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太平記を歩く。 その63 「二条富小路内裏址」 京都市中央区

京に戻った後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、翌年の建武元年(1334年)1月より「建武の新政」を開始します。

その政令が発せられたのが、京都御所の少し南にある「二条富小路内裏址」です。

現在は御所南小学校第二運動場前に、石碑のみが建てられています。


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「建武の新政」「建武の中興」とも呼ばれ、武家政権から朝廷に政権を移し、関白摂政院政も排除し、天皇自らが政治を行うというもの。

「大化の改新」「明治維新」とともに、天皇親政における日本史上の三大革命のひとつとされます。

後醍醐天皇の掲げた「建武の新政」のテーゼは、「延喜・天暦の治にかえる」いうもの。

延喜・天暦の治とは、延喜が醍醐天皇(第60代天皇)時代、天暦は村上天皇(第62代天皇)時代の元号で、この時代は摂政・関白を置かず、天皇自らが政治を行い、文化も繁栄して後世に「理想の聖代」と言われていました。

だから、南朝の天皇は“後”醍醐天皇、“後”村上天皇だったわけですね。

後醍醐天皇は、その「理想の聖代」を復活させようとしていたわけです。


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しかし、前例を無視した後醍醐天皇の独裁は、権力を奪われた貴族の不満を買い、皇居造営などによる重税農民たちの不満はつのり、倒幕に尽力した武士たちも満足いく恩賞を得られず、天皇に失望します。

やがて、鎌倉幕府に変わる新しい武家政権を望む声が広がり始めます。

『太平記』巻12は、次のように嘆きます。

「世の盛衰、時の転変、嘆くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如くにて公家一統の天下ならば、諸国の地頭、御家人は皆奴婢雑人の如くにてあるべし。哀はれ、いかなる不思儀も出で来て、武家四海の権を執る世の中にまたなれかしと、思はぬ人のみ多かりけり」


結局、「建武の新政」は約2年しか続きませんでした。

天皇の政治が稚拙だったのか、しかし、急激な改革というのは抵抗勢力を生むもの。

明治維新でも、約10年に渡って内乱が続きましたからね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-03 22:03 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その62 「澤の井」 神戸市東灘区

神戸市東灘区の阪神電鉄御影駅側の高架下に、「澤の井」と呼ばれる池があります。


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説明板によると、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に対して、この泉の水で美酒を醸しこれを献上したところ、天皇深くご嘉納あらせられたため、これを無上の栄誉とし、嘉納をもって氏族の名としたと伝えられているそうです。


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説明板には「後醍醐天皇御時」とだけあって、具体的な年号が記されていませんでしたが、もし、この話が実話だとすると、配流先の隠岐島へ向かう途上か、あるいは隠岐島を脱出して京に還幸の途中のことだろうと想像し、このシリーズの仲間に入れました。

ちなみにこの伝承にある氏族・嘉納氏の末裔が、のちに嘉納財閥となり、現在、灘五郷の本家・本嘉納家は菊正宗酒造、分家・白嘉納家は白鶴酒造の経営者です。

ちなみにちなみに、その嘉納家からは、伝説の柔道家・嘉納治五郎が生まれています。

『太平記』とはぜんぜん関係ない話ですね。


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ここ神戸市東灘区の御影地区は、花崗岩の別名「御影石」の語源となった場所として知られますが、『日本書紀』によると、神功皇后「三韓征伐」よりの帰途の折、本住吉大神を参拝する際、この地の泉(澤の井)で化粧しようとして御姿を写されたことで、当地を「御影」と呼ぶようになったといいます。


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この泉は、今もなお絶えることなく水が湧き出ています。

泉の水は透き通っていて、が泳いでいます。

この水が、灘の銘酒の源になっているんですね。

太古の昔からの贈り物です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-06-02 20:16 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その61 「薬仙寺(後醍醐天皇御薬水)」 神戸市兵庫区

