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花燃ゆ 第45話「二人の夜」 ~「太陽暦耕作一覧」と「維新三傑」の死~

 日本の暦が太陰暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦)に変わったのは、明治5年(1872年)12月2日を明治6年(1873年)1月1日に改めたことにはじまります。この影響をいちばん受けたのは、いうまでもなく農業でした。先祖代々、太陰暦に基づいて作物を育ててきたお百姓さんたちは、新しい暦に馴染めず、収穫に支障が出る有様だったといいます。

 これを問題視したのは、熊谷県(群馬県の前身)原之郷村(現在の前橋市)に住む船津伝次平という百姓でした。伝次平は独学で太陽暦を理解し、「太陽暦耕作一覧」と称したマニュアルを作成し、これを県令である楫取素彦に献上します。このマニュアルは、太陽暦に馴染めない農民たちでも、ひと目で理解できる優れた手引だったようです。これに感じ入った素彦は、「太陽暦耕作一覧」を県庁の予算で大量に印刷し、県下の農民たちに無料配布したそうです。このマニュアルのおかげで、熊谷県は他府県にくらべて改暦の混乱は少なくてすみました。伝次平の農業にかける熱意も素晴らしいですが、それをいち早く取り上げた素彦の英断もさすがですね。

 その後、伝次平の識見を高く評価した素彦は、伝次平を政府参議兼内務卿の大久保利通に紹介します。そして、やはり素彦と同じく伝次平を高く評価した利通は、伝次平を駒場農学校(東京大学農学部の前身)教師に登用します。後年、伝次平は奈良県の中村直三、香川県の奈良専ニとともに「明治の三老農」と呼ばれるようになります。

 「維新三傑」といえば、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、そして長州藩の木戸孝允ですが、この3人が、わずか1年の間に立て続けにこの世を去るんですね。最初に死去したのは木戸孝允。西南戦争まっただ中の明治10年(1877年)5月26日のことでした。享年45歳(満43歳)。死因は病死という以外に詳しいことはわかっていません。元来、ナイーブな性格の人物だったようですから、幕末の動乱から新国家設立の過程で、神経をすり減らして寿命を縮めたのかもしれませんね。木戸は最後まで鹿児島の情勢を憂い、京都の別邸で朦朧状態のなか、訪れた大久保の手を握り締め、「西郷、もう大抵にせんか!」と叫んだのが最後の言葉だったとか。

 そしてその4ヶ月後の9月24日、鹿児島県は城山にて西郷が自刃します。決起から7ヶ月に及んだ西南戦争は、明治政府軍の圧勝で幕を閉じます。最後の決戦場となった城山にて、股間を撃たれて歩けなくなった西郷は、肩を負っていて別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と語り、その場で別府に自身の首を討たせました。享年51歳(満49歳)。その後、反乱軍幹部たちはめいめいに戦死をとげ、ここに、わが国最後の内戦は終わります。

 そして、その政府軍の首相である大久保も、木戸の死から1年が経とうとしていた明治11年(1878年)5月14日、石川県士族6人によって暗殺されます。享年49歳(満47歳)。暗殺者たちは事前に予告状を送り付けていましたが、大久保はこれに一顧だにしなかったといいます。いかにも腹の座った性格がうかがえますが、命を落としてしまったら何にもなりませんね。暗殺団に囲まれて馬車から引きずり下ろされた大久保は、抵抗する暇もなく、めった斬りにされ、喉へ突き刺されたトドメの一撃は、首を貫通して地面に突き刺さったといいます。

 こうして維新三傑たちは、その役目を終えたかのように立て続けにこの世を去りました。そして、残って国の政治・軍事をリードするのは、伊藤博文山縣有朋など、維新前後には脇役に過ぎなかった二線級の志士たちでした。このあたり、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』で、司馬氏が次のようなことを言っています。

 分類すれば、革命は三代で成立するのかもしれない。初代は松陰のように思想家として登場し、自分の思想を結晶化しようとし、それに忠実であろうとするあまり、自分の人生そのものを喪ってしまう。初代は、多くは刑死する。二代は晋作のような乱世の雄であろう。刑死することはないにしても、多くは乱刃のなかで闘争し、結局は非業にたおれねばならない。三代目は、伊藤博文、山県有朋が、もっともよくその型を代表しているであろう。かれら理想よりも実務を重んずる三代目たちは、いつの時代でも有能な処理家、能吏、もしくは事業家として通用する才能と性格をもっており、たまたま時世時節の事情から革命グループに属しているだけであり、革命を実務と心得て、結局は初代と二代目がやりちらかした仕事のかたちをつけ、あたらしい権力社会をつくりあげ、その社会をまもるため、多くは保守的な権力政治家になる。山県狂介が、あるいはその典型かもしれない。

 楫取素彦なども、三代目に属する人物といえるかもしれませんね。幕末の英雄たちがこの世を去り、時代は変わろうとしていました。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-09 20:25 | 花燃ゆ | Comments(2)  

