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八重の桜 第48話「グッバイ、また会わん」 ~新島襄の最期~

 明治22年(1889年)10月12日、同志社大学設立のために奔走していた新島襄は、その募金活動のため東京に向かいます。前回の上京時には妻の八重も同行しましたが、このときは折り悪く、襄の実母・とみが病に臥せており、その看病のため、やむなく八重は京都に残ります。襄が余命いくばくもないことを医師から告げられてから1年が過ぎていましたが、その襄を単身上京させるのは、八重は心配でたまらなかったでしょうね。そしてその心配は、現実のものとなります。

 京都を発って1ヶ月半ほど経った11月末、募金活動のため訪れていた群馬県前橋にて、襄はとつぜん腹痛を訴えます。医師の診断は胃腸カタル。襄はいったん東京にもどって療養しますが、病状はいっこういに回復の兆しが見えず、事態を重く観た徳富蘇峰が温暖の地への転地療養を勧め、12月末、神奈川県大磯の百足屋(むかでや)旅館のはなれに移ります。ここが、襄の終焉の地となります。

 年が明けた明治23年(1890年)1月11日、再び激しい腹痛が襄を襲います。それでも襄は、モルヒネ注射を打ちながら各方面に手紙を書き続けていたそうですが、17日付の手紙が絶筆となります。18日朝に容態が急変。医師の診断は急性腹膜炎でした。翌19日には、八重のもとに病状急変の電報が届きます。知らせを受けた八重はすぐさま大磯へ向かい、20日夜遅く百足屋旅館に到着します。八重に電報が打たれたことを知っていた襄は、三ヶ月ぶりに再会した八重の顔を見てこう言ったといいます。
「今日ほど1日が長かったことはない」と。
この言葉を、八重は終生忘れませんでした。

 八重が到着して間もなく、自らの死を悟った襄は、八重と小崎弘道(襄の死後、同志社の二代目総長となる人物)の立会のもと、遺言を告げ始めます。筆記したのは徳富蘇峰でした。その内容は、同志社における教育の目的が主で、実に30枚にも及ぶものだったそうです。この他にも、伊藤博文勝海舟大隈重信など個人にあてた遺書が残されているそうですから、襄の筆まめぶりは死ぬ間際まで続いていたようですね。

 そうして伝えるべきことをすべて伝えたあと、1月23日午後2時20分、襄は46年と11ヶ月の生涯を終えます。八重への最後の言葉としては、本話のタイトルとなっている「グッバイ、また会わん」という言葉が伝えられています。また、「わたしの死後、記念碑は建てないでほしい。1本の木の柱に“新島襄の墓”と書けば充分だ」とも告げたとか。46歳11ヶ月といえば、いまの私とまったく同じ歳。決して長いとは言えない生涯ですね。最後の瞬間を八重の左手を枕に迎えられたことが、せめてもの慰みだったでしょうか。

 臨終の場に立ち会った蘇峰は、八重の手をとって、こう告げたそうです。
 「私は同志社以来、貴女に対しては寔(まこと)に済まなかった。併(しか)し新島先生が既に逝かれたからには、今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て、私に交(つきあ)つて下さい。」
 かつて八重のことを“鵺”と揶揄し、師の妻としての八重の言動を好ましく思っていなかった蘇峰でしたが、今後は八重を先生同様に思うから、何事も自分を頼ってくれとの言葉。蘇峰はその言葉を終生守り続けます。その後八重は、襄の墓碑に揮毫してくれるよう勝海舟に依頼しますが、その仲立ちとなったのは蘇峰であり、また後年、八重自身の墓碑銘は、蘇峰の筆によるものでした。襄が八重のために残したいちばんの財産は、八重の後半生の最も良き理解者となった蘇峰だったかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-02 15:57 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第40話「妻のはったり」 ~自責の杖事件~

 明治13年(1880年)春、同志社英学校でひと悶着が起きます。それは、学生たちによる授業ボイコットでした。ことの発端は、当時、学力別に分かれていた2クラスを、学校側が一方的に合併しようとしたことにありました。開校して5年が経とうとしていた同志社英学校でしたが、耶蘇教(キリスト教)を教える学校への風当たりはまだまだ厳しく、入学生の確保もままならない状態でした。そんな状況から、当時の同志社では本来の9月の入学にこだわらず、途中入学も認めていました。学校を経営していく上ではやむを得ない策だったのでしょう。ただ、当然のことながら、正規入学者と途中入学者では学力差が生じます。そのため、学生を上級組下級組に分けて授業を行っていました。

 しかし、ただでさえ学生の数が少ないなかで、クラスを分けて授業を行うのは効率的ではないとの意見が教師会で上がり、合理化を図るためクラスの合併を決定します。これに反発したのは上級組の面々。下級組のレベルに合わせた授業など御免だ!・・・と言わんばかりに、授業をボイコットするという抗議行動に出ます。より高いレベルを求めていた学生らにしてみれば、当然の主張だったかもしれませんね。この抗議行動の中心的存在だったのが、徳富蘇峰、蘆花兄弟でした。

