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軍師官兵衛 第11話「命がけの宴」 ~秀吉、上司と喧嘩して職場放棄~

 英賀合戦に勝利した黒田官兵衛でしたが、ちょうど同じ頃、石山合戦の局地戦において織田軍毛利軍に敗北を喫します。石山合戦とは、織田信長石山本願寺が10年に及んで衝突した戦いのことで、反織田勢力の毛利氏は、兵糧攻めによって織田軍に包囲されて孤立無援となった石山本願寺に、食糧や武器などの物資を補給すべく参戦します。毛利軍は毛利水軍・小早川水軍・村上水軍が中心となって海路で搬入を試み、それを阻止しようと織田軍も200艘の船で迎撃しますが、毛利軍の勢力はこれを遥かに上回り、さらに焙烙玉(ほうろくだま)焙烙火矢といった兵器の前に織田軍は壊滅的な被害を受け、結果、毛利軍は籠城する石山本願寺への物資搬入に成功します。この戦いを「第一次木津川口の戦い」といいます。

 この信長の敗北のニュースは、瞬く間に官兵衛らの播磨国にも伝わったことでしょう。これにより、一度は織田方につくことを表明していた領主たちも、態度が揺らぎはじめます。勝ち馬に乗りたい小領主たちにとっては、当然ですよね。しかし、官兵衛の織田家に対する見立ては変わりませんでした。なんとしても、播磨一国を織田傘下にまとめたい。そのためには、一日も早い織田軍の播磨への進軍を望む官兵衛でしたが、ことは思いのほか前に進みません。それもそのはず、信長が播磨へ派遣するといった羽柴秀吉が、北陸線戦に参戦していたのです。

 信長の台頭を阻む反織田勢力は、畿内の石山本願寺や西国の毛利輝元だけではなく、もっとも脅威だったのは越後の上杉謙信でした。そこで信長は、臣下でもっとも信頼していた(であろう)猛将・柴田勝家を司令官として対上杉軍に当たらせますが、それだけでは心許なかったのでしょうか、さらにその援軍として、羽柴秀吉を派遣します。天才信長にとっては、この時点では中国より北陸の包囲が重要で、謙信相手には総力戦で臨みたかったのでしょうね。ところが、その軍議の席で、総大将の勝家と援軍の秀吉が作戦方針を巡って対立し、憤慨した秀吉は無断で陣をはらって長浜に帰国してしまいます。古参の勝家と新参の秀吉は、かねてから不仲だったといい、さらに秀吉にしてみれば、中国攻めの総大将として意気込んでいたところの援軍要請だったため、もとより不満を抱いての援軍だったのかもしれません。

 これを知った信長は大激怒、即刻秀吉に謹慎を申し付けます。当然ですよね。秀吉が戦線離脱した直後に勝家らは、謙信自らが率いる上杉軍に大敗を喫していますから、職場放棄して味方の敗北の要因を作った秀吉の罪は大きく、信長の気性からいっても切腹は免れ得ないと誰もが考えたに違いありません。ところが、ここからが秀吉の真骨頂。沙汰が下るまでの謹慎期間中、連日城内で宴会を開き、どんちゃん騒ぎに明け暮れたといいます。おとなしく閉門していたら、かえって信長に逆心ありとの疑いをかけられかねない・・・という意図の行動だったそうですが、なんとも奇想天外大博打意思表明ですよね。ひとつ間違えれば、逆に怒りを煽ることになりかねない行為ですが、秀吉にしてみれば、半ばやけっぱち的な精神状態だったのでしょうか。結局、この大胆な行為はと出て、秀吉は許されることになります。

 この命がけの宴のエピソードが史実かどうかは知りませんが、秀吉の明るい人柄を知る上での有名な逸話ですよね。ただ、わたしはこの宴会のエピソードよりも、勝家と喧嘩して家に帰っちゃったという命がけの駄々こね話のほうが、秀吉という人物を知る上でたいへん興味深いところです。一般に、信長のイエスマンとして成り上がった感の強い秀吉ですが、信長の怒りを覚悟の上で自我を通したという、本来の秀吉像とは異なる豪胆な人物像が垣間見れるエピソードですよね。あるいは、信長にとって自分はまだまだ必要であり、命までは取られまいという自信があったのかもしれません。

 謹慎を解かれた秀吉は、ようやく官兵衛の待つ播磨国へ進軍します。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-17 16:37 | 軍師官兵衛 | Comments(0)  

越前北ノ庄なう!