花燃ゆ 第41話「いざ群馬へ」 ~楫取素彦の地方官出仕~

 旧長州藩主・毛利敬親の死去に伴い、山口県の権大参事の職を辞した楫取素彦は、山口県二条窪村の山荘で開墾に汗を流しながら隠棲していましたが、そんな穏やかな暮らしは長くは続きませんでした。廃藩置県改革の施行に伴い、地方行政にも優れた人材が必要とされ、そこで、隠棲していた素彦にも、その白羽の矢が立ちます。とくに木戸孝允が素彦の出仕を強く望んだようですね。しかし、ドラマのように、素彦は政府からの要請をいったんは辞退したといいます。その理由はわかりませんが、妻・寿子の健康状態のことも気になっていたでしょうし、素彦自身もこのとき既に47歳に達しており、当時の平均死亡年齢からいえば結構な高齢ですから、気力・体力的にも積極的になれなかったのかもしれません。何より、素彦は二条窪村での山荘暮らしを気に入っていたようでした。しかし、悩んだすえ、結局は地方官への出仕を決意します。

 政府から素彦に正式に辞令が出たのは明治5年(1872年)2月3日。彼が山口県への出仕を辞したのが前年の4月ですから、二条窪村での隠棲生活は1年もなかったんですね。でも、そのわずかな期間に、素彦は自ら鍬を持って荒地を開墾し、不毛の地を田畑に変えたそうです。ドラマのように、村人にも率先して溶け込み、慕われていたとか。この時代、元武士が百姓になる例は少なくありませんでしたが、大概は不慣れな農作業に四苦八苦し、うまくいかなかったたといいます。素彦は相当器用な人だったのでしょうね。

 こうして素彦は山口県を離れることになるのですが、最初に就いた出仕先は群馬県ではなく、足柄県参事(現在の副知事)でした。足柄県とは、現在の神奈川県西部と静岡県伊豆半島にあたります。そしてその2年後の明治7年(1874年)7月に熊谷県(現在の埼玉県の大半、群馬県のほぼ全域)の権令(のちの県令・知事)となり、その後、明治9年(1876年)8月に熊谷県改変に伴って群馬県が新設され、その初代県令に素彦が就きます。なんで足柄県と熊谷県をすっ飛ばしちゃったんでしょうね。ドラマの進行が明治何年の設定なのかわかりにくい描き方になっていますが、素彦が地方官として山口県を離れたのは明治5年(1872年)で、素彦が群馬県令に就いたのは明治9年(1876年)。足柄県、熊谷県時代には特筆すべき話はなかったのかもしれませんが、だとしても、4年もの歳月を有耶無耶にしてしまうのは、ちょっと乱暴すぎではないでしょうか?

 ちなみに、素彦の足柄県への出仕は、単身赴任だったようです。この頃から妻・寿子は健康を害しはじめていたようで、ひとり残った二条窪村の山荘には、美和がたびたび通っていたようです。その後、熊谷県に転任するにあたり、妻を呼び寄せたようです。そのとき美和が同行してきたかどうかはわかりませんが、どこかのタイミングで、美和も群馬を訪れ、姉の看病や家政全般を取り仕切るようになったようです。

 一方、山口では、中央政府より下野してきた前原一誠が、政府に不満を持つ士族たちと徒党を組み始めていました。一説には、前原らの不穏な兆しを察知した木戸孝允が、前原と気脈を通じた仲であり、不平士族に人望のある素彦を萩から遠ざけるため、地方官への出仕要請をしたとも言われています。そして素彦が群馬県令に就いた同じ年の10月、前原の主導する「萩の乱」が勃発するのですが、それはまた、次回以降ということで。あそこまで描いたんだから、まさか、スルーってことはないですよね?


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-13 20:34 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第39話「新しい日本人」 ~廃藩置県~

 明治4年(1871年)7月14日、明治政府によって廃藩置県の詔が発令され、すべての藩が廃止されます。同時に、知藩事に任命されていた旧藩主たちすべても解任されて東京に集められ、代わって政府が選んだ適任者が、県令(現在の県知事)として配置されました。これにより、美和が務める奥御殿も、否応なく閉じられることになりました。ようやく、何が描きたかったのかよくわからない奥御殿編が終わりです。

 ここで、版籍奉還から廃藩置県の流れについてふれておきます。明治政府は、幕藩体制下の封建制から近代的な中央集権国家をつくるため、支配していた土地(版)人(籍)を天皇に返還させたのが版籍奉還でしたが、しかし、代わりに旧藩主を旧領地の知藩事に任命し、その下には、縮小されたとはいえ相変わらず武士団が存在し、年貢の取り立ても、知藩事が行っていました。結局のところ、便宜上、版籍を奉還したものの、かたちとしてはあまり変わっておらず、明治政府の力は依然として弱いものでした。このままでは、いつクーデターを起こされるかわからない。政府は、もっと地方の力が弱まる政策を必要としていました。

 この頃、旧天領や旗本支配地などは、政府の直轄地として「府」「県」が置かれ、政府から知事が派遣されていました。東京府、大阪府、京都府の3府と、現在まで名称が残っている県としては、兵庫県、長崎県などがそれにあたります(現在の区画とは大きく異なります)。この制度を全国に統一させようというのが「廃藩置県」でした。イメージ的に、廃藩置県によって初めて府や県ができたように思いがちですが、実は、「府」「県」「藩」が同時にあった時期があるんですね。これを「府藩県三治制」といいます。中央集権と地方自治が入り混じった複雑な時期だったんですね。

