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太平記を歩く。 その20 「奉建塔」 大阪府南河内郡千早赤阪村

「楠公生誕地」碑から南へ徒歩3分ほどのところに、楠公没後600年祭記念として昭和15年(1940年)に建てられた「奉建塔」があると聞き、訪れてみました。


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丘の上の森の上に、白い雲に突き出るように塔の頭がのぞいているのがわかるでしょうか?


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青空が美しいですね。


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ここは、1~2月には約5万本のニホンスイセンが咲く「スイセンの丘」になるそうで、春には、桜の名所としても知られているそうですが、わたしが訪れたこの日は初夏の7月3日。

かろうじてアジサイが綺麗でした。


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で、丘の上に建つ「奉建塔」です。

ど、ドでかい!!


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奉建塔は徳島県の画家で楠公崇拝者であった森下白石という人が発起人となり、全国の小、中、青年学校の児童生徒、教師などから、当時の金で10余万円の寄附を集めて建設したそうです。

塔の高さは43尺(約13m)あり、これは、楠木正成戦死した年齢に因んでいるそうです。

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塔柱および基礎は鉄筋コンクリートで、その表面には花崗石を積み、その重さは最大1300貫(4876kg)あり、当時の技術では相当の難工事だったようです。

工事着手は昭和11年(1936年)1月、竣工は昭和15年(1940年)5月15日でした。


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上部の「菊水」は楠木家の家紋。

その下に刻まれた「非理法権天」の文字は、「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


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塔の下段には、頼山陽『日本外史』による楠公をたたえる句(漢文)が刻まれています。


「大楠公於笠置奉答後醍醐天皇之辞」(大楠公笠置に於いて後醍醐天皇に奉答するの辞)


時代は折しも第二次世界大戦に向けて緊張しはじめていた時期、皇国の忠臣として崇め奉られていた楠木正成の没後600年祭は、国民の精神高揚のために大いに政治利用されたであろうことは想像に難しくありません。

この塔が教育者たちの寄付でできたという事実も、当時の教育機関の事情を知ることができます。

戦後、日教組が頑なに左翼的思想に傾倒していくのも、こういった歴史があったからなんですね。

この「奉建塔」は、楠公関連史跡というより、昭和の皇国史観の史跡といえるでしょうか。


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「奉建塔」の建つ丘の上から南を望みます。

青空と緑が美しいですね。

左に見える山が、山頂に上赤坂城跡のある山です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-01 19:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その17 「金剛山(國見城跡)・後編」 大阪府南河内郡千早赤阪村・奈良県御所市

金剛山後編です。

葛木神社境内の西側の参道に、「宝剣塔」という名称の宝篋印塔があります。


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これは、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)とその第2皇子・大塔宮護良親王追善供養のために建てられたもので、足利時代のものだそうです。


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足利の誰の時代でしょうね?


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後醍醐天皇も大塔宮も、最期は足利尊氏と敵対する立場で死んでいきますから、政敵からの追善供養ということですね。

まあ、尊氏はほかにも京の嵐山に、後醍醐天皇の菩提を弔う天龍寺を建立していますから、この宝篋印塔も、尊氏が建てたものかもしれませんね。

天皇の敵となった自責の念があったのでしょう。


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そして、葛木神社の西側にある転法輪寺です。

真言宗醍醐派大本山である金剛山転法輪寺は、今から約1300年前、山岳での修験道の開祖とされる役小角が建立したといわれ、奈良時代より明治維新に至るまで修験道七高山のひとつに数えられ、全国にその名が轟いていたと言われます。

あの行基、鑑真、最澄も来山し、聖宝も修行したと記録されているそうです。


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本堂です。


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境内には、豊臣秀吉がこの地を訪れたときに掘ったと伝わる瓢箪形の池「ひさご池」があります。


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で、転法輪寺の西側、山頂尾根伝いの最西端にある削平地に、「金剛山國見城址」と書かれた看板があります。


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ここは見晴らしがよく、登山客の憩いのスポットとなっています。


