます。

 そして大野治房はその2日後、今度は2万(一説には4万)の兵を率いて和泉路を南下。紀伊国から攻め寄せる和歌山城主・浅野長晟軍と和泉国樫井川付近で激突します。浅野軍の兵は約5千。数の上では豊臣方有利でしたが、ここで豊臣方は、取り返しのつかない失態を演じます。先鋒の塙団右衛門直之岡部則綱の軍勢が戦功争いをして飛び出してしまい、その結果、小勢で浅野軍の待つ樫井に飛び込むかたちとなり、浅野軍・亀田高綱隊の鉄砲隊に囲まれた豊臣方先陣は、袋のネズミ状態となってしまいます。やがて岡部隊は敗走し、団右衛門は孤立無援のまま奮闘しますが、遂に矢を股に受け、討ち取られます。大軍といえども、所詮は寄せ集めの烏合の衆、指揮系統が整っていないバラバラの集団だったわけで、一丸となって戦う浅野軍の敵ではありませんでした。結局、豊臣軍は堺の町を焼き払ったのみで、むなしく大坂城に撤退します。


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 その後も大坂城内はなかなか作成計画がまとまりません。真田信繫(幸村)は四天王寺あたりで徳川軍を迎え撃つか、宇治・瀬田方面に出陣する策を唱えますが、結局は後藤又兵衛基次の主張する道明寺方面に陣を布くことに決定。道明寺は大和路から河内平野への入口にあたり、道が狭いため大軍での行軍が難しく、ここを押さえて徳川軍を小隊ごとに撃破するという思惑でした。


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 5月5日夜、大坂方は後藤隊を先陣として大坂城を出陣し、真田信繁(幸村)、毛利勝永約1万2000は第二陣として出陣します。ところが、後藤隊が道明寺付近まで行軍すると、すでに内通者によって情報を得ていた徳川方に押さえられていました。やむなく後藤隊は誉田陵(応神天皇陵)に陣を布き、ここで真田隊ら第二陣との合流を待ちます。しかし、真田隊らの到着が遅れ、業を煮やした後藤隊は単独で行軍しちゃうんですね。この日は濃霧が激しく、第二陣は道に迷っていたとか。ドラマでは又兵衛が功を焦って行軍したことになっていましたが、通説では、信繁たちの遅参が原因だったといわれます。

 6日午前4時頃、後藤2千800小松山に陣を布き、徳川方の伊達政宗3万8千の軍と激突します。この兵力差のなかで後藤隊はよく踏ん張るのですが、結局は多勢に無勢。約8時間の激戦のすえ、正午頃に又兵衛は戦死しました。享年56。


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 同じ頃、河内口の八尾・若江方面では、豊臣方・木村重成6千と、宗我部盛親5千300が布陣し、徳川軍本体12万と激突します。若江方面に布陣していた木村重成は、一時は徳川方、藤堂高虎軍の右翼を撃破する勢いを見せますが、その後、井伊直孝軍との激戦のすえ、討死します。ドラマで、万一首を取られても恥をかかないように兜に香を焚きこめたという話がありましたが、夏の陣の戦後、徳川家康が討ち取られた重成の首を検分したところ、頭髪に香が焚きこめてあったので、家康はその覚悟を大いに称えたという逸話が残っています。重成は豊臣秀頼とほぼ同世代で、重成の母が秀頼の乳母を務めたことから、幼馴染のように育ったといいます。重成の討死を知った秀頼は、大いに悲しんだことでしょう。自身もその2日後に後を追うことになるのですが・・・。


 さすがに今回は長くなりそうなので、明日の稿に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-12 21:19 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

三木合戦ゆかりの地めぐり その43 ~春日山城跡~

山下城跡から3kmほど北西にある飯盛山山頂に、春日山城跡があります。

ここも、三木合戦のときに羽柴秀吉軍によって攻め滅ぼされたと伝わる城です。


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春日山城は兵庫県神崎郡福崎町の最南端ある標高198mの飯盛山山頂にあります。

写真は西側から撮影した飯盛山。

この少し南は、姫路市になります。


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山頂にズームイン!


