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おんな城主 直虎 第8話「赤ちゃんはまだか」 ~しのと瀬名姫~

 今話は、そのタイトルどおり、井伊直親・しの夫婦になかなか子ができない苦悩のお話。「嫁して三年、子なきは去る」と言われた時代ですから、武家の正妻に子ができないというのは大問題だったことはわかりますが、大河ドラマの1話を使ってやるほどの話か?・・・と思わなくもないです。正直、どうでもいい話かな・・・と。井伊直虎という、ほぼ無名の人物を主人公に物語を描くには、こんな回も必要なんでしょうが・・・。ただ、1ヵ所だけ頷ける台詞が・・・。


 「私がおとわ様じゃったらと誰もが思うておる。口には出さねど、殿も、お方様も、皆も、直親様も・・・。」


 思いつめたしのが次郎法師に向けて吐いた台詞ですが、次郎法師と直親が結婚できなかった本当の理由は定かではありませんが、当主・井伊直盛にとっては、実の娘である次郎法師と直親を娶せて後継者としたかった思いは強かったでしょう。でも、何らかの理由でそれが出来ず、一族の奥山因幡守朝利の娘と結婚します。たしかに、「次郎法師だったら・・・」という目で見られていたでしょうね。


 直親の正妻となった女性については、その事績をうかがう史料は皆無に等しく、奥山因幡守朝利の娘(奥山親朝の娘という説もある)ということ以外はわかっていません。ドラマでは「しの」と名乗っているその名前も、定かではないようです。つまり、ほとんど謎の人物といっていいでしょう。ただ、結婚から約6年後の永禄4年(1561年)、直親との間に待望の男児を生んだことは間違いなく、その男児が、のちの徳川四天王の一角となる井伊直政です。後年、井伊家は徳川幕府体制のなかで5人の大老を輩出するに至るわけですが、その井伊家が滅亡寸前のこの時代、その血をかろうじて繋いだ女性が、この人だったわけですね。ある意味、歴史に大きな役割を担った女性といえるでしょうか。


 舞台を駿府に移して、前話で夫婦縁組が整った松平元康(のちの徳川家康)と瀬名姫(のちの築山殿)でしたが、今話では、もはや嫡男の竹千代(のちの松平信康)が生まれていました。史実では、瀬名姫と元康が結婚したのは弘治3年(1557年)、竹千代が生まれたのは永禄2年(1559年)とされています。瀬名姫の生年は詳らかではなく、結婚したとき共に16歳だったともいわれますが、瀬名姫が8歳年上の姉さん女房だったとの説もあります。ドラマでは、後者の設定のようですね。


寿桂尼「よい縁であろ。2人はよく話もしておるようじゃし。」

元康「身に余るお話にございます。」

瀬名「私も身が余っておりまする。」


 このくだりは笑えましたね。今回のドラマでは、今のところ面白ろキャラの瀬名姫ですが、でも、瀬名姫の人生が笑えない結末となることは周知のところだと思います。これからどんな風に描かれるのか注目しましょう。ちなみに、桶狭間の戦いは永禄3年(1600年)5月19日ですから、「ご武運を!」と言った竹千代は、このとき満1歳になったばかり。なかなかな神童ぶりですね。さすがは、家康が晩年までその死を悔やんだといわれる息子です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-27 21:33 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

真田丸 第50話「最終回」 ~日本一の兵(ひのもといちのつわもの)~

 慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣における最後の決戦が行われました。真田信繁(幸村)が布陣したのは、大坂冬の陣のときに徳川家康の本陣が敷かれていた天王寺口茶臼山でした。豊臣方は前日の激戦で後藤又兵衛基次隊や木村重成隊が壊滅し、残った兵たちも疲労困憊の状態でしたが、信繁は兵たちの士気を高めるべく自ら陣頭に立ち、起死回生の戦いに挑みます。


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 このときの真田隊の様子については、軍記物等で様々に語り継がれています。『大坂御陣山口休庵咄』では、信繁は「茶臼山に真っ赤な幟を立てて、赤一色の鎧兜に身を固めて布陣していた。その東には息子の真田大助が控えていた」とあり、また、『武徳編年集成』には、「茶磨山(茶臼山)には真田が赤備、躑躅の花咲たるが如く、堂々の陣を張る」と、そのきらびやかな武者ぶりを描写しています。信繁にとってこの日は、一世一代の晴れ舞台だったのかもしれません。


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 冬の陣の際の真田丸附近には毛利勝永隊、大野治長隊が布陣し、岡山口は大野治房隊が固めます。この日、信繁たちは、初めから家康の本陣を突くことのみに狙いを定めていました。大坂城は裸城となり、兵力差も歴然としていたなか、ダラダラと戦を長引かせたところで万にひとつの勝ちも見込めない。であれば、狙いは家康の首ただひとつ。家康を殺すことで徳川方の戦意をくじき、一気に戦いを収束させて談判に持ち込もうという作戦ですね。たしかに、この時点で豊臣方にわずかでも勝算があるとすれば、その一手しかなかったでしょう。まさに、乾坤一擲の戦いでした。


 この戦いで真田隊は、捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて強行突破を図り、3度に渡って猛攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻め込んだといいます。『幸村君伝記』には、「左衛門佐殿は、味方悉く敗走し、或は討たるるに、少しも気を屈さず、真丸に成りて駆破り駆けなびけ、縦横に当たりて、火花を散らして操み立てられける。此時、家康公の御先手敗軍して、御旗本へこぼれ懸かりける程に、御本陣もひしぎなびきて、既に危ふき事両度まで有りしと成」とあります。家康本陣を守っていた旗本たちは、まさかそこまで敵の兵が攻めてくるとは思っておらず、恐怖のあまり本陣を捨てて我先にと逃げ惑う有様だった・・・と。


