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八重の桜 総評

 遅ればせながら、2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』の総括です。最終回が終わって2週間が経ちましたが、なかなかまとめの稿をアップできなかったのは、年の瀬で多忙だったこともあるのですが、イマイチ起稿意欲がわかなかった・・・というのも正直なところです。その理由は、これといった感想が思い浮かばない、特筆すべき点が見当たらない、というのが率直な感想なんですね。じゃあ今年の大河は駄作だったのか・・・というと決してそうではなく、わたしの中ではけっこう良い評価です。だけど、終わってみればとくに何も印象に残っていない・・・。矛盾したことを言っていますが、わたしにとって『八重の桜』は、そんな作品となりました。

 演出は実に丁寧できめ細やかでしたね。映像も綺麗でしたし、史実時代考証も、近年の他の作品と比べれば丁寧に描けていたと思います。脚本もしっかりしていましたし、でも決して作者の主観を押しつけるようなクドさもなく、丁寧なストーリーだったと思います。そう、このドラマを一言でいえば、とても「丁寧」に作られたドラマだったと思うんですね。ただ、丁寧=面白い作品となるかといえば、必ずしもそうではないということでしょう。ドラマがエンターテイメントである以上、観る人を引きつける「魅力」がなければ「名作」とはなりません。その魅力が、本作には足りなかったような気がします。

 魅力に欠けたのは、新島八重というマイナーな人物を主役にしたからだ・・・と言う人もいるでしょう。たしかに、わたしもこの作品の制作発表時に、はじめて新島八重という人物を知ったひとりです。でも、無名だから魅力がないという見方は短絡的だと思うんですね。たとえば、2008年の『篤姫』なども、決してメジャーな人物ではありませんでしたが、あれほど多くの支持を受けました。逆に、誰もが知ってる『平清盛』が、視聴率的には超低空飛行でしたよね(わたし個人的には評価は高いですが)。要は有名か無名かではなく、どれだけ主人公の魅力を引き出せるか・・・だと思うんですね。

 このドラマで、会津藩士たちの無念さはよくわかりましたし、定番の薩長史観の幕末史とは違う、会津視点の幕末史を楽しめました。詳しく知らなかった山本覚馬の維新後の活躍も知ることが出来ましたし、新島襄という人物のことも、同志社の成り立ちも深く知ることができました。でも、どれもこれも丁寧に描きすぎたがゆえに、八重の存在感がイマイチなかったですよね。別に八重がいなくても物語は成立していたのでは?・・・と言ったら言い過ぎかもしれませんが、物語は丁寧な会津史であり同志社史ではありましたが、新島八重史ではなかったというか・・・。だから、八重に感情移入したり共感したりすることが難しかった・・・というのが正直なところです。

 魅力に欠けていた・・・というのは、そういうところだと思うんですね。たとえば、先述した『篤姫』などは、あのドラマをきっかけに篤姫を好きになった人や、篤姫という女性に興味をもったひとが大勢いたと思いますし、もっとわかりやすく言えば、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』を読んで、坂本龍馬ファンになった人は世の中に山ほどいるでしょう。もちろん、素材そのものの持つ魅力もあるでしょうが、作家さんの力も大きいと思います。このたびのドラマで新島八重ファンになった人がどれだけいたでしょうね。そのあたりが、丁寧に作られた作品なのに、イマイチ支持が得られなかった大きな理由ではないでしょうか。

 ちょっと辛口のまとめとなりましたが、俳優さんたちは皆、素晴らしかったですね。とくに主演の綾瀬はるかさんは、あらためてスゴイ女優さんだと思いました。綾瀬さんといえば、同じ幕末を舞台としたドラマ『JIN -仁-』が思い出されますが、あのときのという女性の役と、今回の八重役とでは、表情発声姿勢もまったく違ったもので、同じ女優さんが演じているとは思えないほど別人になりきっていましたね。素人が知ったようなことを言って恐縮ですが、何を演じても同じ人物に見える俳優さんもたくさんいます。その点、綾瀬さんは素晴らしかった。もはや大女優といっていいかもしれません。普段は超天然だそうですが(笑)。

 それと、新島襄役のオダギリジョーさんもさすがでしたね。容姿も去ることながら、実際の新島襄という人物も、きっとこんな人だっただろうと思わされました。あと、山本覚馬役の西島秀俊さんは、ちょっとカッコ良すぎた気がしないでもないですが、今回のドラマでもっとも興味を持ったのは、山本覚馬という人物でした。もっと覚馬という人物のことを知りたい・・・と。その意味では、いちばん魅力的に描かれていたのは山本覚馬かもしれません。あと、忘れてはならないのが、小泉孝太郎さん演じるところの徳川慶喜。わたしの知る限り、これまでの慶喜のなかでもっとも慶喜っぽい慶喜でした(笑)。

 さて、来年は黒田官兵衛孝高が主人公ですね。そして、先ごろ発表された再来年の大河は、吉田松陰の妹が主人公だとか。来年の官兵衛は、戦国ファンなら誰もが知っている人物でしょうが、再来年の吉田松陰の妹なんて、大河ドラマ史上もっとも無名な人物かもしれません。ただ、先般申し上げたように、大切なのは有名無名ではありません。その人物の魅力をどれだけ引き出せるか・・・ですね。もちろん、だからといって虚像で固めた人物であってはいけないでしょうし、たぶんそれでは魅力的な人物にはならないでしょう。素材の持つ魅力をどれだけ描けるか・・・これって、決して簡単なことではないんでしょうけどね。でも、視聴者はそれを待っています。作り手の腕の見せどころですね。

 いささか辛口なことばかり述べてきましたが、冒頭で申し上げたとおり、わたしにとって本作は、けっして評価の低いものではありません。名作とはいえませんが、良作ではあったと思います。ただ、少し塩コショウが足りなくて、薄味な物足りなさがあった・・・というのが率直な感想です。昨年、今年と低視聴率が続いていますが、わたし個人的には、一昨年までの作品から一変した大河ドラマの方向性としての趣旨は間違っていないと思います。あとは塩コショウの加減だけかと・・・。ともあれ、1年間楽しませてもらえました。このあたりで、『八重の桜』のレビューを終えたいと思います。