 政府としては、一刻もはやく廃藩置県を発令したかったのですが、それには、まず、直轄の軍隊をつくる必要がありました。廃藩置県の荒療治を断行するには、それ相応の反作用が予想されるわけで、それを抑えつけるだけの軍事力が不可欠。それには、徴兵制が必要だと唱えたのが、大村益次郎でした。この案に政府参議の木戸孝允は賛同しますが、同じく参議の大久保利通らは、いきなりそんな強引なことをすれば、たちまち戦になるとして、反対の立場をとります。その後、両派は連日激論を交わしますが、結局、大久保らの主張する慎重論に収まり、薩摩・長州、土佐三藩による御親兵の設置が決まりました。このときの心境を木戸は日記にこう綴っています。

 「わが見とは異なるといえども、皇国の前途のこと、漸ならずんば行うべからざることあり」

 自分の意見とは違うが、すこしずつ前進させていかなければならない、ということですね。我慢強い木戸らしい述懐です。

 その後、大久保による政府内の構造改革を経て、洋行帰りの山県有朋を兵部少輔にすえて御親兵を設置。廃藩置県を断行するお膳立ては整いましたが、さらにこの政策を強固なものにするために、大久保は鹿児島に引っ込んでいた西郷隆盛に中央政府への出仕を求めます。人望のある西郷を押し立てて、その威光を借りて改革を断行しようと考えたんですね。このあたりが、大久保の政治家としてのスゴイところです。この頃の大久保の言葉が残っています。

 「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず」

 何もせずに失敗するよりも、大勝負を打って失敗したほうが、よっぽどいいじゃないか!・・・ってことですね。さすが、決断力と行動力の人です。

 こうして水面下で準備が整えられ、明治4年(1871年)7月14日、ほとんどクーデターの如く廃藩令が下され、藩が消滅しました。懸念された暴動のようなものは、ほとんど起こりませんでした。何の前触れもなく電撃的に行われたため、呆気にとられた感じだったのかもしれません。それと、諸藩側の事情としても、戊辰戦争以来の財政難に行き詰まっていた藩が多く、廃藩は渡りに船といった感もあったようです。政府は、藩をなくす代わりに、諸藩の抱える負債を引き継ぐかたちとなりました。いろんな意味で、絶妙のタイミングでの革命だったのかもしれません。

 この革命を知った英国の駐日公使ハリー・パークスの感想が、アーネスト・サトウの日記に残っているそうです。

 「欧州でこんな大改革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」

 こうして261藩は解体され、1使3府302県となり、同じ年の11月には1使3府72県に改編されます。パークスが大絶賛した無血革命でしたが、武士すべてが失業という荒療治の反動は、この後ジワジワと押し寄せてくることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-28 20:51 | 花燃ゆ | Comments(2)  

花燃ゆ 第38話「届かぬ言葉」 ~奇兵隊脱隊騒動~

 版籍奉還という荒療治を断行し、急速に中央集権化を推し進めようとしていた明治政府でしたが、強引な改革というのは、当然その反作用を生みます。今話で描かれていたのは、その過程で起こった奇兵隊脱隊騒動でした。

 版籍奉還によって収入が大きく減少した諸藩は、大胆な財政改革の必要に迫られます。そこで長州藩の知藩事となっていた毛利元徳は、大幅な兵制改革に乗り出します。具体的には、奇兵隊を含む諸隊、約5000人余りを御親兵四大隊2250人に再編し、残り3000人余りは解雇という、大型リストラでした。かつて高杉晋作が奇兵隊を創設してから戊辰戦争にかけて、討幕軍の中心となっていた長州藩は、他藩以上に多くの兵力を抱えていました。バブル経済に乗っかって急成長した企業が、多くの従業員を雇い入れ、やがてバブルが弾けると、人件費の圧迫に堪えられなくなるといったやつですね。こうなると、企業の存続のためにはリストラはやむを得ません。

 しかし、現在のリストラでいえば、退職金を増額するとか、再就職の手助けをするとか、対象者から「不当解雇だ!」と訴えられないように図るものでしょうが(零細企業のリストラの場合は、そうも出来ない場合も多いでしょうが)、このとき元徳が行ったリストラは、退職金はもちろん、功績の評価などもまったくなく、元武士だけを残し、平民出身の隊士を解雇するというものでした。いかにも殿さまらしい愚策ですね。これでは、不平不満が生まれないわけはありません。

 明治2年(1869年)12月に決起した旧諸隊士たちは、翌年の1月に約2000人で山口藩庁を取り囲みます。ドラマでは、あくまで話し合いを求めて蜂起したように描かれていましたが、武装蜂起した以上、反乱軍ですね。この事態を重くみた木戸孝允は、急遽、討伐軍を編成して山口に送り込み、自ら指揮を執って鎮圧にあたります。ドラマでは、説得を試みる誠実楫取素彦に対して非情な木戸孝允という描かれ方でしたが、木戸の立場としては、やむを得ない判断でした。版籍奉還が行われたといえども、諸藩には未だ軍隊が存在し、一方の中央政府には、まだ直属軍というものがありません。このままでは、諸藩のクーデターによって、いつ中央政府が倒されてもおかしくなく、一刻も早く地方の力を弱めて、政府軍を作る必要がありました。ところが、ドラマでは描かれませんでしたが、その兵制改革の中心的役割を担っていた大村益次郎が、この少し前に長州藩の不平藩士よって暗殺されていました。大村の死は、長州藩にとっても中央政府にとっても大きな痛手であり、木戸にしてみれば、見せしめの意味でも反乱軍を力でねじ伏せる必要があると考えたのでしょう。

