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太平記を歩く。 その92 「湊川神社」 神戸市中央区

前稿で紹介した湊川公園から直線距離にして800mほど東にある湊川神社を訪れました。

ここは「湊川の戦い」討死した楠木正成を祀る神社で、境内には正成の墓所があります。


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湊川神社の創建は比較的新しく、明治元年(1868年)、明治天皇(第122代天皇)が正成の忠義を後世に伝えるために神社の創建を命じ、明治5年(1873年)に創建されました。


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全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、「別格官幣社」に定められた第一号神社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) にここ湊川神社が定められたのに始り、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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正門には、楠木氏家紋の菊水が。


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現在の社殿は、第二次世界大戦空襲によって焼失したものを、昭和27年(1952年)に復興新築されたもので、様式は権現造に似た八棟造りとされ、鉄筋コンクリート造で建てられており、戦後の新しい神社建築様式としての代表的な建物と言われています。


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本殿は三つの御扉が見え、三座に分かれ祀られているそうです。

中央の御扉の奥には主神の正成、向かって右には正成夫人、向かって左には嫡男の楠木正行と、正成と刺し違えて自刃した弟の弟の楠木正季以下、一族十六柱と、楠木兄弟と共に自刃した菊池武吉が祀られています。


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社殿内には、「非理法権天」旗印が見えます。

「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


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境内の参道横には、「大楠公御一代記」と題した大きな紙芝居調の看板があります。


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お時間の許す方は、しばし、ご覧あれ(笑)。


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撮影禁止だったので写真はありませんが、境内にある宝物殿にも、正成ゆかりの品々が多数展示されていました。


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5年に一度行われている「楠公武者行列の巡行」のイベントが、来年(平成30年)5月に行われるそうです。


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かつては皇国史観バリバリ国粋主義に政治利用された神社でしたが、現在は、わたしたち神戸市民のあいだでは「楠公(なんこう)さん」と親しみを込めて呼ばれています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-25 22:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その87 「櫻井驛跡(楠公父子訣別之所)」 大阪府三島郡島本町

大阪府と京都府の府境近くに位置する「櫻井驛跡」を訪れました。

「駅跡」といっても現代でいうところのそれではなく、古代律令制度下の「駅家」の跡です。

ここは、「楠公父子訣別之所」として知られています。


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『太平記』によると、建武3年(1336年)、九州から大軍を率いて上洛してくる足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、この地で11歳になる嫡子・楠木正行に訓戒を与え、河内国に帰らせたと伝えられています。


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『太平記』巻16「正成下向兵庫事」には、その別れの情景が記されています。


今度の合戦、天下の安否と思う間、今生にて汝が顔を見んこと、これを限りと思うなり。

正成すでに討死すとききなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代になりぬと心得べし。

然りといえども、いったん身命を助からんるに、多年の忠烈を失いて隣人に出ずること有るべからず。


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史跡公園内に建ついちばん大きな石碑『楠公父子訣別之所』の碑です。

大正2年(1912年)に建立されたそうです。

揮毫は陸軍大将の乃木希典

でも、乃木は明治天皇崩御の際に殉死していますから、この碑が出来たときには、既にこの世にいなかったことになります。


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こちらは、昭和6年(1931年)に建てられた『明治天皇御製碑』で、明治天皇が明治31年(1898年)に詠まれた歌が刻まれています。


「子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと」


揮毫は海軍大将・東郷平八郎だそうです。


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こちらは、『楠公父子子別れの像』です。

昭和15年(1940年)に建てられた最初の像は銅製だったそうですが、その後、戦争の協力で金属供出され、石像に変わったそうです。

更に時を経て、現在の像は平成16年(2004年)に有志によって寄贈されたものだそうです。


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どうりで、アニメちっくな顔だと思いました(笑)。


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正行の頭上のは、本物です(笑)。


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台座の「滅私奉公」の文字は、公爵・近衛文麿の揮毫です。

昭和15年の「滅私奉公」が何を意味するか・・・、後世の私たちは知っています。


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こちらのは最も古い石碑で、明治9年(1879年)に英国大使パークスが楠木正成の精忠に感じて、「楠公訣児之処」と刻した石碑を建てたそうです。

楠公さんの精忠はインターナショナルのようです。


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こちらは「旗立松」「子別れの松」と呼ばれる古松の幹です。

この松の木の袂で、楠木父子が決別したと伝えられます。

明治30年(1897年)に松は枯死し、一部を切り取って小屋に保存したそうです。


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「桜井の別れ」のエピソードは、戦前の国語の教科書には必ず乗っていた逸話で、「桜井の訣別」という学校唱歌にもなりました。