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ケータイからの投稿です。
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ただいま福井県は福井市にいます。
写真は北ノ庄城の復元模型。
北ノ庄城といえば、あの織田信長の妹・お市の方が、2人目の夫・柴田勝家と共に最期を遂げた場所として有名ですね。
勝家は天正11年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」豊臣秀吉に敗れ、妻のお市と共に自害して果てますが、その際、城には火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失してしまったため、いまでは本丸の正確な位置もわかっていません。
写真の模型は本丸の推定位置とされている柴田神社に展示されているもので、この城跡を柴田公園と称して観光スポットになっています。
といっても、今日の私は観光のために福井を訪れたわけではなく、出張で来ているのですが、せっかくなので仕事の合間を縫って足を運びました。
残念ながら夜になっちゃったので、写真じゃわかりにくいですけどね。

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柴田勝家の銅像です。

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いかにも「鬼柴田」と呼ばれた勇猛果敢な戦国武将の面構えですね。

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こちらはお市の方です。
戦国時代一の美女といわれたお市の像は、どこか寂しげな顔をしていました。

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そんなお市を霊を慰める慰霊碑です。

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お市の娘たち、お茶々、お初、お江です。
昨年の大河ドラマ『江~姫たちの戦国』で活躍した三姉妹ですね。
夜のバカチョンカメラでの撮影なので、ちょっと不気味な写真になっちゃいました(苦笑)。

今日、私は神戸から車で福井を訪れたのですが、北陸自動車道を走ってみて、あらためて勝家がなぜ秀吉に勝てなかったかがわかったような気がしました。
名神高速から北陸道に入ってすぐのあたりに長浜市がありますが、そこから高速を約1時間北上したところが福井市で、その間ずっとトンネルに次ぐトンネルで、ほとんどが山岳地帯でした。
天正10年(1582年)6月の清州会議から半年後の同年12月、越前にいる勝家が雪で動けないと見た秀吉は、勝家の甥である柴田勝豊の居城・長浜城を攻めて降伏させますが、なるほど、これほど険しい道程であれば、勝家が動けなかったのも頷けます。
長浜と越前は、現在では北陸道で約80キロほどの距離。
車でたかだか1時間ほどで移動できちゃいます。
もし、勝家の時代に北陸道があれば、歴史は大きく変わっていたかもしれません。

ちなみに今日の私は西宮から名神高速にのって、秀吉軍が明智光秀を下した「天下分け目の天王山」でお馴染みの天王山トンネルを抜け、京の都を横目で見ながら、彦根、長浜を通り過ぎ、越前は北ノ庄を訪れました。
その間、約3時間半の戦国ツアーでした。


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by sakanoueno-kumo | 2012-11-24 20:00 | 福井の史跡・観光 | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第10話「わかれ」

 天正11年(1583年)、羽柴秀吉柴田勝家が対峙したこの決戦は、近江賤ヶ岳、同柳ケ瀬(どちらも現在の滋賀県長浜市)が戦場になったことから、古くは『柳ケ瀬の役』とも呼ばれたそうだが、現在では『賤ヶ岳の戦い』として知られる。当初、伊勢で小競り合いがはじまったことにより、先に秀吉が出兵を開始。次いで3月上旬、越前北ノ庄城から南下した勝家軍は、柳ケ瀬の内中尾山に陣地を構築した。一方、秀吉は木之本まで進撃したのち、美濃大垣城へ転進して、岐阜城主・神戸信孝(織田信孝)に睨みを利かせた。

