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おんな城主 直虎 第32話「復活の火」 ~井伊谷三人衆と小野但馬守政次~

 永禄11年(1568年)12月6日、甲斐国の武田信玄は甲府を出発して駿河への侵攻を開始します。対する今川氏真は、12月12日、武田軍を迎撃するため重臣の庵原忠胤に1万5千の軍勢を与えて、薩埵峠へ向かわせました。しかし、ここで今川は有力な国衆21人の裏切りにあい、12月13日、今川軍は潰走し、駿府は武田軍に占領されます。今川氏滅亡劇が始まりました。


 一方、三河国の徳川家康も、信玄に呼応するかたちで動き始めます。『三河物語』によると、信玄と家康は事前に示し合わせ、大井川をはさんで駿河国武田領遠江国徳川領にする密約を交わしていたといわれます。三河国から遠江国に侵攻するには、その国境に位置する井伊谷は重要な拠点となります。その徳川に取り入って井伊家の再興を図るというのが、ドラマでの井伊直虎小野但馬守政次の狙いでした。


 『改正三河後風土記』によると、遠江を攻略すべく岡崎城を発った家康は、まず、井伊谷城を攻めようと三河野田城主の菅沼定盈とその家臣・今泉延伝案内役を命じます。その定盈は家康に対し、「井伊谷城は要害の地にある城ゆえ攻めるに難しく、力攻めにすれば空しく月日を費やし、兵を多く失うことになります。そこで、わたしの一族である菅沼忠久や近藤康用、鈴木重時という井伊谷の三人の豪傑に恩を施して味方につけ、戦わずして城を手に入れましょう。」と進言したといい、これを受けた家康は「その申すところ、もっともである。」として、井伊谷近くまで馬を進め、三人に知行の宛行状を渡したと伝えます。このシーンはドラマにもありましたね。


 一方で、『井伊家伝記』によると、家康は菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の三人に井伊谷城を攻めさせ、小野但馬守政次を敗走させたと伝えます。三人の軍勢はよほど強かったようで、政次は満足に戦うことなく逃亡したといいます。ただ、井伊谷城を攻撃したという記述は『井伊家伝記』のみに見られるもので、史実かどうかは定かではありません。何度か紹介してきたとおり、『井伊家伝記』は江戸時代中期に書かれた家伝で、その信憑性については疑問符が打たれる史料なので(・・・ただ、それを言ってしまうと、井伊直虎=次郎法師というのも、この『井伊家伝記』に基づく説なんですが)。


 『井伊家伝記』の記述を信用すれば、井伊家を横領して我が物にしようとした奸臣・小野但馬守政次が悪者で、その政次を捉えて処刑に追いやった近藤康用こそが、井伊家を救った恩人ということになります。ところが、ドラマではまったく逆の設定。政次こそが井伊家のために命を張った忠臣で、近藤はこれまでの遺恨(材木泥棒の話)などから井伊家を快く思っておらず、この機に乗じて井伊谷を乗っ取ろうとする悪役に描かれていました。その真偽はどうなのか・・・。先述したとおり、『井伊家伝記』は徳川を批判することが許されない江戸時代中期に書かれたもので、歴史家のあいだでは、小野を悪役に仕立てることで、徳川、井伊谷三人衆、井伊の大義名分を確保した可能性が指摘されている史料です。そう考えれば、ドラマのような解釈はまったく否定できませんよね。実際、『井伊家伝記』の記述にみる井伊谷城横領後の政次の行動は、あまりにもお粗末すぎて不自然です。案外、ドラマのような物語があったのかもしれません。


「にわかには信じられぬであろうが、井伊と小野はふたつでひとつであった。井伊を抑えるために小野があり、小野を犬にするため井伊がなくてはならなかった。ゆえに憎み合わねばならなかった。そして生き延びるほかなかったのだ。」


 それが、大国・今川氏の傘下で小国が生きていくための手段だった・・・と。かつて「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」と語った政次の亡き父・小野和泉守政直の言葉は、こういうことだったんですね。しかし、それも今日で終わりだ・・・と。ここから、新しい井伊家が始まるんだ・・・と。


 しかし、その新しい井伊家に小野は参加できません。政次という人物の見方は、いくらでも角度を変えて解釈できるでしょうが、歴史上起こった出来事までは変えることはできません。次回、その悲痛な結末が描かれます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-14 16:13 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第29話「女たちの挽歌」 ~信玄・家康の密約と虎松の生母の再婚~

寿桂尼がこの世を去った永禄11年(1568年)、井伊家を取り巻く情勢はいよいよ緊迫の様相を呈していました。同年8月17日、実質破綻していた甲斐国武田信玄駿河国今川氏真手切れが決定的となります。危機感を抱いた氏真は、越後国上杉謙信同盟を結ぶべく懸命に交渉を進めていました。劇中、井伊直虎三河国徳川家康に上杉氏との同盟を持ちかけたのは、そんな背景からの着想だったわけです。上杉氏と徳川氏が結び、そこに今川氏と北条氏が加われば、武田氏の駿河侵攻は避けられる・・・と。しかし、信玄はすでに家康に接近し、大井川をはさんで駿河国は武田氏、遠江国を徳川氏といった密約を交わしていたといわれます。武田軍の駿河侵攻は時間の問題でした。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、信玄がこのタイミングで動き出した背景には、この年の9月、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛したことが影響していたと思われます。このとき、武田氏と織田氏は同盟関係にありましたが、織田氏の勢力拡大は武田氏にとって決して喜ばしいことではなく、牽制する必要があったんですね。そのためには、東の憂いを排除しておく必要があったわけです。


 直虎が家康に上杉氏との同盟を勧めたという話はドラマのオリジナルの設定なので、当然ながら同盟は不成立に終わります。そして、逆にその行為がとなって、井伊家の立ち位置を危ぶまれ、井伊虎松の母・しの人質に要求されてしまいます。もちろんこれも、ドラマのオリジナル設定です。


 しかし、虎松の生母再婚したという話は本当で、その相手が徳川方の間者・松下常慶の兄・松下源太郎清景というのも史実です。この件に関して『井伊家伝記』にはこう記されています。


 「直盛公内室並びに次郎法師御相談にて、直政公御実母御年若故、松下源太郎方へ御縁付き成され候」


 直虎は母の祐椿尼と相談し、若くして未亡人となった虎松の母に再婚を勧め、松下源太郎清景に嫁がせたというんですね。どうやら人質ではなかったようです。ただ、この結婚がいつだったかはわかっておらず、ちょうどこの駿河攻め直前にもってきて人質としたのは、上手い設定だったんじゃないでしょうか?