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登山口は2ヶ所ありますが、この日は南側山麓にある春日山キャンプ場からの登城。


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キャンプ場内にある登山口です。


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登山道は写真のように整備されていて、登りづらいといったことはありませんでした。

ただ、勾配は急なので、決して楽ではありません。


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道標です。


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頂上近くになると、登山道脇には曲輪跡と見られる削平地が目につき始めます。


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頂上らしき空が見えてきました。


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頂上の本丸跡です。


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結構広い面積の山頂です。


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三木合戦のときの春日山城主は、後藤基信

基信はあの後藤又兵衛基次の父・後藤基国の兄で、又兵衛の叔父にあたる武将です。

天正5年(1577年)の加古川評定を機に後藤家は別所方に与し、三木合戦が始まって間もない5月、羽柴軍によって城は落とされ、基信は討死したと伝わります。

春日山城の築城時期は南北朝時代の建武年間(1334~1338年)、播磨の守護赤松氏の幕下としてこのあたりを統治していた後藤三郎左衛門尉基明が築城したと言われます。

その後、応仁の乱では赤松政則の部下として出陣し、山名の軍勢を破って軍功を立てたと伝わります。

三木合戦時の城主・基信は、初代・基明から数えて9代目にあたります。


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説明板です。


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食料貯蔵庫跡だそうです。


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北側の眺望です。


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こちらは西側の眺望。

撮影は夏至近い6月18日の夕方4:00頃です。


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こちらは南側の眺望。

3kmほど南下したところには、甥の後藤又兵衛基次が生まれたとされる南山田城跡があります。

三木合戦時、又兵衛は姫路城主の黒田官兵衛孝高の元にいましたが、黒田家は羽柴方に、後藤家は別所方についたことから、黒田家を去ることになるんですね。

又兵衛18歳のときでした。


次回に続きます。




「三木合戦ゆかりの地」シリーズの、他の稿はこちらから。
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三木合戦ゆかりの地

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by sakanoueno-kumo | 2016-12-01 20:14 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第42話「味方」 ~大坂五人衆~

 今回は「大坂の陣」における豊臣方の主役たちの顔見せの回、プロローグでしたね。慶長19年(1614年)10月以降、大坂城に集まった牢人はおよそ10万といわれますが、それら全てが勇猛果敢な武士たちだったわけではなく、金銀のみめあての者たちが多く含まれていたはずです。また、歴戦の武将たちにおいても、「豊臣家のため」といった忠義の者は少なく、新たな仕官が目的だったり、あるいは起死回生の成り上がりが望みであったりで、ほとんどが利己的な者たちの集まりだったといえます。このとき、実質豊臣家を仕切っていたのは大野治長でしたが、これら烏合の衆といえる集団を一枚岩にまとめるのは至難の業でした。


 そんな集団であっても、戦にのぞむためには大将が必要です。しかし、総大将をひとり定めるのも難しい。そこで、苦肉の策で5人の大将格を定めたのが、「大坂五人衆」だったというのがドラマの設定でした。長宗我部盛親、毛利勝永、真田信繁(幸村)の大名格三人衆に加え、陪臣格ではあるものの猛将として名高い、後藤又兵衛基次、明石全登を加えて五人衆となります。この「大坂五人衆」という呼称は江戸時代中期にまとめられた軍記物のなかに見られるもので、当時からこう呼ばれていたかは定かではありません。ただ、彼ら5人がそれぞれ一軍の将だったことは間違いないので、呼称はどうでもいいかもしれませんね。


e0158128_23464972.jpg 長宗我部盛親は土佐の国主として関ヶ原の戦いでは西軍に加担しますが、盛親はこの前年に国主になったばかりで経験も浅く、西軍についたのも、その未熟さゆえの判断ミスだったといいます。合戦当日においても、背後に陣を布いていた毛利隊の動向を気にして動けず、結局、戦うことなく力が発揮できないまま関が原の敗軍となります。その後、兄の津野親忠を殺害したことなどで徳川家康の怒りを買い、土佐一国を召し上げられてしまいます。牢人となった盛親は、寺子屋の師匠などをして身を立てていたといいますが、やがて豊臣と徳川の間の雲行きが怪しくなると、土佐時代の旧臣1000人を引き連れて大坂城入りします。


