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坂の上の雲 総括

 3年に渡って放送されたNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の全話が終了した。先日第3部のまとめを起稿したが、最後に改めてこの作品全体を通した総括をしてみたいと思う。

 司馬遼太郎氏の作品といえば、『竜馬がゆく』『功名が辻』『国盗り物語』『新選組血風録』『燃えよ剣』など、映画やテレビドラマになった作品は数多く、映画は11作、ドラマは13作もある。このうち、『竜馬』はドラマ4回、『功名』はドラマ3回、『国盗り』はドラマ2回、『新選組』はドラマ2回と映画1回。そんな中、単行本・文庫本の発行部数でいえば『竜馬』の次に多い『坂の上の雲』は、連載終了から三十数年間、映画にもドラマにもなっていなかった。それは、作者自身が終生映像化を拒み続けていたからである。その理由は「ミリタリズム(軍国主義)を鼓吹しているように誤解される」というものであった。

 それが、司馬氏逝去から13年経った2009年、NHKスペシャルドラマとして放送されることになった。しかも、3年間に渡る全13話のロングランで、制作費も通常の大河ドラマと比べても桁違いの規模だとか。破格の扱いである。ドラマ化が実現した経緯は、NHKの「総力を挙げて取り組みたい」との熱意と映像技術の発展により、作品のニュアンスを正しく理解できる映像化が可能となったとして1999年に司馬遼太郎記念財団が映像化を許諾。その後、著作権を相続した福田みどり夫人の許諾を得てドラマ化に至ったとのこと。司馬氏が映像化を拒んでいたもう一つの理由に、「作品のスケールを描き切れない」というものがあり、それは現在の映像技術なら、破格の制作費さえかければクリアできる。そんな理由もあって、通常の大河ドラマの枠ではなく、スペシャルドラマという設定になったのだろう。司馬氏の意向に逆らったかたちではあるが、『坂の上の雲』を映像で観ることができるというのは、司馬遼太郎ファンの私としては嬉しい限りであった。

 ただ、今なぜ『坂の上の雲』なのか、という疑問はあった。この作品が執筆、連載されたのは昭和43年(1968年)から47年(1972年)にかけての約4年間で、それまでの約5年間を準備にかけたという。その時代、日本は高度経済成長期の後期で、最長好況を誇った「いざなぎ景気」とぴったり重なり、そんな中、坂をひたすら上り続けた明治人の物語は、太平洋戦争後の高度経済成長を担った「企業戦士」たちの姿と重なり、とくにサラリーマンを中心にこの作品は支持された。

 しかし、それから40年近く経ち時代背景は変わった。高度経済成長期から約20年後にバブル経済が崩壊し、平成の世は長い不況との戦いである。失業率は下がらず、毎年3万人もの自殺者があとを絶たず、少子高齢化が進み、年金問題など昭和の時代に見て見ぬふりをしてきたツケが今、国民に重くのしかかってきている。昭和のサラリーマンたちが、『坂の上の雲』』に出てくる明治人たちの姿を自分たちに置き換えて希望を持った時代とは、ずいぶんと観る側の立場が違ってしまっている。

 世界の戦争に対する価値観も変わった。『坂の上の雲』が執筆されたのは東西冷戦の時代。その後、旧ソ連の崩壊と「冷戦」の終結という激動を経て、「一国覇権主義」となったアメリカがイラク戦争をめぐってヨーロッパの同盟国からさえ孤立し、北朝鮮問題での「六カ国協議」など、国際秩序の考え方も変わってきつつある。そんな中で、100年以上前の戦争での日本人の「優れた能力」を誇りのように肯定的に描いた作品を、今になって映像化するのは、時代錯誤といえるような気がして、1年前の第2部のまとめの稿でもそのように述べた(参照:第2部まとめ)。

