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花燃ゆ 第35話「孤高の戦い」 ~四境戦争~

 慶応2年(1866年)1月に薩長同盟が結ばれた同じ年の6月、幕府による第二次長州征伐が開始されます。幕府軍の兵力は総勢15万の大軍。一方、迎え撃つ長州藩の兵力は、奇兵隊ら諸隊を中心とするわずか4千ほどでした。誰がどう贔屓目にみても衆寡敵せず。30倍以上の兵力差では、勝ち目があるはずがありません。ところがところが、長州藩はこの戦いに勝っちゃうんですね。ここが、長州史のいちばんの見せ場です。

 幕府が負けた理由はいくつもあります。まずひとつには、そもそもこの第二次長州征伐は、約1年も前から叫ばれていたものの、諸藩がなかなか応じませんでした。というのも、前年からこの年にかけて各地で一揆が起きており、諸大名たちはその対応に負われていました。幕府の無策によって米価が暴騰し、庶民の生活が貧窮していたのです。また、諸藩は1回目の長州征伐で多くの経費を使っており、財政難に陥っていました。そんな状態のなかでの長州再征の命令だったので、ほとんどの諸藩が兵を出し渋り、足並みが揃わなかったんですね。そうこうしているうちに1年がすぎ、やむなく幕府は、なるべく地理的に長州に近い西国の藩で征長軍を結成します。西国の藩にしてみれば、貧乏くじを引かされたようなもので、そんな経緯でできた軍ですから、モチベーションが上がるはずがありません。

 一方の長州軍は、大村益次郎を総参謀長に任じ、西洋式軍備を導入。同盟を結んだ薩摩藩の協力のもと、最新のミニエー銃ゲベール銃を大量に買い込んでいました。また、奇兵隊などの諸隊は下級藩士や領民などからの志願兵によって編成されており、指揮官の戦略どおりに動く組織が構築されていました。わが国における近代式軍隊の魁ですね。敵対する幕府軍のほうは、多くの兵が動きにくい甲冑を着込み、、旧式の火縄銃を手にしていました。また、諸藩の寄せ集めのため指揮系統が整わず、大軍の力を発揮できずにいました。どれほどの大軍であっても、それを動かす指揮系統が整っていなければ、軍は機能しないんですね。逆に少数精鋭の長州軍は、大村益次郎の考案によって戦線を芸州口、石見口、周防大島口、小倉口にに分け、それぞれの戦闘は各方面の指揮官に委ねました。それでこの戦いは、のちに「四境戦争」と呼ばれるようになるんですね。

 この戦いで高杉晋作海軍総督として丙寅丸(オテントサマ丸)に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊に夜襲をかけてみごと撃沈します。また、小倉口の戦いにおいても、大暴れして幕府軍を敗走させます。天才・高杉晋作がもっとも輝いていた時期ですが、皮肉にもこのとき晋作の身体は、すでに病魔で蝕まれていたんですね。

 そんななか、幕府軍の敗走を決定づけることとなったのが、第14代将軍・徳川家茂の死去でした。享年21歳。死因は脚気衝心だったと言われていますが、幕末の動乱期にわずか13歳で将軍となり、もみにもまれ、心労につぐ心労の日々だったことも、死期を早めた要因だったかもしれません。家茂の死に関しては厳重な箝口令が布かれますが、それでも、どこからともなく情報が漏れ、またたく間に幕府方では公然の秘密となります。こうなると、もはや士気はダダ下がり。もともとこの戦いに乗り気ではなかった諸藩の兵たちは、先を争って戦線離脱を開始します。

 こうして、4千の兵が15万の大軍に圧勝しました。この敗北によって、いよいよ幕府の権威は地に落ちます。歴史が大きく動くときというのは、このような奇跡が起こるものなんでしょうね。こういうのを、大きな歴史のうねりというのかもしれません。このとき、そのうねりを起こした主役は、まぎれもなく長州藩でした。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-31 22:32 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第21話「決行の日」 ~高杉晋作の暴挙と馬関海峡の攘夷決行~

