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太平記を歩く。 その38 「篠村八幡宮(足利高氏旗揚げの地)」 京都府亀岡市

京都府亀岡市にある篠村八幡宮を訪れました。

ここは、足利高氏(尊氏)尊王討幕の旗揚げをした地として知られます。

シリーズ38にして、ようやく高氏の登場です。


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鎌倉幕府の役人だった足利高氏は、当初は幕府軍として笠置山の戦い下赤坂城の戦いに従軍していましたが、そのとき、父の足利貞氏の喪中であることを理由に出兵動員を辞退しましたが、幕府はこれを許しませんでした。

『太平記』では、このことで高氏は幕府に反感を持つようになったと伝えています。


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元弘3年(1333年)閏2月24日に隠岐を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が伯耆国船上山にて挙兵すると、幕府はその鎮圧を高氏に命じます。

これを受けた高氏は、兵を率いて西へ進軍しますが、4月27日にこの地に兵を留め、社前で神に誓って決意を表明し、4月29日、後醍醐天皇側に寝返って討幕する意思を表明します。


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本殿横には、「足利高氏旗揚げの地」と刻まれた石碑があります。


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『太平記』によると、討幕の決意を表明した高氏は、戦勝祈願の願文を神前で読み上げ、その願文に添えて鏑矢を1本、神前に奉納しました。

その際、弟の足利直義をはじめ、一族の吉良、一色、仁木、細川、今川、高、上杉らの諸将も、我も我もとを一本ずつ納めて必勝を祈願したといい、そのため社壇には矢が塚のように高く積み上げらたといいます。


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境内には、そのときの矢が埋葬されたと伝わる「矢塚」があります。


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塚に建てられた石碑は、元禄15年(1702年)に奉納されたものだそうです。


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現地説明板によると、矢塚には椎の幼木が植えられ、その椎は樹齢600年程を経て周囲の椎と同じ程に成長していたそうですが、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れちゃったそうで、現在の椎は2代目だそうです。

第二次世界大戦時には、高氏の勝ち戦にあやかるべく、椎の倒木から作った肌身守を持参して出征した人がいたそうです。

戦前の日本では、楠木正成忠臣の象徴で高氏は逆賊扱いだったと思うのですが、必ずしもそうではなかったのでしょうか。


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矢塚横に聳えるツブラジイの巨樹です。

樹齢はわかりませんが、樹高は27mあり、「亀岡の名木」に指定されているそうです。

あるいは、この木も同じ頃に植えられたものかもしれません。


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境内の北の民家の横に、「旗立楊(はたたてやなぎ)」と呼ばれる楊が立っています。

旗揚げした高氏は、すぐさま全国各地の武将に協力を求める密書を送ったといい、5月7日までの間に、久下時重をはじめ、長澤、志宇知、山内、葦田、余田、酒井、波賀野、小山、波々伯部などが参じ、その数は2万3千にまで膨れ上がったといいます。


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このとき、次々と駆けつけてくる武将たちに陣の場所を示すため、高く聳え立つ楊の木に足利家の家紋「二両引」印の入った源氏の大白旗が掲げられたと伝えられています。


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楊の樹齢は100年程だそうで、現在の楊は昭和初期に植えられたものだそうで、高氏の時代から6~7代を経て引き継がれたものだそうです。


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高氏の寝返りが決定打となり、5月7日には京の六波羅探題が落とされ、そして5月22日に北条氏鎌倉幕府は滅亡します。

その後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、天皇の諱「尊治」から偏諱を受け「尊氏」と改名しました。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-12 18:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その22 「寄手塚・身方塚」 大阪府南河内郡千早赤阪村

千早赤阪村森屋地区の丘陵地にある墓地のなかに、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の建武の新政の成立後楠木正成が元弘元~3年(1331~1333年)に起きた千早・赤阪の戦いでの戦死者を弔うために建立したと伝えられる五輪塔が2基あります。

そのひとつは、味方の霊を弔った「身方塚」、そしてもうひとつは、敵の戦死者を弔った五輪塔で、「寄手塚」と呼びます。


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上の写真は「身方塚」です。


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総高137.3cmだそうで、五輪塔の下には蓮華の花をかたどった反花基壇を設けています。


