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坂の上の雲 第13話「日本海海戦」 その2 ~エピローグ~

 戦後、東郷平八郎は日本海海戦の完璧な勝利によって、アドミラル・トーゴー(東郷提督)として世界中の注目を集め、日本だけではなく世界の歴史に名を刻んだ。たとえば、長年ロシアの圧力に苦しめられていたトルコなどは、自分の国の勝利のように歓喜し、東郷は国民的英雄になったそうである。その年にトルコで生まれた子供に「トーゴー」と命名する者もおり、「トーゴー通り」と名付けられた通りまであったとか。東郷平八郎は、トラファルガー海戦でフランススペイン連合艦隊を打ち破ったイギリス軍のネルソン、アメリカ独立戦争でイギリス艦隊を打ち破ったアメリカ人ジョン・ポール・ジョーンズと並んで「世界三大提督」と称された。

 日本でも東郷は当然、英雄視され、生きながらにして軍神に祭り上げられた。海軍内においては、軍令部長、軍事参議官を経て大正2年(1913年)に元帥府に列せられ、終身現役となる。大正3年(1914年)から大正10年(1921年)には、東宮御学問所総裁として昭和天皇の教育にもあたった。ただ、その権威はあまりにも大きくなりすぎ、現役の海軍重役が、重要事項を決定の際に必ず東郷の意見を聞くことが習慣化した。その結果、日本は主力が航空機に移り変わる時勢に乗り遅れ、昭和に入った後も大艦巨砲主義の呪縛にとらわれ続けることとなった、という意見もある。人間が神様になって良い結果をもたらしたことはない。東郷の場合も例外ではなかったようである。

 昭和9年(1934年)、満86歳で逝去。侯爵に昇叙され国葬が行われた。その葬儀の日には、世界各国の海軍関係者が彼の死を惜しんだという。その後、東京都渋谷区、福岡県宗像郡津屋崎町に「東郷神社」が建立され、“神”として祭られた。

 “神”といえばもう一人、乃木希典陸軍大将も軍神となった。戦後「陸の乃木、海の東郷」と英雄視された乃木だったが、彼の場合、日露戦争の武功というよりも、多分に人格的、精神的要素が理由だった。たとえば、降伏したロシア兵に対する寛大な処置や、旅順攻囲戦後の水師営の会見における、敵将ステッセルに対する紳士的な態度などが、世界中から賞賛された。乃木にはどこか神秘的で人を魅了するところがあったのは確かなようで、敵兵のみならず、従軍していた外国人記者からも尊敬された。こちらも東郷の場合と同じく、子供の名前に乃木の名をもらうという例が、世界的に頻発したという。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された。

 日露戦争の結果報告のため明治天皇に拝謁した乃木は、自らの不覚を天皇に詫び、涙声になりながら、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが、「今は死ぬべきときではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去ったのちにせよ」という趣旨のことを述べたとされる。その後、明治天皇のはからいで学習院院長を勤め、皇族の教育を尽力する。

 明治45年(1912年)、明治天皇が崩御すると、それを待っていたかのように、乃木はその大喪の当日に妻と二人で自刃して果てる。その報道に日本国民は悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。乃木の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道された。その殉死は一部で批判的な声もあったものの、多くの庶民に賞賛され、日本各地で乃木を祀った乃木神社が創建されることになった。だが、その明治天皇への忠誠心と敬愛による乃木の殉死は、やがて政治的・軍事的に徹底利用されることとなる。

 乃木の相棒、児玉源太郎は日露戦争終結8ヶ月後、参謀総長在任のまま 、就寝中に脳溢血で急逝した。享年55歳。日露戦争後の児玉は急速に覇気が衰えた観があり、ボーッと遠くを眺めているようなことがしばしばあったと言われる。作戦家として、軍事行政家として、日露戦争勝利のために日夜心血を注ぎ込んできた彼は、戦後はもはやすべてをやり尽くした感があり、生ける屍となっていたのかもしれない。小説「坂の上の雲」では、人事を尽くした児玉の最後の行動として「祈りに託す」という場面が幾度となく描かれているが、天性の機敏と胆力、的確ですばやい判断力と指導力を持った知将として名高い児玉でも、全身全霊を傾けて思考の限りを尽くし、最後の最後に行き着く先は「神頼み」なのかと、深く考えさせられたシーンである。その意味では、同じく「天才」と称された秋山真之もまた同じであった。

