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埼玉女子中学生誘拐監禁事件に再認識させられた公衆電話の重要性。

埼玉県朝霞市で2年前から行方不明になっていた女子中学生が先日保護され、連日のように報道されていますね。

わたしも同世代の娘を持つ親として、この事件は2年前から気になっていました。

この2年間の親御さんの心中は察するに余りありますが、ともかくも生きて再会できて良かった。

もちろん、これにて一件落着というわけではありませんし、これからがまた大変だと思いますが、ひとまず最悪の事態には至らなかったわけで、「良かった」と言っていいのではないでしょうか。

被害者ならびにご家族が、一日も早く日常を取り戻されることを願うばかりです。

ところで、今回の事件が解決に至った経緯は、被害者の女の子が犯人が外出した隙を突いて監禁場所から脱出し、駅の公衆電話を使って自宅と警察に助けを求めたからでしたが、そこでふと思ったのは、この春中3になるわたしの娘は、似たような状況下に置かれた場合、公衆電話という発想にたどり着いただろうか?・・・ということ。

現在大学生の息子に携帯電話を持たせたのは高校入学のときでしたが、娘の場合、両親共働きということもあり、加えて、幼い少女が誘拐される事件があとを絶たない昨今の世情を憂慮し、小3の頃からGPSと防犯ブザー機能付きの子供用ケイタイを持たせていて、中学生になってからは普通のケイタイを持たせています。

おそらく公衆電話なんて使ったことないだろうと・・・。

お金がなくても公衆電話から110番119番に繋がるということを知ってるだろうか?

そもそも、自宅両親のケイタイの番号を覚えているだろうか?

覚えていたとして、市外からかける場合、市外局番がいるということを知っているだろうか?

そんな疑問が頭をよぎり、先日、娘にたしかめてみたところ、ちゃんと自宅と母親のケイタイ番号は覚えていましたし、市外局番のことも知っていました。

親の知らない間に、ちゃんと学習してたんですね。

「お父さんの番号は覚えてない」・・・と言われましたが(苦笑)。

ただ、お金がなくても110番できるということは知らなかったようですし、実際、公衆電話は一度だけ中学の学習の一環で使ったことがあるだけのようでした。

まあ、そりゃそうでしょうね。

親にしてみれば、GPSと防犯ブザー機能付きのケイタイをお守り代わりに持たせて安心を買っていたつもりでしたが、考えてみれば、もし、このたびのような事件に巻き込まれた場合、ケイタイなどは真っ先に取り上げられて捨てられるか破壊されるでしょうから、おそらく何の役にも立たない可能性が高いでしょう。

そう考えれば、こういう場合頼りになるのは、きっと公衆電話なんですね。

今回の事件で、あらためて公衆電話の重要性を再認識しました。

全国の公衆電話の台数は、20年前に比べて5分の1ほどに減少しているそうです。

ケイタイの普及率を考えれば、これはやむを得ないことでしょうが、考えてみれば、私自身、テリトリーの中での公衆電話の設置場所を把握していません(たぶん、駅にはあるのでしょうが、駅のどこに設置されているのか気にしたこともありませんでした)。

今回の事件を教訓にさせてもらい、子どもを持つ親は緊急時の連絡先を子どもと共有し、公衆電話の使い方をちゃんと教えておいたほうがいいかもしれません。

そして、最低限、生活圏内の公衆電話の設置場所は、把握しておくべきでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-31 22:16 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第44話「運命の糸つなげて」 ~学制発布と幕末明治の教育事情~

 今回は明治初期の教育事情についてお話します。明治5年(1872年)8月2日、明治政府はわが国最初の近代的学校制度を定めた学制を発布します。その内容は、全国を8つの大学区に分け、その8つの大学区を32の中学区に分けて256の中学校を置き、さらにその中学区を210の小学区にわけて、53,760の小学校を置き、そしてその小学校を義務教育にしようというもの。その後、区分けの数字は修正されますが、こんにちのわたしたちの社会に繋がる教育制度の礎が、このときに築かれます。

 それ以前の日本の教育制度は、武士階級の公的教育機関としてそれぞれの藩単位で「藩校」が置かれ、儒学を中心とした教育が行われていました。本ドラマでいえば、小田村伊之助と名乗っていた頃の楫取素彦が教官を務めていた「明倫館」が、それにあたります。また、有能な学者が私費で開いた私塾も数多くありました。吉田松陰松下村塾がそうですね。松蔭の塾では主に儒学が中心でしたが、ほかにも、西洋医学としてはシーボルト鳴滝塾蘭学としては緒方洪庵適塾などが有名です。これらの私塾からは、多くの人材が輩出されています。

 さらに、庶民の子どもたちの学び舎としては、僧侶や浪人らが読み書きそろばんを教えた「寺子屋」があり、その数は日本全国で15,000ほどあったとも言われます。就学率5割近くあったと言われ、江戸だけでみれば、7~8割の就学率があったといわれます。また、日本橋、赤坂、本郷などの地域では、男子よりも女子の就学数が多かったという記録もあるそうです。日本人というのは、元来、勉強熱心、教育熱心だったんですね。

 そんなわけで、幕末の識字率は武士階級がほぼ100%、庶民層でも、男子は約50%、女子も20%が読み書きができたといわれます。この数字は、世界的に見ても驚異的な高水準だったそうで、当時、多くの外国人が、日本人の識字率の高さに驚愕し、記録を残しています。黒船で日本の鎖国を開いたマシュー・ペリー提督も、自身の手記『日本遠征記』のなかで、「読み書きが普及していて、見聞を得ることに熱心である」と記述しており、日本の田舎にまでも本屋があることや、日本人の読書好きと識字率の高さに驚いたと語っています。当時、世界一の大国といわれたイギリスですら、国民の識字率は20%程度だったそうですから、さぞ驚いたことでしょうね。一説には、この日本人の教養の高さを見て、日本の植民地化は不可能と考え至ったともいわれます。

 しかしながら、それぞれの藩単位での教育でしたから、カリキュラムもバラバラで、標準語も存在しませんでした。それを一元化し、士族も町人も農民も同じテキストで一緒に勉強しようというのが、明治5年の学制発布でした。もともと学校というものには馴染みのあった国民ですから、これほどいい法制度はない・・・と思いきや、この法令が発布されるや否や、庶民層から猛烈な反対運動が起こります。その理由はいくつかありますが、いちばんの理由は、授業料を徴収されたことでした。寺子屋にも授業料に相当するものはあったようですが、その額は一定ではなく、その家の格や財力によって払える額を払っていました。しかし、新しく設立された小学校は、事情に関係なく授業料を義務付けられます。当時、地租改正などで重税を強いられていた下級層にしてみれば、このうえ授業料をとられるなどたまったものじゃなかったでしょう。

