タグ:後醍醐天皇 ( 26 ) タグの人気記事

 

太平記を歩く。 その49 「船上山行宮跡(後編)」 鳥取県東伯郡琴浦町

前稿の続きです。

標高616.5m地点に建つ「船上山行宮之碑」の丘をあとにし、「後醍醐天皇行宮跡」への誘導案内板に従ってさらに尾根道を奥に進みます。


e0158128_18183781.jpg

船上山は、平安時代の初期ごろ(約1,200年前)から山岳仏教が栄え、大山、美徳(三徳)山とともに伯耆三嶺とよばれた修験道の零場だったといいます。

後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)と名和長年らがこの地で挙兵した頃、この山には金石寺という寺院があったと伝わります。


e0158128_18191733.jpg

しばらく進むと、石段石垣の遺構があります。

おそらくこれは、その金石寺の後身・智積寺のものと思われます。

智積寺とは、室町時代後期の享禄3年(1530年)に創建された寺院です。


e0158128_18223650.jpg

山道の左右には、「寺坊跡」とみられる削平地が何箇所もあります。

当時の智積寺の繁栄ぶりがうかがえますね。


e0158128_18223930.jpg
e0158128_18224257.jpg

この「寺坊跡」は、かなりの面積です。


e0158128_18233432.jpg

道中、「船上山古石塔群」と記された案内板がありました。

それに従って進んでみると、古い五輪塔宝篋印塔が100基以上、苔むした状態で乱立していました。


e0158128_18263283.jpg

形から察するに、鎌倉時代末期から室町時代中期のものかと思われます。


e0158128_18263667.jpg

その時代、立地から考えて、おそらく寺院関係の墓域かと思われますが、あるいは、後醍醐天皇らが挙兵した「船上山の戦い」での戦死者の墓だったりするかもしれません。


e0158128_18264014.jpg

それにしても、保存状態がよろしくなく、荒れ放題です。

数少ない中世墳墓の貴重な遺跡といえます。

船上山は国の史跡にも指定されているわけですから、なんとか維持管理できないものでしょうか?


e0158128_18274886.jpg

山頂の船上神社が見え始めた少し手前に、「文保二年銘台石」と名付けられた石塔の台石があります。

その説明板によると、後醍醐天皇が即位した文保二年(1318年)の年号が刻まれているそうで、鎌倉時代の僧・良賢によって建てられたものだそうです。

後醍醐天皇がこの地に籠もったのが元弘3年/正慶2年(1333年)ですから、その当時、すでにこの石塔があったということですね。


e0158128_18305704.jpg

そして、標高687m付近にある船上神社です。


e0158128_18310191.jpg

船上神社は、かつては船上山三所権現といい、寺僧が奉仕していたそうですが、明治11年(1876)の神仏判然令によって本尊等を山下の法蔵院に戻し、奥ノ院のご神体を権現社に移して、船上神社としたそうです。


e0158128_18310538.jpg

拝殿です。

戦後、正道館の講堂を移築したものだそうです。


e0158128_18311058.jpg

本殿です。

昭和9年(1934年)に船上山史跡保存会によって再建されたものだそうです。


e0158128_18325004.jpg

そして本殿から200mほど西に進むと、奥の院があります。


e0158128_18325342.jpg

奥の院には、後醍醐天皇が祀られているのだとか。


e0158128_18352620.jpg

船上神社の北側には、金石寺本堂跡(推定)があります。


e0158128_18353064.jpg

説明板によると、承和6年(839年)鋳造で「伯耆国金石寺」の銘が残る梵鐘が、現在も福岡県福岡市早良区にある西光寺国宝として保存されているそうで、そのことから、約1200年前には既にこの地にあったことがわかっています。


