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江~姫たちの戦国~ 第35話「幻の関ヶ原」

 「天下分け目の関が原」
 で知られる「関ヶ原の戦い」は、慶長5年(1600年)9月15日に、交通上の要衝であった美濃国不破郡関ヶ原で東西両軍約20万以上ともいわれる大軍が雌雄を決した戦いのことを指すが、その本戦を前後して他にも日本各地で東西両陣営による戦いが行われており、その局地戦の中でもとりわけ激しかったといわれるのが、お初の夫・京極高次が大津城に籠城した「大津城の戦い」である。

 会津の上杉討伐を掲げて大阪を発った徳川家康が、その道中で大津城に立ち寄ったのは史実のとおり。その時点で関ヶ原を想定した会談があったかどうかはわからないが、何らかの布石を打つために立ち寄ったことは間違いないだろう。大津は、京都から近江国、更には北陸道や東海道に出る交通上の要地であり、この時点で家康が石田三成との決戦を想定していたならば、何としても抑えておきたいだった。しかし、それは三成とて同じで、その後、挙兵した三成は、氏家行広朽木元綱を介して西軍に与するよう高次に要請する。家康と三成の戦いといっても、実質は徳川と豊臣の戦い。高次は迷ったであろう。彼にしてみれば、義妹・お江の夫である徳川秀忠は義弟となり、義姉・淀殿の子である豊臣秀頼は、義甥となる。高次は、徳川方に実弟の京極高知を同行させ、一方で石田方に味方する証として、嫡子の熊麿(のちの京極忠高)を人質として送った。似たようなかたちで、父子または兄弟が東西に別れて、どちらが勝利しても家名が存続できるように図った諸大名は他にも数多くいたが、京極家においては上記のとおり一層難しい立場にいたわけである。おそらく妻・お初共々、ギリギリまで迷っていたことだろう。

 そんな迷いからきた行動かどうかはわからないが、一旦は西軍に味方することを表明し、9月1日には西軍に従軍して大津城を発った高次だったが、9月3日に突如として兵を返して大津城に舞い戻り籠城、家康率いる東軍に寝返った。この高次の寝返りに驚いた義姉・淀殿は、西軍に味方するよう説得の使者を大津に送るが、高次の決意は固く、再び寝返ることはなかった。この行動を見過ごすわけにはいかない三成は、毛利元康立花宗茂らに命じて大津城を包囲。その数、1万5千とも、3万7千とも、4万ともいわれる。対する京極軍は僅か3千ほどだったとか。高次はその僅かな兵で、約1週間の籠城戦を戦うことになる。

 この高次の行動は、当初からの予定行動だったのか、はたまた、寸前まで迷っていた故の行動だったのか・・・。もし、家康との何らかの約束があっての寝返りだとすれば、あまりにも無計画すぎるようにも思える。具体的にいえば、東軍に寝返るにしても、徳川方の諸将との連携を何ら行わずに大津城に籠城したため、僅かな兵で大軍を迎え撃つはめになり、結果、猛攻を受けるはめになった。そう考えれば、計画的な行動だったとは考え難く、おそらく、迷いに迷った末のギリギリの決断だったのではないかと私は思う。

 ドラマのとおり、お初も懸命に高次の籠城戦を支え、奮闘したと伝わる。彼女にとっては、夫が東西どちらに与しようとも、実姉、実妹のどちらかを敵としなければならない。彼女にしてみればドラマでの台詞のとおり、両方に味方したい気持ちだったであろう。しかし、そんなことが出来るはずもなく、結局は高次の判断に従うしかない。おそらくお初は、高次と運命を共にする覚悟を決めていたことだろう。

 西軍の猛攻は凄まじく、わけても大砲を駆使した攻撃は、城内にいたお初や松の丸殿(京極龍子)の身辺に砲弾が降り注ぐという熾烈なものだったようである。天守に撃ち込まれた砲弾で侍女二人の首が吹き飛び、それを目の当たりにした松の丸殿が失神したという伝承も残っている(ドラマでは、さすがに首が吹っ飛ぶシーンはなかったが)。高次自身も傷を負っていたようで、籠城戦も限界と感じ始めた折り、再び、淀殿と京都の高台寺に隠棲していた高台院(北政所)からの和睦を勧める使者が訪れ、やむなく高次は降伏開城を決し、その日のうちに剃髪して高野山に登る。奇しくもこの日は慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦い当日の朝だった。あと1日頑張っていれば・・・歴史の悪戯である。