 戦いは激戦となり、一時は木戸も退却を余儀なくされる戦況になりますが、最終的には反乱は鎮圧され、捕らえられた兵の中心人物100人以上が死罪となります。ともに幕末の動乱を戦ってきた志士たちの同志討ち。討つほうも討たれるほうも、何ともやりきれない思いだったでしょうが、使い捨てとなった兵たちの反乱はこれで終わることなく、明治10年(1877年)の西南戦争まで、各地で起きるんですね。まさに、痛みを伴う改革だったわけです。

 ちなみに、反乱軍のなかには、かつて野山獄吉田松陰と意気投合し、出獄後、松下村塾に講師として招かれていた富永有隣がいました。今話で出てくると思たんですけど、出てこなかったですね。富永は逃亡したため死罪は免れましたが、明治10年に捕らえられ、国事犯として投獄されます。その後、明治17年(1884年)に釈放されたのち、を開いて若者の指導にあたりながら著書を執筆し、80歳まで長生きします。松下村塾ゆかりの数少ない生き残りのひとりでした。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-22 14:21 | 花燃ゆ | Comments(2)  

花燃ゆ 第37話「夫の忘れがたみ」 ~版籍奉還~

 前話で高杉晋作が死んだと思ったら、あっという間に明治編。それも、版籍奉還まで話が進んじゃいました。晋作の病没が慶応3年(1867年)4月14日で、明治政府によって版籍奉還が行われたのが明治2年(1869年)6月17日のことですから、今話で2年以上の月日が流れたことになります。物語の都合上、月日の流れが早くなったり遅くなったりするのは当然だと思いますし、主人公に直接関連の薄い出来事がスルーされるのもやむを得ないと思いますが、ただ、この2年間というのは、普通の2年間ではありません。

 大政奉還から王政復古の大号令、その後、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争に突入し、西郷隆盛勝海舟の歴史的会談から江戸無血開城を経て、会津戦争の最中に元号を明治に改元。皇居を東京に移し、そして新政府の目指す中央集権化の手始めとして、版籍奉還が実施されます。日本史上、最も世の中が動いた時期といえるでしょう。これをいちいち詳細に描いていたら、主人公の美和の描きどころがないのかもしれませんが、だとしても、あまりにもスルーしすぎですよね。これでは、まるで歴史がつながらない。久坂玄瑞の忘れがたみがどうのこうのと言ってるあいだに、2年も経ってしまいました(笑)。ちょっとひどすぎませんか?

 これまでわたしは、巷で酷評されているほど酷いドラマだとは思っていませんでした。伊勢谷友介さんの演じる吉田松陰像も好きでしたし、松蔭を中心とした松下村塾系の志士たちひとりひとりにスポットをあて、彼らの思い誇りなど、上手く描かれていたと思います。長州藩内の政局もリアルに描かれていましたし、名君か暗君か意見の分かれる藩主・毛利敬親の本作品での人物像も、わたしは好きです。という女性のことはよく知りませんが、無理に歴史を歪曲するような絡め方をせず、長州藩史を描く視点として無理のない描かれ方だったと思います。

 ところが、久坂が死んでから、どうも迷走している感が否めません。物語前半、ほとんど松蔭や玄瑞の物語のようになっていて、文の存在感が薄かったためか、奥御殿編に入ってから、なんとか文(美和)のドラマを作ろうと必死になっているように思えます。でも、途中から急に方針を変えたため、いったい何が描きたいのか意味不明になってきました。なんか、やる気なくなってきたなぁ・・・。

 気を取り直して、少しだけ解説します。幕府を倒した薩摩、長州藩士を中心に出来上がった新政府でしたが、これを守る軍隊は存在せず、一方で各藩には幕藩体制から続いた兵力がそのままとなっていて、新政府からすると危なくてしょうがない状態でした。そこで、まず新政府のやるべきことは、藩をつぶし、中央政権としての軍隊を持つことでした。しかし、それは容易なことではありません。

 そんなとき、姫路藩主の酒井忠邦が、「藩の名称を改め、すべて府県と同じにし、中興の盛業を遂げられたい」との提案を持ち込みます。この案に木戸孝允が飛びつきます。諸藩から無理やり権力を奪い取るのではなく、皇国日本をつくるためという名目で、藩主自ら領地と人民を朝廷にお返しする。その代わり、藩主は旧領地の知藩事(現在の知事)になり、行政を担います。つまり、小国の国王から、大国の役人になるということですね。木戸は、300年続いた封建制を打破するには、この方法しかないと立ち上がり、これを実現するには、まずは新政府の中心的藩である長州藩と薩摩藩が率先してやらねばならないと考え、藩主・毛利敬親を説得します。この進言を受けた敬親は、ドラマのように「そうせい!」とは、言わなかったようですよ。

 これが、今話で描かれていた版籍奉還の流れです。前話まで幕府と戦っていたのに、急に版籍奉還なんて言われても、この時代の歴史に疎い人は、わけわかんないですよね。来週はどんな展開になるのか心配です。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-15 00:11 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第34話「薩長同盟!」 その2

 昨日のつづきです。

 一度レールを外れてしまった「薩長和解」への道を、再び軌道修正することは至難の技でした。中岡慎太郎は早速、西郷吉之助の元へ赴き、薩長が手を結ぶことの必要性を激しく説きまが、断交状態にある二つの雄藩のそれぞれの事情は、「道理」では容易に動きませんでした。そんななか、ここからが坂本龍馬の活躍です。龍馬は、二つの雄藩を「道理」ではなく、「実利」で動かそうとします。

