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大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~

大坂城外堀内への入口は4ヵ所、南西に大手口、南東に玉造口、北東に青屋口、北西に京橋口があります。
まずは南西の大手口から。

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城の正面を「大手」といいますから、正面入口のことを大手口、そこに建つ門を大手門といいます。
つまり大手門は正門、いわば正面玄関ですね。
ちなみに裏口は「搦手(からめて)」と呼ばれ、ここ大坂城の場合、大手門以外の三つの入口は搦手口となります。
大手門は寛永5年(1628年)の徳川幕府による再築第3期工事の際に創建されたそうです。

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天明3年(1783年)の落雷により多聞櫓が焼失した際にも、類焼を免れた貴重な建造物で、現在は大手門を取り囲む土塀二棟とともに重要文化財の指定を受けています。

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大手門をくぐると、枡形の石垣上に多聞櫓があります。
ここも大手門の創建とともに築かれましたが、天明3年(1783年)の落雷によって全焼し、その後、嘉永元年(1848年)に再建されたそうです。
かつては京橋口や玉造口にも多聞櫓があったそうですが、現在はここだけが残っていて、重要文化財に指定されています。

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続いて南西の玉造口です。
かつてはここにも多門櫓が建っていたそうですが、明治維新の大火で焼失し、その後焼け残った玉造門も撤去されたため、現在では門の両脇の石組だけが残っている状態です。

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玉造口を入ったところから見た天守です。

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ズームしてみました。
復元城とはいえ、やはり美しいですね。

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次は北東の青屋口です。
ここには門が現存しますが、この門は昭和44年(1969年)に再建されたものだそうです。
もとは元和6年(1620年)の再築第1期工事の際に創建されたと伝わり、明治維新の大火によって被災しますが、その後陸軍によって修復されるも、太平洋戦争時の空襲で大破したそうです。

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昭和44年の再建時に使われた木材は、空襲時に大破した残材だそうです。

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門をくぐると内堀の石垣があり、その向こうに天守が見えます。

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最後に北西の京橋口です。
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」と呼ばれました。
戦前までは京橋門が残り、大手口と同様に多門櫓もあったそうですが、空襲で焼失してしまったそうです。

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あと、4つの入口以外に、元和6年(1620年)の再築第1期工事の際に二の丸の北外側に北外曲輪(三の丸)が築かれ、そこに筋鉄門が築かれました。
筋金門はその呼び名のとおり、筋状の鉄板で補強されていたそうです。
門は明治維新後も残り、ここに設置された軍事工場の正門とされたそうですが、現在は左右の石組だけが残ります。

いずれの入口も、徳川幕府の再建時、二代将軍徳川秀忠から三代将軍徳川家光の時代に築かれたもので、豊臣時代のものではありません。
豊臣時代の入口は、南北2ヵ所だけだったと言われます。
4ヵ所も入口を作れたのは、太平の世になったからでしょうね。

次回に続きます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-16 15:46 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第1話「ならぬことはならぬ」 ~什の掟~

 幕末から明治、大正、昭和を生き抜いた“ハンサム・ウーマン”山本八重ことのちの新島八重の物語が始まりました。第1話は八重の生まれ育った会津藩の藩風が描かれた回でしたね。のちの戊辰戦争の悲劇の象徴である会津藩ですが、なぜそのような末路になってしまったかは、会津藩とはどのような藩であったか、そして会津松平家の徳川将軍家に対する立ち位置から知るべきでしょう。

 会津松平家の初代藩主は徳川三代将軍家光の異母兄弟である保科正之。一昨年の大河ドラマの主人公・お江の夫・徳川二代将軍秀忠が女中に手を出して産ませた人物です。もっとも、秀忠存命中は正之を公式に実子と認めることはなく、その事実が公然となったのは秀忠の死後、家光の代になってからでした。一説には、恐妻家だった秀忠が妻・お江の嫉妬を恐れ、譜代大名の保科正光の養子としたともいわれますが、いかがなものでしょう。正之は謹厳実直で有能な人物だったといわれ、秀忠の死後、家光はこの異母弟をことのほか可愛がり、会津23万石に引き立てました。そして家光の死後はその遺命により、第4代将軍となった徳川家綱の補佐役となって幕政の安定に寄与していくこととなります。