●1年間の主要参考書籍
『新島八重の維新』 安藤優一郎
『新島八重 愛と闘いの生涯』 吉海直人
『会津落城』 星亮一
『幕末史』 半藤一利
『日本の歴史19~開国と攘夷』 小西四郎
『日本の歴史20~明治維新』 井上清
『明治という国家』 司馬遼太郎
『幕末維新のこと』 司馬遼太郎
『明治維新のこと』 司馬遼太郎



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by sakanoueno-kumo | 2013-12-28 22:04 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(4)  

八重の桜 第50話(最終回)「いつの日も花は咲く」

 新島襄の死から3ヵ月後の明治23年(1890年)4月、八重日本赤十字社に入社し、看護婦の資格を得ます。このとき八重は45歳。この時代、夫に先立たれた45歳といえば、そろそろ老後の準備にとりかかろうといった年齢だと思うのですが、八重にとってはまだまだ余生ではなかったのですね。なぜ八重が看護婦の道を選んだのかはわかりませんが(ドラマでは兄の山本覚馬に勧められてでしたが)、あるいは襄の生前から胸に秘めていたのかもしれません。

 赤十字とは、いうまでもなく戦時における傷病者や捕虜の保護を目的とする国際協力組織のことですが、この赤十字の思想を日本に伝えたのは、佐賀藩出身の佐野常民という人物でした。佐野は明治10年(1877年)の西南戦争の際、赤十字をモデルにした博愛社という組織を立ち上げます。そして10年後の明治20年(1887年)5月に、博愛社は日本赤十字社と名を改め、総裁には有栖川宮熾仁親王、社長には佐野が就任します。八重が入社するのはその3年後のことですね。このヨーロッパで始まった赤十字の活動を、新島襄が知らなかったとは考えづらく、むしろ、同志社に医学部を設置するべく病院や看護学校を立ち上げていた襄としては、赤十字の活動は大いに興味があったに違いありません。あるいは、八重に赤十字の考え方や戦地での看護婦の働きを教えたのは、襄だったかもしれませんね。襄の死後たった3ヵ月で従軍看護婦の道を目指したのは、生前の襄が後押しした背景があったのかもしれません。

八重を従軍看護婦の道に突き動かした理由をもうひとつあげれば、やはり会津戦争における鶴ヶ城籠城戦の体験でしょう。八重の籠城戦といえば、スペンサー銃を肩に男性に混ざって戦ったところばかりがクローズアップされますが、野戦病院と化した鶴ヶ城内で看護の任にあたったのは藩士の婦女子たちで、当然ながら八重もそのひとりでした。凄まじい戦場の実態を知っている八重としては、戦場における看護の重要性を充分理解していたことでしょう。そんな実体験も、八重の背中を押した大きな理由のひとつだったに違いありません。

 そうして従軍看護婦の資格を得た八重は、日清戦争時には広島陸軍予備病院で、日露戦争時には大阪予備病院で、傷病者の看護にあたると同時に、看護婦を監督する立場でもありました。その功績に対して、明治29年(1896年)に勲七等宝冠章、明治39年(1906年)には勲六等宝冠章が授与されます。ドラマでも言っていましたが、皇族の女性を除く民間の女性としては、初めての受賞だったそうです。これは八重自身にとっても、そして当時の女性たちにとっても、さらには逆賊の汚名を着せられた旧会津藩士たちにとっても、大きな栄誉だったことでしょう。

 しかし、八重は日清、日露戦争そのものは肯定していましたが、その悲惨さを伝えることも忘れませんでした。戦場で手足を失った兵士や、精神に異常をきした兵士の姿を見るにつけ、国家のためとは言いながら気の毒でならない・・・。名誉の負傷と慰めるものの、病室を出れば涙が止まらなかった・・・と、後年語っていたそうです。きっと、鶴ヶ城内で見た凄惨な光景と重ねあわせていたに違いありません。

 少し余談になりますが、ここ数話のドラマ中、八重が戦争に否定的な発言をするようになりましたが、それについて、後世の反戦史観だ!・・・といった批判の書き込みをいくつか目にしました。そうでしょうか? たしかに、この時代の世論は日清、日露戦争に肯定的で、日本中が戦争に熱狂していた時代であることは事実です。しかし、国民すべてでは決してありません。各地で反戦運動が行われていたのもひとつの側面としてありますし、それらに対する政府の弾圧も、昭和の戦争時に比べれば甘いものでした。作家の与謝野晶子は、日露戦争を批判した「君死に給うことなかれ」という歌を、堂々と発表していますしね(その与謝野晶子も、太平洋戦争時には戦争を賛美する歌を作っています)。決して挙国一致だったわけではありません。

 ただ、大きな歴史の捉え方として国全体が戦争を支持していた時代だったのは事実で、新聞がそれを煽っていたのも事実です。そのあたりは、徳富蘇峰の言動でちゃんと描かれていたのではないでしょうか? でも、実体験として戦争の凄惨さを目の当たりにした人たちは、必ずしも全面的に賛成だったわけではなかったんじゃないかと思うんですね。それが普通ではないでしょうか。その思いに、現代価値観もクソもありません。ましてや、維新後キリスト教徒となった八重が、反戦論者に転じていたとしても何ら不自然ではないですよね。近年の大河ドラマにあった安っぽい反戦思想の刷り込みとは違って、無理のない描き方だと思いました。あれを観て反戦だの現代価値観だのと批判する人のほうが、むしろ寒いものを感じます。戦争に肯定的な意見を持つ人たちは、実体験として戦争の恐ろしさを知らない者たち、つまり、ドラマでいうところの徳富蘇峰たちであり、現代に生きる戦後生まれの私たちです。そんな人たちばかりになったとき、国は進む方向を間違えるんですね。