 処刑された当初の吉田松陰の遺骸は、小塚原刑場へ埋葬されていました。通常、幕法により刑死人の遺骸は捨ておかれることになっていましたが、長州藩の藩医で飯田正伯という人物が獄吏に賄賂を渡して遺骸の引き渡しを懇願し、特別に許しを得たといいます。遺骸の引き取り、埋葬に奔走したのは、伊藤俊輔、桂小五郎らでした。

 それから3年半が経った文久2年(1862年)8月、かつての安政の大獄によって刑を受けた者たちの名誉を回復する勅書が発せられたことに伴い、松蔭の埋葬場所に墓碑が建設されましたが、刑死者の埋葬場所にそのまま置いておくのは適切ではないという声が上がり、その翌年の1月には、遺骨は武蔵若林村の大夫山へと改葬されます。この改葬を発案、実行したのは、高杉晋作、伊藤俊輔らでした(ドラマでは伊藤は萩に残っていましたね。このあたり、どちらが正しいのかわかりません)。

 この改葬を指揮した高杉晋作は、陣羽織騎馬姿という戦装束でした。そして松蔭の遺骨を入れた柩を中心に列をなし、悠然と歩を進めます。それを見たひとびとは、皆どよめいて道をあけたといいます。

 道中、一行は徳川家将軍代々の廟所がある寛永寺にさしかかります。寛永寺には「三枚橋」と呼ばれる三つの橋が並んでかけられていましたが、その中央の橋は、将軍が寛永寺に参拝するときのみに使用されていた橋で、将軍以外の者がその橋をわたることは許されていません。そこを、晋作率いる一行は、押し通っちゃうんですね。もちろん、わざとです。当然、それを見た橋の番人は通行を阻止しようとしますが、晋作はそれを払いのけ、「勤王の志士吉田松蔭の殉国の霊がまかり通るのだ」と言い放って強行します。さらに、追いすがって名を名乗れと叫ぶ番人に対して、晋作は馬上ふりかえり、「長州浪人高杉晋作」と言い放ったとか。この暴挙の知らせは、すぐさま幕閣へ届きますが、普通なら、即刻打首に処せられる行為ですが、幕府は長州藩との摩擦を嫌って不問に付したといいます。

 いかにも高杉晋作らしい痛快なエピソードですが、この逸話が実話かどうかは定かではありません。しかし、この時期になると、これほどまでに幕府の権威は落ちていたということがわかるエピソードです。

 幕府の権威の失墜にまつわるエピソードでいえば、もう一つ。同じ年の3月、第14第将軍徳川家茂が、将軍としては229年ぶりに上洛します。京に入った家茂は、早速、上賀茂神社下鴨神社攘夷祈願に行幸する孝明天皇(第121代天皇)のお供をさせられます。天皇のお供をするということは、将軍が天皇の下であるということを世に知らしめる行為であり、これを画策したのが、久坂玄瑞を中心とする長州藩攘夷派でした。この時期、京では長州藩が朝廷をほぼ牛耳って動かしていました。

 この行列の見物人のなかにいた高杉晋作は、人々が土下座して平伏すなか、ひとり顔を上げて「いよう!征夷大将軍!」と、まるで舞台の歌舞伎役者に声をかけるような冷やかしの声を浴びせたといいます。これも本来であれば、その場で斬り捨てにされるべき無礼極まりない行為でしたが、この行列は天皇の権威の行列であり、将軍はあくまで“お供”にすぎません。晋作の声は将軍の供回りにいる旗本たちの耳にも入っていたでしょうが、勝手に飛び出して天皇の行列を乱すわけにはいかず、黙って耐えるしかなかったんですね。

 このエピソードも、実話かどうかは定かではありません。後年の山縣有朋などの話で、このとき晋作が何かを大声で叫んだことは間違いないようですが、それがどんな言葉だったかは、いろんな説があるようです。ただ、いずれにせよ、将軍が天皇のお供として付き従ったのは事実で、このときヤジが飛んだとしても、どうすることも出来なかったのも間違いなかったことでしょう。それだけ、幕府は軽んじられはじめていたわけですね。