 また、ちょうど同じ頃に、国民皆兵を掲げた徴兵令が発令され、そのことと重ねあわせて、小学校は徴兵のための教育を施すところだという誤解が広がり(まあ、後年の大日本帝国教育をみれば、あながち誤解とも言えませんが)、各地で「小学校反対」「徴兵反対」「太陽暦反対」をスローガンに一揆が起こります。ひどいところでは、学校焼き討ち事件まで発生しました。楫取素彦が群馬県令として教育改革に臨んでいたのは、そんな学制の揺籃期だったわけです。

 そんなこんなで、当初の小学校就学率は、寺子屋の就学率にも及ばない30%程度でしたが、その後、学制は教育令、学校令と内容が改善されていき、明治33年(1900年)に義務教育の授業料廃止によって就学率は90%を超えるようになります。もともと勉強好きな国民でしたから、法整備さえ成されれば、受け入れるのにそう時間はかからなかったわけですね。いずれにせよ、世界一の識字率と勉強熱心な国民性が、明治維新後の急激な近代化を可能にした最大の原因であることは確かでしょう。その子孫として、誇るべき歴史ですね。現代にもその精神は残っているかな?


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-03 14:17 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第40話「妻のはったり」 ~自責の杖事件~

 明治13年(1880年)春、同志社英学校でひと悶着が起きます。それは、学生たちによる授業ボイコットでした。ことの発端は、当時、学力別に分かれていた2クラスを、学校側が一方的に合併しようとしたことにありました。開校して5年が経とうとしていた同志社英学校でしたが、耶蘇教(キリスト教)を教える学校への風当たりはまだまだ厳しく、入学生の確保もままならない状態でした。そんな状況から、当時の同志社では本来の9月の入学にこだわらず、途中入学も認めていました。学校を経営していく上ではやむを得ない策だったのでしょう。ただ、当然のことながら、正規入学者と途中入学者では学力差が生じます。そのため、学生を上級組下級組に分けて授業を行っていました。

 しかし、ただでさえ学生の数が少ないなかで、クラスを分けて授業を行うのは効率的ではないとの意見が教師会で上がり、合理化を図るためクラスの合併を決定します。これに反発したのは上級組の面々。下級組のレベルに合わせた授業など御免だ!・・・と言わんばかりに、授業をボイコットするという抗議行動に出ます。より高いレベルを求めていた学生らにしてみれば、当然の主張だったかもしれませんね。この抗議行動の中心的存在だったのが、徳富蘇峰、蘆花兄弟でした。

 ボイコット発生時、出張により不在だった校長の新島襄は、戻ってくるなり懸命に学生たちを説得します。はじめは頑なだった学生たちでしたが、襄の熱意に心を動かされてか、間もなくボイコットをやめ、騒動は一応の決着をみます。しかし、これにて一件落着とはいきませんでした。というのも、ボイコットした学生たちを処罰せよとの意見が、同じ学生のなかからあがったのです。その主張の是非はともかく、学生が授業を無断欠席するというのは、同志社の校則違反でした。規則を破った学生を処罰するのは、当然のことです。

 襄は悩みます。該当の学生たちに罰を与えれば、ただでさえ不満を募らせている彼らのことだから、退学しないとも限らない。しかし、これを大目にみれば、校内の秩序が保てない。悩みに悩んだ末に襄は、4月13日の朝、礼拝で壇上に立ちます。そこで彼は、集まった学生たちを前にしてこう言ったそうです。
 「罪は教師にも生徒諸君にもない。全責任は校長の私にあります。したがって校長である私は、その罪人を罰します。」
 そう話し終わると襄は、右手に持っていたを振り上げ、自身の左手を叩き始めたそうです。何度も何度も激しく叩き続けたため、襄の左手は赤く腫れあがり(おそらく骨折してたでしょうね)、杖が折れてもなお叩き続ける襄の姿に、学生たちは心を動かされ、涙ながらに襄の自責を制止したそうです。有名な「自責の杖」事件ですね。

 多少の脚色はあるかもしれませんが、襄の自責に感銘した学生が折れた杖を宝物のように保管していたという話からも、だいたいは実話なんでしょうね。少々芝居がかった感がなきにしもあらずな襄の行動ですが、それでも、腫れ上がってもなお叩き続けるなど、常人にできることではありません。新島襄という人は、実はたいへん激情家だったのかもしれませんね。教え子たちの罪は、師である自分の罪・・・口で言うのは簡単ですが、なかなか実行できることではありません。自分のミスは部下の責任、自身の犯した罪は秘書がやったこと、などなど、現代の指導者たちとは正反対です。「指導」という名目で、教え子が自殺するまで理不尽な体罰を与えていたどこかの体育会系の教師とも、えら違いですね。この1世紀ほどで、指導者の質はすっかり低下してしまったようです。襄を真似ろとは言いませんが、かつてはこんな指導者がいたということを、とくに今の「先生」と呼ばれる職業の人は、知っておいてほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-08 22:21 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

スポーツ指導における体罰問題について思うこと。

大阪市立桜宮高校で体罰を受けていた体育科の男子生徒が自殺した問題で、大阪市教育委員会は、体育科などの募集を停止して普通科に変更したうえで、同校の入学試験を実施することを決めたそうですね。
これは、入試の中止を求めていた大阪市の橋下徹市長の意見をのんだかたちですが、ただ、結局は便宜上普通科として入学するだけで、スポーツの技能を重視した教科や配点などについても変更しないとのことですから、何が変わったのかイマイチよくわかりません。
つまりは、「受験生には罪はない!」といった世論と、「体罰容認の実態が改まっていない現状では新入生を迎えられない。」といった橋下市長の双方の顔を立てた折衷案ということでしょうか?
でも、だったら、従来の体育科のままで良かったんじゃないの?・・・と思わなくもないです。
「人ひとり殺しているような学校に子どもたちを入学させるわけにはいかない」という観点ならば、たとえ世論がどうであれ、問答無用で中止すべきだったのではないでしょうか?
なんとなく、中途半端で消化不良な決定です。
まあ、橋下市長の場合、何も策を講じずにただ陳謝するだけではなく、たとえ早計でも敏速に対策を講じるところが彼の政治スタイルであり売りですから、市教委の決定はどうあれ面目は保てたといったところでしょうか。
ただ、本当に同校の改革を迫るなら、当初橋下市長が言っていたもうひとつの対策である同校体育科教員の総入れ替えが必要でしょう。
もっとも、その案に関しては市教委が賛成可決することはまずあり得ないでしょうけどね。
大津のいじめ問題のときでもわかるように、教育委員会ってところは、身内にぬる〜い体質ですから・・・。