 しかし、今年最後まで観終えて、また思いが変わった。やはりこのドラマは、今必要な作品だと思った。今年、我が国では未曾有の大災害が起きた。菅直人前総理の言葉を借りれば、戦後最大の国難だという。これ以上の国難といえば、歴史の上でみれば戦争しかないだろう。まさしく、日露戦争は維新後、近代国家となった日本にとって最大の国難だった。その国難を乗り越えるため、この物語に出てくる明治人たちは心血を注ぐ。戦争を回避するためロシアと手を結ぼうとした伊藤博文、日露戦争はいずれ避けられないと考えて日英同盟を締結させた小村寿太郎、考え方は違えど、いずれも日本を守りたいという思いに違いはなく、そこに私利私欲など微塵も感じられない。ロシアで諜報活動を行った明石元二郎、アメリカで広報外交を行った金子堅太郎、資金集めに尽力した高橋是清もまた然りである。軍人でいえば、現職の国務大臣の地位にありながら、自ら参謀本部次長に異例の職階降下をしたという児玉源太郎などは、その最たる人物である。政治家官僚軍人も皆、日本が潰れるかもしれないという危機感と、日本を守らなければならないという使命感のみで働いた。

 平成の現代はどうだろう。これほどの災害に見舞われながら、なおも政局ありきでしか物事を考えられない低レベルの政治家や、自分たちの都合でしか動こうとしない官僚、いずれも、一国の指導者という立場として、明治の彼らとは雲泥の差である。そういう私たち国民も、日本が潰れるかもしれないという危機感を持って生きているかといえば、そこまで深刻に考えてはいない。「税金払ってるんだから、国が何とかしてくれよ」的な無責任さがある。旅順要塞の前に屍となっていった明治の国民とは大違いである。

 明治の日本は「まことに小さな国」だった。その小さな国の指導者たちは、自分たちが日本を動かしているという実感が強かっただろう。いってみれば、創業間もない中小企業のようなものである。彼らは、この中小企業を潰さないため、大企業たちと肩を並べるため、血眼になって働いた。平成の日本は・・・まさしく上場した大企業。安定と安心の中にいる。だから、自分ひとりの働きがこの国を支えているという実感に乏しく、ひとたび経営が悪化しても、国難という自覚がない。いってみれば、潰れかけて税金で援助してもらっているにも関わらず、ボーナスカットを受けて見当違いなストライキをやるJALの社員や、あれだけの事故を起こしておきながら経営体質の改善をはかろうとしない東京電力のようなものである。現代の日本に生きる私たちは、徴兵されることもなければ、戦争に巻き込まれることもまずない。それは本当に幸せなことだ。しかし一方で、日本のために何かをするといった機会もなく、自分たちが「国家」に参加した「国民」であるという意識も薄い。はたして、どちらが幸せなのだろうと思ったりする。

 とはいえ、戦争を容認する気は毛頭ないし、徴兵なんて、まっぴら御免だ。ただ、戦後最大の国難という大災害が起きた今年、この日露戦争という明治の国難に毅然と立ち向かった当時の人たちの物語を見て、今私たちは何かを感じ取らなければならないような気はした。日本は日露戦争に勝った。勝ったことで、日本はロシアの植民地にならずにすんだ。彼らはまぎれもなく日本を守った。しかし、この戦争に勝ったことで、のちに日本は間違った方向へ進み始めた。これもまた、歴史の示すとおりである。そのあたりについて、司馬氏はあとがきの中でこう述べている。
 「要するにロシアはみずからに敗けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情(指揮系統の混乱、高級指揮官同士の相剋、ロシア革命の進行など)のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。
 戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである。敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものはまことに不可思議なものである。」


 『坂の上の雲』は決して戦勝に酔いしれる物語でも、戦争賛美の物語でもなく、まだ工業も十分に発達していない貧乏な「百姓国家」が、西欧の大国と対等に渡り歩くため、懸命に背伸びをして生きていた、そんな明治の日本と日本人の物語である。司馬氏はそれを「日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語」だという。最後に、単行本1巻のあとがきの文章で、最終回の終盤にもナレーションで語られていた司馬氏の言葉で締めくくりたい。この言葉こそが、この物語全てを集約していると思えるからである。

 「維新後、日露戦争までという三十年あまりは、文化史的にも精神史の上からでも、ながい日本歴史のなかでじつに特異である。これほど楽天的な時代はない。むろん、見方によってはそうではない。庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師などの多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。『降る雪や明治は遠くなりにけり』という中村草田男の澄みきった色彩世界がもつ明治が、一方にはある。この物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」

