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おんな城主 直虎 第49話「本能寺が変」 ~本能寺の変~神君伊賀越え~

 「敵は本能寺にあり!」

 過去、大河ドラマにおいて数々の役者さんが発してきたこの台詞ですが、おそらく、明智光秀を演じられた役者さんは、みなさん、配役が決まったときからこの台詞をどのように吐くかを悩まれるんでしょうね。演出家さんや脚本家さんの意向とかもあるのでしょうが、光秀のいちばんの見せ場ですからね。この台詞を吐くために他の場面があると言っても過言ではないかもしれません。今回のそれは、躊躇している自身に言い聞かせるよう呟く、といった演出でしたね。このパターンは、はじめてなんじゃないでしょうか。


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 「敵は本能寺にあり!」という台詞がはじめて使われたのは、江戸時代中期の元禄初頭から15年(1688年~1702年)頃に書かれたといわれる明智光秀を主人公とした軍記物『明智軍記』からだそうです。作者は不明で、光秀の死後100年以上経ってから書かれたものということで、史料的価値は低いとされている作品ですが、この台詞に関しては、その後、「本能寺の変」を題材とした作品ではずっと使われてきた台詞で、もはや光秀の代名詞のような言葉となっています。実際には、どのような言葉を発したのかはわかりませんが、備中の羽柴秀吉の援軍として出陣した軍勢を、途中で進路を返して本能寺に向かわせたのは史実ですから、そこで、何らかの意思表示をしたのは確かでしょう。「これより本能寺に向かい、信長を討つ!」では普通だし、「敵は信長なり!」でも、イマイチ、パッとしません。やっぱ、「敵は本能寺にあり!」ですよね。その後300年以上、ずっと使われる台詞を書いた『明智軍記』の作者は、よほどのセンスの持ち主といえます。いまだったら、間違いなく流行語大賞ですね。

 徳川家康饗応役を解かれた光秀に代わって、織田信長自ら膳を運んでいましたが、これは、『信長公記』にも記されているエピソードで、史実とされています。でも、実際に信長に配膳されたら、ドラマのように家康たちは凍りついていたでしょうね。どれほど豪華な料理でも、味がわからなかったでしょう。

 今回の「本能寺の変」は、信長が家康とその重臣たちを安土城に招き、接待すると見せかけて殺してしまおうという計画を、事前に明智光秀が家康と今川氏真に情報を漏らし、逆にその機に乗じて信長を討とうという光秀の謀略で、しかし、光秀が想定外の備中援軍を申し付けられてしまったため、徳川一行が堺見物をしている最中、備中に向かう兵を返して本能寺で事に及んだという設定でした。まあ、「本能寺の変」に至る経緯は諸説ありますから、どのような描き方があってもいいと思いますが、今回の設定は、結局、よくわからないまま終わったという感じです。そもそも、信長は光秀がいうように、家康を殺すつもりだったのでしょうか?


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 家康に贈る茶道具を選んでいる信長の姿や、「殺気が感じられない」と言った家康の台詞などから、どうも、家康を殺すという計画は最初からなかったと見ていいんでしょうね。であれば、光秀はなんでそんなをついたのでしょう? 家康や氏真に計画を明かして味方に引き入れる、というわけでもなさそうでしたし、であれば、計画を明かす必要がないというか、むしろ、家康や氏真が信長に計画を漏らす危険だってあったわけで、そんなリスクを背負ってまで、ふたりに謀略を打ち明ける理由が見当たりません。光秀にとって、何の得もないですからね。結局、ドラマでも、徳川一行は光秀の計画を知っていたせいで必要以上にオロオロしただけで、光秀の謀略には何ら役に立ってないですからね。いったい光秀は何がしたかったのでしょう? どうも、消化不良な「本能寺の変」でした。