 さらに晋作は、将軍暗殺計画まで口にし始めました。しかし、そんな晋作の過激な行動を恐れた久坂玄瑞や周布政之助らは、晋作を激しく詰問します。すると程なく、晋作は髪を剃り、法名を東行と名乗って出家するといいだしました。10年間、賜暇をもらいたい・・・と。周囲の者たちはきっと呆然としたでしょうね。とにかく、やることなすこと奇想天外、凡人の頭では理解しがたい晋作の行動。この非凡な生き方が、後世に人気の高い所以なんでしょうが、同時代に生きていた関係者たちは、振り回されっぱなしでたまったもんじゃなかったでしょうね。

 さて、本話のタイトル「決行の日」についてですが、「決行」とは即ち攘夷決行のことで、上洛していた将軍家茂は、朝廷から攘夷の実行を執拗に迫られ、これを応対していた将軍後見職の一橋慶喜は、なんとか誤魔化そうといろいろ手立てを講じますが、結局は天皇に押し切られるかたちで、「攘夷の期日を5月10日とする」と約束させられます。そして、4月22日に諸大名に公示されるのですが、そもそも幕府にしてみれば、攘夷実行の意思などさらさらなく、その場の逃げ口上にすぎなかった約束でした。諸大名たちのほとんども、空気を読みながら様子を伺っていました。ところが、長州藩だけが、約束どおり5月10日に砲門を開きます。彼らは、馬関海峡を通ったアメリカ商船ペンブローク号に発泡。相手は軍監ではなく商船ですから、逃げるしかありません。更に23日にはフランス軍監キャンシャン号にも、また26日にはオランダ軍監メデューサ号にも砲撃しました。このとき中心となっていたのが、ほかならぬ久坂玄瑞だったんですね。逃げていく外国船を見て長州藩士たちの意気は大いに上がったといいますが、ここから、幕末における長州藩の墜落が始まったともいえます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-26 15:24 | 花燃ゆ | Comments(0)  

八重の桜 第15話「薩長の密約」 ~将軍・家茂の死と慶喜の相続~

 薩長同盟第二次長州征伐、将軍・徳川家茂の死、一橋慶喜の将軍就任と、本来の幕末モノであれば3話ぐらいに分かれそうな話を、かなり駆け足に描きましたね。まあ、八重の生涯を描くドラマですから、幕末はあくまでプロローグに過ぎず、ここで時間を割いてはいられないといったところでしょうか。おそらく前半のクライマックスを会津戦争にもってくるのでしょうね。ではでは、当ブログも駆け足でいきます。

 慶応2年(1866年)1月、長年の宿敵であった薩摩藩長州藩の間に提携の密約が結ばれます。世に云う「薩長同盟」ですね。この二藩を仲介した立役者は、ほかならぬ土佐藩の坂本龍馬中岡慎太郎であることは周知のところでしょう。言わずと知れた幕末のヒーローですね。ところが今回のドラマでは、ナレーションで「土佐の脱藩浪士」と語られただけで、龍馬の存在をほとんどスルーしました。なんで?・・・と思った人も多かったかもしれませんが、考えようによっては、これはこれで正しいでしょうね。物語の中心である会津藩視点でみれば、坂本龍馬などあくまで「名もなき土佐の脱藩浪士」に過ぎません。人気者の龍馬を無理やり登場させて視聴者を惹きつけようという作為が感じられず、逆に良かったんじゃないでしょうか。(龍馬ファンのために桔梗の家紋の後ろ姿を映したのは、なんとも憎い演出でした)