それはさておき、今回の事件をきっかけに、あらためて学校教育の場における体罰問題について議論が深まっているようです。
教師の体罰問題が声高に責められるようになって久しいですが、一方で、運動部の強豪校などでは依然として「強くするためには体罰は必要」といった声も少なくありません。
教育の専門家ではない私には、どちらの主張が正しいかはよくわかりませんが、私の個人的な考えを言わせてもらえば、学校生活における教育の観点でいえば、ときには体罰も必要だと思いますが、スポーツ指導の観点で言えば、体罰などまったく無意味だと思います。
教育上、体罰が必要な場合とは、たとえば集団リンチいじめなど卑劣な行為があったときや、あるいは法を犯すような事件を起こしたときなど、人として許し難い行為に及んだときには、体罰指導もやむを得ないと思います。
そういう奴らには口で言っても伝わらないでしょうし、他の真面目な生徒たちの学校生活に害を及ぼす可能性もありますからね。
ところが、そんな場合でも、ひとたび手を出せば「体罰教師」の烙印を押されてしまういまどきの教師の方々は、気の毒な気がしてなりません。

一方で、スポーツ指導における体罰はまったく別問題。
昭和の時代に体育会系で育った私などは、日々、先生から殴られるのはあたりまえでしたが、いま思い出してみても、殴られて体得したものなどなかったように思います。
スポーツ指導の基本は技術指導です(ときには精神論も必要な場合もありますが)。
出来ないのは技術がないから出来ないわけで、技術がない者をいくら殴っても出来るようにはなりません。
出来ないのなら、出来るようになるまで繰り返し技術を教えるべきでしょう。
その意味では、野球の千本ノックなどに代表される、いわゆる「しごき」という名の体罰は、それが技術向上筋力強化などの利点を目的とするものならば、ときには有りなのかもしれません。
ですが、指導者の暴力行為というのは、ただ選手を威嚇して従わせるためだけのツールでしかなく、それは体罰というより暴行といっていいもので、およそ指導といえる類のものではないと思います。
このたび問題となった高校のバスケットボール部の顧問は、試合中にも選手を怒鳴りつけて殴っていたそうですね。
言語道断です。
とくに、強豪校の顧問の先生の場合、卒業後の進路の推薦の権力を持っていたりしますから、スポーツで大学や就職を考えている子どもたちは、ひたすら耐えるしかないんですよね。
これはいうまでもなくパワハラです。
このような顧問の教師にあたった生徒は、不運としかいいようがありませんね。

ただ、このたびの桜宮高校体育科を少しだけ擁護するとすれば、この高校の部活動で体罰指導が日常的に行われているということは、生徒や保護者も、入部前からまったく知らなかったわけではなかったのではないでしょうか?
おそらく、そういう情報はこの高校を志望するときから知っていたことで、それを知った上であえて桜宮高校体育科を選んだ・・・。
であれば、学校だけを責めることも出来ないんじゃないかという気もします。
高校は義務教育と違って、学校を選べるわけですから。
高校側も、もし体罰指導を是とした方針ならば、事前に受験生や保護者にそれを公言しておくべきだったでしょうね。
「わが校の運動部では体罰を認めています。殴ります。蹴ります。わが校の運動部に入部するには、生徒も保護者もそれなりの覚悟を持って入部してください。それが耐えられないなら、他校への入学をおすすめします。」
どうしても体罰指導が必要と考えるなら、入学前にこのような説明が必要でしょう(実際に体罰指導をするスポーツクラブなどでは、入部前にこのような説明会を行うところもあります)。
それでもこの高校を選ぶのなら、あとは自己責任かと・・・。

体罰指導を行なっているスポーツ強豪校は、このたびの桜宮高校だけではないでしょう。
そういった古い体質の指導方針を改めるには、指導者ライセンス制などの検討も含めた指導者側の質の向上が必要でしょうね。
桜宮高校体育科の入試をとりやめたところで、とりあえずの間に合わせの対処でしかないことは、橋下市長も承知の上だと思います。
市長が出来るのはここまで・・・あとは政府と文科省の仕事ですね。
指導者育成の抜本的な改革を望むところです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-01-26 18:38 | 時事問題 | Trackback | Comments(4)  

『ドラえもん』は子ども社会の縮図。

e0158128_0191659.jpg唐突ですが、私は常々『ドラえもん』というマンガは実によく出来た作品だと思っています。
というのも、あそこに登場する、のび太、ジャイアン、スネ夫の関係は、まさしく子ども社会、ひいては男社会の縮図だといってよく、男3人以上が集まれば必ずこの型にはまるといっても過言ではないと思うからです。
のび太ばかりが集まれば平和になるかというと、その中からジャイアン的存在になる者が必ず出てきますし、ジャイアンばかりが集まれば、その中で弱い者はのび太になる。
で、上にも下にもならずにすんだ(あるいはなれなかった)者は、長いものに撒かれてスネ夫になります。
子供社会においてはさらに顕著で、誰もが皆、ジャイアンになったりのび太になったりしながら大人になっていくものだと思うんですね。
女の子のことはわかりませんが、男の子であれば、大人になる過程で少なからずジャイアン、のび太のどちらにもなった経験があるんじゃないでしょうか(どちらが多かったかはあると思いますが)。
誰もが共感できるこの縮図が、『ドラえもん』という作品が長く支持されてきた理由のひとつかなと・・・。

ところが最近のアニメでは、昔に比べてジャイアンが優しくなっているようです。
特に映画でのジャイアンは、乱暴者だけど仲間思いのいいヤツで、藤子不二雄氏の原作漫画のような横暴で理不尽なイジメっ子ではありません。
これは、教育現場や子どもを持つ親からの声を反映し、「いじめ」という社会問題への配慮だとか。
理解に苦しみますね。