 毛利勝永の父・毛利勝信は、もとは豊臣秀吉の配下で黃母衣衆を務めており、天正15年(1587年)には武功により豊前小倉6万石を与えられていました。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易となり、その後は肥後の加藤清正のもとに身柄をあずけられ、やがて土佐の山内一豊のもとに移されました。しかし、山内家と毛利家は旧知の間柄だったこともあり、囚われの身とはならず厚遇されます。やがて父の勝信は死にますが、勝永は土佐で子宝にも恵まれ、平穏無事な暮らしをしていました。そんななか、大坂からの出陣要請が届きます。勝永は豊臣家の恩顧と山内家の恩義のなかで大いに悩みますが、結局、豊臣家に身を投じる決意をします。このとき、その決意を聞いた妻は、「主君のために働くのは家の名誉。残されるものが心配ならば、私たちはこの島の波に沈み命を絶ちましょう」と言って送り出した逸話は有名で、第2次世界大戦中、軍人の妻の鏡として国民教育に利用されました。


 明石全登は、関ヶ原の戦い前は宇喜多秀家の重臣で、キリシタン大名としても有名です。その経歴には不明な点が多いのですが、関ヶ原の戦いで敗軍となって宇喜多家が没落すると、3000人のキリシタンとともに黒田長政の筑前国で匿われていたといいますが、その間の詳しい消息はわかっていません。大阪の陣が終わったあとの消息も定かではないので、ほぼ謎の人物といえます。


e0158128_13071626.jpg そして後藤又兵衛基次「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして名高い又兵衛は、黒田官兵衛孝高のもとで武功を重ね、一時は大隈1万6千石もの大封を与えられていましたが、官兵衛の死後、新しい主君の黒田長政とそりが合わず、慶長11年(1606年)に黒田家を出奔してしまいます。それでも、又兵衛の武勇は天下に轟いており、細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康など名立たる大名から誘いがかかりますが、長政がしいた「奉公構」によって実現しませんでした。「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことで、豊臣政権によって始まった制度でした。その後、又兵衛は京に流れて牢人生活となりまずが、信繁らと同じく大坂方からの要請を受け、大坂城入りします。


 以上が、信繁を含めた「大阪五人衆」の経歴。このあと、この5人を中心に話が展開していくことになるのでしょうね。他にも、塙団右衛門直之も出てきましたね。団右衛門は名前を書いた木札を信繁に渡していましたが、あれも、大坂冬の陣における本町橋夜襲の際の逸話からくるものです。


 あと、信繁が大坂城入りした報せを受けた家康が、「それは親か子か?」と質問し、掴んだ戸をガタガタと震わせて怯えるシーンがありましたが、これは江戸時代に編纂された『幸村君伝記』のなかにでてくるエピソードで、後世の創作でしょう。家康が昌幸の死を知らなかったとは思えませんし、家康がそれほど信繁を警戒していたとも思えません。ただ、あまりにも有名なエピソードだけに、採り上げないわけにはいかなかったのでしょうね。

 大阪の陣の役者は揃いました。いよいよ物語はクライマックスに向かいます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-25 23:48 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その3 「蛇塚~又兵衛田」