 ドラマにもどって、八重の最後の一発について、どのように解釈すればいいのか私なりに考えてみましたが、明快な答えを得られていません。おそらく、目の前の敵ではなく、もっと大きな敵を意味しているのでしょうね。それは、争いが消えない世の中かもしれませんし、争いを作り出す人間の心かもしれません。解釈は観る人によって様々だと思いますが、ひとつだけいえるのは、目の前の敵を撃って人をひとり殺しても、世の中は何も変わらないということでしょう。

 「花は、散らす風を恨まねえ」

 老いた西郷頼母の言った台詞ですが、この台詞に尽きるのではないでしょうか。幕末、歴史の綾で逆賊となってしまった会津藩でしたが、歴史の大局の中では、産みの苦しみの代償でしかありません。薩長が悪かったわけでも、幕府に罪があったわけでもなく、ひとつの時代が終わり、新しい国が生まれるための陣痛の役割を、会津藩が負うはめになった・・・。ひとつボタンを掛け違えれば、その役目は薩長だったかもしれません。たまたま、会津はになってしまい、それを散らすになったのが、薩長だったんですね。

 「花は散っても、時が来っと、また花を咲かせる」

 昭和に入って松平容保の孫娘と昭和天皇の弟である秩父宮雍仁親王との婚儀が成立し、会津藩はもはや朝敵ではないことを世に知らしめ、名誉を回復しました。まさしく、花は散っても、時が来るとまた花を咲かせます。東日本大震災を受け、被災地の復興を支援するとして制作されたこのドラマでしたが、新島八重という女性の人生を通して伝えたかったのは、この言葉だったのでしょうね。きっとまた、花を咲かせる・・・と。


 1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。今年は最後までレビューを続ける自信はなかったのですが、なんとか完走出来ました。年内には総括を起稿したいと思っています。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-17 22:41 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(4)  

八重の桜 第48話「グッバイ、また会わん」 ~新島襄の最期~

 明治22年(1889年)10月12日、同志社大学設立のために奔走していた新島襄は、その募金活動のため東京に向かいます。前回の上京時には妻の八重も同行しましたが、このときは折り悪く、襄の実母・とみが病に臥せており、その看病のため、やむなく八重は京都に残ります。襄が余命いくばくもないことを医師から告げられてから1年が過ぎていましたが、その襄を単身上京させるのは、八重は心配でたまらなかったでしょうね。そしてその心配は、現実のものとなります。

 京都を発って1ヶ月半ほど経った11月末、募金活動のため訪れていた群馬県前橋にて、襄はとつぜん腹痛を訴えます。医師の診断は胃腸カタル。襄はいったん東京にもどって療養しますが、病状はいっこういに回復の兆しが見えず、事態を重く観た徳富蘇峰が温暖の地への転地療養を勧め、12月末、神奈川県大磯の百足屋(むかでや)旅館のはなれに移ります。ここが、襄の終焉の地となります。

 年が明けた明治23年(1890年)1月11日、再び激しい腹痛が襄を襲います。それでも襄は、モルヒネ注射を打ちながら各方面に手紙を書き続けていたそうですが、17日付の手紙が絶筆となります。18日朝に容態が急変。医師の診断は急性腹膜炎でした。翌19日には、八重のもとに病状急変の電報が届きます。知らせを受けた八重はすぐさま大磯へ向かい、20日夜遅く百足屋旅館に到着します。八重に電報が打たれたことを知っていた襄は、三ヶ月ぶりに再会した八重の顔を見てこう言ったといいます。
「今日ほど1日が長かったことはない」と。
この言葉を、八重は終生忘れませんでした。

 八重が到着して間もなく、自らの死を悟った襄は、八重と小崎弘道(襄の死後、同志社の二代目総長となる人物)の立会のもと、遺言を告げ始めます。筆記したのは徳富蘇峰でした。その内容は、同志社における教育の目的が主で、実に30枚にも及ぶものだったそうです。この他にも、伊藤博文勝海舟大隈重信など個人にあてた遺書が残されているそうですから、襄の筆まめぶりは死ぬ間際まで続いていたようですね。

 そうして伝えるべきことをすべて伝えたあと、1月23日午後2時20分、襄は46年と11ヶ月の生涯を終えます。八重への最後の言葉としては、本話のタイトルとなっている「グッバイ、また会わん」という言葉が伝えられています。また、「わたしの死後、記念碑は建てないでほしい。1本の木の柱に“新島襄の墓”と書けば充分だ」とも告げたとか。46歳11ヶ月といえば、いまの私とまったく同じ歳。決して長いとは言えない生涯ですね。最後の瞬間を八重の左手を枕に迎えられたことが、せめてもの慰みだったでしょうか。

 臨終の場に立ち会った蘇峰は、八重の手をとって、こう告げたそうです。
 「私は同志社以来、貴女に対しては寔(まこと)に済まなかった。併(しか)し新島先生が既に逝かれたからには、今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て、私に交(つきあ)つて下さい。」
 かつて八重のことを“鵺”と揶揄し、師の妻としての八重の言動を好ましく思っていなかった蘇峰でしたが、今後は八重を先生同様に思うから、何事も自分を頼ってくれとの言葉。蘇峰はその言葉を終生守り続けます。その後八重は、襄の墓碑に揮毫してくれるよう勝海舟に依頼しますが、その仲立ちとなったのは蘇峰であり、また後年、八重自身の墓碑銘は、蘇峰の筆によるものでした。襄が八重のために残したいちばんの財産は、八重の後半生の最も良き理解者となった蘇峰だったかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-02 15:57 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第47話「残された時間」 ~新島襄の余命宣告~

 明治21年(1888年)7月、同志社大学設立に向けて奔走する新島襄は、かねてから親交のあった当時の外務大臣・大隈重信の官邸での募金集会に臨みます。その席には大隈をはじめ、前外務大臣の井上馨、第一国立銀行頭取の渋沢栄一、三菱社社長の岩崎弥之助など、10数名の錚々たる顔ぶれが集まっていました。そこで大隈は、襄の進める事業を一同に紹介し、資力のある人は率先して慈善行為するよう促したそうです。その後、襄は日本で始めての私立大学設立の精神を述べ、その熱意に心動かされた一同は次々に寄付を申し出、3万1千円もの大金の寄付の確約を得ることができました。