 この松下氏とは、頭陀寺城の城主・松下加兵衛之綱の一族です。之綱といえば、まだ織田信長に仕える前の少年・藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の非凡さを見抜いて拾い上げ、武士として育てたことで知られる人物です。その一族である清景は、虎松の実母と結婚したことで虎松の継父となり、後年、井伊直政となった虎松が徳川家家臣として頭角を現すと、井伊家の重臣として代々仕えることになります。


 物語は前回あたりがらグッと大河ドラマらしくなってきましたね。緊迫した甲駿関係、そんななか、直虎のとる策は・・・。これから数話、ドラマは大きなクライマックスを迎えます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-24 21:53 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第21話「ぬしの名は」 ~気賀宿と中村屋~

 浜名湖に面する商業の町・気賀が今話の舞台でしたね。気賀は現在の浜松市北区にあった地名で、かつては東海道の脇往還である本坂通の宿駅として栄え、江戸時代には気賀関所が設けられたまちでした。エンディングの『直虎紀行』でも紹介されていたとおり、かつて浜名湖は淡水湖だったそうですが、ドラマのこの時代より遡ること70年近く前の明応7年(1489年)に起きた「明応の大地震」によって南側が決壊し、海へと通じるようになったそうです。これにより浜名湖南側を走る大動脈、東海道分断されてしまい、北側を迂回する本坂通の往来が盛んになり、その街道沿いのまちだった気賀は、宿場として栄えました。気賀の東に流れる井伊谷川都田川には橋が架かっておらず、街道を往来する人々は渡し船で通行したそうで、まちには船着場がいくつもあったといいます。


ちなみに、ドラマでは気賀を「きが」と言っていましたが、「きが」と読まれるようになったのは昭和12年(1937年)からだそうで、それ以前は「けが」と読んでいたそうです。


 ドラマに出てくる盗賊の頭・龍雲丸は架空の人物ですが、気賀の商人を取り仕切っていた中村与太夫は実在の人物です。代々、浜名湖の航路を支配していた中村氏は、この時代、屋号『中村屋』をかかげて、今川家の代官として戦船も管理していたといいます。この頃の中村氏の当主は第18代・中村正吉で、ドラマに出てきた中村与太夫は正吉の次男です。これより少しあとの永禄11年(1568年)、松平(徳川)家康が遠江国に入ると、正吉は船を出してこれを迎えたといい、その後、主君を今川氏から松平氏に乗り換えました。さすがは商家、機を見るに敏ですね。もっとも、この頃の今川氏は支配下の相次ぐ離反に歯止めが効かない状態にありましたから、中村氏の判断は当然のことだったといえるでしょうが。中村氏が付いたことで、松平氏は浜名湖の航路を手中に治めたわけです。これは大きかったでしょうね。

 以後、中村氏は徳川家に仕え、今切軍船兵糧奉行代官を勤めました。次男の与太夫はその分家にあたる気賀中村家の始祖となり、その当主は代々「与太夫」を名乗り、気賀宿の本陣として繁栄を築きました。余談ですが、後年、家康が正室・築山殿(瀬名姫)侍女に手を付けて妊娠させてしまった子を、宇布見の本家中村家の屋敷で産ませたといわれています。のちに家康はたくさんの女性に子どもを産ませますが、正室以外の女性に産ませた子としては、たぶん、これが最初のお手付きだったと思われ、しかも、それが築山殿の侍女だったということもあり、多少は後ろめたい思いがあったのかもしれません。一説によると、侍女の懐妊を知った築山殿は超激怒し、侍女の身の危険すら感じられたため、その目を逃れるために城外で出産させたとも。その出産の場に中村家の屋敷が選ばれたわけですから、中村氏が家康からよほど信頼されていたことがわかりますね。

 ちなみに、そのお手付きとなった女性は於万の方(長勝院)で、中村屋敷で生まれた子が、のちの結城秀康です。

 少しだけドラマのストーリーの話しをすると、龍雲丸から武家は百姓が作ったものを召し上げる大泥棒と言われ、ガビーンとなった井伊直虎。まあ、税金なんてものは払わずにすむなら払いたくないと思うのが世の常で、取られる側からしてみれば「盗られてる」感覚になるのは今も同じですね。ましてや、この時代の百姓に課された年貢の税率は、現代の税金とは比較にならないほど重いものでしたから。


もっとも、農民と武家の関係は直虎が言ってた土地の貸借関係というより、荘園の警護と百姓の保護のために有力農民の中から自然発生的に生まれたのが武家ですから(異説あり)、百姓は米を作り、武家は命を張る、といった相互関係が成り立っていたんじゃないかと思います。むしろ、政務活動費と称して多額の公金を横領し、記者会見で無様な号泣を晒したどっかの県議や、政治資金を公私混同してピザの本やら家族旅行やら中国服やらに使って辞職に追い込まれたどっかの都知事など、わたしたちの血税を私物化する「税金泥棒」は、現代の政治家や役人のほうが多いかもしれませんよ。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-29 17:35 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(5)  

おんな城主 直虎 第8話「赤ちゃんはまだか」 ~しのと瀬名姫~

 今話は、そのタイトルどおり、井伊直親・しの夫婦になかなか子ができない苦悩のお話。「嫁して三年、子なきは去る」と言われた時代ですから、武家の正妻に子ができないというのは大問題だったことはわかりますが、大河ドラマの1話を使ってやるほどの話か?・・・と思わなくもないです。正直、どうでもいい話かな・・・と。井伊直虎という、ほぼ無名の人物を主人公に物語を描くには、こんな回も必要なんでしょうが・・・。ただ、1ヵ所だけ頷ける台詞が・・・。


