タグ:後醍醐天皇 ( 33 ) タグの人気記事

 

太平記を歩く。 その129 「後醍醐天皇導之稲荷」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺の南側入口の脇に小さなお稲荷さんがあります。


e0158128_19475817.jpg

近づいてみると、「後醍醐天皇導之稲荷」と刻まれた石柱が建てられています。

「導之稲荷」とはどういう意味か・・・。


e0158128_19480353.jpg

説明板によると、延元元年(1336年)12月21日、足利尊氏によって幽閉されていた京の花山院を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、12月28日、ここ吉野山行宮(仮の宮)に入りますが、その道中、夜道に迷ったとき、とある稲荷社の前で、


「むば玉の 暗き闇路に 迷うなり 我にかさなむ 三つのともしび」


と詠んだところ、ひとむらの紅い雲が現れて、吉野への臨幸の道を照らして天皇を導くと、その雲は金の御岳(吉野山)の上で消え失せたといいます。(吉野拾遺)

その稲荷を勧請したのがこの「導き稲荷」だそうです。


e0158128_19480855.jpg

歌のなかに出て来る「三つのともしび」とは、京都の伏見稲荷大社の神体山・稲荷山三つの峰に祀られている神をさすそうです。

夜道に迷って困っていると、稲荷山の御神体がわたしに重なった・・・といった意味でしょうか?


e0158128_19481210.jpg

心に迷いが生じたとき、ここ「導き稲荷」の神にお祈りすると、自ずから道が開けるという伝承があるそうです。

わたしのように常に迷って生きている者には、ご利益はあまり期待できないかもしれませんが。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-09-22 23:54 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その126 「吉野神宮」 奈良県吉野郡吉野町

桜の名所で有名な奈良県の吉野山にやってきました。

といっても、訪れたのは真夏の7月のことで、桜はまったくありまぜん。

桜の季節は観光客でいっぱいですからね。


e0158128_18403468.jpg

『太平記』における吉野山は、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が足利尊氏の擁立する京の北朝に対して南朝を樹立したところとして重要な場所ですが、『太平記』の描く吉野山はそれだけではなく、巻7「吉野城軍の事」、巻18「先帝吉野潜幸の事」、巻26「正行吉野に参る事」、「吉野炎上の事」、巻34「吉野御廟神霊の事」と、多岐にわたって登場しますので、時系列でめぐっていくのはたいへん難しい。

そこで、ここからしばらくは、時系列から外れて吉野山特集でいこうと思います。


e0158128_18403749.jpg

最初に紹介するのは、吉野山の北西麓付近に鎮座する「吉野神宮」

ここは後醍醐天皇を祭神とする神社で、明治22年(1889年)に明治天皇(第122代天皇)の意向によって創建されました。


e0158128_18404066.jpg

もともとは、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の勅命により後醍醐天皇の御尊像を吉水院に奉安し、以後、550年間、代々供養が続けられていきましたが、明治になり、吉水院は後醍醐天皇社と改称し、その後、吉水神社と改称されました。


e0158128_18404490.jpg

しかし、明治政府の打ち立てた神仏分離の目的で、別に社地を定めて後醍醐天皇を祭るように指示が出され、ここ吉野神宮の創建に至ったそうです。


e0158128_18404795.jpg

全国にある「建武中興十五社」の一社で、旧社格は「官幣大社」でした。


e0158128_18405068.jpg

拝殿です。


e0158128_18410218.jpg

本殿です。

拝殿の横に並ぶ摂社には、後醍醐天皇の「建武の新政」に功績のあった、日野資朝、日野俊基、児島高徳、桜山茲俊、土居通益、得能通綱などが祀られています。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-09-19 23:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その125 「内山永久寺跡(萱御所跡)」 奈良県天理市