 このとき、勝家軍の副将であり勝家の甥でもある佐久間盛政は、一瞬の機会を捉えて大岩山まで攻め寄せ、秀吉方の中川清秀を討死に追い込み、さらには隣の岩崎山にいた高山右近を攻撃してこれを撃退した。しかし、あまりにも出来すぎのこの戦果に、勝家はあくまで慎重な姿勢を崩さない。秀吉の並外れた機動力や、用兵の巧みさを熟知していた勝家は、再三撤退を勧告するも、盛政はこれに応じようとはしなかった。この予想外の勝利に、盛政は舞い上がってしまったのだろうか。案の定、勝家の懸念は的中する。秀吉率いる羽柴方の本隊(約1万5千)は、大垣から木之本間の約12里(約50km)を5時間で走破し、4月21日の未明、盛政の陣地に襲いかかった。

 こののち、戦場では盛政の弟・柴田勝政による逆襲や、秀吉軍の福島正則加藤清正『賤ヶ岳七本槍』の活躍などといった名場面が繰り広げられるが、一時は勝正の逆襲で盛り返していた勝家軍も、次第に秀吉軍に圧倒され、盛政、勝政兄弟は相次いで戦場離脱を開始する。さらに勝家軍の敗走を決定的にしたのが、勝家の与力であるはずの前田利家率いる5千の兵が、戦わずして戦場を離脱したことだった。利家はこのドラマには出ていないが、織田信長の母衣衆を努めていた武将で、勝家に恩義を感じ仕えていた。その利家が、ことここにいたって寄親であるはずの勝家を見限ったのである。利家は秀吉と若い頃からのマブダチだったともいわれ、このとき利家は、秀吉に調略されていたとか、親友と寄親との相克に耐えられなかったとか、後世に様々な推測を残しているが、いずれにせよ、この利家の行動で勝家軍の敗走は決定的となった。そんな利家に対して、勝家は責めることなく、越前への撤退の際に利家の城に立ち寄り、長年の苦労を謝したと伝えられる。勝家の懐の大きさが伺えるエピソードともいえるが、そうした“裏切り”“寝返り”といった行為が、ごく当たり前に行われていた戦国の世の姿を垣間見れるエピソードでもある。裏切った利家が悪いというよりも、裏切られた勝家に力がなかったということ。利家を責めるということは、勝家自身の力のなさを露呈するようなもの。そんなところだったのだろう。

 身代わりを立てるなどして辛うじて戦場離脱に成功した勝家は、4月23日までに、お市の方と三人の娘たちの待つ越前北ノ庄城に戻った。しかし敗走中、味方の中には臆病風に吹かれて逃亡したり、寝返った者も多くいたようで、勝家と共に城へ入ったのは僅かな人数だったとか。勝家にしてみても、城へ戻ったところで秀吉軍に包囲されるのは火を見るより明らか。このとき勝家は、どんな思いで城に戻ったのだろうか。利家の“寝返り”を知ったとき、一時は自刃を口にしたとも伝えられる。しかし、落ちのびて居城に戻る道を選択した勝家。ドラマのように、ひと目、お市たちに会いたかったのだろうか。“鬼柴田”という異名をとり、猛将として後世に伝わる柴田勝家。しかし、その人の持つ本当の人間像は、死に際したときに見て取れるもののようにも思える。
 「思えば、この半年が、わしの人生の華であった。」
 鬼柴田といえども人間、案外、真意をついた台詞かもしれない。

