タグ:新田義貞 ( 20 ) タグの人気記事

 

太平記を歩く。 その122 「新田義貞首塚(滝口寺)」 京都市右京区

新田義貞の墓所は「その120」で紹介した福井県坂井市の称念寺にありますが、あちらの墓は胴塚で、京都嵯峨野にある小さな山寺・滝口寺の境内に、義貞首塚と伝わる墓石があります。


e0158128_17352260.jpg

境内入口です。

中央にNO PHOTOと書かれた立て札がありますが、これは、参拝料を払わない人は撮影禁止という意味で、ちゃんとお金を払ったわたしは撮影オッケーです。


e0158128_17411625.jpg

この苔むした墓碑が、新田義貞の首塚だそうです。


e0158128_17412076.jpg

燈明寺畷自刃した義貞の首は、越前国守護の斯波高経によって検められたあと、すぐさま京に運ばれ、都大路を引き回されたのち、陽明門近くに晒されたそうです。

それを見た義貞の最後の妻・勾当内侍は泣き崩れ、その日のうちに髪を剃り落して尼となり、かつてこの地にあった往生院で余生を義貞の菩提を弔うことに費やしたといいます。


e0158128_17412353.jpg

『太平記』が伝えるのはそこまでで、その後、晒された義貞の首がどうなったかは伝えられていません。

ここ滝口寺に伝わる伝承によれば、晒された義貞の首を妻の勾当内侍が盗み出し、秘かにこの場所に葬ったといいます。


e0158128_17412681.jpg
e0158128_17413032.jpg

たしかに、この説は真実味がありますよね。

足利尊氏は信心深い人で、一旦は晒した楠木正成の首を河内の親族の元に丁重に送り返したり、あれだけ確執があった後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の死後、その菩提を弔うために天龍寺を建立したりしています。

そんな尊氏が、最大のライバルだった義貞の首を、そのまま捨て置くとは思えないですよね。

もし、その妻が盗み出して葬ったとあらば、それが発覚したとしても、尊氏は見て見ぬふりをしていたんじゃないかと。


e0158128_17413407.jpg

義貞の墓所の側には、その妻の勾当内侍の供養塔があります。

勾当内侍は公家の出で、後醍醐天皇によって義貞のもとに降嫁されたと伝わります。


e0158128_17413825.jpg

『太平記』では、義貞の最期をこう評します。


「此の人、君の股肱として、武将の位に備わりしかば、身を慎み命を全うしてこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴いて、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極めとは云いながら、うたてかりし事共也」


「うたてかりし」とは「情けない」といった意味だそうで、要訳すると、

「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした。運が悪いというより、軽率である」

といった感じでしょうか?

つまり、「犬死」だとい言っています。

かなりの酷評ですね。


e0158128_17433018.jpg

新田義貞も足利尊氏も、源氏の中興の祖である源義家を祖先にもつ家系で、いわば同族でした。

共に鎌倉幕府瓦解の立役者であり、ライバル関係だった義貞と尊氏でしたが、建武の新政以後、朝廷に対して反旗を翻した尊氏を討伐する目的で官軍を率いたはずの義貞が、最期は足利氏から朝廷に抗う反乱軍というレッテルを貼られてしまい、無念の死を遂げてしまいます。

そんな義貞に対する後世の評価は微妙で、戦には強かったものの、鎌倉陥落後に大勢の武士に見限られたり、九州へ追い出した尊氏を追撃できなかったりしたことから、時代の趨勢が読めなかった武将とか、機を見るに敏という能力が足りなかったなど、その器量、能力に対しては酷評気味です。

同じく一貫して後醍醐天皇方に与して討死した楠木正成英雄扱いを受けているのに対し、なぜ義貞は微妙な評価になっちゃったんでしょうね。

客観的に見て、鎌倉幕府滅亡にもっとも尽力したのは義貞だったと思いますし、建武の新政以後、尊氏が反旗を翻したあとも、最も長く、足利方と互角に戦ったのは義貞でした。

後世の評価は、ちょっと、気の毒な気がしないでもないですね。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-09-13 23:37 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その121 「藤島神社」 福井県福井市