 「私がおとわ様じゃったらと誰もが思うておる。口には出さねど、殿も、お方様も、皆も、直親様も・・・。」


 思いつめたしのが次郎法師に向けて吐いた台詞ですが、次郎法師と直親が結婚できなかった本当の理由は定かではありませんが、当主・井伊直盛にとっては、実の娘である次郎法師と直親を娶せて後継者としたかった思いは強かったでしょう。でも、何らかの理由でそれが出来ず、一族の奥山因幡守朝利の娘と結婚します。たしかに、「次郎法師だったら・・・」という目で見られていたでしょうね。


 直親の正妻となった女性については、その事績をうかがう史料は皆無に等しく、奥山因幡守朝利の娘(奥山親朝の娘という説もある)ということ以外はわかっていません。ドラマでは「しの」と名乗っているその名前も、定かではないようです。つまり、ほとんど謎の人物といっていいでしょう。ただ、結婚から約6年後の永禄4年(1561年)、直親との間に待望の男児を生んだことは間違いなく、その男児が、のちの徳川四天王の一角となる井伊直政です。後年、井伊家は徳川幕府体制のなかで5人の大老を輩出するに至るわけですが、その井伊家が滅亡寸前のこの時代、その血をかろうじて繋いだ女性が、この人だったわけですね。ある意味、歴史に大きな役割を担った女性といえるでしょうか。


 舞台を駿府に移して、前話で夫婦縁組が整った松平元康(のちの徳川家康)と瀬名姫(のちの築山殿)でしたが、今話では、もはや嫡男の竹千代(のちの松平信康)が生まれていました。史実では、瀬名姫と元康が結婚したのは弘治3年(1557年)、竹千代が生まれたのは永禄2年(1559年)とされています。瀬名姫の生年は詳らかではなく、結婚したとき共に16歳だったともいわれますが、瀬名姫が8歳年上の姉さん女房だったとの説もあります。ドラマでは、後者の設定のようですね。


寿桂尼「よい縁であろ。2人はよく話もしておるようじゃし。」

元康「身に余るお話にございます。」

瀬名「私も身が余っておりまする。」


 このくだりは笑えましたね。今回のドラマでは、今のところ面白ろキャラの瀬名姫ですが、でも、瀬名姫の人生が笑えない結末となることは周知のところだと思います。これからどんな風に描かれるのか注目しましょう。ちなみに、桶狭間の戦いは永禄3年(1600年)5月19日ですから、「ご武運を!」と言った竹千代は、このとき満1歳になったばかり。なかなかな神童ぶりですね。さすがは、家康が晩年までその死を悔やんだといわれる息子です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-27 21:33 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

真田丸 第50話「最終回」 ~日本一の兵(ひのもといちのつわもの)~

 慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣における最後の決戦が行われました。真田信繁(幸村)が布陣したのは、大坂冬の陣のときに徳川家康の本陣が敷かれていた天王寺口茶臼山でした。豊臣方は前日の激戦で後藤又兵衛基次隊や木村重成隊が壊滅し、残った兵たちも疲労困憊の状態でしたが、信繁は兵たちの士気を高めるべく自ら陣頭に立ち、起死回生の戦いに挑みます。


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 このときの真田隊の様子については、軍記物等で様々に語り継がれています。『大坂御陣山口休庵咄』では、信繁は「茶臼山に真っ赤な幟を立てて、赤一色の鎧兜に身を固めて布陣していた。その東には息子の真田大助が控えていた」とあり、また、『武徳編年集成』には、「茶磨山(茶臼山)には真田が赤備、躑躅の花咲たるが如く、堂々の陣を張る」と、そのきらびやかな武者ぶりを描写しています。信繁にとってこの日は、一世一代の晴れ舞台だったのかもしれません。


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 冬の陣の際の真田丸附近には毛利勝永隊、大野治長隊が布陣し、岡山口は大野治房隊が固めます。この日、信繁たちは、初めから家康の本陣を突くことのみに狙いを定めていました。大坂城は裸城となり、兵力差も歴然としていたなか、ダラダラと戦を長引かせたところで万にひとつの勝ちも見込めない。であれば、狙いは家康の首ただひとつ。家康を殺すことで徳川方の戦意をくじき、一気に戦いを収束させて談判に持ち込もうという作戦ですね。たしかに、この時点で豊臣方にわずかでも勝算があるとすれば、その一手しかなかったでしょう。まさに、乾坤一擲の戦いでした。


 この戦いで真田隊は、捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて強行突破を図り、3度に渡って猛攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻め込んだといいます。『幸村君伝記』には、「左衛門佐殿は、味方悉く敗走し、或は討たるるに、少しも気を屈さず、真丸に成りて駆破り駆けなびけ、縦横に当たりて、火花を散らして操み立てられける。此時、家康公の御先手敗軍して、御旗本へこぼれ懸かりける程に、御本陣もひしぎなびきて、既に危ふき事両度まで有りしと成」とあります。家康本陣を守っていた旗本たちは、まさかそこまで敵の兵が攻めてくるとは思っておらず、恐怖のあまり本陣を捨てて我先にと逃げ惑う有様だった・・・と。


 薩摩藩島津家の家臣の記録『後編薩藩旧記雑録』には、「五月七日に御所様の御陣へ、真田左衛門佐かかり候て、御陣衆三里ほどづつにげ候衆は、皆々いきのこられ候。三度目にさなだもうつ死にて候」と記されています。また、『本多家記録』には、「幸村は十文字の槍を持って家康様を目掛けて戦わんと心掛けていた。家康様はとても敵わないと思い、植松の方に退いていった」とあります。さらに、『三河物語』には、「家康の馬印が倒されたのは、武田信玄と戦った三方ヶ原の合戦以来のことだった」と伝えています。実際に信繁自身がどこまで肉薄したかはわかりませんが、宣教師らの証言によると、家康は切腹を口にしたといいますから、真田隊の猛攻によって、家康本陣は大混乱に陥ったことは間違いなさそうです。