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大阪府が一望できます。

この日は霞がかっていたので遠くまで見えませんでしたが、空気の澄んだ日は、大阪湾を経て遠く神戸の六甲山系から淡路島まで見渡せるそうです。

たしかに、わが町神戸からも空気が澄んだ日は、金剛山が見えます。

直線距離で言うと60km以上離れているんですけどね。


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ここからも、某教団の平和の塔が見えます。


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その伝承によると、元弘2年(1332年)12月に再挙兵した楠木正成は、自身は上赤坂城に入り、金剛山の正面に國見城を設け、まだ少年だった息子の楠木正行とその傅役の湯浅孫六を配置し、転法輪寺の僧兵との連携をとらせたといいます。

城といっても、たぶん突貫の砦のようなものだったのでしょうね。


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その後、正成は千早城に移り、寡兵で大軍を寄せ付けなかったのですが、その理由のひとつに、背後の金剛山の僧兵の援助が大きかったといいます。


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城址公園の一段下にも、削平地があります。

二ノ丸跡?・・・即席で作った城にそんなもんないかな?


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余談ですが、太平洋戦争時に活躍した戦艦「金剛」は、ここ金剛山に因んでいます。

「大和」「武蔵」「長門」「陸奥」など、当時の戦艦の名称は旧国名が多かったと思いますが、「金剛」という山の名がつけられたのはなんででしょうね?

当時、楠木正成が忠臣の象徴的存在だったこともあり、大軍相手に落ちなかった城に因んで付けられたのでしょうか?

でも、沈没しちゃいましたけどね。

現在は、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」に、その名は引き継がれています。


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この日の山頂は気温17度。

快適な秋のハイキングでした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-23 01:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その12 「院庄館跡(作楽神社)」 岡山県津山市

岡山県津山市にある作楽神社にやってきました。

ここは、かつて美作国守護の館「院庄館」があった地で、元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が宿泊したと伝わる場所です。


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ここを訪れたのは11月6日、木々が色づくいい季節だったのですが、残念ながら天気はあいにくの曇り空で、見てのとおり暗い写真ばかりです。


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前稿、前々稿で紹介した船坂峠、杉坂峠天皇奪回を計画して失敗した児島高徳が、それでもあきらめきれず、ここ院庄館まで追ってきたといわれます。


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鳥居横に設置された後醍醐天皇御製の碑です。


あはれとは なれも見るらむ わが民を 思ふこころは 今もかはらず

よそにのみ 思ひぞやりし 思ひきや 民のかまどを かくて見むとは


後醍醐天皇がここ美作国で詠んだとされる歌二首

一首目は国民に対する仁愛、二首目は庶民の生活を見たときの心をうたったものだそうです。


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敷地内には、児島高徳のがあります。


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杉坂峠を後にして単身この地に乗り込んだ高徳は、夜になって院庄の天皇行在所に侵入するも、これまでとは段違いの厳重な警護になすすべもなく、天皇奪還を断念せざるを得ませんでした。


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そのとき、そばにあった桜の木「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れたといいます。

よして翌年、その言葉どおりになるんですね。


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像の土台には、その漢詩が刻まれています。


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こちらは、東大門跡にある十字の詩跡の碑です。

ここに、高徳が漢詩を刻んだ桜の木があったと伝えられます。


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江戸時代になって、津山藩家老・長尾勝明が高徳の忠義心を讃え、貞享5年(1688年)に建てた碑だそうです。


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その説明書き。


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こちらは、戦前に教科書に載っていたという高徳の忠義を称えた文部省唱歌の碑


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こちらは、昭和9年(1934年)に建てられた建武の中興600年記念碑


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そして、こちらは昭和59年(1984年)に建てられた建武の中興650年記念碑です。


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こちらは、敷地内に建つ噫忠義桜十字詞之碑塔

戦艦大和の建造者である海軍技術中将・庭田尚三を会長とする忠桜会が、昭和46年(1971年)に建設したもので、表面に「天莫空勾践時非無氾范蠡」と、後醍醐天皇御製二首および斉藤監物七言律詩「題児島高徳書桜樹図」を、裏面に道家大門の和歌二首を記してあります。