 薩長同盟については過去の拙ブログで書いていますので、よければそちらを一読ください。
 (参照:龍馬伝 第35話「薩長同盟ぜよ」

 多くの反対や慎重論などがあって足並みが揃わないまま強行した第二次長州征伐は、ドラマにあったとおり幕府にとって厳しい戦いとなりました。そして、幕府が長州相手に敗北を重ねているとき、幕府にとってさらなる痛手となったのは、大坂在陣中の第14第将軍・徳川家茂の死でした。慶応2年(1866年)7月20日、将軍在職8年余り、若き将軍・家茂は脚気衝心でこの世を去ります。享年21歳。この日の大坂城中の様子を、家茂から厚い信頼を受けていた幕臣・勝海舟は、次のように記しています。
 「七月十九日夜、医官松本良順より隠密の報あり、将軍危篤、ついに薨去ありと。余、この報を得て、心腸寸断、ほとんど人事を弁ぜず。忽ち思うところあり、払暁登城す。城内寂として人無きがごとし。余最も疑う。奥に入れば諸官充満、一言も発せず。皆目をもって送る。惨憺悲風の景況、ほとんど気息を絶せんとす。」
 大坂城中、寂として声なき様子がよくうかがえます。家茂の死はしばらく秘密にされ、約1か月後の8月20日に正式に発表されました。

 後継者は一橋慶喜以外、適当な人物はほとんどいませんでした。家茂は死に際して田安亀之助(家茂の従兄弟)を後継者とする遺言を残したといわれますが、このとき亀之助はわずか4歳、国事多難な情勢のなか、幼君では舵取りが困難との理由で多くの大名らが反対、老中・板倉勝静稲葉正邦、前福井藩主・松平春嶽、京都守護職・松平容保、所司代・松平定敬らが、こぞって慶喜を推します。

 ところが当の慶喜は、徳川宗家の相続は承知したものの、将軍就任は容易に受けようとはしませんでした。この態度は、困難な政局を前にして、多くの人々の推薦を得てから将軍職に就き、恩を売ったかたちで将軍になることで、政治を有利に進めていく狙いがあったのでは・・・と言われています。だた、実際にはその真意は定かではありません。いわば、幕府=沈みかけの船の船頭となるのを拒んでいただけかもしれません。支持率を落とした政権与党の党首になるようなもので・・・。慶喜は後年の回想録で、このときの気持ちを次のように語っています。
 「遂に板倉・永井を召し、徳川家を相続するのみにて、将軍職を受けずとも済むことならば足下等の請に従わんといいしに、それにてもよしとの事なりしかば、遂に宗家を相続することとなれり。されども一旦相続するや、老中等はまた将軍職をも受けらるべしと強請せるのみならず、外国との関係などもありて、結局これをも諾せざるを得ざるに至れり。かかる次第にて、予が政権奉還の志を有せしは実にこの頃よりの事にて、東照公(家康公)は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を葬るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり。」と。

 慶喜がすでにこの頃から大政奉還の志を持っていたという述懐は眉唾ものですが、英明な慶喜のことですから、この局面での将軍職就任が「貧乏くじ」であることは、直感的に感じていたのかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-16 17:24 | 八重の桜 | Comments(2)  

雨の紀の国、さくら舞い散る和歌山城なう!

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スマホからの投稿です。
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一昨日より仕事で紀州和歌山市に来ています。
昨日、一昨日の二日間は終日仕事だったのですが、最終日の今日は少しだけ時間が空いたので、和歌山城に来ました。
ただ、残念ながらあいにくのemoticon-0156-rain.gifemoticon-0106-crying.gif
昨日まではめっちゃいい天気だったんですけどねぇ…。
今日の雨で、がおおかた散っちゃうんじゃないでしょうか。

和歌山城のある紀州藩は徳川家康の十男・徳川頼宣を始祖とする徳川御三家のひとつで、8代将軍・徳川吉宗や14代将軍・徳川家茂を排出した名家ですね。

スマホからなので、長文はしんどいです。
詳しくはまた後日の起稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-06 15:31 | 和歌山の史跡・観光 | Comments(0)  

八重の桜 第4話「妖霊星」 ~井伊直弼と徳川斉昭~

 安政5年(1858年)4月、近江国彦根藩の藩主・井伊直弼が幕府大老に就任します。大老職とは幕閣の最高職で、常置の職ではありません。通常、将軍自らが政務を執り行うことは少なく、その一切を取り仕切っていたのは老中でした。老中は常に4~5人いて、その中の筆頭を老中首座といい、行政機関のトップとして政務を執り行います。いまでいえば内閣総理大臣のような役職といえばいいでしょうか。将軍はというと、「よきにはからえ!」といっていればよかったわけです。この時期の将軍は第13代将軍・徳川家定で、家定は生まれつき病弱だったとも暗愚だったとも言われていますが、老中たちさえ有能な人物を揃えておけば、将軍はバカ殿様でもよかったわけですね。