 劇中でも、半泣きになって逃げ惑っていた家康でしたが、肉薄する信繁と向き合い観念すると、目が変わり、「手を出すなー!」と叫んで護衛を下がらせます。


家康「殺したいなら、殺せばよい。されどわしを殺したところで何も変わらぬ。徳川の世はすでに盤石。豊臣の天下には戻らん! 戦で雌雄を決する世は終わった。おぬしのような戦でしか己の生きた証を示せるような手合は、生きていくところなどどこにもないわ!」

幸村「そのようなこと百も承知! されど、わたしはお前を討ち果たさねばならぬのだ! わが父のため、わが友のため、先に死んでいった愛する者のために」


 このときの家康は、まるで、この男になら殺されてやってもいい、といった目をしていましたね。家康はこの日の戦いに臨むにあたって、激戦が予想される天王寺口の総大将を自ら望んで務めました。息子の徳川秀忠は軍議の席で、老齢の家康をそんな危険な戦場に送り出すことはできないとして、天王寺口を自分に任せてくれと懇願しますが、家康は頑なに譲らなかったといいます。そうすることで、秀忠の命を守ったともとれますが、戦経験の浅い秀忠には任せられなかったともとれます。実際、徳川軍の旗本のほとんどが戦経験のない若者たちで、その腰抜けぶりを家康は嘆いていたといいます。数回前の劇中にも、そんなシーンがありましたよね。元亀・天正からの生き残りである家康は、たとえ自分を殺しに来た敵将であれ、信繁のような武辺者は、決して嫌いではなかったはず。そんな思いが、あの目だったんじゃないかなあ・・・と。


 『後編薩藩旧記雑録』では、信繁の戦いぶりについて、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、いにしへよりの物語にもこれなき由、惣別れのみ申す事に候」と絶賛しています。これを、ドラマでは信繁の理解者であった上杉景勝に言わせていましたね。また、『細川家記』にも、「古今これなき大手柄」と称賛しています。

「武士と生まれたからには、あのように生き、あのように死にたいものだ」

劇中の景勝の台詞ですが、信繁の戦いぶりを見た当時の武士たちは、敵味方に限らず、きっと、遠からずの感情を抱いていたんじゃないでしょうか。だから、徳川家の敵将でありながら、後世に語り継がれていったんじゃないかと・・・。


 豊臣秀頼馬印が後退したことで豊臣軍の士気が下がり、形勢は一気に徳川軍に向き始めたという話は史実です。これは、完全に大野治長のミスですね。末端の兵卒は、馬印・旗印が前進していれば優勢、後退していれば劣勢と判断します。戦場において御旗がいかに大事であるか、治長もまた、戦経験不足だったと言わざるをえません。


 秀頼がなぜ出陣しなかったかについては、様々な見方があります。出陣の準備をしていたところ、家康からの講和の使者が来たため中止になったという説や、淀殿が出陣をとめたという説、そしてドラマにあったように、信繁の徳川方内通の流言が出回っていたため、という話もあります。ドラマでは、最後まで信繁に対する疑いをぬぐい切れない大蔵卿の局が腹立たしかったですが、実際、このときの大坂城内では、戦意かく乱のために流されたデマが飛び交っており、信繁を疑う空気も広がっていたといいます。信繁も、徳川方に「浅野が寝返った」というデマを流していますしね。いずれにせよ、このときの大坂城内は、何を信じていいかわからない状態だったことが想像できます。


 信繁の最期についてですが、ドラマでは切腹によって果てたように描かれていましたが、通説では、家康本陣を3度襲撃したあと、茶臼山の北方にある安居神社の境内で休息をとっていたところ、松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、討ち取られたと伝わります。その最期は、激闘のすえ討ち取られたともいわれますし、信繁自ら首を差し出したという逸話もあります。その真偽はわかりませんが、「大切なのは、どんな死に際だったかではなく、どう生きたか」というドラマのテーマからいえば、どんな最期だったかは、どうでもいいことだったのでしょうね。


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信繁「わたしは、わたしという男がこの世にいた証しを何か残せたのか・・・」

内記「人のまことの値打ちというものは、己が決めることではございません」

信繁「誰が決める?」

内記「時でござる。戦国の世に義を貫き通し、徳川家康と渡り合った真田左衛門佐幸村の名は、日の本一の兵として語り継がれるに相違ございません」

信繁「どんな終わりを迎えてもか?」

内記「大事なのはいかに生きたかでございますゆえ」


 真田信繁という人物は、人生の最期の最後にほんの一瞬だけ輝き、そしてむなしく散っていった武将に過ぎず、徳川家康豊臣秀吉織田信長のように、何か特別なものを世に残した偉人ではありません。しかし、後世はそんな信繁に魅せられ、古今比類なき英雄として語り継いできました。徳川幕府時代にあって敵将である信繁を英雄視するというのは、よほどのことだったに違いありません。まさしく、が信繁の値打ちを決めたんですね。

 日本一の兵・・・・と。


 最終回はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『真田丸』のレビューは終わりとなります。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-21 00:23 | 真田丸 | Trackback | Comments(2)  

真田丸 第48話「引鉄」 ~つかの間の和睦~

 今話は、慶長19年(1614年)12月20日に大坂冬の陣の和睦が成立してから、翌年の慶長20年(1615年)春に徳川方によって再び大坂城攻めが開始されるまでが描かれていました。徳川、豊臣の間で交わされた和睦は、わずか4ヶ月破綻します。実際には、和睦が成立してから堀の埋め立てに2ヶ月近くを要していますから、徳川軍が撤退してからたった2ヶ月での再戦決定となります。このスピードから見ても、徳川家康が最初から和睦するつもりなどなかったことがわかりますね。家康にしてみれば、堀や砦を再建されないうちに、一気に勝負に出たかったのでしょう。