 3年間、良いものを観せていただきありがとうございました。

●全レビューの主要参考書籍
『坂の上の雲』 司馬遼太郎
『司馬遼太郎『坂の上の雲』なぜ映像化を拒んだか』 牧俊太郎
『坂の上の雲と司馬史観』 中村政則
『日本の歴史21~近代国家の出発 』 色川大吉



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by sakanoueno-kumo | 2011-12-31 04:59 | 坂の上の雲 | Comments(2)  

坂の上の雲 第3部まとめ

 第3部の舞台は旅順攻囲戦から日本海海戦までで、ほとんど日露戦争そのものが舞台である。第2部のまとめの稿でも述べたが、原作は文庫本にして全8巻という長編のこの物語で、第1部から2部にかけての全9話では文庫本の第3巻の途中までしか描かれておらず、この第3部の4話で、残りの5巻分を描かねばならず、果たしてどのような仕上がりになるのか大変興味深かった。たった4話ですべて描ききれるのだろうか・・・と。しかも、その5巻分というのが、ほぼ日露戦争における陸・海軍の作戦、戦術、攻防の叙述、そして作者の主観をまじえた語りが主要な柱で展開されており、もしそのまま原作どおりに描くとなると、ナレーションだらけになってしまうような内容。そこをどう上手く描くかが、この第3部のポイントで、どこをどう割愛するかも興味深かった。

 で、第3部の全4話を観終えての感想をいえば、お見事!の一言である。全4話360分という限られた時間の中で、あれだけ盛りだくさんの内容を描きながら、全く詰め込み過ぎ感はなく、このドラマを制作したスタッフのクオリティの高さに感服した。第10話、11話では、日露戦争の核といってもいい旅順要塞総攻撃から二百三高地の攻略までを、余すことなくきめ細やかに描き込んでいた。公式HPによれば、旅順要塞に向けて「肉弾」となった兵隊たちを演じていた方々は、ただのエキストラではなく、しっかりとオーディションを受け、自衛隊に体験入隊し、当時の軍事についても勉強した人たちだとか。名もなき兵隊たちとはいえ、旅順総攻撃の本来の主役は屍となっていった兵隊たち。それをしっかりふまえた制作サイドの意気込み。だからこそ、
 「旅順攻撃は、維新後近代化をいそいだ日本人にとって、初めて『近代』というもののおそろしさに接した最初の体験であったかもしれない。要塞そのものが『近代』を象徴していた。それを知ることを、日本人は血であがなった。」
 という渡辺謙さんのナレーションが胸に響く。たった数分間のシーンで、しかも主役たちが出てこないシーンに、それだけこだわりをもって臨んでいる姿勢にただただ脱帽である。原作では、乃木希典伊地知幸介の無能ぶりを執拗に語っているが、ドラマでは、そこまで極端な描き方ではなかった。これについては、司馬遼太郎氏の見方に否定的な声も少なくなく、ドラマではできるだけ客観的に描こうという趣旨だったのだろう。私もそれでよかったと思う。

 圧巻だったのは第12話。旅順攻囲戦で2話分も使ってしまい、残り2話しかない。しかも、第12話のタイトルは「敵艦見ゆ」で、最終回のタイトルが「日本海海戦」となっている。私の予想では、おそらく陸戦は旅順攻囲戦のみをクローズアップして、あとはナレーションのみで大幅に割愛されるのだろうと思っていた。ところが、この1話で沙河会戦から黒溝台会戦、そして奉天会戦まですべて描き、更に海戦の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」まで描き切ってしまった。文庫本でいえば、第5巻の途中から第8巻の途中までである。しかも、決して適当な描写ではなく、ちゃんと原作に則った構成でしっかりとまとまっていた。もちろん、原作小説ではきめ細やかすぎるほどに説明、描写しており、それと比べれば物足りなさを感じざるを得ないが、しかし、映像で観る場合、戦闘シーンが必要以上に長くなるとダレてくる。日露戦争を舞台にしているが、この物語は戦争ドラマではなく、あくまで明治の日本人たちを描いた物語である。そんな作者の意図をしっかりと制作者が理解した上で、どこをどう割愛していけばよいかが充分に考えぬかれたストーリー展開は、お見事!としかいいようがない。

