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真田丸 第36話「勝負」 ~第二次上田合戦~

e0158128_23052141.jpg 犬伏で真田信幸と決別した真田昌幸・信繁父子が自領の上田城に戻る途中、信幸の居城である沼田城に立ち寄りますが、留守を預かる信幸の正妻・小松姫が、夫の敵となった義父・義弟の入城を拒んだという話は有名ですね。軍記物などの記述によれば、「孫の顔を見たい」という昌幸の言葉を、城を乗っ取るための昌幸の計略とみた小松姫は、鉄砲隊を狭間に配置させ、自らも薙刀を持って門扉に立ち、開門を拒んだといいます。これを見た昌幸は、「さすがは日本一の本多忠勝の娘である。武士の妻はこうあるべきた!」と、褒め称えたとか。小松姫を語るに、外せない逸話です。

 しかし、近年の研究によれば、実際には、このとき小松姫は大阪で石田三成方に人質として取られていたと考えられているそうで、このエピソードは、後世の創作とみられています。ただ、あまりにも有名な話なので、ドラマでこれを描かないわけにはいかなかったでしょう。そこで、今回の物語では、石田方が人質を取り始めたことを受けて、急遽、上方を脱出してきたという設定でしたね。実際、黒田家山内家など、上手く捜査網を掻い潜って脱出した奥方たちはたくさんいますから、ない話ではありません。史実と逸話を上手くつなげた設定でしたね。

e0158128_02592871.jpg 上田城に帰った昌幸は、すぐさま反徳川の姿勢をとらず、しばらく自らの去就を明らかにしませんでした。その狙いは、石田方に自らを高く売るためだったと見られます。昌幸を味方に引き入れたい三成は、慶長5年(1600年)8月5日付けの書状で信濃一国を与えると明言し、さらに6日付の書状では、甲斐国も与えると約束しています。この条件を得た昌幸は、ようやく西軍に与することを言明します。さすがは抜け目ない昌幸といえますが、この書状から、たかだか5万石程度の領主である昌幸を、三成はそれほど価値があるとみていたことがわかりますね。

 小山評定で旧豊臣恩顧の大名の多くを味方に引き入れることに成功した徳川家康は、大坂の石田三成を討つべく軍を西上させます。その際、家康率いる約3万3000の軍勢は東海道を、息子の徳川秀忠率いる約3万8000の軍勢は中山道を進軍しました。中山道のルートには、昌幸、信繁が籠る上田城があります。この秀忠軍を、上田城に籠るわずか2500ほどの兵力の真田軍が大いに翻弄し、その結果、秀忠軍は足止めをくって関ケ原の戦いに遅参してしまうんですね。これが有名な第二次上田合戦です。

 合戦の内容をここで詳細に解説するのは、長くなりすぎるのでやめます。超簡単に説明すると、籠城している真田軍が徳川方の兵を可能な限り引きつけた上で、機をみて攻撃するという奇襲戦法を繰り返し、そうとは知らない徳川軍は真田の術中に嵌り、かなりの打撃を受けました。第一次上田合戦のときもそうですが、昌幸は、大軍相手に寡兵で戦う術を心得ていたんですね。逆に言えば、二度も同じ手を食って惨敗した徳川軍の軍法はどうよ!・・・と言いたくなりますが、大軍というのは、寡兵相手では得てして油断が生じるものなのかもしれません。このとき総大将の秀忠は初陣でしたしね。

e0158128_22593837.jpg ただ、一説には、上田城など捨て置いて西上すればいいものを、まだ若い秀忠が軍功にはやって上田城攻めを強行し、その結果、関ケ原の戦い大遅参したといわれますが、これらの話はすべて江戸時代の創作だそうで、近年明らかになった説では、そもそも秀忠軍が中山道を進軍したのは上田城攻めが目的で、その途中で家康が作戦を変更し、上田城攻めを中断して関ケ原に呼び寄せたことがわかっています。このたびのドラマは、その新説に則って描かれていましたね。どうりで、本多正信榊原康政大久保忠隣酒井家次など徳川家譜代のビッグネームがことごとく秀忠軍につけられているはずです。家康にしてみれば、それほどまでに昌幸の存在が目障りだったのでしょう。小山評定で豊臣恩顧の武将がことごとく徳川方に与するなか、ひとり反旗を翻した昌幸・信繁父子を、捨て置くわけにはいかなかったのでしょうね。でも、結局、手玉に取られたのは徳川軍のほうでしたが。

