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太平記を歩く。 その119 「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」 福井県福井市

福井市にある新田義貞戦没地と伝わる地を訪れました。

このあたりはかつて燈明寺畷といい、「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」として大正13年(1924年)に国の史跡に指定されています。


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敷地は公園整備されていて誰でも入れますが、一応、入口には門扉があり、厳かな雰囲気が漂います。


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門扉には、新田氏家紋の「一つ引」が。


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前稿、前々稿でもふれましたが、延元3年/建武5年(1338年)7月2日、足利方の大将・斯波高経が籠っていた小黒丸城を包囲していた新田義貞は、別動隊が攻めていた藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。


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ところが、同じく藤島城に加勢するため小黒丸城からも高経の重臣・細川出羽上鹿草彦太率いる300騎が出動しており、義貞率いる50騎とこの地で遭遇します。

事態はたちまち遭遇戦となりますが、、斯波方は援軍目的の出撃だったため弓矢の備えも十分であったのに対し、義貞方は偵察目的だったため武具の備えも不十分で、加えて兵力差も歴然としており、義貞方の兵は次々に敵の矢に倒れます。

やがて義貞も流れ矢眉間に刺さり、あっけなく討死します。


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『太平記』巻20「義貞自害事」は、このときの様子をこう伝えます。


「白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。」


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致命傷を負った義貞は観念し、自らを太刀で掻き切り、その首を深い泥の中に隠してその上に倒れたというのですが、眉間に矢が刺さったら、ほぼ即死だと思いますし、自分の首を自分で掻き切って隠すなんて、あり得ないというか・・・。


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また、『太平記』によると、敵兵に遭遇した際、義貞の家臣・中野藤内左衛門宗昌が、「千の弩は為廿日鼠不発機(千鈞もある石弓は、ハツカネズミ(けい鼠)を捕るために使用しない)」と言って義貞に落ち延びるよう誓願したといいます。

つまり、「総大将はこの程度の戦いに参戦してはいけない」という意味ですね。

しかし義貞は、「失士独免るゝは非我意。(部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意)」と言って宗昌の願いを聞き入れなかったといいます。

一見、義貞の行動は義に篤い武士道ともとれますが、『太平記』は、義貞の行動は軽率で、「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした」と、その死を「犬死」と評しています。

かなりの酷評ですね。


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時代は下って明暦2年(1656年)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然にを掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がこれを目にし、象嵌「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定。

その4年後には「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建て、以後、この地は「新田塚」と呼ばれるようになりました。

現在のこのあたりの住所も、福井県福井市新田塚町といいます。


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ただ、その出土した冑は、現在の研究では戦国時代のものと鑑定されているそうです。

現在は新田一族を祀る藤島神社が所蔵しています。


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大将を失った新田軍3万は一夜にして雲散霧消し、残った兵は僅か2000

弟の脇屋義助は府中(武生)へと兵を退かざるを得ませんでした。

この顛末をみると、やはり義貞の行動は軽率だったかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-08 00:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その118 「藤島城跡(超勝寺)」 福井県福井市

前稿で紹介した小黒丸城跡から7kmほど東にある藤島城跡を訪れました。

現在は超勝寺という寺院が立ちます。


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ここも、越前国守護の斯波高経が築いたといわれる足羽7城のひとつと伝わります。


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山門の横には「藤島城址」と刻まれた石碑と、説明板が設置されています。


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『太平記』巻20にある「足羽七城の戦い」の中心となったのが、小黒丸城とここ藤島城でした。

小黒丸城には足利方の大将・斯波高経が籠って全軍の指揮を執り、ここ藤島城には、一度は新田軍に味方しながら足利方に寝返った平泉寺衆徒籠っていました。

新田義貞は軍勢を分けて足羽7城を攻めますが、7城の巧妙な連携体制の前に攻めあぐね、戦いは長期化します。


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新田軍の出陣から3ヵ月が過ぎた延元3年/建武5年(1338年)7月2日、小黒丸城を包囲していた義貞は、別動隊が攻めていたここ藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。