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そして、こちらが敵方を弔った「寄手塚」

総高182cmあり、「身方塚」よりひと回り大きなものとなっています。


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「寄手」とは、敵軍の兵士のことを指しますが、正成はあえて「敵」という表現を使わず、「寄手」という表現を使って魂を静めたといわれます。

また、味方の兵を弔うための身方塚よりも、寄手塚の方が大きいのも、敵に敬意を表したものといわれています。

これらのことから、楠木正成の人柄の良さをうかがい知ることができると伝わります。

ただ、無粋なことをいえば、これらが本当に正成が建立したものかどうかは、定かではありません。


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寄手塚・身方塚から望む景観です。

右が金剛山、左が葛城山です。

五輪塔が建てられた700年前も今も、ここからの眺めはそれほど変わってないんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-03 20:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その21 「建水分神社・南木神社」 大阪府南河内郡千早赤阪村

前稿で紹介した「奉建塔」のすぐ近くにある「建水分神社」を訪れました。

「たけみまくりじんじゃ」と読みます。

難しい読みですね。

ここは、楠木氏の氏神として崇拝された神社です。


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その社伝によると、建水分神社の始まりは崇神天皇(第10代天皇)の時代に遡り、2000年以上の歴史があるとされています。

祭神はその名のとおり水を司る神で、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池を作ることが勧められましたが、このとき、金剛葛城の山麓水分神が祀られたのに始まるそうです。


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かつては現在の場所から北に約100mの水越川のほとりにあったそうですが、楠木正成鎌倉幕府軍との戦火に巻き込まれ、荒廃してしまいます。

そのため、建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在の場所に本殿、拝殿、鐘楼などを再建したそうです。


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鳥居の扁額は、もともとは楠木正行によって奉納された後醍醐天皇宸筆といわれる木額ものがあったそうですが、表面の文字が摩滅したため、宝永2年(1705年)に金銅製にて模造されたものだそうです。

揮毫は、時の前大納言・葉室頼孝によるものだとか。


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急な階段の上に社殿が見えます。


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本殿は重要文化財に指定されているそうですが、一般に参拝できるのは、ここ拝殿前まで。


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また、同じ境内には、摂社の南木神社(なぎじんじゃ)があります。

祭神は楠木正成。

「南木」は、「楠」の偏と旁をバラしたものですね。


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建武3年(1336年)5月25日、正成が湊川の戦いで討死すると、翌・延元2年(1337年)に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)自ら正成の尊像を彫り、建水分神社の境内に祀ったのが始まりと伝わります。

楠木正成を祀る神社は各地にありますが、ここ南木神社が最古だそうです。


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その後、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)より「南木明神」の神号を賜ったそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-02 20:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その20 「奉建塔」 大阪府南河内郡千早赤阪村

「楠公生誕地」碑から南へ徒歩3分ほどのところに、楠公没後600年祭記念として昭和15年(1940年)に建てられた「奉建塔」があると聞き、訪れてみました。


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丘の上の森の上に、白い雲に突き出るように塔の頭がのぞいているのがわかるでしょうか?


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青空が美しいですね。


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ここは、1~2月には約5万本のニホンスイセンが咲く「スイセンの丘」になるそうで、春には、桜の名所としても知られているそうですが、わたしが訪れたこの日は初夏の7月3日。

かろうじてアジサイが綺麗でした。


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で、丘の上に建つ「奉建塔」です。

ど、ドでかい!!


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奉建塔は徳島県の画家で楠公崇拝者であった森下白石という人が発起人となり、全国の小、中、青年学校の児童生徒、教師などから、当時の金で10余万円の寄附を集めて建設したそうです。

塔の高さは43尺(約13m)あり、これは、楠木正成戦死した年齢に因んでいるそうです。

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塔柱および基礎は鉄筋コンクリートで、その表面には花崗石を積み、その重さは最大1300貫(4876kg)あり、当時の技術では相当の難工事だったようです。

工事着手は昭和11年(1936年)1月、竣工は昭和15年(1940年)5月15日でした。


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上部の「菊水」は楠木家の家紋。

その下に刻まれた「非理法権天」の文字は、「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


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塔の下段には、頼山陽『日本外史』による楠公をたたえる句(漢文)が刻まれています。