福井県福井市の足羽山にある藤島神社を訪れました。

ここの主祭神は新田義貞で、副祭神は弟の脇屋義助、息子の新田義顕・新田義興・新田義宗

「建武中興十五社」の一社で、旧社格は「別格官幣社」でした。


e0158128_20081454.jpg

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


e0158128_20114589.jpg

朱塗りの大鳥居をくぐると、長い石段が続きます。


e0158128_20114817.jpg

境内には車でも行けるのですが、ここはあえて石段を登ります。


e0158128_20141386.jpg
e0158128_20141631.jpg

藤島神社の創建は明治時代に入ってからだそうで、それほど古い神社ではありません。

「その119」で紹介した「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」に初代福井県知事が明治3年(1870年)に祠堂を作ったのが始まりで、明治9年(1876年)に「藤島神社」と名付けられ、その後、明治34年(1901年)にこの地に移り、現在に至ります。


e0158128_20142072.jpg

拝殿です。


e0158128_20164714.jpg

明暦2年(1656年)、義貞が自刃したと伝わる燈明寺畷を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然にを掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がこれを目にし、象嵌や「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定します。

その冑が、ここの神社に祀られいるというのですが・・・。


e0158128_20185853.jpg

ああ、あった!・・・たぶんこれかな?

ただ、無粋なことをいえば、この冑、現在の研究では戦国時代のものと鑑定されているそうです。


e0158128_20190205.jpg

新田氏家紋入り旗印


e0158128_20190528.jpg

この甲冑も、なんか新田氏と関係あるのでしょうか?

説明板がないので、わかりません。


e0158128_20200850.jpg

藤島神社は足羽山の北東麓にあるため福井市街が一望に出来ます。

気持ちのいい朝の景色でした。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-09-11 23:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その120 「新田義貞墓所(称念寺)」 福井県坂井市

前稿で紹介した燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地から8kmほど北上した坂井市にある称念寺に、新田義貞の墓があります。


e0158128_19394745.jpg
e0158128_19395197.jpg

山門の横には、「新田義貞公墓所」と刻まれた大きな石碑が。


e0158128_19410962.jpg

広い境内です。


e0158128_19441098.jpg

境内には、かつて「近衛中将新田義貞公贈位碑」と刻まれていた大きな石碑があるのですが、上の方の「近衛」の部分が欠けてしまっています。


e0158128_19441413.jpg

これは、昭和23年(1948年)に発生した福井地震の際に折れてしまった跡だそうで、その後も修理されることなくそのままになっているそうです。


e0158128_19471953.jpg

石碑の建つ場所から左(北)に目を向けると、境内の一画に森のような場所があり、そこに廟所と思われる唐門が見えます。


e0158128_19472282.jpg

ここが、新田義貞の墓所。

まるで天皇陵のような厳かさです。


e0158128_19532004.jpg

廟所のなかにある墓です。


e0158128_19532481.jpg

燈明寺畷で自刃した義貞の首は、すぐさま小黒丸城の斯波高経のもとに届けられますが、討ち取った敵兵は、その首が誰のものであるのがわからなかったといいます。

ところが、高経が首実検をしたところ、所持していた刀などから義貞の首と判明し、すぐさま時宗の僧8人を戦地に派遣して首なしの遺骸を収容し、ここ称念寺に運ばれて葬儀が行われたそうです。


e0158128_19532838.jpg

その後、義貞の首は朱の唐櫃に納められ、京の足利尊氏のもとに送られます。

そして都大路を引き回されたのち、陽明門近くに晒されたそうです。

ということは、つまり、ここ称念寺の墓は首なしの胴塚ってことですね。


e0158128_19533123.jpg

時代は下って江戸時代になると、徳川将軍家の先祖は新田義貞ということで、称念寺を大切に保護しました。

元文2年(1737年)には義貞の400回忌を行い、幕府は白銀100枚を寄進したと『徳川実記』に記されているそうです。

現在の墓石は、天保8年(1837年)の義貞500回忌の際に、福井藩主・松平宗矩が建立した高さ五輪石塔で、高さ約2.6mあります。


e0158128_19544216.jpg

墓石の裏手にある顕彰碑(?)です。

古くてところどころしか読解できませんが、最後に「天保十年」という文字が確認できます。

五輪石塔が建てられた2年後ですね。


e0158128_19591148.jpg

墓所とは別に、境内には義貞を慰霊する宝篋印塔もあります。


e0158128_19572103.jpg

詳しくはわかりませんが、「昭和十年七月」と刻まれており、おそらく昭和10年(1935年)に日本全国で行われた建武の中興600年祭に際して建てられた供養塔でしょう。