 秀忠軍の大遅参のおかげで、関ヶ原の戦いでは徳川家譜代の家臣の活躍がほとんど見られず、戦後の論功行賞で、家康は外様大名に多くの恩賞を与えるはめになったと言われます。しかし、そのおかげで、家康は後継者である秀忠や譜代の家臣を失わずにすんだのも事実で、穿った見方をすれば、あえて兵を関ヶ原に遅参させることで、徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もあります。まあ、すべては結果論にすぎず、後付説の感は拭えません。家康とて、関ヶ原の戦い前から勝利を確信していたなんてことはなかったでしょうからね。すべては偶然の結果かと。

 第二次上田合戦で改めてその存在感を見せつけた真田昌幸でしたが、大きな誤算だったのは、関ヶ原の戦いがわずか1日で終わってしまったことだったでしょうね。もし、関ヶ原の戦いが長期戦になっていれば、秀忠軍退却後、昌幸は甲斐国、信濃国を席巻していたに違いありません。しかし、歴史は彼らに味方しませんでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-17 23:05 | 真田丸 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~

樋ノ尻口地蔵の向かい側に、徳川方の武将・安藤次右衛門尉正次の墓があります。

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安藤正次は禄高二千石の旗本で、大坂夏の陣には旗本奉行として徳川秀忠に直属し、慶長20年(1615年)5月7日の大坂城落城直前、秀忠の使者として前田利常、本田康紀に、敵地へ肉薄するようとの命令を伝えた人物です。
そのとき、数騎の敵兵に出会うも単身馬を進めて戦い、豊臣方の首級をあげましたが、自らも深手を負い、家来に助けられて戻った本陣で、秀忠から高名したと賞され、宿舎である平野の願正寺に送られ治療をしていました。
しかし、ほどなく自身の再起不能を悟り、自刃します。
享年51歳

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五輪の墓塔は、世子・安藤正珍が平野郷を囲む環濠の土居上にて建て、願正寺を菩提寺としました。

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その願正寺は下の写真。
墓所から徒歩2~3分のところにあります。

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ここには、正次愛用の関ノ兼房の短刀が所蔵されているそうです。

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安藤正次という人物はあまり有名ではありませんが、こうして墓所が壊されずに残されているおかげで、後世にその名を伝えてくれます。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-04 17:19 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~

慶長20年(1615年)5月6日、八尾・若江の戦い道明寺の戦いで豊臣方に大打撃を与えた徳川家康は、その夜、生駒山西麓の豊浦村に住む中村四郎右衛門正教の邸に宿陣しました。
中村宅には、前年の大坂冬の陣の際にも徳川秀忠が宿陣しており、その実績にならって家康もここに陣を布いたと思われます。

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現地の説明看板によれば、家康の宿陣は折から5月5日の菖蒲の節句だったため、正教はそれにちなんで「菖蒲木綿」「勝布(しょうぶ)」として献上し、家康を大いに喜ばせたと伝えられるそうです。

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中村氏は佐々木源氏(近江源氏)の流れをくみ、もとは近江国の鯰江城を居城として鯰江氏と称されていたそうですが、室町時代後半に唯正という人がこの地に移り、中村の姓を名乗るようになったといわれます。
江戸時代に入って豊浦村は幕府の直轄領となり、中村氏は「中村代官」と称され、庄屋として力をもったそうです。

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現在、中村邸の遺構は何も残っておらず、その跡地の一部だったと思われる枚岡中央公園内に、石碑が建てられています。

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また、公園から150mほど西には、「権現塚」と刻まれた石碑と、かつてこの地にあった中村邸が、家康の宿陣として使用されたことを伝える恩蹕遺址碑があります。

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この碑は、昭和7年(1932年)に枚岡村村長が中村邸跡にあった碑文の原文にもとづいて建てたものだそうです。

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ロケーションはこんな感じ。
道路沿いにひっそりと存在し、注意していないと見落としそうになる場所です。

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写真は中村邸跡から300mほど東にある枚岡神社から見た景色です。
左に見える高いビルは、昨年竣工した日本一の高さを誇るあべのハルカスです。
写真では確認できませんでしたが、右側のビル群の中に、大坂城があります。
たぶん、かつてはここから大坂城が展望できたのでしょう。
八尾・若江の戦いや道明寺の戦いで豊臣方に大打撃を与え、勝利を確信した家康は、ここから大坂城を眺めてほくそ笑んでいたかもしれませんね。