「いじめ」は昔から存在しますし、「いじめ」を世の中からなくすことは不可能だと思います。
であれば、教育現場は「いじめ」をなくすことを考えるのではなく、「いじめ」はあるものだと考えて、それによる被害を少しでも小さくする考え方に対策を切り替えるべきでしょう。
その意味では、ジャイアンを優しく描くことが「いじめ」対策になるとは思えません。
だって、現実の子どもたちの社会には必ず横暴なジャイアンがいるのに、アニメの世界ではみんな仲良しでいいヤツしか出てこないのですから、そんな“非現実的”な物語に誰が共感するでしょうか。
浄化された空気や水の中では生き物は強く育ちません。
きれいなものだけを見せていれば、きれいな心に育つというものではないと思います。

昔の『ドラえもん』の中に出てくるジャイアンはあくまで横暴なイジメっ子で、虫の居所が悪いと暴力を振るい、自分に従わないヤツは仲間はずれにし、自分が欲しいと思ったものは力づくで取り上げます。
でも、物語ではそんなジャイアンが必ず最後にしっぺ返しを食う結末が待っていました。
それを見て子どもたちはカタルシスを感じ、一方で、意地悪をすれば必ずバチが当たるといった教訓を得るわけです。
『水戸黄門』と同じですね。
そんな「勧善懲悪」的ストーリーこそが、子どもには最もわかりやすく効果的だと思いますし、この場合ほとんどの子はのび太に感情移入するでしょうから(ジャイアンに感情移入する子はまずいないでしょう)、弱者の気持ちになって考えるという学習効果を得ることができます(ジャイアン=悪玉のび太=善玉という考えは短絡的だというご意見もあろうかと思いますが、それはひとまず置いといて、ここでは、弱い者いじめをすれば必ずしっぺ返しを食うという意味での勧善懲悪です)。

はっきり言って、みんなお手手つないで仲良しこよし・・・なんて、世の母親の幻想にすぎません。
少なくとも男の子の友だち関係は、大なり小なり“力関係”で成立しているといっていいでしょう。
その延長線上にあるのが「いじめ」だと思います。
その「いじめ」による被害を少しでも小さくするためには、いじめる側に、「いじめることの怖さ」を教えるべきだと思います。
そのためには、ジャイアンにはもっと悪玉であってもらわねばなりません。
「ほら見てごらん。ジャイアンは弱い者いじめばかりしているから、最後は結局痛い目にあうだろう!君もジャイアンのようになりたくなかったら、弱い者いじめはやめようね!」
優しいジャイアンを見せるよりも、このほうが断然子どもの心に響くと思いますけどね。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-20 16:44 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(8)  

大津いじめ自殺事件について思うこと。

滋賀県大津市の中学校でのいじめ問題が話題になっています。
昨年10月に起きた市立中学2年の男子生徒がいじめられた末に自殺した事件で、事件発生後に大津市教育委員会が実施した全校生徒を対象にアンケート結果の内容が、遺族が大津市と加害者を相手取って起こした訴訟の証拠品として今頃になって開示されました。
それにより、「自殺の練習の強要」「葬式ごっこ」など、これまで公表されていなかった驚愕の内容が発覚し、にわかにマスコミなどで取り上げられるようになったようです。

「いじめ」は昔から存在します。
かくいう私も、小学生の頃にはいじめられた経験いじめた経験もどちらもありますし、中学生の頃には上級生から呼び出されていわれのないイチャモンをつけられ、いわゆる「可愛がり」を受けたこともあります。
あと、つまらないことが発端で大勢のクラスメイトからしばらくの間無視されたこともありましたが、あれは結構キツかったですね。
学校を離れれば仲の良い友達でさえ、教室では他のクラスメイトの目を気にして私と口をきこうとしない・・・でもそれも、明日は我が身と思えば無理からぬことなんですよね。
大人社会と同じく、子供たちの社会も力関係を計るというのは生きていく上で重要な術です。
女の子のことはわかりませんが、男の子なら、大なり小なりそのような経験があるはずで、人生一度も「いじめ」に関わったことがない人は(傍観者的な関わりも含めて)、少ないんじゃないでしょうか。

でも、昔のいじめは今のような陰険で卑劣なものではなかった・・・なんてことをいう人もいますが、私はそうは思いません。
そもそも、いじめとは陰険で卑劣なものですから・・・。
なんでも「今どきの子どもは・・・」といった論調で片付けるのもいかがなものかと・・・。
たしかに、「自殺の練習の強要」や「葬式ごっこ」などと聞けば、かなり度を越した状況だったことが伺えますが、元来、子どもの悪事というのはエスカレートしだすと歯止めが効かなくなるものだと思いますし、このような卑劣ないじめを悪びれることなくやってしまえるのは、子供であるがゆえだと思います。
陰険で卑劣というよりも、「幼稚」なんですよ。
でも、その幼稚な行為によって人ひとりの命が失われてしまったことには違いありません。
この度の問題は、これほどエスカレートするまで大人が何も手を打たなかったことで、この場合、担任教師は何をやっていたんだ?・・・という観点にならざるを得ないでしょう。
子どもの悪ノリを制止できるのは子どもではありません、大人です。

私は長年、週末に小学生相手の少年野球の指導者をしていますが、教育のプロでもなく、土日のみ子供たちと接する素人の私でも、子供たちの力関係はちゃんと把握しているつもりです。
なかには、大人の見ている前では素直で可愛げのある子どもを装い、裏で舌を出しているずる賢い子もいますし、すぐに嘘をつく子、隠れて弱い者いじめをする子などもいますが、いずれも、子供たちは大人を欺いているつもりでいるかもしれませんが、大人の目から見ればすべてお見通しです。
言い方は悪いですが、所詮、相手は子どもですから。
土日だけの私ですらわかることですから、月曜から金曜までフルに子供たちと接している担任の先生が、自分のクラスで起きているいじめに気付かないなんてことはあり得ないと思います。
もし、本当に気づいていなかったとすれば、それこそ問答無用で教師失格だと思いますし、気付いていたにも関わらず見て見ぬふりをしていたとすれば、教師としてというよりひとりの大人としての資質の問題です。
私は、なんでも学校に責任を押し付ける風潮も快く思っていませんが、この度の件に関していえば、問題解決のためにほとんど何もしていない担任教師や、保身のために事実を隠蔽しようとする教育委員会の腐った体質は責められて然るべきで、見過ごすわけにはいきません。

