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八重の桜 第48話「グッバイ、また会わん」 ~新島襄の最期~

 明治22年(1889年)10月12日、同志社大学設立のために奔走していた新島襄は、その募金活動のため東京に向かいます。前回の上京時には妻の八重も同行しましたが、このときは折り悪く、襄の実母・とみが病に臥せており、その看病のため、やむなく八重は京都に残ります。襄が余命いくばくもないことを医師から告げられてから1年が過ぎていましたが、その襄を単身上京させるのは、八重は心配でたまらなかったでしょうね。そしてその心配は、現実のものとなります。

 京都を発って1ヶ月半ほど経った11月末、募金活動のため訪れていた群馬県前橋にて、襄はとつぜん腹痛を訴えます。医師の診断は胃腸カタル。襄はいったん東京にもどって療養しますが、病状はいっこういに回復の兆しが見えず、事態を重く観た徳富蘇峰が温暖の地への転地療養を勧め、12月末、神奈川県大磯の百足屋(むかでや)旅館のはなれに移ります。ここが、襄の終焉の地となります。

 年が明けた明治23年(1890年)1月11日、再び激しい腹痛が襄を襲います。それでも襄は、モルヒネ注射を打ちながら各方面に手紙を書き続けていたそうですが、17日付の手紙が絶筆となります。18日朝に容態が急変。医師の診断は急性腹膜炎でした。翌19日には、八重のもとに病状急変の電報が届きます。知らせを受けた八重はすぐさま大磯へ向かい、20日夜遅く百足屋旅館に到着します。八重に電報が打たれたことを知っていた襄は、三ヶ月ぶりに再会した八重の顔を見てこう言ったといいます。
「今日ほど1日が長かったことはない」と。
この言葉を、八重は終生忘れませんでした。

 八重が到着して間もなく、自らの死を悟った襄は、八重と小崎弘道(襄の死後、同志社の二代目総長となる人物)の立会のもと、遺言を告げ始めます。筆記したのは徳富蘇峰でした。その内容は、同志社における教育の目的が主で、実に30枚にも及ぶものだったそうです。この他にも、伊藤博文勝海舟大隈重信など個人にあてた遺書が残されているそうですから、襄の筆まめぶりは死ぬ間際まで続いていたようですね。

 そうして伝えるべきことをすべて伝えたあと、1月23日午後2時20分、襄は46年と11ヶ月の生涯を終えます。八重への最後の言葉としては、本話のタイトルとなっている「グッバイ、また会わん」という言葉が伝えられています。また、「わたしの死後、記念碑は建てないでほしい。1本の木の柱に“新島襄の墓”と書けば充分だ」とも告げたとか。46歳11ヶ月といえば、いまの私とまったく同じ歳。決して長いとは言えない生涯ですね。最後の瞬間を八重の左手を枕に迎えられたことが、せめてもの慰みだったでしょうか。

 臨終の場に立ち会った蘇峰は、八重の手をとって、こう告げたそうです。
 「私は同志社以来、貴女に対しては寔(まこと)に済まなかった。併(しか)し新島先生が既に逝かれたからには、今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て、私に交(つきあ)つて下さい。」
 かつて八重のことを“鵺”と揶揄し、師の妻としての八重の言動を好ましく思っていなかった蘇峰でしたが、今後は八重を先生同様に思うから、何事も自分を頼ってくれとの言葉。蘇峰はその言葉を終生守り続けます。その後八重は、襄の墓碑に揮毫してくれるよう勝海舟に依頼しますが、その仲立ちとなったのは蘇峰であり、また後年、八重自身の墓碑銘は、蘇峰の筆によるものでした。襄が八重のために残したいちばんの財産は、八重の後半生の最も良き理解者となった蘇峰だったかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-12-02 15:57 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第47話「残された時間」 ~新島襄の余命宣告~

 明治21年(1888年)7月、同志社大学設立に向けて奔走する新島襄は、かねてから親交のあった当時の外務大臣・大隈重信の官邸での募金集会に臨みます。その席には大隈をはじめ、前外務大臣の井上馨、第一国立銀行頭取の渋沢栄一、三菱社社長の岩崎弥之助など、10数名の錚々たる顔ぶれが集まっていました。そこで大隈は、襄の進める事業を一同に紹介し、資力のある人は率先して慈善行為するよう促したそうです。その後、襄は日本で始めての私立大学設立の精神を述べ、その熱意に心動かされた一同は次々に寄付を申し出、3万1千円もの大金の寄付の確約を得ることができました。

 そして同じ年の11月、襄は徳富蘇峰の協力を得て作成した「同志社大学設立の旨意」を、20誌以上の新聞や雑誌に掲載します。これが大きな反響を呼び、同志社大学設立の気運がますます高まります

 大学設立の明るい兆しがようやく見え始めましたが、激務の過労が祟ってか、襄の身体は次第に衰えはじめます。襄が大隈を介して多額の寄付金を得た同じ頃、担当医は妻の八重に、「襄の心臓は皮が薄くなっており、いつ破れてもおかしくない。今のうちに大事なことを聞き取っておくように」と告げられます。この宣告に八重は激しく動揺しますが、このときから、八重の献身的な看病がはじまります。

