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大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

時代は進んで幕末、大坂城にはもうひとつの歴史があります。
慶応3年(1867年)12月9日に発せられた王政復古の大号令のあと、二条城から追われた第15代将軍・徳川慶喜は、ここ大坂城に入ります。
そして年が明けた慶応4年(1868年)1月3日、旧幕府軍と新政府軍が激突した「鳥羽・伏見の戦い」が始まりますが、薩長軍が錦旗を掲げたことにより賊軍となった旧幕府軍は、その後も各地で奮戦はするものの、敗色は濃厚となります。
そんななか、幕府軍総司令官である徳川慶喜は、6日夜、ひそかに大坂城を脱出して海路江戸に逃げ帰っちゃうんですね。
このとき、老中はじめ京都守護職の松平容保や京都所司代の松平定敬も、慶喜の厳命により、家臣たちを置き去りにして江戸へ向かうことを余儀なくされました。
翌朝、主君に欺かれたことを知った大坂城中の将兵たちが、呆然自失となったことは言うまでもありません。
このときの行動が、後世に徳川慶喜という人物の評価を下げた最大の要因であるといっていいでしょう。

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写真は大坂城玉造口南に建立されている「城中焼亡埋骨墳」です。
この碑は、慶喜が去ったあとの城中で、城と共に自害して果てた幕臣たちの慰霊碑です。
総大将がいなくなった大坂城では、もはや戦いを続ける理由もなく、翌日の7日から兵の退去が始まりますが、1月9日、新政府軍への城の開け渡しを潔しとしない幕臣たちが、城に火を放ち、自害して果てました。

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石碑の裏には、「慶応四年辰歳七月 薩州・長州建之」とあります。
つまり、この碑は焼失からわずか半年後に、しかも敵である薩長軍によって建てられたんですね。
大坂城から上がった火が鎮火した翌日の1月10日、錦の御旗を掲げて大坂城に入った征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王(小松宮彰仁親王)と薩長軍は、焼け跡のなかに多くの遺体を確認します。
それを見た薩長兵たちは、城と運命を共にした幕臣たちを「武士の鑑」とたたえ、その遺骨をこの地に埋葬して石碑を建てたそうです。

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この日の大坂城は観光客でいっぱいでしたが、ここに足を運ぶ人はほとんどいませんでした。
場所は外堀の更に南のはずれにあり、たぶん、あまり知られてないんでしょうね。
写真のように、ひっそりとした場所です。

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慶喜がなぜ土壇場で逃げ出したかは、いろんな見方があって定かではありません。
わたしが思うに、水戸学の本拠地である水戸徳川家出身の慶喜にとって、朝敵になることは耐え難きことだったのだろうと推察します。
聡明すぎたんですね。
ただ、理由はどうあれ、結果的に彼が敵前逃亡したことによって、その後の内乱は最低限の局地戦ですみ、その結果、多くの人命を失うことなく、新政府樹立へのプロセスをスムーズにし、日本の植民地化を目論む欧米列強につけ入る隙を与えなかったことを思えば、それが慶喜の意とするところだったかどうかは別として、結果的に我が国を危機から救ったといえます。
幕末維新の最大の功労者は徳川慶喜だった・・・とは、少し過大評価かもしれませんが、もう少し高く評価してあげてもいいんじゃないでしょうか。

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このとき城に放たれた火は、真冬の乾燥した空気のなか一晩中燃え続け、ほとんどの建造物が焼失しました。
慶喜の逃亡によって内乱は防げましたが、慶喜が逃げなかったら、大坂城の建造物などの遺産が、もっと後世に残されていたかもしれませんね。
兵どもが夢の跡・・・です。

さてさて、「その11」まで続いた大坂城攻めシリーズですが、この辺で終わりたいと思います。
近日中に、大坂城以外の大坂の陣関連史跡をめぐっていこうと思っています。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
   ↓↓↓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-28 22:11 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

八重の桜 第22話「弟のかたき」 ~江戸開城談判~

 江戸城に戻ってきた徳川慶喜は、朝廷に対しての恭順姿勢を表明します。この間、幕府役人の中では、勘定奉行・小栗上野介忠順や海軍総裁・榎本武揚、歩兵奉行・大鳥圭介らは徹底した抗戦論を主張し、慶喜と共に大坂城から江戸へ下ってきた会津藩主の松平容保や桑名藩主の松平定敬も、しきりに再挙を訴えます。しかし、陸軍総裁・勝海舟や会計総裁・大久保一翁らが熱心に謝罪恭順を慶喜に説き、結果的に海舟らの主張が抗戦派を抑え、慶応4年(1868年)2月21日、慶喜は上野の寛永寺大慈院に入り謹慎します。以後、勝海舟や大久保一翁に全権を委ね、新政府軍との交渉にあたらせます。

 さらに、上野の輪王寺宮や前将軍・徳川家茂の御台所で天皇の叔母にあたる静寛院宮(和宮)、13代将軍徳川家定の御台所で薩摩藩出身の天璋院(篤姫)らが必死になって慶喜の助命と徳川家の存続運動に奔走します。新政府側では、岩倉具視は慶喜の謝罪の誠意が現れるならば、その助命と徳川家存続は認めるとの内意をもらしていたようですが、そのころ西郷隆盛は、慶喜助命の嘆願に対して、
 「慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届千万、是非とも切腹までには参り申さず候ては相済まず、必ず越土(越前、土佐)などよりも寛論起こり候わんか。しかれば静寛院(和宮)と申しても、やはり賊の一味と成りて退隠ぐらいにて相済候事と思しめし候わば、致し方なく候に付き、断然追討あらせられ度き事と存じ奉候。かくまで押し詰め候処を寛に流し候ては、再び、ほぞをかむとも益なき訳に到り候わん。」
 と、あくまで許すべからずとの過激な意思を大久保一蔵(利通)宛の手紙に書いています。その大久保もまた、
「天地容るべからざる之大罪なれば天地之 間を退隠して後初めて兵を解かれて然るべし」
 といっています。少なくともこの時点では、西郷と大久保の間では慶喜の助命という選択肢はなかったようです。

