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太平記を歩く。 その138 「大日寺」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂より500mほど南下した場所に、大日寺という小さなお寺があります。

ここは、「その136」 「その137」で紹介した村上義光・義隆父子の菩提寺だそうです。


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勝手神社の前の小道をしばらく下ると、小さな山門が見えます。

ここが、大日寺です。

いまは真言宗のお寺だそうですが、かつては金峯山寺の一院だったそうです。


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元弘3年(1333年)閏2月1日、北条幕府方の二階堂貞藤(道蘊)率いる大軍に攻められ、村上義光・義隆父子は大塔宮護良親王の身代わりとなって果敢な最期を遂げました。

大日寺は、この村上父子の菩提寺として、今日まで追善供養を行ってきたそうです。


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寺伝によると、大海人皇子(のちの天武天皇)ゆかりと伝えられるそうで、吉野山で最古の寺院であったと伝わる日雄寺の跡と伝えられるそうです。

本堂には、金剛界大日如来を中尊とする五智如来が祀られているそうで、藤原氏時代の仏像様式を伝えるものとして、重要文化財に指定されています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-08 00:20 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その137 「村上義隆の墓」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂より南に約1.5km、勝手神社から下市町才谷へと抜ける奈良県道257号線沿いに、前稿で紹介した村上義光の息子・村上義隆があります。

地図では勝手神社の交差点から近いと思ったのですが、結構歩きました。


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義隆は父とともに大塔宮護良親王に従い、吉野城の戦いにも加わっていました。

元弘3年(1333年)閏2月1日、父は大塔宮の身代わりとなって壮絶な戦死を遂げ、息子の義隆も父とともに死ぬ覚悟を決めますが、最後まで宮を守るよう父に諌められます。

父の遺言どおり宮を守ってこのあたりまで落ち延びてきたところ、敵に追いつかれ、10ヵ所以上の矢傷を受け、もはやこれまでと悟った義隆は、小竹の藪にかけ入って切腹して果てたと伝わります。

わずか18年の生涯でした。

この間、大塔宮は天の河へ落ち延びることができました。


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父・義光の墓は宝篋印塔でしたが、息子・義隆の墓は違いますね。

建てられた年代が違うのでしょうか・・・。


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地元に人に道を聞いたら、皆、父の義光の墓を案内してくれるので、義隆の墓に行きたいと聞くと、地元の人にもあまり知られていないようでした。

父のような壮絶な最期ではありませんが、同じ日に大塔宮のために腹を切ったことは同じ。

もうちょっと知られててもいいですよね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-07 12:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その136 「村上義光の墓」 奈良県吉野郡吉野町

「その126」で紹介した吉野神宮から1kmほど北へ坂を上りつめた右側の丘の上に、村上義光と伝えられる宝篋印塔があります。


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道路わきに古い石碑があり、その側に説明板が設置されています。


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その横にある石段を上ります。


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石段の上に上ると、広い空間にポツンとのさびた宝篋印塔石碑が見えます。

どうやら、あれが義光の墓のようです。


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これが、義光の墓です。


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村上義光は信州の人で、『太平記』には、大塔宮護良親王熊野に逃れる際、お供した9名のなかのひとりとして登場します。

『太平記』巻五「大塔宮熊野落事」によると、大塔宮とともに熊野から吉野山に来る途中で、賊に奪われた錦旗を取り返して、賊を田んぼにめがけて投げ飛ばし、勇名を轟かせたとあります。

このとき4、5丈(約12m)ほど投げ飛ばしたといいますから、かなりの怪力の持ち主だったようです。

「その128」でも紹介しましたが、元弘3年(1333年)閏2月1日、落城寸前の蔵王堂二天門の楼上で、大塔宮の身代わりとなって割腹して果てました。

このとき義光は、自らのはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえたのちに、うつぶせとなって絶命したといいます。

案内板によると、身代わりとなって蔵王堂で果てた義光を北条方が検分し、親王ではないと判明して打ち捨てられていた亡骸を、哀れと思った里人がこの地に葬ったと伝わるそうです。


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宝篋印塔の横には、錆びた甲冑武士のミニチュアがありました。

誰が、いつ置いたものでしょう?