「その1」で紹介した周辺の後藤又兵衛史跡マップに「蛇塚」なるスポットが載せられていたので、足を運んでみました。


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これがその「蛇塚」です。

なにやら古墳跡のようにも見えますが、これが又兵衛ゆかりの史跡なんだとか。

以下、説明板の文章をそのまま引用します。


むかし、南山田の池田という所におった大蛇が田畑を荒らし回り、村人を苦しめていた。近くの城山に城があって、そこに後藤又兵衛が住んでいた。その近くの射場という所で弓の稽古をしていた又兵衛は、「拙者が退治をしてやろう」と言ったそうだ。

 やがて池田に大蛇が出た。又兵衛が、射場から弓を射ると見事に大蛇に命中して退治してくれた。しかし、大蛇は余りに大きかったので、頭の方を寺垣内に埋め、胴体を四畑に、尻尾は奥の谷へ埋めた。それでこの辺りを蛇塚というそうな。 (口伝により)


つまり、又兵衛が大蛇退治し、ここに埋めたんだそうです(頭か胴体か尻尾かはわかりませんが)。

ただ、又兵衛がこの地に住んでいたのは少年時代だったはずですから、にわかに信じがたい話ではありますけどね。

ていうか、そもそも大蛇自体が伝説ですけど。


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もう1ヶ所、又兵衛ゆかりの史跡を紹介。

南山田城跡の北側は、現在、田園地帯になっているのですが、その1角に、「又兵衛田」と呼ばれる田んぼがあります。


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以下、説明板の文をそのまま引用します。


「又兵衛田」

1611年(慶長16年)以降、姫路城の城主・池田輝政の配慮で後藤又兵衛の扶持米を作ったとされる田で、「又兵衛田」と言い伝えられてきた。

黒田家を出奔後の後藤又兵衛の命をつないできた貴重な田である。


晩年の又兵衛が、一時、播磨に戻ってきたとは知っていましたが、この地に戻ってきてたの?


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黒田官兵衛の元で武功を重ね、一時は大隈1万6千石もの大封を与えられていた又兵衛でしたが、新しい主君の黒田長政とそりが合わず、慶長11年(1606年)に黒田家を出奔してしまいまず。

それでも、又兵衛の武勇は天下に轟いており、細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康など名立たる大名から誘いがかかりますが、長政がしいた「奉公構」によって実現しませんでした。

「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことで、豊臣政権によって始まった制度でした。

その後、又兵衛は京に流れて浪人生活となり、そして、慶長19年(1614年)に大坂と幕府の関係に暗雲が立ち込めると、大野治長の招きで大坂城に入ります。

そして、翌年の5月6日、道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦壮絶な死を遂げるんですね。

大坂の陣では真田信繁(幸村)と並び称される英雄の又兵衛ですが、大坂城の浪人衆からは、又兵衛が最も慕われていたといいます。

あのまま自分を押し殺して長政に従っていれば、大隈1万6千石で穏やかな余生を迎えていたことでしょう。

でも、後世にはそれほど名を知られていなかったでしょうね。

又兵衛にとってどちらが幸せだったかはわかりませんが、自身の生き方を貫いた又兵衛の生き様に、後世のわたしたちは魅せられるのでしょう。


又兵衛関連の史跡は、大坂の陣シリーズでも紹介しています。

よければ一読ください。

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by sakanoueno-kumo | 2016-10-21 18:34 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その2 「福田寺」

南山田城跡の公園から150mほど西にある福田寺を訪れました。

ここは、南山田城主・後藤家の菩提寺だそうです。


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後藤氏の出自は諸説ありますが、藤原氏の流れをくむ後藤基清の子、基重が、承久の乱の後に播磨国安田荘の地頭となったことに始まったといいます。


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その後、建武年間、播磨国の守護職・赤松則村(円心)の幕下であった後藤基明が、ここから2kmほど北にある春日山城の初代城主となり、時代は下ってその9代目にあたる後藤基信のとき、中国征伐に向かう羽柴秀吉によって城は攻め落とされました。