 襄の身体が心配でならない八重は、寝ずの看病になることもしばしばだったようで、ドラマにもあったように、襄の顔に手を当て、その寝息を確認することもたびたびあったそうです。ここまでされると、逆に襄のほうが八重の健康を心配し、「自分はまだ死なないから、安心して寝てほしい。心配し過ぎで睡眠不足となり、貴女に健康を損なわれると、たいへん困る。だから安眠してほしい。」と諭したそうです。ふたりがいかに互いを気遣いう夫婦であったかがわかります。

 襄はたいそう筆まめだったそうですが、八重はその筆まめぶりも身体に障ると思い、ペン便箋を取り上げてしまうこともあったそうです。そのため襄は、八重の監視を見計らってペンを走らせますが、それも八重はお見通しだったようで、すぐに止めさせられてしまったとか。そんな八重の強引さに辟易した襄は、この当時、辣腕ぶりで知られて警視総監の三島通庸に喩え、「三島総監」と呼んだそうです。よほど八重の監視は厳しかったのでしょうね。

 一見、微笑ましくすら思える二人の夫婦仲のエピソードですが、いずれも余命宣告を受けてからのエピソード。二人の絆が深ければ深いほど、そう遠くない未来に訪れるであろう永遠の別れに、心を痛めていたに違いありません。襄がこの世を去るのは、余命宣告を受けてから1年半後のことでした。


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by sakanoueno-kumo | 2013-11-25 19:16 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第44話「襄の遺言」 ~一国の良心~

 同志社大学にするため奔走していた新島襄でしたが、その一方で、肝心の同志社英学校で学ぶ学生たちの中途退学が目立ち始めます。その理由は、明治政府の定める徴兵制度にありました。政府は、官公立学校の学生にのみ兵役免除の特権を与え、私立学校の学生にはこれを認めませんでした。となれば、学生たちが官公立学校に転校したいと考えるのは無理もなかったでしょう。政府にしてみれば、官公立学校に優秀な人材を集めたいという思惑があったのかもしれませんね。あるいは、伊藤博文と対立して政府を追われた大隈重信東京専門学校(のちの早稲田大学)を開校したことも、政府を刺激したかもしれません。

 「官立大学は政府の意のままに人を育てる大学です。それに対抗しうる自立した私立大学が必要なのです。」

 ドラマでの襄の台詞ですが、まさしく襄の大学設立の趣旨はこの台詞どおりだったようですね。襄の「同志社大学設立の旨意」に、次のように記されています。

 「一国を維持するは、決して二三の英雄の力に非ず。実に一国を組織する教育あり、知識あり、品行ある人民の力に拠らざる可からず。是等の人民は一国の良心とも謂ふべき人々なり。而して吾人は即ち此の一国の良心とも謂ふ可き人々を養成せんと欲す。」

 「一国の良心とも謂ふ可き人々」・・・つまり、国の権力に左右されない民間人、国のチェック機能となれる人材、といったところでしょうか。これが、エリート官僚を養成する官学に対抗する私学の本来の教育理念だったんですね。官学のすべり止めになっちゃってる現代とは、ずいぶん違います(まあ、現代では私学からでも官僚になれますが)。

 そんな襄が、明治17年(1884年)4月、再び欧米に向けて旅立ちます。その表向きの理由は静養だったようですが、本来の目的は大学設立の資金集めだったようです。しかし、ドラマのとおり、同年8月、スイスのサンゴタール峠心臓発作を起こして倒れてしまいます。あるいは、日本にいた頃から兆候があったのでしょうか。幸いこのときは命を落とすまでには至らず事なきを得るのですが、襄自身は死を覚悟したようで、ドラマにあったように、八重と両親に宛てた遺書を記しています。

 「私の髪を一房切り取り、キリストの名において結ばれて、断つことのできない絆のしるしとして、京都にいる大切な妻に送って欲しい。」

 もちろん、それ以外にも同志社のことなど連連と綴っていたそうですが、襄の八重に対する愛情が伝わってくる一文ですね。

 実際に襄がこの世を去るのはこの6年後のことですが、その間、襄の遺言は30通あまりあるといわれています。それだけ死と背中合わせの晩年だったということでしょうが、襄はかなりの筆まめだったことがうかがえますね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-11-05 23:54 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第42話「襄と行く会津」 ~岐阜事件と八重と襄の里帰り~

 明治15年(1882年)4月6日、自由党総裁の板垣退助が岐阜の中教院岐阜の中教院で暴漢に襲われます。世にいう「岐阜事件」です。このとき板垣が叫んだといわれる「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、あまりにも有名ですね。ドラマでは、「わしが死んだち、自由は死なんぜよ!」と、土佐弁で叫んでましたが、たしかに、こっちのほうが信憑性があります。ただ、この言葉、本当に板垣が発したかどうかは微妙のようです。一説には、このとき横にいて暴漢を押さえつけた、同じ自由民権家の内藤魯一が叫んだ言葉で、その内藤が、板垣が叫んだことにしたともいわれていますし、その他も諸説あるようです。その真相はわかりませんが、結局は板垣は死なず、自由も死にませんでした。