 おそらくはその堀が埋め立てられるまでの2ヶ月の間に、真田信繁は甥の真田信吉・信政兄弟に面会したと伝えられます。関ケ原の合戦以来の面会だったでしょうから、たぶん、当時は二人とも幼児で、その成長ぶりに、改めて年月の流れを実感したことでしょうね。このとき信繁は、兄弟に従っていた矢沢頼幸ら旧家臣たちとも対面しています。故あって敵味方に分かれたとはいえ、かつては共に徳川と戦った仲であり、きっと話が尽きなかったことでしょう。


e0158128_02593242.jpg この時期に信繁が一族に宛てて書いた書状が三通残されています。そのひとつは、慶長20年(1615年)1月24日付で実姉の村松(ドラマでは)に宛てたもので、その内容は、自身が豊臣方に与したことで、真田本家に迷惑がかかっていないかを心配したうえで、和睦が成立して自身も生き残ったが、「明日はどうなるかわかならい」と記しており、信繁がこの和睦を一時的なものだと見ていたことがわかります。一方で、このまま何事もなく「平穏無事に過ごしたい」とも書いており、決して信繁は徳川との決戦を望んでいたわけではなかったこともうかがえます。


 そして翌月の2月10日には、信繁の娘・すえの岳父である石合十蔵宛てに書状を送っており、そこでは、自身がすでに死を覚悟している旨を記したうえで、「娘のすえをくれぐれもよろしく」と頼み込んでいます。


 さらに、翌月の3月10日には、姉婿の小山田茂誠とその息子・之知に宛てて書状をしたためており、そこには、自身が豊臣秀頼からひとかたならぬ信頼を受けていて有難いものの、そのために、何かと気遣いが多くて大変だと率直な気持ちを述べています。たぶん、秀頼に懇意にされてことで、大坂城内で妬みやっかみなど、ややこしい摩擦があったのでしょうね。また、書状では、「定めなき浮世のことですから、一日先のことはわかりません。どうか、私のことは、浮世にいるものとは思わないでください」と記されています。つまり、「私は死んだものと思ってくれ」ということですね。


ドラマでは、兄の真田信之に宛てた手紙が出てきましたが、実際には信之に宛てた手紙は存在せず、上述した三通の書状を下敷きにしたドラマの創作だと思われます。1月、2月、そして3月と、それぞれの書状を見ても、大坂夏の陣に向けた当時の空気感が伝わってきますね。豊臣方の中核にいた信繁は、そのすべてを肌で感じていたのでしょう。この時期、信繁はどんなことを思いながら過ごしていたのでしょうね。


 e0158128_18432594.jpgこの間、大坂方には和睦成立以前より牢人が増え、血気盛んな牢人の一部は大坂城外に出て乱暴狼藉を繰り返します。また、ドラマにもあったように、大野治長の弟・治房が、手に大坂城の蔵から配下の牢人たちに扶持を与えるという暴挙に出てしまいます。さらには、大野治長が大坂城内にて襲撃される事件が起き、その首謀者が弟の治房だという風聞が流布します。やはり、所詮は寄せ集めの烏合の衆、大坂城内は完全に統制を欠いていました。


そして3月15日、それら豊臣方の不穏な動きを伝える報が京都所司代の板倉勝重より家康の元に届くと、家康は牢人の追放か豊臣家の移封を大坂方に要求します。しかし、大坂方はそのどちらも飲むことはできず、家康も、それをわかっての無理難題だったといえるでしょう。かくして、豊臣家と徳川家は再び戦うことになります。というより、家康にそう仕向けられたといったほうが正しいでしょう。かつての天下無双の大坂城の姿はどこにもなく、防御力の一切を削がれた大坂城では、万に一つの勝ち目もないことは、火を見るよりも明らかでした。そんななか、信繁たちは何を思い、何を求めて戦いに挑んだのか。あと2話で、どう描かれるのか楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-05 19:26 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第47話「反撃」 ~大坂冬の陣講和~

 徳川方の砲撃に恐れおののいた淀殿は、一転して和議の申し出に応じる姿勢を見せます。ここに至るまでも、淀殿の叔父にあたる織田有楽斎長益が何度も和議を持ちかけていましたが、淀殿は一貫して強硬姿勢をとっていました。しかし、目の前で侍女が命を落とした出来事は、あまりにもショッキングだったのでしょう。とうとう有楽斎の進言をのみます。その有楽斎が初めから徳川方に通じていたことなど、もちろん知るはずもありませんでした。このとき、豊臣秀頼は頑強に和議に反対していたといいますが、結局、淀殿や有楽斎に押し切られてしまいます。

e0158128_22213540.jpg 徳川、豊臣両者による和議の話し合いが行われたのは、慶長19年(1614年)12月18日と19日の2日間。『大坂冬陣記』によると、徳川方の交渉役は徳川家康の信頼厚い側室・阿茶局と、この頃、父の本多正信に代わって家康付きになっていた本多正純で、豊臣方の使者に抜擢されたのは、淀殿の実妹・常高院(お初)でした。常高院は淀殿の妹であるとともに、徳川方の総大将・徳川秀忠(大坂の陣は実質、家康が指揮を採っていましたが、形式上は征夷大将軍である秀忠が総大将でした)の正室・お江の実姉でもあり、中立的な立場といえ(実際には、常高院の子である京極忠高は徳川方に与していたため、中立ではありませんでしたが)、交渉が行われたのも、京極家の陣所でした。戦後の交渉役に武士以外の僧侶や商人が抜擢されることは珍しくなく、女性が事に当たったという例もなくはなかったようですが、大坂冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったのではないでしょうか。

e0158128_22212613.jpg 同じく『大坂冬陣記』によると、豊臣方の示した和議の条件は、

一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。

 一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

とあり、これに対して徳川方の条件は、

 一、秀頼の身の安全と本領の安堵。

 一、大坂城中諸士についての不問。

というもので、これを約すことで和議は成立しました。一般に、家康が豊臣方を騙して堀を埋め立てたというイメージがありますが、実は、この堀の埋め立ては豊臣方から提示したものなんですね。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法でした。しかし、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだったといいます。つまり、これ以上戦う意志はありませんという意思表示のためのジェスチャーだったわけです。

