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八重の桜 第18話「尚之助との旅」 ~大政奉還~

 いよいよ幕末史の大詰、物語は慶応3年(1867年)の後半期を迎えました。この時期になると、あくまで幕権強化を是とする佐幕派と、武力で幕府を倒そうという倒幕派の緊張がますます高まるなか、そのどちらでもない第三の道として、幕府自ら政権を朝廷に返還し、武力を用いないで、平和的に幕府専制を解消して、新たな政治機構を作ろうとする運動が活発になります。いわゆる「大政奉還論」ですね。この3つの運動が並行的にからみ合いながら進展していたので、政局はきわめて複雑な様相を示します。

 大政奉還論を中心的に推進したのは土佐藩でした。その土佐藩の代表者は前藩主の山内容堂であり、その腹心である後藤象二郎が藩内でもっとも実力を持っていました。その後藤に大政奉還論を教えたのが、あの坂本龍馬ですね(参照:龍馬伝第43話「船中八策」)。龍馬の示した構想は、上下二院制など外国の立憲制にのっとった近代的な統一国家の構想で、これまで薩摩藩の西郷隆盛らが推し進めてきた列藩会議の構想よりもずっと進んだものでした。しかし、これを受けた後藤はあくまで列藩会議のかたちをとり、その列藩会議の議長に旧将軍が就任し、徳川本家の権威は持続させる、名目は朝廷の一元政治である、という妥協方針を立てます。山内容堂も、これならば賛成であり、後藤らはこの案を慶応3年(1867年)10月3日、老中に提出し、大政奉還を説きます。

 土佐藩から大政奉還論を上申された幕府でしたが、すでに将軍・徳川慶喜やその側近にはその論は入説されていました。したがって慶喜以下幕府首脳は、これをどうするか、すでに検討を加えていたのです。これまで幕権強化に力を注いできた慶喜も、ここにきて、なんらかのかたちでこれまでの幕府政治の形態を変えなければならないと感じとっていたのでしょう。薩長を中心に討幕運動が進められていることは明らかであり、しかもイギリスがその後押しをしていることもわかっている。第二次長州征伐では、長州一藩相手でも歯が立たなかった。そのほかの諸大名も幕府にソッポを向き始めている。民心の動向を見ても、幕政に対して非難が集中している。そんななか、この際なんらかの思い切った手だてが必要と考えたのも、当然だったといえるでしょう。

 そこへ飛び込んできたのが、土佐藩の大政奉還論でした。迷った慶喜はこの案を採り入れる決意をします。そして慶応3年(1867年)10月14日、慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出しました。これにより、250年続いた徳川政権は名目上終わりとなったわけですが、それは名目上であって、事実上はそう簡単なことではないと慶喜はふんでいたと考えられます。政権を返されたとて、250年もの間政治から遠ざかっていた朝廷に政権運営能力はなく、実質的にはこれまでどおり徳川家が運営していくこととなる。慶喜はこの大政奉還に便乗して、あるいはこれを利用して、これまで以上に幕権を強化していこうとさえ考えていたといわれています。天皇を隠れ蓑にして実権を握る・・・つまり、名を捨てて実を取るというわけですね。たしかに、内乱を回避して、なお且つ徳川本家を守るという道は、この時点ではもはや大政奉還しか道はなかったでしょう。その意味では、慶喜の選んだ道は最良の方策だったといえます。しかし、大政奉還後の構想は、慶喜が考えるほどあまいものではありませんでした。慶喜が考えるほど、討幕側は馬鹿じゃなかったんですね。そこが、来週のタイトルどおり、「慶喜の誤算」だったのでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-07 00:16 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