 「作戦上の心労のあまり寿命をちぢめてしまったのが陸戦の児玉源太郎であり、気を狂わせてしまったのが海戦の秋山真之である」
 と戦後いわれたそうだが、真之は発狂したわけではなかった。しかし脳漿をしぼりきったあと、戦後の真之はそれ以前の真之とは別人の観があったことだけはたしかである。戦後、真之の言うことにはしばしば飛躍があり、日常的に神霊を信ずる人になった。真之はロシア人があの海戦であまりにも多く死んだことについて生涯の心の負担になっていたが、それにひきかえ日本側の死者が予想外に少なかったことを僅かに慰めとしていた。あの海戦は天佑に恵まれすぎた。真之の精神は海戦の幕が閉じてから少しずつ変化しはじめ、あの無数の幸運を神意としか考えられなくなっていた。というよりも一種の畏怖が勝利のあとの彼の精神に尋常でない緊張を与えていたのかもしれなかった。

 日露戦争時に中佐だった真之は、のちに日本海海戦の功により若くして海軍中将まで昇進するが、日露戦争後は僧侶になって戦争の呪縛から逃れたいと思う日々を送った。結局それは叶わなかったが、真之は自分の長男の大(ひろし)に僧になることを頼み、その長男は無宗派の僧になることによって父親のその希望に応えたという。真之の生涯は長くなく、大正7年(1918年)、49歳の若さで没した。晩年の真之は、宗教研究など精神世界に深くのめり込んでいき、人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題を考えつづけたりした。すべて官僚には不必要なことばかりであった。

 その兄・秋山好古は、陸軍大将で退役したのち爵位をもらわず、故郷の松山に戻って私立の北予中学という無名の中学の校長を6年間務めた。従二位勲一等功二級陸軍大将という人間が田舎の私立中学の校長を務めるというのは、当時としては考えられないことであった。彼はその生涯において、
「男子は生涯一事をなせば足る。そのためには身辺は単純明快にしておく。」
 というのが信条で、常に無駄を省き、贅沢を嫌い、己の鍛錬に身をささげた。おそらく、爵位などには興味がなかったのだろう。第一、家屋敷ですら東京の家も小さな借家であったし、松山の家は彼の生家の徒士屋敷のままで、終生福沢諭吉を尊敬し、その平等思想を愛した。退役後は自らの功績を努めて隠し、校長就任時に生徒や親から「日露戦争の話を聞かせてほしい」「陸軍大将の軍服を見せてほしい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢することはなかった。好古は死ぬその年まで校長を務め、その年の4月、老後を養うため東京の借家に帰ってきたが、ほどなく発病した。見舞いに来た友人に、「もうあしはすることはした。逝ってもええのじゃ」と言ったりした。やがて、陸軍軍医学校に入院し、初めて酒のない生活をした。糖尿病と脱疽のため、左足を切断した。しかし、術後の経過は芳しくなく、昭和5年(1930年)11月4日、満71歳で病没した。好古が死んだとき、その知己たちは、こういったそうである。
「最後の武士が死んだ」と。

  司馬遼太郎氏は、原作第一巻のあとがきで、「坂の上の雲」という長い作品を書くあたり、
「たえずあたまにおいているばく然とした主題は日本人とはなにかということであり、それも、この作品の登場人物たちがおかれている条件下で考えてみたかったのである。」
と述べている。明治維新によって初めて近代的な「国家」というものを持った日本人が、「まことに小さな国」の国民としてどのように物事を考え、どのように生きたか。
司馬氏はいう。
彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。
上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。



近日中に、「まとめ」を起稿します。


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-28 17:27 | 坂の上の雲 | Comments(0)  

坂の上の雲 第13話「日本海海戦」 その1

 玄界灘に沖ノ島という孤島がある。この沖ノ島付近が決戦場となることを日露両軍は予測した。沖ノ島の西方というのが、日本海軍連合艦隊の司令部が算出した会敵地点だった。日本軍は旗艦「三笠」を先頭とした単縦陣であった。敵のバルチック艦隊は二列縦陣でやってきている。午後1時39分、旗艦「三笠」がバルチック艦隊を発見した。視界がよくなかったため、発見時にはすでに距離は近くなっていた。バルチック艦隊が日本軍の前にその全容を現したのが、午後1時45分ごろ。距離はざっと1万2千メートル。戦闘は7千メートルに入ってからでないと砲火の効果があがらないという東郷の方針は幕僚たちの覚悟となっている。