e0158128_20015161.jpg

あと、ここ称念寺は若き日の明智光秀ゆかりの地としても知られ、その伝承にまつわる松尾芭蕉の歌碑があるのですが、『太平記』とは関係ないので、また別の機会に。


e0158128_20015431.jpg

義貞の死は、南朝方にとっては決定的な打撃となり、その死後、義貞の息子らも戦乱に斃れ、時世は徐々に南朝方の劣勢へと傾いていくことになります。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-09-09 23:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その119 「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」 福井県福井市

福井市にある新田義貞戦没地と伝わる地を訪れました。

このあたりはかつて燈明寺畷といい、「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」として大正13年(1924年)に国の史跡に指定されています。


e0158128_18524479.jpg


敷地は公園整備されていて誰でも入れますが、一応、入口には門扉があり、厳かな雰囲気が漂います。


e0158128_18524793.jpg

門扉には、新田氏家紋の「一つ引」が。


e0158128_19140556.jpg

前稿、前々稿でもふれましたが、延元3年/建武5年(1338年)7月2日、足利方の大将・斯波高経が籠っていた小黒丸城を包囲していた新田義貞は、別動隊が攻めていた藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。


e0158128_19165508.jpg

ところが、同じく藤島城に加勢するため小黒丸城からも高経の重臣・細川出羽上鹿草彦太率いる300騎が出動しており、義貞率いる50騎とこの地で遭遇します。

事態はたちまち遭遇戦となりますが、、斯波方は援軍目的の出撃だったため弓矢の備えも十分であったのに対し、義貞方は偵察目的だったため武具の備えも不十分で、加えて兵力差も歴然としており、義貞方の兵は次々に敵の矢に倒れます。

やがて義貞も流れ矢眉間に刺さり、あっけなく討死します。


e0158128_19282890.jpg

『太平記』巻20「義貞自害事」は、このときの様子をこう伝えます。


「白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。」


e0158128_19283204.jpg

致命傷を負った義貞は観念し、自らを太刀で掻き切り、その首を深い泥の中に隠してその上に倒れたというのですが、眉間に矢が刺さったら、ほぼ即死だと思いますし、自分の首を自分で掻き切って隠すなんて、あり得ないというか・・・。


e0158128_19283609.jpg

また、『太平記』によると、敵兵に遭遇した際、義貞の家臣・中野藤内左衛門宗昌が、「千の弩は為廿日鼠不発機(千鈞もある石弓は、ハツカネズミ(けい鼠)を捕るために使用しない)」と言って義貞に落ち延びるよう誓願したといいます。

つまり、「総大将はこの程度の戦いに参戦してはいけない」という意味ですね。

しかし義貞は、「失士独免るゝは非我意。(部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意)」と言って宗昌の願いを聞き入れなかったといいます。

一見、義貞の行動は義に篤い武士道ともとれますが、『太平記』は、義貞の行動は軽率で、「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした」と、その死を「犬死」と評しています。

かなりの酷評ですね。


e0158128_19283903.jpg

時代は下って明暦2年(1656年)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然にを掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がこれを目にし、象嵌「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定。

その4年後には「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建て、以後、この地は「新田塚」と呼ばれるようになりました。

現在のこのあたりの住所も、福井県福井市新田塚町といいます。


e0158128_19284274.jpg

ただ、その出土した冑は、現在の研究では戦国時代のものと鑑定されているそうです。

現在は新田一族を祀る藤島神社が所蔵しています。


e0158128_19284778.jpg

大将を失った新田軍3万は一夜にして雲散霧消し、残った兵は僅か2000

弟の脇屋義助は府中(武生)へと兵を退かざるを得ませんでした。

この顛末をみると、やはり義貞の行動は軽率だったかもしれません。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-09-08 00:48 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その118 「藤島城跡(超勝寺)」 福井県福井市