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 また、信長横死の報せを受けたあとの「神君伊賀越え」についてですが、これがなぜ家康の人生における一世一代の大ピンチだったかというと、信長と同盟関係にあった家康は光秀から見ればであり、もし、明智軍に遭遇すれば衝突は避けられず、かといって、弔い合戦が出来るような兵力を引き連れておらず、四面楚歌の状態に陥っていたからでした。しかし、今回のドラマでは、徳川一行は光秀から事前に信長討伐を知らされていたわけで、家康の心中はどうあれ、光秀はこの時点では家康のことを味方だと思っていたはず。何も知らない穴山梅雪さえ始末してしまえば、あとは険しい伊賀越えなんてせずに、大手を振って東海道を帰ればよかったのでは? それとも、光秀の計画は、信長もろとも家康も殺すつもりだったとか? う~ん・・・。イマイチ設定がよくわかりません。繰り返しますが、消化不良な「本能寺の変」でした。まさしく、その副題どおり「本能寺が変」でしたね。

 さて、次回は最終回ですね。井伊直虎が死んだのは、本能寺の変から約2ヶ月半後のことだったと言われています。でも、ドラマの直虎はピンピンしていて、そんな兆候は微塵にも感じられません。この感じでは、病死とかではなさそうですね。どんな最期に描かれるのか、楽しみにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-11 15:55 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第48話「信長、浜松来たいってよ」 ~信長の駿河訪問~

 甲州征伐で武田氏を滅ぼした織田信長は、その帰路、富士山見物に出かけます。これまで富士山が見られる地域は敵対してきた今川氏、武田氏の領地でしたから、おそらく富士山を間近で見たことはなかったのでしょう。富士山といえば、言わずと知れた日の本一の名山で、当時は信仰の対照でした。富士山を一度この目で見たいという願望は、魔王・信長といえども同じだったんですね。


 このとき、富士山を有する駿河の国は、甲州征伐の戦功で徳川領となっていました。そのため、信長の富士山見物ツアーの一報をうけた徳川家康は、莫大な私財を投じて街道を整備し、宿館を造営しました。「紀行」でも紹介されていましたが、富士信仰の聖地、富士山本宮浅間大社の境内には、金銀をちりばめた豪華な装飾を施した仮の宿所が建てられたと伝えられます。


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 また、信長は富士山見物のあと、家康の居城・浜松城に立ち寄りました。そのため、家康は街道を広げ、川に橋を架け、また、ドラマにもあったように、人を集めて川の水を堰き止めたといいます。至れり尽くせりの接待ですね。現代でも、アメリカ大統領クラス国賓を迎えるにあたっては、厳重な警備体制はもちろん、道路、宿泊先の整備まで入念に行われますが、まあ、あれと同じようなものといえるでしょうか。大統領の娘や孫にまで、これでもかと言わんばかりの気の使いようでしたもんね。同盟国といえども明らかに弱者である日本にとっては、大統領およびその家族をもてなすことは、大きな政治です。信長と家康の関係も同じことがいえるでしょう。信長は家康の接待をことのほか喜び、米八千俵あまりを贈ったといいます。そして、その返礼として、信長は家康とその重臣たちを、安土城に招きました。

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 信長から招きを受け、その真意を詮索する家康と重臣たち。たしかに、主だった家臣団を引き連れて安土城に入れば、駿河はがら空きになり、その隙を突かれたら、ひとたまりもありません。実際、武田氏を滅ぼしたことで、信長にとって家康との同盟関係のメリットが薄くなったのは事実。自民党単独3分の2議席を獲得したあとの公明党のようなものでした。徳川家にしてみれば、いつ切り捨てられてもおかしくはないといった心配はあったでしょう。ドラマ中、明智光秀は、信長の駿河訪問は軍事視察目的だったと言っていましたが、実際、そのような解釈を説く歴史家さんもおられます。もし、信長があと少し生きていたら、徳川氏は滅ぼされていたかもしれません。