 強いて不満をあげるならば、戦場シーンに重点をおいたため、その舞台裏にスポットが当たらなかったところ。例えば、ロシア帝政を内部から崩壊させるための大諜報活動を行った明石元二郎や、アメリカで日本の広報活動をして世論を動かし、ルーズベルト大統領に常に接触して戦争遂行を有利に進めるべく日本の広報外交を展開した金子堅太郎などの活躍である。金子が表世界の広報担当とすれば、明石は裏世界の広報担当だった。戦争は戦場だけで行われているのではない。原作小説では、この二人の働きにかなりの頁数を使っており、ドラマではナレーションだけで片付けられていたのが少々残念だった。

 あと、ロシア軍とその司令官たちの描写も少なかった。原作小説では、陸戦ではステッセルクロパトキン、海戦ではロジェストヴェンスキーネボガトフの性格や心理状態を詳しく分析し、それによって、ロシア軍の行動の理由や敗因などをわかりやすく見ることができたが、ドラマでは、ほぼ日本軍の苦悩のみにスポットを当てた。この辺りも少し残念である。しかし、それら全てを満足させるものを作ろうと思ったら、あと数話必要になってくるのだろう。この限られた時間内の構成でいえば、充分すぎる仕上がりだと思う。

 そして最終回。この日本海海戦のシーンは、日本軍が圧勝の戦いであるにもかかわらず、それを感じさせない描かれ方だったように思う。これはおそらく、「戦争賛美」的な批判の声に配慮したものだろう。司馬氏がこの作品の映像化を拒み続けていた、「ミリタリズム(軍国主義)を鼓吹しているように誤解される。」という理由を考え、できるだけ勝ち負けを感じないように配慮したのではないだろうか。これも、私もそれでよかったと思う。日本が勝ったということは、この場合さほど重要なことではない。なぜ戦わなければならなかったのか・・・が、重要なのである。その意味で印象的だったのが、エピローグのシーン。ここで、原作小説にはないドラマオリジナルのシーンが挿入されていた。正岡家に高浜虚子夏目漱石が集う場面である。この会話の中で漱石は「大和魂」を茶化し、しかし現実はその「大和魂」に頼らなければならない自分を嘆く。そしてこういう。
 「もし、バルチック艦隊に負けたら、日本はロシアの植民地になる。『吾輩は猫である』も正岡の『一昨日のへちまの水も取らざりき』も、日本語で読めなくなる。落語も歌舞伎も能も狂言もおしまいだ。吾輩はかつて、文学を捨てて軍人になった秋山真之を軽蔑した。しかし、今、頼れるのはその秋山だ。それが悔しいんだ。」
 このシーンを観て、このドラマは原作を超えたと思った。この台詞で、全てを語ってしまったからである。なぜ、ロシアという大国を相手に途方もない戦争をしなければならなかったか・・・。司馬氏はいう。
 「日本史をどのように解釈したり論じたりすることもできるが、ただ日本海を守ろうとするこの海戦において日本側がやぶれた場合の結果の想像ばかりは一種類しかないということだけはたしかであった。日本のその後も、こんにちもこのようには存在しなかったであろうということである。そのまぎれもない蓋然性は、まず満州において善戦しつつもしかし結果においては戦力を衰耗させつつある日本陸軍が、一挙に孤軍の運命におちいり、半年を経ずして全滅するであろうということである。
当然、日本国は降伏する。この当時、日本政府は日本の歴史のなかでもっとも外交能力に富んだ政府であったために、おそらく列強の均衡力学を利用してかならずしも全土がロシア領にならないにしても、最小限に考えて対馬島と艦隊基地の佐世保はロシアの租借地になり、そして北海道全土と千島列島はロシア領になるであろうことは、この当時の国際政治の慣例からみてもきわめて高い確率をもっていた。」