乃木希典、東郷平八郎、近衛文麿。

戦前の国粋主義バリバリですね。

乃木も東郷も、日露戦争後は生きながらにして神に祀り上げられた人物です。

忠臣の象徴として神格扱いされた大楠公と同じですね。

ただ、正成が後世に神扱いされることを望んでいたかどうかは、定かではありませんが。


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ちなみに、この「桜井の別れ」の逸話は『太平記』のみに記されているだけで、また、当時の正行は左衛門少尉の官職に就いており、年齢はすでに20歳前後だったという説が古くからあり、史実かどうかは疑わしいとされています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-15 00:11 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~

まずは、南側桜門から本丸に突入します。

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この桜門は徳川幕府によって寛永3年(1626年)に創建されたもので、重要文化財に指定されています。

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南側から見た本丸御殿跡です。
本丸とは城の中心部のことをいい、かつては、天守だけでなく政庁の機能を持つ御殿が建っていました。
大坂の陣によって豊臣時代の天守や本丸御殿は焼失してしまいますが、その後、徳川幕府によって盛土がほどこされ、再建されました。

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その後、幕末の戊辰戦争時の大火でほとんどが焼失してしまったため、史跡といえる建物はわずかになってしまいました。
特に、幕末の大修復で甦った本丸御殿は、京都の二条城二の丸御殿よりもさらに豪華な建物だったと言われていたそうで、焼失は残念な限りです。

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本丸の南西角にある日本庭園から撮影した天守です。
この日本庭園は、明治18年(1885年)に和歌山城二の丸御殿がこの地に移された紀州御殿(昭和22年に焼失)の名残だそうです。
絶好の撮影スポットです。

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天守に飛行機が・・・(笑)。

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「杼樟之記の碑」です。
江戸期を通じてここにあった樟が戊辰戦争の火災で枯死してしまったそうですが、碑文によると、その樹は豊臣秀吉手植えしたものだったという伝承があったそうです。
でも、秀吉の時代の本丸は徳川時代に埋め立てられていますから、あり得ない伝承ですけどね。

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明治天皇駐蹕之所碑です。
「駐蹕」とは、天皇が行幸の途中で一時乗り物を停めることだそうで、明治帝がこの地を訪れた際、ここでご休憩されたのでしょうか?
詳しいことが書いてなかったのでわかりません。

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本丸西側の石垣と、西の丸との間を分断する内堀です。
この広い堀と高い石垣を隔てて、淀殿北政所は睨み合っていたんですね(もっとも、この石垣は江戸期の再建ですが)。

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本丸北西に位置する隠し曲輪です。
ここも徳川幕府による再建時に造られたものですが、出入口が狭くて気づかれにくく、兵を隠す場所だったことから、隠し曲輪と呼ばれたそうです。
かつては幕府の焔硝蔵(火薬庫)が置かれていたことにより、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれました。

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隠し曲輪から見た天守です。

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で、最後に北側の山里口から見た天守です。
「その6」で紹介した極楽橋を渡って坂を登ってきたところにある入口で、桜門が正面玄関なら、こちらは裏口のような扱いですね。
江戸時代にはここにも立派な門があったそうですが、戊辰戦争時に焼失してしまったそうです。

さて、本丸を制覇したあとは、いよいよ天守を攻めます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-07 20:26 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~

西の丸庭園から南に向かうとすぐに、西の丸と二の丸を仕切る仕切門太鼓櫓跡があります。
仕切門とは、城門を突破して侵入してきた敵をくいとめるために設けられた石塁に設置された門のことで、徳川時代の大坂城二の丸には、ここを含む5ヶ所の仕切門が設置されていたそうです。

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この石垣の上には、かつては太鼓櫓が建っていたそうで、ここで時刻などを伝える太鼓が打ち鳴らされていたそうです。

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二の丸東側にある重要文化財一番櫓です。
「その1」で外堀側から見た一番櫓を紹介しています。

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続いて二の丸南側にある重要文化財の六番櫓です。
ここも、「その1」で外堀から見た六番櫓を紹介しています。

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二の丸とは、本丸の外側を囲う副郭のことで、本丸の次に重要な曲輪となる場所ですが、大坂城の場合、特に重要な設備があったわけでもなく、単に外堀と内堀のあいだのスペースといった区域です。
堀と石垣がとてつもない規模の大坂城ですから、二の丸に防御施設を置く必要もなかったのでしょう。

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その二の丸に、現在は豊國神社があります。
豊國神社とは、豊臣秀吉・秀頼父子と、秀吉の弟・秀長を祀った神社で、秀頼の時代には本丸内の山里丸豊国社があったそうですが、大坂夏の陣で焼失しました。

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豊国神社は京都にもありますが、あちらは秀吉のみを主祭神として「豊国(とよくに)」と読むのに対し、こちらは「豊國(ほうこく)」と音読みして、息子と弟も配祀した神社です。