一昨日、大津市教育委員会事務局と中学校に滋賀県警が家宅捜索に入ったようですが、いじめ問題に警察が介入することが適切かどうかはわかりませんが、保身のことしか考えられない教育委員会に任せていても埒があかないでしょうから、やむを得ないといったところでしょうか。
警察の捜査が入ったことにより、今後この問題の焦点は加害生徒の立件まで行くのか・・・ということになろうかと思いますが、おそらく教師が罪に問われることはありません(せいぜい同じ穴の狢である大津市教委が下す生ぬるい罰則程度でしょう)。
それだけに、彼らは世論に晒されて、社会的制裁をもっと受けてもらわなければならないでしょう。

何度も言いますが、学校における「いじめ問題」は今に始まったことではありません。
もし、巷で言われているように、昨今のいじめが昔に比べて凶悪化しているとするならば、それは「今どきの子ども」たちのせいではなく、それを見過ごしている「今どきの教育者」たちにこそ原因があるのではないでしょうか。
だって、あれだけハッキリしたアンケート結果が出ていたのもかかわらず、「いじめと自殺の因果関係は認められない」なんてことを平気で言える人たちですから・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-13 10:56 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(16)  

朝ドラ『カーネーション』に見る、“叱って伸ばす”子育て法。

恥ずかしながら、NHKの連続テレビ小説『カーネーション』にハマっています。
私が朝ドラにハマったのは、あのマナカナちゃんの『ふたりっ子』以来、十数年ぶりのことです。
『カーネーション』の舞台は大阪府岸和田市で、この辺りで使われている泉州弁(岸和田弁)は関西弁の中でも特に乱暴で柄の悪い言葉とされていることから、「朝ドラ史上最もきたない言葉づかいの作品」と言われているようですね。
考えてみれば、『ふたりっ子』の舞台も大阪は西成区という、柄の悪さでは今作品に勝るとも劣らない作品で、どうやら神戸人の私にとっては、この言葉のきたなさがどうにも心地よく、視聴意欲をそそる理由のようです(神戸は関西の中でも上品でオシャレな町というイメージがあるかもしれませんが、もともと播州弁の流れをくむ神戸弁は、岸和田弁河内弁と並んで関西弁の中でも“きたない言葉”と言われています)。
e0158128_9365021.jpg「ほんまけ?」
「わりゃ、なめとんか!」
「ウチが承知せえへんど!」

いや〜、とにかく朝から威勢がよくて気持ちがいい(笑)。
それに、関西人が聞いても違和感がまったくないんですよね。
関西出身の役者さんを多く起用しているにしても、岸和田弁をこれほど見事に使いこなすのは、さぞや難儀なことだったでしょう(その昔、映画『極道の妻たち』の中での女優さんのとって付けたような関西弁は、関西人にとっては聞くに耐えないものがありましたからねぇ・・笑)。
役者さんの技量はもとより、方言指導をされている方の手腕が感じられます。

さて、ドラマは世界的デザイナーとして活躍するヒロコジュンコミチコ“コシノ三姉妹”を育てた故・小篠綾子さんをモデルとした物語ですが、物語はそろそろ終盤を迎えています。
今朝の話では、母・糸子が三女の聡子に看板を譲ろうと決心したものの、聡子は自分なりに将来を考えてロンドン行きを決意していた・・・という話でした。
もともと長女・優子に継がせるつもりだったのに当てが外れ、次女・直子はもとより自分の道を歩んでいるため眼中になく、最も頼りないと思っていた三女・聡子までもが“親離れ”しようとする姿に驚きを隠せない母・糸子。
まさしく、子は親の思うようには生きてくれないものです。
おそらく実際のコシノ三姉妹も、母・綾子さんから見れば理解に苦しむ娘たちだったのでしょうね。
親からみて文句のつけようのない子供というのは、所詮は親の理解の範疇にあるということで、親を超えることは絶対ないでしょう。
親の手に負えない子供というのは、裏を返せば、親には考え及ばない可能性を秘めているということかもしれず、むしろ親としては喜ぶべきことなのかもしれません。
親は、子供は理解出来ないものだということを理解しなければなりませんね。

あと、昨今の子育ては“褒めて伸ばす”というのが主流で、教育評論家と言われる方々は挙ってその論を主張しますが、私は予てから懐疑的でした。
たしかに、人間褒められると気分のいいもので、もっと褒めてもらおうと努力するかもしれませんが、おだてられないと木に登らない豚では社会の荒波を乗り越えていけるとは思えませんし、人間、慢心ほど成長の妨げとなるものはありません。
で、このドラマでの糸子と三人の娘たちの親子関係や、若き日の糸子と父・善作とのエピソードなどを見ていると、あらためて“褒めて伸ばす”論を否定したくなりますね。
厳しく叱っても親の思うようにならないのが子供ですが、それでも親は子供を叱るべきで、そんなわからず屋の親に反抗しながら子供は成長していくものだと思います。
少なくとも、父か母のどちらかひとりは、子供から見て煙たい存在でなければならないと私は思ってわが子とも接しています。
ものわかりの良い親なんて、ろくなもんじゃないですよ。
昔はこの善作さんのような厳格な父親がたくさんいて、母親は家事に忙しくていちいち子供の生活を干渉する暇もなく、教育評論家の方々も、そういった戦前生まれの親に育てられて立派な大人になっておられるのに、なぜ自分たちの生い立ちを否定するような論を唱えるのでしょうね。
要は真心をこめて叱っているかどうか・・・ではないでしょうか。

とはいっても、叱られてばかりでは心が萎えてしまうのもたしかで、多少の逃げ道は必要でしょう。
ドラマでは、麻生祐未さん演じるお祖母ちゃんがその役目を担っていますね。
実際の小篠家もそうだったようで、三姉妹とも口を揃えて「お祖母ちゃんに救われた」と語っておられました。
誰かがになれば、誰かがになる。
昔はそうやって、各家庭の中で上手く子育てシステムが機能していたのでしょう。
昨今、社会に出たばかりの使えない若者を「ゆとり世代」などと蔑んで呼ぶ声を耳にしますが、「今どきの若者は・・・」という年寄りの定番文句は使いたくありませんが、もし今どきの若者が世間で言われているような軟弱者が増えているとするならば、それは「ゆとり教育」の所為というよりも、「褒める教育」に原因があるんじゃないでしょうかね。
とすれば、その責任は私たち親にあるといっていいでしょう。
今一度、小篠家に倣って“叱って伸ばす”子育て法を見直してみる必要があるんじゃないでしょうか。