 司馬氏のこの言葉を、漱石の台詞で全て語ってしまった。ナレーションで語るのではなく、登場人物の台詞で、しかも軍人ではなく夏目漱石の台詞として語らせたところがいい。日露戦争は侵略戦争ではなく祖国防衛戦争であったというのが、この物語の立場であり、司馬史観である。異論はあろうが、それが「坂の上の雲」なのである。安っぽい「反戦史観」を押し込まず、あくまで原作の立場を守りきった制作者の姿勢を高く評価すると共に、これほどまでにクオリティの高いドラマを提供してくれたことを感謝したい。
 全てを観終えて、まぎれもなくこのドラマは、私が好きな「坂の上の雲」だった。

近日中に、総括したいと思います。


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-29 23:50 | 坂の上の雲 | Comments(4)  

坂の上の雲 第2部まとめ

 第2部全4話が終了した。舞台は日清戦争後の臥薪嘗胆の時代から、日露戦争開戦に至るまで。昨年の第1部では、主人公である秋山真之・秋山好古・正岡子規の3人の明るく楽しい青少年期を軸に展開していたが、この第2部から物語は大きく変わってくる。日露戦争に至るまでの政府要人たちの苦悩や、日清戦争時とは違い重責を担うようになった秋山兄弟の葛藤、さらには日本を取り巻く国際情勢の暗雲と、物語は「戦争」を主軸に展開していく。

 第1部のまとめでも述べたとおり、この小説の著者・司馬遼太郎氏は生前、この作品の映像化を頑なに拒み続けていた。その理由は「ミリタリズム(軍国主義)を鼓吹しているように誤解される。」というもので、実際にこの作品を否定する方々の見解に立脚すれば、「戦争賛美の物語」となるからである。日露戦争を描いた作品というのは、そういった批判を受けやすい。例をあげれば、1980年に公開された映画「二百三高地」は、日本が勝利した戦争の物語というだけで、一部の教育者や政治団体から「軍国主義賛美映画」「右翼映画」などと内容を論ずることなく決めつけられ攻撃された。同映画は、戦場で戦う末端の将兵の思いや葛藤を主軸にした物語で、「戦争賛美」と批判される要素はどこにも見当たらない作品だったが、この「坂の上の雲」は、たしかにそういう要素がある。当時の戦争指導者たちとエリート将校たちの有能さを描き、のちの昭和の大戦とは違って、日清・日露戦争はやむをえない「祖国防衛戦争」だったというのがこの作品の立場で、司馬氏の懸念するとおり誤解されがちな物語である。第2部以降、どこまで司馬氏の原作の主観を変えずに描けるかが興味深かった。

 感想をいえば、思った以上に原作の立場を忠実に描いていたと私は思う。ナレーションの内容は、ほぼ司馬氏の言葉をそのまま引用していたし、日露戦争に向けての政治的な立場の描き方も、ドラマ故割愛されていた部分もあったが、概ね主眼はずれていなかった。逆にいえば、昨今の日本を取り巻くアジアの情勢を鑑みれば、よくこんな作品を今の時期に放送できたものだ・・・とも思った。今年の大河ドラマ「龍馬伝」が、韓国での放送が決まったそうだが、この「坂の上の雲」は間違っても近隣諸国に受け入れられることはないだろう。まあ、伊藤博文が出ている時点であり得ないだろうけど・・・。

 それでも、やはり多少はオブラートに包んだ描き方になっていた部分もあった。しかし、これは仕方がないことだろうとは思う。司馬氏がこの作品を書いたのは、昭和43年から47年にかけてで、世界は東西冷戦の時代だった。その後、世界の戦争に対する価値観は変わってきている。旧ソ連の崩壊「冷戦」の終結という激動を経て、「一国覇権主義」となったアメリカがイラク戦争をめぐってヨーロッパの同盟国からさえ孤立し、北朝鮮問題での「六カ国協議」など、国際秩序の考え方も変わってきつつある。そういう中で、100年以上前の戦争での日本人の「優れた能力」を誇りのように肯定的に描いた作品を今になって映像化するのは、時代錯誤といえるかもしれない。司馬氏自身も、この作品の執筆後の作品やコラムなどで、考え方が変わってきている旨の発言も見られた。だから私はあくまで、明治という時代とその時代に懸命に生きた先人たちの姿だけを、このドラマでは見ていきたいと思う。