 秋山真之は信号文を発した。
「皇国の興廃、此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」
 この信号文がすぐさま肉声にかわり、伝声管を通して各艦隊の全乗組員に伝わった。この海戦に負ければ日本は滅びるのだと解釈し、わけもなく涙を流す者もいた。連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、戦闘の合図が出てもなお、旗艦「三笠」の艦橋に立ったまま司令塔に入ろうとしない。仕方なく真之は加藤友三郎と共に、東郷の側に付き添うことにした。

 バルチック艦隊は北進、日本艦隊は南下していた。双方の距離が約8千メートルになったとき、東郷は世界の海戦戦術の常識を打ち破った異様な陣形を指示した。敵前でUターンをしたのである。敵の射程内に入っているのに、敵に横腹をみせ左転するという、危険極まりない陣形だった。有名な敵前回頭である。敵艦隊の前で横一列になって、敵の頭を押さえようとしたのである。真之が考案した「丁字戦法」であった。敵艦退が猛烈に撃ってきたが、日本艦隊は回頭運動を行うのみで応射しない。この運動が完了するまでの15分間は一方的に敵の集中砲火を浴びた。だが、致命傷ではなかった。

 旗艦「三笠」の旋回運動が終わったとき、バルチック艦隊は右舷の海に広がっていた。距離はわずかに6千400メートル。右舷の大小の砲がいっせいに火を吐いた。目標は敵の旗艦「スワロフ」である。敵の将船を破り、全力をもって敵の分力を撃つ。距離はほどなく5千メートル台になった。兵員の姿がお互いに見える距離である。5千メートル以内に近づくと、日本軍の命中率は更に良くなった。東郷は敵に打撃を与えながら、艦隊の進路を変えた。常に敵の進路を押さえるためである。ロジェストウェンスキーの旗艦「スワロフ」は集中攻撃を浴び、炎上している。東郷はかねて、「海戦というものは敵にあたえている被害がわからない。味方の被害ばかりわかるからいつも自分のほうが負けているような感じをうける。敵は味方以上に辛がっているのだ」というかれの経験からきた教訓を兵員にいたるまで徹底させていたから、この戦闘中、兵員たちのたれもがこの言葉を思い出しては自分の気を引き締めていた。
 司馬氏はいう。
 「古今東西の将師で東郷ほどこの修羅場のなかでくそ落ち着きに落ち着いていた男もなかったであろう」

 この日本海海戦は明治38年(1905年)5月27日から28日まで2日間続いたが、秋山真之が終生、最初の三十分間で大局が決まったと語ったそうである。さらに真之は、こうも語っている。
 「ペリー来航後五十余年、国費を海軍建設に投じ、営々として兵を養ってきたのはこの三十分間のためにあった」と。

 ロシアの戦艦「オスラービア」が沈み、旗艦「スワロフ」も自由を失った。そのなかでロジェストウェンスキー自身も傷つき、戦線の離脱をよぎなくされる。バルチック艦隊の一部はなすすべもなく、連合艦隊を突破して一気にウラジオストックへ逃げ込もうとしたが、これも発見されてしまう。負傷したロジェストウェンスキーは駆逐艦「ベドーウィ」に移ったものの、結局、夜襲とその翌日にかけ、ロジェストウェンスキーとその幕僚たちがすべて捕虜となった。海戦史上、類のないことであった。この前に、バルチック艦隊の指揮権はネボガトフに移されていたが、そのネボガトフも数多くの日本の艦隊に包囲されてやむなく降伏。5月29日未明、ロシア側で戦っていた最後の装甲巡洋艦ドンスコイが自沈。770人余りが捕虜となり、日本海海戦は終わった。ロシア艦隊の主力艦はすべて撃沈、自沈、捕獲され、バルチック艦隊は消滅した。日本海軍の被害はわずかに水雷艇三隻、信じがたいほどの完璧な勝利であった。人類が戦争というものを体験して以来、この戦いほど完璧な勝利を完璧なかたちで生みあげたものはなく、その後にもなかった。