 同じ年の夏、新島襄八重は、それぞれの故郷である安中会津に里帰りします。といっても、その目的は伝道活動でした。襄は、前年に山本覚馬の娘・みねと結婚した伊勢時雄(横井時雄)徳富蘇峰とともに、中山道を東へ徒歩で旅します。八重は襄とは別行動で、みねを連れて神戸から海路にて横浜へ向かい、安中を目指しました。

 襄たち中山道組の一行は、道中に立ち寄った長野県の「寝覚の床(ねざめのとこ)」で、名物蕎麦の大食い対決をおっ始めます。襄は無類の蕎麦好きだったそうです。のちの襄自身が八重の語ったところによれば、襄が12杯で蘇峰が11杯だったそうで、襄の勝ちだったとか。一方、蘇峰が残した記録によれば、襄が9杯食べたのに対して蘇峰は9杯半食べて、負けた襄が2人分の蕎麦代を払ったとあります。結局のところ勝負の真相は、いまとなっては歴史の闇の中・・・って、どっちが勝とうがどうでもいい話ですけどね(笑)。いずれにせよ、双方自分が勝ったと主張しているところが、なんとも滑稽で可愛くもあるエピソードです。

 そんなこんなで、京都を出発してから1週間後に安中に着いた襄たちは、先に着いていた八重たちと合流します。そこで1周間ほど滞在したあと、いよいよ八重とみねの故郷、会津に向かいます。襄や時雄はもちろん初めて、八重とみねにとっては12年ぶりの会津でした。故郷の景色を目にしたときの感情は、えも言われぬ思いだったに違いありません。ドラマのように、いろんな思いがこみ上げて、過去の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡ったことでしょうね。

 「大事なものは皆、ここにあったんです。」

 山本家の角場跡があったかどうかはわかりませんが、未だ会津戦争の爪痕が残る故郷の姿を目の当たりにして、筆舌に尽くしがたい思いだったことでしょう。

 「必ず蘇ります・・・八重さんたちの美しい故郷は。」

 襄の言葉どおり、やがて会津は復興を遂げるのですが、その約140年後に、かつてない天災人災に襲われようとは、ゆめゆめ思わなかったことでしょう。

 みねの母・うらと再会したという記録は残っていません。つまり、本話の設定はドラマオリジナルの創作というわけですが、でも、会わなかったという記録もないわけですから、会ったかもしれません。ていうか、会っててほしいですね。この数年後、みねは短い生涯を終えることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-21 23:22 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第40話「妻のはったり」 ~自責の杖事件~

 明治13年(1880年)春、同志社英学校でひと悶着が起きます。それは、学生たちによる授業ボイコットでした。ことの発端は、当時、学力別に分かれていた2クラスを、学校側が一方的に合併しようとしたことにありました。開校して5年が経とうとしていた同志社英学校でしたが、耶蘇教(キリスト教)を教える学校への風当たりはまだまだ厳しく、入学生の確保もままならない状態でした。そんな状況から、当時の同志社では本来の9月の入学にこだわらず、途中入学も認めていました。学校を経営していく上ではやむを得ない策だったのでしょう。ただ、当然のことながら、正規入学者と途中入学者では学力差が生じます。そのため、学生を上級組下級組に分けて授業を行っていました。

 しかし、ただでさえ学生の数が少ないなかで、クラスを分けて授業を行うのは効率的ではないとの意見が教師会で上がり、合理化を図るためクラスの合併を決定します。これに反発したのは上級組の面々。下級組のレベルに合わせた授業など御免だ!・・・と言わんばかりに、授業をボイコットするという抗議行動に出ます。より高いレベルを求めていた学生らにしてみれば、当然の主張だったかもしれませんね。この抗議行動の中心的存在だったのが、徳富蘇峰、蘆花兄弟でした。

 ボイコット発生時、出張により不在だった校長の新島襄は、戻ってくるなり懸命に学生たちを説得します。はじめは頑なだった学生たちでしたが、襄の熱意に心を動かされてか、間もなくボイコットをやめ、騒動は一応の決着をみます。しかし、これにて一件落着とはいきませんでした。というのも、ボイコットした学生たちを処罰せよとの意見が、同じ学生のなかからあがったのです。その主張の是非はともかく、学生が授業を無断欠席するというのは、同志社の校則違反でした。規則を破った学生を処罰するのは、当然のことです。

 襄は悩みます。該当の学生たちに罰を与えれば、ただでさえ不満を募らせている彼らのことだから、退学しないとも限らない。しかし、これを大目にみれば、校内の秩序が保てない。悩みに悩んだ末に襄は、4月13日の朝、礼拝で壇上に立ちます。そこで彼は、集まった学生たちを前にしてこう言ったそうです。
 「罪は教師にも生徒諸君にもない。全責任は校長の私にあります。したがって校長である私は、その罪人を罰します。」
 そう話し終わると襄は、右手に持っていたを振り上げ、自身の左手を叩き始めたそうです。何度も何度も激しく叩き続けたため、襄の左手は赤く腫れあがり(おそらく骨折してたでしょうね)、杖が折れてもなお叩き続ける襄の姿に、学生たちは心を動かされ、涙ながらに襄の自責を制止したそうです。有名な「自責の杖」事件ですね。