 慶安4年(1651年)家光は死の淵に臨んで枕頭に正之を呼び出し、「宗家(徳川家)を頼みおく」と言い残したそうです。これにたいそう感銘した正之は、のちに『会津家訓十五箇条』を定めました。その第一条に、「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず、面々決して従うべからず。」と記されています。
 意味は「徳川家への御恩を忘れることなく、ひたすら忠勤にはげみ、決して他藩の動向に流されてはならない。もし、徳川将軍家に対して逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな者は我が子孫ではないゆえ、家臣は決して従ってはならない。」といったところでしょうか。つまり平たく言えば、「どんなことがあっても会津藩士は徳川家をお守りせよ!」ということですね。以降200年、会津藩主・藩士はこれを忠実に守り、そしてドラマの舞台である幕末を向かえました。そしてこの家訓が、会津藩の運命を決めることになります。

 会津藩は教育熱心な藩風としても知られていました。会津藩士の子は皆10歳になると日新館に入学することが義務付けられていましたが、入学前の6歳から9歳までの子どもたちを10人前後のグループに分け、これを「什(じゅう)」と呼びました。子どもたちは毎日、什の仲間のいずれかの家に集まり、会津藩士としての心得を学びます。それが、有名な「什の掟」です。

 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
 一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 一、戸外で物を食べてはなりませぬ
 一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
 ならぬことはならぬものです


 何年か前のベストセラー『国家の品格』の中で紹介されて全国的に有名になりましたね。現代でも福島県の子どもたちは皆、暗誦できると聞きます。江戸時代、什の子どもたちは毎日これを暗誦し、そして今日一日これに背いた者がいなかったか皆で反省会を行いました。そして掟に背いた者がいれば、子どもたちの間で話し合い、「竹篦(しっぺい)」などの制裁を決めたそうです。子どもたちに心得を持たせ、子どもたちの問題は子どもたちの手で解決させる。6歳から9歳といえば、今で言えば幼稚園から小学校低学年ですよね。そんな幼いときから徹底的に心得を叩き込み、藩士としての自覚を持たせる。藩あげての人材育成だったわけですね。現代の教育現場も見習うべきところがあるような気がします。

 「什の掟」の7条のうち、最後の7条目を除いた6条は、現代でもまったくもって通用する心得ですし、昔に比べて現代人に欠落している心得ですね。もう一度教育の場で見直してみてもいいんじゃないでしょうか。なぜイケナイかという理屈ではなく、問答無用でダメなものはダメ。
「ならぬことはならぬ!」
躾の基本のような気がします。

 そんなお国柄の会津藩で、八重は生まれ育ちました。その後の八重の人生に、会津の心得は大きく影響したであろうことは想像に難しくありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-01-07 03:05 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(6)  

江~姫たちの戦国~ 第40話「親の心」

 徳川秀忠・お江夫妻の長男である竹千代こと徳川家光は慶長9年(1604年)生まれ、次男の国松こと徳川忠長は、慶長11年(1606年)生まれの2歳違いの兄弟で、お江にとっては32歳、34歳での出産だった。文禄4年(1595年)に秀忠のもとへ輿入れしてから、長女・千姫、次女・珠姫、三女・勝姫、に四女・初姫と、なかなか男子に恵まれなかったお江にとっては、家光は9年目にして授かった待望の男子だったはずであり、大切な後継ぎとなるはずであった。

 ところが、どういうわけかお江夫妻は、長男の家光よりも次男の忠長を可愛がったという逸話が残っている。江戸幕府の正史である『徳川実紀』の付録巻一には、
「御弟国千代の方は御幼稚並にこえて、聡敏にわたらせ給へば、御母君、崇源院殿にはこと更御錘愈ありて・・・」
などと記されている。国千代とは国松のことで、崇源院とはお江の法名、これによれば、お江は次男の忠長が幼少時から聡明であったため、ことさら溺愛したというのである。一方で、上記の分の少し後には、幼少時代の家光に関して、
「公御幼稚の頃はいと小心におはして、温和のみ見え給ひしが・・・」
と記されている。家光は幼少の頃は小心で温和だけが取り柄であったため、秀忠・お江夫妻は家光に期待しなかったのだろうか。とくに、二度の落城と三度の結婚を経験し、戦国の動乱期を生き抜いてきたお江にとっては、後継者の大切さは秀忠以上に知り抜いていたかもしれず、幼少時から聡明であった忠長に期待したのは当然のことだったのかもしれない。