ところが、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行します。約定では、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまいました。最初から家康の狙いはこれだったんですね。家康にしてみれば、20万の兵を持ってしても大坂城を落とすのは容易ではなく、豊臣家の財力を考えれば、2年や3年の籠城戦は可能だろう。その間、この度の真田丸の戦いのように、味方の兵力の被害も多く予想され、さらには、家康自身の寿命だって尽きるかもしれない。そう考えると、一刻も早く決着をつけたい。そのためには、大坂城の防御力を奪い、城の外に引き出して家康の得意な野戦に持ち込みたかったわけです。いうまでもなく、家康ははじめから和睦する気などさらさらなかったんですね。その家康の目論見にまんまと掛かった豊臣方。秀頼も淀殿も、暗愚だったとはいいませんが、家康の政治力の前では、赤子同然だったといえるでしょう。

 かくして裸城となった大坂城内には、真田信繁をはじめ牢人たちがなおも残っていました。彼らの目的は、新たな仕官を求めてきたものや、最期の一花を咲かせるためにきたもの、死に場所を求めてきたものなど様々でしたが、いずれの者にとっても、この突然の和議成立は納得できるものではありませんでした。しかし、そんな牢人たちの存在が、家康が再び戦いに持ち込むための格好の材料になっていくんですね。歴史は家康の描いた筋書きどおりに運んでいきます。この最晩年の家康は、三谷幸喜氏も及ばない天才シナリオライターでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-28 22:24 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第44話「築城」 ~真田丸~

 真田信繁(幸村)らが推した出撃策は首脳(ドラマでは大蔵卿局織田有楽斎)たちによって一蹴され、籠城策と決まった豊臣方。おそらく大阪城内に多くいたであろう内応者からその報せを受けた徳川家康は、「これで勝ったのう・・・」と、したり顔で呟いていましたが、果たしてどうだったでしょうね。百戦錬磨の家康ですが、元来、家康は城攻め苦手で、野戦を得意としていました。結果的に大阪の陣は家康の老獪さで徳川軍が勝利することになるわけですが、開戦前のこの時点で、しかも天下無双の大坂城を前に、敵の籠城策を知って喜んだとはとても思えません。むしろ、討って出てきてくれたほうが好都合だと思っていたんじゃないでしょうか?


 その天下無双の大坂城ですが、とはいえ、まったく弱点がなかったわけではありません。北は淀川、東は河川と湿地帯、西は湿地帯と大阪湾に守られていましたが、南側だけは河内平野と陸続きで、天然の要害というべき地形ではありませんでした。生前の豊臣秀吉もこの点は重々心配しており、晩年に総構えを築き、その弱点を封じようとしていました。


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 ちなみに、現在の大坂城は大坂夏の陣以後に徳川幕府によって再建されたもので、豊臣時代のものではありません。豊臣時代の城跡に盛土をして、堀の幅も石垣の高さも豊臣時代のほぼ2倍の大きさになっていますが、面積でいえば、豊臣時代の縄張りのほうがはるかに大きく、約15km四方、現在の徳川大坂城の約5倍の規模だったといいます。例えば、現在の大坂城の最南端は大阪環状線森ノ宮駅付近ですが、当時の最南端は、そこから更に1駅南下した玉造付近にありました。大坂城全体がひとつの都市だったといえます。このとてつもない広さだったからこそ、10万ともいわれる牢人たちを収容できたんですね。


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 大坂城の弱点である南側の守りを強化するために作られた出城が、今年の大河ドラマのタイトル「真田丸」でした。ここで信繁は迫りくる徳川勢を相手に巧みな戦術を展開し、一躍歴史の表舞台に名乗りをあげることになるのですが、この真田丸が実際、誰によって築かれたものであったかは定かではありません。史料によれば、信繁が南の弱点を見抜いて築いたという説や、ドラマのように、もともとは後藤又兵衛基次がここに目をつけて砦を築こうと準備していたところ、信繁が横取りしたという説もあり、あるいは、又兵衛が諸軍の遊軍を命じられたため、代わって信繁が守ることになったというものもあります。ただ、物理的に考えれば、信繁や又兵衛が入城してから築いたにしては日数が少なすぎで、もともと彼らが入城前から構築が始まっていたものを、信繁(あるいは又兵衛)が引き継いだと考えるのが自然かもしれません。


 いずれにせよ、信繁率いる真田軍がここを守備したことは間違いなく、「真田丸」と呼ばれるようになったのも事実です。もっとも、この出城を真田軍が単独で守ったわけではなく、長宗我部盛親軍と半分ずつ分担して守備していたのですが、真田軍の活躍があまりにも派手だったため、「真田丸」と呼ばれるようになったのだとか。盛親は面白くなかったでしょうね。ちなみに、「真田丸」の呼称は当初からついていたものではなかったようですが、翌年の夏の陣のときにはこの出城の跡地を「真田丸」と呼ぶようになっていたようで、そう呼び始めたのは徳川方だったようです。敵方にそう名付けられたということは、やはり、相当インパクトが強かったのでしょうね。


 有名な真田軍の「赤備え」についてですが、かつて真田家が仕えた武田信玄の配下である飯富虎昌山県昌景らの軍勢が「赤備え」で統一していたと伝わり、その流れをくんだものだったと考えられます。古来、武将の間で「赤」は、強者の象徴でした。古くは源平合戦で赤い紐で編んだ鎧などが登場しており、これは、自身が強者であることをアピールするためのものだったと言われます。当時、鎧を赤くするためには「辰砂」という赤い色の鉱物が必要で、たいへん高価なものだったそうです。武田軍の伝統を継承し、強者であることを顕示し、高価な赤備えを纏った真田軍。この戦いにかける強い思いがうかがえます。