e0158128_18353389.jpg

船上神社の南側には、智積寺本堂跡があります。


e0158128_18353660.jpg

金石寺は南北朝時代の争乱に巻き込まれて衰退してしまいますが、室町時代後期の享禄3年(1530年)に智積寺として再興されました。

しかし、天文13年(1544年)に尼子氏と山名氏の戦乱により焼失。

これ以後、本堂は再建されていないそうです。

その後、太閤検地による寺院の没収などにより、文禄年間(1592~1595年)に山上の寺院を解散したそうです。


e0158128_18383829.jpg

で、本稿のメイン、船上神社の本堂と奥の院の間に、「後醍醐天皇行宮跡」があります。


e0158128_18384288.jpg

後醍醐天皇を奉じた名和長年らは、攻め寄せる隠岐守護の佐々木清高軍と激しい戦いを繰り広げます。

『太平記』によると、3000余りの佐々木軍に対して名和軍は僅かに150余り

しかし、名和長年は木に数百の旗をくくりつけて自軍を大軍であるかのように見せかけるなどの策を講じ、3日間の激戦の末、佐々木軍を打ち破ります。


e0158128_18384559.jpg

戦いに勝利した後醍醐天皇は、その後も約80日間この地に留まり、全国の反北条派の武士たちに檄を飛ばすなど、倒幕に向けての政治工作を執り行ったといいます。

いわば、倒幕の聖地といえますね。

そんな歴史を踏まえ、昭和7年(1932年)5月、「船上山行宮跡」として国指定の史跡となりました。


e0158128_18384893.jpg

ただ、当時は行宮跡の正確な場所が確定できず、頂上一帯が指定区域となっていたそうで、第二次世界大戦後に調査研究が進み、地元史の『伯耆民談記』に見られる「本社より乾に當りて三丁計り去り東西十四丁、南北十五丁の地あり、境内廣平にして辰巳の方に門の跡あり」という記述から、後醍醐天皇行宮跡をこの地と推定したそうです。


e0158128_18412570.jpg

行宮跡と船上神社の間には、樹高23m、幹周囲5.6mの杉の大樹が聳えます。


e0158128_18423258.jpg

推定樹齢1000年だとか。

後醍醐天皇の挙兵時にも、既に樹齢300年の大樹だったことになりますね。

歴史の守り人・・・もとい、守り樹といえるでしょうか。


e0158128_18431403.jpg

最後に、麓の船上山ダムから見上げる船上山屏風岩

絶景です。

この山が太古の昔から山岳信仰の対象となってきたことがわかりますね。

この『太平記を歩く』シリーズを続けるにあたり、当初は車で片道2時間程度以内で行ける関西の史跡をめぐる設定で、ここ船上山はリストに入れてなかったのですが、進めていくうちに、どうしてもこの神秘的な景色が見たくなり、このGWに神戸から片道4時間かけてこの地にやってきました。

いや~、来てよかったですね。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-05-10 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その48 「船上山行宮跡(前編)」 鳥取県東伯郡琴浦町

島根県の東伯郡琴浦町にある標高687mの船上山までやってきました。

ここは、配流先の隠岐の島から脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が、挙兵したとして知られています。


e0158128_17341242.jpg

大塔宮護良親王楠木正成、さらには播磨国の赤松則村(円心)らが各地で倒幕の兵を上げると、その機に乗じて後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は伯耆国名和にて海運業を営んでいたとされる名和氏を頼って名和の湊にたどり着きます。

『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」によると、当初は出雲国を目指していたものの、風に流されて名和の湊についたとしています。

これを助けた名和一族の当主・名和長年は、天皇を奉じて元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月28日に、ここ船上山にて挙兵します。


e0158128_17353639.jpg

船上山は、「屏風岩」と呼ばれる比高100m以上の断崖絶壁が数kmに渡って続く山として知られています。

これ、一度見たかったんですよね。


e0158128_17373962.jpg

船上山は大山山系のひとつで、その南方に連なる勝田ヶ山(1,149m)、甲ヶ山(1,338m)、矢筈ヶ山(1,358m)などと連なり、古期大山(約100万年前)の外輪山といわれています。

古期大山の火山活動によって噴出した溶岩流が、長い間の浸食によって削られ、特異な山容を形成したと考えられているそうです。


e0158128_17385718.jpg

この山容が船底の形に似ていることから、「船上山」と名付けられのだとか。

ここは後醍醐天皇の挙兵の地となったことから、船上山城ともいわれますが、まさに、天然の要塞ですね。


e0158128_17395590.jpg

逆光でわかりにくいですが、頂上の台地から勢いよく流れ落ちる雄滝雌滝があり、この2つの滝を千丈滝といいます。


e0158128_17424516.jpg

屏風岩と愛車のプリウスαです(笑)。


e0158128_17435521.jpg

ここから屏風岩にズームしてみると、なっ、ななななんと!!!

天然の要塞を果敢に攻めるロッククライマーが!!!