「大楠公於笠置奉答後醍醐天皇之辞」(大楠公笠置に於いて後醍醐天皇に奉答するの辞)


時代は折しも第二次世界大戦に向けて緊張しはじめていた時期、皇国の忠臣として崇め奉られていた楠木正成の没後600年祭は、国民の精神高揚のために大いに政治利用されたであろうことは想像に難しくありません。

この塔が教育者たちの寄付でできたという事実も、当時の教育機関の事情を知ることができます。

戦後、日教組が頑なに左翼的思想に傾倒していくのも、こういった歴史があったからなんですね。

この「奉建塔」は、楠公関連史跡というより、昭和の皇国史観の史跡といえるでしょうか。


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「奉建塔」の建つ丘の上から南を望みます。

青空と緑が美しいですね。

左に見える山が、山頂に上赤坂城跡のある山です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-01 19:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その17 「金剛山(國見城跡)・後編」 大阪府南河内郡千早赤阪村・奈良県御所市

金剛山後編です。

葛木神社境内の西側の参道に、「宝剣塔」という名称の宝篋印塔があります。


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これは、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)とその第2皇子・大塔宮護良親王追善供養のために建てられたもので、足利時代のものだそうです。


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足利の誰の時代でしょうね?


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後醍醐天皇も大塔宮も、最期は足利尊氏と敵対する立場で死んでいきますから、政敵からの追善供養ということですね。

まあ、尊氏はほかにも京の嵐山に、後醍醐天皇の菩提を弔う天龍寺を建立していますから、この宝篋印塔も、尊氏が建てたものかもしれませんね。

天皇の敵となった自責の念があったのでしょう。


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そして、葛木神社の西側にある転法輪寺です。

真言宗醍醐派大本山である金剛山転法輪寺は、今から約1300年前、山岳での修験道の開祖とされる役小角が建立したといわれ、奈良時代より明治維新に至るまで修験道七高山のひとつに数えられ、全国にその名が轟いていたと言われます。

あの行基、鑑真、最澄も来山し、聖宝も修行したと記録されているそうです。


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本堂です。


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境内には、豊臣秀吉がこの地を訪れたときに掘ったと伝わる瓢箪形の池「ひさご池」があります。


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で、転法輪寺の西側、山頂尾根伝いの最西端にある削平地に、「金剛山國見城址」と書かれた看板があります。


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ここは見晴らしがよく、登山客の憩いのスポットとなっています。


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大阪府が一望できます。

この日は霞がかっていたので遠くまで見えませんでしたが、空気の澄んだ日は、大阪湾を経て遠く神戸の六甲山系から淡路島まで見渡せるそうです。

たしかに、わが町神戸からも空気が澄んだ日は、金剛山が見えます。

直線距離で言うと60km以上離れているんですけどね。


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ここからも、某教団の平和の塔が見えます。


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その伝承によると、元弘2年(1332年)12月に再挙兵した楠木正成は、自身は上赤坂城に入り、金剛山の正面に國見城を設け、まだ少年だった息子の楠木正行とその傅役の湯浅孫六を配置し、転法輪寺の僧兵との連携をとらせたといいます。

城といっても、たぶん突貫の砦のようなものだったのでしょうね。


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その後、正成は千早城に移り、寡兵で大軍を寄せ付けなかったのですが、その理由のひとつに、背後の金剛山の僧兵の援助が大きかったといいます。


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城址公園の一段下にも、削平地があります。

二ノ丸跡?・・・即席で作った城にそんなもんないかな?


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余談ですが、太平洋戦争時に活躍した戦艦「金剛」は、ここ金剛山に因んでいます。

「大和」「武蔵」「長門」「陸奥」など、当時の戦艦の名称は旧国名が多かったと思いますが、「金剛」という山の名がつけられたのはなんででしょうね?

当時、楠木正成が忠臣の象徴的存在だったこともあり、大軍相手に落ちなかった城に因んで付けられたのでしょうか?