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 結局、信長からの招きを断れるはずもなく、家康一行は安土城を訪れ、その約半月後に「本能寺の変」が起きることは周知のところだと思います。ただ、明智光秀がいつの段階で謀反を決意したのかは、様々な見方があってハッキリしません。ていうか、人の心の部分ですから、心中を吐露した書簡でも残されていない限り、どれだけ状況証拠を並べても推論の域を出ないんですけどね。ドラマでは描かれていませんでしたが、有名なエピソードのひとつで、最後の武田攻めの際、光秀が「ここまで来られて、われわれも骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたという話があります。これが実話だとすれば、富士山見物をして浜松城を訪れたこのときは、ちょうどその直後で、すでに腹に一物を持っていたかもしれません。もちろん、その計画を今川氏真に持ちかけたという話はドラマの創作ですが、このとき既に殺意を持っていたかもしれないという推理は、否定できません。

 光秀の息子として描かれていた自然(じねん)という少年ですが、実在したかどうかは定かではありませんが、諸説あるなかの一説では、光秀の五男として生まれ、山崎の戦いで父の光秀が討死したあと、近江坂本城自刃したとされます。ただ、光秀の系図は複数あって、その子供についても俗説が多く、はっきりしません。もちろん、今川氏の人質となって井伊直虎の住む井伊谷で匿われたという話はドラマの創作ですが、そもそも実在したかどうかもわからない息子ですから、この創作はありなんじゃないでしょうか。こうでもしないと、直虎を話に絡められないですもんね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-04 15:32 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その15 「明智藪~明智光秀胴塚~小栗栖八幡宮」

シリーズ最終稿です。

羽柴秀吉軍の追撃を受けて勝龍寺城を脱出した明智光秀は、自身の居城である坂本城に落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命したと伝わります。

山崎合戦の舞台からはずいぶんと離れますが、ここまできたら、光秀の最期を見届けようと思い、京都市伏見区小栗栖に伝わる光秀落命の地にやってきました。


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「明智藪」という名称がついているようです。

付近まで行くと、上の写真ような誘導看板が設置されていて分かりやすかったです。


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民家の横の細い道を入っていくと、石碑のようなものが見えてきました。


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「明智藪」と刻まれた石碑と説明書きがあります。


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よく読んで見ると、「信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃された」とあります。

えっ? 光秀は土民に殺られたというのが通説だったと思いますが、「飯田一党」という武士団に殺られたの?


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石碑の奥は、まさしくただの竹藪でした。

現在は、近くに民家も学校もある開けた町なので、藪はほんの一角にすぎませんが、たぶん当時は、この辺り一帯が鬱蒼とした藪のなかだったのでしょうね。


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近くにある本経寺に、光秀の供養塔があると聞いたので、立ち寄ってみました。


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石碑は新しいもののようですが、前の石灯籠は古いもののようです。


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また、明智藪から北に500mほど上がったところに、光秀の胴塚と伝わる場所があります。

探すのに苦労したのですが、ぶどう直売店やコイン精米所の並ぶ一角に、ひっそりと墓碑が建っていました。


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説明板のようなものが設置されていなかったので、詳細はわかりませんが、墓碑が建てられたのは昭和45年と刻まれていました。

でも、それまでも、きっと地域の人々によって供養されてきたのでしょうね。


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最後にもう1か所、明智藪から200mほどしか離れていない場所に、小栗栖八幡宮という古そうな神社があるのですが、帰り道、吸い寄せられるように同地に立ち寄りました。


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創建は清和天皇(第56代天皇)時代の貞観4年(864年)と伝えられるそうで、説明板によると、室町時代には社領三十六石と栄えていたそうですが、その後は寂れていたようです。

ただ、そんなことより、由来を読んでみて目からウロコが・・・。


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「地頭は飯田左近将監。左近屋敷は、神主で、小栗栖城主で、飯田家の屋敷であり、現在は石垣のみ残る。」とあります。

