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八重の桜 49話「再び戦を学ばず」 ~山本覚馬と松平容保の最期~

 新島襄の死後、山本覚馬が同志社臨時総長を務めますが、その覚馬も、明治25年(1892年)12月28日にこの世を去ります。享年64歳。思い起こせば文久2年(1862年)、京都守護職に就任した会津藩主・松平容保に従って京に上ってから30年、波乱に満ちた・・・とか、苛烈極まりない・・・などというありきたりな形容では言い表せない、まさに、筆舌に尽くしがたい人生だったといえるでしょう。

 賊軍として捕らえられ、盲目足が不自由という二重の障害を抱えながらも、明治新政府にその才を買われ、京都府顧問、京都府議会議員、同初代議長、京都商工会議所会頭と要職を歴任。人材が少ない時代だったとはいえ、覚馬がいかに有能な人物だったかがわかりますね。とくに、慶応4年(1868年)の幽閉中に獄中から覚馬が新政府に宛てて出した新国家構想ともいうべき『管見』は、「三権分立」の政体にはじまり「二院制」「女子の教育機会」などなど、実に先見性に富んだもので、西郷隆盛岩倉具視など新政府の要人たちをうならせたといいます。同時代のものとしては、坂本龍馬の『船中八策』『新政府綱領八策』が有名ですが、この山本覚馬の『管見』も、もっと注目されてもいいように思います。

「諸君たちは学業を終えそれぞれの仕事に就かれる。どうか弱い者を守る盾となって下さい。かつて私は会津藩士として戦い、京の町を焼き、故郷の会津を失いました。その償いの道は半ばです。今世界が力を競い合い、日本は戦に向けて動き出した。どうか聖書の一節を心に深く刻んで下さい。」
『その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし、国は国に向かいて剣を上げず、二度と再び戦うことを学ばない』
「諸君は一国の、いや、世界の良心であって下さい。いかなる力にもその知恵であらがい、道を切り拓いて下さい。それが身をもって戦を知る私の願いです」


 ドラマで描かれていた同志社卒業式での覚馬の訓示ですが、実際に記録が残されている覚馬の言葉は、
「弱を助け強を挫き、貧を救ひ富を抑ゆるものは誰れぞ、諸子乞う吾が言を常に心に服膺して忘るゝ勿れ」
 となります。大意は同じようなものですが、聖書の一節を引用したのはドラマの創作でしょうね。でも、舞台は同志社の卒業式、決して的外れではなく、良い演出だったんじゃないでしょうか。

 『二度と再び戦うことを学ばない』

 敗軍となった会津藩を中心に描いたこの物語で、この言葉がもっとも伝えたいテーマだったのでしょうね。会津戦争までの前半の物語と、明治以降の同志社の物語は、まるでまったく違うドラマのような演出でしたが、いまここで二つの物語が結びつきました。

 覚馬が永眠した約1年後の明治26年(1893年)12月5日、松平容保もこの世を去ります。享年59歳。容保は会津藩改め斗南藩が廃藩置県で消滅したあと東京に移住し、その後、徳川家康を祀る日光東照宮宮司などを歴任しますが、決して表に出ることはありませんでした。既に謹慎処分は解かれていたものの、一度は朝敵とされたことを重く受け止め、自主的に謹慎状態を続けていたそうです。自身の言動が、政治的にどう利用されるかわからないことを知っていたのでしょうね。ただ、やはり朝敵の汚名を着せられたことは無念の極みだったのでしょう。八月十八日の政変後に孝明天皇から下賜された『宸翰』を、小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放さなかったといいます。のちにこの『宸翰』は、山川浩山川健次郎兄弟が編纂した『京都守護職始末』で公表されますが、それは容保の死から18年が過ぎた明治44年(1911年)のことでした。戦犯者扱いとなった者の汚名返上は容易ではないのは、いつの時代も同じようです。

 ひとつの時代が終わり、次回、最終回。



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by sakanoueno-kumo | 2013-12-10 11:11 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第30話「再起への道」 ~萱野権兵衛の切腹~

 鶴ヶ城白旗が掲げられる2週間前の9月8日、元号が「慶応」から「明治」へと改元されていました。この約2ヶ月前には、江戸の名称も「東京」と改められ、会津藩が新政府軍と降伏交渉を進めていた同じ頃、明治天皇(第122代天皇)は京都を発ち、東京に向かっていました。翌月、天皇が江戸城に入ると「東京城」と改められ、皇居と定められました。こうして、将軍のお膝元であった江戸が消滅し、天皇を迎えた新都「東京」に変わろうとしていました。中学校の歴史授業的にいえば、250年続いた江戸時代が終わり、以後40年以上続く明治時代が始まります。

 実際には、どこまでが江戸時代で、どこからが新時代の幕開けかの線引は難しく、人によって見解のわかれるところだとは思いますが、こうして見ても、佐幕派の象徴的存在であった会津藩の敗北というのは、ひとつの節目ではあったといえるでしょう。世は足早に変わろうとしていました。