 その西郷を軟化させたのが、有名な勝海舟と西郷隆盛の会談ですね。二人の会談が行われたのは、慶応4年(1868年)3月13日と14日の二日間。江戸に集結した新政府軍が江戸城総攻撃を計画していたのが翌15日のことで、ギリギリの交渉でした。なんとしても新政府軍との武力衝突を避けたい勝は、3月9日、旗本の山岡鉄舟に手紙を持たせ、駿府の大総督府にいた西郷を訪ねさせます。その手紙には、こう記されていました。
 「今、官軍都府に逼るといえども、君臣謹んで恭順の道を守るは、我が徳川氏の士民といえども、皇国の一民なるを以てのゆえなり。且つ、皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり。然りといえども鄙府四方八達、士民数万往来して、不教の民、我主の意を解せず、或はこの大変に乗じて不軌を計るの徒、鎮撫尽力余力を残さずといえども、終にその甲斐無し。今日無事といえども、明日の変誠に計り難し。小臣殊に鎮撫力殆ど尽き、手を下すの道無く、空しく飛丸の下に憤死を決するのみ。然りといえども後宮の尊位(静寛院宮か、あるいは天璋院か)、一朝この不測の変に到らば、頑民無頼の徒、何等の大変牆内(しょうない)に発すべきや、日夜焦慮す。恭順の道、これにより破るといえども、如何せむ、その統御の道無き事を。」

 この手紙には、もし官軍が江戸を攻撃すれば、日本にとってどれだけ大変なことになるかわからないとだけ強調し、「西郷くんよ、ここを察せよ」というだけで、一言も徳川家を助けてくれとは言っていません。これは、まことに相手をよく知り抜いた高度な政治的交渉術だと専門家は言います。西郷はただちにその意味を察し、山岡をしばらく待たせて参謀会議を開き、慶喜謝罪の七条件を山岡に示します。その内容は、第一に慶喜を備前藩にあずける。第二に江戸城明け渡し。第三、第四、軍艦と兵器をいっさい引渡し。第五に城内居住の家臣は向島にて謹慎。第六に慶喜の妄動をたすけた者の謝罪の道をたてる。第七に幕府で鎮撫しきれず暴挙するものあらば、その者のみを官軍が鎮定する。以上の七条が実行されるなら、徳川家存続は寛大に処置する・・・というものでした。山岡はこの条件を勝のもとに持ち帰ります。

 西郷が江戸総攻撃を目前に江戸高輪の薩摩邸に入った13日、勝はただちに西郷を訪問しますが、この日は天璋院と静寛院宮の身の安全の保証を話し合っただけで、早々に引き上げます。このあたりも、勝ならでは高等な交渉術だったのでしょうか? 翌14日に両者は再び会談。勝のほうから、西郷が山岡に持たせた七条件につき、第一条の慶喜を備前藩にあずけるという項目を、水戸に引退して謹慎すると改めたほかは、ほとんど大差のない条件を出します。西郷はそれに同意し、すぐさま駿府に使者を送って、翌日にせまった江戸城総攻撃の中止を命じさせました。この崖っぷちの談判で、徳川家ものちの日本もすくわれたといっていいかもしれません。まさに、英雄と英雄が肝胆相照らして日本をすくった・・・といったら、すこしオーバーでしょうか?

 この歴史的会談で徳川家も日本もすくわれましたが、まだ幕末の動乱の着地点が見つかったわけではありませんでした。
 「振り上げた拳をば、どけに下すかじゃな・・・。」
 その矛先となったのが、八重たちの会津だったわけです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-06-05 16:04 | 八重の桜 | Comments(2)  

八重の桜 第21話「敗戦の責任」 ~徳川慶喜の敵前逃亡~

 多忙のため、1週間遅れのレビューです。

 慶応4年(1868年)1月3日に火蓋を切った「鳥羽・伏見の戦い」で、薩長軍が錦旗を掲げたことにより賊軍となった旧幕府軍は、その後も各地で奮戦はするものの、敗色は覆い隠せませんでした。極めつけとなったのは、幕府の命令で山崎を守っていた津藩兵が、6日朝、旧幕府軍に向けて砲撃を開始したこと。味方であるはずの津藩の裏切りで、旧幕府軍の士気は一気に下がり、全軍総崩れとなります。

 開戦以来ひきつづき敗報ばかりを受け、さらに錦旗が掲げられて朝敵にされたことで戦意を失っていた徳川慶喜は、6日の津藩の寝返りによる幕軍総崩れを知ると、江戸へ帰って再起をはかる決意をかため、6日夜、ひそかに大坂城を脱出し、海路江戸へ向かいます。このとき、老中はじめ京都守護職の松平容保や京都所司代の松平定敬も、慶喜の厳命により、家臣たちを置き去りにして江戸へ向かうことを余儀なくされました。翌朝、主君に欺かれたことを知った大坂城中の将兵たちが、呆然自失となったことは言うまでもありません。

 このときの行動が、後世に徳川慶喜という人物の評価を下げた最大の要因であるといっていいでしょう。戦の総指揮官という立場にありながら敵前逃亡したわけですから、やむを得ない評価かもしれません。このあたりが、「百の才智があって、ただ一つの胆力もない。」といわれるところでしょうか・・・。ただ、その一幕だけを切り取ってみればそうかもしれませんが、結果的に彼が敵前逃亡したことによって、その後の内乱は最低限の局地戦ですみ、その結果、多くの人命を失うことなく、新政府樹立へのプロセスをスムーズにし、日本の植民地化を目論む欧米列強につけ入る隙を与えませんでした。それが慶喜の意とするところだったかどうかは別として、結果的に我が国を危機から救ったことは間違いありません。幕末維新の最大の功労者は徳川慶喜だった・・・とは、少し過大評価かもしれませんが、もう少し高く評価してあげてもいいんじゃないでしょうか。

 本話のタイトルの「敗戦の責任」とは、敵前逃亡した慶喜ではなく、松平容保の側近で、鳥羽・伏見の戦いでは会津軍の軍事奉行となっていた神保修理のことでしたね。ドラマでは、修理がその責任を一身に負ったという描き方になっていました。たしかに修理は、主戦論で激昂する会津藩士なかにおいて、一貫して不戦恭順論を説いていた人物で、慶喜に対して恭順を進言していたのもドラマのとおりです。でも、修理の進言によって慶喜が敵前逃亡を断行したかどうかといえば、一介の藩士の進言にそこまでの影響力があったとも思えず、意見の分かれるところではないでしょうか。ただ、総指揮官とともに主君までも姿を消したことを知った会津藩士は、その憤りをぶつける場所を見つけられず、矛先を修理に向けるんですね。そして最後はドラマのとおり、切腹に追いやられます。