次稿に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
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by sakanoueno-kumo | 2015-12-02 17:19 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~

大阪府四條畷市に忍陵神社というところがあるのですが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際、徳川秀忠がこの地に本陣を布いたと伝えられます。

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ここは忍陵古墳という4世紀中頃の古墳でもあり、大坂の陣当時には神社はなく、当時、飯盛山城を居城としていた三好長慶が、その支城としてこの丘陵地に岡山城を築いたと伝えられます。

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現地説明看板によると、大阪夏の陣で秀忠がこの地に本陣を布いて徳川方が勝利したため、縁起がいいところとして「御勝山」と称された、とあります。
ん?・・・どっかで聞いたことある話ですよね。

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そう、「その7」で紹介した岡山と、まったく同じ話です。
岡山、御勝山・・・出来すぎですね。
これって、どちらかの話が間違いなんじゃないですか?
秀忠がここに陣を布いたというのは事実なんでしょうけど、御勝山の伝承は、ふたつの話が混同しちゃってるような気がします。

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まあ、この手の話というのは、すべて後世になって語られたものでしょうから、あるいは、どちらも作り話かもしれません。

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でも、古墳であり城跡であり、そして本陣跡の伝承ありと、悠久の歴史を持つ場所であることは間違いありません。
伝承が実話かどうかなんて、無粋な詮索ですね。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-08 19:53 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~

大阪市生野区にある御勝山古墳を訪れました。
ここは5世紀前半の古墳だそうで、大坂冬の陣において徳川秀忠が陣を布いたと言われる場所です。

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元は「岡山」という名称だったそうですが、大坂の陣の戦勝を祝い、「御勝山」と改名されたんだとか。

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元は前方後円墳だったそうですが、大坂の陣の際に墳形が破壊されたそうで、いまは後円部が残っているだけです。

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古墳の説明は、看板を読んでください(笑)。

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墳丘の上に古い石碑があります。
柵で囲われていて中には入れないので、ズームして見てみると・・・。

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「大阪府立農學校址」とありました。
なんだ、大坂の陣とは関係ないのか・・・。
でも、なんで古墳が学校跡なんだろう?

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大阪冬の陣では、秀忠はここに陣をかまえ、父の徳川家康はここから2kmほど西の茶臼山古墳に陣を布きました。
後世に大坂の陣といえば、豊臣方の大将が豊臣秀頼で徳川方の大将が家康だと思いがちですが、実質的にはそうだったでしょうが、形式上は、このときの征夷大将軍は秀忠であり、したがって総大将は秀忠だったわけです。
つまり、この地は総大将の本陣だったわけですね。
秀忠は大坂城落城後、この地で戦勝祝の宴を催したといいます。
それは、徳川幕府が盤石となった祝でもありました。

次回から、夏の陣関連に移ります。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-02 18:32 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~

現在の大坂城天守閣は言うまでもなく復元ですが、昭和6年(1931年)に建設された日本最古の復元城で、平成9年(1997年)には文化財保護法に基づく国の「登録有形文化財」に指定されました。
復元といえども、文化財としての価値が認められたということですね。

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初代天守は豊臣秀吉が築城を開始して3年目の天正13年(1585年)に完成しましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で焼失。
太閤大坂城はわずか30年の命でした。
その後、2代将軍徳川秀忠によって寛永3年(1626年)に2代目天守が再建されますが、寛文5年(1665年)の落雷による火災によって、ふたたび焼失してしまいます。
これも、40年ほどの寿命だったんですね。
以来、幕末に至るまで大坂城は天守のない城郭として存在してきましたので、現在の復元天守は3代目ということになります。
現在の天守が建てられてから86年経ちますから、3台目がいちばん長いわけですね。
こうなると、もはや「復元城」の域を超えたといえそうです。

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復元天守は、「大坂夏の陣屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に築かれたそうですが、たしか、当時の大坂城の外壁は白の漆喰ではなく、黒漆塗りの板貼りだったと思います(屏風絵の大坂城もそうなっています)。
参考にしたというのは、かたちだけのことでしょうか?