 城を出た松平容保喜徳父子、そして照姫は、滝沢村の妙国寺に入り、約1ヶ月の謹慎生活を送ります。その警備を土佐藩越前福井藩が担当。しかし、容保らを守るための警備のはずが、その大砲の砲門は容保らがいる本堂に向いていました。容保父子の奪還を画策する旧会津藩士たちの動向を警戒していたのです。降伏・開城したとはいえ、政府軍と会津藩の緊張状態は依然として続いていたようです。

 その後、容保父子の身は東京に移され、12月7日、政府の処分が下ります。その内容は、死一等を免じて、容保は鳥取藩、喜徳は久留米藩に永のお預けというものでした。しかし、これで一件落着というわけにはいかず、政府としては、藩主に代わって戦争を引導した首謀者の出頭を求めます。となれば、その対象は藩の指導的立場にある家老職となるわけですが、すでに筆頭家老である田中土佐神保内蔵助は自害しており、西郷頼母は藩首脳部との対立によって領外追放処分で行方知れず、そこで、家老としては4番目の地位にあった萱野権兵衛が、ひとりで責めを負うことになります。
 「松平容保公の代わりに首を討たれるのは、それがしの役目だった・・・・。萱野権兵衛殿ひとりに、責めを負わせてしまった。」
ドラマでの頼母の台詞ですが、そういう背景からの言葉だったわけですね。

 権兵衛が処刑されたのは、降伏・開城から8ヶ月後の明治2年(1869年)5月18日、場所は照姫の実家である飯野藩保科家の下屋敷でした。政府の命令は「斬首」だったようで、公文書などには「刎首」とあるそうですが、実際には、保科家のはからいによって「切腹」のかたちが取られ、武士らしい最後を遂げることができたようです。権兵衛の処刑に際して照姫は、次のような和歌を贈ったそうです。

 「夢うつゝ思ひも分す惜むそよ まことある名は世に残るとも」

 この歌と容保からの親書を受け取った権兵衛は、「まことに光栄である」と感涙したといい、親書を持参した梶原平馬山川大蔵の熱涙をさそったといいます。

 「では、さらばだ!」
 柳沢慎吾さんのいつにないシリアスな演技、なかなかなものでしたね。
 「あばよ!」・・・じゃなかったのが、少々残念ではありましたが・・・(笑)。

 萱野権兵衛の処刑から4ヶ月後の9月28日、容保の罪が許され、松平家の家名も再興となります。この年、容保は側室との間に長男(松平容大)をもうけていました。こんなときに、よくまあ子作りに励めたものだ!!!と思わなくもないですが、殿様なんてそんなもんでしょう。ドラマでの容保は、少し美しく描かれ過ぎかと・・・。

 11月4日、容大は家名の相続を許され、陸奥国の旧盛岡藩南部家領において3万石が与えられました。ここに、会津藩は斗南藩として生まれ変わります。御家再興を待ち望んだ旧会津藩士たちにとっては朗報だったわけですが、斗南での暮らしは、彼らが待ち望んだものとは程遠いものでした。そのあたりは、また次回以降で・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-07-30 22:16 | 八重の桜 | Comments(2)  

八重の桜 第28話「自慢の娘」 ~西郷頼母と佐川官兵衛~

 山川大蔵ら主力部隊が入城して、一時的に活気づいた鶴ヶ城内でしたが、戦況は悪化の一途をたどっていくばかりでした。会津国境に出陣して守備していた主力兵が城に戻ったことで、新政府軍は続々と会津領に侵入します。日に日に増強されていく新政府軍に対して、会津藩には援軍の見込みもなく、まったくの孤立無援状態でした。それでも、会津軍首脳は徹底抗戦の姿勢を崩しません。そんななか、家老・西郷頼母はひとり降伏恭順の道を主張します。

 頼母の説くところによれば、この城はもはや保ち難く、ここら辺で、主君・松平容保をはじめ、自身も含めた重臣全員が腹を切り、それで事態を収拾させよというものでした。しかし、他の重臣たちは「そのようなことは、まだ早い」といって聞き入れず、主君の自害などとんでもないとはねつけます。負け戦をこれ以上続けて無益な血を流すより、戦争責任のある幹部の首と引き換えに戦を終結させ、残った者に会津再建を託そうという主張で、いま聞けば真っ当な主張のような気がしますね。しかし、当時の美徳はそうではなく、主君のために玉砕するは誉れ高きことで、ましてや主君に自害を推めるなど武士の風上にも置けないことでした。結局、頼母の主張に賛同するものはひとりもおらず、そればかりか、西郷は自制心を失っているとして軍議から外されました。そんな頼母に、容保は追い打ちを掛けるように、城外に駐留する部隊への伝令と、米沢藩への救援要請に向かうよう命じます。本来、この程度の任務は家老の役目ではなく、つまりは主命にかこつけた追放処分でした。