 家康が若い兵たちに「仕寄せ」の作り方について講義するシーンがありましたが、時代考証担当の丸島和洋氏の話によると、『翁物語』に出てくる逸話のアレンジだそうです。似たような描写では、司馬遼太郎氏の小説『城塞』のなかでも、家康が戦経験のない若い兵の無知さを嘆くシーンが描かれています。実際、関ヶ原の戦いから14年の歳月が過ぎており、しかも、その関が原では徳川家譜代のほとんどの旗本たちは徳川秀忠と共に遅参しており、関ヶ原に勝利したものの、徳川方として戦ったのは外様大名ばかりでした。したがって、20万とも30万ともいわれる徳川軍ですが、これが初陣という若侍が圧倒的に多かったわけです。「戦争を知らない子供たち」だったわけですね。一方の豊臣方の牢人たちは、関が原はもちろん、文禄・慶長の役を戦った猛将揃いで、その点から言えば、決して豊臣方は兵力差ほど不利だとはいえませんでした。しかし、それらを率いる豊臣家首脳(大野治長ら)にそれほど戦経験がなく、さらには、淀殿や大蔵卿局などの女たちが軍議に口をはさむ始末では、百戦錬磨の猛将たちも、きっとやる気を削がれたでしょうね。このドラマでの淀殿のキャラが、まだつかめませんが・・・。


 さて、いよいよ次週、大阪冬の陣開戦です。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-07 23:06 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第40話「幸村」 ~方広寺鐘銘事件~

 今回は、「大坂の陣」に至るまでの経緯の説明の回でしたね。九度山村で蟄居中の真田信繁の前に突然現れた明石全登が、会わせたい人物がいるといって連れてきたのが、豊臣家家老で豊臣秀頼の傅役を務めていた片桐且元でした。「傅役を務めていた」過去形で紹介したのは、この時期すでに且元は大坂城を追放されており、徳川家康の元に寝返っていたからです。その且元がなんで信繁に・・・と思ったのですが、どうやら、世情を知らない信繁に対する、の語リ部役だったんですね。制作サイドの話によれば、今回のドラマは可能な限り真田一族きりがみていないシーンは描写しない方針だそうで、石田三成、大谷吉継の最期のシーンと同じです。

 大阪の陣に至る経緯のなかで、そのもっとも銃爪となったといわれるのが「方広寺鐘銘事件」ですね。この事件は、家康が豊臣家を攻めるための大義名分をでっち上げた言いがかり事件として知られていますが、今回のドラマでは、少し解釈が違っていました。まずは一般に知られているストーリーから紹介します。

 豊臣秀頼と淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っていました。この事業は家康が勧めたといわれ、その目的は、豊臣家の財力を削ごうという思惑があったといわれますが、逆に豊臣家としても、今なお秀吉の時代に劣らぬ力があるということを世間に知らしめる目的があったともいわれ、家康の勧めとは関係なく、淀殿と秀頼はこの事業を熱心に進めていたといいます。

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 そんな寺社復興事業の中に、かつて秀吉が建立し、地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿の再建がありました。そして慶長19年(1614年)、その修営もほぼ終わり、梵鐘の銘が入れられた7月になって突然、大仏開眼供養を中止するよう家康から申し入れがありました。その理由は、鐘の銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。この言葉は、「国家が安泰で、主君と家臣が共に楽しめますように」といった意味の言葉でしたが、家康がいうには、「国家安康」という句は家康の名を切ったものだとし、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむと解釈、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒します。

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 この言いがかりともとれるクレームに淀殿が逆ギレ。事態を重く見た家老の片桐且元は、家康への弁明のために駿府へ向かいます。しかし、且元は家康に会うこともできず、ようやく会うことのできた本多正純金地院崇伝といった家康の側近から、「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、このうちのどれかを選ぶように」との内意を受けます。且元は即答を避け、大坂への帰路につきます。

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ところが、且元の帰城と前後して、なかなか帰らない且元に業を煮やした淀殿は、側近の大野治長の生母であり淀殿の乳母でもある大蔵卿局を、第2の使者として家康のもとに送ります。大蔵卿局が駿府に到着すると、家康は且元の時とは態度を180度変え、機嫌よく彼女と面会し、「秀頼は孫の千姫の婿でもあり、いささかの害心もない。家臣たちが勝手に鐘銘の件で騒いで難儀している」と話したといいます。それを聞いた大蔵卿局は、狂喜して大坂城へ帰りました。淀殿は直接家康に会った彼女の報告を信じ、且元の持ち帰った3ヶ条を信用しないばかりか、「且元が家康と示し合わせて豊臣を陥れようとするものに違いない」と疑います。且元は、戦を避けるために家康に従うよう懸命に説きますが、これを淀殿が受け入れるはずもなく、逆に大阪城内で且元暗殺の企ても聞こえ始め、とうとう大坂城を退去するに至ります。同時に、且元と同じく非戦論を主張していた者たちも大坂城を追われ、秀頼と淀殿のもとに残ったは、大野治長をはじめとする主戦派の者たちばかりとなりました。

 というのが、よく知られている「方広寺鐘銘事件」の経緯です。そしてそのすべては豊臣氏討伐のために描いた家康の筋書きだった・・・と。この家康最晩年の老獪さが、後世に家康の印象を悪くしているといえますが、今回のドラマでは、ところどころ解釈が違っていました。そのひとつに、「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。これはまったくの言いがかりではなく、鐘銘を書いた文英清韓が、意図的に「家康」「豊臣」の字を隠し文字として用いた言葉で、しかしそれは、喜んで貰おうと思って考えたものが、逆に裏目に出てしまった、という設定でしたね。これは、ドラマオリジナルの解釈ではなく、時代考証の丸島和洋氏によれば、ずいぶん以前から存在した説のようです。つまり、何もないところから重箱の隅をつつくように言いがかりをつけてきたわけではなく、使わなくてもいい言葉を用いたために誤解を招いたというんですね。前者と後者では、ずいぶん印象が違います。

 また、片桐且元が持ち帰った和解のための条件も、ドラマでは勝手に且元が考えたという設定でしたが、またまた丸島和洋氏によると、実はこれも史実通りだそうです。且元としては、敢えて幕府の姿勢を強硬なものと示すことで、豊臣家を穏便な形で江戸幕府下の大名として存続させようとしたのでしょう・・・と。これが事実なら、且元と大蔵卿局の温度差も説明がつきます。これまでの物語では、徳川方が且元と大蔵卿局との対応の仕方を変えることで、豊臣家における且元の立場を悪くする狙いだったとされてきましたが、そうではなく、且元と大蔵卿局双方の受け取り方の違いだった・・・と。なるほど、それも、説明がつきます。