 ボイコット発生時、出張により不在だった校長の新島襄は、戻ってくるなり懸命に学生たちを説得します。はじめは頑なだった学生たちでしたが、襄の熱意に心を動かされてか、間もなくボイコットをやめ、騒動は一応の決着をみます。しかし、これにて一件落着とはいきませんでした。というのも、ボイコットした学生たちを処罰せよとの意見が、同じ学生のなかからあがったのです。その主張の是非はともかく、学生が授業を無断欠席するというのは、同志社の校則違反でした。規則を破った学生を処罰するのは、当然のことです。

 襄は悩みます。該当の学生たちに罰を与えれば、ただでさえ不満を募らせている彼らのことだから、退学しないとも限らない。しかし、これを大目にみれば、校内の秩序が保てない。悩みに悩んだ末に襄は、4月13日の朝、礼拝で壇上に立ちます。そこで彼は、集まった学生たちを前にしてこう言ったそうです。
 「罪は教師にも生徒諸君にもない。全責任は校長の私にあります。したがって校長である私は、その罪人を罰します。」
 そう話し終わると襄は、右手に持っていたを振り上げ、自身の左手を叩き始めたそうです。何度も何度も激しく叩き続けたため、襄の左手は赤く腫れあがり(おそらく骨折してたでしょうね)、杖が折れてもなお叩き続ける襄の姿に、学生たちは心を動かされ、涙ながらに襄の自責を制止したそうです。有名な「自責の杖」事件ですね。

 多少の脚色はあるかもしれませんが、襄の自責に感銘した学生が折れた杖を宝物のように保管していたという話からも、だいたいは実話なんでしょうね。少々芝居がかった感がなきにしもあらずな襄の行動ですが、それでも、腫れ上がってもなお叩き続けるなど、常人にできることではありません。新島襄という人は、実はたいへん激情家だったのかもしれませんね。教え子たちの罪は、師である自分の罪・・・口で言うのは簡単ですが、なかなか実行できることではありません。自分のミスは部下の責任、自身の犯した罪は秘書がやったこと、などなど、現代の指導者たちとは正反対です。「指導」という名目で、教え子が自殺するまで理不尽な体罰を与えていたどこかの体育会系の教師とも、えら違いですね。この1世紀ほどで、指導者の質はすっかり低下してしまったようです。襄を真似ろとは言いませんが、かつてはこんな指導者がいたということを、とくに今の「先生」と呼ばれる職業の人は、知っておいてほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-08 22:21 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第39話「私たちの子ども」 ~同志社女学校開校と徳富初子~

 明治8年(1875年)に開校した同志社英学校男子校でした。しかし、欧米の教育を受けてきた新島襄は、女子の教育機関も設立すべきと考えていました。そこで彼は、アメリカの伝道会社に女性宣教師の派遣を要請し、アリス・ジェネット・スタークウェザーという女性が来日します。彼女は、八重が洗礼を受けた宣教師・ジェローム・ディーン・デイヴィスの邸に寄留し、明治9年(1876年)10月、八重とともに4~5人の女子学生を集め、英語教育を始めました。そのなかに、山本覚馬の娘・みねもいました。

 当初は同志社分校女紅場と称したそうですが、「女紅場」とは、あくまでも殖産のための学問所で、襄の目指す学校は男子と同じ知識教育でした。翌、明治10年(1877年)4月に京都府から「女紅場」ではなく「女学校」として認可され、同年9月に、正式に同志社女学校が開校します。現在の同志社女子大学の前身ですね。

 校長は男子校と兼任で襄が務めました。また、八重も小笠原流の礼法を教える教員として勤務します。校舎は常盤井殿町にあった二条関白御殿に置かれました。建物は2階建てで、2階が寄宿舎となっており、八重の母・佐久が舎監を務めたそうです。襄校長の妻が教員で義母が宿舎の舎監、義兄は学校設立の後見人で姪が学生という、新島一家総出で学校を運営していたんですね。これぞ、まさしく私立学校です。

 ドラマで、アリス先生に対してすごい剣幕で反抗していたのは、徳富蘇峰の姉・徳富初子ですね。彼女は熊本バンドの面々と一緒に熊本洋学校で学んできており、弟に勝るとも劣らない優秀な学生だったようですが、男のなかに混じって学んできただけあってか、気の強さもハンパじゃなかったようで、ドラマのとおりのアマゾネスだったようです。そんな初子の逸話を少しだけ。

 あるとき、初子に縁談話が持ち上がります。話を持ってきたのは蘇峰だったとか。この話を受けた初子は、見合いの席を待つことなくひとりで相手の男のところへ出向き、初対面の相手に面と向かって「あなたは一夫一婦についてどう考えますか」と質問したそうです。相手は驚いたでしょうね。時代はまだ、一夫一婦制が定着していなかった時代、妾の数も男の甲斐性でした。いきなりの質問を受けた男は、「いずれは女の一人や二人は持ちたいものだ」と答えたところ、初子は怒って家に帰ってしまいます。そして、せんべいを食べながら「失礼千万な男だ!」と貶したとか。八重といい、この初子といい、明治の女性が皆、慎ましやかだったわけではないんですね。いうまでもなく、この縁談話は不調に終わりました。ちなみにこのときの相手の男は、のちの内閣総理大臣・犬養毅だったそうです。逃した魚は大きかったですね(笑)。