 薩摩藩島津家の家臣の記録『後編薩藩旧記雑録』には、「五月七日に御所様の御陣へ、真田左衛門佐かかり候て、御陣衆三里ほどづつにげ候衆は、皆々いきのこられ候。三度目にさなだもうつ死にて候」と記されています。また、『本多家記録』には、「幸村は十文字の槍を持って家康様を目掛けて戦わんと心掛けていた。家康様はとても敵わないと思い、植松の方に退いていった」とあります。さらに、『三河物語』には、「家康の馬印が倒されたのは、武田信玄と戦った三方ヶ原の合戦以来のことだった」と伝えています。実際に信繁自身がどこまで肉薄したかはわかりませんが、宣教師らの証言によると、家康は切腹を口にしたといいますから、真田隊の猛攻によって、家康本陣は大混乱に陥ったことは間違いなさそうです。


 劇中でも、半泣きになって逃げ惑っていた家康でしたが、肉薄する信繁と向き合い観念すると、目が変わり、「手を出すなー!」と叫んで護衛を下がらせます。


家康「殺したいなら、殺せばよい。されどわしを殺したところで何も変わらぬ。徳川の世はすでに盤石。豊臣の天下には戻らん! 戦で雌雄を決する世は終わった。おぬしのような戦でしか己の生きた証を示せるような手合は、生きていくところなどどこにもないわ!」

幸村「そのようなこと百も承知! されど、わたしはお前を討ち果たさねばならぬのだ! わが父のため、わが友のため、先に死んでいった愛する者のために」


 このときの家康は、まるで、この男になら殺されてやってもいい、といった目をしていましたね。家康はこの日の戦いに臨むにあたって、激戦が予想される天王寺口の総大将を自ら望んで務めました。息子の徳川秀忠は軍議の席で、老齢の家康をそんな危険な戦場に送り出すことはできないとして、天王寺口を自分に任せてくれと懇願しますが、家康は頑なに譲らなかったといいます。そうすることで、秀忠の命を守ったともとれますが、戦経験の浅い秀忠には任せられなかったともとれます。実際、徳川軍の旗本のほとんどが戦経験のない若者たちで、その腰抜けぶりを家康は嘆いていたといいます。数回前の劇中にも、そんなシーンがありましたよね。元亀・天正からの生き残りである家康は、たとえ自分を殺しに来た敵将であれ、信繁のような武辺者は、決して嫌いではなかったはず。そんな思いが、あの目だったんじゃないかなあ・・・と。


 『後編薩藩旧記雑録』では、信繁の戦いぶりについて、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、いにしへよりの物語にもこれなき由、惣別れのみ申す事に候」と絶賛しています。これを、ドラマでは信繁の理解者であった上杉景勝に言わせていましたね。また、『細川家記』にも、「古今これなき大手柄」と称賛しています。

「武士と生まれたからには、あのように生き、あのように死にたいものだ」

劇中の景勝の台詞ですが、信繁の戦いぶりを見た当時の武士たちは、敵味方に限らず、きっと、遠からずの感情を抱いていたんじゃないでしょうか。だから、徳川家の敵将でありながら、後世に語り継がれていったんじゃないかと・・・。


 豊臣秀頼馬印が後退したことで豊臣軍の士気が下がり、形勢は一気に徳川軍に向き始めたという話は史実です。これは、完全に大野治長のミスですね。末端の兵卒は、馬印・旗印が前進していれば優勢、後退していれば劣勢と判断します。戦場において御旗がいかに大事であるか、治長もまた、戦経験不足だったと言わざるをえません。


 秀頼がなぜ出陣しなかったかについては、様々な見方があります。出陣の準備をしていたところ、家康からの講和の使者が来たため中止になったという説や、淀殿が出陣をとめたという説、そしてドラマにあったように、信繁の徳川方内通の流言が出回っていたため、という話もあります。ドラマでは、最後まで信繁に対する疑いをぬぐい切れない大蔵卿の局が腹立たしかったですが、実際、このときの大坂城内では、戦意かく乱のために流されたデマが飛び交っており、信繁を疑う空気も広がっていたといいます。信繁も、徳川方に「浅野が寝返った」というデマを流していますしね。いずれにせよ、このときの大坂城内は、何を信じていいかわからない状態だったことが想像できます。


 信繁の最期についてですが、ドラマでは切腹によって果てたように描かれていましたが、通説では、家康本陣を3度襲撃したあと、茶臼山の北方にある安居神社の境内で休息をとっていたところ、松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、討ち取られたと伝わります。その最期は、激闘のすえ討ち取られたともいわれますし、信繁自ら首を差し出したという逸話もあります。その真偽はわかりませんが、「大切なのは、どんな死に際だったかではなく、どう生きたか」というドラマのテーマからいえば、どんな最期だったかは、どうでもいいことだったのでしょうね。


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信繁「わたしは、わたしという男がこの世にいた証しを何か残せたのか・・・」

内記「人のまことの値打ちというものは、己が決めることではございません」

信繁「誰が決める?」

内記「時でござる。戦国の世に義を貫き通し、徳川家康と渡り合った真田左衛門佐幸村の名は、日の本一の兵として語り継がれるに相違ございません」

信繁「どんな終わりを迎えてもか?」

内記「大事なのはいかに生きたかでございますゆえ」


 真田信繁という人物は、人生の最期の最後にほんの一瞬だけ輝き、そしてむなしく散っていった武将に過ぎず、徳川家康豊臣秀吉織田信長のように、何か特別なものを世に残した偉人ではありません。しかし、後世はそんな信繁に魅せられ、古今比類なき英雄として語り継いできました。徳川幕府時代にあって敵将である信繁を英雄視するというのは、よほどのことだったに違いありません。まさしく、が信繁の値打ちを決めたんですね。

 日本一の兵・・・・と。


 最終回はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『真田丸』のレビューは終わりとなります。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-21 00:23 | 真田丸 | Trackback | Comments(2)  

真田丸 第48話「引鉄」 ~つかの間の和睦~

 今話は、慶長19年(1614年)12月20日に大坂冬の陣の和睦が成立してから、翌年の慶長20年(1615年)春に徳川方によって再び大坂城攻めが開始されるまでが描かれていました。徳川、豊臣の間で交わされた和睦は、わずか4ヶ月破綻します。実際には、和睦が成立してから堀の埋め立てに2ヶ月近くを要していますから、徳川軍が撤退してからたった2ヶ月での再戦決定となります。このスピードから見ても、徳川家康が最初から和睦するつもりなどなかったことがわかりますね。家康にしてみれば、堀や砦を再建されないうちに、一気に勝負に出たかったのでしょう。