 「頼母、生きよ・・・。」

 頼母が会津を去ったあとに容保がひとり呟いた台詞ですが、つまりドラマの設定としては、このまま降伏を主張した頼母が会津にいては、藩内主戦派から命を狙われる恐れがあり、そうならないために容保が頼母を逃したという設定でしょうか? なるほど、そう解釈できなくはないですし、そのほうが感動的なシナリオではありますが、はたしてどうでしょうね。頼母を追放したあと容保は、家老・梶原平馬に命じて頼母を暗殺するよう刺客を送らせたという説もあります(結局、刺客の任にあたった者たちは、敢えて頼母を追わずに暗殺は実行されませんでした)。どうもこのドラマでは、容保という人が美しく描かれ過ぎているような気がします。

 籠城戦が始まって1週間が過ぎようとしていた慶応4年(1868年)8月28日夜、会津軍は城下の敵を一掃すべく大作戦を発令します。田中蔵人率いる朱雀士中二番隊、原田主馬率いる朱雀三番隊、春日佐久良率いる別撰隊、杉浦丈右衛門率いる正奇隊、田中左内率いる砲兵隊、小室金吾左衛門率いる進撃隊、辰野源左衛門率いる歩兵隊、間瀬岩五郎率いる朱雀足軽二番隊など約1000人の部隊が編成され、29日早朝を期して突撃するというものでした。戦況劣勢の会津軍にとっては、起死回生の作戦でした。

 出撃の前夜、壮行会が催され、容保より隊員一同を励ますためにが下賜されます。この席で総督の佐川官兵衛は、
「臣誓って西兵を撃攘せん、若し不幸にして利あらずんば再び入城して尊顔を拝せず」(『會津戊辰戦史』)
と、感涙にむせびながら並々ならぬ決意を述べ、これに感激した容保は、官兵衛に正宗の刀を下賜して激励します。ところが、その官兵衛が痛恨のミスを犯します。なんと、酒を飲み過ぎて寝過ごしてしまい、奇襲の機を逸してしまいます。なんともお粗末なミステイクですね。結果的にこの「大寝坊」がアダとなって会津軍はこの戦い(長命寺の戦い)に惨敗、この日の会津側の戦死者は110人とも170人ともいわれ、城下での戦いがはじまった8月23日以降、最大の死傷者を出す結果となりました。「失敗したら二度と城内には戻らない」と豪語した官兵衛。その言葉どおり、これ以後、降伏開城まで二度と入城することはなかったといいますが、当然ですよね。大事な大一番の決戦当日に主将が深酒で寝坊なんて、これこそ切腹ものか、軽くて追放処分ですよ。現代のサラリーマンでも、大切なプレゼン当日に責任ある立場の者が前夜の深酒で寝坊なんて、よくて降格・左遷、ヘタすりゃクビもんですよね。そんな官兵衛が最後まで会津藩兵を指揮し、恭順を唱えた頼母が追放された歴史を、後世の私たちはどう見るか・・・ですね。やっぱ、どう見ても、藩主の無能に尽きるのではないかと・・・。

 「自慢の娘」というタイトルでしたが、八重が容保の前で不発弾を分解して弾の仕組みを説明したというエピソードは、先走って前話の稿(参照:第27話)でふれてしまったので、よければそちらもご一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2013-07-16 16:57 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第25話「白虎隊出陣」 〜母成峠の戦いから十六橋の戦い〜

 奥羽越列藩同盟の瓦解によって枝葉刈りをほぼ終えた新政府軍は、いよいよ根本である会津藩鶴ヶ城下への突入を目指し、慶応4年(1868年)8月20日を期して進撃を開始。二本松を出陣した新政府軍約2000人は、会津国境のひとつ石筵口から母成峠に迫ります。母成峠を超えて猪苗代まで進めば、鶴ヶ城下まではもうわずか。新政府軍の指揮をとっていた土佐藩・板垣退助と薩摩藩・伊地知正治は、ここを突破して一気に鶴ヶ城下に攻め込む狙いでした。

 迎え撃つ会津藩側も、石筵口防衛のため母成峠を固めます。さらに、旧幕府歩兵奉行・大鳥圭介率いる伝習隊土方歳三率いる新選組も援軍に加わり、仙台、二本松藩兵の残党も守備に加勢しました。しかし、その数約800人。新政府軍との兵力の差は歴然としており、21日に両軍は激突するも、濃霧のため敵の発見が遅れたことも重なって、あえなく母成峠を突破されてしまいます。

 母成峠を破った新政府軍は、土砂降りの雨のなかを怒涛のように進撃。22日の夕方には先鋒隊が猪苗代湖北岸にある十六橋にたどり着きます。この十六橋を渡って戸ノ口原滝沢峠を超えれば、鶴ヶ城下は目前です。この橋が破壊されると、大きく迂回するか湖水を渡らなければ、会津には入れません。双方にとって勝敗を決する重要な橋でした。会津藩の猛将・佐川官兵衛も、もちろんこの橋の重要性は理解していたでしょうが、橋の破壊の指令が遅く、土工兵が橋げたの破壊を開始したとき、薩摩藩・川村与一郎率いる先鋒隊の銃撃を受け、たちまち橋を占領されてしまいました。出足の遅れが致命傷でした。橋の重要性を熟知しておきながら、なぜ破壊の指示がおくれたのでしょう? 「今やろうと思ってたのに〜!」ではすみません。勇猛果敢な猛将として知られる佐川官兵衛ですが、指揮官としての無為無策っぷりが露呈した戦だったといえます。