 多少の脚色はあるかもしれませんが、襄の自責に感銘した学生が折れた杖を宝物のように保管していたという話からも、だいたいは実話なんでしょうね。少々芝居がかった感がなきにしもあらずな襄の行動ですが、それでも、腫れ上がってもなお叩き続けるなど、常人にできることではありません。新島襄という人は、実はたいへん激情家だったのかもしれませんね。教え子たちの罪は、師である自分の罪・・・口で言うのは簡単ですが、なかなか実行できることではありません。自分のミスは部下の責任、自身の犯した罪は秘書がやったこと、などなど、現代の指導者たちとは正反対です。「指導」という名目で、教え子が自殺するまで理不尽な体罰を与えていたどこかの体育会系の教師とも、えら違いですね。この1世紀ほどで、指導者の質はすっかり低下してしまったようです。襄を真似ろとは言いませんが、かつてはこんな指導者がいたということを、とくに今の「先生」と呼ばれる職業の人は、知っておいてほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-08 22:21 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第37話「過激な転校生」 ~熊本バンドと悪妻・八重~

 熊本バンドが登場しましたね。「バンド」とは、キリスト教を信仰し、その布教と教育活動をする結盟集団のこと。彼らは明治4年(1871年)に創設された熊本洋学校の出身者たちで、アメリカ人のリロイ・ランシング・ジェーンズという軍人講師から学び、洗礼を受けていました。熊本は以前から、横井小楠らの影響もあって西洋の知識を学ぶことには先進的な考えがありましたが、キリスト教にはまだまだ寛容ではありませんでした。

明治9年(1876年)、熊本洋学校の生徒35名が花岡山で集会を開き、キリスト教によって日本を導こうという奉教趣旨書に署名、誓約します(花岡山事件)。ところが、これが世間から大きな反発を買い、結果、熊本洋学校は廃校、ジェーンズも解雇になります。行き場を失った生徒たちのために、ジェーンズは同志社英学校で受け入れてほしいと手紙を書き、その要請を受けた新島襄は受け入れを快諾します。ところが、これが襄にとって思わぬ試練となるんですね。その理由は、彼ら熊本バンドが求める教育レベルにありました。

 熊本バンドと同志社の学生たちとの学力の差は歴然たるものでした。熊本バンドの面々は熊本洋学校時代にジェーンズから英語での授業を受けており、日本語での講義で英訳するといった同志社の授業のレベルに不満を覚えます。現代の学力でいえば、中学生と大学生が一緒に授業を受けているようなものだったでしょうか? 不満が出るのはやむを得ないことだったでしょうね。やがてその不満は校長である襄に向けられました。成績優秀な生徒に教師が軽んじられるという、学校としての秩序を崩しかねないこの状況を、襄はどのように克服したのでしょうか。

 不満を募らせた熊本バンドの面々は、襄に同志社の改革案を提示します。この改革案は、彼らから相談を受けたジェーンズのアドバイスだったそうです。ジョーンズ曰く、「不満があるならば、まず自分たちで改革しなさい」と。同志社を辞めようとまで考えていた彼らは、ダメ元で襄に改革案を示しますが、これを受けた襄は大いに喜び、彼らの提案をすんなり取り入れたそうです。学校運営に試行錯誤していた襄にとっては、彼らの提案は願ってもないことだったのかもしれません。自分たちの意見など聞き入れられないと思っていた熊本バンドの面々は、襄の懐の深さに感服し、同志社英学校に残ることを決意しました。襄の人間性が彼らの心を掴んだんですね。ある意味、教師のあるべき姿といえるかもしれません。

 熊本バンドと八重の関係も芳しくなかったようですね。ドラマ中、徳富蘇峰が八重のことを鵺(ぬえ)と呼んでいましたが、実際にもそうあだ名していたと後年の蘇峰が語っています。鵺とは、平安時代に源頼政が討ち取ったと伝えられる伝説の怪物で、頭はで、胴は、尾は、手足はという正体不明のバケモノのことです。つまり、八重はバケモノだと言うわけですね。というのも、この頃の八重の格好は、衣服こそ和装であったものの、頭には西洋帽子を被り、を履いていました。当時、政府は文明開化の名のもとに洋式化を推進しましたが、明治も10年ほどしか経過していないこの頃では、まだまだ日本人のほとんどが和服であり、とくに洋装する女性は皆無でした。そんななか、和洋折衷の奇妙な格好をする八重は、まさしく鵺というあだ名がピッタリだったのでしょうね。

 八重への批判は服装だけでなく、その振る舞いも攻撃の対象となりました。夫を「ジョー」呼び捨てにする。夫と人力車に相乗りする。それも、襄が手を差し伸べて八重を先に乗せている。街なかを夫と並んで歩く。などなど、レディーファーストの欧米社会では当たり前の行為ですが、男尊女卑の日本では驚天動地の光景だったのでしょう。もちろん、これらはすべて襄が望んでいたことでしょうが、学生の彼らの目には悪妻としか映らなかったようですね。徳富蘇峰はその自伝で、当時のことをこう回顧しています。