 高次は降伏開城したものの、結局は西軍勢を大津で釘付けにして関ヶ原へ向かわせなかったことになり、徳川家康は関ヶ原の戦後、この功績を高く評価した。当初、高次は開城したことを恥じて下山することを拒んでいたが、弟の高知に説得され若狭小浜8万5千石に加封され、翌年には更に7千石を加増されたという。以前は、姉や妻の威光を借りて出世したことから“蛍大名”と揶揄された高次だったが(参照:第19話「初の縁談」)、今回はまぎれもなく自力で手にした地位だった。それは、妻であるお初にとっても、きっと喜ばしいことだったであろう。ただ、一歩間違えれば夫婦共々砲弾の餌食になるところではあったが・・・。

 徳川秀忠と真田昌幸・信繁(幸村)父子との「上田城の戦い」についてもふれようと思っていましたが、すでに多くの行数を費やしてしまっため、またの機会に。


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by sakanoueno-kumo | 2011-09-13 23:59 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第31話「秀吉死す」

 慶長3年(1598年)3月15日、豊臣秀吉は京都の醍醐寺において、盛大な花見の宴を催した。後世に名高い「醍醐の花見」である。醍醐寺は京の都の南東に位置する由緒ある名刹。秀吉のこのイベントにかける思いは並々ならぬものがあったようで、花見の責任者に奉行の前田玄以を任命し、早くから寺観の整備に務めさせた。そして自らも下見のために醍醐寺へ足繁く通い、殿舎の造営庭園の改修を指揮。さらに、醍醐山の山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の桜を植樹した。当日は嫡子の豊臣秀頼をはじめ、北政所淀殿ら近親の者、さらには配下の武将とその家族など約1300人が招かれたと伝わる。当時としては、最大規模にして最も豪華な花見で、この「醍醐の花見」が、その後の日本に花見の習慣を根付かせたともいわれる。

 参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられており、そのきらびやかな衣装は秀吉の目を喜ばせた。ドラマでは描かれていなかったが、この花見の際に、側室の序列をめぐって淀殿松の丸殿(京極龍子)の間で争いがあったという話は有名。記録に残された当日の輿入れの順は、1番・北政所、2番・淀殿、3番・松の丸殿、4番・三の丸殿、5番・加賀殿、そのあとに、北政所が若い頃から親しくしていた、前田利家の正室・まつが続いた。正室である北政所が1番なのは当然として、秀吉は秀頼の生母としての淀殿の地位を重んじ、次席に据えた。ところが、この序列に面子を潰されたのが、淀殿より古くから秀吉の寵愛を受けていた松の丸殿。酒席で秀吉から杯を受ける際に、松の丸殿は序列を無視して淀殿の前に無理やり割り込み、二人の争いになった。この「杯争い」を、間に入って取り収めたのは秀吉ではなく、客人の立場であった前田利家の正室・まつだったとか。こういった場合、当事者の男は為す術を持たないのは、今も昔も同じようである。(このドラマでの淀殿と松の丸殿は、とてもそんな争いをしそうな二人ではないが・・・。)

 この浮世離れのイベントで秀吉たちが夢見心地なひとときを過ごしていたとき、朝鮮半島では激しい戦闘が続いていた。そもそも、この「醍醐の花見」が企画されたのは、朝鮮出兵で苦戦を強いられていた豊臣政権に漂う暗いムードを払拭したいという狙いがあったといわれ、また、自らの死期を感じ始めて精神的にも不安定な状態に陥っていた、秀吉自身の“気晴らし”という側面もあっただろう。会場となった醍醐寺の周辺は弓・槍・鉄砲を持った警備兵が囲み、そのものものしい警護も秀吉最後の宴に暗い影を落としていた。

 「醍醐の花見」からわずか5か月後に、秀吉は没する。秀吉はこの直後に病に倒れ、6月の終わりには赤痢のような症状に陥り、7月には、さすがに死期を悟ったのか、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、自身の死後の体制固めを懸命に行う。8月に入ると病状はますます悪化。この時点で、秀吉にとっての気がかりは、ただただ、まだ6歳秀頼の前途のみだった。