 十六橋をめぐる攻防戦が始まる少し前、会津藩前藩主・松平容保は城を出て滝沢峠の麓にある滝沢村に向かいました。その護衛として白虎隊士中隊も同行します。白虎隊は16歳から17歳の少年たちで構成された部隊というのは周知のところだと思いますが、さらに隊は士中隊、寄合隊、足軽隊と分かれていて、容保に同行した士中隊は、上級武士から構成される部隊です。その分、武士としての気位覚悟も植え付けられていたでしょう。

 容保が滝沢に本陣を置いてまもなく、戸ノ口原で新政府軍と交戦中の正奇隊、敢死隊、遊撃隊苦戦しているという報告が入り、援軍の要請を受けます。しかし、残っていたのは老年の藩士たちと白虎隊の少年たちだけでした。援軍の要請を受けた容保は、悩みに悩んだ末、白虎隊の出陣という苦渋の決断をします。本来、白虎隊は予備兵力でした。出陣を命じられた白虎隊士中二番隊は、日向内記を隊長とする42名の少年たち。敵は鶴ヶ城から約二里のところまで迫っており、兵力も戦況も劣勢のなか、予備兵力でしかも戦経験のない少年兵たちを送り込んでも「焼け石に水」であることは、火を見るより明らかでした。にもかかわらず白虎隊に出陣命令を下した容保。苦渋の決断というには、あまりにも浅はか短絡的としかいいようがありません。容保にしても官兵衛にしても、そんな会津軍執行部の無為無策によって、多くの尊い命が失われて行くんですね。戦場において、指揮官の無能ほど大罪はありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-06-24 19:12 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第23話「会津を救え」 〜奥羽越列藩同盟と白河城攻防戦〜

 勝海舟西郷隆盛江戸開城談判が行われる少し前、新政府は東北の雄藩である仙台藩主の伊達慶邦に対して、会津藩討伐を命じていました。そして慶応4年(1868年)2月26日には、左大臣・九条通孝奥羽鎮撫総督に任命されますが、その実験を握っていたのは参謀職を務める長州藩の世良修蔵と薩摩藩の大山格之助でした。彼らは仙台藩に続いて米沢藩上杉家に対しても会津藩討伐を命じます。

 実はこれ以前に仙台藩と米沢藩は、会津藩に恭順するよう勧めていました。しかし会津藩は両藩の勧めを容易に受け入れようとはしませんでした。会津が躊躇していたのは、開城による謝罪、減封の受諾、そして重臣2・3人の首級の差し出しという恭順の条件で、その条件に会津藩が難色を示しているうちに、両藩は奥羽鎮撫総督から会津藩討伐を命じられてしまい、兵を上げざるを得なくなります。そして4月18日、会津藩と仙台藩の間で戦端が開かれますが、双方とも戦う意思はなく、かたちだけの砲弾のやり取りで戦うふりをしただけに終わります。

 その後、会津藩は譲歩の姿勢を見せ、前藩主・松平容保が城を出て謹慎(容保は会津に帰国するとすぐに養子の喜徳に藩主の座を譲っていました)、減封の受諾という線までは受け入れますが、しかし結局はその調停工作も失敗に終わります。

さらに仙台・米沢両藩は、東北諸藩に呼びかけ、会津藩救済のための会議を白石城で開き、寛大な処置を求める嘆願書を総督府に提出します。しかし、この嘆願書も参謀の世良修蔵の強い反対によって、受理されませんでした。これに憤慨した仙台藩士たちは、傲慢粗暴でかねてから怨みがあった世良を暗殺します。その際、世良の持ち物の中から、「官軍の増援部隊が着き次第、会津を一挙に討伐する」とか、「奥羽はみな敵とみなして討つべし」といった内容が書かれた機密文書が発見されます。これを見た奥羽諸藩は、鎮撫総督が自分たちと交渉しているのは、増援部隊を待つ時間稼ぎにすぎないと判断。5月3日、奥羽および越後の25藩の代表が白石に集まり、奥羽越列藩同盟を結成、新政府軍に抗戦することを決めました。こうして戊辰政争は始まります。彼らは一直線に戦争に向かって進んだわけではなく、懸命に戦を避ける道を模索していたわけですが、歴史がそれを許さなかったんですね。

 奥羽越列藩同盟が成立すると、会津藩は新政府軍を迎え撃つため国境を固めるとともに、白河城に向けて軍勢を送ります。その中には、会津に落ち延びてきていた斎藤一率いる新選組130人余りもいました。これより少し前、新選組の局長だった近藤勇は新政府軍に下って処刑され、副長の土方歳三も宇都宮城の戦いで足を負傷し、そのためしばらくの間、斎藤が新選組の指揮をとっていました。