前稿で紹介した小黒丸城跡から7kmほど東にある藤島城跡を訪れました。

現在は超勝寺という寺院が立ちます。


e0158128_18383480.jpg

ここも、越前国守護の斯波高経が築いたといわれる足羽7城のひとつと伝わります。


e0158128_18383836.jpg

山門の横には「藤島城址」と刻まれた石碑と、説明板が設置されています。


e0158128_18384210.jpg

『太平記』巻20にある「足羽七城の戦い」の中心となったのが、小黒丸城とここ藤島城でした。

小黒丸城には足利方の大将・斯波高経が籠って全軍の指揮を執り、ここ藤島城には、一度は新田軍に味方しながら足利方に寝返った平泉寺衆徒籠っていました。

新田義貞は軍勢を分けて足羽7城を攻めますが、7城の巧妙な連携体制の前に攻めあぐね、戦いは長期化します。


e0158128_18412816.jpg

新田軍の出陣から3ヵ月が過ぎた延元3年/建武5年(1338年)7月2日、小黒丸城を包囲していた義貞は、別動隊が攻めていたここ藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。

ところが、その道中、同じく藤島城に加勢するために出動した足利方の軍勢300騎と出くわし、行き当り遭遇戦の末、討死します。


e0158128_18413473.jpg

超勝寺境内には、藤島城の遺構の一部と云われる土塁跡が僅かに残っています。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-09-07 13:12 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その117 「小黒丸城跡」 福井県福井市

日野川の戦いに勝利した新田義貞軍は、越前国府を占領します。

『太平記』では、この報が越前国中に伝わると、足利方の73の出城が降伏を申し出たと伝えます。

気運に乗った義貞は、越前国を完全掌握するため北上。

足利方で越前国守護の斯波高経の籠る小黒丸城を包囲します。


e0158128_18304464.jpg

現在、小黒丸城は住宅地田園のなかに石碑が立つのみで、遺構などは残っていません。


e0158128_18304883.jpg

小黒丸城は黒丸城ともいい、足利方の足羽7城のなかの本城とされています。

足羽7城は諸説ありますが、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城、そしてここ小黒丸城のことをいいます。


e0158128_18305239.jpg

『太平記』巻20によると、延元3年/建武5年(1338年)5月2日、新田義貞は自ら6千余の兵を率いて府中に出陣し、足羽7城への攻撃を開始しました。

しかし、小黒丸城は容易には落ちません。


e0158128_18305686.jpg

高経の築いた足羽7城は実に巧妙な連携体制が整えられていたといわれ、ひとつの城を攻撃すると、他の城から出撃した兵が背後を襲う陣形になっており、戦いは一進一退を繰り返しながら長期化します。


e0158128_18305910.jpg

そして3ヵ月が過ぎた閏7月2日、ここ小黒丸城を包囲していた義貞は、別動隊が攻めていた藤島城がいつまでも落城しないため、わずか50騎を従えて偵察に向かいます。

その道中、足利方の軍勢に出くわし、討死するんですね。


e0158128_18310372.jpg
e0158128_18310732.jpg

小黒丸城跡と夕日です。


e0158128_18311072.jpg

義貞の死の翌年、弟の脇屋義助が再び挙兵して小黒丸城を攻めると、斯波高経は黒丸城を捨てて加賀へ逃れたといい、その後、小黒丸城は廃城となります。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-09-06 13:18 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その116 「新善光寺城跡(正覚寺)」 福井県越前市