 日本海海戦の勝敗は、各艦の性能や兵員の能力で決まったのではなかった。日本側の頭脳考え方が敵を圧倒した勝利といえた。
 一つ目は、南朝鮮の鎮海湾でバルチック艦隊の到来を待っていたとき、東郷は射撃訓練を徹底的に行ったことである。これは東郷自身の苦い経験からきたものだった。砲弾は容易にあたるものじゃない、準備と鍛錬が必要であるということを、東郷は知っていた。
 二つ目は、東郷とその部下が開発した射撃指揮法であった。砲火指揮は艦橋で行い、それに基づき、各砲台は統一した射距離で撃つのである。多くの戦艦が一斉に同じ角度で射撃するといった工夫であった。
 三つ目は、敵との距離に応じて、東郷が弾の種類を変えたことであった。遠距離のときには、炸裂して兵員を殺傷する砲弾を使い、距離が三千メートル以下になると、艦隊の装甲部を貫き、大穴をあける砲弾を使った。さらには、敵前での艦隊運動の見事さ。また、東郷が自らの艦隊を風上へ風上へと持っていったことも命中率のアップに役立った。「天佑の連続だった」と、戦後、秋山真之は語ったが、その「天佑」の裏付けには、考えぬかれた知恵とぬかりない準備が存在した。司馬遼太郎氏はいう。
 「弱者の側に立った日本側が強者に勝つために、弱者の特権である考えぬくことを行い、さらに、その考えを思いつきにせず、それをもって全艦隊を機能化した、ということである。」

 日本海海戦の惨敗によってロシアは戦争を継続する意志を失い、米国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で講和が進められていく。この仲介でアメリカは国際的な外交関係に初めて登場した。8月10日より日露両国は正式交渉に入り、9月5日、アメリカのポーツマスで講和条約は調印された。

 連合艦隊が解散したのは12月20日、その解散式において、東郷平八郎は「連合艦隊解散ノ辞」を読んだ。この草稿もまた、真之が起草したものとされている。長文であるため一部抜粋してあげると、
 「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚(さと)らば我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。」
 「惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして時の平戦に依り其責務に軽重あるの理無し。事有らば武力を発揮し、事無かれば之を修養し、終始一貫其本分を尽さんのみ。過去一年有余半彼の波濤と戦い、寒暑に抗し、屡(しばしば)頑敵と対して生死の間に出入せし事、固(もと)より容易の業ならざりし、観ずれば是亦(これまた)長期の一大演習にして之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物無く豈(あに)之を征戦の労苦とするに足らんや。」

 以下、東西の戦史の例をひき、最後は以下の一句で結んでいる。
 「神明は唯平素の鍛練に力(つと)め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を奪ふ。
 古人曰く勝て兜の緒を締めよ、と。」


 この文章はさまざまな形式で各国語に翻訳されたが、とくに米国大統領のセオドア・ルーズベルトはこれに感動し、全文英訳させて、米国海軍に頒布したという。これにより名文家・文章家として知られるところとなった真之は、のちに「秋山文学」と高く評価されるようになる。

 こうして、約1年半続いた日露戦争は終止符を打った。開戦当初、諸外国の誰もがロシアの勝利を予想した戦争に、日本はかろうじて勝利した。ロシアが自ら敗けたといった方が正しいかもしれない。ここで、シリーズ第1部5話のエンディングのナレーションが思い出される。
「やがて日本は日露戦争という途方もない大仕事に、無我夢中で首を突っ込んでいく。その対決にかろうじて勝った。その勝った収穫を、後世の日本人は食い散らかしたことになる。」

「古人曰く勝て兜の緒を締めよ」
という真之の訓示は残念ながら後世に伝わらず、“勝利のおごり”によって、やがて無謀な戦争に突き進んでいったことは、歴史の知るところである。



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by sakanoueno-kumo | 2011-12-27 03:03 | 坂の上の雲 | Comments(0)  

坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その3 ~天気晴朗ナレドモ浪高シ~

 バルチック艦隊は明治38年(1905年)1月9日にマダガスカル島ノシベに入港して以来、2ヵ月ほど放置されることになる。本国からの指令が来ないので、身動きがとれないでいた。バルチック艦隊には、旅順の陥落が伝わっている。この艦隊のもともとの戦略的価値は旅順艦隊と合流して日本艦隊を撃滅するということにあり、その旅順艦隊が全滅して原理の基盤が崩れてしまった以上、本国へ帰るべきであったかもしれなかった。だが、本国からの指令が来ない。バルチック艦隊司令長官・ロジェストウェンスキーは引き返したかった。2ヶ月も猛暑と湿気の不健康な地に留まり、艦員の誰もがこれからの行き先すらわからず、次第に士気も衰えていった。

 結局、ロシア政府はもう一艦隊を増派することにした。ネボガトフ少将率いる第三艦隊である(第一艦隊は旅順艦隊、第二艦隊はバルチック艦隊)。ただ、この艦隊は老朽艦をかき集めて構成されたもので、ロジェストウェンスキーにしてみれば、むしろ足手まといになる懸念があった。「ネボガトフ艦隊が待つに価いする艦隊なのかどうか」は、世界中の専門家は否定的であった。とはいえ、ロジェストウェンスキーが自ら第三艦隊との合流を望んだわけではなく、彼にそれをやらせているのは皇帝ニコライ二世とその皇后アレクサンドラであった。さらにいえば、皇帝に絶対的専決権をもたせてしまっているロシアの体制そのものがそれをやらせているわけであり、もしこの国の国民と将兵がこの一大愚行から抜け出そうとするなら、革命をおこすしかなかった。

 マダガスカル島にいた2ヵ月間のバルチック艦隊の心境は、まさしく秋山真之が新聞記者の取材に対して応じた答えのとおりであったかもしれない。
 「行こかウラジオ、帰ろかロシア、ここが思案のインド洋」

 その頃、連合艦隊はバルチック艦隊迎撃に向かってすべての機能が作動しつつあった。2月6日、連合艦隊司令長官・東郷平八郎は真之らを率い、列車で東京を去った。2月14日、東郷、真之らが座乗する戦艦「三笠」は呉軍港を出港、2月20日には佐世保港を出港した。目指すは、南朝鮮の鎮海湾である。ここをバルチック艦隊が現れるまでの隠れ場としたのである。真之は、バルチック艦隊は見晴らしの利きやすい5月に来てほしいと願っていた(そして、その願いは実現するのだが)。それまでの3ヶ月間、ここでひたすら射撃訓練をおこなった。

 バルチック艦隊は、3月16日になってようやくマダガスカルのノシベを出航、インド洋を東へ進んだ。20日間のインド洋航海ののち、マラッカ海峡を通過するコースをとった。マレー半島の先端にはシンガポールがある。このコースの選択は進路の秘匿といった戦略的配慮は皆無であり、英国人に艦隊の全てをさらけ出しての航海をとなった。一方のネボガトフ艦隊は2月15日にリバウを出港、喜望峰沖を通らずに地中海スエズ運河経由でやってきた。中型艦のみであるためスエズ運河を通行出来たのである。5月9日、ロジェストウェンスキー艦隊とネボガトフ艦隊はカムラン湾の少し北方のヴァン・フォン湾沖で合流。これによりロシア艦隊は、総数50隻16万余トンという巨大艦隊となった。勝敗を決する戦艦は日本側が「三笠」以下4隻しかないのに対して、ロシアは8隻であるなど、総じて数の上ではロシア側が優位にたっていた。5月14日、その巨大艦隊が最後の停泊地であったのヴァン・フォン湾を出港した。

 この後の進路ほど日本側を悩ましたものはなかった。バルチック艦隊がどこを通るのか。日本側にとっては対馬海峡ルートを通ってくれるのがもっともよいし、定石ではそうであった。だが太平洋に出て迂回するかたちでウラジオストックに向かうことも考えられた。日本に艦隊が2セットあれば両方に手当てできたであろうが、連合艦隊1セットしかない。秋山真之も当初は対馬海峡を通るとの公算をもっていたが、直前になって迷いが生じた。この悩みを増幅させたのは、いつまでたってもバルチック艦隊が現われないことであった。知らぬ間に太平洋迂回コースをたどりつつあるのではないか・・・と。それはまさに、巌流島の決闘における佐々木小次郎の心理状態であったかもしれない。そんな中、東郷平八郎だけは言い切った。「対馬海峡を通る」と。司馬遼太郎氏はいう。
 「東郷が、世界の戦史に不動の位置を占めるにいたるのはこの一言によってであるかもしれない。」