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作楽神社拝殿です。

ここは明治2年(1869年)に創建された神社で、後醍醐天皇を正祀に児島高徳を配祀しているとのことです。


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とにかく、右を向いても左を向いても後醍醐天皇と児島高徳を称えるものばかりです。

明治政府としては、天皇崇拝を国民に浸透させるためにも、こういった場所が必要だったのでしょうね。


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児島高徳は元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えました。

そして時代は下って江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄となります。

しかし、実は高徳の活躍が記された史料は『太平記』以外にはないそうで、現在ではその実在性にも疑問符がつく人物となっています。


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実在したかどうかはわかりませんが、第二次世界大戦後になると高徳の知名度がどんどん低下していったことを思えば、楠木正成同様、皇国史観における忠臣の象徴として利用された英雄だったということは間違いありません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-11 00:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その11 「杉坂峠関所跡」 兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の境

兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の県境にある杉坂峠を訪れました。

ここは、旧令制国における播磨国美作国国境にあった関所跡です。


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元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳奪回すべく立ち上がり、前稿で紹介した船坂峠待ち伏せますが、天皇護送団一行の移動ルートを見誤り、計画は失敗に終わります。

その後、天皇一行を追ってきたのが、ここ杉坂峠だったと伝わります。

しかし、高徳がここに着いたときには、すでに天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近まで達していて、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまったといいます。

つまり、ここ杉坂峠は高徳無念の地というわけですね。


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峠付近にある説明板です。

記載されている文章は、『太平記』巻四の「備後三郎高徳が事」のくだりと、巻六の「赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜はる事」のくだりです。


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看板の横の苔生した坂を上ります。


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この道が、旧峠越えの道のようですね。


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しばらく登ると、「杉坂の関の跡」と書かれた看板と、大きな石碑が建てられた広場にでます。


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『太平記』巻六によると、元弘3年(1333年)、大塔宮護良親王の呼びかけに応じて討幕の兵を挙げた赤松則村(円心)は、ここから8kmほど南にある苔縄山の山頂にを築き、ここ杉坂に関所を構えたとあります。


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石碑は、昭和2年(1927年)に建てられたものだそうです。


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石碑の裏面です。


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石碑の横にある歌碑です。

昭和12年(1937年)に建てられたもののようですが、説明書きがないので、誰の歌なのかわかりません。


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現在の杉坂峠は、中国自動車道と並走する県道365号線上にあるのですが、かつては播磨国と美作国を結ぶ交通の要衝だったこの峠も、現在はこの少し南に国道179号線が通っているためか、あまり利用する車はないようです。

この日も、わたしがここにいた20分くらいの時間、1台も車が通りませんでした。

道路の真ん中に立ってこんな写真も撮れちゃいます。


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奪回作戦
に失敗した高徳の軍勢は、落胆して散り散りになりますが、それでも、高徳は諦めきれず、単身、院庄の天皇行在所に向かいます。

次稿は、その院庄館跡に向かいます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-09 22:00 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その10 「船坂峠」 兵庫県赤穂郡上郡町梨ヶ原と岡山県備前市三石の境

前稿の「善通寺」は、現在の住所でいえば兵庫県の東端ですが、今度はそこから100km以上西に行った兵庫県の西端、兵庫県と岡山県の県境にある「船坂峠」にやってきました。

ここは、元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐に配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳が奪回すべく決起した場所と伝わります。


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現在、船坂峠は国道2号線にあり、峠の頂上はトンネルとなっています。