 おそらくはその堀が埋め立てられるまでの2ヶ月の間に、真田信繁は甥の真田信吉・信政兄弟に面会したと伝えられます。関ケ原の合戦以来の面会だったでしょうから、たぶん、当時は二人とも幼児で、その成長ぶりに、改めて年月の流れを実感したことでしょうね。このとき信繁は、兄弟に従っていた矢沢頼幸ら旧家臣たちとも対面しています。故あって敵味方に分かれたとはいえ、かつては共に徳川と戦った仲であり、きっと話が尽きなかったことでしょう。


e0158128_02593242.jpg この時期に信繁が一族に宛てて書いた書状が三通残されています。そのひとつは、慶長20年(1615年)1月24日付で実姉の村松(ドラマでは)に宛てたもので、その内容は、自身が豊臣方に与したことで、真田本家に迷惑がかかっていないかを心配したうえで、和睦が成立して自身も生き残ったが、「明日はどうなるかわかならい」と記しており、信繁がこの和睦を一時的なものだと見ていたことがわかります。一方で、このまま何事もなく「平穏無事に過ごしたい」とも書いており、決して信繁は徳川との決戦を望んでいたわけではなかったこともうかがえます。


 そして翌月の2月10日には、信繁の娘・すえの岳父である石合十蔵宛てに書状を送っており、そこでは、自身がすでに死を覚悟している旨を記したうえで、「娘のすえをくれぐれもよろしく」と頼み込んでいます。


 さらに、翌月の3月10日には、姉婿の小山田茂誠とその息子・之知に宛てて書状をしたためており、そこには、自身が豊臣秀頼からひとかたならぬ信頼を受けていて有難いものの、そのために、何かと気遣いが多くて大変だと率直な気持ちを述べています。たぶん、秀頼に懇意にされてことで、大坂城内で妬みやっかみなど、ややこしい摩擦があったのでしょうね。また、書状では、「定めなき浮世のことですから、一日先のことはわかりません。どうか、私のことは、浮世にいるものとは思わないでください」と記されています。つまり、「私は死んだものと思ってくれ」ということですね。


ドラマでは、兄の真田信之に宛てた手紙が出てきましたが、実際には信之に宛てた手紙は存在せず、上述した三通の書状を下敷きにしたドラマの創作だと思われます。1月、2月、そして3月と、それぞれの書状を見ても、大坂夏の陣に向けた当時の空気感が伝わってきますね。豊臣方の中核にいた信繁は、そのすべてを肌で感じていたのでしょう。この時期、信繁はどんなことを思いながら過ごしていたのでしょうね。


 e0158128_18432594.jpgこの間、大坂方には和睦成立以前より牢人が増え、血気盛んな牢人の一部は大坂城外に出て乱暴狼藉を繰り返します。また、ドラマにもあったように、大野治長の弟・治房が、手に大坂城の蔵から配下の牢人たちに扶持を与えるという暴挙に出てしまいます。さらには、大野治長が大坂城内にて襲撃される事件が起き、その首謀者が弟の治房だという風聞が流布します。やはり、所詮は寄せ集めの烏合の衆、大坂城内は完全に統制を欠いていました。


そして3月15日、それら豊臣方の不穏な動きを伝える報が京都所司代の板倉勝重より家康の元に届くと、家康は牢人の追放か豊臣家の移封を大坂方に要求します。しかし、大坂方はそのどちらも飲むことはできず、家康も、それをわかっての無理難題だったといえるでしょう。かくして、豊臣家と徳川家は再び戦うことになります。というより、家康にそう仕向けられたといったほうが正しいでしょう。かつての天下無双の大坂城の姿はどこにもなく、防御力の一切を削がれた大坂城では、万に一つの勝ち目もないことは、火を見るよりも明らかでした。そんななか、信繁たちは何を思い、何を求めて戦いに挑んだのか。あと2話で、どう描かれるのか楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-05 19:26 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第47話「反撃」 ~大坂冬の陣講和~

 徳川方の砲撃に恐れおののいた淀殿は、一転して和議の申し出に応じる姿勢を見せます。ここに至るまでも、淀殿の叔父にあたる織田有楽斎長益が何度も和議を持ちかけていましたが、淀殿は一貫して強硬姿勢をとっていました。しかし、目の前で侍女が命を落とした出来事は、あまりにもショッキングだったのでしょう。とうとう有楽斎の進言をのみます。その有楽斎が初めから徳川方に通じていたことなど、もちろん知るはずもありませんでした。このとき、豊臣秀頼は頑強に和議に反対していたといいますが、結局、淀殿や有楽斎に押し切られてしまいます。

e0158128_22213540.jpg 徳川、豊臣両者による和議の話し合いが行われたのは、慶長19年(1614年)12月18日と19日の2日間。『大坂冬陣記』によると、徳川方の交渉役は徳川家康の信頼厚い側室・阿茶局と、この頃、父の本多正信に代わって家康付きになっていた本多正純で、豊臣方の使者に抜擢されたのは、淀殿の実妹・常高院(お初)でした。常高院は淀殿の妹であるとともに、徳川方の総大将・徳川秀忠(大坂の陣は実質、家康が指揮を採っていましたが、形式上は征夷大将軍である秀忠が総大将でした)の正室・お江の実姉でもあり、中立的な立場といえ(実際には、常高院の子である京極忠高は徳川方に与していたため、中立ではありませんでしたが)、交渉が行われたのも、京極家の陣所でした。戦後の交渉役に武士以外の僧侶や商人が抜擢されることは珍しくなく、女性が事に当たったという例もなくはなかったようですが、大坂冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったのではないでしょうか。

e0158128_22212613.jpg 同じく『大坂冬陣記』によると、豊臣方の示した和議の条件は、

一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。

 一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

とあり、これに対して徳川方の条件は、

 一、秀頼の身の安全と本領の安堵。

 一、大坂城中諸士についての不問。

というもので、これを約すことで和議は成立しました。一般に、家康が豊臣方を騙して堀を埋め立てたというイメージがありますが、実は、この堀の埋め立ては豊臣方から提示したものなんですね。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法でした。しかし、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだったといいます。つまり、これ以上戦う意志はありませんという意思表示のためのジェスチャーだったわけです。