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小天守台にある金明水井戸屋形です。
ここにある井戸を「金明水」といい、それを覆う建物を金明水井戸屋形といいます。
伝説によると、秀吉が水の毒気を抜くために、この井戸に黄金を沈めたといわれますが、戦後の学術調査によると、この井戸は徳川時代に掘られたものと判明したそうです。
それにしても、大坂城にまつわる伝承というのは、ほとんどが秀吉がらみばかりで、徳川時代の伝承というのはあまりありませんね。
徳川時代に入っても、大坂城の象徴はやはり太閤さんだったんですね。

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天守の入口です。
この日も観光客でいっぱいでした。

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見上げると金の鯱が、そして最上階の壁面には金の伏虎が見えます。
城内には、その原寸大レプリカが展示されていました。

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天守の中は博物館なので、特に紹介するものはありません。
内装はただの古いビルです。
必見なのは、「その1」の冒頭で紹介した「大坂夏の陣図屏風」の現物が展示されていること(撮影禁止)。
あと、夏の陣のフィギュアが面白かったですね(こちらは撮影OKでした)。

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来年の大河ドラマの主役、真田信繁(幸村)だそうです。

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せっかくなので、天守最上階から見た景色を載せておきましょう。
まずは南面の本丸御殿跡です。

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西面の西の丸庭園

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こちらは北面、右手に見える高層ビルは、大阪ビジネスパークです。

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そして東面、野球場と大阪城ホールが見えます。

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以上、天守を落としたところで大坂城を完全制覇・・・と言いたいところですが、もう少しだけお付き合いください。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-19 19:36 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~

大坂城外堀内への入口は4ヵ所、南西に大手口、南東に玉造口、北東に青屋口、北西に京橋口があります。
まずは南西の大手口から。

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城の正面を「大手」といいますから、正面入口のことを大手口、そこに建つ門を大手門といいます。
つまり大手門は正門、いわば正面玄関ですね。
ちなみに裏口は「搦手(からめて)」と呼ばれ、ここ大坂城の場合、大手門以外の三つの入口は搦手口となります。
大手門は寛永5年(1628年)の徳川幕府による再築第3期工事の際に創建されたそうです。

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天明3年(1783年)の落雷により多聞櫓が焼失した際にも、類焼を免れた貴重な建造物で、現在は大手門を取り囲む土塀二棟とともに重要文化財の指定を受けています。

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大手門をくぐると、枡形の石垣上に多聞櫓があります。
ここも大手門の創建とともに築かれましたが、天明3年(1783年)の落雷によって全焼し、その後、嘉永元年(1848年)に再建されたそうです。
かつては京橋口や玉造口にも多聞櫓があったそうですが、現在はここだけが残っていて、重要文化財に指定されています。

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続いて南西の玉造口です。
かつてはここにも多門櫓が建っていたそうですが、明治維新の大火で焼失し、その後焼け残った玉造門も撤去されたため、現在では門の両脇の石組だけが残っている状態です。

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玉造口を入ったところから見た天守です。

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ズームしてみました。
復元城とはいえ、やはり美しいですね。

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次は北東の青屋口です。
ここには門が現存しますが、この門は昭和44年(1969年)に再建されたものだそうです。
もとは元和6年(1620年)の再築第1期工事の際に創建されたと伝わり、明治維新の大火によって被災しますが、その後陸軍によって修復されるも、太平洋戦争時の空襲で大破したそうです。

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昭和44年の再建時に使われた木材は、空襲時に大破した残材だそうです。

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門をくぐると内堀の石垣があり、その向こうに天守が見えます。

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最後に北西の京橋口です。
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」と呼ばれました。
戦前までは京橋門が残り、大手口と同様に多門櫓もあったそうですが、空襲で焼失してしまったそうです。

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あと、4つの入口以外に、元和6年(1620年)の再築第1期工事の際に二の丸の北外側に北外曲輪(三の丸)が築かれ、そこに筋鉄門が築かれました。
筋金門はその呼び名のとおり、筋状の鉄板で補強されていたそうです。
門は明治維新後も残り、ここに設置された軍事工場の正門とされたそうですが、現在は左右の石組だけが残ります。

いずれの入口も、徳川幕府の再建時、二代将軍徳川秀忠から三代将軍徳川家光の時代に築かれたもので、豊臣時代のものではありません。
豊臣時代の入口は、南北2ヵ所だけだったと言われます。
4ヵ所も入口を作れたのは、太平の世になったからでしょうね。

次回に続きます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

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by sakanoueno-kumo | 2015-07-16 15:46 | 大坂の陣ゆかりの地 | Comments(0)  