ここで思い出されるのは、明智藪の石碑にあった「飯田一党」という武士集団。

あの「飯田」は、この「飯田」なんですね。


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即座にスマホでググってみると、かつてこの近くには小栗栖城があって、その城主だった飯田氏織田信長の傘下だったそうで、従って、「本能寺の変」後のこの時点では、光秀にとってだったと思われます。

まあ、光秀の最期も諸説あって、なかには生存説なんかもあったりしますから、これもひとつの説として鵜呑みにはできないのでしょうが、ここに本当に敵陣の城があったのなら、十分にある話ですね。

でも、だとすれば、なぜこれほど敵陣に近い道を光秀は通ったのか?・・・という疑問が出てきます。

いずれにせよ、今となっては、真相はまさに藪のなか・・・ですね。

お後がよろしいようで・・・。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-04 16:38 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その14 「洞ヶ峠」

「洞ヶ峠を決め込む」という言葉がありますよね。

両者を比べて、有利な方につくために形勢を観察し、日和見的な態度をとることを言いますが、この言葉の由来は、山崎合戦明智光秀から援軍要請を受けた大和国郡山城主筒井順慶が、羽柴秀吉明智光秀のどちらに加勢しようかと、洞ヶ峠に陣取って形勢をうかがったというにちなみます


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「洞ヶ峠」という名称は現在も残っており、京都府八幡市と大阪府枚方市の府境にあります。


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現在のロケーションはこんな感じ。

飲食店などが立ち並ぶ開発された町並みで、当時の痕跡を見ることはできません。


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「八幡洞ヶ峠」の交差点の片隅には、「筒井順慶陣所跡」と刻まれた石碑が、ひっそりと建っています。

碑は道しるべも兼ねていて、『右西双子塚三丁、左圓福寺三丁』とありました。

いつ建てられたものかはわかりませんが、かなり古いもののようです。


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峠の頂上付近には、「洞ヶ峠茶屋」という屋号のかやぶき屋根そば屋がありました。

べつに史跡というわけではないようですが、ちょうど昼食時だったこともあり、入って見ることに・・・。


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入口には、教育委員会が作った「洞ヶ峠」伝承の説明板が設置されていました。

何度もいいますが、お店自体は史跡ではありません。


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店内はこんな感じ。


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席につくと、洞ヶ峠茶屋と洞ヶ峠伝承を紹介した新聞記事がテーブルに置かれていました。


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で、これが「順慶定食」1300円です(笑)。

具がたっぷりはいったうどん(そば)二玉に、小鉢が3品も付いたボリューム満点の逸品です。

でも、なんで「順慶」なのかはわかりません(笑)。


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お店はぼたもちが名物らしく、せっかくなので買って帰りました。

帰宅して包装を開けてビックリ!

で・・・デカイ!!


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ちなみに、洞ヶ峠の伝承についてですが、実際には、筒井順慶は「本能寺の変」のあと、郡山城に籠城を決め込んでいて、洞ヶ峠には来ていないという説が正しいようです。

なぜ、このような話が生まれたのかはわかりませんが、伝承なんて、案外そんなものなのでしょうね。

不名誉な伝承で汚名を着せられた筒井順慶は気の毒ですが、そのおかげで、洞ヶ峠という名称が世に知れ渡っていて、わたしも、このぼたもちに巡り会えました(笑)。


次回、シリーズ最終回です。




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by sakanoueno-kumo | 2016-08-03 18:49 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その12 「勝龍寺城跡 ~前編~」

前稿で紹介した恵解山古墳から北東へ500mほどのところに、勝龍寺城跡があります。

山崎合戦において羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、一時、ここ勝龍寺城に逃げ込んだと伝えられます。

当時、勝龍寺城には光秀の三女・玉(ガラシャ)が嫁いでいました。


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応仁・文明の乱頃から、寺院としての勝龍寺が臨時的なとしてしばしば使われていたようですが、恒常的な城として確実な史料が残されているのは、元亀2年(1574年)に織田信長が京都の防御拠点として細川藤孝に勝龍寺城の普請を命じたことに始まります。