そのため、かつての船坂峠があった西国街道は、現在は歩行者・自転車専用道路となっています。


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車を空き地に停めて、旧道を歩きます。


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道は苔生していますが、ちゃんと舗装されていました。

トンネルが開通したのは昭和30年(1955年)といいますから、60年前まではここが国道でした。


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峠の頂上が見えてきました。


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頂上には、県境を示す石柱が設置されています。

道路側に面して「縣界」と刻まれ、西面には「兵庫縣赤穂郡船坂村」と、そして東面には「岡山縣和氣郡三石町」と刻まれています。

西から歩いてきたわたしは、ここを超えると岡山県に入ります。


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峠の頂上から西へ2、3分歩いたところ(即ち岡山県)に、「船坂山義挙の碑について」と記された石碑がありました。


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その北側の山道を登っていくと・・・。


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「船坂山義挙之城趾」と刻まれたバカでかい石碑がありました。

揮毫は平沼騏一郎男爵とあります。


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後醍醐天皇の奪回を企てた児島高徳は、一族郎党200余騎でこの地に潜みますが、天皇護送団一行の移動ルートを見誤り、計画は失敗に終わります。

その後、高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂峠まで追いますが、既に天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近まで達していて、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまったといいます。


次稿では、その杉坂峠を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-08 16:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その8 「布引の滝」 神戸市中央区

神戸市中央区にある「布引の滝」を訪れました。

ここは元弘元年(1331年)に隠岐島に配流となった後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、その道中に立ち寄ったとされます。

場所は、JR新幹線の新神戸駅の北側の山中にあります。


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布引の滝は、日光の華厳の滝、那智勝浦の那智の滝と並んで、日本三大神滝のひとつに数えられていますが、他のふたつの滝と違って、現在は人工的に水量をコントロールされています。


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布引の滝は雄滝(おんたき)・雌滝(めんたき)・夫婦滝(めおとだき)・鼓ヶ滝(つつみがだき)の4つの滝の総称で、生田川の布引渓流にあります。

南からハイキングコースを登っていくと、最初に目にするのは「雌滝」です。


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一番下流にある約19mの雌滝は、その名のとおり細くしなやかに流れる女性的な印象です。


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たしかに、その名のとおり白い布を引いているように見えます。


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続いて渓谷沿いに登っていくと、「鼓ヶ滝」という石碑があるのですが、滝が見えません。


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実は、鼓ヶ滝を見られるのは、覆っている木々の葉が枯れる冬だけだそうです。

ここを訪れたのは5月14日。

滝の姿は見えず、かろうじて滝壺が覗けるのと、あとは音を聞くだけです。

「鼓ヶ滝」という名称の由来は、その滝音が鼓のような響きだからだそうです。


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そして、いちばん上流にあるのが「雄滝」、その下にあるのが「夫婦滝」す。


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「雄滝」は高さ43m、滝壺は面積430㎡、深さ6.6mあります。

下流の「雌滝」とは対照的に、5段に折れながらダイナミックに落下する迫力の名瀑です。


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滝の横には5箇所の甌穴があり、竜宮城に続いているという伝説もあるのだとか。


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マイナスイオンが出まくりです。


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「雄滝」の滝壺から更に下の段に落ちる高さ9mの滝が、「夫婦滝」です。

2本に分かれた滝がひとつになっている様子が、まるで夫婦のようだということから、「夫婦滝」と呼ばれるようになったのだとか。


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山道を登っていくと、滝を横から見下ろすこともできます。


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ここ「布引の滝」の景観は、古くは平安時代の歌集『伊勢物語』『栄花物語』など、多くの和歌紀行文、詩歌などに登場する場所で、古来、景勝地として知られています。

5つの滝の散策道には、各所に平安時代から江戸時代にかけて詠まれた布引の滝の名歌の碑「布引三十六歌碑」が建てられています。

後醍醐天皇のものはありませんでしたが。


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「松の音琴に調ふる山風は 滝の糸をやすけて弾くらむ」 紀貫之


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「布引のたきのしらいとうちはへ てたれ山かせにかけてほすらむ」 後鳥羽院


当時としても全国的に知られた景勝地だった布引の滝。

島流しの道中に観光するなんて、さすがは後醍醐天皇、肝が据わっていますね。

この水しぶきを見ながら、きっと再起を誓っていたのでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-02 20:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その7 「雀の松原」 神戸市東灘区