 ドラマでは容保自身が切腹を申し渡していましたが、実際には主戦派が君命と偽って命じたものでした。修理は、これを偽の君命だと知ったうえで受け入れます。だれかが責任を追わなければ収まりがつかない状況だったんですね。容保の戦線離脱の責任を一身に背負うかたちとなった修理は、「余もとより罪なし、然れども君命を奉ずるは臣の分なり」と言い残し、みごとに自刃します。享年34歳。「戦争責任」というのは、いつの時代でも不明瞭なものです。



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by sakanoueno-kumo | 2013-06-03 22:36 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第20話「開戦!鳥羽伏見」 ~勝てば官軍、負ければ賊軍~

 王政復古のクーデターの報告を受けた徳川慶喜は善後策に苦慮します。辞官はともかく、納地の命令は、徳川家15代当主として簡単に受け入れられるものではありません。それならば薩摩と一戦交えるか・・・・。幕兵、会津兵、桑名兵を合算すれば、薩長の在京兵力を打ち破れないことはない・・・。しかし、いったん朝敵となってしまえば、尾張、越前、土佐が推し進める調停が水の泡になる・・・・、さりとて、激高した部下たちを鎮めるにも限界がある・・・そんな具合に、慶喜は迷っていたことでしょう。そんなとき、松平春嶽らより、ひとまず京都を去って大阪に下り、事態の沈静を待ってほしいと勧められます。慶喜はこの勧めをうけ、迷ったすえ下阪を決意。それを阻止しようとした会津藩兵・佐川官兵衛林権助らに、「余に深謀あり」と言ってなだめます。このあたり、ドラマにあったとおりですね。慶喜は松平容保松平定敬板倉勝静らを従え、二条城の裏門から抜け出し、翌日大坂城に入ります。まさしく、「都落ち」といっていいでしょう。

 以後、薩摩と幕府の睨み合いは1ヶ月ほど続きます。その間、慶喜は形成の巻き返しを図るため、朝廷への工作を働きかけますが、一方で、大坂城に籠っていた旧幕府兵や会津、桑名兵らのフラストレーションは積もるばかりで、暴発は時間の問題になりつつありました。そしてついに、慶応4年(1868年)1月2日、京に向けて旧幕府軍の進撃が開始され、翌3日、京都南郊の鳥羽・伏見で両軍は激突します。世に言う「鳥羽・伏見の戦い」です。

 旧幕府軍の進撃の導火線となったのが、前年に江戸で勃発した徳川家と薩摩藩の軍事衝突でした。王政復古前の11月頃より、江戸市中では薩摩藩の三田屋敷を拠点として、強盗騒ぎが頻発していました。これは、慶喜の大政奉還によって武力討幕の口実を失った薩摩藩が、江戸に浪士・無頼者を集めて治安を乱し、後方撹乱を狙ったものだと言われています。その首謀者は西郷隆盛でした。西郷の思惑は、騒乱状態を作ることによって、旧幕府兵力を関東に釘付けにし、京阪への集結を妨げるとともに、幕府の権威がもはや衰弱しきっていることを諸藩および江戸市中の民衆に強く印象づけ、さらには、幕府をして薩摩藩討伐の兵を起こさざるをえないように仕向けようというものでした。そして、ことはその狙いどおりに進みます。

 江戸城の留守を預かる旧幕府首脳部と江戸市中の警備を任されていた庄内藩は、一連の騒ぎを薩摩の挑発とみすえ、じっと我慢し続けていましたが、12月に入って、大風の吹く日に市中数十箇所に火を放ち、その混乱に乗じて江戸城を襲い、静寛院宮(和宮)天璋院(篤姫)を連れ去る計画が進められているという風評が流れ、その風評が流れるさなか、天璋院の住む江戸城二の丸が全焼する騒ぎが起きます。さらに浪士たちは徳川家を挑発して、この夜、庄内藩屯所に向けて発砲。これには庄内藩も怒り浸透となり、ついに旧幕府首脳部もしびれを切らして、庄内藩兵とともに薩摩藩邸を包囲。三田屋敷はたちまち火に包まれました。その報が大阪に伝わると、城内は一気に沸き立ち、ただちに薩摩を討って一挙に幕府勢力を回復せよといきり立ちます。

 「この声を聞け! 一万五千の猛り立つ兵をどうやって鎮めるのだ! 薩摩を討たねば、この怒りはわしに向かってくる。主君のわしが殺される。もはや戦うしかない。」

 ドラマ中の慶喜の台詞ですが、まさにこの台詞どおりの心境だったんじゃないでしょうか。ことここにいたっては、もはや慶喜にはその勢いを抑える力はありませんでした。

 戦のあらましは長くなるのでここでは省略しますが、徳川方の指揮不統一戦術の拙さが相まって、旧幕府兵、会津兵、桑名兵ともに各所で後退を余儀なくされ、初日の戦いは薩長軍の優勢で終わりました。この初日の戦況が、結果的に決め手となります。

 開戦の報が届いた京都では、すぐさま御所で会議が開かれ、大久保一蔵の意向を受けた岩倉具視は、仁和寺宮嘉彰親王を軍事総裁職兼任・征討大将軍に任命し、錦旗・節刀をさずけることと、諸藩に慶喜討伐を布告することを求めますが、慶喜を朝敵とすることに異論が続出し、なかなか結論が出ませんでした。しかし、前線から薩長軍優勢の報告が入ると、会議の空気が一変し、慶喜討伐が決定します。薩摩・長州が官軍、旧幕府軍をはじめ会津、桑名が賊軍に転落した瞬間でした。翌日、仁和寺宮が錦旗を掲げて東寺まで進み、ここに慶喜討伐の大本営を置きます。これまで形勢を展望していた諸藩も、これを見た途端になだれを打って旗幟を鮮明にしていきます。ここに、鳥羽伏見の戦いの大勢は決したといえます。まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉どおりの展開だったわけですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-25 16:50 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第18話「尚之助との旅」 ~大政奉還~