 ドラマとしての出来栄えについては、素晴らしいの一言につきる。莫大な予算をかけたスケールの大きさもそうだが、ストーリーがしっかりしているところに一番の見応えがあった。主人公たちの場面だけでなく、それ以外の登場人物の場面もきめ細やかに作りこまれているため、息を抜くところがなかった。たとえば、第6話の「日英同盟」の回などは、話の展開上、主人公の3人がほとんど登場していない。にも関わらず、まったく中弛みしなかったのは、それだけストーリーがしっかりしているからだろう。作り手の作品に対する自信がうかがえる。

 原作にはないオリジナルの話も多かった。司馬氏はこの作品を書くにあったて、「フィクションを禁じて書くことにした。」と語っており、必然的に原作では女性の登場人物が極めて少ない。子規の妹・も、原作では子規の死の際に少し登場する程度で、真之の妻・李子にいたっては、数行程度出てくるだけである。故に、彼女たちのエピソードは全てドラマのオリジナルなのだが、そのことについて「原作と違う」といった批判の声も多く聞かれたが、私はこれはこれで良いと思っている。小説ならともかく、男だけのドラマなど味気ないものだ。物語の本筋には関わらない部分なのだから、むしろ息継ぎの役割として良いのではないだろうか。そんなふうに思えるのもまた、ストーリーがしっかりしているからだろう。

 さて、また11ヵ月のインターバルを挟んで、来年の12月はいよいよ第3部となる。全13話中9話が終了したわけだが、実は原作でいうと、文庫本全8巻中まだ3巻の途中でしかない。残り4話で、原作5巻分を描かねばならないわけだ。描ききれるのだろうか・・・。このあと小説では、陸・海軍の作戦、戦術、攻防の叙述、そして作者の主観をまじえた語りが主要な柱となって展開される。つまり、原作どおりに描けば、ナレーションだらけになってしまうわけだ。そこをどう上手く描くかが興味深い。子規の死後、原作では次の章の冒頭で作者はこう述べている。
 「この小説をどう書こうかということを、まだ悩んでいる。子規は死んだ。好古と真之は、やがて日露戦争のなかに入っていくであろう。できることならかれらをたえず軸にしながら日露戦争そのものをえがいてゆきたいが、しかし対象は漠然として大きく、そういうものを十分にとらえることができるほど、小説というものは便利なものではない。」
 さらに第4巻のあとがきでは、こうも述べている。
 「この作品は、小説であるかどうかじつに疑わしい。ひとつには事実に拘束されることが百パーセントに近いからであり、いまひとつは・・・どうにも小説にならない主題をえらんでしまっている。」
 「日露戦争を接点として当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説にはなりにくく、なりにくいままで小説が進行している。」

 どうやら司馬氏自身、子規の死後、戦争の描写のみになってしまった物語に懐疑的になりながら、その迷いの中、2000ページ以上の紙数を費やしたようだ。迷いながら書いたから、2000ページ以上もの紙数になってしまったのかもしれない。その2000ページを集約すれば、実は4話ほどで事足りるのかもしれない。いずれにしても、第3部の4話は、冒頭で述べた「ミリタリズムの鼓吹という誤解」がこの第2部以上に懸念されるところでもある。どういうふうに描くか・・・来年に注目したいところだ。

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 本年の起稿はこれでおそらく最終となります。今年は大河ドラマ「龍馬伝」や、この「坂の上の雲」と、私にとっては力の入る大河ドラマ年で、拙い文章ながら毎週意欲的にブログ更新に取り組んできました。来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」も、これまでどおり毎回起稿するつもりではいますが、なにぶんにも同作品については今年ほどの知識も私見もありませんので、少し肩の力を抜こうと思います。逆に、今年は龍馬関係に力を入れすぎて他の話題をあまり出来なかったので、来年は歴史物以外の稿を増やせたらと思っております。また来年も覗きにきていただければ光栄です。どうぞ、良いお年をお迎えください


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-30 03:48 | 坂の上の雲 | Comments(6)  

坂の上の雲 第1部まとめ

 NHKスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」の第一部全5話が終了した。続きは2010年の12月まで待たねばならない。撮影も放送も3年に渡って行われるこのドラマは、予算をかけて壮大なスケールで描きながらも非常にきめ細やかな部分まで配慮されていて、司馬遼太郎ファンの私としてもとても満足いくものだった。原作のイメージを壊さないための配慮が随所に施されていた。