ところが、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行します。約定では、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまいました。最初から家康の狙いはこれだったんですね。家康にしてみれば、20万の兵を持ってしても大坂城を落とすのは容易ではなく、豊臣家の財力を考えれば、2年や3年の籠城戦は可能だろう。その間、この度の真田丸の戦いのように、味方の兵力の被害も多く予想され、さらには、家康自身の寿命だって尽きるかもしれない。そう考えると、一刻も早く決着をつけたい。そのためには、大坂城の防御力を奪い、城の外に引き出して家康の得意な野戦に持ち込みたかったわけです。いうまでもなく、家康ははじめから和睦する気などさらさらなかったんですね。その家康の目論見にまんまと掛かった豊臣方。秀頼も淀殿も、暗愚だったとはいいませんが、家康の政治力の前では、赤子同然だったといえるでしょう。

 かくして裸城となった大坂城内には、真田信繁をはじめ牢人たちがなおも残っていました。彼らの目的は、新たな仕官を求めてきたものや、最期の一花を咲かせるためにきたもの、死に場所を求めてきたものなど様々でしたが、いずれの者にとっても、この突然の和議成立は納得できるものではありませんでした。しかし、そんな牢人たちの存在が、家康が再び戦いに持ち込むための格好の材料になっていくんですね。歴史は家康の描いた筋書きどおりに運んでいきます。この最晩年の家康は、三谷幸喜氏も及ばない天才シナリオライターでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-28 22:24 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第44話「築城」 ~真田丸~

 真田信繁(幸村)らが推した出撃策は首脳(ドラマでは大蔵卿局織田有楽斎)たちによって一蹴され、籠城策と決まった豊臣方。おそらく大阪城内に多くいたであろう内応者からその報せを受けた徳川家康は、「これで勝ったのう・・・」と、したり顔で呟いていましたが、果たしてどうだったでしょうね。百戦錬磨の家康ですが、元来、家康は城攻め苦手で、野戦を得意としていました。結果的に大阪の陣は家康の老獪さで徳川軍が勝利することになるわけですが、開戦前のこの時点で、しかも天下無双の大坂城を前に、敵の籠城策を知って喜んだとはとても思えません。むしろ、討って出てきてくれたほうが好都合だと思っていたんじゃないでしょうか?


 その天下無双の大坂城ですが、とはいえ、まったく弱点がなかったわけではありません。北は淀川、東は河川と湿地帯、西は湿地帯と大阪湾に守られていましたが、南側だけは河内平野と陸続きで、天然の要害というべき地形ではありませんでした。生前の豊臣秀吉もこの点は重々心配しており、晩年に総構えを築き、その弱点を封じようとしていました。


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 ちなみに、現在の大坂城は大坂夏の陣以後に徳川幕府によって再建されたもので、豊臣時代のものではありません。豊臣時代の城跡に盛土をして、堀の幅も石垣の高さも豊臣時代のほぼ2倍の大きさになっていますが、面積でいえば、豊臣時代の縄張りのほうがはるかに大きく、約15km四方、現在の徳川大坂城の約5倍の規模だったといいます。例えば、現在の大坂城の最南端は大阪環状線森ノ宮駅付近ですが、当時の最南端は、そこから更に1駅南下した玉造付近にありました。大坂城全体がひとつの都市だったといえます。このとてつもない広さだったからこそ、10万ともいわれる牢人たちを収容できたんですね。


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 大坂城の弱点である南側の守りを強化するために作られた出城が、今年の大河ドラマのタイトル「真田丸」でした。ここで信繁は迫りくる徳川勢を相手に巧みな戦術を展開し、一躍歴史の表舞台に名乗りをあげることになるのですが、この真田丸が実際、誰によって築かれたものであったかは定かではありません。史料によれば、信繁が南の弱点を見抜いて築いたという説や、ドラマのように、もともとは後藤又兵衛基次がここに目をつけて砦を築こうと準備していたところ、信繁が横取りしたという説もあり、あるいは、又兵衛が諸軍の遊軍を命じられたため、代わって信繁が守ることになったというものもあります。ただ、物理的に考えれば、信繁や又兵衛が入城してから築いたにしては日数が少なすぎで、もともと彼らが入城前から構築が始まっていたものを、信繁(あるいは又兵衛)が引き継いだと考えるのが自然かもしれません。


 いずれにせよ、信繁率いる真田軍がここを守備したことは間違いなく、「真田丸」と呼ばれるようになったのも事実です。もっとも、この出城を真田軍が単独で守ったわけではなく、長宗我部盛親軍と半分ずつ分担して守備していたのですが、真田軍の活躍があまりにも派手だったため、「真田丸」と呼ばれるようになったのだとか。盛親は面白くなかったでしょうね。ちなみに、「真田丸」の呼称は当初からついていたものではなかったようですが、翌年の夏の陣のときにはこの出城の跡地を「真田丸」と呼ぶようになっていたようで、そう呼び始めたのは徳川方だったようです。敵方にそう名付けられたということは、やはり、相当インパクトが強かったのでしょうね。


 有名な真田軍の「赤備え」についてですが、かつて真田家が仕えた武田信玄の配下である飯富虎昌山県昌景らの軍勢が「赤備え」で統一していたと伝わり、その流れをくんだものだったと考えられます。古来、武将の間で「赤」は、強者の象徴でした。古くは源平合戦で赤い紐で編んだ鎧などが登場しており、これは、自身が強者であることをアピールするためのものだったと言われます。当時、鎧を赤くするためには「辰砂」という赤い色の鉱物が必要で、たいへん高価なものだったそうです。武田軍の伝統を継承し、強者であることを顕示し、高価な赤備えを纏った真田軍。この戦いにかける強い思いがうかがえます。