 いよいよ幕末史の大詰、物語は慶応3年(1867年)の後半期を迎えました。この時期になると、あくまで幕権強化を是とする佐幕派と、武力で幕府を倒そうという倒幕派の緊張がますます高まるなか、そのどちらでもない第三の道として、幕府自ら政権を朝廷に返還し、武力を用いないで、平和的に幕府専制を解消して、新たな政治機構を作ろうとする運動が活発になります。いわゆる「大政奉還論」ですね。この3つの運動が並行的にからみ合いながら進展していたので、政局はきわめて複雑な様相を示します。

 大政奉還論を中心的に推進したのは土佐藩でした。その土佐藩の代表者は前藩主の山内容堂であり、その腹心である後藤象二郎が藩内でもっとも実力を持っていました。その後藤に大政奉還論を教えたのが、あの坂本龍馬ですね(参照:龍馬伝第43話「船中八策」)。龍馬の示した構想は、上下二院制など外国の立憲制にのっとった近代的な統一国家の構想で、これまで薩摩藩の西郷隆盛らが推し進めてきた列藩会議の構想よりもずっと進んだものでした。しかし、これを受けた後藤はあくまで列藩会議のかたちをとり、その列藩会議の議長に旧将軍が就任し、徳川本家の権威は持続させる、名目は朝廷の一元政治である、という妥協方針を立てます。山内容堂も、これならば賛成であり、後藤らはこの案を慶応3年(1867年)10月3日、老中に提出し、大政奉還を説きます。

 土佐藩から大政奉還論を上申された幕府でしたが、すでに将軍・徳川慶喜やその側近にはその論は入説されていました。したがって慶喜以下幕府首脳は、これをどうするか、すでに検討を加えていたのです。これまで幕権強化に力を注いできた慶喜も、ここにきて、なんらかのかたちでこれまでの幕府政治の形態を変えなければならないと感じとっていたのでしょう。薩長を中心に討幕運動が進められていることは明らかであり、しかもイギリスがその後押しをしていることもわかっている。第二次長州征伐では、長州一藩相手でも歯が立たなかった。そのほかの諸大名も幕府にソッポを向き始めている。民心の動向を見ても、幕政に対して非難が集中している。そんななか、この際なんらかの思い切った手だてが必要と考えたのも、当然だったといえるでしょう。

 そこへ飛び込んできたのが、土佐藩の大政奉還論でした。迷った慶喜はこの案を採り入れる決意をします。そして慶応3年(1867年)10月14日、慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出しました。これにより、250年続いた徳川政権は名目上終わりとなったわけですが、それは名目上であって、事実上はそう簡単なことではないと慶喜はふんでいたと考えられます。政権を返されたとて、250年もの間政治から遠ざかっていた朝廷に政権運営能力はなく、実質的にはこれまでどおり徳川家が運営していくこととなる。慶喜はこの大政奉還に便乗して、あるいはこれを利用して、これまで以上に幕権を強化していこうとさえ考えていたといわれています。天皇を隠れ蓑にして実権を握る・・・つまり、名を捨てて実を取るというわけですね。たしかに、内乱を回避して、なお且つ徳川本家を守るという道は、この時点ではもはや大政奉還しか道はなかったでしょう。その意味では、慶喜の選んだ道は最良の方策だったといえます。しかし、大政奉還後の構想は、慶喜が考えるほどあまいものではありませんでした。慶喜が考えるほど、討幕側は馬鹿じゃなかったんですね。そこが、来週のタイトルどおり、「慶喜の誤算」だったのでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-07 00:16 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第16話「遠ざかる背中」 ~徳川慶喜は二枚舌?~

 「徳川にかけそこなった一橋」
 安政5年(1858年)、第14代将軍が一橋慶喜のライバルだった徳川慶福(家茂)に決まると、ときの人々はこのような川柳を詠んで嘲弄したといいます。その家茂が死に、いよいよ慶喜が徳川宗家の相続者となると、今度は次のような狂歌が作られました。
 「大木をばたおしてかけし一橋 渡るもこわき徳川のすえ」
 「二つ箸持つとも喰えぬ世の中に 一ツ橋でも喰えなかるらん」

 この時期、すでに庶民は幕府の瓦解を予見しはじめていたのでしょうか。

 慶喜は徳川本家相続を承知したとき、自分の意のままに政治を改革することを条件とし、これを老中らに承認させます。そして慶応2年(1866年)9月には、人材の登用、賞罰の厳正、冗費の節約、陸海軍の充実、外交の刷新、貨幣・商法制度の改革など、8箇条の施政方針を示し、その線に沿って改革が行われますが、まず当面解決しなければならない問題は、第二次長州征伐をどう処理するかということでした。

 慶喜は当初、自ら長州征伐に出陣し、あくまで武力によって長州藩を屈服させるべく強硬な態度で臨みました。出陣を前に旗本を集めて、「毛利大膳父子は君子の仇である、このたび出陣する以上、たとへ千騎が一騎になろうとも、山口城に攻め入り、勝敗を決する覚悟でいる。」と、勇ましく述べています。しかし、いよいよ出陣しようとしたときに、小倉落城の報が伝わり、戦局が絶望的となっていることを知ると、たちまち態度を軟化させて自身の出陣を取りやめ、朝廷にはたらきかけて、将軍の死を理由に休戦命令を出させることに成功します。

 続いて慶喜は、軍艦奉行・勝海舟を広島へ派遣して、長州藩との休戦交渉に当たらせます。もともと慶喜は勝のことを快く思っていませんでしたが、この局面で長州藩と口がきけ、また薩摩藩との対立も緩和させ、しかも幕府の立場を守る交渉ができる人物は、勝以外にいなかったでしょう。勝は厳島で、長州藩代表の広沢兵助(真臣)井上聞多(馨)らと会談し、幕府軍が撤退するとき、長州藩が追撃しないことで協定を成立させます。さすがは勝海舟といったところですが、実はもう一方で、慶喜は朝廷にも同時にはたらきかけ、休戦から更に進んだ停戦の勅命の引出しに成功します。勝の派遣は、いわば時間稼ぎに利用されたかたちになってしまいました。しかも、結果的に交渉の席についた長州藩にも不義理をはたらくことになってしまい、これに怒った勝は、辞表を提出して江戸へ帰ってしまいます。こうして、第二次長州征伐は、なおいくつかの問題を残しながら、一応の決着をみたのです。