延元元年/建武3年(1336年)12月21日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は足利尊氏によって幽閉されていた花山院を抜け出し、吉野山新たな朝廷を樹立するに至るのですが、吉野山に向かう道中、大和路の内山永久寺に一時身を隠していたと伝えられます。


e0158128_18181056.jpg

内山永久寺は平安時代後期の永久2年(1114年)に鳥羽天皇(第74代天皇)の勅願により興福寺の僧・頼実が創建したと伝えられ、往時は壮麗な大伽藍を誇ったといわれますが、明治年間の廃仏毀釈より徹底的な破壊を受け、いまはその敷地のほとんどが農地となっています。


e0158128_18181312.jpg

唯一痕跡として残るのが、境内のほぼ中央にあったされる本堂池


e0158128_18181721.jpg

長閑な風景です。


e0158128_18200531.jpg

池の畔にある「内山永久寺記念碑」

裏には「明治廿二年四月建立」とあります。


e0158128_18211595.jpg

その石碑の建つ場所から、説明板のようなものが見えます。


e0158128_18220892.jpg

こちらがその説明板と、江戸時代末期に刊行された「名所図会」の絵図。


e0158128_18231622.jpg

絵図中央に赤く「現在地」の標示があり、その横に大きな池がありますね。


e0158128_18250029.jpg

絵図の池の左隣には、「後醍醐帝萱御所旧跡」と記された一角が確認できます。

ここが、後醍醐天皇が一時身を潜めていたとされる場所ですね。


e0158128_18270029.jpg

現在その跡地には、「萱御所」と刻まれた石碑が建てられています。


e0158128_18270559.jpg

『太平記』巻18「先帝潜幸芳野事」によると、12月21日の夜に花山院を抜け出した後醍醐天皇は、翌22日の夜が明ける前に梨間の宿(城陽市)に入り、そこから張り輿(全体を畳表で張った略式の輿)に乗って白昼の大和路を南下し、夕暮れどきにここ内山永久寺にたどり着きます。

その翌日の23日夜には賀名生(西吉野)に移っていますから、ここ内山永久寺に身を潜めていたのは、わずか一晩、それも、数時間のことだったかと思われます。


e0158128_18270801.jpg

わずか数時間滞在しただけで後世に「萱御所」と称されて石碑まで建っちゃうんですね。

まあ、古代神話時代の天皇明治天皇(第122代天皇)以降の近代の天皇は別として、ほとんどの天皇は一生京の都を離れることなくその生涯を終えられたわけですから、天皇が訪れた地というだけでも、たいへんな事だったのでしょうね。

そう考えれば、後醍醐天皇は比類なきアクティブ天皇だったといえるでしょうか。


e0158128_18284769.jpg

集落の高台に展望台が設置されていたので、上ってみることに。


e0158128_18285040.jpg

文禄4年(1595年)には豊臣秀吉から971石の寺領が与えられ、大和国では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺となり、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼び習わされたそうですが、今はその痕跡はまったく見られず、見渡す限りの農地です。


e0158128_18303641.jpg

池の北側の畔には、松尾芭蕉の句碑があります。

e0158128_18303985.jpg

「うち山やとざましらずの花ざかり」宗房

「宗房」とは、芭蕉の若き日の号だそうで、まだ出生地の伊賀上野に暮らしていた頃の作品だそうです。

この句意にあるように、現在でも春になるとこの池は桜で埋め尽くされるそうです。

今度は桜の季節に訪れてみることにします。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-09-17 00:28 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(1)  

太平記を歩く。 その124 「花山院邸跡(宗像神社)」 京都市上京区

京都御苑内にある宗像神社を訪れました。

ここは、かつて花山院邸があった場所で、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、一時幽閉されていた場所です。