崖の中腹にブルーの服を着たチャレンジャーがいて、崖の下でそれを見守る人が3人ほどいるのがわかるでしょうか?

よーやるわ!


e0158128_17451414.jpg

さて、標高400mほどの場所にある駐車場に車を停めて、ここから登山です。


e0158128_17471898.jpg
e0158128_17474402.jpg

登山口にある説明板と案内板です。


e0158128_17484587.jpg

ここを訪れたのはゴールデンウィーク初日の4月29日。

いい登山日和の天気です。


e0158128_17500791.jpg

登り始めて10分ほどすると、「駕籠立て場」という立て札が立つ場所を通ります。


e0158128_17501049.jpg

その説明によると、後醍醐天皇がこの地を発って京に向かわれる途中、この地に駕籠を立てて休憩されたのだとか。


e0158128_17514721.jpg

駕籠立て場から2~3分登ったところに、山頂へ向かう登山道と横手道に別れる分岐点につきます。

横手道を行くと、先程ロッククライマーがチャレンジしていた屏風岩の下に行くことができるようです。

試しに行ってみることに。


e0158128_17531278.jpg

進み始めてすぐに後悔。

急斜面にある細い山道は、高いところが得意でないわたしにはハードでした。


e0158128_17531558.jpg

足元を見下ろすと足が竦みます。


e0158128_18011303.jpg

なんとか屏風岩の最北端に這うようにたどり着き、下から撮影。


e0158128_18024082.jpg

振り向いた東の眺望です。


e0158128_18024335.jpg

行きはよいよい帰りは恐い。

登りは上を見て進んでいたのでまだ良かったのですが、帰りは否が応でも足元を見ながら進まなければならないため、足がガクガクでした。

まるで、崖の斜面に設置された平均台の上を歩いているかの如くで・・・。


e0158128_18042136.jpg

さて、気を取り直して山頂を見ざします。


e0158128_18042473.jpg

登り始めて約30分、山頂の尾根道にたどり着きました。


e0158128_18074646.jpg

丘の上に石碑が見えます。


e0158128_18073513.jpg

「船上山行宮之碑」と刻まれています。


e0158128_18084011.jpg

石碑裏面の碑文。

「大正十三年六月」とあります。


e0158128_18093773.jpg

石碑の横にある立て札。

標高616.5mとあります。


e0158128_18121831.jpg

その横に倒れていた石にも、何か文字が刻まれていました。

これも、かつて石碑だったのでしょうか?


e0158128_18115960.jpg

帰宅してネットで調べていると、この碑の立つ丘から少し下ったところに、「千丈のぞき」と呼ばれる屏風岩を上から見下ろせるスポットがあったことを知りました。(※参照)

この日、まったくその存在に気づかずに痛恨・・・と言いたいところですが、横手道でへっぴり腰になっていたわたしですから、たぶん、千丈のぞきは無理だったに違いないと思い、納得です。


e0158128_18120389.jpg

この日は4月29日ですが、山頂にはまだ山桜が残っていました。


e0158128_18131258.jpg

で、丘の下にある案内板です。

「後醍醐天皇行宮跡」とあります。

えっ?・・・ここが行宮跡じゃないの?

・・・てな訳で案内板に従って進んでみることにしますが、かなり長くなっちゃったので、続きは次稿にて。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-05-09 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その38 「篠村八幡宮(足利高氏旗揚げの地)」 京都府亀岡市

京都府亀岡市にある篠村八幡宮を訪れました。

ここは、足利高氏(尊氏)尊王討幕の旗揚げをした地として知られます。

シリーズ38にして、ようやく高氏の登場です。


e0158128_17380301.jpg

鎌倉幕府の役人だった足利高氏は、当初は幕府軍として笠置山の戦い下赤坂城の戦いに従軍していましたが、そのとき、父の足利貞氏の喪中であることを理由に出兵動員を辞退しましたが、幕府はこれを許しませんでした。

『太平記』では、このことで高氏は幕府に反感を持つようになったと伝えています。


e0158128_17380953.jpg

元弘3年(1333年)閏2月24日に隠岐を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が伯耆国船上山にて挙兵すると、幕府はその鎮圧を高氏に命じます。