 また、上記引用文の少し前には、秀忠の父、家光の内祖父である徳川家康が家光を可愛がり、家光も家康に懐いていたという意味の記述がある。あるいは、お江、さらに秀忠は、家康への対抗心から家光ではなく、忠長を溺愛したのかもしれない。やがて、その空気を察した大名・旗本たちが、相次いで忠長に接近するようになったという。竹千代こと幼い家光は、弟が父母の愛情を一身に受けていることに、心を打ちひしがれたに違いない。そんなこともあってか、乳母であるお福こと春日局を、父母以上に慕った。

 ドラマで、春日局が家光を後継ぎに裁定するよう家康に直訴するシーンがあったが、この話は家光死後の貞享3年(1686年)に成立した『春日局略譜』に記されている逸話である。これによれば、秀忠・お江夫妻が忠長を後継者に考えていると察した大名、旗本がこぞって忠長に接近しようとしていた中、幕閣・永井直清だけは家光に忠勤を励んでおり、まずはその父・永井直勝に相談して事態の打開を図ろうとした。ところが、直勝に事態の静観を主張され、思い余った春日局は、すぐさま伊勢神宮へ参詣すると称して西へ向かい、駿河駿府城にいた家康のもとへ駆け込み、秀忠・お江夫妻の動向を伝えて家光の世子としての地位を確認して欲しいと訴えた、と伝わる。

 この春日局の直訴が効いたのかどうか、その後しばらくして、家康の裁定によって世継ぎは家光に確定する。理由は、「嫡子である竹千代を廃し、次男の国松を立てるのは、天下の乱れの原因となる」とのこと。この時代の後継ぎは、必ずしも長男が継ぐとは決まっておらず、ましてや戦国動乱の最中は、有能な主君でなければ家臣が着いてこず、実力で後継者を決めるのが当然であった。ところが家康は、竹千代と国松の後継者争いを長幼の序という形でけりをつけた。これは、戦国動乱の時代の終わりを告げると共に、こののちお家騒動が生じないための策だったとも言われる。ただ、それもこれも、家光より忠長のほうが聡明だったという伝承が正しかったとしてのことではあるが・・・。

 家光を後継ぎに決めるに際して、家康はわざわざお江に書状を送って諭している。この書状は、家光の忠長に対する嫡男としての優位性は絶対であることを、きつく戒めるものだったという。興味深いのは、この訓戒状が秀忠宛てではなくお江宛てであったこと。このことから想像するに、忠長に固執していたのはお江のほうで、秀忠は姉さん女房のお江に追従するかたちで忠長に期待していたのだろう。こんな逸話が残っていることからも、お江はかなり豪胆な一面を持った女性であったことがわかり、秀忠が尻に敷かれていたという説が伝わるのも、無理からぬことである。

病に倒れた大姥局と、見舞いに来た家康とお会話。
大姥局 「若様と一度ゆっくりと話し合われて下さいませ。」
家康  「あやつは、わしに心を開かぬでな・・・。」
大姥局 「それは若様おひとりのせいだと・・・? 大殿様の御心が引いているゆえ、若様がお心を開かれぬのです。親に打ち消されるとわかっていて尚、心を開いて話す子がおりましょうや・・・。」
 この大姥局の台詞は、息子を持つ父親としては身につまされた。たしかにその通りである。親は、当然ながら息子より長く生きており、その分経験も豊富で、答えを知っている。だから、ついつい答え合わせの計算式を息子に求めようとし、違う方法で答えを探そうとする息子に、自分の知っている計算式を教えようとしてしまう。しかし、それは息子の思考を打ち消している行為であり、親の意見が正しければ正しいほど、息子は自分の考えを話さなくなり、自分の思考を持たなくなるかもしれない。そんなことを考えさせられた台詞だった。どんなに愚論であっても、まずは耳を傾ける。そして、決して否定はしない。これ、父子関係のみならず、上司と部下の関係にも言えるかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-17 03:21 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第38話「最強の乳母」

 慶長9年(1604年)7月17日、徳川秀忠・お江夫妻に待望の男子が生まれた。父、祖父と同じ竹千代という幼名を付けられたこの長男こそ、のちの第三代将軍・徳川家光である。当時、武家では子女が生まれると老練な家臣の中から傅役(養育係)が、出産や育児の経験のある女性の中から乳母が任命された。竹千代こと家光の場合、傅役には青山忠俊酒井忠利内藤清次らが、そして乳母にはお福こと、のちの春日局が選ばれた。忠俊らはいずれも譜代の旗本だったため、傅役への登用は順当な人事といったところだろう。