 「秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく 八月五日 秀吉印」
 「いへやす(徳川家康) ちくせん(前田利家) てるもと(毛利輝元) かけかつ(上杉景勝) 秀いえ(宇喜多秀家) 万いる 返々秀より事 たのミ申し候五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上」


 五大老に向けた秀吉の遺言状である。とにかく秀頼のことをよろしく頼むと、手を合わせるようにして五大老らに頼み続けている。天下人の最後のメッセージとしては、あまりにも無様で哀れな内容だが、幼子を残して逝く親の心中としては、少なからず共感できなくもない。むろん、戦国時代の中で戦い抜いて天下人となった秀吉は、主家である織田信長の子に対して自らのとった仕打ちを思えば、誓紙口約束など何の役にも立たないことはわかっていただろう。わかってはいても、そうするしかなかった。そこが、秀吉の最後の悲痛さである。

 慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉はその劇的な生涯に幕を閉じる。享年62歳。
 その辞世の句は、

 つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
 (露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢)


 出来すぎといっていいほど見事な辞世だと私は思う。日本史上最大の成功者が最後に辿りついた境地が、「なにもかもが夢であった。今となってはな・・・。(手前勝手意訳)」であったというところに、感動させられる。まるで、物語のような人生であったと・・・。しかしその前の、この世に未練いっぱいの悲痛な遺言状とは、およそ異質なもののように思えるのは、私だけではないだろう。はたして、この辞世の句と遺言状は、同時期に作られたものなのだろうか。もしそうであれば、どちらが本当の秀吉の心中だったのだろうか。この辞世は、本当に秀吉が作ったものなのだろうか。そんな疑問を抱かずにはいられないほど、あまりにも落差のある、二つの文章である。

 秀吉の最後は、豪壮華麗伏見城での臨終だった。数限りない武将を戦場で無念の死に追いやってきた男は、誠に平和で安らかな臨終を迎えられる立場に恵まれながら、人を信じられず、我が子の行く末を案じ、最後は狂乱状態であったともいわれる。志半ばで戦場に散った武将たちと、財も位も権力も昇りきれるところまで昇りつめた豊臣秀吉の、どちらが幸せな死に際であったか・・・。あらためて、人生の難しさを感じずにはいられない。

 お江と秀吉の関係については、すべてドラマの創作であることはいうまでもない。実際に、秀吉にとってお江という女性が、どの程度の気に留める存在であったかは想像でしかない。しかし、少なくともお江にとって秀吉は、自身の25年間の人生から切っても切り離せない存在であったことは間違いないだろう。秀吉の死の報にふれたお江は、きっと、感慨深い思いだったに違いない。その意味では、最後のお江の涙は、決してフィクションとはいえないだろう。


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by sakanoueno-kumo | 2011-08-17 22:19 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第19話「初の縁談」

 豊臣秀吉九州征伐から帰った天正15年(1587年)、浅井三姉妹の次女・お初は、のちに近江大津城主となる京極高次にもとに嫁いだ。高次は、秀吉の側室である松の丸殿(京極龍子)の弟(もしくは兄)で、二人の母、京極マリアはお初たち三姉妹の父、浅井長政の姉(もしくは妹、一説には叔母とも)であるため、お初と高次は従兄妹関係にあたる。お江の一度目の結婚相手、佐治一成も従兄妹関係だったが、一成の母、お犬の方は、お江たちの母、お市の方の妹で、つまり、お江は母方の従兄妹と、お初は父方の従兄妹と結婚した、というわけである。

 京極家は、鎌倉時代、室町時代を通して近江など数カ国の守護を世襲してきた名族で、かつては浅井家も京極家に仕える立場だった。しかし、これより半世紀ほど前、京極家に内紛が起こり、その機に乗じて家臣であった浅井家に実権を奪われ、零落してしまっていた。高次の父、京極高吉の時代に織田信長から近江奥島5000石を与えられていた京極家だったが、「本能寺の変」で信長が討たれると、高次は戦況を見誤り、姉、龍子が嫁いでいた若狭の武田元明と共に明智光秀に味方し、当時の秀吉の居城・近江長浜城を攻撃してしまう。しかし、周知のとおり光秀軍は「山崎の戦い」で秀吉軍に惨敗。龍子の夫、元明は自害する。敗走した高次は初め美濃、そして若狭の武田領へと逃れ、一時はお初たちの義父、柴田勝家に匿われていたようで、ひょっとしたらそのとき、お初たち三姉妹とも何らかの接触があったかもしれない。