 まず長州藩に提示したのは、龍馬が運営する亀山社中が薩摩名義で武器船舶を購入し、長州へ回送するというプランでした。幕府は諸藩に長崎で直接外国から武器を購入することを禁じていましたが、第二次長州征伐を控えて、幕府に味方する諸藩の貿易は黙認されていました。それを利用して、長州に横流しするというのです。幕府との戦を想定して軍制改革に着手していた長州藩にしてみれば、願ってもない話です。しかし、一方的に薩摩が長州を援助するかたちでは、対等な同盟関係を結べません。そこで龍馬が考案した次のプランが、薩摩藩士が上洛し、征長戦を阻止するために必要な兵糧米が不足しているため、下関で米を売ってはもらえないかというものでした。これを長州藩は快諾します。このギブアンドテイクの関係が成立すると、同盟の話が再びテーブルの上に乗ります。「道理」ではなく「実利」。このあたりは、中岡や土方には考え及ばない龍馬ならではの周旋力ではないでしょうか。

 それともうひとつ。このときの長州藩の首相に、我慢強い桂小五郎が就いていたというのも大きかったでしょうね。本来、革命を成立させた高杉晋作が首相的立場に就くべきでしたが、ちょうどこの時期、四国に逃亡して長州を不在だったため、潜伏先の出石から呼び戻された桂が、藩のスポークスマンを任されていました。もし、このときの外交官が晋作だったら、きっと西郷がすっぽかした時点で、全面戦争の体制に入ったんじゃないかと・・・。その点、桂は政治家でした。歴史というのは、上手くできているものです。

 そして慶応2年(1866年)1月8日、京の薩摩藩家老・小松帯刀邸で、桂、西郷の会談が始まります。この席には、龍馬も中岡も土方もいませんでした。ここまで斡旋したのだから、あとは当事者同志に任せるといったところだったのでしょう。ところが、会談が始まって10日が過ぎた1月20日、京に入った龍馬は愕然とします。協定はまとまらぬまま、桂は帰ろうと身支度をしていたのです。桂がいうには、西郷らは毎日接待に気を使い、ご馳走攻めにはするものの、一言も両藩の協定について口火を切ろうとしない・・・とのこと。「ならば、なぜ長州から口火を切らぬ。」と龍馬が尋ねると、「それは出来ぬ。」と桂はいいます。曰く、両藩の立場が違う・・・と。その理由を『木戸孝允自叙ノ要領』から抜粋すると、
「薩州ハ公然天子ニに朝シ、薩州ハ公然幕府ニ会シ、薩州ハ公然諸侯に交ル」と。
 つまり、合法的に天子とも幕府とも諸侯とも交われる立場の薩摩に対して、孤立無援の長州から協定の口を開くということは、助けてくれというのと同じだ・・・というんですね。これを聞いた龍馬は激怒します。いつまで「藩」の体面にこだわっているのか、と。
「拙者らが両藩のために寝食を忘れて奔走するのは、決して両藩のためではない。一意国家を思えばこそだ。しかるに貴兄らは足を百里の外に労し、両藩の重役相会しながら今日まで為す事もなく日を送るのは、はなはだ心得ぬことではないか。」と。
 のちに龍馬は、亀山社中の中島作太郎に、「おもえば自分は生まれてこのかた怒ったことがなかった。しかしあのときばかりは、度を失うほどに腹が立った。」と語っています。

 桂は龍馬の怒りを理解できなくはなかったでしょうが、感情がそれを許さなかったのでしょう。感情は理屈ではありません。これまでの長州人の苦しみを考えれば、理屈ではどうにもならない意地がありました。その意地を貫くためなら、長州は滅んでもかまわない・・・とまで桂はいいます。
「薩州、皇家ニ尽スアラバ、長州滅スルトイヘドモ亦天下ノ幸ナリ」と。
 長州は面目にこだわりはしたが、「天下」のことを考えていないわけではない。薩摩が生き残り、皇国のために奮闘してくれるならば、長州は滅んでもかまわない、と。この言葉を聞いた龍馬の態度は、また『木戸孝允自叙ノ要領』の文章を借りると、
「龍馬、黙然タルコト稍久シク、桂ノ決意牢固トシテ容易ニ動カスベカラザルヲ察知シ、マタ敢ヘテ之ヲ責メズ。」とあります。
 龍馬は桂の立場を理解しました。

 その足で龍馬は、西郷のもとに駆けつけます。薩長両藩の提携は、その目前に際して、感情の整理が必要だったんですね。龍馬は西郷に対して、薩摩と長州のおかれた立場があまりにも違いすぎることを説きます。そして、この期に及んでなおも藩の体面と威厳を保とうとする薩摩を責めました。西郷は龍馬の説くところを理解します。そして翌日、もう一度桂と会い、西郷から長州との提携の議をもちだしました。同席したのは、薩摩側から西郷隆盛、小松帯刀、長州側から桂小五郎、そして仲介人として坂本龍馬の4人でした。

慶応2年(1866年)1月21日、ここに「薩長攻守同盟」が結ばれ、歴史はいよいよ「倒幕」の道をたどることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-25 23:26 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第25話「風になる友」 ~池田屋事件~