 そして同じ年の11月、襄は徳富蘇峰の協力を得て作成した「同志社大学設立の旨意」を、20誌以上の新聞や雑誌に掲載します。これが大きな反響を呼び、同志社大学設立の気運がますます高まります

 大学設立の明るい兆しがようやく見え始めましたが、激務の過労が祟ってか、襄の身体は次第に衰えはじめます。襄が大隈を介して多額の寄付金を得た同じ頃、担当医は妻の八重に、「襄の心臓は皮が薄くなっており、いつ破れてもおかしくない。今のうちに大事なことを聞き取っておくように」と告げられます。この宣告に八重は激しく動揺しますが、このときから、八重の献身的な看病がはじまります。

 襄の身体が心配でならない八重は、寝ずの看病になることもしばしばだったようで、ドラマにもあったように、襄の顔に手を当て、その寝息を確認することもたびたびあったそうです。ここまでされると、逆に襄のほうが八重の健康を心配し、「自分はまだ死なないから、安心して寝てほしい。心配し過ぎで睡眠不足となり、貴女に健康を損なわれると、たいへん困る。だから安眠してほしい。」と諭したそうです。ふたりがいかに互いを気遣いう夫婦であったかがわかります。

 襄はたいそう筆まめだったそうですが、八重はその筆まめぶりも身体に障ると思い、ペン便箋を取り上げてしまうこともあったそうです。そのため襄は、八重の監視を見計らってペンを走らせますが、それも八重はお見通しだったようで、すぐに止めさせられてしまったとか。そんな八重の強引さに辟易した襄は、この当時、辣腕ぶりで知られて警視総監の三島通庸に喩え、「三島総監」と呼んだそうです。よほど八重の監視は厳しかったのでしょうね。

 一見、微笑ましくすら思える二人の夫婦仲のエピソードですが、いずれも余命宣告を受けてからのエピソード。二人の絆が深ければ深いほど、そう遠くない未来に訪れるであろう永遠の別れに、心を痛めていたに違いありません。襄がこの世を去るのは、余命宣告を受けてから1年半後のことでした。


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by sakanoueno-kumo | 2013-11-25 19:16 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第42話「襄と行く会津」 ~岐阜事件と八重と襄の里帰り~

 明治15年(1882年)4月6日、自由党総裁の板垣退助が岐阜の中教院岐阜の中教院で暴漢に襲われます。世にいう「岐阜事件」です。このとき板垣が叫んだといわれる「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、あまりにも有名ですね。ドラマでは、「わしが死んだち、自由は死なんぜよ!」と、土佐弁で叫んでましたが、たしかに、こっちのほうが信憑性があります。ただ、この言葉、本当に板垣が発したかどうかは微妙のようです。一説には、このとき横にいて暴漢を押さえつけた、同じ自由民権家の内藤魯一が叫んだ言葉で、その内藤が、板垣が叫んだことにしたともいわれていますし、その他も諸説あるようです。その真相はわかりませんが、結局は板垣は死なず、自由も死にませんでした。

 同じ年の夏、新島襄八重は、それぞれの故郷である安中会津に里帰りします。といっても、その目的は伝道活動でした。襄は、前年に山本覚馬の娘・みねと結婚した伊勢時雄(横井時雄)徳富蘇峰とともに、中山道を東へ徒歩で旅します。八重は襄とは別行動で、みねを連れて神戸から海路にて横浜へ向かい、安中を目指しました。

 襄たち中山道組の一行は、道中に立ち寄った長野県の「寝覚の床(ねざめのとこ)」で、名物蕎麦の大食い対決をおっ始めます。襄は無類の蕎麦好きだったそうです。のちの襄自身が八重の語ったところによれば、襄が12杯で蘇峰が11杯だったそうで、襄の勝ちだったとか。一方、蘇峰が残した記録によれば、襄が9杯食べたのに対して蘇峰は9杯半食べて、負けた襄が2人分の蕎麦代を払ったとあります。結局のところ勝負の真相は、いまとなっては歴史の闇の中・・・って、どっちが勝とうがどうでもいい話ですけどね(笑)。いずれにせよ、双方自分が勝ったと主張しているところが、なんとも滑稽で可愛くもあるエピソードです。

 そんなこんなで、京都を出発してから1週間後に安中に着いた襄たちは、先に着いていた八重たちと合流します。そこで1周間ほど滞在したあと、いよいよ八重とみねの故郷、会津に向かいます。襄や時雄はもちろん初めて、八重とみねにとっては12年ぶりの会津でした。故郷の景色を目にしたときの感情は、えも言われぬ思いだったに違いありません。ドラマのように、いろんな思いがこみ上げて、過去の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡ったことでしょうね。

 「大事なものは皆、ここにあったんです。」

 山本家の角場跡があったかどうかはわかりませんが、未だ会津戦争の爪痕が残る故郷の姿を目の当たりにして、筆舌に尽くしがたい思いだったことでしょう。

 「必ず蘇ります・・・八重さんたちの美しい故郷は。」

 襄の言葉どおり、やがて会津は復興を遂げるのですが、その約140年後に、かつてない天災人災に襲われようとは、ゆめゆめ思わなかったことでしょう。

 みねの母・うらと再会したという記録は残っていません。つまり、本話の設定はドラマオリジナルの創作というわけですが、でも、会わなかったという記録もないわけですから、会ったかもしれません。ていうか、会っててほしいですね。この数年後、みねは短い生涯を終えることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-21 23:22 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第37話「過激な転校生」 ~熊本バンドと悪妻・八重~

 熊本バンドが登場しましたね。「バンド」とは、キリスト教を信仰し、その布教と教育活動をする結盟集団のこと。彼らは明治4年(1871年)に創設された熊本洋学校の出身者たちで、アメリカ人のリロイ・ランシング・ジェーンズという軍人講師から学び、洗礼を受けていました。熊本は以前から、横井小楠らの影響もあって西洋の知識を学ぶことには先進的な考えがありましたが、キリスト教にはまだまだ寛容ではありませんでした。