ところが、その道中、同じく藤島城に加勢するために出動した足利方の軍勢300騎と出くわし、行き当り遭遇戦の末、討死します。


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超勝寺境内には、藤島城の遺構の一部と云われる土塁跡が僅かに残っています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-07 13:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その117 「小黒丸城跡」 福井県福井市

日野川の戦いに勝利した新田義貞軍は、越前国府を占領します。

『太平記』では、この報が越前国中に伝わると、足利方の73の出城が降伏を申し出たと伝えます。

気運に乗った義貞は、越前国を完全掌握するため北上。

足利方で越前国守護の斯波高経の籠る小黒丸城を包囲します。


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現在、小黒丸城は住宅地田園のなかに石碑が立つのみで、遺構などは残っていません。


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小黒丸城は黒丸城ともいい、足利方の足羽7城のなかの本城とされています。

足羽7城は諸説ありますが、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城、そしてここ小黒丸城のことをいいます。


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『太平記』巻20によると、延元3年/建武5年(1338年)5月2日、新田義貞は自ら6千余の兵を率いて府中に出陣し、足羽7城への攻撃を開始しました。

しかし、小黒丸城は容易には落ちません。


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高経の築いた足羽7城は実に巧妙な連携体制が整えられていたといわれ、ひとつの城を攻撃すると、他の城から出撃した兵が背後を襲う陣形になっており、戦いは一進一退を繰り返しながら長期化します。


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そして3ヵ月が過ぎた閏7月2日、ここ小黒丸城を包囲していた義貞は、別動隊が攻めていた藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。

その道中、足利方の軍勢に出くわし、討死するんですね。


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小黒丸城跡と夕日です。


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義貞の死の翌年、弟の脇屋義助が再び挙兵して小黒丸城を攻めると、斯波高経は黒丸城を捨てて加賀へ逃れたといい、その後、小黒丸城は廃城となります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-06 13:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その116 「新善光寺城跡(正覚寺)」 福井県越前市

「その114」で紹介した杣山城跡から6kmほど北上した場所にある新善光寺城跡を訪れました。

ここは現在、正覚寺という寺院になっています。


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山門の手前にある「正覚寺」の寺号碑には、「新善光寺城跡」という文字も刻まれています。


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山門には、「旧府中城表門」という立札があります。

府中城とは、戦国時代に前田利家が築いた城で、新善光寺城とは別のものです。


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山門の横には「新善光寺城址」の石碑が。


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新善光寺城の築城主は越前国守護の斯波高経です。

つまり、足利方の拠点だったわけですね。

延元元年/建武3年(1336年)には杣山城主の瓜生保の軍勢によって一度落とされていますが、すぐに足利方が奪回しています。


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金ヶ崎城の落城後に杣山城に逃れていた新田義貞は、その後、四散していた軍を糾合して勢力を盛り返し、延元3年/建武5年(1338年)2月、再び打って出て足利方の斯波高経軍と日野川で激戦を交えます。


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この戦で府中(武生)の町は焦土と化し、高経は敗走して新善光寺城は義貞の手に落ちました。


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現在、境内の北側にある総社大神宮との境界に、わずかに土塁跡が残されています。


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その説明版です。


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新田方の手に渡った新善光寺城には、その後、義貞の弟・脇屋義助が入りますが、やがて義貞が戦死すると、義助は美濃へと敗走します。


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その後、正平21年/貞治5年(1366年)には廃城となり、良如上人によって正覚寺が建立され、現在に至ります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-03 09:00 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その110 「金ヶ崎城跡」 福井県敦賀市

福井県敦賀市にある金ヶ崎城跡までやってきました。

これまで関西を中心にめぐってきたため(山陰も行きましたが)、ここはちょっと遠いのでどうしようか迷ったのですが、やはり、『太平記』には福井県は欠かせないと思い至りました。