 「新島先生夫人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつかず、所謂る鵺(ぬえ)の如き形をなしてをり、且つ我々が敬愛してゐる先生に対して、我々の眼前に於て、余りに馴れ々しき事をして、これも亦た癪にさはった」

 襄はその人柄で、熊本バンドの面々の心を瞬時に掴みましたが、八重と彼らの対立関係はずいぶんと続いたようです。蘇峰と八重がお互いをわかりあったのは、襄の死後だったとか。ドラマでは、早くも心通じあったような感じでしたけどね。秀才で自尊心の高い面々だったから、なおさら自己主張の強い八重とはそりが合わなかったのでしょうね。それにしても、鵺とは上手くあだ名したものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-19 00:02 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(3)  

八重の桜 第36話「同志の誓い」 ~新島襄と八重の結婚~

 八重新島襄が結婚したのは明治9年(1876年)1月のことでした。二人を引き合わせたのは、ドラマのとおり京都府大惨事の槇村正直だったようです。木戸孝允の紹介で襄の学校設立の後ろ盾となっていた槇村は、京都で信用を得るためにも襄と日本人女性を結婚させたほうがいいと考え、あるとき、どのような女性が好みかと尋ねたそうです。すると襄は、こう答えたとか。
 「亭主が東を向けと命令すれば三年でも東を向いている東洋風の婦人は御免です」と。

 いうまでもなく当時は、夫に従順で自己主張をしないのが女性の美徳とされていました。いわゆる「三歩下がって夫の影を踏まず」ってやつですね。男尊女卑と漢字で書けば、ずいぶんと女性が虐げられて苦しめられていたように思いがちですが、当時の女性にしてみれば、それが当たり前だったわけで、とくに虐げられている思いはなく、むしろ、自己主張をする自立した女性は、男性からだけではなく、女性からも白眼視されていました。しかし、襄は慎ましやかな日本女性よりも、自己主張をする女性らしからぬ女性を妻として望んでいました。もちろん、これが西洋での暮らしからきた発想であったことは、いうまでもありません。

 襄の望みを聞いた槇村が、山本覚馬の妹である八重を思い出したであろうことは想像に難しくありませんね。槇村は、すぐさま八重の存在を襄に告げたそうです。女紅場のことで次々に難しい問題を持ち込んできたり、何度となく補助金の交付を陳情してくる八重には、槇村自身ほとほと手を焼いていたようです。そんな八重こそ、襄の望む女性像にピッタリだと。その分析、間違ってはいなかったようですね。

 かくして、明治8年(1875年)10月に婚約した襄と八重は、翌年の1月3日に結婚式をあげます。ドラマでも言っていましたが、日本で初めてのキリスト教式の結婚式だったそうです。しかし、そこまでの道のりは決して平らなものではありませんでした。

 覚馬の強力なバックアップのもと学校設立に奔走していた襄でしたが、キリスト教主義の学校設立への風当たりは想像以上に強く、とくに仏教徒を中心とした猛烈な反対運動が起こります。全国の寺院の総本山が集まる京都に、つい数年前まで禁止されていた耶蘇教の学校を設立しようというのだから、当然のことだったでしょうね。京都にキリスト教の学校をつくるなんて、当時、比叡山を琵琶湖に投げ込むくらい不可能といわれたそうです。そんな世論のなか、当初は好意的だったはずの槇村が次第に手のひらを返し始め、学校設立を許可するにあたって、聖書を教えないという条件を提示します。京都府大惨事という立場にありながらも、京都で仏教徒を敵に回すと、何かと仕事がやりにくくなるといった理由があったんでしょうね。槇村としては、やむを得ない条件だったのでしょうが、襄にしてみれば、はしごを外された形となります。

 そして、その煽りは八重のもとにも降りかかります。襄と婚約した直後、八重は女紅場を解雇処分となりました。これも槇村の仕業だったようです。八重が女紅場でキリスト教を教えることで、親たちが娘を退学させてしまうのではと危惧したようです。生徒に聖書を配ったことがきっかけだったようですね。たしかに保護者からの反発は激しかったようで、これも、槇村にとってはやむを得ない処分だったのかもしれません。4年ほど勤務していた女紅場を思わぬかたちで追われることになった八重でしたが、このとき八重は襄にこういったそうです。
 「いいのよ、これで福音の真理を学ぶ時間がもっととれるわ」と。
 そんな八重のことを、襄はアメリカの母と慕うハーディー夫人に宛てた手紙でこう評しています。
 「彼女はいくぶん目の不自由な兄に似ています。あることをなすのが自分の務めだといったん確信すると、もう誰をも恐れません。」 
 この一件で襄は、あらためて、八重こそ自分の妻にふさわしいと思ったかもしれませんね。さらに襄は、同夫人への手紙のなかでこう書いています。
 「彼女は決して美人ではありません。しかし、私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人だということです。私にはそれで十分です」
(She is not handsome at all She is a person who does handsome)