明治9年(1876年)、熊本洋学校の生徒35名が花岡山で集会を開き、キリスト教によって日本を導こうという奉教趣旨書に署名、誓約します(花岡山事件)。ところが、これが世間から大きな反発を買い、結果、熊本洋学校は廃校、ジェーンズも解雇になります。行き場を失った生徒たちのために、ジェーンズは同志社英学校で受け入れてほしいと手紙を書き、その要請を受けた新島襄は受け入れを快諾します。ところが、これが襄にとって思わぬ試練となるんですね。その理由は、彼ら熊本バンドが求める教育レベルにありました。

 熊本バンドと同志社の学生たちとの学力の差は歴然たるものでした。熊本バンドの面々は熊本洋学校時代にジェーンズから英語での授業を受けており、日本語での講義で英訳するといった同志社の授業のレベルに不満を覚えます。現代の学力でいえば、中学生と大学生が一緒に授業を受けているようなものだったでしょうか? 不満が出るのはやむを得ないことだったでしょうね。やがてその不満は校長である襄に向けられました。成績優秀な生徒に教師が軽んじられるという、学校としての秩序を崩しかねないこの状況を、襄はどのように克服したのでしょうか。

 不満を募らせた熊本バンドの面々は、襄に同志社の改革案を提示します。この改革案は、彼らから相談を受けたジェーンズのアドバイスだったそうです。ジョーンズ曰く、「不満があるならば、まず自分たちで改革しなさい」と。同志社を辞めようとまで考えていた彼らは、ダメ元で襄に改革案を示しますが、これを受けた襄は大いに喜び、彼らの提案をすんなり取り入れたそうです。学校運営に試行錯誤していた襄にとっては、彼らの提案は願ってもないことだったのかもしれません。自分たちの意見など聞き入れられないと思っていた熊本バンドの面々は、襄の懐の深さに感服し、同志社英学校に残ることを決意しました。襄の人間性が彼らの心を掴んだんですね。ある意味、教師のあるべき姿といえるかもしれません。

 熊本バンドと八重の関係も芳しくなかったようですね。ドラマ中、徳富蘇峰が八重のことを鵺(ぬえ)と呼んでいましたが、実際にもそうあだ名していたと後年の蘇峰が語っています。鵺とは、平安時代に源頼政が討ち取ったと伝えられる伝説の怪物で、頭はで、胴は、尾は、手足はという正体不明のバケモノのことです。つまり、八重はバケモノだと言うわけですね。というのも、この頃の八重の格好は、衣服こそ和装であったものの、頭には西洋帽子を被り、を履いていました。当時、政府は文明開化の名のもとに洋式化を推進しましたが、明治も10年ほどしか経過していないこの頃では、まだまだ日本人のほとんどが和服であり、とくに洋装する女性は皆無でした。そんななか、和洋折衷の奇妙な格好をする八重は、まさしく鵺というあだ名がピッタリだったのでしょうね。

 八重への批判は服装だけでなく、その振る舞いも攻撃の対象となりました。夫を「ジョー」呼び捨てにする。夫と人力車に相乗りする。それも、襄が手を差し伸べて八重を先に乗せている。街なかを夫と並んで歩く。などなど、レディーファーストの欧米社会では当たり前の行為ですが、男尊女卑の日本では驚天動地の光景だったのでしょう。もちろん、これらはすべて襄が望んでいたことでしょうが、学生の彼らの目には悪妻としか映らなかったようですね。徳富蘇峰はその自伝で、当時のことをこう回顧しています。

 「新島先生夫人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつかず、所謂る鵺(ぬえ)の如き形をなしてをり、且つ我々が敬愛してゐる先生に対して、我々の眼前に於て、余りに馴れ々しき事をして、これも亦た癪にさはった」

 襄はその人柄で、熊本バンドの面々の心を瞬時に掴みましたが、八重と彼らの対立関係はずいぶんと続いたようです。蘇峰と八重がお互いをわかりあったのは、襄の死後だったとか。ドラマでは、早くも心通じあったような感じでしたけどね。秀才で自尊心の高い面々だったから、なおさら自己主張の強い八重とはそりが合わなかったのでしょうね。それにしても、鵺とは上手くあだ名したものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-19 00:02 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(3)  

八重の桜 第36話「同志の誓い」 ~新島襄と八重の結婚~

 八重新島襄が結婚したのは明治9年(1876年)1月のことでした。二人を引き合わせたのは、ドラマのとおり京都府大惨事の槇村正直だったようです。木戸孝允の紹介で襄の学校設立の後ろ盾となっていた槇村は、京都で信用を得るためにも襄と日本人女性を結婚させたほうがいいと考え、あるとき、どのような女性が好みかと尋ねたそうです。すると襄は、こう答えたとか。
 「亭主が東を向けと命令すれば三年でも東を向いている東洋風の婦人は御免です」と。

 いうまでもなく当時は、夫に従順で自己主張をしないのが女性の美徳とされていました。いわゆる「三歩下がって夫の影を踏まず」ってやつですね。男尊女卑と漢字で書けば、ずいぶんと女性が虐げられて苦しめられていたように思いがちですが、当時の女性にしてみれば、それが当たり前だったわけで、とくに虐げられている思いはなく、むしろ、自己主張をする自立した女性は、男性からだけではなく、女性からも白眼視されていました。しかし、襄は慎ましやかな日本女性よりも、自己主張をする女性らしからぬ女性を妻として望んでいました。もちろん、これが西洋での暮らしからきた発想であったことは、いうまでもありません。

 襄の望みを聞いた槇村が、山本覚馬の妹である八重を思い出したであろうことは想像に難しくありませんね。槇村は、すぐさま八重の存在を襄に告げたそうです。女紅場のことで次々に難しい問題を持ち込んできたり、何度となく補助金の交付を陳情してくる八重には、槇村自身ほとほと手を焼いていたようです。そんな八重こそ、襄の望む女性像にピッタリだと。その分析、間違ってはいなかったようですね。