同じく神戸市兵庫区にある薬仙寺を訪れました。

ここには「後醍醐天皇薬水」という名の井戸跡があります。


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現地説明板によると、元弘の乱によって隠岐島に流されていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、正慶2年(1333年)に島を脱出して還幸の途中、前稿で紹介した兵庫の福厳寺病床に伏したそうです。


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その際、当時の住職がここの霊水を薬水として献上したところ、たちまちにして快癒したことから、「薬仙寺」の号を賜ったといいます。


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井戸脇にある「薬師出現古跡涌水」の碑です。


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こちらの石碑はかなり古そう。


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説明板です。


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まあ、この種の伝承というのは、全国各地で数限りなくある話で、にわかに信じられる話ではありませんが、後醍醐天皇が兵庫津を通ったことは史実ですから、何らかの関わりはあったのかもしれませんね。


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また、太平記とは関係ないですが、ここ薬仙寺の場所には、平清盛後白河法皇を幽閉した「萱の御所」があったとされ、その石碑が建てられています。


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後醍醐天皇といい後白河法皇といい、帝が政治介入すると、歴史は乱れるんですよね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-31 23:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その60 「福厳寺(後醍醐天皇御駐蹕之處)」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある福厳寺の入口には、「後醍醐天皇御駐蹕之處」と刻まれた石碑があります。

ここも、配流先の隠岐島を脱出して京に帰る帰路の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が立ち寄ったとされます。


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後醍醐天皇は元弘3年/正慶2年(1333年)5月31日から6月2日までの間滞在し、この地で楠木正成の参向を受け、また、東国で挙兵した新田義貞によって鎌倉幕府壊滅したという報せを受けたといいます。

『太平記』は、「兵庫の福厳寺といふ寺に、儲餉(ちょしょう)の在所を点じて、しばらく御座ありける」と伝えています。


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石碑の横には、説明看板があるのですが、色あせてしまって読めません(笑)。

ご関係者さまは、ぜひ作り直してください。


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本堂です。

もっとも、当時の福厳寺は、ここよりもっと北東の会下山にあったそうですけどね。


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その後、京に戻った後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う建武の新政を開始するんですね。

ところが、元弘の乱の論功行賞において赤松則村(円心)足利尊氏を怒らせてしまい、やがてそれが、南北朝の分裂に繋がっていきます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-30 23:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その59 「法華山一乗寺」 兵庫県加西市

兵庫県加西市に「一乗寺」という大きな寺院があるのですが、ここも、配流先の隠岐島から帰京中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が立ち寄ったと伝わる寺です。


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後醍醐天皇の護持僧・文観は、東寺長者・醍醐寺座主をつとめた真言律宗の高僧ですが、もともとは、ここ一乗寺の僧だったそうです。


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南北朝時代の播磨国の地誌『峰相記』によると、建武2年(1335年)に後醍醐天皇のを受けた文観が一乗寺を訪れ、西国第一の大堂と称された講堂落慶法要が行われたと記されているそうです。


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大非閣(金堂)と呼ばれる本堂です。


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残念ながら後醍醐天皇が建てた大堂は火災で消失してしまい、現在の本堂は寛永5年(1628年)に姫路藩主・本多忠政の援助で再建されたものだそうです。


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一乗寺の創建は白雉元年(650年)、孝徳天皇(第36代天皇)の勅願で法道仙人が開いたとされています。


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安元年(1171年)に建てられた三重塔は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔として国宝に指定されています。


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三重塔は本堂から見下ろすことができます。


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他にも、数多くの国指定重要文化財兵庫県指定文化財を所有しています。

下の写真は室町時代に建てられたと言われる弁天堂妙見堂


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続いて鎌倉時代に建てられたと言われる護法堂


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こちらは、正和5年(1316年)と刻印された石造笠塔婆です。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日。

でも、ケイタイも圏外になるほどの山奥にあるため参拝客もそれほど多くなく、うぐいすの声を聴きながら悠久の歴史にふれ、ゆったりとした時間を過ごしました。

ここ一乗寺は、西国三十三所二十六番札所となっています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-27 18:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その58 「書寫山圓教寺」 兵庫県姫路市