「幽斎」の雅号で知られる藤孝は、肥後細川家の中興の祖と言われる人物で、あの細川護熙元総理大臣のご先祖さんとして有名ですね。

藤孝は光秀との親交が深く、一説には、藤孝と信長を引き合わせたのも光秀だったといいます。


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現在の勝龍寺城は、昭和63年(1988年)から発掘調査が行われ、平成4年(1992年)に勝龍寺城公園として蘇ったものです。

発掘調査の結果、穴太積の石垣枡形虎口など、のちの安土城大坂城など織豊時代の城郭に見られる特徴の先行的城郭だったことがわかったそうです・・・と、現地のボランティアで解説されていたご老人がおっしゃっていました。


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現在公園として整備されているのは、本丸跡と西側の沼田丸跡です。

本丸跡の周辺は、で囲われています。


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本丸を囲む土塁の上に石垣を積んだを作り、角の隅櫓と連結して守りを固める構造の建物を「多聞櫓」といいますが、これも、確認された遺構としては、ここ勝龍寺城が最古なんだそうです。


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南門です。

枡形虎口になっています。

「枡形」とは、出入り口の通路を直角に曲げて、大軍が侵入しづらく考えられた設計のことを言います。


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城門の向こうに見えるのは、模擬天守(櫓?)です。


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天守が存在していたことは間違いないようですが、文書の史料しかなく、復元はできません。

現在の建造物は、あくまで模擬です。


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こちらは北門跡

やはり、枡形になっています。


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外側から見た北門跡です。


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北門跡の側には、発掘調査の際に石垣跡から多数出土した石仏五輪塔が祀られていました。

当時、石垣にそれらの石材を使用することは、珍しくありませんでした。


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やっぱ、城跡レポートは長くなっちゃいますね。

もう一回、勝龍寺城の続きをやります。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-28 14:17 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その11 「明智光秀本陣(境野1号墳・恵解山古墳)」

石碑のある公園から北東へ500mほど歩いたところに、山崎合戦において明智光秀本陣を布いたと考えられている場所があります。


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『太閤記』の記述に、光秀の本陣は「御坊塚」に布かれたとありますが、その「御坊塚」というのが、かつてこの地にあった境野古墳群のなかの境野1号墳と推定されているそうです。


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現在、古墳はサントリーの工場敷地内になっており、中には入れません。

フェンスの外に、説明看板が建てられているだけです。


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ただ、その横には墓地があり、そこにはかなり古い墓石や祠がありました。


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地蔵はいつの時代のものでしょう・・・あるいは、合戦を知っているかもしれませんね。


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また、光秀本陣と考えられているもうひとつの説として考えられているのが、境野1号墳から500mほど北上したところにある恵解山古墳(いげのやまこふん)です。

こちらは大山崎町のお隣の長岡京市になります。


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もともと、2つの説があって結論をみていなかったそうですが、平成23年(2011年)の発掘調査で、火繩銃の玉や、兵が駐屯するために古墳を平らに整形した曲輪の跡、幅4~5m、深さ約2mで、49mにわたる堀跡などが見つかったそうで、現在では、こっちの説のほうが有力になりつつあるようです。


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全長120m、後円部径60m、高さ8m、前方部幅55m、高さ6.5mの前方後円墳で、幅30mの周濠を持ちます。

陣城(付城)として使用するには、最適な大きさなんじゃないでしょうか。


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現在は史跡公園として整備され、市民憩いの場となっています。


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すぐ北側にある歩道橋から撮影した眺望です。


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歩道橋には、古墳及び山崎合戦を紹介する説明板がありました。


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墳丘の上から見た天王山です。

いまは建物がひしめき合っていますが、当時は、ここから天王山の麓までが開けていて、合戦の舞台になりました。

光秀はこの地で、次々に敗走する自軍の兵を見ながら、何を思っていたでしょう。

次回に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-22 18:16 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その10 「山崎合戦古戦場碑」