 陸奥国白河は関東から奥州への玄関口にあたり、古来より関所が置かれた要衝の地でしたが、幕末のこの時代、白河城には城主がおらず、二本松藩丹羽家の管理下にありました。それに目をつけた会津藩は白河城を占領します。しかし、新政府軍にとっても白河城を手に入れれば、会津攻略のための重要拠点を確保したことになり、是が非でも欲しい場所。当然のごとく、政府軍と会津兵は白河で激突しました。最初の戦いは会津藩の勝利に終わります。

 その後、会津から家老の西郷頼母横山主税が藩兵1000人を率いて到着。仙台藩や棚倉藩の援軍も加わり、総勢約3000人の兵で陣を張ります。一方の薩摩藩士・伊地知正治率いる新政府軍は約700人。兵力の上では列藩同盟軍の圧勝に見えました。

 ところが、2回目の攻防戦は新政府軍の一方的勝利に終わります。その理由は、ひとつは武器の性能の差。ドラマ中、八重の夫の川崎尚之助が再三訴えていた軍制改革の遅れが、ここへきて大きく影響します。もうひとつは、列藩同盟軍の戦略の拙さでした。兵力で劣る新政府軍の伊地知正治は、敵の陣容をつぶさに観察して果敢な指揮をみせますが、寄せ集めの列藩同盟軍には戦略というものがありませんでした。主力である会津藩の総督は、実戦経験のない西郷頼母。容保の京都守護職就任に反対を唱えて、長いあいだ謹慎処分を受けていたため、京都での滞在経験もなく、したがって戦を指揮した経験もありません。会津藩は、武器の性能で劣るぶん、指揮官は身分にとらわれず有能な人材を配置すべきでした。この日の戦いにおける戦死者は、列藩同盟軍約700人に対して、新政府軍はわずか20人足らずだったとか。なぜ、容保は、重要拠点である白河の指揮官に経験値の少ない頼母を任命したのか・・・? 戦後の容保は会津戦争について多くを語らなかったため、真相は闇のなかです。

 奥州の玄関口である白河を奪われた痛手は大きく、これが列藩同盟軍の瓦解への道を早めたことはいうまでもありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-06-11 21:21 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第21話「敗戦の責任」 ~徳川慶喜の敵前逃亡~

 多忙のため、1週間遅れのレビューです。

 慶応4年(1868年)1月3日に火蓋を切った「鳥羽・伏見の戦い」で、薩長軍が錦旗を掲げたことにより賊軍となった旧幕府軍は、その後も各地で奮戦はするものの、敗色は覆い隠せませんでした。極めつけとなったのは、幕府の命令で山崎を守っていた津藩兵が、6日朝、旧幕府軍に向けて砲撃を開始したこと。味方であるはずの津藩の裏切りで、旧幕府軍の士気は一気に下がり、全軍総崩れとなります。

 開戦以来ひきつづき敗報ばかりを受け、さらに錦旗が掲げられて朝敵にされたことで戦意を失っていた徳川慶喜は、6日の津藩の寝返りによる幕軍総崩れを知ると、江戸へ帰って再起をはかる決意をかため、6日夜、ひそかに大坂城を脱出し、海路江戸へ向かいます。このとき、老中はじめ京都守護職の松平容保や京都所司代の松平定敬も、慶喜の厳命により、家臣たちを置き去りにして江戸へ向かうことを余儀なくされました。翌朝、主君に欺かれたことを知った大坂城中の将兵たちが、呆然自失となったことは言うまでもありません。

 このときの行動が、後世に徳川慶喜という人物の評価を下げた最大の要因であるといっていいでしょう。戦の総指揮官という立場にありながら敵前逃亡したわけですから、やむを得ない評価かもしれません。このあたりが、「百の才智があって、ただ一つの胆力もない。」といわれるところでしょうか・・・。ただ、その一幕だけを切り取ってみればそうかもしれませんが、結果的に彼が敵前逃亡したことによって、その後の内乱は最低限の局地戦ですみ、その結果、多くの人命を失うことなく、新政府樹立へのプロセスをスムーズにし、日本の植民地化を目論む欧米列強につけ入る隙を与えませんでした。それが慶喜の意とするところだったかどうかは別として、結果的に我が国を危機から救ったことは間違いありません。幕末維新の最大の功労者は徳川慶喜だった・・・とは、少し過大評価かもしれませんが、もう少し高く評価してあげてもいいんじゃないでしょうか。

 本話のタイトルの「敗戦の責任」とは、敵前逃亡した慶喜ではなく、松平容保の側近で、鳥羽・伏見の戦いでは会津軍の軍事奉行となっていた神保修理のことでしたね。ドラマでは、修理がその責任を一身に負ったという描き方になっていました。たしかに修理は、主戦論で激昂する会津藩士なかにおいて、一貫して不戦恭順論を説いていた人物で、慶喜に対して恭順を進言していたのもドラマのとおりです。でも、修理の進言によって慶喜が敵前逃亡を断行したかどうかといえば、一介の藩士の進言にそこまでの影響力があったとも思えず、意見の分かれるところではないでしょうか。ただ、総指揮官とともに主君までも姿を消したことを知った会津藩士は、その憤りをぶつける場所を見つけられず、矛先を修理に向けるんですね。そして最後はドラマのとおり、切腹に追いやられます。