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かつての豊国社は豊臣家滅亡とともに徳川幕府によって豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の墓は暴かれて遺体は磔にされたといいますから、江戸期に豊国社が再建されることは当然なかったわけですが、明治に入って、大阪に行幸された明治天皇が、豊臣秀吉を天下を統一しながらも幕府を作らなかった尊皇の功臣であると賞賛し、豊国大明神の神号復活と豊国神社再興を布告されたことから、京都の東山に社殿が建てられます。
そして明治12年(1879年)に京都の豊国神社より分祀され、大阪は中之島に豊国神社が建てられてますが、その後、昭和36年(1961年)に大阪城内に遷座されました。
実に360年の年月を経て、大坂城に帰って来たんですね。

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境内には秀吉の銅像があります。
現在の大坂城はすべて徳川時代に再建されたものですが、大坂城といえば、やっぱ太閤秀吉ですもんね。

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なかなか男前です。

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これは、慶長3年(1598年)、死が目前に迫った秀吉が開催した有名な「醍醐の花見」の桜のDNAを継承した桜だそうです。

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豊臣秀吉といい徳川家康といい織田信長といい、天下人の行きつくところはになりたがりますが、家康を祀った日光東照宮世界遺産になったことを思えば、豊國神社のあつかわれかたは、ずいぶん低い位置づけに感じますね。
関西人は家康より太閤秀吉びいきが多いですから、世界遺産にとはいいませんが、せめて国宝くらいのあつかいにはなってほしいものです。

次回に続きます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

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by sakanoueno-kumo | 2015-07-24 19:00 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その2

昨日の続きです。

内堀の外から見た広島城二の丸の写真です。
手前から太鼓櫓・多聞櫓・平櫓です。

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この石垣と3つの櫓から成る二の丸は、馬出の機能を持つ郭で、全国の城郭の中でも特異な配置だそうで、広島城の特徴とされています。

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上の写真は表御門
橋を渡って表御門をくぐり、二の丸内に入ります。

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で、こちらが二の丸内側から見た太鼓櫓と多聞櫓です。
これらはもちろん復元ですが、戦前まであった郭は、毛利輝元の築城当初からのものだったそうです。
3つの櫓の外観は、天守と同じく黒漆塗りの板貼りですね。

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こちらは内部の天井。
梁をむき出しにし、柱も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素なつくりです。
下の写真は、太鼓櫓のなか。

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工事が始まって2年後の天正19年(1591年)に輝元は入城しますが、その後も並行して工事は進められ、全工事が完工したのは慶長4年(1599年)、しかし、その前年に豊臣秀吉が死去しており、時代はふたたび戦乱の様相を呈していました。
そして、翌年に天下分け目の関ヶ原の戦い
このとき、名目上、西軍の総大将となった毛利輝元は、実際に出陣はしなかったものの、その責任を負わされ、徳川家康によって周防・長門の2ヵ国に押し込められます。
それが、幕末まで続く長州藩となるんですね。

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毛利家に代わって広島城に入城したのは、安芸・備後の2カ国(現在の広島県域)45万余石の領主となった福島正則でした。
正則はさっそく城の修築工事を進めるとともに、西国街道が城下を通るように南下させるなど、城下町を整備します。
しかし、洪水で破損した石垣を修築する際、幕府への修築届けの不備を咎められ、元和5年(1619年)、正則は安芸・備後両国を没収されます。
この一件については、豊臣恩顧の正則を失脚させるための幕府の陰謀説もありますが、真相は闇の中です。

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福島氏が去ったあと、領内は広島藩福山藩に分かれ、広島城には紀伊国和歌山城主だった浅野長晟が42万余石の領主として入城します。
以後、明治2年(1869年)の版籍奉還までの約250年間、浅野氏が12代に渡って広島城主を勤めます。

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明治時代、広島城内には旧大日本帝国陸軍の施設が徐々に設けられ、日清戦争時には、本丸に大本営が置かれたという稀有な歴史を持っています。
上の写真はその大本営跡です。

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なぜ広島に大本営が置かれたかというと、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が広島まで開通していたことや、近くに宇品港を擁するといった諸条件が揃っていたからです。
ここに大本営が置かれると、明治天皇が広島に入られ、城内にあった建物を行在所として、戦争を指揮されたそうです。

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太平洋戦争時にも、周辺に軍事施設が集中していたことから、この広島城が、原爆投下の目標点になったと言われています。
当然ながら、天守をはじめ城内の建造物は、すべて壊滅しました。

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夜の広島城です。
三脚などは持っていなかったので、手ブレご容赦ください。

毛利時代、福島時代、浅野時代のみならず、日清戦争、太平洋戦争と、近世近代の歴史を見つめ続けた広島城。
いまは、堀と緑に囲まれた城跡公園として、市民憩いの場となっています。
まさに、「兵どもが夢の跡」ですね。

晩秋の安芸国広島城逍遥記 その1

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by sakanoueno-kumo | 2015-02-13 18:14 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)