 かくして、明治8年(1875年)10月に婚約した襄と八重は、翌年の1月3日に結婚式をあげます。ドラマでも言っていましたが、日本で初めてのキリスト教式の結婚式だったそうです。しかし、そこまでの道のりは決して平らなものではありませんでした。

 覚馬の強力なバックアップのもと学校設立に奔走していた襄でしたが、キリスト教主義の学校設立への風当たりは想像以上に強く、とくに仏教徒を中心とした猛烈な反対運動が起こります。全国の寺院の総本山が集まる京都に、つい数年前まで禁止されていた耶蘇教の学校を設立しようというのだから、当然のことだったでしょうね。京都にキリスト教の学校をつくるなんて、当時、比叡山を琵琶湖に投げ込むくらい不可能といわれたそうです。そんな世論のなか、当初は好意的だったはずの槇村が次第に手のひらを返し始め、学校設立を許可するにあたって、聖書を教えないという条件を提示します。京都府大惨事という立場にありながらも、京都で仏教徒を敵に回すと、何かと仕事がやりにくくなるといった理由があったんでしょうね。槇村としては、やむを得ない条件だったのでしょうが、襄にしてみれば、はしごを外された形となります。

 そして、その煽りは八重のもとにも降りかかります。襄と婚約した直後、八重は女紅場を解雇処分となりました。これも槇村の仕業だったようです。八重が女紅場でキリスト教を教えることで、親たちが娘を退学させてしまうのではと危惧したようです。生徒に聖書を配ったことがきっかけだったようですね。たしかに保護者からの反発は激しかったようで、これも、槇村にとってはやむを得ない処分だったのかもしれません。4年ほど勤務していた女紅場を思わぬかたちで追われることになった八重でしたが、このとき八重は襄にこういったそうです。
 「いいのよ、これで福音の真理を学ぶ時間がもっととれるわ」と。
 そんな八重のことを、襄はアメリカの母と慕うハーディー夫人に宛てた手紙でこう評しています。
 「彼女はいくぶん目の不自由な兄に似ています。あることをなすのが自分の務めだといったん確信すると、もう誰をも恐れません。」 
 この一件で襄は、あらためて、八重こそ自分の妻にふさわしいと思ったかもしれませんね。さらに襄は、同夫人への手紙のなかでこう書いています。
 「彼女は決して美人ではありません。しかし、私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人だということです。私にはそれで十分です」
(She is not handsome at all She is a person who does handsome)

 この手紙から、八重の代名詞である「ハンサム・ウーマン」という言葉が生まれたそうです。

 八重と襄は、夫婦である前から、まさしく「同志」だったんですね。




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by sakanoueno-kumo | 2013-09-09 17:55 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第34話「帰ってきた男」 ~新島襄と八重の出会い~

 前話で八重川崎尚之助の涙の別れが描かれたと思ったら、本話では早くも新島襄と急接近でしたね。なんとも節操のない話のようにも感じますが、実際にも、八重が襄と再婚したのは、尚之助の死から間もなくのことだったようです。偶然というには出来すぎの話ですね。八重の再婚は、兄・山本覚馬の後押しだったのでしょうが、尚之助の死も少なからず影響していたと考えても、無理はないかもしれません。

 ここまで当ブログでは、新島襄という人物にまったくふれてこなかったので、ここで少し、襄の人となりについて簡単に述べてみたいと思います。

 新島襄は、天保14年(1843年)に上州安中藩板倉家で祐筆を務める新島民治の長男として生まれます。幼名は七五三太(しめた)。八重の2歳上、尚之助の7歳下になります。七五三太という名前は、女子が4人続いたあとに生まれた待望の男子だったため、祖父が思わず「しめた!」と叫んだことから命名されたという説があるそうですが(ドラマでもそう言ってましたね)、いかがなものでしょうね。

 板倉家は三万石の小藩でしたが、歴とした譜代大名でした。その江戸屋敷で育った襄は、黒船来航から3年後の安政3年(1856年)に元服し、藩の命を受けて蘭学を学び始めます。オランダ語を学ぶことで海外情勢への関心を深めた襄は、さらに万延元年(1860年)からは幕府の軍艦教授所航海術を学び、さらにさらに、文久3年(1863年)には英語を学びはじめます。絵に描いたような秀才君だったわけですね。

 やがて襄は、英語を学ぶなかで聖書にふれ、アメリカに憧れを抱くようになります。そして元治元年(1864年)6月14日、箱館に停泊していたアメリカの商船ベルリン号に密かに乗り込み、日本を出国しました。言うまでもなく、当時、海外渡航重罪でしたが、それでも、海外への憧れの気持ちを抑えられなかったのでしょうね。このあたりの行動力は、ただの秀才君ではなかったようです。

 箱館を出てから約1年が経過した慶応元年(1865年)6月、憧れのアメリカの地に降り立った襄は、密航船の船主夫妻の援助を受けてフィリップス高校に入学します。その在学中に洗礼を受け、卒業後はアーモスト大学に入学し、理学士の称号を得ます。これは日本人初の学士の学位取得だったそうです。その後、アンドーヴァー神学校に入学し、キリスト教伝道のための教育を受け、学業を終えたのは明治7年(1874年)のことでした。実に充実した9年間だったわけですが、何の後ろ盾もない密入国者の襄が、これほどまでの充実したアメリカでの生活を過ごせたのは、熱心なキリスト教の信仰心と、彼の人柄によるものだったでしょうね。やはり、ただの秀才君ではありません。

 襄が学業三昧の生活を送っていた頃、日本では幕府が倒れ、明治政府が誕生していました。その明治政府の首脳たちで形成された使節団(岩倉使節団)が明治5年(1874年)にアメリカを訪れ、襄は彼らの通訳を務めることになります。使節団に同行してアメリカだけでなくヨーロッパ諸国への見聞も広げた襄は、その間、副使の木戸孝允からの厚い信任を得ます。このとき得た人脈が、のちの同志社創立の際に大いに役立ちます。