後年、世界的なデザイナーに育った三人の娘たちに感化された綾子さんは、75才にして「コシノアヤコ」ブランドを立ち上げたそうですが、その商品の中には娘のヒロコさんやジュンコさんのデザインに酷似したものがしばしばあったそうで、それを娘たちに指摘されると、「あんたらを産んだのはウチや!自分の産んだ娘のデザインを盗って何が悪いねん!親の特権や!」と、悪びれることもなく言い切って娘たちを閉口させたとか。
ドラマを見るかぎり、想像できすぎて笑っちゃいます。
さすが、昭和の母は強し・・・ですね(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2012-03-01 02:31 | その他ドラマ | Trackback(1) | Comments(2)  

橋下徹大阪市長の義務教育留年制度導入案にちょっと待った!

連日のように斬新な改革案を打ち出して注目を浴びている橋下徹大阪市長ですが、今度は義務教育である小中学生の留年制度の導入を検討するよう市教委に要請して話題を呼んでいますよね。
橋下さんの教育改革に対する意気込みというのは府知事時代から折り紙つきで、大阪都構想と並んで橋下市政の柱といってもいいのでしょう。
しかし、教育委員会制度の改革や教職員人事考課制度改革は、少々過激ではあるものの頷ける部分もたくさんあったのですが、この度の留年制度の導入という話にはさすがに抵抗を感じずにはいられません。
橋下さん曰く「義務教育で本当に必要なのは、目標レベルに達するまで面倒を見ること。子供のためにもなると思う」ということですが、はたしてそうでしょうか。
私には「子供の学習意欲をそいでしまう」という市教育委員の意見のほうが的を射ているように思えますねどね。

私も、教育の理想は習得主義だと思いますが、義務教育の場合は、学齢主義履修主義でやむを得ないんじゃないかと思います。
そもそも義務教育の定義は、保護者に課せられた「教育を受けさせる義務」であって、どんな子供でも日本国民である以上、9年間は教育を受ける権利があるということですよね。
その昔は、読み書きそろばん自費で学んでいたもので、貧乏人は独学するしかなかったものを、9年間は公費で面倒みますよ、というありがたい制度なわけです。
だから、同じ地域同じ年齢の子供たちが、同じ教室同じ勉強同じスピードで学ぶというのが義務教育のあり方で、それ以上のレベルの学問を求める者は、私学なり学習塾などに通うなどして自費で学んでもらうしかないですし、そのレベルに達しない者も、公費で面倒みてもらえるのは9年間と定めるのが公平なんじゃないでしょうか。
「小学校で九九ができなければ、留年させてでも面倒をみる」といいますが、小学校の6年間で九九ができない子は、たぶん一生かかっても小学校を卒業できないですよ。
ずっとエリート街道を歩んでこられたであろう橋下さんにはわからないと思いますが、どうしても学問に向いてないヤツってのはいるんです。
そういう子には、学問とは違う分野で社会を生きていく術を探してあげるのが教育であり、学問に向いてない子を10年も15年も強制的に勉強させることが、子供のためになるとは思いませんし、税金の無駄遣いじゃないでしょうか。
あっ、別に落ちこぼれを切り捨てろと言ってるわけではありませんよ。
人には“向き不向き”“得手不得手”があるということが言いたいわけで・・・。

留年制度の導入は、ただでさえ社会問題となっている「不登校問題」に拍車をかけることになる可能性が高く、かえって勉強についていけない子を切り捨てる結果になるんじゃないでしょうか。
「今のクラスがしんどいとなったら、ちょっと下行ってこいと言える風土にしたい」と橋下さんは言っていましたが、仮に小中学生の留年が当たり前となり、留年が恥ずかしいことではない世の中になれば、あるいは橋下さんの言うように学力の底上げになるかもしれませんが、そうなるには大変な年月が必要でしょうし、その過渡期の子供たちはどうなるのでしょう。
「分からない授業を延々受けさせるとグレる」とも言っていましたが、友達は中学生になったのに自分はまだ小学生のままという方が、グレちゃうと私は思いますけどね。
それに、留年しないための学習塾通いが加熱するようになれば、それこそ本末転倒な話です。
いろんな意味で、今回の提案は無理がありそうですね。
学力の底上げを図るという趣旨は悪いことではないと思いますが、何も留年制度まで飛躍しなくても、教科によって学力別のクラス編成にするとか、方法は他にもあるように思います。

あいかわらず橋下徹市長の人気は高いようで、私も彼の行動力と信念には期待したいと思っているひとりですが、ここに来て、少々突っ走り過ぎの感がなきにしもあらずに思えます。
ちょっとスピードの出しすぎじゃないですか?
「そんなこと言ってたら改革なんてできない!」と言われそうですが、こうも次から次へと新しいことを言われても、なかなか私のような凡人の頭ではそう簡単に判断がつきません。
とくに、教育制度の改革については、『ゆとり教育』の例でもわかるように、何年か過ぎてみないと答えが見えにくいもの。
でも、教育は人間を作っていく制度ですから、何年か経って「やっぱり失敗でした」では困るんですよね(私の息子なんて、小学校入学時に「ゆとり」が始まって、中学校卒業時に終わりましたからね。誰が責任とってくれるんだ?・・・と)。
現状を壊さないと発展はない、というのは分かるんですが、壊せばいいというものでもないでしょう。
どうも彼の眼鏡では、普通のものまで普通に見えなくなっているように思えてなりません。
「策士、策に溺れる」とならなければいいのですが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2012-02-24 21:11 | 政治 | Trackback | Comments(4)  

ドラマ『それでも、生きてゆく』にみる、性善説と性悪説。

以前、ハマっているとお話したドラマ『それでも、生きてゆく』の最終回を観ました。
このドラマは以前もお話したように(参照:ドラマ『それでも、生きてゆく』に思い出す、14年前のあの事件。)、14歳の少年が15年前に起こした少女殺害事件を軸に、その被害者家族加害者家族の苦悩を描いた物語で、フィクションと謳ってはいますが、明らかに、1997年に日本中を震撼させた、あの神戸連続児童殺傷事件、いわゆる“酒鬼薔薇聖斗事件”を下敷きにしていると見ていいのでしょう。
それだけに、どのような結末を用意しているのか、大変興味深いところでした。
いくらフィクションとはいえ、現実にあった事件とラップした設定である以上、軽率な落とし所は許されないでしょうから。