 ドラマでは容保自身が切腹を申し渡していましたが、実際には主戦派が君命と偽って命じたものでした。修理は、これを偽の君命だと知ったうえで受け入れます。だれかが責任を追わなければ収まりがつかない状況だったんですね。容保の戦線離脱の責任を一身に背負うかたちとなった修理は、「余もとより罪なし、然れども君命を奉ずるは臣の分なり」と言い残し、みごとに自刃します。享年34歳。「戦争責任」というのは、いつの時代でも不明瞭なものです。



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by sakanoueno-kumo | 2013-06-03 22:36 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第9話「八月の動乱」 〜八月十八日の政変〜

 文久3年(1863年)8月18日、朝廷内にクーデターが起きました。世に言う「八月十八日の政変」です。長い日本史のなかには、古くは「大化の改新」から近代では不成功に終わった「二・二六事件」まで数多くクーデターが起きましたが、幕末にも2回のクーデターが行われ、いずれも成功しています。そのひとつは、これより4年後となる慶応3年(1867年)12月の尊王討幕派による「王政復古」のクーデターで、もうひとつが、今話の「八月十八日の政変」です。

 この8・18クーデターとはどのようなものだったのかというと、一口にいえば、京都を制圧しているかのように見えた尊皇攘夷派勢力に対し、公武合体派が巻き返しを行い、尊攘派を京都から一掃し、政局の主導権を奪取したというものです。同年5月10日の攘夷決行(下関戦争)によって朝廷から褒勅の沙汰を享けた長州藩でしたが、以後、朝廷の政に何かにつけ口を出すようになり、暴徒の激しさも増していきます。しかし、あまりにも過激な長州藩の行動を持て余した公武合体派の中川宮朝彦親王近衛忠熙近衛忠房らが、この当時御所の警備を任されていた薩摩藩・会津藩と手を結び、攘夷派の三条実美をはじめとする7人の公卿を朝廷から一掃(七卿落ち)、長州藩の軍勢たちも公卿を守って京から落ちていったというものです。

 孝明天皇(第121代天皇)は強烈な攘夷論者でしたが、政治体制の変革などは望んではいませんでした。天皇の考えは、あくまで幕府を中心に公武合体で行う攘夷だったわけです。一方の尊攘派は、天皇の意志が攘夷にあるからと、その「攘夷」をたてにとって行動してきました。攘夷さえ行えば天皇の意志を尊重することになると考え、天誅で猛威をふるい、やがてはそれが討幕論にまで及びはじめます。しかし、当の孝明天皇はそんな尊攘派に恐怖すら感じていたようで、次第に彼らを疎んじるようになっていくんですね。孝明天皇にしてみれば、過激なラブコールを贈る尊攘派は、ある種、ストーカーのような怖さがあったのかもしれません。

 クーデターは成功に終わり、公武合体派は朝廷での主導権を完全に掌握しました。クーデター成功の原因のもっとも大きなポイントは、公武合体派が天皇を手中に収めたことでしょう。のちに天皇は尊攘派などから「玉(ぎょく)」と呼ばれましたが、この「玉」を手にすれば天皇の名で命令を出すことができ、これに反抗することは、とくに「尊王」攘夷派であるかぎり不可能でした。天皇を尊び、天皇のために命をも賭けた尊攘派たちは、天皇の意志によって「朝敵」にされるという、なんとも皮肉な話といえます。

 この政変をいたく満足した孝明天皇は、8月28日に京都守護職・松平容保や京都所司代・稲葉正邦ら在京の諸藩主らが参内した際、次のような宸翰(しんかん)を発布しました。

 「是迄、彼是、真偽不分明之義有之候へ共、去る十八日以後申出候義は、朕が真実の存意に候。此辺、諸藩一同心得違無之様之事」
 (意訳:これまでは、かれこれ真偽不明分の儀があったけれども、去る18日以後に申し出ることが、朕の真実の存意であるから、このあたり諸藩一同、心得違いのないように)


 つまり、これまで言ってきたことは全部インチキで、18日の政変以降にいったことが本心だよ・・・と。政変で失脚した尊攘派にしてみれば、ふんだり蹴ったりのお言葉ですね。とくに、松平容保に対する孝明天皇の信頼は厚く、ドラマにもあったように、ご宸翰(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と御製(ぎょせい:天皇の和歌)を下賜されます。

 「堂上以下、疎暴の論、不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也  文久三年十月九日」 
 (意訳:堂上以下が、乱暴な意見を連ねて、不正の行いも増え、心の痛みに耐えがたい。内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い私の思っていることを貫いてくれた。全くその方の忠誠に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり)