「その114」で紹介した杣山城跡から6kmほど北上した場所にある新善光寺城跡を訪れました。

ここは現在、正覚寺という寺院になっています。


e0158128_17440578.jpg

山門の手前にある「正覚寺」の寺号碑には、「新善光寺城跡」という文字も刻まれています。


e0158128_17440926.jpg
e0158128_17441200.jpg

山門には、「旧府中城表門」という立札があります。

府中城とは、戦国時代に前田利家が築いた城で、新善光寺城とは別のものです。


e0158128_17455370.jpg

山門の横には「新善光寺城址」の石碑が。


e0158128_17484137.jpg

新善光寺城の築城主は越前国守護の斯波高経です。

つまり、足利方の拠点だったわけですね。

延元元年/建武3年(1336年)には杣山城主の瓜生保の軍勢によって一度落とされていますが、すぐに足利方が奪回しています。


e0158128_17484482.jpg

金ヶ崎城の落城後に杣山城に逃れていた新田義貞は、その後、四散していた軍を糾合して勢力を盛り返し、延元3年/建武5年(1338年)2月、再び打って出て足利方の斯波高経軍と日野川で激戦を交えます。


e0158128_17521166.jpg

この戦で府中(武生)の町は焦土と化し、高経は敗走して新善光寺城は義貞の手に落ちました。


e0158128_17521535.jpg

現在、境内の北側にある総社大神宮との境界に、わずかに土塁跡が残されています。


e0158128_17530179.jpg

その説明版です。


e0158128_17545641.jpg

新田方の手に渡った新善光寺城には、その後、義貞の弟・脇屋義助が入りますが、やがて義貞が戦死すると、義助は美濃へと敗走します。


e0158128_17550000.jpg

その後、正平21年/貞治5年(1366年)には廃城となり、良如上人によって正覚寺が建立され、現在に至ります。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-09-03 09:00 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その115 「瓜生保戦死の地・墓所」 福井県敦賀市

前稿で紹介した杣山城の城主・瓜生保戦死したと伝わる地を訪れました。

ここは、杣山城跡から20kmほど南下した場所で、すぐ近くに「その110」で紹介した金ヶ崎城跡があります。


e0158128_22162732.jpg

戦死の地と伝わる場所には、贈正四位瓜生判官保公戦死之地」と刻まれた石碑と説明板が。


e0158128_22185280.jpg

瓜生保が戦死したのは延元2年/建武4年(1337年)正月12日、金ヶ崎城に籠る新田義貞軍を援護すべく5千の兵を率いて杣山城を出た瓜生保は、あともう少しで金ヶ崎城にたどり着くという樫曲地区で、足利方の今川頼貞2万と対峙することとなり、激戦のすえ弟の義鑑と共に討死したと伝わります。


e0158128_22185713.jpg

その説明板です。


e0158128_22190187.jpg

横にはお決まりの忠魂碑が。


e0158128_22203789.jpg

戦死の地の裏山には、瓜生保のがあると知り、登ってみることに。


e0158128_22212804.jpg

山道を登ることに約10分。

墓碑らしき石柱が見えます。


e0158128_22253489.jpg

山道の少しだけ開けた場所に墓碑が一基だけあり、「瓜生判官保之墓」と刻まれています。


e0158128_22255462.jpg

延元元年/建武3年(1336年)10月、金ヶ崎城に入った新田義貞から援軍要請を受けた瓜生保は、一旦はこれに応じますが、その直後に義貞討伐命令の綸旨が保のもとに届くと、身を転じて足利方に味方し、斯波高経、高師泰の軍勢に所属して金ケ崎城を攻めます。

しかし、保の弟達はこれに賛同せず、瓜生一族は分裂の様相を呈します。

ところが11月になって、その綸旨は足利尊氏が送った偽物だと発覚。

すると保は、またまた身を転じ、新田軍に与することを決めます。

このあたり、優柔不断な人物のようにも思えますが、都から遠く離れた田舎武将ですから、中央での政情など疎かったでしょうし、綸旨が届くなんてことなど経験がなかったでしょうから、右往左往するのは無理もなかったでしょうね。


e0158128_22263729.jpg

以後は新田軍に味方してたびたび足利方の軍勢を蹴散らしますが、冒頭で述べたとおり、年が明けた延元2年/建武4年(1337年)正月12日、この地で落命します。


e0158128_22264337.jpg

この墓は明治44年(1911年)に瓜生家の末裔の方が建てたものだそうです。

新田義貞の北陸落ちに巻き込まれなければ命を落とすことはなかったでしょうが、歴史の名を残すこともなかったでしょう。

瓜生保にとっては、どっちが本望だったのでしょうね。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-09-01 22:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その114 「杣山城跡」 福井県南条郡南越前町