e0158128_18054989.jpg

建武の新政が崩壊し、延元元年/建武3年(1336年)10月10日、足利尊氏に降伏した後醍醐天皇は、ここ花山院に幽閉されることになります。

ここで天皇は厳しく監視され、これまで従っていた側近たちは引き離され、接触できるのは女房達だけだったといいます。


e0158128_18055225.jpg
e0158128_18055787.jpg

11月1日、ここで後醍醐天皇と足利尊氏の会見が行われます。

尊氏の要求は、三種の神器の引き渡しでした。

尊氏は8月に持明院統光明天皇(北朝第2代天皇)を即位させており、その正当性を得るためにも、三種の神器が必要だったわけです。


e0158128_18060155.jpg

そこで、尊氏は次の天皇には後醍醐天皇の皇子の成良親王を即位させることを約束します。

この条件を後醍醐天皇は受け入れ、三種の神器を光明天皇に引き渡しました。

しかし、実はこの三種の神器は偽物でした。

天皇は尊氏を信用していなかったんですね。


e0158128_18060531.jpg

12月21日、後醍醐天皇はわずかな供を従えて花山院を抜け出し、かつて大塔宮護良親王が挙兵した吉野へと向かいました。

吉野へと落ちのびた後醍醐天皇は、その地で新たな朝廷を樹立します。

これが吉野朝廷、いわゆる南朝ですね。

これにより、尊氏が立てた光明天皇の朝廷は北朝となります。

かくして南北朝の争乱がはじまったわけです。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-09-16 01:42 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その113 「下長谷の洞窟」 福井県南条郡南越前町

「その110」で紹介した金ヶ崎城跡から敦賀湾沿いに海岸線を25kmほど北上した国道305号線沿いの崖に、「下長谷の洞窟」と呼ばれる小さな洞窟があるのですが、ここは、かつて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・恒良親王が身を隠したという伝承があります。


e0158128_20591538.jpg

延元元年/建武3年(1336年)10月13日より約半年間続いた新田義貞軍と足利方・斯波高経軍の攻防戦は、翌年の3月6日、義貞の息子・新田義顕と後醍醐天皇の皇子・尊良親王の自刃によって幕を閉じますが、尊良親王の弟でまだ13歳だった恒良親王は、金ケ崎城落城の際に気比神宮の神官が保護し、小舟に乗せてこの地に逃れ、洞窟の中にかくまったと伝えられています。


e0158128_20592078.jpg

この洞窟は、長い年月をかけて少しずつ波が岩を削りできた海食洞だそうで、入り口は広く奥は狭くなっています。


e0158128_21023751.jpg

入口の高さは約7m、間口はいちばん広い部分で約5m、奥行きは20mほどしかありません。

こんな浅い洞窟に身を隠しても、すぐに見つかりそうな気も・・・。


e0158128_21034358.jpg

洞窟の最奥部の岩壁には、矢じりで彫った「延元二年・・・・恒良云々」の文字があると言われていますが、今はほとんど判読できないと知り、しかも、奥は子どもでも身を屈めないと進めない狭さで、わたしはこのあたりまで来て引き返しました。


e0158128_21035051.jpg

ところが、帰宅してPCで洞窟のことを調べていると、文字を判読して解明されている方のブログを発見。

    ↓↓↓

下長谷洞窟の文字を解読しよう


今は判読できないなんて嘘じゃないですか!

こんなことなら、わたしももっと深く掘り下げるべきだった・・・と、後悔先に立たず。


e0158128_21035578.jpg

洞窟内部から外を眺めます。


e0158128_21055084.jpg

洞窟外に設置された説明板。


e0158128_21075701.jpg

洞窟の正面は道路を挟んですぐ海で、いまは漁港になっています。


e0158128_21080291.jpg

南西には敦賀湾と、原発のある敦賀半島が望めます。

そして西の海は広い若狭湾


e0158128_21080725.jpg

その後、恒良親王は足利方に捕らえられ、京都に護送されました。

『太平記』では、弟の成良親王らとともに花山院第幽閉され、その後、共に毒殺されたと伝えられ、その墓所も不明です。

また、同じく『太平記』によると、後醍醐天皇は恒良親王に譲位し、新田義貞らと共に北陸に向かわせたとも伝えられます。

これは『太平記』にしか見られない逸話ですが、恒良親王は金ヶ崎城から各地の武将に綸旨(天皇の命令書)を発給しており、自らを天皇と認識していたことは事実のようです。

でも、だったら、なんで年長の尊良親王に譲位せず、年若の恒良親王に譲位したんでしょうね。

結局、後醍醐天皇が吉野朝(南朝)を開いたことにより、恒良親王の皇位は無効となり、歴代天皇には数えられていません。

たぶん、北朝の天皇と同じく、偽の三種の神器を持たされていたんでしょうね。

自身の野望のためなら皇子も謀る。

さすがは後醍醐天皇です。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-08-30 21:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その108 「名和長年殉節之地」 京都市上京区