元弘元年(1331年)の笠置山の戦いに敗れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、翌年、隠岐島に配流となります。

その道中、後醍醐天皇は現在の神戸を通過するのですが、そのとき、ここ「雀の松原」を通ったと伝えられます。


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現在は住宅街のなかにある小さな公園に石碑のみが建てられていますが、かつてこのあたりは海岸線で、松林があったそうです。


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『太平記』より更に古い『源平盛衰記』『平家物語』にもその名称は見られ、後醍醐天皇のことが書かれた『増鏡』では、「(後醍醐天皇は)雀の松原、布引の滝など御覧じやらるるも、……生田の里をば訪はで過ぎさせ給ぬめり。湊川の宿に著かせ給へる」とあり、後醍醐天皇がここ雀の松原や布引の滝を見ながら隠岐へと流されていったことがわかります。


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碑文

「竹ならぬかげも雀のやどりとは、いつなりにけん松原の跡」


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側面には「中納言公尹卿」とあります。

鎌倉時代の公卿、洞院公尹のことです。


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右側の小石碑表面には

「雀松原遺址、杖とめて千代の古塚とへよかし是や昔の雀松原 平安山田寿房」

とあります。

調べてみましたが、山田寿房という人のことはよくわかりません。


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この石碑は阪神電鉄開通工事の際、軌道敷内にあって取り壊された真の旧蹟を惜しんで、地主が所有地を地盛りして若松を植え、移設したものだそうです。


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また、これより20年後の正平6年(1351年)に、足利尊氏足利直義兄弟が互いに戦った場所でもあります。(観応の擾乱)

打出の鷲林寺に陣を置く直義に対し、尊氏はこれを討つべく2万の軍勢を進めますが、兵が多すぎて逆に身動きが取れないと察知した尊氏の部下・薬師寺次郎左衛門公義が自らの手勢をここ雀の松原に待機させた場面が『太平記』に描かれており、そこには「一族の手勢二百余騎、雀ノ松原の木陰にひかえて」とあります。

結局、この打出・御影浜の戦いでは、大軍で統制がとれなかった尊氏方は敗れ、総崩れとなって西へ敗走します。


さて、次稿では、同じく後醍醐天皇が通ったという「布引の滝」を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-02-01 17:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その6 「大塔村」 奈良県五條市大塔町

後醍醐天皇(第96代天皇)が笠置山にて兵をあげると、その第2皇子・大塔宮護良親王も参向して父を助けます。

しかし、笠置山が落ちて父・後醍醐天皇が捕らえられると、大塔宮護良親王は幕府軍の追捕を逃れ、吉野、十津川、熊野などを転々とします。

その親王の名前が地名になった場所が、奈良県五條市の山奥にあります。


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和歌山県との県境に位置するこの地は、かつては奈良県吉野郡大塔村とされていましたが、現在は五條市に編入合併されています。

大塔村は「おおとうむら」と読みますが、大塔宮親王は「おおとうみや」とも「だいとうみや」とも読まれます。


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後醍醐天皇がまだ天皇になる前に生まれた大塔宮護良親王は、幼少期に比叡山に入り、20歳より同寺天台座主を務め、法名を尊雲と号しました。

この間、親王は比叡山の大塔周辺に門室を置いたことから、世に大塔宮と称されていました。

元弘元年(1331年)9月に後醍醐天皇が挙兵すると、還俗して参戦します。


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「道の駅・大塔」にある大塔村郷土館前には、大塔宮護良親王の騎馬像があります。


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逆光で顔が見難いですが、なかなか凛々しい姿です。


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アップです。


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後姿です。


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幕府の追捕を逃れた大塔宮護良親王は、熊野に落ち延びる途中にこの地に潜伏し、この地の豪族・竹原八朗、戸野兵衛の助けを得て全国各地に討幕の呼びかけを発し、機を窺っていました。

その縁で、この地は「大塔村」と呼ばれるようになったのだとか。

以後、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2にわたり幕府軍と戦い続けます。


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騎馬像の横には、「維新胎動の地」と刻まれた石柱が建てられています。