八重の桜 第1話「ならぬことはならぬ」 ~什の掟~

 幕末から明治、大正、昭和を生き抜いた“ハンサム・ウーマン”山本八重ことのちの新島八重の物語が始まりました。第1話は八重の生まれ育った会津藩の藩風が描かれた回でしたね。のちの戊辰戦争の悲劇の象徴である会津藩ですが、なぜそのような末路になってしまったかは、会津藩とはどのような藩であったか、そして会津松平家の徳川将軍家に対する立ち位置から知るべきでしょう。

 会津松平家の初代藩主は徳川三代将軍家光の異母兄弟である保科正之。一昨年の大河ドラマの主人公・お江の夫・徳川二代将軍秀忠が女中に手を出して産ませた人物です。もっとも、秀忠存命中は正之を公式に実子と認めることはなく、その事実が公然となったのは秀忠の死後、家光の代になってからでした。一説には、恐妻家だった秀忠が妻・お江の嫉妬を恐れ、譜代大名の保科正光の養子としたともいわれますが、いかがなものでしょう。正之は謹厳実直で有能な人物だったといわれ、秀忠の死後、家光はこの異母弟をことのほか可愛がり、会津23万石に引き立てました。そして家光の死後はその遺命により、第4代将軍となった徳川家綱の補佐役となって幕政の安定に寄与していくこととなります。

 慶安4年(1651年)家光は死の淵に臨んで枕頭に正之を呼び出し、「宗家(徳川家)を頼みおく」と言い残したそうです。これにたいそう感銘した正之は、のちに『会津家訓十五箇条』を定めました。その第一条に、「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず、面々決して従うべからず。」と記されています。
 意味は「徳川家への御恩を忘れることなく、ひたすら忠勤にはげみ、決して他藩の動向に流されてはならない。もし、徳川将軍家に対して逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな者は我が子孫ではないゆえ、家臣は決して従ってはならない。」といったところでしょうか。つまり平たく言えば、「どんなことがあっても会津藩士は徳川家をお守りせよ!」ということですね。以降200年、会津藩主・藩士はこれを忠実に守り、そしてドラマの舞台である幕末を向かえました。そしてこの家訓が、会津藩の運命を決めることになります。

 会津藩は教育熱心な藩風としても知られていました。会津藩士の子は皆10歳になると日新館に入学することが義務付けられていましたが、入学前の6歳から9歳までの子どもたちを10人前後のグループに分け、これを「什(じゅう)」と呼びました。子どもたちは毎日、什の仲間のいずれかの家に集まり、会津藩士としての心得を学びます。それが、有名な「什の掟」です。

 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
 一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 一、戸外で物を食べてはなりませぬ
 一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
 ならぬことはならぬものです


 何年か前のベストセラー『国家の品格』の中で紹介されて全国的に有名になりましたね。現代でも福島県の子どもたちは皆、暗誦できると聞きます。江戸時代、什の子どもたちは毎日これを暗誦し、そして今日一日これに背いた者がいなかったか皆で反省会を行いました。そして掟に背いた者がいれば、子どもたちの間で話し合い、「竹篦(しっぺい)」などの制裁を決めたそうです。子どもたちに心得を持たせ、子どもたちの問題は子どもたちの手で解決させる。6歳から9歳といえば、今で言えば幼稚園から小学校低学年ですよね。そんな幼いときから徹底的に心得を叩き込み、藩士としての自覚を持たせる。藩あげての人材育成だったわけですね。現代の教育現場も見習うべきところがあるような気がします。

 「什の掟」の7条のうち、最後の7条目を除いた6条は、現代でもまったくもって通用する心得ですし、昔に比べて現代人に欠落している心得ですね。もう一度教育の場で見直してみてもいいんじゃないでしょうか。なぜイケナイかという理屈ではなく、問答無用でダメなものはダメ。
「ならぬことはならぬ!」
躾の基本のような気がします。

 そんなお国柄の会津藩で、八重は生まれ育ちました。その後の八重の人生に、会津の心得は大きく影響したであろうことは想像に難しくありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-01-07 03:05 | 八重の桜 | Comments(6)  