でも、沈没しちゃいましたけどね。

現在は、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」に、その名は引き継がれています。


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この日の山頂は気温17度。

快適な秋のハイキングでした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-23 01:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その12 「院庄館跡(作楽神社)」 岡山県津山市

岡山県津山市にある作楽神社にやってきました。

ここは、かつて美作国守護の館「院庄館」があった地で、元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が宿泊したと伝わる場所です。


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ここを訪れたのは11月6日、木々が色づくいい季節だったのですが、残念ながら天気はあいにくの曇り空で、見てのとおり暗い写真ばかりです。


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前稿、前々稿で紹介した船坂峠、杉坂峠天皇奪回を計画して失敗した児島高徳が、それでもあきらめきれず、ここ院庄館まで追ってきたといわれます。


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鳥居横に設置された後醍醐天皇御製の碑です。


あはれとは なれも見るらむ わが民を 思ふこころは 今もかはらず

よそにのみ 思ひぞやりし 思ひきや 民のかまどを かくて見むとは


後醍醐天皇がここ美作国で詠んだとされる歌二首

一首目は国民に対する仁愛、二首目は庶民の生活を見たときの心をうたったものだそうです。


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敷地内には、児島高徳のがあります。


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杉坂峠を後にして単身この地に乗り込んだ高徳は、夜になって院庄の天皇行在所に侵入するも、これまでとは段違いの厳重な警護になすすべもなく、天皇奪還を断念せざるを得ませんでした。


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そのとき、そばにあった桜の木「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れたといいます。

よして翌年、その言葉どおりになるんですね。


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像の土台には、その漢詩が刻まれています。


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こちらは、東大門跡にある十字の詩跡の碑です。

ここに、高徳が漢詩を刻んだ桜の木があったと伝えられます。


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江戸時代になって、津山藩家老・長尾勝明が高徳の忠義心を讃え、貞享5年(1688年)に建てた碑だそうです。


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その説明書き。


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こちらは、戦前に教科書に載っていたという高徳の忠義を称えた文部省唱歌の碑


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こちらは、昭和9年(1934年)に建てられた建武の中興600年記念碑


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そして、こちらは昭和59年(1984年)に建てられた建武の中興650年記念碑です。


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こちらは、敷地内に建つ噫忠義桜十字詞之碑塔

戦艦大和の建造者である海軍技術中将・庭田尚三を会長とする忠桜会が、昭和46年(1971年)に建設したもので、表面に「天莫空勾践時非無氾范蠡」と、後醍醐天皇御製二首および斉藤監物七言律詩「題児島高徳書桜樹図」を、裏面に道家大門の和歌二首を記してあります。


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作楽神社拝殿です。

ここは明治2年(1869年)に創建された神社で、後醍醐天皇を正祀に児島高徳を配祀しているとのことです。


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とにかく、右を向いても左を向いても後醍醐天皇と児島高徳を称えるものばかりです。

明治政府としては、天皇崇拝を国民に浸透させるためにも、こういった場所が必要だったのでしょうね。


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児島高徳は元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えました。

そして時代は下って江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄となります。

しかし、実は高徳の活躍が記された史料は『太平記』以外にはないそうで、現在ではその実在性にも疑問符がつく人物となっています。


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実在したかどうかはわかりませんが、第二次世界大戦後になると高徳の知名度がどんどん低下していったことを思えば、楠木正成同様、皇国史観における忠臣の象徴として利用された英雄だったということは間違いありません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-11 00:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その11 「杉坂峠関所跡」 兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の境

兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の県境にある杉坂峠を訪れました。

ここは、旧令制国における播磨国美作国国境にあった関所跡です。


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元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳奪回すべく立ち上がり、前稿で紹介した船坂峠待ち伏せますが、天皇護送団一行の移動ルートを見誤り、計画は失敗に終わります。

その後、天皇一行を追ってきたのが、ここ杉坂峠だったと伝わります。

しかし、高徳がここに着いたときには、すでに天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近まで達していて、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまったといいます。

つまり、ここ杉坂峠は高徳無念の地というわけですね。


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峠付近にある説明板です。

記載されている文章は、『太平記』巻四の「備後三郎高徳が事」のくだりと、巻六の「赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜はる事」のくだりです。


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看板の横の苔生した坂を上ります。


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この道が、旧峠越えの道のようですね。


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しばらく登ると、「杉坂の関の跡」と書かれた看板と、大きな石碑が建てられた広場にでます。