兵庫県姫路にある、西の比叡山と称される天台宗の古寺「書寫山圓教寺」を訪れました。

書写山は、姫路市の北部にある標高370mの山で、圓教寺はその山上にあります。


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大塔宮護良親王楠木正成、さらには播磨国の赤松則村(円心)らが各地で倒幕の兵を上げると、その機に乗じて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵します。

やがて六波羅陥落の知らせを聞いた後醍醐天皇は、元弘3年(1333年)5月23日に船上山を出発し、京へと向かいます。


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その帰路、後醍醐天皇はここ書寫山圓教寺に立ち寄り、一泊したといいます。

ここで、天皇方として摂津と山崎を何度も往復して幕府軍と戦っていた円心に会いました。

このとき後醍醐天皇は、円心を「天下草創之功」と称えたといいます。


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有名な「摩尼殿」です。

書寫山圓教寺で画像をググったら、まずこの画像が出てきますね。


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圓教寺は、康保3年(966年)に天台宗の僧・性空によって創建されたと伝えられ、花山法皇(第65代天皇)の勅願所となりました。

摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇によるものだそうです。

摩尼殿は、京都の清水寺と同じ舞台造りとなっています。

たしかに似てますね。


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こちらが有名な三之堂

右側の建物が大講堂、左奥に見えるのが食堂(じきどう)、写真左に屋根の先端が少しだけ見えているのが、常行堂です。

いずれも室町時代の再建で、国の重要文化財ですが、後醍醐天皇の行幸以降に再建されたものです。


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ここは、天正6年(1578年)に起きた羽柴秀吉別所長治三木合戦において、一時秀吉が本陣を置いた場所でもあります。


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ここ三之堂は、平成26年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』、同じく平成15年(2003年)の 『武蔵-MUSASHI-』、そして、あのトム・クルーズ主演のハリウッド映画『ラスト・サムライ』のロケ地にもなっています。


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書寫山圓教寺については、他の稿でも紹介していますので、よければ。

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夏休み中播磨路紀行2016 その4 「書寫山圓教寺~前編~」

夏休み中播磨路紀行2016 その5 「書寫山圓教寺~後編~」

三木合戦ゆかりの地めぐり その46 ~書寫山圓教寺~


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by sakanoueno-kumo | 2017-05-26 00:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その55 「長綱寺(名和一族菩提寺)」 鳥取県西伯郡大山町

前稿的石前々稿名和氏館跡のすぐ東側に、名和氏一族の菩提寺・長綱寺があります。

この寺には、名和長年、その長男の名和義高、三男の名和高光、そして後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の位牌が祀られてあり、寺紋は帆掛け船で後醍醐天皇から名和氏に賜ったものと言われています。


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寺の創建は名和長年によるもので、元は長年の父・名和行高の還暦を祝って建てた隠居所だったそうです。

長綱寺(ちょうこうじ)という名称は、長年の以前の名である長高から取ったものだそうです。

ちなみに、船上山挙兵時は、長年は長高の名乗っていたといい、後醍醐天皇の「長くて高いのは危険なことではないか」との御言葉を受け、長年の名を贈られたと伝わります。


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説明板によると、創建当初は長高の名前にあやかって「長高庵」と言ったそうですが、後醍醐天皇が足利尊氏に追われて足利氏の天下になってからは、ここが長年(長高)に関係する場所であることを知られないため、「長高庵」を「長綱庵」と改名したそうです。


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その後、長綱庵が火災で焼けたのを機会に、屋敷を前々稿で紹介した場所に移し、再建した寺院は現在の長綱寺と再度改めまたそうです。


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境内の片隅には、「硯岩」と称する遺跡があります。


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その説明書きによると、長年が後醍醐天皇を船上山へ案内する途中に休憩した岩と言われ、上部に墨つぼの様なくぼみがある形状から、「後醍醐天皇の硯岩」と呼ばれ、伝承されてきた岩だそうです。