龍馬伝 第46話「土佐の大勝負」

 下関でお龍と別れた坂本龍馬は、慶応3年(1867年)9月24日、土佐・浦戸に入港した。2ヵ月前に「英艦イカルス号事件」の談判のため帰国した際は、藩内佐幕派をはばかり上陸することはなかった龍馬だったが、この度は上陸して浦戸沿岸の種崎の民家に潜んだ。ドラマでは、龍馬と後藤象二郎が直々に山内容堂に会い、大政奉還建白書を書くよう説得する内容だったが、通説では既に容堂は大政奉還を土佐藩の藩論とする意向を固めており、9月上旬には建白書を書いて後藤を上京させている。龍馬が土佐入りしたこの時期は既に後藤は京にいて、大政奉還の周旋活動をしていた。

 龍馬が容堂に会ったという事実はもちろんない。龍馬は帰国後すぐに藩参政・渡辺弥久馬、大目付・本山只一郎、同じく大目付・森権利次らと会合し、武力討幕に向け薩長の活動が活発化している緊迫した情勢を伝えた。龍馬の談ずるところを聞いた3人はことごとく感服して引き上げ、彼らの周旋によって事態を悟った土佐藩は、龍馬が持参したライフル銃1000挺を全て買い入れることに合意した。つまり、このとき龍馬が帰国した理由は、大政奉還を藩論として幕府に訴えながらも、それが受け容れっられないときには薩長の推し進める武力討幕に参戦せよ、と説得しにきたのだ。

 私は、しばしば龍馬が“平和主義の象徴”のように描かれることに不満を覚える。先日の拙稿でも述べたが<参照:坂本龍馬の「大政奉還論」と、中岡慎太郎の「武力倒幕論」(前編)(後編)>、龍馬は決して平和主義の非戦論者ではなかった。この一月ほど前に長府にいる三吉慎蔵に宛てた手紙の中で、「幕府との開戦のあかつきには、薩、長、土三藩の連合艦隊を編成し、強大な幕府海軍に対抗したい。」と述べており、また、土佐に向かう直前に木戸孝允(桂小五郎)に宛てた手紙でも、「後藤が用兵を躊躇するならば、むしろ後藤を見限って乾退助を動かす。」という旨を述べている。平成の現代の価値観で、「歴史の英雄・坂本龍馬は、常に平和的解決を望む素晴らしい人物だった」といった虚像を描き、視聴者に植え付けるのはいかがなものだろうか。

 思惑どおりに事が運んだ龍馬は、藩役人らのはからいもあって、家族の住む実家を訪ねた。文久2年(1862年)3月に脱藩して以来、約5年半ぶりの帰省だった。そのときの様子を、「維新土佐勤王史」では次のように伝えている。
 「今度こそは我家をも訪ふて、兄姉と一宵の歓を尽さやばと、そのまさに発せんとする前一夕、京侍の戸田雅楽を伴ひて、己が生長せる本丁兄権平の宅を叩きて、姉の乙女とも、絶えて久しき対面に及び、神祭に醸せし土佐の白酒に、うましうましと下打ち鳴らし、主客ともに談笑のうちに語り明かしぬ。」
 龍馬に同行して土佐を訪れていた同志・戸田雅楽を引き連れて、坂本家に帰ったらしい。家族がいかに龍馬の突然の帰省を歓迎していたかが手に取るように伝わってくる。このときの様子を伝える史料として、もうひとつ、龍馬に同行して土佐に入った海援隊士・岡内俊太郎が、佐々木高行に宛てた手紙の中では、
 「さて龍馬、高知へ旅人となりて滞留中、夜中密かに上町の自宅に参り、実兄権平、姉乙女、姪春猪たちと五年ぶりにて面会、旧を語り、戸田雅楽も参り、権平より鍔を貰ひ大いに喜び申候。」
 と記されている。兄・権平から刀の鍔を貰い受けたようで、大そう喜んでいた龍馬の様子を伝えている。黙って家出していった薄情な弟に対するこの歓迎ぶりはどうだろう。末っ子の龍馬が、いかに兄・姉から愛されていたかがうかがえる史料だ。このとき坂本家の人々は、これが龍馬と今生の別れになるとは知る由もなく・・・。