名神高速道路の大山崎インターチェンジを降りてすぐのところに、「山崎合戦古戦場碑」があると聞いてやってきました。

当時の合戦図を検証すると、ちょうどインターチェンジあたりを境に、明智光秀軍と羽柴秀吉軍が対峙していたと考えられているそうで、その中心あたりに近年石碑を建てたとか。


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で、現地に足を運んでみたのですが、なかなか石碑が見つからない。

ネットの情報では、大山崎中学校の校門付近に建っているとのことだったのですが・・・。


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学校の周りをいくら探しても見当たらず、途方にくれていたのですが、ふと、道路を挟んで西側にある高速道路の高架下に、「天王山」と書かれたが目に入り、行ってみることに・・・。


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やっと石碑が見つかりました!

どうやら、ここに移設されていたみたいですね。


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ここは「天王山夢ほたる公園」という名称で、昨年5月にオープンしたばかりの公園だそうです。

どうりで、ネットにもカーナビにも出てこないはずです。


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石碑は教育委員会が建てたものだそうですが、残念なことに字がきたない(苦笑)。

この日は、わが家の中2の娘も一緒だったのですが、書道有段者の娘曰く、「わたしのほうが上手い」と・・・。

たしかに(笑)。


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公園から見た天王山です。


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何度も言いますが、「天下分け目」「関ヶ原」です!!!


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-21 22:20 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その6 「天王山山頂(山崎城跡)」

山崎の戦いで明智光秀に勝利した羽柴(豊臣)秀吉は、天王山山頂に天守を持つ城を築きます。

この城は山崎城とも天王山城ともいい、のちに大坂城が築かれるまでの秀吉の本拠地となりました。


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酒解神社を過ぎたあたりから、いくつもの曲輪跡らしき遺構が確認できます。


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土塁っぽいですね。


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山頂に繋がる登り口、どうやらここが虎口のようです。


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山頂にあがると、主郭跡は広場になっています。

この日はたいへんいい天気だったので、ハイキング客で賑わっていました。


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説明看板です。


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こちらは縄張り図


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主郭の北側は、さらに盛り上がった丘になっています。

縄張り図によると、ここが天守台のようです。


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中央には、「天王山山頂、標高270.4メートル」と書かれた標識が建てられていました。


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こちらは井戸跡


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主郭の周りには、土塁跡が確認できます。


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秀吉がこの地を本拠地としたのは、わずか2年ほど。

天正12年(1584年)4月には、山崎城は破却されてしまいます。

このとき、山崎城の天守も取り壊されたと伝わり、どの程度の規模かは定かではありませんが、天守があったことがわかっています。

山崎地方では、この地は字古城と呼ばれ、その後も城跡と認識されていました。

わずか2年の歴史しかない山崎城ですが、秀吉の天下統一の出発点として、歴史に大きな存在感を残しています。


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ゆっくり史跡を見ながらの登山だったので、麓から山頂まで1時間ほどかかりましたが、帰路は20分ほどで下山できました。

帰りに宝積寺によって、こんなものをいただきました。


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天王山登頂証明書

天王山を制覇しちゃいました(笑)。

でも、何度もいいますが、天下分け目「関ヶ原」です!