これを受けた高氏は、兵を率いて西へ進軍しますが、4月27日にこの地に兵を留め、社前で神に誓って決意を表明し、4月29日、後醍醐天皇側に寝返って討幕する意思を表明します。


e0158128_17392105.jpg

本殿横には、「足利高氏旗揚げの地」と刻まれた石碑があります。


e0158128_17411680.jpg

『太平記』によると、討幕の決意を表明した高氏は、戦勝祈願の願文を神前で読み上げ、その願文に添えて鏑矢を1本、神前に奉納しました。

その際、弟の足利直義をはじめ、一族の吉良、一色、仁木、細川、今川、高、上杉らの諸将も、我も我もとを一本ずつ納めて必勝を祈願したといい、そのため社壇には矢が塚のように高く積み上げらたといいます。


e0158128_17423073.jpg

境内には、そのときの矢が埋葬されたと伝わる「矢塚」があります。


e0158128_17453235.jpg

塚に建てられた石碑は、元禄15年(1702年)に奉納されたものだそうです。


e0158128_17450040.jpg

現地説明板によると、矢塚には椎の幼木が植えられ、その椎は樹齢600年程を経て周囲の椎と同じ程に成長していたそうですが、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れちゃったそうで、現在の椎は2代目だそうです。

第二次世界大戦時には、高氏の勝ち戦にあやかるべく、椎の倒木から作った肌身守を持参して出征した人がいたそうです。

戦前の日本では、楠木正成忠臣の象徴で高氏は逆賊扱いだったと思うのですが、必ずしもそうではなかったのでしょうか。


e0158128_17463589.jpg

矢塚横に聳えるツブラジイの巨樹です。

樹齢はわかりませんが、樹高は27mあり、「亀岡の名木」に指定されているそうです。

あるいは、この木も同じ頃に植えられたものかもしれません。


e0158128_17485769.jpg

境内の北の民家の横に、「旗立楊(はたたてやなぎ)」と呼ばれる楊が立っています。

旗揚げした高氏は、すぐさま全国各地の武将に協力を求める密書を送ったといい、5月7日までの間に、久下時重をはじめ、長澤、志宇知、山内、葦田、余田、酒井、波賀野、小山、波々伯部などが参じ、その数は2万3千にまで膨れ上がったといいます。


e0158128_17495939.jpg

このとき、次々と駆けつけてくる武将たちに陣の場所を示すため、高く聳え立つ楊の木に足利家の家紋「二両引」印の入った源氏の大白旗が掲げられたと伝えられています。


e0158128_17505312.jpg

楊の樹齢は100年程だそうで、現在の楊は昭和初期に植えられたものだそうで、高氏の時代から6~7代を経て引き継がれたものだそうです。


e0158128_17515459.jpg

高氏の寝返りが決定打となり、5月7日には京の六波羅探題が落とされ、そして5月22日に北条氏鎌倉幕府は滅亡します。

その後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、天皇の諱「尊治」から偏諱を受け「尊氏」と改名しました。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-04-12 18:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その22 「寄手塚・身方塚」 大阪府南河内郡千早赤阪村

千早赤阪村森屋地区の丘陵地にある墓地のなかに、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の建武の新政の成立後楠木正成が元弘元~3年(1331~1333年)に起きた千早・赤阪の戦いでの戦死者を弔うために建立したと伝えられる五輪塔が2基あります。

そのひとつは、味方の霊を弔った「身方塚」、そしてもうひとつは、敵の戦死者を弔った五輪塔で、「寄手塚」と呼びます。


e0158128_23185960.jpg

上の写真は「身方塚」です。


e0158128_23190324.jpg

総高137.3cmだそうで、五輪塔の下には蓮華の花をかたどった反花基壇を設けています。


e0158128_23201402.jpg

そして、こちらが敵方を弔った「寄手塚」

総高182cmあり、「身方塚」よりひと回り大きなものとなっています。


e0158128_23211649.jpg

「寄手」とは、敵軍の兵士のことを指しますが、正成はあえて「敵」という表現を使わず、「寄手」という表現を使って魂を静めたといわれます。

また、味方の兵を弔うための身方塚よりも、寄手塚の方が大きいのも、敵に敬意を表したものといわれています。

これらのことから、楠木正成の人柄の良さをうかがい知ることができると伝わります。

ただ、無粋なことをいえば、これらが本当に正成が建立したものかどうかは、定かではありません。


e0158128_23231564.jpg

寄手塚・身方塚から望む景観です。

右が金剛山、左が葛城山です。

五輪塔が建てられた700年前も今も、ここからの眺めはそれほど変わってないんじゃないでしょうか。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-03-03 20:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その21 「建水分神社・南木神社」 大阪府南河内郡千早赤阪村