 しかし、その勝家までもが秀吉に敗れてしまい、高次はいよいよ身体窮まってしまう。この窮地を助けたのが、姉の龍子だった。龍子は夫の元明の死後、秀吉の側室となっており、その姉の嘆願によって高次は赦免され、秀吉に仕えることとなる。天正12年(1584年)には近江国高島郡で2500石を与えられ、その翌々年に5000石へと加増され、さらに同年の九州攻めでは敵方の城を攻め落とすという戦功を上げ、一躍、江高島郡で大溝1万石の大名に取り立てられ、大溝城の城主となった。九州攻めでの功は高次の武将としての能力ともいえるが、そもそもは秀吉に二度までも楯突いた身。本来ならその時点でお取りつぶしになっていてもおかしくはなく、高次が大名になれたのは姉のおかげといっても言い過ぎではない。そして大名となった高次は、今度は信長の姪であるお初と結婚。姉や妻の七光りで出世したとされたことから、「蛍大名」と揶揄された。

 お初がどういう経緯で高次に嫁ぐことになったかはわからないが、ドラマのようなラブストーリーではなかっただろう。おそらく姉の松の丸殿(京極龍子)のとりなしがあっての結婚だとは想像できるが、ドラマでの松の丸殿の台詞にもあったように、亡き信長公の姪であるお初には、もっと政治的利用価値があったはず。実際に、お江がのちに徳川家康の三男・徳川秀忠に嫁いでいることを思えば、いくら鎌倉時代から続く名家とはいえ、このときの京極家は秀吉からみれば格下の格下で、お初を嫁がせてまで深い関係を築くべき相手ではない。いってみれば、側室である松の丸殿と高次が姉弟という関係があれば、京極家が秀吉に楯突くことはまず考えられず、それだけで十分なわけである(秀吉の死後、高次は豊臣家に弓引くことになるのだが)。であれば、なぜ秀吉は格下の高次にお初を嫁がせたのか・・・。想像するに、松の丸殿の熱心な介在(いわゆる、おねだり)があったと思われ、そう考えれば、高次がお初を熱烈に見初めた・・・なんて話も、案外あったかもしれない。

 お江が三度の結婚をしたのに対し、お初と高次は生涯添い遂げた。しかし、二人の間に子どもはできず、のちに側室との間に長男、忠高が生まれてからは、夫婦仲はあまり良くなかったといわれる(のちにこの忠高に、お江と徳川秀忠の娘、初姫を妻合わせるが、ここにも子どもができなかった)。しかし、のちに二人してキリシタンになったことを思えば、夫婦仲はそれほど悪くはなかったのかもしれない。

 お初が嫁いでしまったので、ドラマではしばらくお菓子を頬張る彼女の姿は観られなくなりそう。後年、お初は、豊臣と徳川に分かれた姉・妹の間に挟まれ、「大坂の陣」の際には両家の和睦交渉の使者に駆り立てられることになるのだが、それはこの物語のずっと後の話である。


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by sakanoueno-kumo | 2011-05-23 16:22 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(1) | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第11話「猿の人質」

 北ノ庄城から逃されたお江お初お茶々の三姉妹は、父母の仇、羽柴秀吉の手によって保護される。その後、三人が何処で暮らしていたかについては、織田信長の実弟で三人の叔父にあたる織田有楽斎の庇護の下にいたという説や、秀吉の庇護の下で摂津大坂城山城伏見城に暮らしたという説、あるいは実父・浅井長政の姉で三人の伯母にあたる京極マリアに預けられ、安土で過ごしたとする説がある。また、のちに京極マリアの娘で秀吉の側室となっていた京極龍子の後見のもと京都にいたという説もあり、ドラマでは、安土説をとってマリアを龍子に置き換えた設定となっていた。