で、最終回を観終えての感想は、まあ、あのようにしか描きようがないでしょうね。
結局、何も解決していないような中途半端な状況のままで、溜飲を下げるような結末には至りませんでしたが、そもそも物語のテーマ自体があまりにも重く、そう簡単に着地点など見つかるものではないでしょう。
酒鬼薔薇聖斗を彷彿させる元少年Aの三崎文哉(風間俊介)に、変に同情してしまうような描き方はあってはならないと思いますし、被害者の兄・深見洋貴(瑛太)と加害者の妹・遠山双葉(満島ひかり)が結ばれてハッピーエンドというのも、設定上あり得ないでしょう。
被害者の母の長年の悲しみが、そう簡単に癒えるものでもないでしょうし、加害者の父の苦悩や葛藤が、そう簡単に終わるものでもありません。
つまりは、元少年Aが犯した罪はあまりにも重く、それは被害者家族にとっても加害者家族にとっても一生忘れられるものではなく、その心の傷を死ぬまで抱えながら、『それでも、生きてゆく』んですよね。
だから、最終回はあのようにしか描きようがないと・・・。
ただ、このような難しいテーマに挑んだ制作者の意気込みには、拍手を贈りたいと思います。

私がこのドラマを観てあらためて考えさせられたのは、「性善説」「性悪説」についてです。
人はなぜ罪を犯すのか・・・。
罪を犯した人は悪なのか・・・。
孟子が提唱した「性善説」の立場を取れば、「人間はもともと善なる者として生まれながら、後天的に悪を学習する」ことになり、荀子が提唱した「性悪説」の立場に立脚すれば、「人間はもともと悪なる者として生まれながら、後天的に善を学習する」ことになります。
どちらの説にせよ、人間には善悪両方が備わっており、環境によってどちらにも傾倒するということに変わりはないのでしょうが、子供の教育を考える場合、「性善説」の立場を取るか、「性悪説」の立場を取るかは大問題で、たとえば罪を犯した子供がいた場合、その罪をどう理解するか、それに対して大人はどう対処すべきか、結論が正反対になります。
ドラマや映画などでは、どちらかと言えば「性善説」で描かれる物語が多く、この度のこのドラマも、三崎文哉の心が壊れたのは、目の前で母親が飛び降り自殺をした幼児体験によるもので、いわゆる「性善説」でしたね。
「生まれたときは、何も知らない、可愛い赤ちゃんだったんだ・・・。」と、時任三郎さん演じる加害者の父親が涙を流していましたが、誰しも、生まれたばかりの赤ちゃんを見て“悪”だと思う人はいないでしょう。
日本の少年法も、おそらく「性善説」をベースに作られたものだと思えますし、私も、理想的には「性善説」の立場を信じたいと思っているひとりではあります。
ですが、現実には、人間に欲がある以上、「性悪説」の方が納得いくことが多いのも事実です。
人は、善行をはたらく場合、意識的に行わなければできないような気がしますが、悪行をはたらく場合、本能に任せて無意識に行うものなんじゃないかと・・・。
中国の仏教思想の中では、孟子の「性善説」と荀子の「性悪説」は真っ向から対立して結論は出ていません。
はたして、どちらが正しいのでしょうね・・・。

「性善」「性悪」とは別に、「性癖」というものもありますよね。
これもまた、生まれ持った先天的な性質のことで、善でも悪でもなく、変えようのない「癖」です。
私は、酒鬼薔薇聖斗の両親が書いた手記を読んだとき、これは明らかに「性癖」に起因する犯罪だと思いました。
つまりは、人を殺すことを嗜好とする「性癖」を持って生まれてきた奴なんだと・・・。
なんとも異常で恐ろしい「性癖」ですが、でも、普通の人とは異なる少数派の「性癖」という意味でいえば、同性愛者のそれと何が違うのかなと・・・。
同性愛は合法で、殺人は違法、違いといえばそれだけで、その法律というものも人間が作ったものですし、「この世で最も尊いものは人間の命」という倫理も、近代になって人間が作った比較的新しい道徳なわけで・・・。

ちょっと過激な発言になってしまいましたが、別に殺人を容認しているわけではありません。
何が言いたいかというと、人間には生まれ持った変えようのない「性癖」というものがあり、なかには人間社会の倫理に反した「性癖」の持ち主がいて、そんな人間が現代社会に生きていく以上、その「性癖」を抑えられるほどの「理性」を養うしかなく、そう考えれば、やはり人間の本質は「性悪説」なのかもしれません。
酒鬼薔薇聖斗などは、現代に生まれてくるべき人間ではなかったのかもしれませんね。
『それでも、生きてゆく』のは、彼のような人間にとっては苦しいだけなのではないでしょうか。

そんなことを、あらためて考えさせられたドラマでした。


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-16 17:57 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

松井秀喜選手の5打席連続敬遠を指示した馬淵史郎監督のインタビュー記事に思う。

もうすぐ夏の高校野球甲子園大会が始まりますが、昔の高校野球ネタで大変興味深い記事を見つけたので、本日はその記事について、わたしの思うところを述べさせていただきたいと思います。
先日、日米通算500本塁打を達成した、現・MLBアスレチックスの松井秀喜選手が1992年夏の高校野球甲子園大会で、5打席連続で敬遠されたというエピソードはあまりにも有名ですが、その敬遠を指示した明徳義塾馬淵史郎監督が、そのときの采配について語ったインタビュー記事です。
まずは、記事本文をそのまま記載します。
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松井秀喜5連続敬遠指示の監督 「人を敬うからこそ敬遠」
まもなく今年も高校野球の甲子園大会が始まるが、高知の明徳義塾・馬淵史郎監督は今年で監督生活21年。計21度の甲子園出場で通算36勝20敗。2002年夏には優勝旗を取った高校球界きっての名将をインタビューした。

──馬淵監督といえば、1992年大会の対星稜(石川)戦の「松井秀喜5連続敬遠」を語らずにはいられません。
「そやね。おかげさまで有名になりました。私は今でも間違った作戦だったとは思っていない。あの年の星稜は、高校球児の中に1人だけプロがいるようなものだった。あれ以前も、あれ以降も、松井くんほどの大打者と僕は出会っていません。甲子園で勝つための練習をやってきて、その甲子園で負けるための作戦を立てる監督なんておらんでしょ? 勝つためには松井くんを打たせてはいかんかった」