 「答えや!坂本。武士も大名ものうなってしもうた世の中に何が残る。何が残るがじゃ!」
 ドラマ中、大政奉還建白書を書くよう説得する龍馬に対して容堂が言った台詞。
 そして龍馬が答える。
 「日本人です。異国と堂々と渡り合える日本人が、残るがです。」

 この時期の龍馬は、まぎれもなく「日本人」だった。土佐藩士ではなく、「日本人」だったのだ。この時代に生きる人々のいう国は、「藩」だった。あの西郷隆盛ですら、最期まで「薩摩人」から脱却できなかった。木戸孝允もまた然り。そんな志士たちの中で、龍馬ただ独り「日本人」たり得たことが、後世に英雄視される所以だが、それはかなり危険な思想でもあった。平成の現代において、「世界平和のためなら日本一国など無くなってもいい」などと言ったら、これはよほど危険な考えだということがわかるだろう。龍馬のいう「大政奉還」「船中八策」とは、つまりはそういうことなのである。土佐も薩摩も長州も幕府もない、日本という国を作る・・・山内容堂や後藤象二郎が、それをどこまで理解していたかはわからないが、龍馬が「日本人」たり得たことが、彼の寿命を短くした所以だといっても、言いすぎではないだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-19 01:46 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(6)  

龍馬伝 第44話「雨の逃亡者」

 慶応3年(1867年)7月6日夜(7月7日未明ともいわれる)、長崎に逗留中だった英国軍艦イカルス号の乗り組み水夫・ロバート・フィードと、ジョン・ホッチングスの両名が、長崎の花街・丸山で何者かに惨殺された。いわゆる「英艦イカルス号事件」である。この下手人が海援隊士ではないかという嫌疑がかかり、このためこの時期大政奉還を実現するために奔走していた坂本龍馬は、「いろは丸沈没事件」に続き、また足止めをくうことになる。ドラマでは、長崎奉行所対海援隊といった、えらく小さな話になっていたが、実際にはこの事件は、土佐藩、幕府を巻き込んだ国際問題となった。

 事件当時、長崎では外国人殺傷事件が相次いで発生しており、いずれも加害者が不明で、長崎における在留外国人たちの恐怖は非常なものがあった。事件発生後、英国領事官フローエルスはただちに長崎奉行所に犯人捕縛を急き立てたが、容易に調べがつかない。おりから長崎に来航したハリー・パークス公使は自ら手を回して調査し、犯人は海援隊士と同じ白筒袖の服装だったという証言を得た。そのことから犯人は海援隊士に間違いないと見たパークスは、長崎奉行所に取調べを求めたが、それだけでは根拠が薄いとの理由で受け付けられなかった。これに憤慨したパークスは、この上は幕府に訴え出て直接土佐藩にかけあうほかなしと、同月24日大阪へ入り、幕府老中・板倉勝静に厳しく談判をもちこんだのである。龍馬がこの事件を知ったのはこの時だと思われる。

 怒鳴りこまれた幕府は、責任上無視することも出来ず、担当者三十余人を土佐へ出張させることに決し、土佐藩も後藤象二郎佐々木高行をはじめ在京の藩重役を急遽帰国させることとし、薩摩藩から借用した汽船三邦丸に乗船する。出航まぎわに龍馬は小舟に乗って同船にこぎ着け、事件の善後策を後藤と協議しているうちに、船は錨をあげ出航してしまった。やむなく龍馬はそのまま同船して土佐に向かうこととなった。脱藩以来、約5年ぶりの帰国だった。しかし、藩内佐幕派をはばかり、龍馬は土佐藩船・夕顔丸に潜伏したまま上陸することはなかった。