 襄が帰国したのは、明治7年(1874年)11月のことでした。その目的は、宣教師の一人として日本でキリスト教の布教活動を行うためです。江戸時代より禁止されていたキリスト教は解禁となり、日本語を話せる宣教師が求められていました。それと、もうひとつの目的が、キリスト教と近代科学を教える学校の創立だったのです。当時、大阪にいた木戸は、襄の学校創立に全面的にバックアップすることを約束してくれますが、大阪では思うようにことが運べず、京都府大惨事の槙村正直の後ろ盾でもあった木戸は、襄に槙村を紹介します。そこで、槇村の知恵袋的存在だった山本覚馬と知り合うんですね。かねてから西洋文明に明るく、キリスト教にも好意的だった覚馬と襄が意気投合したのは、当然のことだったといえるでしょうか。その後、覚馬は襄の学校創立に熱心に協力します。

 その覚馬の妹である八重と結婚することになる襄ですが、二人が最初に出会ったのは、覚馬や槇村の紹介ではなく、ドラマにあったように、八重が聖書を習いに通っていた宣教師・ゴードンの家だったようです。ある日、八重がいつものようにゴードン宅を訪れたところ、玄関で靴を磨いていた一人の男がいました。その男こそ襄だったわけですが、八重は彼をただのボーイだと思い、別に挨拶もしなかったそうです。あとでゴードン夫人から襄を紹介されて、ボーイではなかったことを知るわけですが、これが、二人の最初の出会いだったと、後年の八重が語っています。ってか、たとえボーイでも挨拶ぐらいしろよ・・・と、思わなくもないですが(笑)。

 八重が井戸の上に敷いた板の上に座っていたシーンがありましたが、あれも実話だったようで、後年の襄が語っていたエピソードだそうです。井戸の上に座れば確かに涼しいでしょうが、板が折れたら無事ではすみません。襄が覚馬にそのことを話したところ、「どうも妹は大胆なことをして仕方がない」と嘆いたとか。八重は兄のことを心からリスペクトしていましたが、だからといって兄のいうことをすべて聞いていたわけでもなかったようですね。覚馬が八重の行動に手を焼いていた様子がうかがえるエピソードです。

 そんな八重と襄が結ばれるのは明治9年(1876年)1月のこと。二人を結婚させたのは兄・覚馬だったでしょうが、結婚前のエピソードなどがこうして残っているところから見ても、決してさせられた結婚ではなかったようですね。生来の秀才君と根っからのお転婆娘の二人。一見、まったく釣り合いそうもない気がする二人ですが、かたや国禁を犯しての密航を実行し、かたや機関銃を肩に男性に混じって戦うという、大胆不敵という点においていえば、似たもの同士だったのかもしれませんね。二人の接近は必然だったのかもしれません。ちょっと、尚之助が気の毒な気がしないでもないですが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-29 22:55 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

八重の桜 第31話「離縁のわけ」 ~挙藩流罪の斗南藩~

 明治2年(1869年)末に待望の御家再興となり、会津藩斗南藩として生まれ変わりましたが、23万石あった所領は3万石に大幅減封。藩士全員を移住させるのは到底無理なことでした。それでも、約半分の藩士が移り住んだといいますから、財政が成り立たないのは当然です。さらに、斗南藩の所領の大半を占める下北半島の地は、火山灰土の風雪厳しい不毛の土地で、実際には石高3万石にはまったく及ばず、せいぜい7千石程度だったといいます。

 斗南藩大惨事として幼君・松平容大をサポートしていた山川大蔵は、懸命に農地開墾施策を展開しますが、慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず、飢えと寒さで病死者が続出します。斗南藩士の一人でのちに陸軍大将にまでのぼる柴五郎は、後年この斗南への転封を「挙藩流罪」と表現しています。彼らにとっては、籠城戦より過酷な日々だったといえるかもしれません。会津戦争は、明治になってもまだ終わっていませんでした。

 このとき八重は、斗南には移住せずに会津に残り、その後、ドラマのとおり米沢に出稼ぎに行っていたようです。鶴ヶ城開城後に東京にいた夫の川崎尚之助は、かつては東京でそのまま暮らしたといわれていたそうですが、近年に発見された史料によれば、斗南藩士として下北半島に移住していたようですね。いずれにせよ、八重と尚之助はこれ以後、会うことはなかったようです。なぜ八重が尚之助について行かなかったかはわかりませんが、このとき離縁したのは八重と尚之助だけではなく、多くの会津藩士らが斗南に移住するにあたって家族との縁を切っていました。離縁された妻たちは、知縁を頼って出稼ぎに行くなど苦しい生活を強いられることになるのですが、それでも、挙藩流罪の地に夫と連れ添うよりマシだったのかもしれません。八重と尚之助の離縁の理由は、そうせざるを得なかったということでしょうね。

 そんな斗南藩も結局は明治4年(1871年)の廃藩置県によって斗南県となり、わずか2年足らずで消滅。その後、財力のある弘前県に吸収合併され、さらに周辺の5県と合併して、現在の青森県となります。これを機に会津藩士は全国に散っていき、斗南での藩再建の思いは、彼らの無念とともに歴史の闇に消えていきます。でも、全国に散った会津スピリッツは決して消えることはありませんでした。八重もまた、そのひとりだったといえます。

 その八重の兄・山本覚馬が生きているという知らせが八重のもとに届いたのは、廃藩置県が行われた明治4年のことでした。誰よりも兄をリスペクトしていた八重にとっては、これ以上の朗報はなかったでしょう。父と弟を失い、故郷を離れ、夫と離別し、そんな筆舌に尽くし難い喪失感のなか、兄の生存の知らせは、彼女の心に一筋の光明を差し込み、生きる希望を与えたであろうことは想像に難しくありません。生まれ育った家を失ったいま、兄を訪ねて京都に向かう決意を固めたのは当然だったでしょうね。