その後藤基信の弟が、後藤又兵衛基次の父・元国でした。


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山門の横に、最近建てられたと思われる「後藤又兵衛顕彰碑」と刻まれた石碑がありました。

その背後に見える森が、南山田城跡の公園です。


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高さは約2.5mあります。

やりの名手として知られた又兵衛にちなみ、やりの穂先の形に仕上げられたのだとか。


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石碑裏面の説明書きです。

「又兵衛400年祭」と記されているように、没後400年を記念して建てられたようですね。

2015年5月6日とあります。

又兵衛が討ち死にしたのは、大坂夏の陣大坂城が落城する1日前の慶長20年(1615年)5月6日、現在の住所でいえば大阪府柏原市で行われた道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦でした。

石碑は、その400年後の命日に建てられたわけですね。

ちなみに、又兵衛は一般に「基次」の名で知られていますが、実は、当時の記録に「基次」と記された史料は存在せず、「正親」が実名だったようです。

真田信繁における「幸村」という名と同じく、「基次」も後世の創作と考えてよさそうです。


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境内です。


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本堂です。

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本堂裏の墓苑の一角に、「後藤又兵衛父母の供養塔」があります。


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又兵衛の父母の没年は定かではありません。

別所氏滅亡後は仙石秀久に仕えたといわれますが、この地に供養塔が残っていることを思えば、あるいは三木合戦時に落命したのかもしれませんね。

息子の又兵衛が有名にならなければ、父の名前すら後世に残らなかったかもしれません。


もう1回だけ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-20 19:03 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その1 「南山田城跡」

後藤又兵衛基次といえば、若き日は「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして、晩年は大坂の陣の大坂方の武将として、真田信繁(幸村)と並び称される英雄として後世に人気の人物ですが、その又兵衛の生誕地と伝わる姫路市山田町を訪れました。


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といっても、ここを目当てに訪れたわけではなく、別の目的でこの道を通ったところ、たまたま「後藤又兵衛」と書かれたを見つけ、つい立ち寄った次第です。

こういう偶然を想定して、休日はいつもカメラを持参しています。

ただ、この日はあいにく小雨がパラつく天気で、暗い写真ばかりなのが残念ですが。


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看板にあった史跡マップを参考に、「南山田城跡」を目指します。


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手前に見える森が、城跡のようです。


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城跡といっても遺構などはほとんど残っておらず、現在は公園として整備されています。


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公園内は広場になっており、北側から東側ののなかに、わずかに土塁っぽい遺構が残されています。


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公園内ある古い祠と、城跡の説明板です。


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南山田城の築城年代は定かではありませんが、又兵衛の父である後藤基国によって築かれたと伝えられます。

天正6年(1678年)に織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨国に侵攻すると、三木城主・別所長治らがこれに反旗を翻し、別所氏の配下にあった後藤氏は、運命を共にします。

しかし、当時まだ幼かった基国の子・又兵衛は、姫路城代だった黒田官兵孝高に預けられました。

しかし、官兵衛が荒木村重によって有岡城幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を、又兵衛の叔父である春日山城主後藤基信が拒否したため、後藤氏一族は追放となり、又兵衛も黒田家を去ることになります。

その後は仙石秀久に仕えたといわれますが、確かではありません。


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公園の周辺は曲がりくねった道で囲われていて、かつての堀跡を思わせるロケーションです。


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ここは明らかに土塁跡でしょうね。


南山田城跡のその後は定かではありませんが、ここから2kmほど北にある又兵衛の叔父・基信の春日山城が秀吉軍によって攻め落とされたとき、共に落城したとみていいのではないでしょうか。

次稿では、又兵衛の父・母が眠る福田寺を訪れます。


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by sakanoueno-kumo | 2016-10-19 22:15 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~