 この手紙から、八重の代名詞である「ハンサム・ウーマン」という言葉が生まれたそうです。

 八重と襄は、夫婦である前から、まさしく「同志」だったんですね。




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by sakanoueno-kumo | 2013-09-09 17:55 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第34話「帰ってきた男」 ~新島襄と八重の出会い~

 前話で八重川崎尚之助の涙の別れが描かれたと思ったら、本話では早くも新島襄と急接近でしたね。なんとも節操のない話のようにも感じますが、実際にも、八重が襄と再婚したのは、尚之助の死から間もなくのことだったようです。偶然というには出来すぎの話ですね。八重の再婚は、兄・山本覚馬の後押しだったのでしょうが、尚之助の死も少なからず影響していたと考えても、無理はないかもしれません。

 ここまで当ブログでは、新島襄という人物にまったくふれてこなかったので、ここで少し、襄の人となりについて簡単に述べてみたいと思います。

 新島襄は、天保14年(1843年)に上州安中藩板倉家で祐筆を務める新島民治の長男として生まれます。幼名は七五三太(しめた)。八重の2歳上、尚之助の7歳下になります。七五三太という名前は、女子が4人続いたあとに生まれた待望の男子だったため、祖父が思わず「しめた!」と叫んだことから命名されたという説があるそうですが(ドラマでもそう言ってましたね)、いかがなものでしょうね。

 板倉家は三万石の小藩でしたが、歴とした譜代大名でした。その江戸屋敷で育った襄は、黒船来航から3年後の安政3年(1856年)に元服し、藩の命を受けて蘭学を学び始めます。オランダ語を学ぶことで海外情勢への関心を深めた襄は、さらに万延元年(1860年)からは幕府の軍艦教授所航海術を学び、さらにさらに、文久3年(1863年)には英語を学びはじめます。絵に描いたような秀才君だったわけですね。

 やがて襄は、英語を学ぶなかで聖書にふれ、アメリカに憧れを抱くようになります。そして元治元年(1864年)6月14日、箱館に停泊していたアメリカの商船ベルリン号に密かに乗り込み、日本を出国しました。言うまでもなく、当時、海外渡航重罪でしたが、それでも、海外への憧れの気持ちを抑えられなかったのでしょうね。このあたりの行動力は、ただの秀才君ではなかったようです。

 箱館を出てから約1年が経過した慶応元年(1865年)6月、憧れのアメリカの地に降り立った襄は、密航船の船主夫妻の援助を受けてフィリップス高校に入学します。その在学中に洗礼を受け、卒業後はアーモスト大学に入学し、理学士の称号を得ます。これは日本人初の学士の学位取得だったそうです。その後、アンドーヴァー神学校に入学し、キリスト教伝道のための教育を受け、学業を終えたのは明治7年(1874年)のことでした。実に充実した9年間だったわけですが、何の後ろ盾もない密入国者の襄が、これほどまでの充実したアメリカでの生活を過ごせたのは、熱心なキリスト教の信仰心と、彼の人柄によるものだったでしょうね。やはり、ただの秀才君ではありません。

 襄が学業三昧の生活を送っていた頃、日本では幕府が倒れ、明治政府が誕生していました。その明治政府の首脳たちで形成された使節団(岩倉使節団)が明治5年(1874年)にアメリカを訪れ、襄は彼らの通訳を務めることになります。使節団に同行してアメリカだけでなくヨーロッパ諸国への見聞も広げた襄は、その間、副使の木戸孝允からの厚い信任を得ます。このとき得た人脈が、のちの同志社創立の際に大いに役立ちます。

 襄が帰国したのは、明治7年(1874年)11月のことでした。その目的は、宣教師の一人として日本でキリスト教の布教活動を行うためです。江戸時代より禁止されていたキリスト教は解禁となり、日本語を話せる宣教師が求められていました。それと、もうひとつの目的が、キリスト教と近代科学を教える学校の創立だったのです。当時、大阪にいた木戸は、襄の学校創立に全面的にバックアップすることを約束してくれますが、大阪では思うようにことが運べず、京都府大惨事の槙村正直の後ろ盾でもあった木戸は、襄に槙村を紹介します。そこで、槇村の知恵袋的存在だった山本覚馬と知り合うんですね。かねてから西洋文明に明るく、キリスト教にも好意的だった覚馬と襄が意気投合したのは、当然のことだったといえるでしょうか。その後、覚馬は襄の学校創立に熱心に協力します。

 その覚馬の妹である八重と結婚することになる襄ですが、二人が最初に出会ったのは、覚馬や槇村の紹介ではなく、ドラマにあったように、八重が聖書を習いに通っていた宣教師・ゴードンの家だったようです。ある日、八重がいつものようにゴードン宅を訪れたところ、玄関で靴を磨いていた一人の男がいました。その男こそ襄だったわけですが、八重は彼をただのボーイだと思い、別に挨拶もしなかったそうです。あとでゴードン夫人から襄を紹介されて、ボーイではなかったことを知るわけですが、これが、二人の最初の出会いだったと、後年の八重が語っています。ってか、たとえボーイでも挨拶ぐらいしろよ・・・と、思わなくもないですが(笑)。