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向かって右にあるこの石碑は、大和高取藩士・内藤景文が天明3年(1783年)に建てたとされる「村上義光忠烈碑」だそうです。

江戸時代から、忠臣として崇められていたんですね。


同じ吉野山には、義光のい息子、村上義隆の墓もあります。

次回は、そちらを紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-05 23:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その128 「金峯山寺・大塔宮御陣地」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した蔵王堂の正面、玉垣に囲まれたなかに桜の木が4本植えられている空間があります。


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時代は遡って元弘3年(1333年)閏2月1日、北条幕府の二階堂貞藤(道蘊)を総大将とする大軍に責められた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の第二皇子・大塔宮護良親王は、ここに本陣を布いて戦ったと伝えられます。


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隅には「大塔宮御陣地」と刻まれた石柱が建てられています。


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『太平記』巻7「吉野城軍の事」によると、圧倒的な兵力で攻める幕府軍でしたが、天然の要害を持つ吉野城を攻めあぐみ、戦いは一進一退の攻防を繰り返します。

しかし、結局は衆寡敵せず、死を覚悟した大塔宮は、ここ蔵王堂前で最後の酒宴を開いたといいます。


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『太平記』の記述によると、このとき、大塔宮親王の鎧には7本の矢が刺さり、二の腕の2ヵ所に傷を負い、血が滝のように流れていましたが、宮は突き刺さった矢を抜こうともせず、流れる血を拭おうともせずに、毛皮の敷物の上に立って、大盃で3杯空けたといいます。

なんとも豪傑な親王ですね。


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雲が近いです。


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蔵王堂前庭の南側には、「村上義光忠死之所」と刻まれた石柱が建てられています。

村上義光は大塔宮護良親王の忠臣で、『太平記』では、「元弘の変」笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる親王に供奉した9名のなかの1人として登場します。

吉野城落城の際、前庭での酒宴も終わり、いよいよ死を決した大塔宮護良親王に対して、「ここで宮に死なれるのは犬死というもの、恐れながら今お召しの鎧直垂と甲冑を賜り、それを某が身に着けて敵を欺きましょう。その隙に宮は落ち延びてください。」と涙ながらに説き、身代わりとなって二天門に駆け上がり、「われこそは大塔宮護良親王である。」と叫んだのちに見事に腹をかき切り、壮絶な最期を遂げたといいます。

このとき義光は、自らのはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえたのちに、うつぶせになって絶命したといいます。

この間に大塔宮は高野山に落ち延びます。

歌書よりも軍書に悲し吉野山

松尾芭蕉の門弟・各務支考が詠んだ有名な句ですが、まさに、そんな歴史が感じられる場所です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-09-21 23:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その80 「高田城跡」 兵庫県赤穂郡上郡町

「その72」で紹介した白旗城から直線距離にして南へ約5km駒山城から東へ約5km苔縄城から南東に6kmほどのところに、高田城跡があります。

写真中央にそびえる標高359mの山頂が、高田城だったとされています。


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時系列から少し逆戻りしますが、ここは元弘3年(1333年)に苔縄城にて赤松則村(円心)幕府打倒の兵を挙げたとき、東進する赤松軍によって攻め落とされたと伝えられます。


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『太平記』によると、挙兵した赤松軍は苔縄城からまず山陽道を西へ下り、「その10」で紹介した国境の船坂山六波羅探題の軍勢を破り、転じて東の高田兵庫助の城を攻め落とした勢いで、京へ向かって攻め上ったとあります。

その高田兵庫助の城というのが、ここ高田城と考えられています。


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山の麓にある奥甲八幡神社は、高田城主の居館跡と見られています。


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拝殿はかなり古いように思いますが、由緒書きや説明書きがないため、詳細はわかりません。


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こちらの建物には、絵馬や由緒書きが掲げられているのですが・・・。


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由緒書きは文字が消えてて一切読めません。


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絵馬も、ほとんどが色褪せていて、説明書きもないためほとんどわかりません。


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唯一分かったのがこれ。


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「南朝忠臣村上彦四郎義光」とあります。

村上義光後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の皇子・大塔宮護良親王の忠臣で、『太平記』では、「元弘の変」笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉した9名のなかの1人として登場します。

その後、元弘3年(1333年)の吉野山の戦いで、親王の鎧を着て身代わりとなり、切腹して果てました。

このとき、自らのはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえたのちに、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残る人物です。


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これだけ多くの絵馬がありながら、何の説明書きもないとは残念ですね。

帰宅してググってみても、ここ奥甲八幡神社の情報は皆目見つかりません。

あまり知られていないようですね。


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神社の裏山へ向かい、登山口を探しました。


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神社の西から北へ谷間を入る林道を行くと、防獣ネットで囲われた登山口が。


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少し登ってみたのですが、ほとんど登山道らしき道がなく、かなり険しそう。

午前中に駒山城を登った疲れもあり、季節がらマムシも怖かったので、登城は断念することにしました。


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ここを訪れたのは6月18日。

田植えが終わった美しい田園の景色を堪能しました。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-04 23:15 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)