 八月十八日の政変によって長州藩が追い出されたことで、一時は静けさを取り戻したかに見えた京のまちでしたが、実はそれは表面的なもので、尊攘派の志士たちは京、大坂に潜伏して、勢力の挽回を謀っていました。そんななか、政変後に行われていた参預会議がもの別れに終わります。参預会議とは、一橋慶喜、島津久光、松平春嶽らが中心となって政局をはかった、いわば共和政治のような政治形態のことです。しかし、突然始まった連合政治でしたから、結局うまくは運営できずに短期間で瓦解してしまいます。これを政権奪還のチャンスと見た尊攘派の志士たちは、密かに京に集まってきました。

 そこで歴史の表舞台に一気に登場するのが新選組です。彼らはこの少し前から京都守護職・松平容保の預かりというかたちで京のまちの治安に当たるようになっていましたが、この新選組が日本史のなかに大きく名を刻むきっかけとなったのが、元治元年(1864年)6月に起きた「池田屋事件(池田屋の変)」でした。

 きっかけは、商人に化けて潜伏していた尊攘派志士の古高俊太郎が捕らえられたことに始まります。捕縛された古高は新選組の手によって厳しい拷問にかけられ、結果、力尽きて自白してしまいます。その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという超過激な計画で、しかも、近々市中で同志の集会があることも判明します。

 古高捕縛の報を受けた尊攘派志士たちは、肥後藩の宮部鼎蔵をはじめ、長州藩の桂小五郎ら約20名が、旅館・池田屋に集合して善後策を協議します。この会合を知った新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦しますが、戦闘なれした新選組にはほとんど刃が立たず、結果、多くの志士たちが闘死、もしくは捕らえられて斬られます。すさまじい弾圧だした。

 松下村塾四天王のひとりだった吉田稔麿は、この池田屋事件で命を落とします。これまでだいたいの物語での稔麿の最期は、池田屋襲撃の事態を長州藩邸に知らせるべく現場から離脱するも、藩邸の門は開られることなく、門前で自刃するという描かれ方がほとんどだったと思いますが、今回のドラマでは、藩邸に向かう道中で気が変わって引き返したところ、その帰路で囲まれて斬られるという設定でしたね。どちらが事実なのか調べてみたところ、どうやら諸説あって定説はないようです。前者の自刃説は、同じくこのとき死んだ土佐藩の望月亀弥太の話と酷似していますから、それと混同した話のようにも思えます。その意味では、ドラマの設定のほうが真実味があるかもしれませんね。享年24歳。無念だったに違いありません。

 このときの桂小五郎にも諸説あります。よく知られる話では、小五郎は池田屋に早く着きすぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話しており、そのため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。どちらが事実かはわかりませんが、のちに「逃げの小五郎」と言われた彼ですから、後者のほうが面白い気はしますけどね。いずれにせよ、このときもし小五郎が命を落としていたら、のちの維新三傑に名を連ねることもなかったでしょうし、明治維新における長州藩の立ち位置も違ったものになっていたかもしれません。

 この段階では、攘夷派のなかでは桂小五郎より宮部鼎蔵の方が、はるかにビッグネームでした。しかし、歴史は無惨にも宮部の命をここで終わらせてしまいます。歴史の犠牲となった宮部鼎蔵と、歴史に生かされた桂小五郎。この紙一重の運命の違いも、歴史の面白いところですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-22 17:38 | 花燃ゆ | Comments(7)  

雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」

ここ出石は、幕末のある時期、のちに維新三傑となる長州藩士の桂小五郎こと木戸孝允公が潜伏していた町としても知られています。
元治元年(1864年)に起きた禁門の変(蛤御門の変)で長州藩は朝敵となり、追われる身となった小五郎は、新撰組や幕吏の手を逃れて数日間京都に潜伏していましたが、いよいよ身の危険を悟った小五郎は、出石の町人・広戸甚助という人物の助けを得て京のまちを脱出、ここ出石に逃れます。
出石に逃れた小五郎でしたが、当時の出石藩は佐幕派が主流で、長州藩の大物・桂小五郎を亡命させてくれるはずがありません。
小五郎は広戸家で匿われながら、広江屋孝助という偽名を使い、この場所で荒物屋を営んでいたそうです。
長州なまりとか、どうしてたんでしょうね。
いまは蕎麦屋になっているその跡地に、ひっそりと石碑が建っています。

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小五郎が出石に潜伏していた期間は9ヵ月ほどでした。
禁門の変で朝敵となった長州藩内では、一時保守派が政権を握りますが、高杉晋作率いる奇兵隊軍事クーデターを成功させ、再び攘夷派が実権を握ります。
そこで高杉晋作や大村益次郎は、長州藩の統率者として小五郎を迎えるべく探索し、ここ出石に潜伏しているらしいとの情報をつかむと、さっそく迎えの者を送り込みます。
このとき、小五郎を迎えに来たのが、京都三本木の美人芸者でのちに小五郎の正妻となる幾松だったとか。
小五郎は神道無念流剣術の免許皆伝という剣豪でありながら、真剣を用いたという記録はほとんどなく、追われる身となってからも、商人や乞食に変装し、ときには女装までして闘争を避けることに徹していたため、「逃げの小五郎」とあだ名されたとか。
その逃げの小五郎を献身的に庇護していたのが、幾松だったという話は有名ですね。
朝敵となった小五郎が乞食姿に身をやつして二条大橋の下に潜伏したときにも、出石に亡命するまでの間、密かに食料を運んで支えたのが幾松でした。