 ところが、覚馬の妻・うらは八重たちの京都行きに同行しませんでした。娘のみねを八重と母・佐久に預け、自らは会津にとどまる道を選択します。それは、離縁を意味していました。その理由はわかりませんが、おそらくドラマのとおりだったのでしょうね。当時、覚馬には身の回りの世話をする時恵という女性がいて、その時恵との間に娘も生まれていました。9年前、覚馬が松平容保京都守護職就任に付き添って上京して以来、あまりにも長い別居生活が招いた必然だったかもしれませんね。それも、ただの9年間ではなく、互いに死の淵を生きた別居生活だったわけですから・・・。

 その後のうらは、、会津に戻ったとも、仙台または青森に移り住んだともいわれますが、正確なことはわからないそうです。その後、娘のみねと会うことがあったかどうかも、定かではありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-07 22:21 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

八重の桜 第29話「鶴ヶ城開城」  ~会津戦争終結~

 奥羽越列藩同盟の諸藩は次々と新政府軍に降伏していきましたが、9月に入ると、同盟結成の中心的役割を果たした大藩、米沢藩仙台藩までもが新政府軍の軍門に下ります。これで残った同盟国は会津藩庄内藩だけとなりました。孤立無援状態となった鶴ヶ城内の会津兵は懸命に抗戦を続けますが、新政府軍の攻撃力は増すばかりでした。ある史料によれば、城内の会津兵約3千人に対し、城を包囲した新政府軍は3万人ともいわれます。そんな圧倒的な兵力差のなか、9月14日の総攻撃では、約50門もの大砲が火を吹き、八重の記述によれば、午前6時から午後6時までの間に1208発も城内に着弾したといいます。

 山川大蔵の妻・トセが落命したのもこの日でした。本丸にある照姫の部屋を警護していたトセは、「焼き玉押さえ」で爆発に巻き込まれ、命を落とします。「焼き玉押さえ」とは、着弾しても爆発していない砲弾を、水に浸した着物や布団で包み、爆発を防ぐというもの。ドラマでは八重が婦女子たちに指南していましたね。これは言うまでもなく極めて危険な仕事でしたが、八重のように武器を持って戦えない婦女子たちにとっては、お役に立てる大きな役割でした。彼女たちも男たち同様、みごとに死に際を飾ることを常に考え、もしものときは自分を介錯してくれる女性をあらかじめ決めていたといいます。

 追い詰められた会津兵は、9月15日、最後の大規模な攻撃を仕掛けます。一瀬要人萱野権兵衛らに率いられた部隊は、兵糧補給路を絶とうとする新政府軍と、城南の一ノ堰村で激突します。この「一ノ堰の戦い」と呼ばれる戦闘で、八重の父・山本権八が命を落とします。享年60歳。鶴ヶ城に白旗が上がるわずか5日前の9月17日のことでした。

 この一ノ堰の戦いの裏側で、実は降伏・開城の手はずが進められていました。一時は降伏・恭順を主張した西郷頼母を領外へ追放するほど強硬姿勢を崩さなかった藩首脳部でしたが、9月に入ってその姿勢は軟化し始め、さらに、先に降伏した米沢藩から降伏を促す書面が送られてきたことも相まって、とうとう、降伏論で固まります。そして、一ノ堰の戦いが行われていた15日には、秋月梯次郎手代木直右衛門が米沢藩の陣所に向かい、そこで米沢藩を介して新政府軍の陣所に護送され、19日、新政府参謀の板垣退助と会見、降伏交渉に入ります。

 降伏の嘆願を受けた板垣退助は、次のような条件を示します。

一、大旗に降伏の二文字を大書きし、追手門外に立てる。諸隊はこれを合図に発砲をやめる。それから一時間後に重役は礼服を着し、兵器を一切持たずに罷り出る。
二、肥後父子(容保・喜徳)、刀を小姓に持たせ、嘆願書を持参する。病気の場合は駕籠でよい。
三、肥後父子、出城の節は二十人ずつ随従、臣下は脱刀のこと。
四、城中の兵士は追々、出城苦しからず。
五、城中男幾人、女幾人、他邦脱走者幾人を、帳面に差し出すこと。
六、肥後家内へ随従の者は一人が五人、女子随従の儀は幾人でもよい。
七、十四歳以下と六十歳以上ならびに婦女子は城外に退いてよい。
八、男子は追々出城の上、猪苗代に移る。
九、城中滞在の患者は青木村(小田山西麓)に退く。


 そこには、これまで新政府軍が要求してきた松平容保斬首はありませんでした。もちろん誰もお咎め無しというわけにはいかないので、家老の萱野権兵衛がその責任を負って切腹するのですが(これは次週描かれるようですね)、会津藩にとっては、のめる条件を提示されたといえます。新政府軍にしてみれば、まだまだ基盤が不安定な新政府において、戦後の安定した政権運営のためにも、必要以上の遺恨を残したくないといった思いがあったかもしれませんし、あるいは、新政府軍も早く戦を終結させたかったのかもしれません。いずれにせよ、会津側にしてみれば、この寛大な条件をのまない理由はなく、20日に交渉がまとまり秋月らが帰城。22日に白旗が掲げられ、ここに、約1ヶ月続いた会津籠城戦は幕を閉じます。

 白旗の大きさは長さ三尺(約90cm)、幅二尺(約60cm)で、城中の女性たちが小布を縫い合わせて作ったものでした。その作業の指揮をとったのが照姫だったといいます。八重はその針仕事には加わっていなかったそうですが、晩年になっても、このときのことを思い出すと無念極まりない思いでいっぱいだったと語ったそうです。

 明日の夜は 何国(いずこ)の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ
 (明日の夜になれば、慣れ親しんだこの城を照らす月のあかりを、どこの国の誰かが眺めるのだろう)


 降伏前夜に、八重が三の丸の白壁にかんざしで刻みこんだといわれている歌です。あるいは辞世の句のつもりだったのかもしれませんね。弟が死に、そしてまた父を失い、兄はいまだ生死不明で、城を追われ、明日の運命もしれず、無念と不安の思いでいっぱいだったのでしょうね。そんな心の叫びがひしひしと伝わってきます。こののち会津の人々にとっては、籠城戦以上に過酷な日々が訪れようとしていました。


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by sakanoueno-kumo | 2013-07-23 22:34 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(5)