シリーズ最終稿です。
徳川家康の墓所といえば、日光東照宮に立派な廟所がありますが、実は大阪府堺市にある南宗寺にも、家康の墓と伝えられる古い墓石があります。

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家康が死去したのは、大坂夏の陣から1年足らずが過ぎた元和2年(1616年)4月17日と言われていますが、ここ堺のまちには、家康は大坂夏の陣討死していたという伝承があります。
それによれば、夏の陣最終決戦の茶臼山の戦い真田信繁(幸村)の猛攻を受けた家康は、駕籠に乗って逃亡しますが、その途中、後藤又兵衛基次に駕籠の上から槍で突かれます。
その後、辛くも堺まで落ち延びますが、駕籠を開けてみると家康は絶命していた・・と。
しかし、混乱を避けるために家康の死はふせられ、家康とそっくりだった古川城主の小笠原秀政影武者として立て、家康の遺骸はここ南宗寺に埋葬された・・・と。
その墓が、これ。↓↓↓

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これが家康の墓?・・・と言いたくなるような、小さな墓石です。
碑文も何も刻まれていません。

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でも、それは極秘で建てられた墓だから、という理由は成り立たなくもないです。

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そんな荒唐無稽な話、にわかに信じられるはずがないと言いたくなりますが、この伝承には、いくつかの根拠があるんですね。
まずは、これ。↓↓↓

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「坐雲亭」という茶室の建物ですが、このなかに、元和9年(1623年)7月に第二代将軍・徳川秀忠が、同年8月に第三代将軍・徳川家光が参拝したことを記した板額が掛かっているそうです。

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なぜ、将軍が相次いでこの地を訪問したのか・・・。
通説では、大阪夏の陣の翌年に駿府城において死去した家康の遺体は、はじめ久能山に葬られ、一周忌を経た元和3年(1617年)春に日光東照宮に改葬されたと言われますが、本当は、ここ南宗寺から日光に改葬された・・・と、堺では伝わるそうです。
だから、秀忠、家光が相次いて来訪した・・・と。
そう言われれば、もっともらしい気もします。

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上の写真は南宗寺禅堂の屋根ですが、よく見ると・・・

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三葉葵の御紋ですね。
これが、徳川家の紋であることは説明するまでもないでしょう。
ここ南宗寺は三好氏の菩提寺なんですが・・・。

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その三好一族の墓です。
菩提寺のはずなのに、なぜか隅っこのほうに追いやられています。
で、境内のど真ん中にあるのが、これ。↓↓↓

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「徳川家康の墓」と刻まれています。

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この綺麗な墓石は近年建てられたものですが、第二次大戦時の空襲で焼ける前には、この場所に東照宮があったそうです。
墓堂の基礎部分は、東照宮時代のものだそうです。

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とまあ、そんな具合に、伝承にはそれなりの根拠があって、まったくもって荒唐無稽な話でもないんですね。
ただ、ツッコミどころはあります。
家康を槍で突いたとされる後藤又兵衛基次は、茶臼山決戦の前日の道明寺の戦いで討死していますし、堺のまちも、紀州攻めの途中に豊臣方の大野治胤らによって焼き払われており、この南宗寺も例外ではなかったと思われます。
面白い話ではありますが、やはり、伝承の域を超えるものではないでしょうね。

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でも、火のないところに煙は立たぬで、徳川方の誰かがこの地に葬られたのかもしれません。
で、ここからは、わたしの勝手な想像ですけど、討死してこの地に葬られたのは、家康の影武者の方だったんじゃないかと・・・。
だから、徳川家はその後、手厚く弔ったのではないかと・・・。
そう考えれば、二人の将軍が相次いで参ったことも、三葉葵の御紋も東照宮も、すべて説明がつくんじゃないかと・・・。
いかがでしょうか?