 龍馬たちが土佐・須崎に入港した翌日には幕府重役を乗せた船が入港、その2日後にはパークスが搭乗した英国艦が入港、その物々しい状況に高知城下は混乱をきわめたという。攘夷派の暴発を恐れた藩当局は陸上での談判を諦め、夕顔丸船内で行うこととなった。土佐藩代表として談判に臨んだのは後藤象二郎。席上、パークスはいきなり怒気をあらわし、机を叩き、床を踏み鳴らすなど、威圧的な態度を見せたという。しかし後藤は怯むことなく冷然と、「公使は交渉のために当地へ来られたのか、それとも挑戦のために来られたのか、甚だ理解に苦しむ。いやしくも使臣の前において、かような凶暴な態度を示されるのなら、小官はむしろ談判の中止を希望する。」と厳しく抗議した。通訳・アーネスト・サトウを介してこの抗議を聞いたパークスはにわかに態度をあらため、「本官はこれまで中国人との交渉には、常に威圧的な態度をもって効をおさめた経験から、はからずも貴官に対し無礼をはたらいた。厚く諒恕を請う。」と謝意を示したという。このときの後藤についてアーネスト・サトウは後年の著書「維新外交秘録」の中で、「後藤はこれまで我々があったうち、もっとも才智の優れた日本人であったから、ハリー卿の気に入った。」と評している。そんな後藤の手腕もあって英国側は態度を軟化させ、海援隊士犯人説は風説にもとづくところがあるため、再び長崎で調査を行うことで合意した。

 長崎に着いた龍馬は、早速佐々木高行や岩崎弥太郎たちと協議し、金一千両の懸賞金を付けて真犯人の捜索を行ったが、手掛かりを得ることは出来なかった。8月18日、長崎奉行による正式の取り調べが始まり、事件当夜、海援隊士・菅野覚兵衛佐々木栄が現場近くの料亭にいたことが判明、二人は事件直後に長崎を出航して鹿児島に向かっており、逃げたのではないかといった疑いが持たれた。早速二人を呼び戻し取り調べを試みたものの、証拠不十分。結局、確証を得ることが出来ないまま、9月7日、別件逮捕のようなかたちで菅野覚兵衛、佐々木栄、渡辺剛八の三人について申口不束(ふつつか)、岩崎弥太郎には管理不行届の理由で恐れ入れとの口上が渡された。弥太郎と佐々木は素直に応じたが、菅野と渡辺はその理由なしと頭を下げず、9月10日までねばり、結局奉行側が譲歩、お構いなしということで意気揚々と引き上げた。これついて龍馬は佐々木高行に宛てた手紙の中で、「只今戦争相すみ候処、然るに岩弥、佐栄兼て御案内の通りに、兵機も無之候へば無余儀敗走に及び候。独り菅、渡辺の陣、敵軍あへて近寄り能はず」と2人の剛情を評している。

 これでこの事件は一応の決着がついたものの、真犯人が見つかっていないため本当の意味での一件落着ではなかった。真犯人が判明したのは龍馬の死後、明治元年(1868年)になってからである。犯人は筑前福岡藩士の金子才吉という人物で、しかも当人は犯行直後すでに自決していた。この金子は福岡藩でも嘱望された人物だったが、事件当夜、外国水夫が路上で泥酔して寝ているのを見て、嫌悪のあまり斬り捨て、翌日藩庁へ自首した後、国際関係の紛糾を恐れ切腹したという。福岡藩は嫌疑を受けた土佐藩が苦境に立たされたのを見過ごし、事件を秘匿し続けていたが、ついにそれが暴露されたため土佐藩に重役を派遣し謝意をあらわした。しかし、そのとき既に龍馬はこの世にはいなかった。

 というのが、「英艦イカルス号事件」の全容である。長文になってしまったが、ドラマの設定があまりにも通説と異なっていたため、ことのあらましを順を追って紹介させてもらった。この「英艦イカルス号事件」と、前々話の「いろは丸沈没事件」のエピソードは、龍馬の物語では省略されることが多い。というのも、時勢は倒幕か大政奉還かと緊迫したなか、この二つのエピソードはどうしても横道にそれてしまうエピソードだからだろう。しかし今回のドラマでは二つとも採用された。それはまあいい。「いろは丸沈没事件」は、龍馬暗殺の一説の伏線として重要な事件ともいえるし、ドラマのつくりも面白くできていた(あくまで私の感想だが)。しかし今話はどうだろう。こうも史実を変えてまで、紹介しなければならないエピソードだっただろうか。この作り話に1話を費やすぐらいなら、過去にもっと採用すべき事柄があったのではと思ってしまったのは私だけだろうか。