「胎動」とはいうまでもなく、生まれる前の胎児の動き。

このすぐ近くには、大塔宮護良親王の時代から500年以上あとの幕末騒乱期に立ち上がった吉村寅太郎ら反幕府勢力「天誅組」旗揚げの本陣跡があります。

彼らの挙兵は、あえなく幕府軍の追捕に散りますが、その後の討幕運動の起爆剤になりました。


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大塔宮護良親王の令旨も、天誅組の旗揚げも、この地から発せられた。

まさに、「維新胎動の地」だったわけですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-27 18:23 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その5 「鷲峰山金胎寺」 京都府相楽郡和束町

笠置山から10kmほど北にある鷲峯山山頂に金胎寺という寺院があります。

ここも、笠置寺と同じく山内に奇岩怪石が多く、古くから山岳修行の地とされてきたと伝わりますが、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が笠置山に落ち延びる途中、ここに立ち寄ったと伝えられます。


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『太平記』によると、元弘元年(1331年)8月24日の夜、三種の神器を携えて京の御所を脱出した後醍醐天皇は、四条隆資ら側近とともに奈良の東大寺に入りますが、東大寺内には幕府方の僧も多くいて歓迎されず、やむなく僧の聖尋の導きで26日にここ甲賀境の和束の里にある鷲峰山金胎寺に入ります。


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しかし、あまりにも山奥過ぎて、食糧の補給を不安視し、翌27日に笠置山に移動したと伝えられます。

かなりのドタバタ行幸だったようですね。

吉川英治の小説『私本太平記』の中で吉川氏は、この行幸について、「あわただしさのほど言いようもない。」と述べています。


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鷲峯山は山頂近くまで車で登れるのですが、かなり狭くて曲がりくねった道を5km以上走ります。

駐車場はないので路肩に車を停めて、10分ほど登山すると山門が見えてきます。

山門を潜って入山料を払うと、約2時間の行者めぐりができます。

につかまって岩場を降りたり、崖っぷちを歩いたり、なかなかハードな体験ができるようですが、高所恐怖症のわたしはパス。


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境内を目指して更に山を登ります。


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5分ほど登ると平地があり、本堂多宝塔があります。


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多宝塔は伏見天皇(第92代天皇)の勅願で、重要文化財に指定されています。

後醍醐天皇が見たであろう多宝塔は、まだ建てられて30年余りだったはずで、もっと色鮮やかだったのでしょうね。


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本堂は江戸時代のものだそうです。


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こちらも江戸時代に建てられた行者堂です。

その前の囲いの中で、おそらく護摩が焚かれるのでしょう。


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説明板です。


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さらに山頂にのぼると、西安2年(1300年)の銘が刻まれた宝篋印塔があります。

これも、後醍醐天皇がこの地にきたときには既にあったもので、国の重要文化財に指定されています。


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その説明板です。


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ここから琵琶湖比叡山が一望できるそうですが、木が覆い茂ってよくわかりません

とにかく話に聞いていたとおりの山奥で、こんなところまで、ほんとうに東大寺から1日で来られたのか疑問です。

今ですら曲がりくねった山道ですから、当時の山道を、天皇を乗せた輿が通れたとはとても思えません。

おそらく人の背をかりたか、あるいは自らの足で歩いての登山だったではないでしょうか。


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最後におまけ。

鷲峯山の山頂を目指して狭い道を車で走行中、一瞬、視界が開ける場所があるのですが、そこで見た光景がこれ。


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有名な和束の茶畑です。

なんと美しい光景でしょう。

それまでの道のりが険しかっただけに、得も言えぬ感動でした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-26 15:08 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その3 「笠置山・後編」 京都府相楽郡笠置町

前編中編の続きです。

頂上近くまで登った東側に、「ゆるぎ石」と名付けられた石があります。


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この場所は、元弘元年(1331年)9月に起きた「元弘の乱」における笠置山の戦いにおいて、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が鎌倉幕府軍から奇襲を受けた場所だそうで、この「ゆるぎ石」は、奇襲に備えるための武器としてここに運ばれて来た石で、ここから石を落とす手筈だったようです。