 家康が若い兵たちに「仕寄せ」の作り方について講義するシーンがありましたが、時代考証担当の丸島和洋氏の話によると、『翁物語』に出てくる逸話のアレンジだそうです。似たような描写では、司馬遼太郎氏の小説『城塞』のなかでも、家康が戦経験のない若い兵の無知さを嘆くシーンが描かれています。実際、関ヶ原の戦いから14年の歳月が過ぎており、しかも、その関が原では徳川家譜代のほとんどの旗本たちは徳川秀忠と共に遅参しており、関ヶ原に勝利したものの、徳川方として戦ったのは外様大名ばかりでした。したがって、20万とも30万ともいわれる徳川軍ですが、これが初陣という若侍が圧倒的に多かったわけです。「戦争を知らない子供たち」だったわけですね。一方の豊臣方の牢人たちは、関が原はもちろん、文禄・慶長の役を戦った猛将揃いで、その点から言えば、決して豊臣方は兵力差ほど不利だとはいえませんでした。しかし、それらを率いる豊臣家首脳(大野治長ら)にそれほど戦経験がなく、さらには、淀殿や大蔵卿局などの女たちが軍議に口をはさむ始末では、百戦錬磨の猛将たちも、きっとやる気を削がれたでしょうね。このドラマでの淀殿のキャラが、まだつかめませんが・・・。


 さて、いよいよ次週、大阪冬の陣開戦です。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-07 23:06 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第40話「幸村」 ~方広寺鐘銘事件~

 今回は、「大坂の陣」に至るまでの経緯の説明の回でしたね。九度山村で蟄居中の真田信繁の前に突然現れた明石全登が、会わせたい人物がいるといって連れてきたのが、豊臣家家老で豊臣秀頼の傅役を務めていた片桐且元でした。「傅役を務めていた」過去形で紹介したのは、この時期すでに且元は大坂城を追放されており、徳川家康の元に寝返っていたからです。その且元がなんで信繁に・・・と思ったのですが、どうやら、世情を知らない信繁に対する、の語リ部役だったんですね。制作サイドの話によれば、今回のドラマは可能な限り真田一族きりがみていないシーンは描写しない方針だそうで、石田三成、大谷吉継の最期のシーンと同じです。

 大阪の陣に至る経緯のなかで、そのもっとも銃爪となったといわれるのが「方広寺鐘銘事件」ですね。この事件は、家康が豊臣家を攻めるための大義名分をでっち上げた言いがかり事件として知られていますが、今回のドラマでは、少し解釈が違っていました。まずは一般に知られているストーリーから紹介します。

 豊臣秀頼と淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っていました。この事業は家康が勧めたといわれ、その目的は、豊臣家の財力を削ごうという思惑があったといわれますが、逆に豊臣家としても、今なお秀吉の時代に劣らぬ力があるということを世間に知らしめる目的があったともいわれ、家康の勧めとは関係なく、淀殿と秀頼はこの事業を熱心に進めていたといいます。

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 そんな寺社復興事業の中に、かつて秀吉が建立し、地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿の再建がありました。そして慶長19年(1614年)、その修営もほぼ終わり、梵鐘の銘が入れられた7月になって突然、大仏開眼供養を中止するよう家康から申し入れがありました。その理由は、鐘の銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。この言葉は、「国家が安泰で、主君と家臣が共に楽しめますように」といった意味の言葉でしたが、家康がいうには、「国家安康」という句は家康の名を切ったものだとし、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむと解釈、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒します。

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 この言いがかりともとれるクレームに淀殿が逆ギレ。事態を重く見た家老の片桐且元は、家康への弁明のために駿府へ向かいます。しかし、且元は家康に会うこともできず、ようやく会うことのできた本多正純金地院崇伝といった家康の側近から、「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、このうちのどれかを選ぶように」との内意を受けます。且元は即答を避け、大坂への帰路につきます。

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ところが、且元の帰城と前後して、なかなか帰らない且元に業を煮やした淀殿は、側近の大野治長の生母であり淀殿の乳母でもある大蔵卿局を、第2の使者として家康のもとに送ります。大蔵卿局が駿府に到着すると、家康は且元の時とは態度を180度変え、機嫌よく彼女と面会し、「秀頼は孫の千姫の婿でもあり、いささかの害心もない。家臣たちが勝手に鐘銘の件で騒いで難儀している」と話したといいます。それを聞いた大蔵卿局は、狂喜して大坂城へ帰りました。淀殿は直接家康に会った彼女の報告を信じ、且元の持ち帰った3ヶ条を信用しないばかりか、「且元が家康と示し合わせて豊臣を陥れようとするものに違いない」と疑います。且元は、戦を避けるために家康に従うよう懸命に説きますが、これを淀殿が受け入れるはずもなく、逆に大阪城内で且元暗殺の企ても聞こえ始め、とうとう大坂城を退去するに至ります。同時に、且元と同じく非戦論を主張していた者たちも大坂城を追われ、秀頼と淀殿のもとに残ったは、大野治長をはじめとする主戦派の者たちばかりとなりました。

 というのが、よく知られている「方広寺鐘銘事件」の経緯です。そしてそのすべては豊臣氏討伐のために描いた家康の筋書きだった・・・と。この家康最晩年の老獪さが、後世に家康の印象を悪くしているといえますが、今回のドラマでは、ところどころ解釈が違っていました。そのひとつに、「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。これはまったくの言いがかりではなく、鐘銘を書いた文英清韓が、意図的に「家康」「豊臣」の字を隠し文字として用いた言葉で、しかしそれは、喜んで貰おうと思って考えたものが、逆に裏目に出てしまった、という設定でしたね。これは、ドラマオリジナルの解釈ではなく、時代考証の丸島和洋氏によれば、ずいぶん以前から存在した説のようです。つまり、何もないところから重箱の隅をつつくように言いがかりをつけてきたわけではなく、使わなくてもいい言葉を用いたために誤解を招いたというんですね。前者と後者では、ずいぶん印象が違います。

 また、片桐且元が持ち帰った和解のための条件も、ドラマでは勝手に且元が考えたという設定でしたが、またまた丸島和洋氏によると、実はこれも史実通りだそうです。且元としては、敢えて幕府の姿勢を強硬なものと示すことで、豊臣家を穏便な形で江戸幕府下の大名として存続させようとしたのでしょう・・・と。これが事実なら、且元と大蔵卿局の温度差も説明がつきます。これまでの物語では、徳川方が且元と大蔵卿局との対応の仕方を変えることで、豊臣家における且元の立場を悪くする狙いだったとされてきましたが、そうではなく、且元と大蔵卿局双方の受け取り方の違いだった・・・と。なるほど、それも、説明がつきます。