 龍馬の人生最後の年となった慶応3年(1867年)は、「いろは丸沈没事件」で約3ヶ月、この「英艦イカルス号事件」で約2ヶ月の計5ヶ月もの間、時勢とは無関係な仕事に時間を費やさねばならなかった。このため大政奉還が数ヵ月遅れたといっても過言ではないかもしれない。おそらく龍馬は苛立っていたことだろう。この間、薩長は武力倒幕の準備を着々と進めていたはずだから。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-02 22:36 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(2)  

龍馬伝 第42話「いろは丸事件」

 慶応3年(1867年)4月19日、坂本龍馬率いる海援隊は、伊予大州藩の出資によって購入した「いろは丸」に乗って、土佐藩の帰属として初めての航海に出発した。
 「今日をはじめと乗り出す船は 稽古始めのいろは丸」
 こんな舟歌を水夫たちに歌わせながら、いろは丸は積荷を満載にして瀬戸内海を大坂に向かっていた。約1年前に持船・ワイルウェフ号が沈没し、さらにその2ヵ月後にユニオン号を長州藩に返して以来船がなかった彼らにとって、この航海はまさに「水を得た魚」のように心が昂っていたことだろう。しかし、瀬戸内海を東へ進むいろは丸は、同月23日午後11時頃、讃岐沖で紀州藩汽船・明光丸と衝突する。いろは丸は160トン、明光丸は880トン、軽自動車と大型トラックの衝突のようなものだった。

 いろは丸の当夜の当番士官・佐柳高次は明光丸の幻灯に気付き、すぐに左転してこれを避けようとしたが、なおも明光丸は右旋しながら猛進を続け、いろは丸の右舷にふれ機関室を破壊したという。佐柳は船中に事故を伝え、さらに明光丸に向かって救助を求めるも返答がなく、やむなく機関士・腰越次郎が救命船の錨をとって明光丸に投げかけ、素早くよじのぼって明光丸の甲板に上がり、そこで同船の乗組員を詰責したが、お互いにあわてて要領を得ない。そうしているうちに明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退した後、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没した。

 龍馬と明光丸船長・高柳楠之助との合議によって、事故の善後策を決するため同夜のうちに明光丸を備後の鞆の浦に入港させた。翌24日から龍馬は明光丸側と交渉に入り、まずは「事件解決まで明光丸の出港をひかえられたい。」と要求したが、高柳は首を縦にふらない。業を煮やした龍馬は、「もし主用やむを得なければ、われわれの応急の難を救うために1万両貸せ」と持ちかけ、「お申し出のとおり1万両は出すが、返済期限を立てられたい。」という紀州側に対し龍馬は、「弁償金の一部として受け取るので、返済期限を立つべき性質のものではない。」と、はね返したという。結局談判は思うように進まず、龍馬は「この上は長崎において正式の談判にかけ、公論によって正否を決する」ということで物別れに終わった。このとき龍馬の憤激は頂点に達していたようだ。

 龍馬は大藩・紀州藩を相手に、なにがなんでも泣き寝入りするつもりはなかったようだ。ようやく手に入れた船を明らかに相手の過失で失うこととなり、その悔しさは想像するに余りあるものだっただろう。万国公法の引用を考えたのもこのときだった。しかし、そのことによって自身の身の危険も覚悟した龍馬は、万一の場合、自分の死後は妻・お龍を故郷の土佐に送り届けるよう、寺田屋事件で生死を共にした三吉慎蔵に手紙を送っている。
 
 5月15日、長崎での談判が開始された。出席者は海援隊から龍馬をはじめ、長岡謙吉、小谷耕蔵、渡辺剛八、佐柳高次、腰越次郎、土佐藩から森田晋三、橋本麒之助の8名。岩崎弥太郎はいない。ついでにいうと、前話でいろは丸購入に際しても弥太郎の尽力となっていたが、実際にはこの件にも弥太郎は関わっていない。金の工面には協力したかもしれないが・・・。どうしてもドラマでは弥太郎を絡めたいようだ。