西陣と呼ばれる京都市上京区の一角に、名和長年終焉の地と伝わる場所があります。

現在、名和児童公園としてブランコなどの遊具がある小さな公園となっていますが、その一角に、大きな石碑が残されています。


e0158128_18560626.jpg

公園の入口には、石の鳥居と「名和長年公遺蹟」と刻まれた大きな石碑、そして「此附近名和長年戦死之地」と刻まれた小さな石碑があります。


e0158128_18581898.jpg
e0158128_18590676.jpg

石碑の裏には「昭和十四年四月建 名和會」とあります。


e0158128_19001504.jpg

公園内には、「昭兮大宮忠節」「赫兮船上義勇」と刻まれた2つの石柱があります。


e0158128_19022052.jpg

そして、これが「贈正三位名和君遺蹟碑」の石碑、昭和10年(1935年)に建てられたものです。


e0158128_19042518.jpg

名和長年は伯耆国海運業を行う豪族で、元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月、配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、上洛後は「建武の新政」において天皇近侍の武士となり、記録所武者所恩賞方雑訴決断所などの役人を務めました。

また、海運業を営んでいた経歴を買われ、京都の左京の市司である東市正にも任じられています。

長年については「その48」から「その57」で詳しく紹介したかと思います。


e0158128_19042952.jpg

天皇の忠臣であった長年は、伯耆守の(キ)をとって、同じく後醍醐天皇に重用された楠木正成(キ)結城親光(キ)千種忠顕(クサ)と合わせて「三木一草」と称されました。

しかし、足利尊氏が政権から離脱して後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成、新田義貞らと共に尊氏と戦い、延元元年/建武3年6月30日の内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死しました。


e0158128_19043466.jpg

討死にした場所については、『太平記』は京都大宮『梅松論』には三条猪熊とされています。

この公園は、『梅松論』に近い場所といえます。

名和長年の戦死を最後に、「三木一草」は全員この世を去りました。


e0158128_19075055.jpg

後醍醐天皇に与えられたという「帆掛け舟の家紋」です。


e0158128_19101138.jpg

こちらの古い石碑には、ちょっと傷んでいますが、「贈從一位名和長年公殉節之所」と刻まれています。


e0158128_19113460.jpg

裏には「明治十九年一月」と刻まれています。


e0158128_19124501.jpg

この2つの石碑で注目すべきは、名和長年は死後500年以上も経った明治19年(1886年)に「正三位」を追贈され、その約半世紀後の昭和10年(1935年)には「従一位」という破格の官位を加増されていることです。

この1年前の昭和9年(1934年)は「建武中興六百年」にあたる年で、日本各地に楠木正成をはじめとする南朝忠臣の石碑が建てられるなどの事業が進められていました。

ちょうどこの頃、明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」における「南朝正統論」が国策として進められていた時期で、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、南朝の正統性を国民に浸透させようとしていた真っ只中でした。

それがやがて「七生報国」などのスローガンを生んで政治利用され、日中戦争、太平洋戦争の戦火になだれ込んでいくことになるんですね。

いまでは世間一般にあまり名を知られなくなった名和長年。

この2つの石碑は、単に長年がこの地で死んだということだけじゃなく、この明治の石碑から昭和の石碑に至るまでの時代背景に、どういう政治的意図があったかを知ってから見るべき碑かもしれません。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-08-19 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その102 「観心寺」 大阪府河内長野市