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『太平記』巻六によると、元弘3年(1333年)、大塔宮護良親王の呼びかけに応じて討幕の兵を挙げた赤松則村(円心)は、ここから8kmほど南にある苔縄山の山頂にを築き、ここ杉坂に関所を構えたとあります。


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石碑は、昭和2年(1927年)に建てられたものだそうです。


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石碑の裏面です。


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石碑の横にある歌碑です。

昭和12年(1937年)に建てられたもののようですが、説明書きがないので、誰の歌なのかわかりません。


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現在の杉坂峠は、中国自動車道と並走する県道365号線上にあるのですが、かつては播磨国と美作国を結ぶ交通の要衝だったこの峠も、現在はこの少し南に国道179号線が通っているためか、あまり利用する車はないようです。

この日も、わたしがここにいた20分くらいの時間、1台も車が通りませんでした。

道路の真ん中に立ってこんな写真も撮れちゃいます。


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奪回作戦
に失敗した高徳の軍勢は、落胆して散り散りになりますが、それでも、高徳は諦めきれず、単身、院庄の天皇行在所に向かいます。

次稿は、その院庄館跡に向かいます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-09 22:00 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その10 「船坂峠」 兵庫県赤穂郡上郡町梨ヶ原と岡山県備前市三石の境

前稿の「善通寺」は、現在の住所でいえば兵庫県の東端ですが、今度はそこから100km以上西に行った兵庫県の西端、兵庫県と岡山県の県境にある「船坂峠」にやってきました。

ここは、元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐に配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳が奪回すべく決起した場所と伝わります。


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現在、船坂峠は国道2号線にあり、峠の頂上はトンネルとなっています。

そのため、かつての船坂峠があった西国街道は、現在は歩行者・自転車専用道路となっています。


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車を空き地に停めて、旧道を歩きます。


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道は苔生していますが、ちゃんと舗装されていました。

トンネルが開通したのは昭和30年(1955年)といいますから、60年前まではここが国道でした。


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峠の頂上が見えてきました。


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頂上には、県境を示す石柱が設置されています。

道路側に面して「縣界」と刻まれ、西面には「兵庫縣赤穂郡船坂村」と、そして東面には「岡山縣和氣郡三石町」と刻まれています。

西から歩いてきたわたしは、ここを超えると岡山県に入ります。


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峠の頂上から西へ2、3分歩いたところ(即ち岡山県)に、「船坂山義挙の碑について」と記された石碑がありました。


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その北側の山道を登っていくと・・・。


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「船坂山義挙之城趾」と刻まれたバカでかい石碑がありました。

揮毫は平沼騏一郎男爵とあります。


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後醍醐天皇の奪回を企てた児島高徳は、一族郎党200余騎でこの地に潜みますが、天皇護送団一行の移動ルートを見誤り、計画は失敗に終わります。

その後、高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂峠まで追いますが、既に天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近まで達していて、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまったといいます。


次稿では、その杉坂峠を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-08 16:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その8 「布引の滝」 神戸市中央区

神戸市中央区にある「布引の滝」を訪れました。

ここは元弘元年(1331年)に隠岐島に配流となった後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、その道中に立ち寄ったとされます。

場所は、JR新幹線の新神戸駅の北側の山中にあります。


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布引の滝は、日光の華厳の滝、那智勝浦の那智の滝と並んで、日本三大神滝のひとつに数えられていますが、他のふたつの滝と違って、現在は人工的に水量をコントロールされています。


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布引の滝は雄滝(おんたき)・雌滝(めんたき)・夫婦滝(めおとだき)・鼓ヶ滝(つつみがだき)の4つの滝の総称で、生田川の布引渓流にあります。

南からハイキングコースを登っていくと、最初に目にするのは「雌滝」です。


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一番下流にある約19mの雌滝は、その名のとおり細くしなやかに流れる女性的な印象です。


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たしかに、その名のとおり白い布を引いているように見えます。


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続いて渓谷沿いに登っていくと、「鼓ヶ滝」という石碑があるのですが、滝が見えません。


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実は、鼓ヶ滝を見られるのは、覆っている木々の葉が枯れる冬だけだそうです。