 文中にある「一箱」とは御製の入ったもので、次の2種の和歌が記されていました。

 たやすからざる世に 武士(もののふ)の忠誠の心をよろこびてよめる
 「和らくも たけき心も相生の まつの落葉の あらす栄へむ」
 「武士(もののふ)と こころあはして いはほをも 貫きてまし 世々の思ひて」

 (意訳:難しき世に武士(容保のこと)の忠誠の心を喜びて詠む
 「世にやすらぎを求める心も、敵に立ち向かう猛々しい心も相生の松のように根は一つ。松の葉が落葉しないように共に栄えようではないか。」
 「もののふと心を合わせて岩(困難)をも貫き通すことを私(朝廷)は末永く願う。」


 しかしその容保も、5年後の戊辰戦争では逆に朝敵第一とされたのも、歴史の皮肉といえるでしょうか。容保は終生、このご宸翰と御製を肌身離さなかったといいます。


 「八月十八日の政変」については以前の稿でも書いていますので、よければ一読ください。
     ↓↓↓
 「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。
 

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by sakanoueno-kumo | 2013-03-08 23:08 | 八重の桜 | Comments(0)  

八重の桜 第7話「将軍の首」 ~足利三代木像梟首事件と言路洞開~

 文久2年(1862年)から翌3年にかけて、都では攘夷を唱える不逞浪士たちによる天誅騒ぎが相次いでいました。「天誅」とは、天に代わって罪あるものを誅伐するということですが、このころ尊王攘夷派激徒が行った天誅は、天の名を借りた猛烈なテロ行為であったというべきでしょう。標的となったのは、安政の大獄に関わって尊攘志士の怨みを買った者たち、また、公武合体運動、とくに和宮親子内親王降嫁に関係した公卿などでした。

 天誅の第一陣は、文久2年(1862年)7月の九条家の家士・島左近の暗殺でした。左近は、安政の大獄に活躍した人物です。犯人は「人斬り新兵衛」こと薩摩藩士・田中新兵衛らで、左近の首は四条河原に晒されました。翌月には目明しの文吉本間精一郎などが凶刃に斃れます。いずれも、新兵衛と同じく「人斬り以蔵」と恐れられた土佐藩士・岡田以蔵の犯行といわれていますが、目明しの文吉は、島左近とともに安政の大獄の際に志士の逮捕に当たった人物ですが、本間精一郎の場合は、尊皇攘夷派であったにもかかわらず、同志から疎んじられて暗殺されました。このことからも、「天誅」とはもはや正義の刃ではなく、利己的なテロリズムだったことがわかります。時代は殺伐としていました。

 京都守護職に就任した松平容保が1000人の会津藩士を率いて京都に入ったのは、文久2年も押しつまった12月24日のことでした。容保は黒谷の金戒光明寺内に本陣を構え、屋敷は御所のすぐ西隣に置きます。そして年が明けた正月2日、容保は御所に参内し、孝明天皇(第121代天皇)に拝謁します。小御所で孝明帝に拝謁した容保は、天盃および御衣を賜ります。武人に御衣が下賜されたのは異例のことで、徳川政権になってからは前代未聞のことでした。その後も孝明天皇は、容保にきわめて厚い信頼を寄せます。そんな容保が、やがては朝敵扱いとなってしまうのですから、なんとも不憫な話ですね。

 入京当初、容保は「言路洞開」を掲げて尊攘派公家や志士たちとの融和を目指します。しかし、そんな容保の考えを一変させる事件が起きてしまいます。「足利三代木像梟首事件」ですね。2月22日夜、尊攘激派の一味は、洛西等持院に押し入り、そこにあった足利尊氏足利義詮足利義満三代の木像の首と位牌を持ち出し、これを賀茂川原に晒しました。その立札には、「逆賊足利 尊氏・同義詮・名分を正すや今日にあたり、鎌倉以来の逆臣一々吟味を遂げ謀戮に処すべきところ、この三賊臣巨魁たる似よって、先ずその醜像天誅を加える者なり」と記し、また別に三条大橋の制札場に、足利将軍十五代の罪を攻撃する一文を貼り、その文章の終わりには、次のような意味の文が記されていたといいます。

 「今の世に至り、この奸賊になお超過している者がある。それらの者の罪悪は足利尊氏などよりも、はるかに大きい。もしそれらの者どもが、ただちにこれまでの罪を悔い改めなければ、満天下の有志は、追い追い大挙してその罪を正すであろう」

 この一文は、明らかに足利氏にかこつけて「倒幕」の意味を含むものであり、第14代将軍・徳川家茂の上洛が目前に迫るなか、幕府首脳部を脅迫するものでした。この事件に容保は激怒し、尊攘派取締対策を強硬路線に切り替えます。こうして、当初容保が目指した「言路洞開」絵空事に終わってしまうんですね。