大阪府河内長野市にある観心寺を訪れました。

ここは、観心寺は楠木正成一族の菩提寺で、正成の少年時代の学問所だったという伝承もあります。


e0158128_14143519.jpg

山門横では、正成の騎馬像が迎えてくれます。

神戸の湊川公園の騎馬像よりは小振りなものです。


e0158128_14151526.jpg

逆光の撮影なのでわかりにくいですが、精悍な顔をしています。


e0158128_14163545.jpg

観心寺の寺伝によると、大宝元年(702年) に役小角によって開かれ、当初は雲心寺と称したとされますが、天長4年(827年)に空海がこの地を訪れ、「観心寺」の寺号を与え、その一番弟子の実恵が実質的な開祖となった寺院です。


e0158128_14181309.jpg

国宝の金堂です。

14世紀に入ると、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は当寺を厚く信任し、建武の新政成立後(1334年ごろ)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営のを出し、 現在の金堂ができたそうです。


e0158128_14193776.jpg

金堂は「折衷様建築」の代表作といわれているそうです。

寺院建築には、鎌倉以前から寺院建築として用いられた地震に強い「和様」、鎌倉時代初期にに東大寺再建にあたって採用された大形建築に対応できる「大仏様」、同じく鎌倉時代初期に禅宗と共に日本に伝わった「禅宗様」があるそうですが、「折衷様」は、その良いとこ取りをした建築様式のことをいうそうです。

かつては折衷様のことを「観心寺様」とも呼んだほど、この金堂が折衷様を代表する建物なんだそうです。


e0158128_14202564.jpg

金堂は大阪府下最古の国宝建築物といわれているそうで、これまで、17世紀はじめの豊臣秀頼の時代、江戸時代中期、明治の初め、昭和の初めに修理が行われ、昭和59年(1984年)に昭和大修理が行われ、現在に至っています。


e0158128_14224714.jpg

こちらは、重要文化祭の建掛塔です。

正成は報恩のため三重塔の建立に着工したと伝わりますが、延元元年/建武3年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」で正成が戦死したため工事はストップし、“建掛(たてかけ)”の塔として今に残ってと伝わります。


e0158128_14242175.jpg

のちに屋根の小屋組みと茅葺の屋根が架けられたそうです。

たしかに、これ単体のお堂と見るには、やけに屋根が大きくてアンバランスな気がしないでもないです。

でも、正成が死んでも、その子供たちが遺志を継いで完成させることはできたはずなんですけどね。

境内には、楠木正成の首塚と伝えられる場所がありるのですが、続きは次稿にて。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-08-10 21:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その63 「二条富小路内裏址」 京都市中央区

京に戻った後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、翌年の建武元年(1334年)1月より「建武の新政」を開始します。

その政令が発せられたのが、京都御所の少し南にある「二条富小路内裏址」です。

現在は御所南小学校第二運動場前に、石碑のみが建てられています。


e0158128_19045255.jpg

「建武の新政」「建武の中興」とも呼ばれ、武家政権から朝廷に政権を移し、関白摂政院政も排除し、天皇自らが政治を行うというもの。

「大化の改新」「明治維新」とともに、天皇親政における日本史上の三大革命のひとつとされます。

後醍醐天皇の掲げた「建武の新政」のテーゼは、「延喜・天暦の治にかえる」いうもの。

延喜・天暦の治とは、延喜が醍醐天皇(第60代天皇)時代、天暦は村上天皇(第62代天皇)時代の元号で、この時代は摂政・関白を置かず、天皇自らが政治を行い、文化も繁栄して後世に「理想の聖代」と言われていました。

だから、南朝の天皇は“後”醍醐天皇、“後”村上天皇だったわけですね。

後醍醐天皇は、その「理想の聖代」を復活させようとしていたわけです。


e0158128_19045681.jpg

しかし、前例を無視した後醍醐天皇の独裁は、権力を奪われた貴族の不満を買い、皇居造営などによる重税農民たちの不満はつのり、倒幕に尽力した武士たちも満足いく恩賞を得られず、天皇に失望します。