 二点三点したこれらの行動から、「二心殿」「二枚舌」などと揶揄され、後世にあまり人気がない慶喜ですが、果たして本当に「二枚舌」だったのでしょうか? たとえば当初の勇ましい態度にしても、事実上幕府軍の総裁という立場で、兵の士気を高めるためには必要な態度だったでしょうし、一方で、戦局を冷静に判断して引き際を模索するのもまた、立場上、必要なことだったのではないでしょうか。長州藩との交渉にしても、結果的に勝を裏切るかたちになってしまったものの、もし勝の交渉が不成功に終わったときのことを考え、次の手を準備するのもまた、総裁という立場上、当然の行動だったように思います。ただ、あまりにも頭が良すぎて、その思考のスピードに周りの者がついていけなかった・・・。そんなところだったんじゃないでしょうか?

 「太平の世にあぐらをかいた幕府など、一度、壊れた方がよいのだ。幕府を鍛え直さねばならぬ。カビの生えた軍制から職制の大元に至るまで、全てを作り直す。それが将軍の勤めだ。」 
 ドラマ中、将軍職継承宣言をした小泉孝太郎さん演じるところの徳川慶喜が言った台詞ですが、ちょっと待って!!!・・・どっかで聞いたことある台詞ですよね!
 「自民党をぶっ潰す!」
 そうです・・・小泉孝太郎さんの実父・小泉純一郎元首相の掲げた「聖域なき構造改革」のキャッチフレーズですね。この台詞を聞いて思わず吹き出してしまったひと、多かったんじゃないでしょうか? どう考えても、この台詞は作者の意図的にしか思えません(笑)。ぜったい小泉慶喜にこの台詞を言わせたかったのでしょうね(笑)。でも、だったら、せっかくだからこう言わせたほうが良かったんじゃないでしょうか?
 「幕府をぶっ潰す!」
 実際の慶喜に、そこまでの気概があったかどうかはわかりませんけどね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-22 19:29 | 八重の桜 | Comments(8)  

八重の桜 第15話「薩長の密約」 ~将軍・家茂の死と慶喜の相続~

 薩長同盟第二次長州征伐、将軍・徳川家茂の死、一橋慶喜の将軍就任と、本来の幕末モノであれば3話ぐらいに分かれそうな話を、かなり駆け足に描きましたね。まあ、八重の生涯を描くドラマですから、幕末はあくまでプロローグに過ぎず、ここで時間を割いてはいられないといったところでしょうか。おそらく前半のクライマックスを会津戦争にもってくるのでしょうね。ではでは、当ブログも駆け足でいきます。

 慶応2年(1866年)1月、長年の宿敵であった薩摩藩長州藩の間に提携の密約が結ばれます。世に云う「薩長同盟」ですね。この二藩を仲介した立役者は、ほかならぬ土佐藩の坂本龍馬中岡慎太郎であることは周知のところでしょう。言わずと知れた幕末のヒーローですね。ところが今回のドラマでは、ナレーションで「土佐の脱藩浪士」と語られただけで、龍馬の存在をほとんどスルーしました。なんで?・・・と思った人も多かったかもしれませんが、考えようによっては、これはこれで正しいでしょうね。物語の中心である会津藩視点でみれば、坂本龍馬などあくまで「名もなき土佐の脱藩浪士」に過ぎません。人気者の龍馬を無理やり登場させて視聴者を惹きつけようという作為が感じられず、逆に良かったんじゃないでしょうか。(龍馬ファンのために桔梗の家紋の後ろ姿を映したのは、なんとも憎い演出でした)

 薩長同盟については過去の拙ブログで書いていますので、よければそちらを一読ください。
 (参照:龍馬伝 第35話「薩長同盟ぜよ」

 多くの反対や慎重論などがあって足並みが揃わないまま強行した第二次長州征伐は、ドラマにあったとおり幕府にとって厳しい戦いとなりました。そして、幕府が長州相手に敗北を重ねているとき、幕府にとってさらなる痛手となったのは、大坂在陣中の第14第将軍・徳川家茂の死でした。慶応2年(1866年)7月20日、将軍在職8年余り、若き将軍・家茂は脚気衝心でこの世を去ります。享年21歳。この日の大坂城中の様子を、家茂から厚い信頼を受けていた幕臣・勝海舟は、次のように記しています。
 「七月十九日夜、医官松本良順より隠密の報あり、将軍危篤、ついに薨去ありと。余、この報を得て、心腸寸断、ほとんど人事を弁ぜず。忽ち思うところあり、払暁登城す。城内寂として人無きがごとし。余最も疑う。奥に入れば諸官充満、一言も発せず。皆目をもって送る。惨憺悲風の景況、ほとんど気息を絶せんとす。」
 大坂城中、寂として声なき様子がよくうかがえます。家茂の死はしばらく秘密にされ、約1か月後の8月20日に正式に発表されました。

 後継者は一橋慶喜以外、適当な人物はほとんどいませんでした。家茂は死に際して田安亀之助(家茂の従兄弟)を後継者とする遺言を残したといわれますが、このとき亀之助はわずか4歳、国事多難な情勢のなか、幼君では舵取りが困難との理由で多くの大名らが反対、老中・板倉勝静稲葉正邦、前福井藩主・松平春嶽、京都守護職・松平容保、所司代・松平定敬らが、こぞって慶喜を推します。

 ところが当の慶喜は、徳川宗家の相続は承知したものの、将軍就任は容易に受けようとはしませんでした。この態度は、困難な政局を前にして、多くの人々の推薦を得てから将軍職に就き、恩を売ったかたちで将軍になることで、政治を有利に進めていく狙いがあったのでは・・・と言われています。だた、実際にはその真意は定かではありません。いわば、幕府=沈みかけの船の船頭となるのを拒んでいただけかもしれません。支持率を落とした政権与党の党首になるようなもので・・・。慶喜は後年の回想録で、このときの気持ちを次のように語っています。
 「遂に板倉・永井を召し、徳川家を相続するのみにて、将軍職を受けずとも済むことならば足下等の請に従わんといいしに、それにてもよしとの事なりしかば、遂に宗家を相続することとなれり。されども一旦相続するや、老中等はまた将軍職をも受けらるべしと強請せるのみならず、外国との関係などもありて、結局これをも諾せざるを得ざるに至れり。かかる次第にて、予が政権奉還の志を有せしは実にこの頃よりの事にて、東照公(家康公)は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を葬るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり。」と。