前稿で紹介した「奉建塔」のすぐ近くにある「建水分神社」を訪れました。

「たけみまくりじんじゃ」と読みます。

難しい読みですね。

ここは、楠木氏の氏神として崇拝された神社です。


e0158128_23024883.jpg

その社伝によると、建水分神社の始まりは崇神天皇(第10代天皇)の時代に遡り、2000年以上の歴史があるとされています。

祭神はその名のとおり水を司る神で、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池を作ることが勧められましたが、このとき、金剛葛城の山麓水分神が祀られたのに始まるそうです。


e0158128_23035763.jpg

かつては現在の場所から北に約100mの水越川のほとりにあったそうですが、楠木正成鎌倉幕府軍との戦火に巻き込まれ、荒廃してしまいます。

そのため、建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在の場所に本殿、拝殿、鐘楼などを再建したそうです。


e0158128_23062104.jpg

鳥居の扁額は、もともとは楠木正行によって奉納された後醍醐天皇宸筆といわれる木額ものがあったそうですが、表面の文字が摩滅したため、宝永2年(1705年)に金銅製にて模造されたものだそうです。

揮毫は、時の前大納言・葉室頼孝によるものだとか。


e0158128_23072306.jpg

急な階段の上に社殿が見えます。


e0158128_23083788.jpg

本殿は重要文化財に指定されているそうですが、一般に参拝できるのは、ここ拝殿前まで。


e0158128_23101430.jpg

また、同じ境内には、摂社の南木神社(なぎじんじゃ)があります。

祭神は楠木正成。

「南木」は、「楠」の偏と旁をバラしたものですね。


e0158128_23122862.jpg

建武3年(1336年)5月25日、正成が湊川の戦いで討死すると、翌・延元2年(1337年)に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)自ら正成の尊像を彫り、建水分神社の境内に祀ったのが始まりと伝わります。

楠木正成を祀る神社は各地にありますが、ここ南木神社が最古だそうです。


e0158128_23123284.jpg

その後、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)より「南木明神」の神号を賜ったそうです。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-03-02 20:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その20 「奉建塔」 大阪府南河内郡千早赤阪村

「楠公生誕地」碑から南へ徒歩3分ほどのところに、楠公没後600年祭記念として昭和15年(1940年)に建てられた「奉建塔」があると聞き、訪れてみました。


e0158128_22375065.jpg

丘の上の森の上に、白い雲に突き出るように塔の頭がのぞいているのがわかるでしょうか?


e0158128_22385292.jpg

青空が美しいですね。


e0158128_22394833.jpg

ここは、1~2月には約5万本のニホンスイセンが咲く「スイセンの丘」になるそうで、春には、桜の名所としても知られているそうですが、わたしが訪れたこの日は初夏の7月3日。

かろうじてアジサイが綺麗でした。


e0158128_22431586.jpg

で、丘の上に建つ「奉建塔」です。

ど、ドでかい!!


e0158128_22454586.jpg

奉建塔は徳島県の画家で楠公崇拝者であった森下白石という人が発起人となり、全国の小、中、青年学校の児童生徒、教師などから、当時の金で10余万円の寄附を集めて建設したそうです。

塔の高さは43尺(約13m)あり、これは、楠木正成戦死した年齢に因んでいるそうです。

e0158128_22475409.jpg

塔柱および基礎は鉄筋コンクリートで、その表面には花崗石を積み、その重さは最大1300貫(4876kg)あり、当時の技術では相当の難工事だったようです。

工事着手は昭和11年(1936年)1月、竣工は昭和15年(1940年)5月15日でした。


e0158128_22475871.jpg

上部の「菊水」は楠木家の家紋。

その下に刻まれた「非理法権天」の文字は、「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


e0158128_22494119.jpg

塔の下段には、頼山陽『日本外史』による楠公をたたえる句(漢文)が刻まれています。


「大楠公於笠置奉答後醍醐天皇之辞」(大楠公笠置に於いて後醍醐天皇に奉答するの辞)


時代は折しも第二次世界大戦に向けて緊張しはじめていた時期、皇国の忠臣として崇め奉られていた楠木正成の没後600年祭は、国民の精神高揚のために大いに政治利用されたであろうことは想像に難しくありません。

