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おんな城主 直虎 第41話「この玄関の片隅で」 ~鷹匠・本多正信~

 やはり鷹匠ノブ本多正信でしたね。本多正信といえば、常に徳川家康の側にいて智謀をめぐらす側近中の側近といったイメージがありますが、実は、正信が家康から重用されるようになるのは天正10年(1582年)の本能寺の変以後のことで、天正3年(1575年)頃かと思われるドラマのこの時期は、まだ歴史の表舞台には出てきていません。

 家康より5歳上の正信は、はじめは鷹匠として家康に仕えますが、身分は低く、大久保忠世らからの援助を受けて過ごしていたといいます。そんな暮らしに嫌気がさしたのかどうか、永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆では、弟の本多正重と共に一揆衆につき、家康に敵対します。この一揆は、三方ヶ原の戦い伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる出来事で、三河家臣団の半数が一揆衆に与したと言われています。家康の家臣団といえば「忠実」というイメージが強いですが、最初からそうだったわけじゃないんですね。


 一揆の鎮圧後、一揆に与した武士の多くは徳川(当時は松平)家への帰参を望みますが、正信は出奔して浪人します。このあたり、若き日の正信はなかなかの気骨ある男だったようですね。やがて正信は大和国の松永久秀に仕えたといい、久秀をして「剛に非ず、柔に非ず、非常の器」と称されたといいますが、永禄8年(1565年)、久秀が三好三人衆とともに将軍・足利義輝を殺害すると(永禄の変)、再び出奔して諸国を流浪したとされ、その間の行動は詳しくわかっていません。一説には、加賀国に赴いて石山本願寺と連携し、織田信長と戦っていたともいわれます。後年の策謀家のイメージとは違って、反骨心旺盛で血気盛んな人物だったようです。


 諸国を流浪したすえ、正信は再び家康に仕えることになるのですが、帰参した時期ははっきりしません。『寛永諸家系図伝』は元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃と伝え、『藩翰譜』によると、天正10年(1582年)の本能寺の変後と伝えます。どちらが事実かはわかりませんが、確実な史料に正信が現れるのは本能寺の変以後のことで、それ以前は、帰参していたとしても、それほど重要なポストを与えられてはいなかったのでしょう。まあ、一度裏切った身ですからね。当然といえば当然のことで、むしろ、かつての裏切り者を再び召し抱えた家康の度量の広さがうかがえます。あるいは、人材としての正信が、それほど有能だったということかもしれません。


 話をドラマに移して、草履番から小姓に上がるためにあれこれ知恵をめぐらせる万千代(のちの井伊直政)ですが、どれも稚拙浅知恵、家康はすべてお見通し空回り感ありありです。まあ、数えで15歳といえば、いまの中学1、2年生。まだ子供ですからね。伝承では、直政は家康に仕えてから破竹の勢いで出世していったとされていますが、実際には、多少の挫折失敗はあったことでしょう。歴史の結果を知っている後世のわれわれから見れば、そんなに焦らなくとも君はやがて徳川四天王のひとりとなるのだから、と言いたくなりますが、15歳の当の本人はそんなこと知るはずもなく、ドラマのように、必死にアピールしていたかもしれません。もうちょっとの辛抱です。


 ちなみに、織田信長から3000本用意しろと言われた材木。これ、おそらく長篠の戦いで立てる馬防柵に使用する材木でしょうね。今話はすべてフィクションの回でしたが、ちゃんと史実に繋がるアイテムを題材に描いた創作で、秀逸でした。長篠の戦いでは初陣を飾れず、留守居を命じられた万千代でしたが、どんな活躍を見せてくれるのか楽しみです。・・・って、完全に直政のドラマになっちゃってますが。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-16 02:14 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その37 「滝山城跡」 神戸市中央区

「その8」で紹介した布引の滝の西側にある滝山城に来ました。

場所は、JR山陽新幹線・新神戸駅の裏山です。


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滝山城の築城年代は定かではありませんが、京都東福寺良覚が記した『正慶乱離志』によると、摩耶山合戦から1ヶ月余りあとの元弘3年(1333年)4月、赤松則村(円心)の陣として、ここ滝山城が使われたと記されています。


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城跡への登山道は2とおりありますが、この日は先に「布引の滝」を訪れたので、東から攻めます。

標高は316.5m、比高は約250mの山頂にある滝山城への登山道は、ハイキングコースとして整備されているので、藪をかき分けて進むような場所はありません。

ただ、斜面はかなり急で、結構ハードです。


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道中から望む神戸市内の眺望です。

目の前に広がるのは三宮の町並み

神戸市のド中心部です。

このような大都会のすぐ近くに中世の山城跡が残っているというのが、山と海が接近する神戸ならではという気がします。


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しばらく登ると、いかにも曲輪跡と見られる削平地が次々に表れます。


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ここ滝山城跡の遺構の保存状態は良好で、30以上の曲輪跡が確認されています。


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たいぶん上まで進むと、ところどころに石垣跡と見られる大きな岩が見られます。


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これなんて、間違いなく石垣跡でしょう。


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傾斜がゆるやかになって、尾根伝いになると、いよいよ土塁堀切などの遺構の宝庫となります。


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三の丸下に設置された説明板です。


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縄張り図です。


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大きな堀切跡です。


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立派な土塁跡です。

写真じゃ、なかなか伝わりづらいですね。


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三の丸跡と思われます。


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そして二の丸跡

ハイキング客用のあずまやが設置されています。


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そして頂上の本丸

昭和13年(1938年)に建てられた石碑があります。


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摩耶山合戦に勝利した赤松軍は、これを好機と捉え、京都近くまで攻め上りますが、そこで今度は逆に幕府六波羅軍に反撃されて後退し、ここ滝山城に立て籠もったそうです。

赤松軍は同年4月3日に滝山城を出撃し、ふたたび六波羅軍を攻撃しますが、またしても敗退。

その後、赤松軍は千種、結城軍の援軍を得て、六波羅軍を八幡、山崎で破り、5月7日に足利尊氏軍と協力して入京を果たし、六波羅を攻略するに至ります。

その拠点となったのが、ここ滝山城だったんですね。


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その後、滝山城の城主は則村の息子・赤松範資になったり、後醍醐天皇方に渡ったり、再び範資の息子・赤松光範に戻ったりしたそうですが、やがて歴史の記録からその名が消え、再び滝山城が記録に登場するのは戦国時代、三好長慶の西の拠点として松永久秀が改修したことで登場します。

その後も幾度となく戦いの舞台となり、最期は、織田信長に反旗を翻した荒木村重花隈城籠城戦のとき、落城したと考えられているそうです。


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本丸からは、木が茂って景色が見えません。

たぶん、木樹が枯れただったら、神戸の町を望めたのでしょうね。

ここを訪れたのは5月14日。

森林浴には最適な季節でしたが、景色や遺構の縄張りを見るには、冬のほうが良かったかも。

山城を訪れるのは、真冬がいいですね。


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下山して新神戸駅南側から撮影。

写真左側の山が、滝山城です。

700年経った今も、神戸の中心部を見下ろしています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-04-08 11:54 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)