江~姫たちの戦国~ 第46話(最終回)「希望」

 元和2年(1616年)、徳川家康が死去したのちの徳川秀忠は、将軍親政を開始し、酒井忠世土井利勝安藤重信といった重臣に支えられ、幕府権力の強化に努めた。具体的には、法令違反などのあった大名を相次いで除封(おとり潰し)とする一方で、キリスト教禁教を一層徹底させた。秀忠に除封に追い込まれた大名は、福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)などの有力な外様大名をはじめ、譜代で家康の側近中の側近だった本多正純や、秀忠の実弟の松平忠輝、秀忠・お江夫妻の三女・勝姫の娘婿で、秀忠から見れば甥にもあたる松平忠直にも及んだ。正純は諫言が過ぎたこと、忠直は不行跡を重ねたことが除封の表向きの理由だったが、正純の場合は同じく幕閣の大久保忠隣暗闘を重ねていたことが、除封につながったものとみられる。最終的に、秀忠が隠居して大御所となってからのものも含めると、除封された大名は外様23家、親藩・譜代16家にもおよび、これは徳川15代将軍の中でもトップの数。親藩・譜代であろうが外様であろうが容赦なく処分するという姿勢を示すことで、大名統制を行い、幕府権力を強固にしていった。

 元和6年(1620年)6月18日、秀忠・お江夫妻の五女である和子(まさこ)ことのちの東福門院は、京都御所の内裏に女御として入内し、元和9年(1623年)には第108代・後水尾天皇との間に興子内親王(第109代・明正天皇/女帝)をもうけた。これにより、徳川家は天皇家の外戚という地位を手に入れ、徳川家の権威は一層増すこととなった。しかし、明正天皇は女帝であったためその後の天皇にその血が繋がることはなく、徳川家が天皇の外戚となったのもこの明正天皇のときだけだった。

 秀忠が女中のお静の方を寵愛して産ませたという幸松丸。お静の方は江戸郊外の領民、もしくは大工の娘であったといわれ、大奥の中ではもっとも下のクラスの女中であった。通常、侍妾の選定には正室の許可が必要で、下級女中の場合には出自を整える手続も必要であったにもかかわらず、お静の方の場合にはそうした手続きを取ることを秀忠が怠ったため、江戸城外での出産となり、その後も正式に側室となることはなく、幸松丸は譜代大名の保科正光の養子・保科正之として育てられた。ドラマでは、隠し子の存在を知ったお江が幸松丸を呼び出して面会していたが、実際には、秀忠はお江の生前に公式の場で正之を実子と認めることはなかったという。秀忠が正之と面会したのはお江の死後で、正之が秀忠の子であることを公式に発表したのは、秀忠の死後、徳川家光の代になってからのことである。家光は正之を重用し、家光の死後はその遺命により、第4代将軍となった徳川家綱の補佐役となり、幕政の安定に寄与していくこととなる。

 紆余曲折の末、秀忠の後継者には長男の家光が据えられ、元和9年(1623年)7月27日、秀忠が隠居し、将軍職徳川家当主の座を家光に譲り、同じ年の12月には公卿の鷹司信房の娘・孝子を正室に迎えた。徳川三代将軍家光の時代が始まる。一方の弟・徳川忠長は、元和2年(1616年)あるいは元和4年(1618年)に甲府藩23万8千石を拝領し、甲府藩主となる(しかし、元服前で幼少の忠長が実際に入甲することはなく、多分に形式上の藩主だった。ただ、このことによって、秀忠の後継者争いが家光に決定したのがこの時期であったことを窺うことができる)。その後、家光の将軍宣下に際して駿河国と遠江国の一部を加増され、駿遠甲の計55万石を領有し、将軍の弟として強い権力を有した。しかし、寛永3年(1626年)の母・お江の病没を境に、秀忠・家光父子の忠長に対する処遇が変わり始め、寛永8年(1631年)には不行跡を理由に蟄居を命じられ、翌寛永9年(1632年)の秀忠の死後、除封処分となり、最終的には切腹に追い込まれる。享年28歳。忠長を溺愛し、秀忠の後継者に忠長を推していたといわれるお江。まるで母に守られていたかの如く、彼女の生前と死後で立場が一変してしまった忠長。このあたりに、お江の実子は忠長だけで、家光の実母はお江ではなかった・・・という説が生まれた背景がある。事実はどうだったか・・・、今となっては憶測の域を出ない。