やがて、鎌倉幕府に変わる新しい武家政権を望む声が広がり始めます。

『太平記』巻12は、次のように嘆きます。

「世の盛衰、時の転変、嘆くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如くにて公家一統の天下ならば、諸国の地頭、御家人は皆奴婢雑人の如くにてあるべし。哀はれ、いかなる不思儀も出で来て、武家四海の権を執る世の中にまたなれかしと、思はぬ人のみ多かりけり」


結局、「建武の新政」は約2年しか続きませんでした。

天皇の政治が稚拙だったのか、しかし、急激な改革というのは抵抗勢力を生むもの。

明治維新でも、約10年に渡って内乱が続きましたからね。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-06-03 22:03 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その62 「澤の井」 神戸市東灘区

神戸市東灘区の阪神電鉄御影駅側の高架下に、「澤の井」と呼ばれる池があります。


e0158128_18375144.jpg

説明板によると、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に対して、この泉の水で美酒を醸しこれを献上したところ、天皇深くご嘉納あらせられたため、これを無上の栄誉とし、嘉納をもって氏族の名としたと伝えられているそうです。


e0158128_18400360.jpg

説明板には「後醍醐天皇御時」とだけあって、具体的な年号が記されていませんでしたが、もし、この話が実話だとすると、配流先の隠岐島へ向かう途上か、あるいは隠岐島を脱出して京に還幸の途中のことだろうと想像し、このシリーズの仲間に入れました。

ちなみにこの伝承にある氏族・嘉納氏の末裔が、のちに嘉納財閥となり、現在、灘五郷の本家・本嘉納家は菊正宗酒造、分家・白嘉納家は白鶴酒造の経営者です。

ちなみにちなみに、その嘉納家からは、伝説の柔道家・嘉納治五郎が生まれています。

『太平記』とはぜんぜん関係ない話ですね。


e0158128_18415891.jpg

ここ神戸市東灘区の御影地区は、花崗岩の別名「御影石」の語源となった場所として知られますが、『日本書紀』によると、神功皇后「三韓征伐」よりの帰途の折、本住吉大神を参拝する際、この地の泉(澤の井)で化粧しようとして御姿を写されたことで、当地を「御影」と呼ぶようになったといいます。


e0158128_18420135.jpg

この泉は、今もなお絶えることなく水が湧き出ています。

泉の水は透き通っていて、が泳いでいます。

この水が、灘の銘酒の源になっているんですね。

太古の昔からの贈り物です。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-06-02 20:16 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その61 「薬仙寺(後醍醐天皇御薬水)」 神戸市兵庫区

同じく神戸市兵庫区にある薬仙寺を訪れました。

ここには「後醍醐天皇薬水」という名の井戸跡があります。


e0158128_16302368.jpg

現地説明板によると、元弘の乱によって隠岐島に流されていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、正慶2年(1333年)に島を脱出して還幸の途中、前稿で紹介した兵庫の福厳寺病床に伏したそうです。


e0158128_16323125.jpg

その際、当時の住職がここの霊水を薬水として献上したところ、たちまちにして快癒したことから、「薬仙寺」の号を賜ったといいます。


e0158128_16334803.jpg

井戸脇にある「薬師出現古跡涌水」の碑です。


e0158128_16352066.jpg

こちらの石碑はかなり古そう。


e0158128_18312875.jpg

説明板です。


e0158128_18321242.jpg

まあ、この種の伝承というのは、全国各地で数限りなくある話で、にわかに信じられる話ではありませんが、後醍醐天皇が兵庫津を通ったことは史実ですから、何らかの関わりはあったのかもしれませんね。


e0158128_18341231.jpg

また、太平記とは関係ないですが、ここ薬仙寺の場所には、平清盛後白河法皇を幽閉した「萱の御所」があったとされ、その石碑が建てられています。


e0158128_18341536.jpg

後醍醐天皇といい後白河法皇といい、帝が政治介入すると、歴史は乱れるんですよね。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-05-31 23:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)