 連合艦隊は三つの艦隊に区分され、主力の第一艦隊は東郷が指揮し、第二艦隊は上村彦之丞、第三艦隊は片岡七郎が指揮をしていた。そのうちの一隻「信濃丸」が5月27日午前2時45分、バルチック艦隊のものと思われる燈火を発見した。はっきり確認した後、午前4時45分「敵艦見ゆ」と無線連絡した。実はこの時、信濃丸はバルチック艦隊のど真ん中に迷い込んでいたのである。しかし、濃霧のためかバルチック艦隊から発見されることはなかった。信濃丸の一番近くにいたのが巡洋艦「和泉」で、この和泉が敵艦隊の位置を陣形、進路などを綿密に報告した。和泉はバルチック艦隊に発見されたが、攻撃されることもなく、無線妨害もされなかった。当時世界一の無線を積んでいた仮装巡洋艦ウラルが無線妨害をしようかとロジェストウェンスキーに伺ったところ、「無線を妨害するなかれ」という答えだった。なんとも不可解な命令だった。

 信濃丸が発した「敵艦見ゆ」の無電は午前5時5分、旗艦「三笠」に届いた。このとき甲板で体操をしていてこの知らせを聞いた秋山真之は、ドラマにもあったように、動作が急に変化して片足で立ち、両手を阿波踊りのように振って「シメタ、シメタ」と踊りだしたというのである。「秋山さんは雀踊りしておられた」と、このとき三笠の砲術長で、後年、海軍大臣にまでなる安保清種が、のちのちまで人に語った。

 東郷艦隊は決戦に向かうにあたっての決意を大本営に伝えなければならない。電文は秋山真之が起草したものではなく、飯田久恒少佐や清河純一大尉らが起草したもので、「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」とあった。これを読んだ真之は「よろしい」とうなずき、もう一筆くわえた。有名な、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」である。

 後年、飯田久恒は真之の回顧談だ出るたびに、「あの一句を挟んだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない」と語った。たしかにこれによって文章が完璧になるというだけでなく、単なる作戦用の文章が文学になってしまった観があった。この「天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、戦後、一部の者に批判された。「美文すぎる」というのである。これについて海軍大臣の山本権兵衛も、「秋山の美文はよろしからず、公報の文章の眼目は、実情をありのままに叙述するにあり、美文はややもすれば事実を粉飾して真相を逸し、後世を惑わすことがある」といった。たしかに山本のいうとおりであった。これより数十年後の太平洋戦争の際には、現実認識を無視して膨張された国士きどりの美文(?)が軍隊のなかに蔓延し、それによって真相を隠蔽したりもした。

 しかし、この場合、真之は美文を作るためにこの一節を付け加えたわけではなかった。真之のこの一節は、「本日天気晴朗のため、我が連合艦隊は敵艦隊撃滅に向け出撃可能。なれども浪高く旧式小型艦艇及を水雷艇は出撃不可の為、主力艦のみで出撃する」という意味を、漢字を含めて13文字、ひらがなのみでもわずか20文字という驚異的な短さで説明しているため、短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として後年まで高く評価された(モールス信号による電信では、わずかな途切れでも全く意味の異なる文章になるため、とにかく文章は短ければ短いほど良いとされている)。また、Z旗の信号文「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も、真之の作だといわれている。

 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
 世界中が注目した日本海海戦の幕が切って落とされた。

坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その1 ~黒溝台会戦~
坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その2 ~奉天会戦~


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-23 17:14 | 坂の上の雲 | Comments(0)  

坂の上の雲 第9話「広瀬、死す」

 日本がロシアに対して国交断絶を通告したのは、明治37年(1904年)2月6日。日本の宣戦布告は同月10日だったが、すでにそれ以前に砲門は開かれた。「宣戦布告なき先制攻撃」だったわけだが、後年の「真珠湾攻撃」の場合のそれとは違う。「この時代、必ずしも宣戦布告は必要ではなかった」とナレーションで語られていたように、開戦に先立って宣戦布告が義務づけられたのは、日露戦争終戦後の明治40年(1907年)のハーグで成立した「開戦に関する条約」からである。したがって、ドラマであったように、ロシア極東総督アレクセーエフが国際世論を味方に付けるために、わざと奇襲攻撃をさせたような設定は成り立たないし、原作にもそういう話はない。アレクセーエフは、単純に日本を侮っていた。「猿に戦争ができるわけがない。」と。