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幾松が出石に迎えに来てから、20日間ほどここで一緒に暮らしていたと伝えられます。
その後、小五郎と幾松は城崎温泉に行ったとか。
日本人初の新婚旅行をしたのは坂本龍馬おりょう夫妻だと言われますが、こちらは婚前旅行ですからねぇ(笑)。
こっちのほうが進んでいたともいえるのかなぁ・・・と(笑)。

e0158128_21411483.jpg

明治に入って桂小五郎は木戸孝允と改名。
幾松は正式に孝允と結婚し、木戸松子と名乗ります。
「逃げの小五郎」の最も長い逃亡劇の舞台である出石は、小五郎が幾松との結婚を決意したまちでもあったかもしれませんね。

あと1回くらい続けようかどうしようか・・・。


雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-11 21:45 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)  

八重の桜 第34話「帰ってきた男」 ~新島襄と八重の出会い~

 前話で八重川崎尚之助の涙の別れが描かれたと思ったら、本話では早くも新島襄と急接近でしたね。なんとも節操のない話のようにも感じますが、実際にも、八重が襄と再婚したのは、尚之助の死から間もなくのことだったようです。偶然というには出来すぎの話ですね。八重の再婚は、兄・山本覚馬の後押しだったのでしょうが、尚之助の死も少なからず影響していたと考えても、無理はないかもしれません。

 ここまで当ブログでは、新島襄という人物にまったくふれてこなかったので、ここで少し、襄の人となりについて簡単に述べてみたいと思います。

 新島襄は、天保14年(1843年)に上州安中藩板倉家で祐筆を務める新島民治の長男として生まれます。幼名は七五三太(しめた)。八重の2歳上、尚之助の7歳下になります。七五三太という名前は、女子が4人続いたあとに生まれた待望の男子だったため、祖父が思わず「しめた!」と叫んだことから命名されたという説があるそうですが(ドラマでもそう言ってましたね)、いかがなものでしょうね。

 板倉家は三万石の小藩でしたが、歴とした譜代大名でした。その江戸屋敷で育った襄は、黒船来航から3年後の安政3年(1856年)に元服し、藩の命を受けて蘭学を学び始めます。オランダ語を学ぶことで海外情勢への関心を深めた襄は、さらに万延元年(1860年)からは幕府の軍艦教授所航海術を学び、さらにさらに、文久3年(1863年)には英語を学びはじめます。絵に描いたような秀才君だったわけですね。

 やがて襄は、英語を学ぶなかで聖書にふれ、アメリカに憧れを抱くようになります。そして元治元年(1864年)6月14日、箱館に停泊していたアメリカの商船ベルリン号に密かに乗り込み、日本を出国しました。言うまでもなく、当時、海外渡航重罪でしたが、それでも、海外への憧れの気持ちを抑えられなかったのでしょうね。このあたりの行動力は、ただの秀才君ではなかったようです。

 箱館を出てから約1年が経過した慶応元年(1865年)6月、憧れのアメリカの地に降り立った襄は、密航船の船主夫妻の援助を受けてフィリップス高校に入学します。その在学中に洗礼を受け、卒業後はアーモスト大学に入学し、理学士の称号を得ます。これは日本人初の学士の学位取得だったそうです。その後、アンドーヴァー神学校に入学し、キリスト教伝道のための教育を受け、学業を終えたのは明治7年(1874年)のことでした。実に充実した9年間だったわけですが、何の後ろ盾もない密入国者の襄が、これほどまでの充実したアメリカでの生活を過ごせたのは、熱心なキリスト教の信仰心と、彼の人柄によるものだったでしょうね。やはり、ただの秀才君ではありません。

 襄が学業三昧の生活を送っていた頃、日本では幕府が倒れ、明治政府が誕生していました。その明治政府の首脳たちで形成された使節団(岩倉使節団)が明治5年(1874年)にアメリカを訪れ、襄は彼らの通訳を務めることになります。使節団に同行してアメリカだけでなくヨーロッパ諸国への見聞も広げた襄は、その間、副使の木戸孝允からの厚い信任を得ます。このとき得た人脈が、のちの同志社創立の際に大いに役立ちます。

 襄が帰国したのは、明治7年(1874年)11月のことでした。その目的は、宣教師の一人として日本でキリスト教の布教活動を行うためです。江戸時代より禁止されていたキリスト教は解禁となり、日本語を話せる宣教師が求められていました。それと、もうひとつの目的が、キリスト教と近代科学を教える学校の創立だったのです。当時、大阪にいた木戸は、襄の学校創立に全面的にバックアップすることを約束してくれますが、大阪では思うようにことが運べず、京都府大惨事の槙村正直の後ろ盾でもあった木戸は、襄に槙村を紹介します。そこで、槇村の知恵袋的存在だった山本覚馬と知り合うんですね。かねてから西洋文明に明るく、キリスト教にも好意的だった覚馬と襄が意気投合したのは、当然のことだったといえるでしょうか。その後、覚馬は襄の学校創立に熱心に協力します。