 一方、世間の耳目を集めたのは、乳母の人事だった。選ばれた春日局は譜代の大名や旗本の出ではなく、父は斎藤利三で、稲葉正成と結婚、離婚をした経験を持っていた。父の斎藤利三は明智光秀の重臣で、山崎の戦いに敗走したのち捕縛され、羽柴秀吉の命によって処刑された。元夫の稲葉正成は備前岡山藩主であった小早川秀秋の元家老で、関ヶ原の戦いの際には徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせた張本人だったと伝わる。しかし、戦後は秀秋と対立して蟄居、そして慶長7年(1602年)に秀秋が死去して小早川家が断絶すると浪人となる。そして、妻が徳川家の乳母に採用されたことをきっかけに離縁したと伝わる。

 春日局が乳母に抜擢された経緯は諸説ある。よく物語などで使われる説は、江戸幕府が京都市中に立てた乳母募集の高札をみて、春日局が乳母に応募したという説。この説によると、春日の局は自ら乳母に応募し、江戸幕府の京都所司代・板倉勝重に採用されたとされる。また、別の説では、春日局は絵師の海北友松、あるいは家康の側室のお亀の方(相応院)の推薦で、乳母に採用されたという説もある。海北友松は父・斎藤利三の親友だった人物で、山崎の戦いの後、利三の首が京都の六条河原に晒された際、夜陰に乗じて首を奪って手厚く葬った、という逸話を持つ人物である。また、友松はその後も困窮していた春日局らに、援助の手を差し伸べたとも伝わる。ドラマでのお福が、「浅井家縁の者に助けられた。」と言っていたのは、おそらくこの友松のことであろう。絵師として知られる友松だが、元は浅井家の家臣であった。そんな友松が、浅井家の三女であるお江に直接、春日局を推薦したというのは考えづらいが、友松が秀忠の元小姓で詩人の石川丈山あたりを介して、彼女を秀忠もしくは板倉勝重に推薦した可能性は否定できない。いずれにせよ、そういった出自経歴の持ち主である春日局が、秀忠の正子の乳母に抜擢されたのは、多くの人々の推薦を得たからに他ならないであろう。

 慶長8年(1603年)2月に征夷大将軍の職に任ぜられた徳川家康であったが、在職わずか2年で秀忠に将軍職を譲ってしまう。天文11年(1542年)生まれの家康は、この当時63歳という高齢となっていたが、しかし自ら薬を調合するなど健康には人一倍注意を払っていたため、特に健康上の問題があったというわけではなかった。にもかかわらず、家康が在職2年で将軍職を退いた理由は、多くの物語などで描かれているように、将軍職を秀忠に世襲したことで、引き続き徳川家が天下人の座に君臨し続けることと、「天下の大権」を大坂城にいる豊臣秀頼に渡す意志が全くないことを、天下に公言するためだったと考えて間違いないであろう。

 関ヶ原の戦いに勝って江戸幕府を開いた時点で、すでに天下人の座は事実上、家康の手に移っており、なにもそこまで豊臣家を警戒する必要はなかったのでは・・・と、結果を知っている後世の私たちは思いがちだが、当時の家康にとっては、決して徳川幕府の行く末は安泰とは思っていなかった。諸国には福島正則加藤清正のような豊臣家の一族の大名が残っており、前田利長山内一豊のような豊臣家恩顧の大名も数多く存在する。そんな大名たちの中には、豊臣秀頼に期待する者が多く、なかには、「秀頼公が成長すれば、家康公は『天下の大権』を返上するに違いない!」と勝手に思い込んでいる者も少なくなかった。ドラマにもあったように、豊国祭での民衆の熱狂ぶりは大変なものだったようで、大坂では未だ衰えをみせない豊臣人気を目の当たりにして、家康の豊臣家に対する警戒心は更に強まったことであろう。同時に、豊国祭の盛況を見た淀殿が、豊臣政権の復活を民衆は待望していると錯覚したのも、無理からぬことであった。

 家康は将軍職を退いたものの、隠居生活に入ったわけではなく、全将軍=大御所として駿河駿府城へ移住し、ここに駿府政権を樹立して引き続き江戸幕府の基礎固め当たった。二代目将軍・徳川秀忠は江戸城に留まり、ここに駿府と江戸との二重政権が発足する。この家康の行動が大坂城の淀殿に与えた動揺は察するに余りあるが、このときのお江の心中はどんなものだったのか・・・知りたいところである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-03 01:58 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(0)