ここを訪れたのは5月14日。

滝の姿は見えず、かろうじて滝壺が覗けるのと、あとは音を聞くだけです。

「鼓ヶ滝」という名称の由来は、その滝音が鼓のような響きだからだそうです。


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そして、いちばん上流にあるのが「雄滝」、その下にあるのが「夫婦滝」す。


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「雄滝」は高さ43m、滝壺は面積430㎡、深さ6.6mあります。

下流の「雌滝」とは対照的に、5段に折れながらダイナミックに落下する迫力の名瀑です。


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滝の横には5箇所の甌穴があり、竜宮城に続いているという伝説もあるのだとか。


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マイナスイオンが出まくりです。


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「雄滝」の滝壺から更に下の段に落ちる高さ9mの滝が、「夫婦滝」です。

2本に分かれた滝がひとつになっている様子が、まるで夫婦のようだということから、「夫婦滝」と呼ばれるようになったのだとか。


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山道を登っていくと、滝を横から見下ろすこともできます。


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ここ「布引の滝」の景観は、古くは平安時代の歌集『伊勢物語』『栄花物語』など、多くの和歌紀行文、詩歌などに登場する場所で、古来、景勝地として知られています。

5つの滝の散策道には、各所に平安時代から江戸時代にかけて詠まれた布引の滝の名歌の碑「布引三十六歌碑」が建てられています。

後醍醐天皇のものはありませんでしたが。


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「松の音琴に調ふる山風は 滝の糸をやすけて弾くらむ」 紀貫之


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「布引のたきのしらいとうちはへ てたれ山かせにかけてほすらむ」 後鳥羽院


当時としても全国的に知られた景勝地だった布引の滝。

島流しの道中に観光するなんて、さすがは後醍醐天皇、肝が据わっていますね。

この水しぶきを見ながら、きっと再起を誓っていたのでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-02 20:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その7 「雀の松原」 神戸市東灘区

元弘元年(1331年)の笠置山の戦いに敗れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、翌年、隠岐島に配流となります。

その道中、後醍醐天皇は現在の神戸を通過するのですが、そのとき、ここ「雀の松原」を通ったと伝えられます。


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現在は住宅街のなかにある小さな公園に石碑のみが建てられていますが、かつてこのあたりは海岸線で、松林があったそうです。


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『太平記』より更に古い『源平盛衰記』『平家物語』にもその名称は見られ、後醍醐天皇のことが書かれた『増鏡』では、「(後醍醐天皇は)雀の松原、布引の滝など御覧じやらるるも、……生田の里をば訪はで過ぎさせ給ぬめり。湊川の宿に著かせ給へる」とあり、後醍醐天皇がここ雀の松原や布引の滝を見ながら隠岐へと流されていったことがわかります。


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碑文

「竹ならぬかげも雀のやどりとは、いつなりにけん松原の跡」


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側面には「中納言公尹卿」とあります。

鎌倉時代の公卿、洞院公尹のことです。


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右側の小石碑表面には

「雀松原遺址、杖とめて千代の古塚とへよかし是や昔の雀松原 平安山田寿房」

とあります。

調べてみましたが、山田寿房という人のことはよくわかりません。


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この石碑は阪神電鉄開通工事の際、軌道敷内にあって取り壊された真の旧蹟を惜しんで、地主が所有地を地盛りして若松を植え、移設したものだそうです。


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また、これより20年後の正平6年(1351年)に、足利尊氏足利直義兄弟が互いに戦った場所でもあります。(観応の擾乱)

打出の鷲林寺に陣を置く直義に対し、尊氏はこれを討つべく2万の軍勢を進めますが、兵が多すぎて逆に身動きが取れないと察知した尊氏の部下・薬師寺次郎左衛門公義が自らの手勢をここ雀の松原に待機させた場面が『太平記』に描かれており、そこには「一族の手勢二百余騎、雀ノ松原の木陰にひかえて」とあります。

結局、この打出・御影浜の戦いでは、大軍で統制がとれなかった尊氏方は敗れ、総崩れとなって西へ敗走します。


さて、次稿では、同じく後醍醐天皇が通ったという「布引の滝」を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-01 17:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)