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ところが、昭和30年代に突然行方不明になり、人々が嘆いていたところ、住職の夢枕に名和長年が立ち、「米子の皆生温泉の辺りで硯岩が粗末に扱われている。持ち帰るよう。」とのお告げがあったそうです。

これを聞いた有志たちが手をつくして探し回ったところ、そのお告げ通り皆生温泉の近くで硯岩を発見。

平成22年に寺へ帰ってきたそうです。


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夢枕云々はどうかわかりませんが、昭和30年代の話ですから、岩がなくなったという話は本当なんでしょうね。

この岩は10トン300kgあるそうです。

誰が? どのようにして? 何のために?

なかなかミステリアスな話ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-20 00:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その52 「名和神社」 鳥取県西伯郡大山町

「その50」で紹介した御来屋漁港から800mほど南にある名和神社を訪れました。

ここは、その名のとおり、名和長年を主祭神とした名和一族以下42名を合祀した神社で、「建武中興十五社」の一社です。


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名和長年は言うまでもなく、隠岐の島から脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、一族郎党を率いて船上山に立て籠もり、天皇方を勝利に導いた功臣です。


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入口の鳥居の横には、「別格官幣社」と刻まれた石碑があります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」では、後醍醐天皇と名和長年の出会いを、次のように伝えます。


さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。

六条少将忠顕朝臣一人先舟よりおり給て、「此辺には何なる者か、弓矢取て人に被知たる」と問れければ、道行人立やすらひて、「此辺には名和又太郎長年と申者こそ、其身指て名有武士にては候はね共、家富一族広して、心がさある者にて候へ」とぞ語りける。

忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申」とぞ被仰たりける。

名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。

「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。

俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。


ちょっと長いですが、以下、要訳すると、


後醍醐天皇を乗せた船が伯耆国は名和湊に到着すると、さっそく六条少将千種忠顕朝臣が舟を降り、「このあたりに弓矢の名手と知られる者はおらぬか?」と尋ねたところ、道行く人が立ち止まって、「このあたりでは名和又太郎長年という者が一番でしょう。彼はそれほど有名な武士ではありませんが、裕福で一族も多く、皆からも信頼の厚い者です」と答えました。

忠顕は名和長年について詳しく聞き、すぐに勅使を立てると、「先帝後醍醐殿は隠岐判官佐々木清高の舘を脱出され、今この湊にお着きになられた。名和長年の武勇については、予てから陛下のお耳に入っており、頼りにされている旨仰せられている。頼みとして良いのか否か、速やかに返事をされたい」と申し渡しました。

このとき長年は一族らと共に酒宴の最中でしたが、勅使の申し入れに思案がまとまらず黙っていました。

すると弟の小太郎左衛門尉長重が進み出て、「昔から今に至るも、人が望んでやまないのは名誉と利得の二つです。われらありがたくも先帝のご信頼を受けた以上、もし屍を敵の軍門に晒すこととなっても、生前には誇り高き行動であり、また死後には名誉ある行為となります。ここは何も迷うことなくお受けするべきです」と進言し、これを聞いた長年はじめ一族ら二十余人全員が賛同。

「では早速合戦の用意をしよう。きっと追手勢も近くまで来ているだろう。長重は先帝をお迎えに行き、すぐ船上山に登れ!」と言い捨てるや、鎧に身を固めて走り出すと、一族の五人も腹巻を取って身に着けながら、高紐を締めて共に先帝をお迎えに行きました。

しかし、突然の出来事だったので御輿などの用意もなく、長重が身に着けている鎧の上に薦で編んだ筵を巻きつけ、帝を背負って鳥の飛ぶような速さで船上山に登りました。


後醍醐天皇と長年ら名和家の出会いは、突然の出来事だったようですね。

その後、船上山の戦いに勝利した長年は、後醍醐天皇帰洛の際の護衛も務めて、幕府滅亡後に後醍醐天皇によって開始された建武の新政においては、伯耆守に任じられた。


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江戸時代はそれほど大きな神社ではなかったようですが、明治16年(1883年)に旧社を新しく建て替え、鳥取県内でも最大級の神社の規模となります。