──高校野球ファンの心理を逆撫でしたのは、7回表2死無走者の場面でさえ、松井選手を歩かせたことでした。
「その時点で3-2だったでしょ。これが2点差だったら、ホームラン打たせてやりましたよ。しかし、1点差だった。もしホームランを打たれたら同点になるわけですよ。たとえヒットで終わったとしても、松井くんが打つことによって他の選手が勢いづく。そういう波及効果も恐れていました。僅少差の展開では、たとえ2死であっても歩かせることのリスクは大きいんですよ。敬遠は逃げじゃない。そこは理解してもらいたい。ただ、選手は監督の作戦に従っただけなんだから、子供たちへのバッシングはかわいそうだった。子供たちに申し訳ないことをしたと思っています」

──当時のナインに対する負い目があるということですか。
「それはない。負い目があったら監督を続けていません。あんな作戦を取って負けていたら監督を辞めていたでしょうが、勝ったわけやからね。
そもそも私は野球のルールを犯したわけやない。松井くんと勝負して抑えられるとしたら、インコースの高めしか打ち取る方法はなかったはずです。だけど胸元だけを攻めて、デッドボールを当ててケガでもさせてしまった方がよっぽど汚い野球だと思いますよ。
 野球では『盗塁』とか『刺殺』というように、盗むとか殺すといった不謹慎な言葉が使われている。その中でキレイな言葉といったら『敬遠』ぐらいのものですよ。人を敬うからこそ敬遠なわけです」

※週刊ポスト2011年8月12日号
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いろんな考え方があって然りだとは思いますが、私はこのインタビュー記事を読んで、馬淵監督は最も大切なことを忘れていると思わずにいられませんでした。
それは、高校野球は“勝負ごと”である以前に部活動であり、“教育の一環”であるということ。
高校球児はプロ野球選手のように、勝敗や成績がすべてではありません。
もちろん“勝負ごと”である以上、勝利を目標にして戦うわけですが、“教育の一環”である以上、勝つためのプロセスが重要だと思います。
勝負ごとに勝つための“指揮官”としての馬淵氏は、なるほど優れたスキルを持った方なのかもしれませんが、社会に出る前の子どもたちを指導する“教育者”としては、申し訳ありませんが、およそ相応しくない方だと思えてなりません。。

>勝つためには松井くんを打たせてはいかんかった

たしかに松井選手との勝負を避けたことで、明徳はこの試合に勝つことができました。
しかし、明徳ナインはこの試合で何を学び、何を得たのでしょう。
得たものといえば、世間からのバッシングだけだったのでは?
たしか、次の試合では世間からの白眼視に硬直して力を発揮できず、結果はボロ負けだったと記憶しています。
高校生の彼らにとっては、あの世論はあまりにも重荷だったと思います。
社会に出れば、上手くいく可能性の極めて低い事柄に、あえて挑まなければならない場面がままあります。
松井選手とて、勝負したからといって5打席連続本塁打ということは、たぶんなかったでしょう。
たとえ1打席でも松井選手を抑えることができたら、彼らの勲章になったでしょうし、勝負したことで試合に負けたとしても、そこから学び得ることはたくさんあったと思います。

>そもそも私は野球のルールを犯したわけやない

たしかにルールには反していませんが、倫理には反していると思います。
そもそも、ルールに反していなければ何をやってもいいという考え方が、指導者、教育者としていかがなものでしょう。
「法を犯したわけじゃない」といって、時間外取引という裏技を使ってニッポン放送株を買収しまくった若い実業家もいましたよね。
あれと同じです。

というのも、この5打席連続敬遠に限らず、馬淵野球にはそういった手段を選ばない倫理に反した行為が多く見られます。
たとえば、昨夏の沖縄代表興南高校と対戦した2回戦、相手投手が投球モーションに入ろうとすると打者はバッターボックスを外すといった遅延行為を再三繰り返し、主審から注意を受けていました。
おそらく、大会ナンバーワン左腕の島袋洋奨投手を容易には打ち崩せないだろうとみて、島袋投手をイラつかせるための心理作戦だったのでしょう。

他にも同試合では、明徳のブルペン(高校野球の場合、ファールグランド)で投球練習をしている捕手が落球して、そのボールがフィールド内に転がり込んだため試合が中断するといった場面も何度かありました。
これも、おそらく故意だと思います(少年野球ならともかく、甲子園に出場するような高校球児が、1試合の中でそう何度もミスをするとは思えません)。
こんな姑息な心理作戦は、今どきプロでもやりません。
でも、馬淵さんはそんな姑息な手段を高校生に教えているわけですよ。
このように、ルールに反していなければ何をやってもいいといった考え方が、教育の場である部活動に持ち込まれるのは、わたしは賛成できません。

とはいっても、私は馬淵史郎監督と面識があるわけではありませんので、あくまで氏の野球観からみた個人的意見です。
実際には、どんな方かは知りません。
ただ、スポーツにおける指揮官の采配というのは、その方のものの考え方が映しだされるものだと思いますけどね。

>人を敬うからこそ敬遠

なるほど、上手いこと言ったなと思ってしまいそうになりますが、本来の“敬遠”という言葉の持つ意味を辞書で調べてみると、「表面では敬うような態度で、実際には関わりを持たないようにする」とあります。
決して馬淵さんのいわれるような、キレイな言葉ではありません。
本当に心から敬う気持ちがあるならば、その人と関わりを持ちたいと思うのが人間でしょう。

後年、ビッグになった松井秀喜選手は、「あの敬遠で自分に箔がついた」と語っていましたが、松井選手にとってはそうだったかもしれませんが、あのとき敬遠した明徳の河野和洋投手は、「松井を5打席連続で敬遠した投手」というレッテルがいつまでもついてまわり、その後の野球生活では辛い思いをしたと聞きます。
馬淵監督がいう、勝つために必要だった作戦は、そんな代償を払っての勝利だったということです。
それでも、「今でも間違った作戦だったとは思っていない」と語る馬淵史郎監督の野球観は、私はどうにも好きになれません。




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by sakanoueno-kumo | 2011-08-03 22:02 | 高校野球 | Trackback(2) | Comments(55)