 まず最初にもっとも胸を打たれたのは、渡辺謙さんのナレーションだ。その内容は、すべて原作の文章を断片的に使ってつなぎ合わせたものである。まるで原作を朗読しているかのような作り方で、渡辺謙さんの語るいわゆる独特の「司馬節」が、重たすぎず、軽すぎず、とても小気味よく耳に入ってくる。このナレーションが作品を一層いいものにしているように私は思う。

 主人公3人の役者さんも素晴らしい。兄・秋山好古は、長身で手足が長く目が大きくほりが深く、西洋人に間違えられることもしばしばだったとか。阿部寛さんほどのハマリ役はいないんじゃないだろうか。弟・秋山真之は、精悍な顔つきの美男子で、兄ほどの武骨者ではなく、聡明だがどこか少年っぽさが残る人物といった原作のイメージ。本木雅弘さんが見事に演じている。そして何といっても素晴らしいのは香川照之さん演じるところの正岡子規。子供のまま大人になったような純粋で無邪気なこの文学者を、まるで亡霊が憑いたかの如く演じている。正岡子規と会ったことがあるはずもないのだが、子規という人物はきっとこんな男だったのではと思ってしまう。この物語の中盤で子規はその生涯を終えることになる。戦争という重たい主題の物語で、子規は物語を緩和するとても重要な存在で、彼の死後、原作でもその「緩」の部分を失い戦記もののようになってしまうのだが、ドラマでのそのあたりが課題となってくるだろう。

 子規の妹・律や、好古の妻・多美など女性の登場人物は、原作ではあまり重要な存在ではない。司馬氏はこの作品を書くにあったて、「フィクションを禁じて書くことにした。」と語っている。それが事実だと確認出来ないことは描いていないと言っており、ゆえに、色恋沙汰など艶っぽい話は原作にはほとんどない。律と真之のエピソードなどはすべてドラマのオリジナルである。男ばかりのドラマというのも味気ないもので、これぐらいのフィクションは許容範囲といったところだろう。

 司馬氏の小説には「余談」が多く、その余談がとても面白い。氏の没後、「以下、無用のことながら」という余談を集めた本まで出版されたほどである。しかしその余談は、物語の本筋とはそれるものが多く、ドラマでは省かれている。これも仕方がないところだろう。戦争シーンや戦争までの政治の動きなどは、小説では鳥瞰スタイルで描かれているため、非常に説明的で、セリフなどは極めて少ない。しかし、そのままではナレーションだらけになってしまうため、誰かにそれをセリフとして言わさねばならず、脚本家は苦労したことだろうと思う。

 第1部では、日清戦争までが描かれたが、戦争までの史観は、必ずしも原作どおりではなかった。明治を是とし昭和を愚とするいわゆる「司馬史観」だが、その賛否は別として、司馬氏は明治に起こったこのふたつの戦争を否定はしていないのだが、その辺のニュアンスは、ドラマでは少し違っていた。子規が従軍記者として現地で見た醜い軍人の姿などは原作にはない。司馬氏は明治の軍人と昭和の軍人とは明らかに違うものとしている。氏は同作品の映像化を「ミリタリズム(軍国主義)を鼓吹しているように誤解される。」として拒み続けていたということだが、歴史を現代の価値観で裁くほどナンセンスなことはなく、物語である以上、そのままの史観で描いてほしいものである。

 第5話の最後のナレーションの中の一節。
「やがて日本は日露戦争という途方もない大仕事に、無我夢中で首を突っ込んでいく。その対決にかろうじて勝った。その勝った収穫を、後世の日本人は食い散らかしたことになる。」
この言葉は、司馬遼太郎氏がこの物語を通してもっとも言いたかったことではないだろうか。

 ともかくも、第2部まではあと11カ月待たねばならない。この5週間、毎週日曜日が来るのが待ち遠しくてならなかった私にとって、11カ月間もの長い間待たされることはまさに拷問の極みである。


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by sakanoueno-kumo | 2009-12-31 02:32 | 坂の上の雲 | Comments(5)