 その覚馬の妹である八重と結婚することになる襄ですが、二人が最初に出会ったのは、覚馬や槇村の紹介ではなく、ドラマにあったように、八重が聖書を習いに通っていた宣教師・ゴードンの家だったようです。ある日、八重がいつものようにゴードン宅を訪れたところ、玄関で靴を磨いていた一人の男がいました。その男こそ襄だったわけですが、八重は彼をただのボーイだと思い、別に挨拶もしなかったそうです。あとでゴードン夫人から襄を紹介されて、ボーイではなかったことを知るわけですが、これが、二人の最初の出会いだったと、後年の八重が語っています。ってか、たとえボーイでも挨拶ぐらいしろよ・・・と、思わなくもないですが(笑)。

 八重が井戸の上に敷いた板の上に座っていたシーンがありましたが、あれも実話だったようで、後年の襄が語っていたエピソードだそうです。井戸の上に座れば確かに涼しいでしょうが、板が折れたら無事ではすみません。襄が覚馬にそのことを話したところ、「どうも妹は大胆なことをして仕方がない」と嘆いたとか。八重は兄のことを心からリスペクトしていましたが、だからといって兄のいうことをすべて聞いていたわけでもなかったようですね。覚馬が八重の行動に手を焼いていた様子がうかがえるエピソードです。

 そんな八重と襄が結ばれるのは明治9年(1876年)1月のこと。二人を結婚させたのは兄・覚馬だったでしょうが、結婚前のエピソードなどがこうして残っているところから見ても、決してさせられた結婚ではなかったようですね。生来の秀才君と根っからのお転婆娘の二人。一見、まったく釣り合いそうもない気がする二人ですが、かたや国禁を犯しての密航を実行し、かたや機関銃を肩に男性に混じって戦うという、大胆不敵という点においていえば、似たもの同士だったのかもしれませんね。二人の接近は必然だったのかもしれません。ちょっと、尚之助が気の毒な気がしないでもないですが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-29 22:55 | 八重の桜 | Comments(2)  

八重の桜 第10話「池田屋事件」 ~池田屋の変~

 新選組が日本史のなかに大きく名を刻むきっかけとなったのが、元治元年(1864年)6月の「池田屋事件(池田屋の変)」といっていいでしょう。前年の「八月十八日の政変」以後も、尊攘派志士は京都・大坂に潜伏して、勢力の挽回をはかっていました。新選組や所司代・町奉行の配下の者は、きびしくその行動を取り締まっていましたが、ことに諸藩邸や旅館、料亭などの出入者に対して目を光らせていました。そして、かねてからマークしていた三条木屋町の武具商・桝屋喜右衛門を検挙し、家宅捜索を行いました。

 喜右衛門の本名は古高俊太郎、近江国栗太郡出身の尊攘志士でした。捕縛された俊太郎は新選組の手によって厳しい拷問にかけられ、結果、力尽きて自白してしまいます。その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという恐るべきもので、しかも、すでに計画実行の志士が多数上洛、潜伏しており、近々市中で同志の集会があることも判明します。

 古高俊太郎捕縛の報を受けた尊攘志士たちは、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)をはじめ、肥後藩の宮部鼎蔵ら約20名が、旅館・池田屋に集合して善後策を協議します。この会合を知った新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦し、旅館の内外は大混乱。新選組局長・近藤勇は、その夜の様子を次のように記しています。

 「かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候、藤堂は鉢金を打ち落され候より深手を受け申し候」
(徒党の多勢相手に火花を散らし、一時あまりの間、戦闘におよんだところ、永倉の刀は折れ、沖田の刀は帽子折れ、藤堂の刀は刃切れ、ささらのようで、倅の周平は鑓を切り折られ、下拙(自分)の刀は名刀虎徹であるからだろうか、無事であった。藤堂は鉢鉄を撃ち落とされたので、深手を受けた)

と、戦闘の激しさを仔細に伝えたうえで、

 「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候」
 (じつにこれまで、たびたびの戦いをしてきたが、二合わせ戦った者はまれに覚えているほどであるが、今度の敵は多勢であるとはいえ、いずれも万夫の勇者で、まことに危ういところを助かった)

と、戦った尊攘派志士たちに対しての感想を綴っています。

 戦闘のあと、守護職・所司代配下の者など約3000人もが駆けつけましたが、その時には多くの志士たちの息はなく、池田屋の女将までもが死にました。幸運に命が残った者は捉えられ、わずかに桂小五郎、渕上郁太郎らがからくも脱出します。小五郎は一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。芸者の幾松が、夜の暗闇にまぎれて二条大橋の下に握り飯を運んで、小五郎を助けたという有名な逸話も、このときの話とされています。いずれにせよ、このときもし小五郎が新選組とまともに戦っていたら、のちの維新三傑に名を連ねることもなかったでしょうし、明治維新における長州藩の立ち位置も違ったものになっていたかもしれません。

 一方、この事件で宮部鼎蔵をはじめ、尊攘派の多くの有能な人材が命を落としました。もし、彼らが明治の世まで生きていたら、新政府高官として大いに尽力したことでしょう。しかし、彼らの死がまったくの犬死だったかといえば、そんなことはなく、この事件をきっかけに尊攘派の反幕思想はより激しくなり、討幕の気運を一気に高めたことは想像に難しくありません。歴史の犠牲となった宮部鼎蔵と、歴史に生かされた桂小五郎。この紙一重の運命の違いも、歴史の面白いところですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-12 15:40 | 八重の桜 | Comments(0)