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ところが、奇襲が雨の降る深夜だったので敵の進軍に気付かず、「ゆるぎ石」も結局使われることなく、いまだにここに置かれたままなんだそうです。


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ちなみに、説明版によると「ゆるぎ石」はその重心が中央にあり、人の力でも動くため「ゆるぎ石」と云われていると書かれていましたが、試しに押してみましたが、微動だにしませんでした。


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その「ゆるぎ石」の場所から見た北東の眺望です。

下に流れるのは木津川です。


ここで、なぜ後醍醐天皇がここ笠置山を拠点としたかについて触れておきます。

笠置山は六波羅のある京都から伊賀、伊勢に抜ける伊賀街道の中心にあり、南は柳生から吉野へ抜ける交通の要衝に位置しています。

また、笠置山は標高288メートルの急峻な小山で、北方には木津川、西側には打滝川が流れ、さらに、もとより修行道場としての笠置寺防御壁で守られていたため、大軍を寡兵で迎え撃つにはまさに絶好のポイントだったわけです。


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さらに山頂目指して登ります。


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雲が近い!!


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『太平記』によると、

「そもそも笠置の城と申すは、山高くして一片の白雲峯を埋め、谷深くして萬丈の岩道をさへぎる。つづら折りなる道をあがること十八町、岩を切つて堀とし、石をたたんで塀とせり。たとへ防ぎ戰ふ者なくとも、たやすくのぼるべきやうなし。」

とあります。

文中、「笠置の城」とありますが、『太平記』では、ここを「城」と考えていたようです。


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その笠置城二の丸跡です。


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といっても、ここ笠置山は後醍醐天皇の仮皇居として使用されただけで、築城されたわけではありません。

しかし、室町時代以降に山頂の行在所の跡を本丸とみたてたので、そこから一段下の広場を「二の丸跡」と呼ぶようになったそうです。


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こちらは西側にある「貝吹き岩」

説明板によると、勤皇軍の士気を高めるために、この岩上よりさかんに法螺貝を吹いたともいわれているそうです。


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「貝吹き岩」からのぞむ北西の空。


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そして、目的の「後醍醐天皇行在所跡」にやってきました。


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『太平記』によると、笠置山を包囲した北条幕府軍7万5千に対して、迎え討つ天皇方2千5百余りだったといいます。

この数字は多少盛ってるでしょうが、大軍を寡兵で迎え討ったことは間違いないでしょう。

この兵力差にもかかわらず天皇方は善戦し、約1か月間持ちこたえますが、暴風雨となった9月28日(10月30日)の夜、幕府軍の奇襲を受けて天皇方は総崩れとなります。

幕府側の陶山義高らによって火をかけられた笠置寺は、大磨崖仏をはじめ山内49ヶ寺すべてが焼失、後醍醐天皇は逃亡しますが、数日内にとらえられます。


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階段を上ると、行在所跡正面は玉垣が張り巡らされ、なかは樹木が鬱蒼と茂っています。


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しかし、柵は正面だけにしかなく、脇からなかへ入れます。

結構な広さです。


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行在所跡の片隅には、自然石に埋め込まれた後醍醐天皇の歌碑があります。


後醍醐天皇御製

うかりける 身を秋風に さそわれて おもわぬ山の 紅葉をぞ見る


つらいことになり、秋風に誘われるままたどり着いたこの山で、思いもよらぬ美しい紅葉を見ることになろうとは・・・といったところでしょうか?


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捕らえられた後醍醐天皇は神器を光厳天皇に譲渡し、翌年の元弘2年(1332年)春、隠岐島へ流されます。

「建武の新政」成立は、そのさらに翌年のことでした。


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最後に、下山して木津川の畔から笠置山を撮影。

約700年前に戦場となった場所とは思えない、のどかな風景です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-01-20 22:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)