 慶喜がすでにこの頃から大政奉還の志を持っていたという述懐は眉唾ものですが、英明な慶喜のことですから、この局面での将軍職就任が「貧乏くじ」であることは、直感的に感じていたのかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-04-16 17:24 | 八重の桜 | Comments(2)  

仕事ついでの駿河国紀行 その2 ~徳川慶喜公屋敷跡~

駿府城跡を離れ、土産を買うべくJR静岡駅近くのビル街を散策していると、偶然、徳川慶喜公屋敷跡と書かれた石碑が目に止まりました。

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石碑の横には堂々の門構えがあり、「浮月楼」とあります。
公共の史跡ではなさそうだったので、おそるおそるなかを覗いてみると、どうやらそこは高級料亭のようでした。
徳川慶喜隠棲の屋敷が、いまでは料亭として残されているんですね。

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徳川慶喜といえば言うまでもなく、徳川幕府最後の将軍となった人物。
「権現様(徳川家康)の再来」と期待された英明な将軍・徳川慶喜でしたが、その実力を発揮しないまま、将軍就任わずか1年で大政奉還を行い、徳川幕府三百年の幕を引きます。
その後の王政復古戊辰戦争により朝敵となった慶喜でしたが、江戸総攻撃の前に行なわれた旧幕臣・勝海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛との交渉により死罪を免れ蟄居の身となり、自身の故郷である水戸で謹慎した後、ここ駿府に移されました。
そのとき慶喜32歳。
現代で言えばバリバリ働き盛りの歳ですが、慶喜はその後、ほぼ隠居のような人生となります。

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説明看板によると、ここは元の代官屋敷で、近くに鉄道が通りうるさいというので西方へ転居するまで、慶喜は21年間ここに住んだそうです。
慶喜転居ののち払い下げられ、料亭となって現在に至っているそうです。
明治時代には、伊藤博文西園寺公望、井上馨、田中光顕など、錚々たる元勲たちに贔屓にされていたとか。
私は・・・、そんな由緒ある料亭の敷居をまたぐ甲斐性などあるはずもなく、こっそり外から眺めて写真だけ撮ってきただけです(笑)。
(看板によると、庭園はたいそう有名な庭師の作庭だそうです。)

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ところで、その後の慶喜は、明治30年に静岡を離れ、東京に移り住みました。
将軍就任、大政奉還と波乱に満ちた前半生の慶喜でしたが、32歳から約30年の後半生を静岡で目立たぬよう暮らしたことになります。
静岡隠棲の間、多くの女性との間に男10人女11人という子を持つ一方、鉄砲、自転車、写真など、多彩な趣味を楽しんだといいます。
一方で、旧幕臣や明治政府に不満を持つ元士族などには、決して会わなかったとか。
さすがは英明と称された慶喜、自身がそれらの者たちに担がれたら、どんな混乱を起こすか、自身の言動がどう政治的に利用されるか、ちゃんとわかっていたんですね。

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明治政府の足元が固まるまで、じっと30年間逼塞していた慶喜。
ある意味では、明治政府にとって最大の功労者の一人だったといえるかもしれません。
作家・司馬遼太郎氏は慶喜の半生を描いた小説『最後の将軍』のなかで、松平春嶽談として慶喜のことを「百の才智があって、ただ一つの胆力もない」と評していますが、はたしてそうでしょうか?
32歳という血気盛んな年齢から隠居の身となり、その後、新政府に対してことを荒立てるような行動をいっさい起こさなかったことこそが、百の才智であり、胆力であったといえなくもないです。
通常、歴史上の偉人は何事かを成して歴史に名を刻みますが、慶喜の場合、何もしなかったことが最大の功績だったという、歴史上たいへん稀有な存在だといえるでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-16 16:32 | 静岡の史跡・観光 | Comments(2)  

龍馬伝 第48話(最終回)「龍の魂」

 「龍馬、人がみんなぁ自分のように、新しい世の中を望んじゅう思うたら大間違いぜよ。口ではどう言うとったちいざ扉が開いたら、戸惑い、怖気づく者は山のようにおるがじゃき。」
 「龍馬、人の気持ちは、それほど割り切れるもんではないがぜよ。」

 弥太郎と慎太郎の言葉どおり、龍馬が選んだ革命の道は、必ずしも皆が望んだ道ではなかった。
 「世の人は 我を何とも言わば言え 我が成す事は 我のみぞ知る」
 龍馬が16歳のときに詠んだといわれるこの句のとおり、慶応3年のこの時期の彼の理解者は龍馬自身だけだったのかもしれない。

 大政奉還の偉業を成し遂げた坂本龍馬は、来たるべき新時代の政府の組織作りにとりかかった。三条家家士の戸田雅楽(尾崎三良)の協力を得て、「新官制議定書」と称する新政府組織案が出来たのは慶応3年(1867年)10月16日のことだった。その内容は、関白、内大臣、議奏、参議などの職制からなり、公卿、大名、諸藩士の名が適所に配置された見事な草案だった。ところが、新政府樹立の功労者が列挙されたその名簿の中に、肝心の龍馬自身の名がなかったという。それを見た西郷隆盛が龍馬の名がないことに気づき理由を尋ねたところ、「自分は役人にはなりたくないので新政府に入閣するつもりはない。」と答えたという。龍馬の魅力を語る上で、欠かせないエピソードである。龍馬の懐の大きさが感じられるエピソードだが、これひとつみてもまさに、「我が成す事は我のみぞ知る」の言葉どおりだった。