 日本の海軍は、ワンセットの艦隊しか持たないのに対し、ロシア軍はツーセットの艦隊を持っていた。ひとつは極東(旅順・ウラジオストック)にあり、もうひとつは本国(バルチック艦隊)にある。この二つが合わされば、日本海軍は到底勝ち目はない。故に、日本軍としては、バルチック艦隊が来る前にどうしてもワンセットを全滅させておく必要があった。それも、自軍の艦は一隻も沈めずに・・・である。それには奇襲しかなかった。日本の戦略の主眼は、できるだけ短期間で華やかな戦果を上げ、そのあとは外交で和平に持ち込むというものであり、この主眼を外してこの戦争はまったく成り立たないというのが、政府要人の一致した考えだった。そのため、この奇襲攻撃にかける日本の思いは並々ならぬものがあった。

 日本の奇襲は、作戦としては成功した。ロシア軍がまったく油断していたのだから当然だった。成功はしたが、思ったような戦果をあげることはできなかった。全部で18本の魚雷を射ちながら、戦艦2、巡洋艦1を大破させただけで、しかも3艦とも2カ月の修理で戦列に復帰できる程度の手傷だった。その好条件からいえば、考えられないほどの貧しい戦果である。連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、「敵の巨艦三隻に損害をあたえたり」という電報を東京に送ったが、この奇襲で、できるだけ敵艦の数を減らしておきたかった日本政府としては、期待はずれの報告だった。

 奇襲作戦には当然、二度目はない。日本艦隊は、旅順港に引きこもってしまったロシア艦隊を、どう攻撃するか頭を悩ませた。鉄壁の要塞に守られた旅順港には、容易に踏み込むことはできない。洋上の軍艦は、陸上の要塞砲と砲戦を交わしても到底太刀打ちできないというのが常識だった。日本軍としては、ロシア艦を旅順港口外に誘き出して撃つしかなく、たびたび挑発行為に出るが、ロシア軍はその挑発にはのることはなく、港内深くに引きこもったままひたすら消極作戦をとった。本国からのバルチック艦隊の到着を待つためである。日本軍としては、なんとしてもそれまでに旅順艦隊をなきものにしなければならない。そこで浮上したのが旅順港口閉塞作戦、港口に汽船を沈めてフタをしてしまうというものだった。出口を塞いでしまえば、中にいる艦隊は何の役にも立たない。敵を生きたまま、その力を封じ込めてしまう作戦だった。

 閉塞作戦を最初に立案したのは秋山真之だった。しかし、そのときは東郷に一蹴された。理由は、「実施部隊の生還が期しがたい。」というものだった。一度は廃案となったこの作戦が、ことここに及んで再び浮上したのは、もはや日本軍の作戦が行き詰っていたからだろう。しかし、このときこの非常作戦を言い出したのは、真之ではない。彼は、旅順要塞の実情がわかってくるにつれ、この作戦に消極的になっていた。しかし、日本海軍は結局、この無謀ともいえる非常作戦の実施を決する。強く推したのは、参謀のひとりである有馬良橘中佐と、戦艦朝日の水雷長である広瀬武夫少佐だった。

 広瀬はこの作戦で死を覚悟していたと思われる。彼は、一度目の閉塞船・報国丸の艦長室で二通の手紙を書いている。一通は、彼が生涯でただひとり愛したといわれる、ロシア駐在時代の恋人、アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤに宛てた手紙だった。その手紙の文面は、今は知るすべもない。もう一通は、同じくロシア駐在時代の友人、ボリス・ヴィルキッキ−少尉に宛てたものである。ヴィルキッキ−が旅順にいることは、彼からの手紙で知っていた。広瀬とヴィルキッキ−は、広瀬がロシアを去る際、戦争になっても互いの居場所を知らせようと約束していた。そのヴィルキッキ−に、今広瀬は返事の手紙を書いていた。この手紙の内容は、わかっている。たまたま手紙を書いているときに訪れた同僚に、その内容を話したらしい。
 「いま不幸にして貴国と砲火を交わす関係になったことはまことに残念である。しかしわれわれはそれぞれ祖国のために働くのであり、個人としての友情には少しも変わりはない。私はすでに去る九日、軍艦朝日にあって貴国艦隊を熱心に砲撃した。それさえ、互いの友情からみれば尋常ではないが、いままた閉塞船報国丸を指揮し、旅順港口を閉塞しようとしてその途上にある。わが親しき友よ、健やかなれ。」
 この手紙は通信艇に託され、数ヶ月のちに中立国経由でヴィルキッキ−の手に届いた。