この塔が教育者たちの寄付でできたという事実も、当時の教育機関の事情を知ることができます。

戦後、日教組が頑なに左翼的思想に傾倒していくのも、こういった歴史があったからなんですね。

この「奉建塔」は、楠公関連史跡というより、昭和の皇国史観の史跡といえるでしょうか。


e0158128_22515382.jpg

「奉建塔」の建つ丘の上から南を望みます。

青空と緑が美しいですね。

左に見える山が、山頂に上赤坂城跡のある山です。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-03-01 19:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その17 「金剛山(國見城跡)・後編」 大阪府南河内郡千早赤阪村・奈良県御所市

金剛山後編です。

葛木神社境内の西側の参道に、「宝剣塔」という名称の宝篋印塔があります。


e0158128_21000154.jpg

これは、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)とその第2皇子・大塔宮護良親王追善供養のために建てられたもので、足利時代のものだそうです。


e0158128_21010617.jpg

足利の誰の時代でしょうね?


e0158128_21020439.jpg

後醍醐天皇も大塔宮も、最期は足利尊氏と敵対する立場で死んでいきますから、政敵からの追善供養ということですね。

まあ、尊氏はほかにも京の嵐山に、後醍醐天皇の菩提を弔う天龍寺を建立していますから、この宝篋印塔も、尊氏が建てたものかもしれませんね。

天皇の敵となった自責の念があったのでしょう。


e0158128_21031043.jpg

そして、葛木神社の西側にある転法輪寺です。

真言宗醍醐派大本山である金剛山転法輪寺は、今から約1300年前、山岳での修験道の開祖とされる役小角が建立したといわれ、奈良時代より明治維新に至るまで修験道七高山のひとつに数えられ、全国にその名が轟いていたと言われます。

あの行基、鑑真、最澄も来山し、聖宝も修行したと記録されているそうです。


e0158128_21055817.jpg

本堂です。


e0158128_21072155.jpg

境内には、豊臣秀吉がこの地を訪れたときに掘ったと伝わる瓢箪形の池「ひさご池」があります。


e0158128_21081977.jpg

で、転法輪寺の西側、山頂尾根伝いの最西端にある削平地に、「金剛山國見城址」と書かれた看板があります。


e0158128_21093105.jpg

ここは見晴らしがよく、登山客の憩いのスポットとなっています。


e0158128_21105609.jpg

大阪府が一望できます。

この日は霞がかっていたので遠くまで見えませんでしたが、空気の澄んだ日は、大阪湾を経て遠く神戸の六甲山系から淡路島まで見渡せるそうです。

たしかに、わが町神戸からも空気が澄んだ日は、金剛山が見えます。

直線距離で言うと60km以上離れているんですけどね。


e0158128_21105903.jpg

ここからも、某教団の平和の塔が見えます。


e0158128_21123933.jpg

その伝承によると、元弘2年(1332年)12月に再挙兵した楠木正成は、自身は上赤坂城に入り、金剛山の正面に國見城を設け、まだ少年だった息子の楠木正行とその傅役の湯浅孫六を配置し、転法輪寺の僧兵との連携をとらせたといいます。

城といっても、たぶん突貫の砦のようなものだったのでしょうね。


e0158128_21135786.jpg

その後、正成は千早城に移り、寡兵で大軍を寄せ付けなかったのですが、その理由のひとつに、背後の金剛山の僧兵の援助が大きかったといいます。


e0158128_21153414.jpg

城址公園の一段下にも、削平地があります。

二ノ丸跡?・・・即席で作った城にそんなもんないかな?


e0158128_21171417.jpg

余談ですが、太平洋戦争時に活躍した戦艦「金剛」は、ここ金剛山に因んでいます。

「大和」「武蔵」「長門」「陸奥」など、当時の戦艦の名称は旧国名が多かったと思いますが、「金剛」という山の名がつけられたのはなんででしょうね?

当時、楠木正成が忠臣の象徴的存在だったこともあり、大軍相手に落ちなかった城に因んで付けられたのでしょうか?