さて、9月から40回にわたってめぐってきた大坂の陣ゆかりの地シリーズ、その前の大坂城シリーズも入れれば約半年間お付き合いいただいた大坂の陣400年記念シリーズですが、本稿をもって終わりにしたいと思います。
なんとか大坂の陣400年記念の間に終われてよかった(笑)。
当ブログを見て興味を持たれた方は、ぜひ史跡をめぐってみてください。
自分の足で現地を歩いて、そのあと、小説やドラマを見返すと、面白さ倍増ですよ。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-29 15:54 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~

真田丸から南南東へ約10km近く下った大阪市平野区に、真田幸村休息所跡と刻まれた石碑があります。
ここは慶長20年(1615年)5月6日の大坂夏の陣における道明寺の戦いにおいて、徳川方の伊達政宗隊と激戦を交えたあと、真田信繁(幸村)隊がこの地で休息したと伝えられる場所です。

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石碑は住宅地の路地に隠れるように建っており、よく探さないと見逃してしまいそうな場所にあります(実際、わたしも何度もこの前を通りすぎてしまいました)。
鉄の門扉に刻まれている六文銭は、有名な真田隊の旗印ですね。
六文銭とは三途の川の渡し賃ですから、真田隊は常に死を決しているという意を表していると言われています(異説あり)。

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門扉や説明書きは平成15年に建てられたものですが、石碑は昭和10年に建てられたものだそうです。
そのわりには綺麗に管理されています。

e0158128_19224377.jpg

裏には、「幸村」と書かれた歌が刻まれています。

「御神徳をたたえ奉りて 家を思う心のうちの霧はれて神の利生に任せこそすれ 幸村」

ただ、「幸村」という名は後世の軍記物語などで使われ始めた名で、当時の史料に「幸村」と書かれたものは見られないはずだと思うのですが・・・。
これって、本当に信繁が詠んだものなのかなぁ。

e0158128_19255647.jpg

この休憩所跡の石碑から200mほど北にある志紀長吉神社には、信繁がこの地で休憩した際に戦勝祈願をしたという伝承があります。

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当時は日蔭神社という名称だったそうですが、信繁は戦勝祈願をしたとき、六文銭の軍旗と刀を奉納したと伝えられます。
残念ながら刀は、先の戦争後に進駐軍に没収されてしまったそうですが、軍旗はいまでも社宝として大切に保管されていて、毎年正月に一般公開されているそうです。

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信繁がこの地を訪れたのは、道明寺の戦いの退却中だったのですが、実はこの戦いに信繁率いる真田隊は遅刻してしまい、そのせいで孤立無援となった後藤又兵衛基次が、奮戦虚しく討死してしまいました。
遅参の原因は濃霧によるものだったといわれ、真田隊以外の部隊も同じく遅参しているのですが、真田隊が駆けつけたあとは豊臣方が戦況を押し返していたことを思えば、ここで戦勝祈願をしたときの信繁は、無念の思いと又兵衛の弔いの気持ちでいっぱいだったことでしょう。
でも、結局はその翌日に信繁も討死してしまうんですけどね。
兵どもが夢の跡・・・です。

まだまだ続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

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by sakanoueno-kumo | 2015-11-27 19:32 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~

小松山のすぐ近くにある玉手山公園内には、大坂夏の陣における道明寺の戦いで討死した豊臣方の武将、後藤又兵衛基次之碑があります。
ここも、かつて又兵衛らが奮戦した激戦地跡にあたります。
小松山には徳川方の武将・奥田忠次の墓が建っていますから、後年、又兵衛の碑がこの地に建てられました。

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後藤又兵衛基次は、播磨の別所氏の家臣・後藤基国の次男として、永禄3年(1560年)に生まれたと伝わります。
その後、黒田官兵衛・長政父子に仕え、筑前大隈城主として1万6千石を領しましたが、謀反の疑いを受け、浪人となります。

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そして慶長19年(1614年)の大坂冬の陣のとき、豊臣秀頼の招きで豊臣方に味方し、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝久、明石掃部とともに豊臣方五人衆と呼ばれました。
さらに翌年の大坂夏の陣でも豊臣方の武将として徳川軍と戦い、小松山にて討死します。
享年56歳
真田信繁とともに、後世にたいへん人気の高い人物ですね。