 八重が井戸の上に敷いた板の上に座っていたシーンがありましたが、あれも実話だったようで、後年の襄が語っていたエピソードだそうです。井戸の上に座れば確かに涼しいでしょうが、板が折れたら無事ではすみません。襄が覚馬にそのことを話したところ、「どうも妹は大胆なことをして仕方がない」と嘆いたとか。八重は兄のことを心からリスペクトしていましたが、だからといって兄のいうことをすべて聞いていたわけでもなかったようですね。覚馬が八重の行動に手を焼いていた様子がうかがえるエピソードです。

 そんな八重と襄が結ばれるのは明治9年(1876年)1月のこと。二人を結婚させたのは兄・覚馬だったでしょうが、結婚前のエピソードなどがこうして残っているところから見ても、決してさせられた結婚ではなかったようですね。生来の秀才君と根っからのお転婆娘の二人。一見、まったく釣り合いそうもない気がする二人ですが、かたや国禁を犯しての密航を実行し、かたや機関銃を肩に男性に混じって戦うという、大胆不敵という点においていえば、似たもの同士だったのかもしれませんね。二人の接近は必然だったのかもしれません。ちょっと、尚之助が気の毒な気がしないでもないですが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-29 22:55 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

八重の桜 キャスト

 2013年の大河ドラマは幕末から明治、大正、昭和を生き抜いた “ハンサムウーマン” 新島八重(山本八重)の生涯を描く『八重の桜』です。八重は、戊辰戦争の悲劇の象徴である会津藩の砲術指南の家に生まれ、白虎隊の戦いに代表される鶴ケ城の攻防戦では、男装して自らスペンサー銃を取って銃撃戦に参加したと伝えられる豪傑女性で、のちに「幕末のジャンヌ・ダルク」とか、「会津の巴御前」などと称されたそうです。

 維新後、のちに同志社大学の創始者となるアメリカ帰りの新島襄と結婚した八重でしたが、男尊女卑の世の中で、夫を「ジョー」と呼び捨てにしたり、夫より先に車に乗ったりしていたそうで、世間からは「悪妻」と評されたそうです。夫の死後は赤十字社の社員となり、日清戦争日露戦争時には篤志看護婦として従軍。戊辰戦争時にはスペンサー銃を取って政府軍と戦った彼女は、今度は従軍看護婦として戦場の後方支援をしました。その功績から、皇族以外の女性として初めて政府より叙勲を受けたそうです。そんな女傑の物語が、今年の大河ドラマ『八重の桜』です。