 さて、晩年のお江について。ドラマでは、大奥制度の計画を秀忠から任されていたお江だったが、実際にはお江が関わっていたという記録は残っていない。大奥制度を作ったのは、ほかならぬ秀忠であった。秀忠は元和4年(1618年)、女中以外の出入りを原則として禁止するなど、6カ条法度を大奥に発し、さらに元和9年(1623年)には8カ条からなる「大奥法度」を定めた。そこに、正室であるお江の意向が取り入れられていたとしても何ら不自然ではないが、その翌年の寛永元年(1624年)には、秀忠の隠居に伴いお江も西の丸に移っていたと思われ、これと入れ違いに三代将軍となっていた家光が本丸に移り、このとき春日局も本丸の大奥に入ったと思われるため、よくドラマの「大奥シリーズ」などで描かれているような、大奥の運営方法をめぐってお江と春日局との間で熾烈な女の闘いがあったといったエピソードは、実際には存在しなかった可能性が高い。やがて、本丸の大奥のすべての女中を指揮下に置いた春日局は、「大奥法度」に基づいて大奥を運営した。大奥制度は、秀忠が立ち上げて春日局が軌道に乗せたもので、お江は、直接的には深く関わっていないようである。

 お江がその波乱に満ちた生涯に幕を下ろしたのは、寛永3年(1626年)9月15日、秀忠・家光ともに上洛中で、江戸城を不在にしていたときだった。徳川幕府の正史である『徳川実紀』には、このときの上洛行列の規模や上洛中の行動はこと細かく記されているものの、大御所や将軍が不在の江戸城内の出来事については、極めて簡単な記述しか見出せないため、お江の病臥についても記載されておらず、死因についても詳しくはわかっていない。上洛中の秀忠たちのもとに、お江危篤の知らせが届いたのは9月11日。しかし、秀忠・家光父子は動くことなく上洛の日程をこなし、忠長だけが江戸城に向かった。忠長は側近が落伍するほどの猛スピードで江戸城を目指したが、結局は臨終に立ち会うことはできなかった。享年54歳。

 お江は、徳川家の歴代将軍と御台所の中では、唯一例外的に荼毘(火葬)に付されている。この時代、疫病などで死んだ場合をのぞいて土葬が主流で、とくに身分の高い人は土葬が常識だった。お江が荼毘(火葬)に付された理由は今もってで、それに加えて、その死が突然だったこと、死去の際、秀忠・家光が不在中だったこと、危篤の報に接して駆けつけたのが忠長だけだったことなどから、毒殺説などの諸説を生む要因となっている。しかし、そのどれもが憶測の域を出ず、いずれも「歴史ミステリー」的な発想に過ぎない。晩年のお江が、殺されるほどの重要な存在であったかどうかを考えれば、答えは簡単な気がする。

 浅井三姉妹の三女・お江という女性を中心とした、姫たちの戦国物語が終わった。実父叔父に殺され、実母をのちの養父に殺され、実姉に殺されるという、それが戦国の慣らいとはいえ大変な運命に翻弄されたお江。その波乱に満ちた生涯を強いられた浅井三姉妹の中で、末妹の彼女だけが、後世にその血脈を残した。徳川将軍家に引き継がれたお江の血筋は、残念ながら第7代将軍・徳川家継がわずか6歳で夭逝したため途絶えてしまったが、お江の二度目の夫・豊臣秀勝との間に生まれた完子が公家の九条家に嫁ぎ、その子孫は代々関白を歴任し、大正天皇の正妻となる貞明皇后に続いている。貞明皇后は言うまでもなく昭和天皇の母君であり、つまり、今上天皇ならびに親王・内親王など現在の皇室の方々はすべて、お江の子孫ということになる。織田家浅井家の血を引き、徳川家豊臣家の子を産み、現在の天皇にも繋がるお江。彼女の物語を観終えて、あらためてお江という女性の歴史上の存在感の大きさを感じずにはいられない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-11-28 23:44 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第45話「息子よ」