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石碑の側には、「後藤又兵衛しだれ桜」と書かれた桜の木がありました。
これは平成12年(2000年)に植樹されたものだそうですが、又兵衛と枝垂れ桜がどう関係するのかはわかりません。

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ただ、この看板はそろそろ作り直してほしいですね。

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又兵衛の碑の隣には、又兵衛の家臣だった吉村武右衛門之碑があります。
吉村は銃弾に倒れた又兵衛を介錯した人物として伝わり、その後、そのを隠して逃亡。
戦後は僧侶になり、大坂の陣で死んだ者たちを供養し続けたといわれる人物です。

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いちばん右が後藤又兵衛基次之碑、その左横に吉村武右衛門之碑、そして写真いちばん左にあるのが、後藤又兵衛しだれ桜です。
ここを訪れたのは猛暑の7月26日でしたが、なぜか建っている石碑は涼しげに見えました。
(この丘の上まで歩いたわたしは、汗だくでしたけどね)

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同じく公園内にある玉手山7号墳の上には、大坂の陣戦没者供養塔があります。
いつ建てられたものかはわかりませんでしたが、かなり古いもののようでした。

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あるいは、僧侶となった吉村が建てたものだったりするかもしれません(確証はありません)。

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次は、道明寺の戦いと同日の午後に行われた誉田の戦いの舞台を訪ねます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

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by sakanoueno-kumo | 2015-11-25 18:49 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~

舞台は大阪府柏原市に移ります。
柏原市には玉手山古墳群と呼ばれる古墳が点在する丘陵地があるのですが、ここはかつて「小松山」と呼ばれ、大坂夏の陣における道明寺の戦いで、激戦の舞台となった場所です。

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大阪冬の陣後の講和で堀をすべて埋め立てられてしまった豊臣方は、城を出て戦わざるをえない状況となります。
敵は大和路から河内平野を抜けて大坂城南に進軍してくるだろうとみた豊臣方は、慶長20年(1615年)5月1日、後藤又兵衛基次、薄田兼相をはじめとする約6,400の第一陣が出陣、続いて真田信繁(幸村)、毛利勝永約12,000の第二陣が出陣します。
そして5月5日、河内国平野で宿営した後藤、真田、毛利らは、翌払暁に道明寺村付近に集結し、国分村の狭隘な地で幕府軍を迎え撃つ作戦を取り決め、訣別の盃を交わしました。

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ところが翌日6日、後藤隊2,800は夜明け前に道明寺に到着したものの、真田隊をはじめ他の諸隊は遅刻してしまいます。
その理由は、濃霧のため道を間違えたといわれています。
業を煮やした後藤隊は単独で行軍しますが、そこで、すでに徳川軍が国分まで進軍していていることを知ります。

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午前4時頃、後藤隊はここ小松山にて、徳川軍の松倉重政、奥田忠次らと激突。
奥田はこのとき討死し、松倉隊も壊滅して後藤隊が小松山を占拠しますが、その後、徳川方の水野勝成、堀直寄が来援し、更に伊達政宗、松平忠明らが加わり、小松山を包囲して猛攻撃をあびせます。
それでも、後藤隊はよく踏ん張るのですが、結局は多勢に無勢
約8時間の激戦のすえ、正午頃に又兵衛は戦死しました。

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現在、小松山にある1号古墳上には、後藤隊に討ち取られた奥田忠次の墓があります。

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なんで又兵衛の墓じゃないの?・・・と思いがちですが、徳川の世となった江戸時代に、敵方の将だった又兵衛の墓が手厚く葬られることはなかったでしょう。
江戸幕府にとっては、小松山は後藤又兵衛戦死の地ではなく、奥田忠次戦死の地だったわけですね。

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又兵衛の慰霊碑は、すぐ近くの玉手山公園内に、後年になって建てられました。
次稿はそこを訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2015-11-19 19:45 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)