さて、天王山を制覇したので、次回からは周辺史跡をめぐります。




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by sakanoueno-kumo | 2016-07-07 07:12 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)  

山崎合戦のまちを歩く。 その4 「山崎合戦旗立松」

天王山八合目あたりに、「旗立松」と刻まれた石碑石灯籠があり、その横に松の木が植えられています。

説明板によると、山崎合戦の際に羽柴(豊臣)秀吉がここにあった老松の樹上高くに旗印を掲げ、自軍の士気を高めたと伝えられるそうです。


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当時の旗立松は明治中期ごろまでは、その姿をとどめていたそうですが、朽ちてしまったそうです。

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その後、幾度か植樹を繰り返し、説明看板には5代目とありますが、現在の松はその6代目だそうです。


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オリジナルの松は、きっと麓からも見えるほど大きな松だったのでしょう。


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すぐ横には、「山崎合戦の地」と刻まれた石碑があります。

実際には、合戦は山中ではなくで行われたんですけどね。


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こちらは裏面。




その側には、説明板があるのですが・・・。


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読めません(笑)。


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近くには、古戦場を望める展望台があります。


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木が茂ってよく見えないですが、高速道路が見えるあのあたりを境に、北に明智軍、南に羽柴軍が陣取っていました。


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展望台にある説明板です。


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『太閤記』によれば、秀吉の軍勢4万人に対し明智光秀1万6千人とあります。

夕方4時頃から始まった合戦は、わずか3時間ほどで決着がつき、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終わります。

その後、光秀は敗走し、落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命します。

世に言う「光秀の三日天下」ですね。


次回に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2016-06-24 07:29 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

山崎合戦のまちを歩く。 その3 「天王山登山道~秀吉の道陶板絵図」

宝積寺をあとにして天王山山頂を目指します。

登山道はハイキングコースになっていますので、そう苦もなくのぼれます。


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この日は昨秋10月18日の気候のいい日だったので、絶好のハイキング日和で多くの登山客とすれ違いました。


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途中の休憩所から見た天王山南側の眺望

中央の高いビルとビルの間に、かすかに大坂城が見えるとのことですが・・・。


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う~ん・・・見えるような見えないような・・・。


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登山道の道中には、頂上まで数カ所に分けて「秀吉の道」というタイトルの大きな陶板絵図が設置されています。

説明書きを見ると、堺屋太一氏の監修・解説、岩井弘氏の屏風画なんだとか。

お金かけてますねぇ。

せっかくなので、まとめて紹介しておきます。


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最初に目にしたのが、ハイキングコース最初の展望台「青木葉谷展望台」に設置された陶板絵図。

題名は「秀吉の中国大返◆勝負を決めた判断と行動◆」

わずか1週間足らずで備中高松城から引き返していた、有名な羽柴(豊臣)秀吉中国大返しが解説されています。


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続いて、ハイキングコース八合目あたりの酒解神社大鳥居をくぐったところに大きな陶板絵図が2枚。


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まずは、山崎合戦直前の各部隊のを描いた絵図。

題名は、「頼みの諸将来たらず◆明智光秀の誤算◆」

明智光秀があてにしていた諸将の援軍は来なかったという、光秀の誤算がテーマです。


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そのすぐ隣の絵図は、まさに合戦の様子を描いたもの。

題名は、「天下分け目の天王山◆勝負は川沿いで決まった◆」

前々稿でも言いましたが、天下分け目は「関ヶ原」だと思うんですけどね。


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さらに山を登って、酒解神社を過ぎたあたりにある絵図。

タイトルは「明智光秀の最後◆古い常識人の敗北◆」

たしかに、光秀はこの時代の常識人、秀吉や信長は非常識人でした。

時代を変える英雄というのは、その時代の人から見れば非常識な人じゃないとだめなんでしょうね。

秀吉に敗れた光秀は、落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命しますが、絵図は、まさにその寸前を描いたものです。


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最後は、山頂にある絵図。

題名は「秀吉の『天下人への道』はここからはじまった」

秀吉は光秀との戦いに勝利すると、ここ天王山山頂に山崎城を築城し、大坂城に移るまでの拠点とします。

まさに、秀吉の天下への道はここからはじまりました。

陶板の堺屋氏の解説では、「秀吉のきらびやかな天下。-それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。」と結んでいます。


それにしても、登山道の道中にこのような立派な陶板を設置するなんて、運搬がたいへんだったでしょうね。

次回につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2016-06-23 00:02 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)