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主人公とその一族
山本八重→新島八重・・・・・・・・綾瀬はるか(少女期:鈴木梨央)
山本家
山本覚馬・・・・・・・・・・・・・西島秀俊
山本佐久・・・・・・・・・・・・・風吹ジュン
山本権八・・・・・・・・・・・・・松重豊
山本うら・・・・・・・・・・・・・長谷川京子
山本三郎・・・・・・・・・・・・・工藤阿須加
お吉・・・・・・・・・・・・・・・山野海
徳造・・・・・・・・・・・・・・・戸田昌宏
会津の人々
会津松平家
松平容保・・・・・・・・・・・・・綾野剛(幼少時:山下哲平)
照姫・・・・・・・・・・・・・・・稲森いずみ
松平容敬・・・・・・・・・・・・・中村梅之助
敏姫・・・・・・・・・・・・・・・中西美帆
会津藩士及びその家族
西郷家
西郷頼母・・・・・・・・・・・・・西田敏行
西郷千恵・・・・・・・・・・・・・宮崎美子
山川家
山川与七郎→山川大蔵・・・・・・・玉山鉄二
山川二葉・・・・・・・・・・・・・市川実日子
山川兵衛・・・・・・・・・・・・・山本圭
山川艶・・・・・・・・・・・・・・秋吉久美子
山川登勢・・・・・・・・・・・・・白羽ゆり
山川健次郎・・・・・・・・・・・・勝地涼
山川咲→山川捨松→大山捨松・・・・水原希子
山川美和・・・・・・・・・・・・・澤田汐音
山川常盤・・・・・・・・・・・・・信太真妃
神保家
神保修理・・・・・・・・・・・・・斎藤工
神保雪子・・・・・・・・・・・・・芦名星
神保内蔵助・・・・・・・・・・・・津嘉山正種
その他の会津藩士たち
佐川官兵衛・・・・・・・・・・・・中村獅童
萱野権兵衛・・・・・・・・・・・・柳沢慎吾
田中土佐・・・・・・・・・・・・・佐藤B作
林権助・・・・・・・・・・・・・・風間杜夫
横山主税・・・・・・・・・・・・・国広富之
梶原平馬・・・・・・・・・・・・・池内博之
秋月悌次郎・・・・・・・・・・・・北村有起哉
広沢富次郎・・・・・・・・・・・・岡田義徳
梁瀬三左衛門・・・・・・・・・・・山野史人
黒河内伝五郎・・・・・・・・・・・六平直政
古川春英・・・・・・・・・・・・・小市慢太郎
竹村幸之進・・・・・・・・・・・・東武志
小出鉄之助・・・・・・・・・・・・白石朋也
会津の女たち
中野竹子・・・・・・・・・・・・・黒木メイサ
日向ユキ・・・・・・・・・・・・・剛力彩芽
高木時尾・・・・・・・・・・・・・貫地谷しほり
高木澄江・・・・・・・・・・・・・宮下順子
江戸幕府
徳川家
一橋慶喜→徳川慶喜・・・・・・・・小泉孝太郎
徳川慶恕→徳川慶勝・・・・・・・・金子賢
徳川斉昭・・・・・・・・・・・・・伊吹吾郎
徳川慶篤・・・・・・・・・・・・・杉浦太陽
幕閣
松平春嶽・・・・・・・・・・・・・村上弘明
井伊直弼・・・・・・・・・・・・・榎木孝明
松平定敬・・・・・・・・・・・・・中村隼人
久世大和守・・・・・・・・・・・・津村和幸
幕臣
勝麟太郎→勝海舟・・・・・・・・・生瀬勝久
榎本釜次郎→榎本武揚・・・・・・・山口馬木也
朝廷
孝明天皇・・・・・・・・・・・・・市川染五郎
岩倉具視・・・・・・・・・・・・・小堺一機
三条実美・・・・・・・・・・・・・篠井英介
近衛忠煕・・・・・・・・・・・・・若松武史
中川宮・・・・・・・・・・・・・・小須田康人
薩摩藩
西郷吉之助→西郷隆盛・・・・・・・吉川晃司
大山弥助→大山厳・・・・・・・・・反町隆史
島津斉彬・・・・・・・・・・・・・林与一
大久保一蔵→大久保利通・・・・・・徳重聡
長州藩
吉田寅次郎→吉田松陰・・・・・・・小栗旬
桂小五郎→木戸孝允・・・・・・・・及川光博
久坂玄瑞・・・・・・・・・・・・・須賀貴匡
槇村正直・・・・・・・・・・・・・高嶋政宏
土佐藩
板垣退助・・・・・・・・・・・・・加藤雅也
京都の人々
大垣屋清八・・・・・・・・・・・・松方弘樹
小田時栄・・・・・・・・・・・・・谷村美月
新選組
斎藤一・・・・・・・・・・・・・・降谷建志
近藤勇・・・・・・・・・・・・・・神尾佑
土方歳三・・・・・・・・・・・・・村上淳
沖田総司・・・・・・・・・・・・・鈴木信二
永倉新八・・・・・・・・・・・・・水野直
藤堂平助・・・・・・・・・・・・・住吉晃典
諸藩の志士たち
佐久間象山・・・・・・・・・・・・奥田瑛二
宮部鼎蔵・・・・・・・・・・・・・宮内敦士
真木和泉・・・・・・・・・・・・・嶋田久作
その他の人々
川崎尚之助・・・・・・・・・・・・長谷川博己
新島七五三太→新島襄・・・・・・・オダギリジョー
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 主演の綾瀬はるかさんは大好きな女優さんですが、女傑とは180度逆のイメージの可憐な方だけに、新島八重という女性をどう演じるか見ものですね。『JIN~仁~』咲さんとは全く違った幕末の女性を見せてもらえそうで楽しみです。新島襄役のオダギリジョーさんは、写真で見る限りでは笑っちゃうほどイメージぴったりですね。「ジョー」という名がそのままなのも、偶然とはいえ面白いところです。ミスター大河俳優と言っても過言ではない西田敏行さんは福島県出身だそうで、今回の作品に臨む思いは並々ならぬものだろうと思います。あと、おそらく出番は少ないでしょうが、勝海舟役の生瀬勝久さん、徳川慶喜役の小泉孝太郎さん、佐久間象山役の奥田瑛二さんはハマリ役っぽいですね。興味深いのは西郷隆盛役の吉川晃司さん。正直いって「???」です。楽しみにしてみましょう。

 さて、当ブログでは毎年大河ドラマのレビューを全話起稿してきましたが、今年はおそらく不可能だと思います。というのも、私は今年の主人公である新島八重という女性のことをまったく知りませんでした。過去の白虎隊のドラマで機関銃を持って戦う女傑が登場することは知っていましたが、その女性が山本覚馬の妹で、のちに新島襄の妻となる女性だとはまったく知らなかった・・・。だいいち、新島襄という人物のことすらよく知りません。ドラマの制作発表があってから慌てて本を何冊か読みましたが、そんなにわか知識でウンチクを垂れるのは限界があります。それと、昨秋より個人的な事情でブログ更新の時間がなかなか作れなくなったという理由もあります。正直いって『平清盛』の後半は起稿がめちゃめちゃ重荷になってました。そこで今年は、無理をせずに自分のペースで、起稿したいと思ったときだけ更新しようと思います。だから文体も肩の力を抜いたものにしようかな・・・と。基本はドラマを楽しむためのブログですから。そんな気まぐれブログですが、よろしければまた覗いてやってください。今年もよろしくお願いします。


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by sakanoueno-kumo | 2013-01-04 03:22 | 八重の桜 | Trackback | Comments(4)