 談判の席上、互いに航海日誌を交換し、双方の言い分を検証した結果、ついに紀州側が次の事実を容認した。
 「衝突之際或士官等、彼甲板上に上りし時一人の士官あるを見ず、是一ヶ条。」
 「衝突之後彼自ら船を退事凡五十間計、再前進来つて我船の右艫を衝く。是二ヶ条。」

 ドラマ中、弥太郎が言っていた二ヶ条、すなわち、衝突時に明光丸には見張り役がいなかったこと、一度ならず二度に渡っていろは丸に衝突したことを認めたのである。この証文によって事故の理非曲直がほぼ明確になったわけだが、しかしそれでも紀州側は完全に負けを認めず、幕府御三家の立場をかさに、長崎奉行所を味方につけ海援隊側を威圧する策に出た。しかし龍馬も負けてはいなかった。奇策を用い、巧みに世論操作をしたのだ。
 「♪ 船を沈めてその償いに 金を取らずに国を取る 国を取ったらミカン食う ♪」
 このような歌を作り、長崎丸山の妓楼で歌わせた。これは交渉の結果を歌ったもので、当然その前に、事故の事情も歌同様に広められていたに違いない。この歌はたちまち巷間に流行し、長崎市民の同情はいずれも海援隊に集まった。さすがの紀州藩もこの龍馬の策には閉口しただろう。

 そしてもうひとつの龍馬の策は、交渉の席に後藤象二郎を引っ張り出し、一海運業者対紀州藩の事件を、土佐藩対紀州藩という、同等の立場での、いわば政治的な談判としたことだ。藩同志の談判となれば、紀州側はもはや脅しのような交渉は出来ない。後藤は、「汽船衝突の件は、我が国では準拠すべき判例がないので、現在来航中の英国水師提督に万国の比例を尋ね、然るべき裁定を請う。」と提案し、さらには「貴藩のこれまでの仕打ちは甚だ冷酷だ。向後の出様によってはどのような結果となるかも知れぬ。よく心得ておいてもらいたい。」とまで述べた。もはや勝算なしと見た紀州藩は、薩摩藩士・五代才助に調停を頼み、その裁定で紀州藩は賠償金8万3千両を海援隊に支払うという条件で、ようやくこの「いろは丸沈没事件」は決着がついたのであった。

 龍馬の巧みな世論操作、そして後藤を使って政治問題にすり替えた強かさ、さらには大藩相手に怯まない龍馬の腹の据わったリーダーシップ。どれをとっても、一級品の外交手腕がうかがえる。尖閣諸島沖衝突事件で右往左往している現代の政治家さんたちに見習ってほしいものだ。

 世情は刻々と討幕への道を進めていたこの時期、龍馬にとっては1ヵ月以上もの間、足止めをくうこととなったこの「いろは丸事件」だった。しかし、そんな中でも利益だったのは、長崎で後藤象二郎と語り合う時間が持て、後藤を政治的に教育することが不十分ながらもできたことだった。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-18 01:32 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(10)  

龍馬伝 第40話「清風亭の対決」

 慶応2年(1866年)6月、幕長戦争に参戦した坂本龍馬は、同年8月以降、ずっと長崎にいて亀山社中の面倒をみていた。この時期、社中は経営難に陥っていた。同年5月に唯一の持船だったワイルウェフ号が暴風のため沈没し、さらにもともと長州の船であるユニオン号も同藩に返し、船を失った彼らは為す術もなかった。水夫たちに給金も払えなくなり、龍馬はこの時期、社中の解散も考えていたという。