というわけで、しばらく越前国シリーズが続きます。


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足利尊氏が京の都を占領し、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)との講和が始まると、徹底抗戦を主張していた新田義貞恒良親王、尊良親王を奉じて京を脱出。

延元元年/建武3年(1336年)10月13日、当時、気比氏治の居城だった、ここ越前国金ヶ崎城に入り、約半年間、この地で足利勢と激戦を交えます。


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金ヶ崎城は敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)を利用して築かれた城で、敦賀津を眼下にみおろす絶好の立地にあります。

前は海、背後は険しい山岳で、天然の要害をなした難攻不落の城でした。


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現在、城跡は公園整備されており、気軽に散策できます。

遊歩道からは敦賀市街地が見渡せます。


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しばらく歩くと、「絹掛松」を書かれた案内板があります。


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その説明書きによると、金ヶ崎城の落城直前、恒良親王(当時15歳)は蕪木浦(現在の越前町)に避難しますが、その際、衣を脱いで岩の松の枝に掛けて小舟に乗り移ったと伝えられ、その松を「絹掛松」と呼び、前方の岩付近を絹掛崎と呼んでいるそうです。


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そのすぐ側にある鴎ヶ崎

大正天皇(第123代天皇)、昭和天皇(第124代天皇)もこの地を訪れ、ここで小休止されたそうです。


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本丸跡に登る途中に、「金ヶ崎古戦場碑」が建てられています。


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義貞らが金ヶ崎城に入ると、足利方は越前国守護の斯波高経新田軍討伐を命じます。

しかし、守りの固い金ヶ崎城を攻めあぐねた高経は、城を包囲して兵糧攻めに持ち込みます。

迎え討つ義貞は、20kmほど北の杣山城を拠点とする瓜生保らに援軍を要請し、紆余曲折のあと協力を得ます。


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年が明けた1月18日、金ヶ崎城の兵糧が尽き始めたことを知った瓜生保らは、杣山城を出て食糧救援に出撃しますが、あえなく失敗。

その後、義貞、脇屋義助、洞院実世は援軍を求めるため、二人の皇子と義貞の息子・新田義顕らを残して兵糧の尽きた金ヶ崎城を脱出しますが、再び金ヶ崎城へ戻ることはできませんでした。

3月3日、斯波軍が金ヶ崎城に総攻撃を開始します。

兵糧攻めによる飢餓疲労で城兵は次々と討ち取られ、3月6日落城。

尊良親王と新田義顕は自害し、恒良親王は斯波軍に捕縛されました。


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本丸跡と伝わる月見御殿跡です。


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片隅に小さな石碑が。


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月見御殿跡からの敦賀湾の眺望です。


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下山は別ルートを進みます。

しばらく下ると、三の木戸跡があります。


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そのすぐ近くに、「焼米石出土跡」と書かれた看板が。


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ここ金ヶ崎城にはもうひとつの戦史があります。

戦国時代の織田信長朝倉義景の戦いがそれで、浅井長政裏切りによって危うく挟撃の危機に瀕したものの、信長の妹で長政の妻だったお市が、袋の両端を縛った「小豆の袋」陣中見舞いに送り、その危機を報せたという、あの戦いです。

「袋のネズミ」は、まさにこの城だったわけですね。

そのとき焼け落ちた米蔵の焼米と思われる遺蹟が、この場所で出土されたそうです。


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二の木戸跡です。


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説明板によると、新田軍と斯波軍の戦いで、このあたりで激戦が行われたといわれるそうです。


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二の木戸と一の木戸の間にある大きな堀切跡です。


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一ノ木戸跡です。


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『太平記』によれば、飢餓に耐えかねた城兵らは、まずを殺して食し、最後は死者の肉すら食らったと伝えます。

援軍を得て体勢を立て直すためだったとはいえ、結果的に義貞は2人の皇子と息子、そして餓えに苦しむ城兵を見捨てたことになり、南朝よりに書かれた『太平記』が、楠木正成ら他の南朝方の武将に比べて義貞の評価が低いのも、この戦いに起因するところが大きいといえるでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-24 22:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)