でも、沈没しちゃいましたけどね。

現在は、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」に、その名は引き継がれています。


e0158128_21180595.jpg

この日の山頂は気温17度。

快適な秋のハイキングでした。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-02-23 01:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その12 「院庄館跡(作楽神社)」 岡山県津山市

岡山県津山市にある作楽神社にやってきました。

ここは、かつて美作国守護の館「院庄館」があった地で、元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が宿泊したと伝わる場所です。


e0158128_22345094.jpg

ここを訪れたのは11月6日、木々が色づくいい季節だったのですが、残念ながら天気はあいにくの曇り空で、見てのとおり暗い写真ばかりです。


e0158128_22363197.jpg

前稿、前々稿で紹介した船坂峠、杉坂峠天皇奪回を計画して失敗した児島高徳が、それでもあきらめきれず、ここ院庄館まで追ってきたといわれます。


e0158128_22380972.jpg

鳥居横に設置された後醍醐天皇御製の碑です。


あはれとは なれも見るらむ わが民を 思ふこころは 今もかはらず

よそにのみ 思ひぞやりし 思ひきや 民のかまどを かくて見むとは


後醍醐天皇がここ美作国で詠んだとされる歌二首

一首目は国民に対する仁愛、二首目は庶民の生活を見たときの心をうたったものだそうです。


e0158128_22433451.jpg

敷地内には、児島高徳のがあります。


e0158128_22411769.jpg

杉坂峠を後にして単身この地に乗り込んだ高徳は、夜になって院庄の天皇行在所に侵入するも、これまでとは段違いの厳重な警護になすすべもなく、天皇奪還を断念せざるを得ませんでした。


e0158128_22412112.jpg

そのとき、そばにあった桜の木「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れたといいます。

よして翌年、その言葉どおりになるんですね。


e0158128_22443857.jpg

像の土台には、その漢詩が刻まれています。


e0158128_22462602.jpg

こちらは、東大門跡にある十字の詩跡の碑です。

ここに、高徳が漢詩を刻んだ桜の木があったと伝えられます。


e0158128_22482010.jpg

江戸時代になって、津山藩家老・長尾勝明が高徳の忠義心を讃え、貞享5年(1688年)に建てた碑だそうです。


e0158128_22504408.jpg
e0158128_22504731.jpg

その説明書き。


e0158128_22530359.jpg

こちらは、戦前に教科書に載っていたという高徳の忠義を称えた文部省唱歌の碑


e0158128_22552452.jpg

こちらは、昭和9年(1934年)に建てられた建武の中興600年記念碑


e0158128_22552823.jpg

そして、こちらは昭和59年(1984年)に建てられた建武の中興650年記念碑です。


e0158128_22563211.jpg

こちらは、敷地内に建つ噫忠義桜十字詞之碑塔

戦艦大和の建造者である海軍技術中将・庭田尚三を会長とする忠桜会が、昭和46年(1971年)に建設したもので、表面に「天莫空勾践時非無氾范蠡」と、後醍醐天皇御製二首および斉藤監物七言律詩「題児島高徳書桜樹図」を、裏面に道家大門の和歌二首を記してあります。


e0158128_22582738.jpg

作楽神社拝殿です。

ここは明治2年(1869年)に創建された神社で、後醍醐天皇を正祀に児島高徳を配祀しているとのことです。


e0158128_22583137.jpg

とにかく、右を向いても左を向いても後醍醐天皇と児島高徳を称えるものばかりです。

明治政府としては、天皇崇拝を国民に浸透させるためにも、こういった場所が必要だったのでしょうね。


e0158128_23020073.jpg

児島高徳は元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えました。

そして時代は下って江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄となります。

しかし、実は高徳の活躍が記された史料は『太平記』以外にはないそうで、現在ではその実在性にも疑問符がつく人物となっています。


e0158128_23020307.jpg

実在したかどうかはわかりませんが、第二次世界大戦後になると高徳の知名度がどんどん低下していったことを思えば、楠木正成同様、皇国史観における忠臣の象徴として利用された英雄だったということは間違いありません。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-02-11 00:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その11 「杉坂峠関所跡」 兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の境

兵庫県佐用郡佐用町と岡山県美作市の県境にある杉坂峠を訪れました。

ここは、旧令制国における播磨国美作国国境にあった関所跡です。


e0158128_21584987.jpg

元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳奪回すべく立ち上がり、前稿で紹介した船坂峠待ち伏せますが、天皇護送団一行の移動ルートを見誤り、計画は失敗に終わります。