「その110」で紹介した金ヶ崎城跡から直線距離にして20kmほど北西にある杣山城跡を訪れました。

ここは、金ヶ崎城の戦い新田義貞軍に加担した瓜生氏の居城でした。


e0158128_21164785.jpg

杣山城は標高492m比高402mの山頂にあり、登山道は険峻ガッツリ登山系の城跡です。


e0158128_21200742.jpg

この日は早朝に神戸を出て、車で2時間半かけて敦賀市に入り、午前中に金ヶ崎城跡をめぐり、午後から約30分かけてここに来ました。

結構つかれていたのでどうしようか迷ったのですが、せっかく来たので登ることに。


e0158128_21201543.jpg

登山コースはいくつかありましたが、この日は、いちばんポピュラーだという第2登山口から居館跡のあいだを通って登るコースを選びました。


e0158128_21223046.jpg

麓の谷間の居館跡です。

幅約100m奥行き約300mの広大な面積です。


e0158128_21235085.jpg

谷の開口部には「一ノ城戸」と呼ばれる幅約100m、高さ3m土塁が残されています。


e0158128_21251738.jpg

居館跡を抜けると、登山道が始まります。

最初は階段がつくられていて登りやすいのですが・・・。


e0158128_21253342.jpg

しばらく登ると、なにかの石垣跡があります。

これはたぶん城跡のものじゃないでしょうね。


e0158128_21271531.jpg

西御殿跡経由のコースを選びます。


e0158128_21284102.jpg

延元元年/建武3年(1336年)10月13日、金ヶ崎城に入った新田義貞は、ここ杣山城の瓜生保とその兄弟に援軍を要請します。

これを受けた瓜生保は、いったんは義貞に味方したかと思えば、足利尊氏からの偽の綸旨に踊らされて義貞に敵対したりと右往左往するのですが、最終的には新田軍に与し、年が明けた正月11日、瓜生保は金ヶ崎城に食糧を運ぶべくここ杣山城を出兵し、その道中、戦死したと伝えられます。