 つまり、「方広寺鐘銘事件」から「大阪の陣」に至る経緯は、家康の確信的な策謀ではなく、双方のすれ違いによるところも大きかった・・・ということですね。そうすると、家康の印象もずいぶん変わってきます。豊臣家が勝手に破滅の道を辿っていったことになりますね。どちらが真実なんでしょう。


 さて、「幸村」についてです。一般に「信繁」という名より多く知られる「幸村」ですが、このドラマが始まって以降、「幸村」という名は後世の物語で創作された名前だということは、いろんな方が解説されていますので周知のところだと思います。したがって、大坂城に入ることタイミングで「幸村」改名したという事実は存在しません。しかし、史料が存在しないだけで、ないともいえません。というのも、「幸村」という名前が使われ始めたのは、後世といっても明治や昭和になってからではなく、信繁の死後、わずか50年後のことです。その意味では、創作といえどもかなり古いものになりますよね。まだ信繁を知る者も生きていたかもしれません。そんな時代にすでに使われていた名前ですから、あるいは、何らかの根拠があったのでは・・・と、思いたくなります(学者さんは否定されるでしょうけど)。今回のドラマでは、「幸」の字を捨てた兄・信之に代わって、代々受け継がれてきた「幸」の字を信繁が継いだ・・・と。そしてそれは、昌幸の希望でもあった・・・と。いいじゃないですか!この設定。ここに、伝説の名将・真田幸村が誕生しました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-11 15:19 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第38話「昌幸」 ~二条城会見と真田昌幸の死~

e0158128_18432594.jpg 真田昌幸・信繁父子が紀伊国九度山村に流された慶長5年(1600年)12月から、昌幸が死去する慶長16年(1611年)6月までの約10年余りが一気に描かれましたね。この間、征夷大将軍となった徳川家康は江戸に幕府を開き、その2年後には息子の徳川秀忠に将軍の座を譲り、徳川政権の盤石化を図りました。一方で、慶長8年(1603年)にはわずか7歳の孫娘・千姫を大坂の豊臣秀頼に嫁がせ、旧主である豊臣家との関係が良好であること世間に知らしめます。一般に、関ケ原の戦い後すぐに家康は豊臣家を滅ぼすつもりだったように思われがちですが、決してそうではなかったことがわかります。


e0158128_18385012.jpg その家康に豊臣家を滅ぼす決意をさせたのが、慶長16年(1611年)3月38日に行われた家康と秀頼の二条城における会見だったと描かれることが多いですよね。成長した秀頼の器量の大きさとわが息子・秀忠の凡庸さを比較し、秀頼を殺す決意を固めた・・・と。この話自体は後世の創作ですが、たしかに、この二条城会見を境に家康が豊臣家滅亡への謀略をはじめたのは事実で、このとき、家康に何らかの意識変化があったのかもしれません。何よりこの会見に随伴した加藤清正、浅野幸長、池田輝政など旧豊臣恩顧の武将たちが、会見直後にことごとく死んでいったことから、家康の差し金による暗殺説が、当時からささやかれていました。ドラマでも、清正の死去は暗殺説が採られていましたね。これは、現在では歴史家さんのあいだでは邪説とされているのですが、物語的には、そっちのほうが面白いですからね。


e0158128_02592871.jpg で、九度山村での真田父子に目を移します。蟄居生活を強いられた昌幸・信繁でしたが、罪人としての幽閉生活というほどではなく、山狩り釣りなど、高野山領内であればある程度自由に動き回れたようです。この間、信繁には子供も生まれ、ある意味、平穏で幸福な日々だったともいるかもしれません。ただ、経済的には困窮していたようで、昌幸は嫡男・信之に何度も援助金を催促する書状を送っています。くさっても五万石の大名だったわけですから、わずかな家臣を従えた貧乏暮しは、耐え難い屈辱だったでしょうね。そんななか、昌幸を唯一支えていたのは、家康から赦免されて上田に戻るという一縷の希望でした。


 昌幸は信之や浅野長政を通じて赦免嘆願を繰り返し行っています。時期は定かではありませんが、その赦免嘆願は本多正信を通じて家康の耳にまで届いていたようで、それを伝え聞いた昌幸は、「赦免される日が近いゆえ、下山したら一度お会いしたい」と、楽観視した書状を旧知の人物に送っています。しかし、家康は二度も煮え湯を飲まされた昌幸を、決して許すことはありませんでした。


 やがて赦免の希望が叶わないことを悟った昌幸は、日に日に衰えていきます。このころ書かれた書状では、すっかり気力を失った弱気な言葉がつづられ、かつての名将の面影はもはやありませんでした。そして慶長16年(1611年)、いよいよ自らの死期を悟った昌幸は、信繁を枕頭に呼び、徳川と豊臣の決戦がはじまった際の秘策を授けたと伝わります。それが、ドラマに出てきた『兵法奥義』ですね。原本は大坂城とともに灰となったと伝えられますが、実在したかどうかは定かではありません。その秘策とは、籠城戦では勝ち目がなく、積極的に討って出て勝負をかけよ、というものでした。ドラマでは、この秘策を聞いて「自分には場数が足りないので自信がない」と発言した信繁に対して、「わしの立てる策に場数などいらん。」と昌幸は言っていましたが、伝承では、この秘策も家康を二度も破った自分の意見ならば豊臣家も従うだろうが、無名の信繁では握りつぶされるであろうと予言しています。で、実際そうなるんですよね。今年の大河ドラマでは、そういった千里眼的予知能力の持ち主はまったく出てきません。そこもいいですよね。


 慶長16年(1611年)6月4日、昌幸没。享年65。真田家を近世大名までのし上げた、真田家にとってはまさに中興の祖ともいうべき人物の波乱の生涯が幕を閉じました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-26 18:46 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)  