 土佐藩参政家老・後藤象二郎が長崎を訪れたのは、慶応2年(1866年)7月のこと。象二郎は同年2月、高知城下に開成館を設立し、勧業、貨殖、捕鯨、軍艦などの分課をおいて藩の財政振興につとめていた。そして長崎には貨殖局出張所として土佐商会を設け、和紙、樟脳、鯨油など土佐産物の輸出業務をつかさどり、戦艦、武器などの買い入れを行っていた。おそらくこのとき、長崎の商人たちから龍馬たち亀山社中の活躍ぶりを耳にしていただろう。そして、出来れば彼らの力を利用したい・・・そう考えたに違いない。

 しかし、ほとんどが土佐脱藩の下士たちで形成されていた亀山社中の面々にとって後藤象二郎は、土佐勤王党弾圧の際に大観察として徹底的な拷問を指示し、多くの同志たちを獄死させ、直接武市半平太に切腹の申しつけを行った憎き仇である。象二郎が長崎に出てきたことを知った社中の者たちは、「後藤こそ武市先生に腹を切らせた仇。出会いしだい叩き斬ってくれる。」と息巻いていた。しかし龍馬は、いきり立つ壮士たちを固く制した。龍馬は同年12月に姉・乙女に宛てた手紙で「人と言ものハ、短気してめつたニ死ぬものでなく、又人おころすものでなし」と述べているように、まだ土佐は変わるかもしれないと思っていた。龍馬もまた、彼らの力を利用したい・・・そう考えたようだ。

 年が明けた慶応3年(1867年)1月12日ごろ、坂本龍馬と後藤象二郎の会見が実現した。場所は長崎の料亭・清風亭で、仲介したのは岩崎弥太郎ではなく、土佐商会要員・松井周助と、若き日の龍馬が江戸へ剣術修行に出たときに同行した溝淵広之丞(ピエール瀧の役)の二人だった。(弥太郎と龍馬が接点を持つのは、前話の第39話「馬関の奇跡」の稿でも述べたとおり、この会見の後のことである。)その席に後藤は、龍馬の馴染みの芸者・お元を呼ぶという心配りをしている。後藤サイドが、この会見をいかに成功させたい思いで臨んでいたかがうかがえる。この段階で、この会談はすでに成功を約束されていたといっていいかもしれない。会談の具体的内容は不明だが、おそらく土佐藩の武器購入の話から時局論まで、腹を割って語り合ったことだろう。亀山社中や土佐商会の今後の運営にまで話は及んだかもしれない。会談を終え社中に帰ってきた龍馬に、社中の者たちは口々に、象二郎の様子や人物を尋ねたという。龍馬の返事は「えらいやつだ。あれを利用するとうまく仕事ができる」と答え、さらに、「後藤とは、承知のとおり仇敵の仲だ。しかるに彼は一言も過去を語らず、ただ前途の大局を話す、人物でなければできない境地である。」と答えた。そして酒席の話をいつも自分が中心になるように配慮していたと、土佐下士の生き残りたちが編纂して大正元年(1912年)に刊行された「維新土佐勤王史」は伝えている。

 龍馬と象二郎が手を結んだことは、地元土佐に残る者たちにとっては、上士・下士に関わらず衝撃的なニュースだったようだ。特に、武市半平太亡きあと龍馬を旗頭と考えていた下士たちは、「龍馬は奸物にだまされた。」と攻撃する声が高まり、また、姉・乙女も龍馬を非難し忠告の手紙を書いていた。その手紙に対する返事と思われる、乙女に宛てた手紙がある。商売に夢中になって、天下国家をお忘れのように見受けられるとか、奸物役人にだまされているのではないか、という忠告はありがたいが・・・と前置きして、龍馬は反論している。利益を求めるのは、社中の50人ほどを養うためであり、後藤象二郎と手を結んだのは、彼を人物と見込んでのことだと。そして龍馬は、自分の心情を書き付けた。
 「私一人ニて五百人や七百人の人お引て、天下の御為するより廿四万石を引て、天下国家の御為致すが甚よろしく、おそれながらそれらの所ニハ、乙様の御心がおよぶまいかと存じ候。」
 数百人の手勢を率いて何かを成すよりも、土佐二十四万石をバックに事を成す方が、はるかに効果的だと龍馬はいう。これは挙藩勤王論だ。数年前まで武市半平太が主張し、最期まで捨てることが出来なかった一藩勤王論を、この時期になって龍馬が説いている。前年には経営難から亀山社中の解散まで考えていた龍馬は、バックを持たない浪人としての限界を感じていたのかもしれない。