 で、その老中のさらに上の役職が大老で、国難非常事態に際して置かれる臨時職でした。平時のそれは多分に名誉職的な意味合いが強かったそうですが、実質、老中首座より強い権限を与えられた役職だったわけですから、その権限をフルに発揮すれば独裁政治も可能だったわけです。井伊直弼が就いた大老とは、そういう椅子でした。

 彦根藩主である直弼が幕府内で頭角を現したのは、嘉永7年(1854年)の2度目の黒船来航のときでした。当時、有力藩主が集まって幕政に関与する溜間詰(たまりのまづめ)大名という集いがあり、直弼はその筆頭という立場でした。ペリー艦隊来航に際して直弼は、溜間詰大名筆頭として開国を主張します。しかし、その直弼の主張に真っ向から反対する人物がいました。前水戸藩藩主・徳川斉昭です。水戸藩といえば、尊皇攘夷論のさきがけ的存在の藩。ときの老中首座・阿部正弘によって幕政への参与を許されていた斉昭は、鎖国の維持と攘夷を主張し、直弼と激しく対立します。結局、幕府は米国総領事ハリスから迫られた日米修好通商条約の調印を、朝廷の勅許を受けるということで事態の打開を図ろうとします。

 折から幕府内では、将軍継嗣問題よる対立も深まります。幕政改革を求める雄藩藩主らは、斉昭の子で英明と噂されていた一橋慶喜(のちの第15代将軍・徳川慶喜)を支持し、一橋派と呼ばれていました。これに対して、系統重視の幕府主流派は紀伊藩主・徳川慶福(のちの第14代将軍・徳川家茂)を推し、南紀派と呼ばれます。一橋派は、斉昭を中心に福井藩主・松平慶永(春嶽)や薩摩藩主・島津斉彬らで形成され、一方の南紀派は、直弼をはじめ、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤ら溜間詰大名が中心でした。直弼と斉昭の対立関係は、条約調印問題と将軍継嗣問題という2つの政治的対立によりさらに深まっていきます。そんななか、直弼は大老職に電撃就任します。

 大老となった直弼は、その権限を遺憾なく発揮して、かなり強引な政務を執り行います。孝明天皇(第121代天皇)の勅許が得られずに止まっていた日米修好通商条約は、「国家存亡のときにあってやむなし」という直弼の判断により、勅許のないまま調印が行われました。そして、その直後には、自らが推していた徳川慶福を次期将軍に決定します。当然のごとく、この強引な手法には大きな反発がありました。しかし、直弼はその反発に対して、反対勢力を徹底的に処罰するというさらに強引な手法で答えます。その強引さたるや、抵抗勢力に刺客を送った小泉純一郎元首相の比ではなく、幕臣、大名はもちろん、市井の学者や志士に至るまで、あらゆる抵抗勢力の一切排除を断行しました。そのなかに、政敵である斉昭がいたのは言うまでもありません。斉昭は国許永蟄居の処分となり、政治生命を断たれました。世に言う、「安政の大獄」です。

 ドラマに出てきた彗星は、この年の10月に観測された「ドナティ彗星」という名の彗星だとか。肉眼でも見ることができたほど大きく輝く彗星だったようで、世界各国で観測された記録が残っているそうです。タイトルの『妖霊星』とは、当時、凶事の前兆として不吉とされていた「ほうき星」のこと。奇しくもこの彗星がもっとも地球に近づいた頃から、日本は殺伐とした時代に入っていくんですね。それは日本にとってのことか、あるいは直弼にとってのことか、でも確かに、「ドナティ彗星」は凶事の前兆、「妖霊星」でした。



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by sakanoueno-kumo | 2013-01-31 02:33 | 八重の桜 | Comments(0)