その後、金ヶ崎城の落城直前に城を脱出した義貞は、ここ杣山城に入ります。


e0158128_21315906.jpg

中腹を過ぎたあたりに、ハート型をした洞窟が見えます。


e0158128_21320576.jpg
e0158128_21321711.jpg

この洞窟は「姫穴」と呼ばれ、新田義貞の妻・匂当内待が、この穴に一時隠れていたという伝承があるそうです。


e0158128_21321106.jpg

それほど深くないので、隠れていてもすぐに見つかりそうですが。


e0158128_21333835.jpg

姫穴を過ぎると、登山道はいっそう険峻になります。


e0158128_21351250.jpg

標高400m附近にある「殿池」です。


e0158128_21351899.jpg

ここは、山城の唯一の水源だったようです。


e0158128_21382900.jpg

殿池のすぐ上に「西御殿跡」があります。

西御殿跡の周りの西尾根には、殿池の場所も含めて大小17の削平地があります。

そのなかには礎石が見つかった削平地もあるそうで、何らかの建物が建っていた可能性も考えられているそうです。


e0158128_21383479.jpg

西御殿跡に設置された案内板です。


e0158128_21411830.jpg

西御殿跡から本丸跡までは、緩やかな尾根道になります。

ただ、道の周りは大きな岩がゴロゴロあって、決して歩きやすくはありません。


e0158128_21421827.jpg

「袿掛岩」と呼ばれる断崖絶壁に面した岩場です。


e0158128_21443001.jpg

ここは、瓜生保が戦死したと聞いた奥方侍女たちが、この絶壁の岩に袿をかけて飛び降り、自害したという伝承がある岩だそうです。


e0158128_21443606.jpg
e0158128_21444661.jpg

試しに覗き込んでみましたが、高いところが苦手なわたしは、気分が悪くなって吐きそうになりました。


e0158128_21462749.jpg
e0158128_21463267.jpg

袿掛岩を過ぎると、大きな「堀切跡」が現れます。

もうすぐ本丸跡ということですね。


e0158128_21493797.jpg

そして「本丸跡」入口。


e0158128_21511057.jpg

本丸は標高492mの頂上にあり、円形状の削平地が中央にあり、その一段下にも削平地があります。


e0158128_21520614.jpg

城下の様子が一望でき、なるほど、籠城するには最高のロケーションです。


e0158128_21532879.jpg

金ヶ崎城からここ杣山城に移った新田義貞は、その後、約1年近くここを拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利軍に対抗しました。


e0158128_21544652.jpg

一説には、金ヶ崎城が落城するずいぶん前から義貞は金ヶ崎城と杣山城を往復して指揮を取っていたとも言われており、2月に金ヶ崎城を出て、杣山城にいる間に金ヶ崎城が落城してしまったのではないかという見方もあるようです。


e0158128_21554871.jpg

下山道は東御殿跡コースを選びます。


e0158128_21570000.jpg

本丸から東御殿跡に向かう道中にも、無数の削平地が見られました。

これらも、おそらく何らかの曲輪跡なんでしょうね。


e0158128_22004744.jpg

そして「東御殿跡」

東御殿跡は南北に長い約600㎡の削平地で、礎石建物跡が残っています。


e0158128_21592420.jpg

説明板によると、足利軍との戦いの際に麓の居館を捨てた瓜生保が立て籠もったのが、ここ東御殿だったそうです。


e0158128_22015899.jpg

枯れてしまっていますが、かなりの樹齢と思われる巨木が。

あるいは往時を知っているかもしれません。


e0158128_22041485.jpg

東御殿を過ぎた下山コースがまた過酷で、ほとんど道なき道を進む感じでした。


e0158128_22041841.jpg
e0158128_22042340.jpg

下山道を覆う断崖絶壁の岩場

写真じゃこの迫力は伝わりづらいですね。


e0158128_22061906.jpg

下山して再び居館跡から城跡を見上げます。


e0158128_22062685.jpg

よく見ると、杣山が岩によって出来た山だということがわかります。


e0158128_22063080.jpg

西御殿から本丸までの尾根伝いも、こうして見るとよくわかりますね。


e0158128_22075048.jpg

で、普通ならこれで終わりなんですが、杣山城の遺構はまだあります。

居館跡から約1km西に、「二の城戸外濠跡」と書かれた説明板と、土塁と堀の跡と思しき遺構が残っています。


e0158128_22093928.jpg
e0158128_22094381.jpg

南越前町のHPによると、このあたりには武家屋敷があったとされているそうです。


e0158128_22122278.jpg

二の城戸外濠跡の側には、「史蹟 杣山城趾」と刻まれた石碑と、小さながあります。


e0158128_22123423.jpg

杣山城はその後、幾多も城主を変えながら戦国時代まで存在したようですが、天正元年(1573年)、織田信長北陸攻めにより廃城となりました。

その後、天正2年(1574年)には一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-08-31 23:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その110 「金ヶ崎城跡」 福井県敦賀市

福井県敦賀市にある金ヶ崎城跡までやってきました。

これまで関西を中心にめぐってきたため(山陰も行きましたが)、ここはちょっと遠いのでどうしようか迷ったのですが、やはり、『太平記』には福井県は欠かせないと思い至りました。

というわけで、しばらく越前国シリーズが続きます。


e0158128_19550587.jpg

足利尊氏が京の都を占領し、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)との講和が始まると、徹底抗戦を主張していた新田義貞恒良親王、尊良親王を奉じて京を脱出。

延元元年/建武3年(1336年)10月13日、当時、気比氏治の居城だった、ここ越前国金ヶ崎城に入り、約半年間、この地で足利勢と激戦を交えます。


e0158128_19571110.jpg

金ヶ崎城は敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)を利用して築かれた城で、敦賀津を眼下にみおろす絶好の立地にあります。