 徳川家康がこの世を去ったのは、大坂夏の陣から1年足らずの元和2年(1616年)4月17日。同年1月、鷹狩に出た先で倒れ、その後容態は好転することなく、4月17日巳の刻(午前10時頃)に駿府城において薨去したと『徳川実紀』は伝える。享年75歳。死因は諸説あって、よく知られるのは、とある京都の富豪が流行の食べ物として「鯛の天ぷら」を勧めて、その鯛にあたって亡くなったという食中毒説で、この説の出典は、家康の死の100年ほど後に大道寺友山が書いたとされる『駿河土産』の中に記されたエピソードである。しかし、素材が鯛であることや、天ぷらとして加熱した調理であったことなどから、死ぬほどの食中毒になるとは考えづらく、また、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日のことで、亡くなったのが4月17日と、食中毒とするには日数がかかり過ぎていることから、現在では食中毒説は否定的にみられている。『徳川実記』では家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と記載があり、また、家康の侍医の片山宗哲という医師が残した書物には、「大権現様、御腹中に塊ありて、時々痛みたもう」と記されており、それらの症状から考えて、死因は“胃がん”だったという説が現在では主流である。

 また別の説では、家康は自分の腹の具合が悪い原因は寄生虫のサナダムシだと思いこみ、手製の虫下しを服用したため薬が合わずに死期を速めたという話もある。サナダムシの名称の由来は、真田紐に形状が似ていたことからそう名付けられたもので、真田紐とは、関ヶ原の戦いで西軍に与したため高野山に配流になった真田昌幸・信繁(幸村)父子が、生活の糧として生産した平らな紐のことで、各地で行商人が「真田の作った強い紐」と言って売り歩いたことから名付けられたといわれている。当時、徳川の天下が成立したものの地方の庶民にはまだまだ反徳川的風潮が根強く、最後まで徳川に苦汁をなめさせた真田を支持・美化する動きがあり、真田紐を一つの象徴とする様になったといわれている。そんな真田紐を語源としたサナダムシに最後まで家康が苦しめられていたとすれば、死してなお家康を苦しめた真田父子の執念・・・なんて考えたくもなるが、残念ながらサナダムシという名が付いたのは後世のことで、この当時はこの寄生虫のことを「寸白(すばく)」とよんでいたらしい。ひとつのエピソードとしては面白くはあるが。

 家康の病状を憂慮した徳川秀忠は、2月1日辰の刻(午前8時頃)に江戸を発ち、昼夜兼行して2日戌の刻(午後8時頃)に駿府に到着、父の病床を見舞った。この頃から、直参はもちろん諸大名や公卿衆など見舞い客が引きも切らさず、秀忠も毎日必ず病床を訪れたという。

「これからは徳川の世を継ぐことが、そなたの役目と心得よ。さすれば泰平の世は何代も続くであろう。それはそなた次第。秀忠にはそれが出来ると見込んだのじゃ。」
「父としてはどうなのですか。将軍としてではなく1人の子として私をどう見ておいでなのですか。」
「かわいいのよ。かわゆうてかわゆうてならぬゆえ、迷いもした。将軍とすることも、わしの世継ぎとすることも・・・。ようやく言えたがや・・・死ぬ前に。」
「私はこれまで父上が死んでくれればと何度も願いました。されど今、父上を失うのが恐ろしゅうございます。」
「いや、そなたはもう立派な将軍じゃ。」
「いえ、私もひとりの子として申しております。父上を失いたくないと。私もようやく言えました。」
「互いに不器用よのう。」
「親子ですゆえ。」

 かつては長男の松平信康を、織田信長の命令とはいえ切腹に追いやった家康だったが、自らの死期を悟った家康は、ドラマのように息子を愛する普通の老人となっていたかもしれない。偉大な父を持った息子にとっては、父親の存在とはときに目障りなもので、「父上が死んでくれればと何度も願った」といった秀忠の思いは、あながち的外れでもなかっただろう。実際の秀忠はドラマと違って、およそ父に刃向かうことなどなかった人物と伝わるが、それだけに、偉大すぎる父親の重圧に対する苦悩は、ドラマ以上だったように思える。豊臣家を滅ぼし徳川政権を磐石のものとし、すべてを整えてから逝った徳川家康。その見事すぎる父の最期に、息子・秀忠は何を思っただろうか。

 兎にも角にも、徳川家康は死んだ。19歳のときの桶狭間の戦いに始まり、死の前年の大坂夏の陣に至るまで半世紀余り、彼の生涯はほぼ“戦”だった。幼少期には2度の人質生活を耐えしのぎ、織豊時代を生き抜き、ついには天下人となり、戦国の世にピリオドを打ってこの世を去った。かれの人生そのものが戦国時代であり、まさにミスター戦国といってもいいだろう。長い日本史の中の、大きな大きなひとつの時代が終わった。

 辞世の句
 「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
 「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」



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by sakanoueno-kumo | 2011-11-22 19:16 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)