真田丸 第34話「挙兵」 ~七将襲撃事件~

  石田三成徳川家康暗殺未遂事件からわずか1か月余りの慶長4年(1599年)3月3日、太閤死後に豊臣秀頼の後見役を務めていた前田利家が病没します。五大老の一角として唯一、家康と対等に渡り合うことができ、さらには、武断派、文治派の双方から人望に厚かった利家の死によって、それまでなんとか保たれていた均衡が一気に崩れ、予てから「三成憎し」で団結していた武断派の加藤清正、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、脇坂安治の七将が暴発。三成を殺害すべく襲撃します。


しかし、この動きを事前に察知した三成は、佐竹義宣の協力を得て屋敷を逃げ出し、伏見城に逃げ込みます。この騒動を収拾したのが、徳川家康でした。家康は武断派を説得して鉾を収めさせ、襲撃した武断派が三成の身柄引き渡しを要求したため、三成を蟄居にすることで手を打たせます。そして閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康の警護のもと佐和山城に戻り、謹慎生活となりました。こうして三成は政治の表舞台から遠のくことになります。


e0158128_19301095.jpg この経緯のなかでの有名な逸話として、武断派の襲撃を受けた三成が、敵である家康のもとに助けを求めて単身乗り込み難を逃れたという話がありますよね。このエピソードから、三成が単に小賢しいだけのインテリ官僚ではなく、豪胆な一面を持った武将だったという印象を受けます。石田三成という人物を描く上で欠かせないエピソードといえますが、今回のドラマでは、この逸話は採用されませんでした。というのも、この話は最近では否定的な見方が強いようです。この説の典拠となっている史料はすべて明治以降のもので、それ以前に成立した史料には、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはないからだとか。まあ、たしかに、あまりにもリスキーな選択で、合理主義の三成としては、冒険的すぎる行動といえます。小説やドラマなどでは、ここは三成のいちばんの見せ場なんですけどね。


e0158128_21350278.jpg ただ、血気にはやる武断派との間の調停役を家康が引き受け、騒動を収拾したというのは史実のようです。ドラマの時代考証を担当されている丸島和洋氏のツイッターによれば、このとき、家康に事態収拾の協力を要請したのは、大谷吉継だったといいます。今回のドラマで、吉継が娘婿の真田信繁を家康のもとに派遣したのは、その動きを下敷きにしたストーリーだったわけですね。実際、このとき吉継はがかなり進んでいて動きづらかったでしょうから、使者を通じての協力要請だったかもしれません。信繁の動きは、まったくもって荒唐無稽フィクションではなかったんですね。


 この事件を収拾したことにより徳川家康はその影響力を拡大し、一方で石田三成は一時失脚します。一説には、すべて家康の描いたシナリオ、家康自身がこの事件の黒幕だった・・・なんて俗説もありますが、いかがなものでしょう。いずれにせよ、この武断派と文治派の対立が家康にとって有利にはたらいたことは間違いありません。これ以降、豊臣政権の政務は家康が一手に握ることとなります。


 三成が失脚して約1年が過ぎた慶長5年(1600年)4月、会津国の上杉景勝が、家康との対立姿勢を露わにします。家康は上杉家に対して何度も上洛を促す使者を送りますが、景勝は病気と称してこれを拒否しつづけ、一方で、領内の城の補修工事を進めます。この態度から、上杉家は謀反の疑いをかけられるのですが、上杉家家老の直江兼続は、その釈明のための書状を家康に送ります。しかし、その書状には、家康を痛烈に非難した内容が書かれていたといわれ、それを読んだ家康が激怒し、上杉討伐を決定します。世に言う「直江状」ですね。歴史はいよいよ、関ヶ原の戦いに向かいます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-29 22:54 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第32話「応酬」 ~石田三成の人物像~

 豊臣秀吉は、ただちには発表されませんでした。その理由は、今なお朝鮮10万の将兵が留まったままで、戦場を混乱させないための配慮でした。慶長3年(1598年)8月25日、五大老(老衆)として秀吉亡きあとの豊臣政権を担っていた徳川家康前田利家は二人の使者を朝鮮に遣わし、講和を進めてすみやかに兵を撤退させるよう命じます。そして、石田三成、浅野長政、毛利秀元の三人を筑前博多に派遣し、大陸より兵の撤収に当たらせます。


e0158128_19301095.jpg ドラマでは描かれていませんでしたが、この撤収作業がきわめて困難で、釜山に兵を集めて順次渡海を始めたのが11月初旬。しかし、その頃になると秀吉の死を朝鮮も嗅ぎつけており、朝鮮水軍が退路をはばんで襲撃してきます。しかし、李氏朝鮮の将軍・李舜臣の死によって朝鮮方は軍の統制を欠き、撤退軍はようやく退路の難を打開しました。そして12月10日、殿軍の島津義弘が博多に到着したのを最後に、全軍の撤退を完了します。


 このとき、撤収のための船舶の配置などを統括したのが石田三成でした。このときの三成の采配は見事なもので、実に無駄なく的確な仕置だったと伝わります。三成の手腕がとくに発揮されたエピソードですが、しかし、この慶長の役での三成の采配が、加藤清正福島正則黒田長政武断派といわれる諸将からの反感を買い、それがやがて関ヶ原での勢力図へとつながっていくんですね。


清正「わしらが海の向こうで戦ってるとき、おぬしらはこっちで何をしとった!」

三成「後ろで算段をするのも戦のうちだ!」


 たぶん、実際にもこれに似たやり取りがあったのでしょうね。もっとも、現場と事務方の相容れぬ関係というのは、現代社会でも少なからず存在する問題です。事務方はできるだけ合理的に仕事を進めようとしますが、現場は現場でしかわからない不合理の必要性を主張します。これを解決するには、双方が存在意義を認め合うしかないのですが、これは、なかなかできることじゃないんですよね。ましてや、その現場が命を懸けた戦場となれば、なおさらだったでしょう。


三成「徳川が既に動き出しておる。これからの豊臣は我らにかかっておる。おぬしは案外、城造りもうまいし、領内の仕置きも確かだ。ただの戦ばかではない。われらで秀頼様をお支えし、殿下亡きあとの豊臣家をお守りしていこうではないか!」