 京極家について少しだけ。お江たちの叔母・京極マリアは、浅井家の次女として小谷城に生まれ、京極高吉に嫁ぎ、2人の息子と3人の娘を設ける。その息子の一人、京極高次が、後にお初の夫となる人物である。京極家は、鎌倉時代、室町時代を通して近江など数カ国の守護を世襲してきた名族で、かつては浅井家も京極家に仕える立場だった。しかし、これより半世紀ほど前、京極家に内紛が起こり、その機に乗じて家臣であった浅井家に実権を奪われ、零落してしまっていた。まさに下克上の代表的な例ともいえるが、しかしその浅井家が、江たちの父・長政の世代に織田信長の手によって滅ぼされたのに対し、京極家は、その後、豊臣秀吉徳川家康の時代を上手く渡り歩いて家を再興し、結果、250年後の明治維新まで続いて“華族”に列せられたことを思えば、下克上という一時の繁栄を得た成り上がり者の儚さを見ると共に、鎌倉時代から続いた名族の根っこの太さを感じる。現代でいえば、創業何十年といった老舗企業と一時に躍進したベンチャー企業の差に例えられるだろうか。ベンチャー企業・浅井家が、あくまで自社単独経営にこだわって押しつぶされたのに対し、老舗企業・京極家は、大企業・豊臣家や徳川家の傘下に甘んじながらも、会社存続に徹した経営が功を奏した結果と言えるだろうか。その老舗企業・京極家の存続に、こののちお初が大きな力となっていく。

 京極マリアの娘・京極龍子はお江たち三姉妹の従姉妹にあたる。お初の夫となる京極高次の姉(妹とも)であり、つまり、お初の小姑となる女性である。お江たちが秀吉に保護されたこの時期、龍子は秀吉の側室となっていた(西の丸殿松の丸殿と呼ばれるようになったのは、秀吉が天下人となったのちの話)。ドラマでは、非常におおらかな女性に描かれていたが、彼女もここに至るまでの人生は波乱に満ちていた。初めは若狭守護の名家・武田元明に嫁いで2男1女を設けたものの、『本能寺の変』ののち、弟(もしくは兄)・高次と夫・元明が明智光秀の味方につき、『山崎の戦い』で元明は落命。捕らえられた龍子は、その美貌が秀吉の目に止まり、側室に迎え入れられることになる。一説には、このとき龍子の二人の息子たちは、秀吉の手によって処刑されたともいわれている(異説あり)。元明と龍子は非常に仲睦まじい夫婦だったともいわれ、それでも仇である秀吉の側室になる道を選んだのは、弟・高次の生命を守るためだったともいわれ、京極家を守るための決断だったのかもしれない。その姿は、まさにお江たちの母・お市の方の小谷城落城時の姿。龍子の人生も、従姉妹のお江たち三姉妹やお市の方に、決して勝とも劣らない波乱万丈のものだった。のちに秀吉の側室となるお茶々(淀殿)とは不仲だったという逸話も残っているが、その生い立ちからみて、龍子は三姉妹の一番の理解者だったのではないかと私は思う。

 とにかく、秀吉の庇護に頼らざるを得なくなったお江たち三姉妹。こののち三人は、秀吉の欲望や野心の道具として、その人生を弄ばれることになる。本ドラマにおいて、秀吉の描かれ方があまりにも酷いといった批判の声を多く耳にするが、この物語はあくまでお江たち三姉妹の目線で描かれた物語。のちの天下人であり歴史の英雄の秀吉であっても、彼に人生を翻弄された彼女たちの立場に立脚してみたならば、ドラマのように秀吉が欲に溺れた悪代官のように見えていたとしても何らおかしくはない。歴史には、様々な角度の目線がある。それを受け入れられず、自身の持つ秀吉像こそが正しいと主張するその種の幼稚な批判とは、一線を画したいと私は思う。

 追伸
 今話の起稿は随分と遅くなってしまいました。東日本大震災以降、関西に住む私の生活も少なからず影響を受け、なかなかブログ更新の時間が取れない多忙な日々を送っております。今後も遅れがちになる場合があるかと思いますが、見放さずにお付き合いいただければ嬉しく思います。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-02 19:52 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(0)