前は海、背後は険しい山岳で、天然の要害をなした難攻不落の城でした。


e0158128_19583775.jpg

現在、城跡は公園整備されており、気軽に散策できます。

遊歩道からは敦賀市街地が見渡せます。


e0158128_20020973.jpg

しばらく歩くと、「絹掛松」を書かれた案内板があります。


e0158128_20021383.jpg

その説明書きによると、金ヶ崎城の落城直前、恒良親王(当時15歳)は蕪木浦(現在の越前町)に避難しますが、その際、衣を脱いで岩の松の枝に掛けて小舟に乗り移ったと伝えられ、その松を「絹掛松」と呼び、前方の岩付近を絹掛崎と呼んでいるそうです。


e0158128_20033459.jpg

そのすぐ側にある鴎ヶ崎

大正天皇(第123代天皇)、昭和天皇(第124代天皇)もこの地を訪れ、ここで小休止されたそうです。


e0158128_20064406.jpg

本丸跡に登る途中に、「金ヶ崎古戦場碑」が建てられています。


e0158128_20063980.jpg

義貞らが金ヶ崎城に入ると、足利方は越前国守護の斯波高経新田軍討伐を命じます。

しかし、守りの固い金ヶ崎城を攻めあぐねた高経は、城を包囲して兵糧攻めに持ち込みます。

迎え討つ義貞は、20kmほど北の杣山城を拠点とする瓜生保らに援軍を要請し、紆余曲折のあと協力を得ます。


e0158128_20073504.jpg

年が明けた1月18日、金ヶ崎城の兵糧が尽き始めたことを知った瓜生保らは、杣山城を出て食糧救援に出撃しますが、あえなく失敗。

その後、義貞、脇屋義助、洞院実世は援軍を求めるため、二人の皇子と義貞の息子・新田義顕らを残して兵糧の尽きた金ヶ崎城を脱出しますが、再び金ヶ崎城へ戻ることはできませんでした。

3月3日、斯波軍が金ヶ崎城に総攻撃を開始します。

兵糧攻めによる飢餓疲労で城兵は次々と討ち取られ、3月6日落城。

尊良親王と新田義顕は自害し、恒良親王は斯波軍に捕縛されました。


e0158128_20104589.jpg

本丸跡と伝わる月見御殿跡です。


e0158128_20134417.jpg
e0158128_20134830.jpg
e0158128_20135392.jpg

片隅に小さな石碑が。


e0158128_20144849.jpg

月見御殿跡からの敦賀湾の眺望です。


e0158128_20162171.jpg

下山は別ルートを進みます。

しばらく下ると、三の木戸跡があります。


e0158128_20171662.jpg

そのすぐ近くに、「焼米石出土跡」と書かれた看板が。


e0158128_20183749.jpg

ここ金ヶ崎城にはもうひとつの戦史があります。

戦国時代の織田信長朝倉義景の戦いがそれで、浅井長政裏切りによって危うく挟撃の危機に瀕したものの、信長の妹で長政の妻だったお市が、袋の両端を縛った「小豆の袋」陣中見舞いに送り、その危機を報せたという、あの戦いです。

「袋のネズミ」は、まさにこの城だったわけですね。

そのとき焼け落ちた米蔵の焼米と思われる遺蹟が、この場所で出土されたそうです。


e0158128_20193072.jpg

二の木戸跡です。


e0158128_20203043.jpg

説明板によると、新田軍と斯波軍の戦いで、このあたりで激戦が行われたといわれるそうです。


e0158128_20211697.jpg

二の木戸と一の木戸の間にある大きな堀切跡です。


e0158128_20221067.jpg

一ノ木戸跡です。


e0158128_20231575.jpg

『太平記』によれば、飢餓に耐えかねた城兵らは、まずを殺して食し、最後は死者の肉すら食らったと伝えます。

援軍を得て体勢を立て直すためだったとはいえ、結果的に義貞は2人の皇子と息子、そして餓えに苦しむ城兵を見捨てたことになり、南朝よりに書かれた『太平記』が、楠木正成ら他の南朝方の武将に比べて義貞の評価が低いのも、この戦いに起因するところが大きいといえるでしょうね。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

by sakanoueno-kumo | 2017-08-24 22:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)