 そして11月、その仕上げともいえる「新政府網領八策」を作成する。その内容は同年6月に作成した「船中八策」と大きな違いはなかったが、この策をどのように実現させるかを記した結びの文が違っていた。
 「右、預メ二三明眼士ト議定シ、諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。○○○自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ、始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼、公儀ニ違フ者ハ断然征伐ス。権門貴族モ貸借スル事ナシ。」
 ここで問題となるのが、「○○○」と伏せ字にされた盟主の名前だ。ドラマの龍馬は、ここに入るのは「皆」だと言っていたが、そんな民主的な発想がこの頃の龍馬にあったとはさすがに思えず、やはりここには、実名を表しては差し障りがある人物の名が入ると考えたほうが正しいだろう。となれば、やはり思い浮かぶのは、徳川慶喜だろう。龍馬は、上記の「新官制議定書」に見る関白の次の内大臣の職に、大政奉還を断行した慶喜こそふさわしいと考えていたといわれている。龍馬は、朝廷を中心に薩摩、長州、土佐などの雄藩に加え、徳川家も入れた新政府の樹立を考えていた。大政奉還の成立で肩すかしをくらった武力討幕派の薩長は、この「○○○」の伏せ字で、さらに龍馬への不信感を覚えたであろうことは容易に想像がつく。もはや龍馬は、誰からも理解されない人物になっていた。まさに、「我が成す事は我のみぞ知る」だった。

 慶応3年11月15日、その日は朝から雨だった。前日から龍馬は風邪気味だったため、それまで潜んでいた近江屋のはなれの土蔵から、母屋の2階に移っていた。寒さが厳しいので、龍馬は真綿の胴着に舶来絹の綿入れをかさね、その上に黒羽二重の羽織をひっかけていたという。夕刻、中岡慎太郎が訪ねてきた。用件はわからない。このとき近江屋2階には、龍馬の下僕・藤吉と、書店菊屋の息子・峯吉がいた。やがて土佐藩下横目の岡本健三郎も訪れ、しばらく雑談を交わしていると、龍馬が峯吉に「腹がすいたから軍鶏を買ってこい」と命じた。峯吉が使いに出るとき、岡本も一緒に部屋をでた。峯吉が軍鶏を買い戻ってくるまでの時間がおよそ二、三十分。その間に事件は起きた。

 近江屋入口を叩く音に藤吉が応対に出ると、「拙者は十津川の者、坂本先生ご在宿ならば、御意を得たい。」と名刺を差し出す。十津川郷士には龍馬も慎太郎も知己が多いので、藤吉は別に怪しまず龍馬に名刺を渡し、部屋から戻ってきたところを尾行していた3人の男のうちのひとりが斬りつけた。その物音を聞いた龍馬は奥から「ほたえな!」と大喝した。藤吉が客人とふざけていると思ったのだろう。そして藤吉の持ってきた名刺を眺めていた龍馬と慎太郎のところへ、電光石火の如く飛び込んできた刺客2名は、あっという間もなく龍馬たちに斬りかかった。そのひとりが「こなくそ!」と叫んで慎太郎の後頭部を斬り、もうひとりは龍馬の前額部を横にはらった。龍馬は床の間に置いてあった刀を取ろうと身をひねったところを、右肩先から左背骨への二の太刀を受けた。続いての三の太刀は立ち上がりざま鞘で受け止めたが、鞘を割られ、刀身を削り、その勢いでまたも龍馬の前額はなぎはらわれた。脳漿が吹き出すほどの重傷をうけた龍馬は、そのまま倒れた。慎太郎も刀を屏風の後ろに置いてあったため、短刀を抜き応戦したものの、龍馬以上に数創の太刀を受け倒れた。刺客たちは止めの太刀を入れることなく、「もうよい、もうよい」との言葉を残して立ち去った。この刺客たちの、ほとんど間髪を入れないわざに、腕には覚えのあった龍馬も慎太郎も完全に立ち向かうすきがなかった。

 龍馬は間もなく正気を取り戻し、刀を抜いて行灯に照らしながら無念げに慎太郎に向かって「石川(慎太郎の変名)、手はきくか。」とたずねた。慎太郎が「手はきく」と答えるのを聞きながし、行灯をさげて隣の六畳間へにじり寄り、階段上から家人を呼び医者を求めたが、そのときは既に精根が尽きていた。 「俺は脳をやられた。もういかん。」とかすかに言って、うつぶしたまま龍馬は絶命した。その血は欄干から下の座敷までしたたり落ちていたという。

 坂本龍馬、享年33歳。奇しくもこの日、彼の33回目の誕生日であった。

 慎太郎は蘇生し、2日間生き延び、一時は焼き飯を食べるほどの元気を取り戻していたというが、その後容態は悪化、17日に死去した。中岡慎太郎、享年30歳。現在に伝わる襲撃時の様子は、蘇生した慎太郎が語ったものだといわれている。

 龍馬は大政奉還後ほとんど何も出来ぬままにこの世を去った。龍馬が明治の世まで生きていれば・・・後世の私たちは、幕末の英雄となった坂本龍馬についついそんなことを思う。しかし、同時代に生きる者たちにとっては、龍馬はむしろ疎ましい存在になっていた。繰り返し言うが、龍馬の最期は、誰からも理解されない境地に身を置いていた。彼の持つ、明るく、楽天的で、濶達な、愛すべき人物像とは裏腹に、土佐からも、薩摩からも、長州からも、幕府からも理解されることのない、孤立した存在となっていた龍馬。小説やドラマで颯爽としている龍馬からは想像もつかない、本当はどうしようもなく孤独な面をたえず持ち歩かねばならなかった、龍馬の晩年だったのではないかと私は思う。

 しかし、そんな孤独の中でも、きっと彼はこう言って笑っていたに違いない。
 「世の人は 我を何とも言わば言え 我が成す事は 我のみぞ知る」・・・と。



 「龍馬伝」全48話が終わりました。毎週読んでいただいた方、ときどきご訪問いただいた方、どなた様もこのような素人のとりとめのない稚文にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。今週中に「龍馬伝」総括を起稿したいと思いますので、よろしければまた、そちらにもお越しいただければ嬉しく思います。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-29 03:40 | 龍馬伝 | Comments(8)  

龍馬伝 第47話「大政奉還」

 慶応3年(1867年)10月3日、土佐藩参政・後藤象二郎は、「大政奉還建白書」を二条城ににいる15代将軍・徳川慶喜のもとに提出した。土佐に帰国していた坂本龍馬が京都入りしたのは、その直後である。幕府ではこれを採用するか否か、議論百出のおりだった。もしこれを拒否すれば、薩摩、長州、芸州の連合軍の砲門が直ちに開かれるだろう。もしこれを受け入れれば、260年続いた徳川政権の終焉を意味する。慶喜は迷っていた。