 坂本龍馬と後藤象二郎の、そのどちらがどちらを利用したかというと、見方によってどちらにもとれる。しかし、大藩の参政の立場にある象二郎と、同藩脱藩浪人である龍馬が、対等な立場で利用し利用されるという、いわばギブアンドテイクの関係が成立したことは、龍馬ファンにしてみれば痛快だ。いずれにせよ、二人が手を結んだことが、幕末の歴史を大きく変えることになるのはいうまでもない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-10-04 01:56 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(7)  

坂本龍馬愛用の手鏡?

 坂本龍馬にまつわるとても興味深い品が発見され公開されているらしい。話題の品は江戸時代末期のものとされる手鏡箱で、表面には「GOOD LUCK」(幸あれ)「KAIENTAI」(海援隊)という文字、二曳(にびき)と言われた海援隊旗の図柄、そして龍馬のイニシャルを思わせる「SR」という文字、さらに「JULY」(7月)という文字などが刻まれている。

e0158128_14165764.jpg 発見されたのは、京都市にある閑臥庵(かんがあん)という寺院で、寺の言い伝えでは、1877年(明治10年)ごろ、同志社英学校に学んだジャーナリストの徳富蘇峰が寺を訪ねた際にこの品を見つけ、当時の住職に保管を勧めたという。その後、行方不明になっていたが、2008年の倉庫整理で発見したという。

 龍馬自身がこの文字を刻んだとすれば、亀山社中から海援隊という名称に変わったのが慶応3年(1867年)4月のことで、同年の11月には暗殺されていることから、刻まれている「JULY」は慶応3年(1867年)7月と考えられる。ちょうどこの時期、龍馬が京都にいたことは確か。慶応3年(1867年)といえば龍馬が最も多忙を極めた時期で、1月に後藤象二郎と会談して亀山社中が土佐藩おあずかりとなり、4月に海援隊と命名したものの、同月、海援隊の蒸気船「いろは丸」と紀州藩船「明光丸」が海上衝突して沈没した、あの「いろは丸事件」が起こり、5月はその談判に疾走。談判解決後の6月、長崎から京都に向かう船中にて、あの有名な「船中八策」を作成。同月、京都にて「薩土盟約」の成立に尽力、そして7月には龍馬不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、その嫌疑が海援隊士にかけられるという事件が発生、この対応のため急遽長崎に戻っている。そんな多忙極まりない時期の品ということになる。

 龍馬ファンとしては、龍馬自身が刻んだものと思いたい。自分の所持品として使っていたものなのか、はたまた誰かに贈るために刻んだものなのか。漢詩などではなく、英文字で「GOOD LUCK」というのが実に粋だ。次から次に起こる難題に振り回されていたこの時期の龍馬に、手鏡箱に文字を刻んで誰かに贈ろうなんて心のゆとりがあったとすれば、そこにまた龍馬の非凡な人物像がうかがえる。てな具合で、いろんな想像が膨らむ発見だ。

 NHK大河ドラマのもたらす影響というのは大きいもので、登場人物の注目度が一躍高くなるため、この機に思わぬ史料が思わぬ場所から発掘されることがよくある。先頃には寺田屋事件の新史料が発見されていたし(参照:寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)新史料が見つかる。)、昨年の大河ドラマ「天地人」の放送中には、主人公・直江兼続直筆の書状が見つかったというニュースもあった(参照:直江兼続の書状が古書店にて発見される。)。そうした発見によって、新たな歴史解釈が成されたとすれば、NHKの功績は大ということになるが、それだけにいい加減な作品は作れないという責任もある。NHKさん、頼んまっせ!


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-21 15:26 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)