清正「お前には言いたい事が山ほどある。・・・が、あえて言わぬ。われらで秀頼様をお支えし、豊臣家をお守りしようではないか!」

三成「だから、それはいま、わたしが言った!」


 思わず笑っちゃいましたが、結局何が言いたいかっていうと、同じ「臣家をお守りしようではないか!」という言葉でも、三成が言うと、どこか上から目線の命令口調に聞こえる・・・。そういうことですよね。実際の三成がどういう人物だったかはわかりませんが、司馬遼太郎の小説『関ヶ原』をはじめ、多くの小説やドラマで、似たような人物像で描かれていますね。ひと言多く、人の心を忖度する能力に欠けていて、したがって無駄に敵を作ってしまう性格。実際の三成も、遠からずのキャラだったんじゃないでしょうか。


 秀吉が死ぬやいなや、徳川家康は次第に勢威を強めて不遜となり、六男の忠輝伊達政宗の娘を娶らせたのをはじめ、福島正則蜂須賀家政などの子とも縁組を進めるなど、あからさまな味方づくりを開始します。この目に余る法度違反に対して三成と利家は、慶長4年(1599年)1月19日、家康以外の四大老・五奉行が、家康の違反行為に対して詰問使を派遣し、五大老の席から外すことも辞さないことを伝達します。ドラマでは、伏見城の評定の場で詰問するという設定でしたね。しかし、このときは家康の老獪な対応であしらわれてしまいます。これに毅然として楯突いたのが、三成だったんですね。ここからしばらくは、三成が主役の物語になりそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-16 23:59 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

真田丸 第31話「終焉」 ~秀吉の遺言状~

e0158128_20022019.jpg 朝鮮での戦が長引くなかの慶長3年(1598年)初夏、床に臥せりがちだった豊臣秀吉の体調はいよいよ悪化の途をたどります。さすがに死期を悟った秀吉は、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、自身の死後の体制固めを懸命に行いはじめます。今回のドラマの秀吉は痴呆がひどくなっているため、それを推し進めたのが石田三成だったという設定でしたね。実際に秀吉がボケていたかどうかは定かではありませんが、それにしても秀吉にとって気がかりなのは、ただただ、まだ6歳秀頼の前途のみでした。思い余った秀吉は、伏見城に徳川家康を呼び寄せ、自身の死後は秀吉の後見人になるよう懇願します。最も信用が置けない人物を秀頼の最も近くに置き、逆心を封じ込めようとの考えからでしょうが、その約束を家康が守ってくれる保証などどこにもありません。

ドラマで、家康や三成が寄ってたかって秀吉に書かせていた遺言状は、実際に現存するものです。

 「秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく 八月五日 秀吉印」
 「いへやす(徳川家康) ちくせん(前田利家) てるもと(毛利輝元) かけかつ(上杉景勝) 秀いえ(宇喜多秀家) 万いる 返々秀より事 たのミ申し候 五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上」

 五大老に向けた秀吉の遺言状です。ドラマでは、いさい五人物ニ申わたし候」という部分と「以上」を、三成があとから書き加えさせてましたね。その解釈でいえば、最初の「五人の衆」五大老のことで、あとの「五人の物(者)」は、五奉行ということになります。そんな風に読み下したことはありませんでしたが、たしかに、そうとも取れます。現存する遺言状というアイテムを使って独自に解釈し、秀吉の死の局面に際しての政治を描くあたり、さすが三谷さん、秀逸です。


 多少コミカルに描いてはいましたが、それにしてもこの遺言状、天下人の最後のメッセージとしては、あまりにも無様で哀れな内容ですね。とにかく「秀頼のことをよろしく頼む」と、手を合わせるようにして五大老らに頼み続けている様子は、同じく子を持つ親としては少なからず共感できなくもありません。むろん、戦国時代の中を戦い抜いて天下人となった秀吉のことですから、主家である織田信長の子に対して自らのとった仕打ちを思えば、誓紙口約束など何の役にも立たないことはわかっていたでしょう。わかってはいても、そうするしかなかった・・・そこが、秀吉の最期の悲痛さです。

 この遺言状が書かれた約2週間後の慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉はその
劇的な生涯に幕を閉じます。享年62歳。
 その辞世の句は、

 つゆとをちつゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
 (露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢)


 実に見事な辞世ですよね。意訳するのは無粋かもしれませんが、「なにもかもが夢であった。今となってはな・・・」といったところでしょうか。日本史上最大の立身出世を遂げ、位人臣を極めた男が、最期に辿り着いた境地がこの歌だったというところに、豊臣秀吉という人物の魅力を感じ取ることができます。まるで、物語のような人生であったと・・・。しかし、一方で、ほとんど狂気といえる晩年の愚行も、上記の未練タラタラの悲痛な遺言状も、豊臣秀吉という人物の一面であることに違いありません。この二重人格ともいえるアンバランスさが、秀吉という人の人間臭さを表しているような気がします。


 秀吉の最期は、豪壮華麗な伏見城での臨終でした。数限りない武将を戦場で無念の死に追いやってきた男は、まことに平和で安らかな臨終を迎えられる立場に恵まれながら、人を信じられず、我が子の行く末を案じ、最期は狂乱状態であったともいわれます。志半ばで戦場に散った武将たちと、権力も昇りきれるところまで昇りつめた豊臣秀吉の、どちらが幸せな死に際であったか・・・。人の幸せのあり方について、あらためて考えさせられます。


 石田三成の家康暗殺計画は、小説やドラマなどではよく描かれますが、事実かどうかは定かではありません。司馬遼太郎『関ケ原』では、三成に家康暗殺を進言したのは側近の島左近で、三成がそれを承知しなかったため、左近が単身家康を暗殺しようとしますが、未遂に終わります。今回のドラマでは死に際のおびえた秀吉が三成に命じるという設定でしたね(あの夢枕に立った少年は万福丸でしょうか?)。まあ、それも考えられなくもありませんが、いずれにせよ、秀吉の死に際しての政局が、それほど緊迫した状況にあったことはたしかでしょうね。次回から、その政局が描かれます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-08 21:35 | 真田丸 | Trackback | Comments(4)