 「言路洞開(げんろとうかい)」とは難しい言葉ですが、話し合いで解決の道を開くといった意味の言葉だそうです。平成の現代にも、「友愛」をもって近隣諸国と対話しようとしたものの、逆に相手につけ入る隙を与えて、尖閣諸島問題やら竹島問題やら北方領土問題やら、好き放題に荒らされて崩壊した政権がありましたね。「言路洞開」「友愛」・・・どちらも美しい言葉ですが、主義主張の違う相手に通用する言葉ではないようです。もっとも、だからといって容保のように強硬手段をとるのも賛成はできませんが・・・。強硬手段の行き着くところは「戦争」ですからね。戦争に持ち込まずに強硬な姿勢をとるにはどうすればいいか・・・歴史に学べ!・・・ですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-18 21:33 | 八重の桜 | Comments(2)  

八重の桜 第6話「会津の決意」 ~公武合体論と京都守護職~

 「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が暗殺されると、幕府の権威は急速に失墜していきました。そこで幕府は、朝廷と手を結ぶことで権威の回復を図ろうとします。従来、朝廷は政治との関わりを規制されていましたが、黒船来航以来、にわかに高まった尊王思想大政委任論などにより次第に潜在的地位が高まり、さらに日米修好通商条約をめぐる論争・政治工作のなかで、老中・堀田正睦が反対勢力を抑えるために孝明天皇(第121代天皇)から勅許を得ようとしたことから、天皇および朝廷の権威は急速に上昇していきました。

 そんななか、朝廷と結束することで幕府の権威低下を防ごうという「公武合体論」が浮上します。ドラマでは割愛されていましたが、井伊直弼の死後、幕政の中心となっていた老中・久世広周安藤信正らは、第14代将軍・徳川家茂の正室に、孝明天皇の妹・和宮親子内親王を降嫁させます。皇女を将軍家御台所に迎えたいという案は井伊直弼生存中からありましたが、当時の案は幕府が朝廷を統制する手段として考えられていたもの。しかしこの段に及んでの婚姻の意図は、いわゆる「公武合体」、すなわち、朝廷の権威を借りて幕府の権威を強固にしようという考えであり、幕府にとってみれば藁をもつかむ策だったわけです。

 一方、幕府の権威低下に伴い、これまで幕政から遠ざけられていた親藩有力外様大名の政治力が急速に高まり始め、有力諸侯を国政に参画させて国難を乗り切るべきであるという公議政体論が台頭しはじめます。文久2年(1862年)6月には、かつて将軍継嗣問題一橋慶喜擁立を推した島津斉彬の実弟で、同藩最高実力者の島津久光が兵を率いて上京し、朝廷から勅使を出させ、その権威を後ろ盾として幕府の最高人事に介入し、一橋慶喜を将軍後見職に、福井藩前藩主・松平春嶽を大老職に相当する政事総裁職に起用することを幕府に認めさせます。いわゆる「文久の改革」です。

 その頃、京都では攘夷を叫ぶ志士が勢いづいており、朝廷内でも破約攘夷論を唱える公家たちが台頭していました。その結果、開国論をとる薩摩藩は朝廷での支持基盤を失ってしまいます。京のまちでは攘夷論を唱える過激な志士たちによる「天誅」と称した殺傷事件が頻発しており、その対象は、攘夷論に反対する幕府よりとみなされた公家やその家臣たちでした。幕府はそうした状況を見かね、京都守護職という軍事職の新設を決めます。そこで白羽の矢が立てられたのが、八重たちの会津藩だったのです。

 京都には、朝廷の監視を任務とする京都所司代が置かれていました。通常、十万石前後の譜代大名が任命される役職でしたが、「天誅」と称したテロの嵐が吹き荒れる京都の治安は、所司代レベルの力で抑えられる域を超えていました。そこで幕府は、二十三万石の会津藩の武力を持って京のまちを鎮撫しようと考えたのです。

 時の藩主は9代目の松平容保。尾張藩の分家・美濃高須藩主・松平義建の六男として生まれた容保でしたが、叔父に当たる会津藩8代目藩主・松平容敬の養子となります。容保が容敬に変わって藩主の座に就いたのは、黒船来航の前年、嘉永5年(1852年)のことでした。藩主になって10年。容保は大きな決断を迫られることになります。

 容保に京都守護職就任を求めたのは、ドラマのとおり政事総裁職の松平春嶽でした。要請を受けた容保が頑なに固辞したのもドラマのとおりです。家老の西郷頼母をはじめ家臣たちも猛反対。いわば無政府状態に陥っていた京都で守護職を務めるということは、ドラマで頼母が言っていたとおり、薪を背負って火に飛び込んでいくようなもの。自ら死地に飛び込むのと同じというわけでした。しかし、春嶽はなおも容保を説得します。もし、藩祖の保科正之が存命ならば、必ず引き受けただろう・・・と。これは容保にとっては殺し文句でした。将軍家への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めた『会津家訓十五箇条』(参照:第1話「ならぬことはならぬ」)にしても、養子という立場での藩主であるがゆえに、なおさら容保の心に重くのしかかっていたに違いありません。ここに至り、容保は京都守護職就任を引き受けてしまいます。文久2年(1862年)8月1日のことでした。この決意により、八重たち会津藩の人々の運命は大きく変わることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-11 02:33 | 八重の桜 | Comments(2)