 そんな時期、龍馬は土佐藩参政・福岡藤次の紹介で、在京中の幕府大目付・永井玄蕃頭尚志のもとを頻繁に訪ね、しきりに建白書の採用をすすめていたという。龍馬も必死だった。あるとき龍馬は永井に対して、「甚だ露骨な質問であるが、貴下は幕府の兵力をはかって能く、薩長連合軍を制しうると思われるか。」と問いかけたところ、永井は少し考え込んで「遺憾ながら勝利を保し難い」と答え、すかさず龍馬は「しからば今日、建白を採用なされるよりほかにとるべき道がないではないか。」とせまり、永井を沈黙させたという。永井尚志はのちに人に向かって、「福岡は真面目な人物」と評し、「後藤は確実正直」と語り、そして龍馬を評して、「後藤よりもいっそう高大にて、説くところもおもしろし」と言ったという。京での建白運動の表面に立っていたのは後藤象二郎だったが、その黒幕として龍馬がいかに重きをなしていたかが、永井の評からうかがい知ることができる。

 徳川慶喜は、10月13日に二条城に在京諸藩の重臣を招集して会議を開くと発表した。龍馬はこの時期、後藤に向けて二度手紙を送っている。一度目の手紙は、10月10日頃に送られたと思われるもの。
 「幕中の人情に行はれざるもの一ヶ条これあり候。其義は江戸の銀座を京師に移し候事なり。此一ヶ条さへ行はれ候へバ、かへりて将軍職は其まゝにても、名ありて実なれば、恐るゝにたらず奉存候。」
 大政奉還を将軍が受け入れようが受け入れまいが、江戸にある造幣局をすぐに京都に移せという。逆に造幣局さえ移してしまえば、将軍職などそのままにしていてもかまわない・・・と。つまり、徳川家から日本の経済権を一気に奪い取れというのだった。造幣権さえ奪ってしまえば、幕府は貨幣を作ることが出来ず、すぐに財政は破綻してしまう。幕府財政の破綻はそのまま幕府の崩壊に繋がり、有名無実のものとなる。そうなれば、大政奉還など成されなくとも、幕府は実体を失う・・・というものである。血で血を争う武力討幕よりも、はるかに先見性がある龍馬の経済眼。このあたりにも、龍馬の政治センスがうかがえる。

 二通目の手紙は、二条城登城の当日に送った手紙。その内容は、後藤象二郎の覚悟を促すための激励状とも脅迫状ともいえるものだった。
 「御相談被遣候建白之儀、万一行ハれざれば固(もと)より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受、社稷(しゃしょく)の為、不戴天の讐(あだ)を報じ、事の成否ニ論なく、先生ニ地下ニ御面会仕候。○草案中ニ一切政刑を挙て朝廷ニ帰還し云々、此一句他日幕府よりの謝表中ニ万一遺漏有之歟(か)、或ハ此一句之前後を交錯し、政刑を帰還するの実行を阻障せしむるか、従来上件ハ鎌倉已来武門ニ帰せる大権を解かしむる之重事なれバ、幕府に於てハいかにも難断(だんじがたき)の儀なり。是故に営中の儀論の目的唯此一欸已耳(のみに)あり。万一先生(後藤象二郎)一身失策の為に天下の大機会を失せバ、其罪天地ニ容るべからず。果して然らバ小弟亦、薩長二藩の督責を免れず。豈(あに)徒(いたずら)ニ天地の間に立べけんや。  誠恐誠懼
十月十三日  龍馬
後藤先生」

 もし、大政奉還が成らなかったときは、下城する慶喜公の列に海援隊を率いて斬り込み、慶喜を殺して自分も死ぬ、というのだ。龍馬は決死の覚悟だった。この10ヵ月前、姉・乙女に宛てた手紙の中で、「人と言ものハ、短気してめつたニ死ぬものでなく、又人おころすものでなし」といっていた龍馬とは別人のようだ。それだけ、龍馬にとってこの日は、自身が推し進めてきた仕事の最大のヤマ場だったのである。

 この日、海援隊士および在京の同志たちは、皆、龍馬の下宿に集まっていた。後藤からの連絡はなかなか届かない。龍馬はイライラしながら待った。そしてその夜、ようやく後藤からの一報が入る。
 「大樹公、政権を朝廷ニ帰スの号令を示せり。」 龍馬は慶喜の英断に感動した。このときの龍馬の言動を最初に筆したのは、坂崎紫欄が明治27年に著した容堂伝『鯨海酔候 』で、 「坂本は何に思ひけん、傍なる中島作太郎に向ひて、慶喜公が今日の心中左こそと察し申す、龍馬は誓て此人の為めに、一命を捨つべきぞと、覚えず大息したり。」と記されており、また、渋沢栄一が編纂し大正7年に刊行された『徳川慶喜公伝』では、「将軍家今日の御心中さこそと察し奉る、よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな、余は誓つて此公の為に一命を捨てんと、覚えず大息したり。」という。時代が進むにつれ、多少オーバーになってきているようだが、少なからずこれに似た言葉を龍馬は言ったようだ。

 徳川慶喜が大政奉還にふみ切った理由については、様々な見方がある。内乱を避けるために一旦は政権を返上するも、朝廷はこれをもてあまし、結局は徳川家の手に戻ってくるという計算だったという説もある。そうだったかもしれない。しかし、少なくとも龍馬はそうは思っていなかったことが、上記の言動でもわかる。このときの龍馬の感情を、司馬遼太郎氏は小説『竜馬がゆく』の中でこう記す。
 「この男のこのときの感動ほど複雑で、しかも単純なものはなかったといっていい。日本は慶喜の自己犠牲によって救われた、と竜馬は思ったのであろう。この自己犠牲をやってのけた慶喜に、竜馬はほとんど奇蹟を感じた。その慶喜の心中の激痛は、この案の企画者である竜馬以外に理解者はいない。いまや、慶喜と竜馬は、日本史のこの時点でたった二人の同志であった。」
 
 大政奉還は、坂本龍馬と徳川慶喜の合作だったといっていいだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-22 02:38 | 龍馬伝 | Comments(0)