その後、天皇一行を追ってきたのが、ここ杉坂峠だったと伝わります。

しかし、高徳がここに着いたときには、すでに天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近まで達していて、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまったといいます。

つまり、ここ杉坂峠は高徳無念の地というわけですね。


e0158128_22041801.jpg
e0158128_22042348.jpg

峠付近にある説明板です。

記載されている文章は、『太平記』巻四の「備後三郎高徳が事」のくだりと、巻六の「赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜はる事」のくだりです。


e0158128_22000032.jpg

看板の横の苔生した坂を上ります。


e0158128_22054876.jpg

この道が、旧峠越えの道のようですね。


e0158128_22071879.jpg

しばらく登ると、「杉坂の関の跡」と書かれた看板と、大きな石碑が建てられた広場にでます。


e0158128_22090924.jpg

『太平記』巻六によると、元弘3年(1333年)、大塔宮護良親王の呼びかけに応じて討幕の兵を挙げた赤松則村(円心)は、ここから8kmほど南にある苔縄山の山頂にを築き、ここ杉坂に関所を構えたとあります。


e0158128_22120360.jpg
e0158128_22120888.jpg

石碑は、昭和2年(1927年)に建てられたものだそうです。


e0158128_22133032.jpg

石碑の裏面です。


e0158128_22142899.jpg

石碑の横にある歌碑です。

昭和12年(1937年)に建てられたもののようですが、説明書きがないので、誰の歌なのかわかりません。


e0158128_22162396.jpg

現在の杉坂峠は、中国自動車道と並走する県道365号線上にあるのですが、かつては播磨国と美作国を結ぶ交通の要衝だったこの峠も、現在はこの少し南に国道179号線が通っているためか、あまり利用する車はないようです。

この日も、わたしがここにいた20分くらいの時間、1台も車が通りませんでした。

道路の真ん中に立ってこんな写真も撮れちゃいます。


e0158128_22185612.jpg
e0158128_22190016.jpg


奪回作戦
に失敗した高徳の軍勢は、落胆して散り散りになりますが、それでも、高徳は諦めきれず、単身、院庄の天皇行在所に向かいます。

次稿は、その院庄館跡に向かいます。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-02-09 22:00 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その10 「船坂峠」 兵庫県赤穂郡上郡町梨ヶ原と岡山県備前市三石の境

前稿の「善通寺」は、現在の住所でいえば兵庫県の東端ですが、今度はそこから100km以上西に行った兵庫県の西端、兵庫県と岡山県の県境にある「船坂峠」にやってきました。

ここは、元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐に配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳が奪回すべく決起した場所と伝わります。


e0158128_21262762.jpg

現在、船坂峠は国道2号線にあり、峠の頂上はトンネルとなっています。

そのため、かつての船坂峠があった西国街道は、現在は歩行者・自転車専用道路となっています。


e0158128_21280358.jpg

車を空き地に停めて、旧道を歩きます。


e0158128_21292179.jpg

道は苔生していますが、ちゃんと舗装されていました。

トンネルが開通したのは昭和30年(1955年)といいますから、60年前まではここが国道でした。


e0158128_21302002.jpg

峠の頂上が見えてきました。


e0158128_21325218.jpg

e0158128_21415130.jpg

頂上には、県境を示す石柱が設置されています。

道路側に面して「縣界」と刻まれ、西面には「兵庫縣赤穂郡船坂村」と、そして東面には「岡山縣和氣郡三石町」と刻まれています。

西から歩いてきたわたしは、ここを超えると岡山県に入ります。


e0158128_21441302.jpg

峠の頂上から西へ2、3分歩いたところ(即ち岡山県)に、「船坂山義挙の碑について」と記された石碑がありました。


e0158128_21453909.jpg

その北側の山道を登っていくと・・・。


e0158128_21482056.jpg
e0158128_21494318.jpg

「船坂山義挙之城趾」と刻まれたバカでかい石碑がありました。

揮毫は平沼騏一郎男爵とあります。


e0158128_21510620.jpg

後醍醐天皇の奪回を企てた児島高徳は、一族郎党200余騎でこの地に潜みますが、天皇護送団一行の移動ルートを見誤り、計画は失敗に終わります。

その後、高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂峠まで追いますが、既に天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近まで達していて、完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまったといいます。


次稿では、その杉坂峠を訪れます。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-02-08 16:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)