 つまり、「方広寺鐘銘事件」から「大阪の陣」に至る経緯は、家康の確信的な策謀ではなく、双方のすれ違いによるところも大きかった・・・ということですね。そうすると、家康の印象もずいぶん変わってきます。豊臣家が勝手に破滅の道を辿っていったことになりますね。どちらが真実なんでしょう。


 さて、「幸村」についてです。一般に「信繁」という名より多く知られる「幸村」ですが、このドラマが始まって以降、「幸村」という名は後世の物語で創作された名前だということは、いろんな方が解説されていますので周知のところだと思います。したがって、大坂城に入ることタイミングで「幸村」改名したという事実は存在しません。しかし、史料が存在しないだけで、ないともいえません。というのも、「幸村」という名前が使われ始めたのは、後世といっても明治や昭和になってからではなく、信繁の死後、わずか50年後のことです。その意味では、創作といえどもかなり古いものになりますよね。まだ信繁を知る者も生きていたかもしれません。そんな時代にすでに使われていた名前ですから、あるいは、何らかの根拠があったのでは・・・と、思いたくなります(学者さんは否定されるでしょうけど)。今回のドラマでは、「幸」の字を捨てた兄・信之に代わって、代々受け継がれてきた「幸」の字を信繁が継いだ・・・と。そしてそれは、昌幸の希望でもあった・・・と。いいじゃないですか!この設定。ここに、伝説の名将・真田幸村が誕生しました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-11 15:19 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第38話「昌幸」 ~二条城会見と真田昌幸の死~

e0158128_18432594.jpg 真田昌幸・信繁父子が紀伊国九度山村に流された慶長5年(1600年)12月から、昌幸が死去する慶長16年(1611年)6月までの約10年余りが一気に描かれましたね。この間、征夷大将軍となった徳川家康は江戸に幕府を開き、その2年後には息子の徳川秀忠に将軍の座を譲り、徳川政権の盤石化を図りました。一方で、慶長8年(1603年)にはわずか7歳の孫娘・千姫を大坂の豊臣秀頼に嫁がせ、旧主である豊臣家との関係が良好であること世間に知らしめます。一般に、関ケ原の戦い後すぐに家康は豊臣家を滅ぼすつもりだったように思われがちですが、決してそうではなかったことがわかります。


e0158128_18385012.jpg その家康に豊臣家を滅ぼす決意をさせたのが、慶長16年(1611年)3月38日に行われた家康と秀頼の二条城における会見だったと描かれることが多いですよね。成長した秀頼の器量の大きさとわが息子・秀忠の凡庸さを比較し、秀頼を殺す決意を固めた・・・と。この話自体は後世の創作ですが、たしかに、この二条城会見を境に家康が豊臣家滅亡への謀略をはじめたのは事実で、このとき、家康に何らかの意識変化があったのかもしれません。何よりこの会見に随伴した加藤清正、浅野幸長、池田輝政など旧豊臣恩顧の武将たちが、会見直後にことごとく死んでいったことから、家康の差し金による暗殺説が、当時からささやかれていました。ドラマでも、清正の死去は暗殺説が採られていましたね。これは、現在では歴史家さんのあいだでは邪説とされているのですが、物語的には、そっちのほうが面白いですからね。


e0158128_02592871.jpg で、九度山村での真田父子に目を移します。蟄居生活を強いられた昌幸・信繁でしたが、罪人としての幽閉生活というほどではなく、山狩り釣りなど、高野山領内であればある程度自由に動き回れたようです。この間、信繁には子供も生まれ、ある意味、平穏で幸福な日々だったともいるかもしれません。ただ、経済的には困窮していたようで、昌幸は嫡男・信之に何度も援助金を催促する書状を送っています。くさっても五万石の大名だったわけですから、わずかな家臣を従えた貧乏暮しは、耐え難い屈辱だったでしょうね。そんななか、昌幸を唯一支えていたのは、家康から赦免されて上田に戻るという一縷の希望でした。


 昌幸は信之や浅野長政を通じて赦免嘆願を繰り返し行っています。時期は定かではありませんが、その赦免嘆願は本多正信を通じて家康の耳にまで届いていたようで、それを伝え聞いた昌幸は、「赦免される日が近いゆえ、下山したら一度お会いしたい」と、楽観視した書状を旧知の人物に送っています。しかし、家康は二度も煮え湯を飲まされた昌幸を、決して許すことはありませんでした。


 やがて赦免の希望が叶わないことを悟った昌幸は、日に日に衰えていきます。このころ書かれた書状では、すっかり気力を失った弱気な言葉がつづられ、かつての名将の面影はもはやありませんでした。そして慶長16年(1611年)、いよいよ自らの死期を悟った昌幸は、信繁を枕頭に呼び、徳川と豊臣の決戦がはじまった際の秘策を授けたと伝わります。それが、ドラマに出てきた『兵法奥義』ですね。原本は大坂城とともに灰となったと伝えられますが、実在したかどうかは定かではありません。その秘策とは、籠城戦では勝ち目がなく、積極的に討って出て勝負をかけよ、というものでした。ドラマでは、この秘策を聞いて「自分には場数が足りないので自信がない」と発言した信繁に対して、「わしの立てる策に場数などいらん。」と昌幸は言っていましたが、伝承では、この秘策も家康を二度も破った自分の意見ならば豊臣家も従うだろうが、無名の信繁では握りつぶされるであろうと予言しています。で、実際そうなるんですよね。今年の大河ドラマでは、そういった千里眼的予知能力の持ち主はまったく出てきません。そこもいいですよね。


 慶長16年(1611年)6月4日、昌幸没。享年65。真田家を近世大名までのし上げた、真田家にとってはまさに中興の祖ともいうべき人物の波乱の生涯が幕を閉じました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-26 18:46 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)