 続いて広瀬は、閉塞船の船橋に横断幕を張り、そこにペンキでロシア文字を書いた。原文は残っていないが、報国丸が沈んだあとにこれを読んだロシア海軍大佐ブーブノフの記憶によると、
 「尊敬すべきロシア海軍軍人諸君。請う、余を記憶せよ。余は日本の海軍少佐広瀬武夫なり。報国丸をもってここにきたる。さらにまた幾回か来らんとす。」
 といった内容だったという。広瀬がわざわざこれを書いたのは、おそらくヴィルキッキ−をはじめとするロシア時代の友人・知人の目にとまることを想定してのものだったのだろう。そして願わくばこのメッセージがペテルブルグに伝わり、アリアズナの耳に入ることも願って・・・。

 この閉塞作戦は2度行われるが、結果は失敗に終わった。理由は夜間に行ったため正確な港口の位置をつかめなかったためとも言われるが、日中に行なっていればそれ以前に要塞砲の餌食になって、港口にたどり着くまでもなく全滅していたかもしれず、結局は無謀な作戦だったということだろう。しかし、真之が強く推したように、夜間に行ったため犠牲者の数は少なくすんだ。少なくすんだが、その少ない中に、広瀬武夫がいた。広瀬の死に様はドラマのとおり、身体ごと吹っ飛ぶ壮絶な最期だった。

 広瀬武夫は死後、日本初の「軍神」となった。「軍神」とは、軍事・戦争を司る神で、壮烈な戦死を遂げた軍人が神格化されたもの。決死的任務を敢行し、また自らの危険を顧みず、部下の杉野孫七の生命を案じて退避が遅れ戦死を遂げたことから、新聞各紙がこのことを大きく取り上げ、「軍神」と讃えた。広瀬神話は瞬く間に日本全国に広がり、国民の英雄となった。終戦後の明治45年(1914年)には、文部省認定尋常小学唱歌『広瀬少佐の歌』が採用され、その歌詞では、燃え盛る閉塞船・福井丸の中で行方不明となった杉野孫七を捜索する姿をたたえ、「杉野は何処、杉野は居ずや」と歌われた(※後記参照)。さらに昭和に入ってからは、出身地である大分県竹田市に広瀬を祀る「広瀬神社」が創建され、崇められた。

 なぜ、少佐というさほど高くない階級の広瀬が、それほどまでに英雄扱いされたのか。これにはいろんな見方があるようで、一説には、ロシアとの戦争に消極的だった世論を、政府が新聞各紙を使って操作した、ともいわれている。日本が大国ロシアに立ち向かうためには、国民一体となった戦いが必要だった。その象徴として、一般国民に近い、さほど階級の高くない広瀬武夫を神格化して崇め、国民参加の戦争という世論を植えつけた・・・などといわれている。真実はわからないが、広瀬が「軍神」と崇められたことにより、国民と軍の関係が密接になったことは事実のようだ。しかし、この話は原作小説の中にはない。

 尋常小学唱歌 第四学年用 『廣瀬少佐の歌』

 1. 轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
   荒波洗ふ デッキの上に、
   闇を貫く 中佐の叫び。
   「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

 2. 船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
   呼べど答へず、さがせど見へず、
   船は次第に 波間に沈み、
   敵弾いよいよあたりに繁し。

 3. 今はとボートに 移れる中佐、
   飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
   旅順港外 恨みぞ深き、
   軍神廣瀬と その名残れど


 広瀬武夫。享年36歳。我が国の「軍神」第一号である。


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-28 03:38 | 坂の上の雲 | Comments(4)