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現在の社殿は、国粋主義の盛んな昭和10年(1935年)に建てられたものだそうです。


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説明板によると、境内は名和家の米蔵があった場所だそうで、合戦の際にこれを焼き払ったため、今でも神社の裏から焼き米が出て来るそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-16 22:07 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その51 「元弘帝御着船所」 鳥取県西伯郡大山町

前稿で紹介した御来屋漁港の「後醍醐天皇御腰掛の岩」から路地を一筋南に下ると、民家の玄関先に「元弘帝御着船所」と書かれた看板と、古い石碑があります。

元弘帝とは、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)のこと。


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その伝承によると、後醍醐天皇が隠岐の島から逃れて名和の湊に上陸したとき、この地の領民だった戸屋助右衛門が自分の家に天皇を迎え、鶏の塒(ねぐら)に偽装してしばらく匿ったといいます。

後年、その功を賞して鳥取藩が安政5年(1858年)に家の前にこの碑を建てたそうです。


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後醍醐天皇を匿った戸屋家は、天皇から「塒」という苗字を与えられたと伝わり、石碑には、そのことが記されています。


「戸屋は古へ塒と称す 相伝ふ 帝の賜ふ所なりと」


当時は「塒」「とや」と読んでいたそうですが、明治時代に「ねぐら」

と名乗るようになったのだとか。

なんでも、笑福亭鶴瓶さんの『鶴瓶の家族に乾杯』に塒助右衛門の子孫の方が出演されて、その由来を話しておられたそうです。(わたしは観てませんが)

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いまもお住いなので家全体や表札の撮影は遠慮しましたが、石碑の後ろの家が塒さんのお宅です。

立派なお宅でした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-12 23:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その50 「後醍醐天皇御腰掛の岩」 鳥取県西伯郡大山町

せっかく伯耆国まで足を伸ばしたので、船上山周辺の『太平記』にまつわる史跡を巡ってみます。

まずは、御来屋漁港にある「後醍醐天皇御腰掛の岩」


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元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月、側近の千種忠顕らと共に配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、当初、出雲国を目指すも風に流され、ここ名和の湊にたどり着き、ここで、この地で海運業を営んでいた名和長年を頼ります。


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このとき、疲れた天皇が体を休めるために海岸にあった大きな岩に腰をかけたという言い伝えあり、それが、この岩だと伝わるそうです。


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30年ほど前までは海中にあったそうですが、漁港の改修によって海面から1.4m持ち上げられ、現在では陸の上に位置しています。


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それにしても、たかが休憩のために座っただけで史跡になんるんですね。


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御腰掛岩の隣には、後醍醐天皇の御製の碑があります。


「忘れめや よるべもなみの荒磯を 御舟の上にとめし心を」

(どうして忘れようか。寄る辺のない波の荒い磯で 朕の乗った船に心を留めてくれたことを)


「寄る辺のない」「波」「御舟の上」と天皇が立て籠もった「船上山」をかけているんですね。


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このあたりの地名を「御来屋(みくりや)」といいますが、天皇家や伊勢神宮などの神領を表す「御厨(みくりや)」という言葉がありますよね。

後醍醐天皇がこの地に上陸したということで、この地名になったのかもしれませんね。


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御来屋漁港から日本海を望みましたが、隠岐の島は見えませんでした。

うっすら見えている島のような場所は、おそらく島根半島かと。


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そのまま西に目を移すと、海岸線に風力発電の大きな風車が並びます。


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せっかくなので、近くに行ってみました。


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壮観ですね。

後醍醐天皇もびっくりです。


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遠くに大山、そして船上山が見えます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-05-11 23:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)