 本話は特筆すべきことがなかったので、ちょっと、よもやま話でした。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-01 23:07 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第37話「過激な転校生」 ~熊本バンドと悪妻・八重~

 熊本バンドが登場しましたね。「バンド」とは、キリスト教を信仰し、その布教と教育活動をする結盟集団のこと。彼らは明治4年(1871年)に創設された熊本洋学校の出身者たちで、アメリカ人のリロイ・ランシング・ジェーンズという軍人講師から学び、洗礼を受けていました。熊本は以前から、横井小楠らの影響もあって西洋の知識を学ぶことには先進的な考えがありましたが、キリスト教にはまだまだ寛容ではありませんでした。

明治9年(1876年)、熊本洋学校の生徒35名が花岡山で集会を開き、キリスト教によって日本を導こうという奉教趣旨書に署名、誓約します(花岡山事件)。ところが、これが世間から大きな反発を買い、結果、熊本洋学校は廃校、ジェーンズも解雇になります。行き場を失った生徒たちのために、ジェーンズは同志社英学校で受け入れてほしいと手紙を書き、その要請を受けた新島襄は受け入れを快諾します。ところが、これが襄にとって思わぬ試練となるんですね。その理由は、彼ら熊本バンドが求める教育レベルにありました。

 熊本バンドと同志社の学生たちとの学力の差は歴然たるものでした。熊本バンドの面々は熊本洋学校時代にジェーンズから英語での授業を受けており、日本語での講義で英訳するといった同志社の授業のレベルに不満を覚えます。現代の学力でいえば、中学生と大学生が一緒に授業を受けているようなものだったでしょうか? 不満が出るのはやむを得ないことだったでしょうね。やがてその不満は校長である襄に向けられました。成績優秀な生徒に教師が軽んじられるという、学校としての秩序を崩しかねないこの状況を、襄はどのように克服したのでしょうか。

 不満を募らせた熊本バンドの面々は、襄に同志社の改革案を提示します。この改革案は、彼らから相談を受けたジェーンズのアドバイスだったそうです。ジョーンズ曰く、「不満があるならば、まず自分たちで改革しなさい」と。同志社を辞めようとまで考えていた彼らは、ダメ元で襄に改革案を示しますが、これを受けた襄は大いに喜び、彼らの提案をすんなり取り入れたそうです。学校運営に試行錯誤していた襄にとっては、彼らの提案は願ってもないことだったのかもしれません。自分たちの意見など聞き入れられないと思っていた熊本バンドの面々は、襄の懐の深さに感服し、同志社英学校に残ることを決意しました。襄の人間性が彼らの心を掴んだんですね。ある意味、教師のあるべき姿といえるかもしれません。

 熊本バンドと八重の関係も芳しくなかったようですね。ドラマ中、徳富蘇峰が八重のことを鵺(ぬえ)と呼んでいましたが、実際にもそうあだ名していたと後年の蘇峰が語っています。鵺とは、平安時代に源頼政が討ち取ったと伝えられる伝説の怪物で、頭はで、胴は、尾は、手足はという正体不明のバケモノのことです。つまり、八重はバケモノだと言うわけですね。というのも、この頃の八重の格好は、衣服こそ和装であったものの、頭には西洋帽子を被り、を履いていました。当時、政府は文明開化の名のもとに洋式化を推進しましたが、明治も10年ほどしか経過していないこの頃では、まだまだ日本人のほとんどが和服であり、とくに洋装する女性は皆無でした。そんななか、和洋折衷の奇妙な格好をする八重は、まさしく鵺というあだ名がピッタリだったのでしょうね。

 八重への批判は服装だけでなく、その振る舞いも攻撃の対象となりました。夫を「ジョー」呼び捨てにする。夫と人力車に相乗りする。それも、襄が手を差し伸べて八重を先に乗せている。街なかを夫と並んで歩く。などなど、レディーファーストの欧米社会では当たり前の行為ですが、男尊女卑の日本では驚天動地の光景だったのでしょう。もちろん、これらはすべて襄が望んでいたことでしょうが、学生の彼らの目には悪妻としか映らなかったようですね。徳富蘇峰はその自伝で、当時のことをこう回顧しています。

 「新島先生夫人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつかず、所謂る鵺(ぬえ)の如き形をなしてをり、且つ我々が敬愛してゐる先生に対して、我々の眼前に於て、余りに馴れ々しき事をして、これも亦た癪にさはった」

 襄はその人柄で、熊本バンドの面々の心を瞬時に掴みましたが、八重と彼らの対立関係はずいぶんと続いたようです。蘇峰と八重がお互いをわかりあったのは、襄の死後だったとか。ドラマでは、早くも心通じあったような感じでしたけどね。秀才で自尊心の高い面々だったから、なおさら自己主張の強い八重とはそりが合わなかったのでしょうね。それにしても、鵺とは上手くあだ名したものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-19 00:02 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(3)