 間もなく北ノ庄城は、秀吉軍によって重包囲された。しかし、勝家がかつて織田家の重臣筆頭だったからか、または、お市の方が城内にいたからか、秀吉がすぐに城へ総攻撃を仕掛けることはなく、しばらく散発的な銃撃戦が繰り返されるといった状況が続く。やがて銃撃戦も止み、城の内外を不気味な静寂が覆った。同日夜、先の『賤ヶ岳の戦い』で奮戦し、最後まで自分に従ってくれた者たちの労をねぎらうべく、勝家は城内でを開いたという。その賑やかな様子は城外にも響き、その様子を聞いた秀吉軍は、勝家の覚悟を悟ったと伝わる。そして同じ頃、お江たち三姉妹が秀吉軍の陣まで送り届けられた。このときお茶々は14歳、お初は13歳、お江は11歳。その姿は、まさに10年前の小谷城落城のときと同じだった。しかし、10年前と違っていたのは、そこに母、お市の姿がなかった。

 秀吉軍は、お市も城を出るよう再三促したと伝えられるが、お市は勝家と運命を共にする道を選んだ。その理由については、古くから様々な解釈がなされている。秀吉が勝家を助命する可能性が皆無であること、兄の信長が落命していたため返るべき家がないこと、助命の打診に応じて城を出てもそれが履行されるとは限らないことなど、いずれも理由としては充分なものだが、それ以前に、彼女にしてみれば二度目の落城経験。同じ轍は踏みたくない思いが強かったのでは・・・と私は思う。10年前に生きる道を選んだのは、幼い娘たちのため。しかし、彼女にとってこの10年間は、死んだも同然の10年だったのかもしれない。お市は勝家に嫁ぐときから、この最後の覚悟は出来ていたのではないか・・・とさえ思う。彼女にとって勝家との結婚は、死に場所を求めた結婚だったのでは・・・と。

 天正11年(1583年)4月24日早朝、秀吉軍の総攻撃が開始されたため、同日夕方、勝家・お市の方夫婦、12人の側室(異説あり)、約80人の家臣、約30人の女中らは、北ノ庄城天守閣にて自刃を遂げた。生年を天文16年(1547年)とする説にしたがえば、お市はこのとき37歳。同じく生年を大永2年(1522年)とする説にしたがえば、勝家はこのとき62歳だった。

 辞世
 お市 「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れをさそふ 郭公(ほととぎす)かな」
 勝家 「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公(ほととぎす)」


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by sakanoueno-kumo | 2011-03-22 02:57 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第9話「義父の涙」

 「敵方にああまでされたら、行くしかないのが男というもの、なのに、ひたすら耐えておられる・・・男は戦いたいのじゃ・・・女にはわからぬが、敗れようとも戦って死にたい、それが男なのやもしれぬ・・・男とは、武士とは、かくも不思議な生き物なのじゃ・・・これ以上とめるのは、死ねというより酷いことなのやもしれぬ・・・勝家さまは、男ゆえな。」

 清洲会議以降、決定的な対立関係となった羽柴秀吉柴田勝家。もはや天下を視野に入れた秀吉にとって勝家は邪魔な存在。一方の勝家にとっても、秀吉の思うがままにさせたくない意地がある。二人の間で戦が起こるであろうことは、誰の目にも明らかだった。

 秀吉の勝家に対する挑発は、天正10年(1582年)10月15日、織田信長の葬儀を秀吉の主宰で行ったことに始まる。喪主は、信長の次男・信雄や三男・信孝を差し置いて、四男の羽柴秀勝。秀勝は羽柴という姓からもわかるように、信長から秀吉が貰い受けた養子だった。つまり、秀吉は喪主の義父という立場だったわけで、これは、秀吉が信長の後継者であるということを世に示したセレモニーだったとみていいだろう。そしてその席には、お江たち三姉妹はもちろん、勝家も、お市の方も、列席することはなかった。

 葬儀が終わって2ヵ月も経たない12月、越前にいる勝家が雪で動けないと見た秀吉は、勝家の甥である柴田勝豊の居城、長浜城を攻める。長浜城は、元々は秀吉の居城だったものだが、清洲会議にて勝家の手に渡っていた。秀吉の居城を手に入れたといえば聞こえはいいが、実はこれも秀吉の計算だったともいわれ、長浜城には、勝家の甥でありながら、勝家とは不仲であった勝豊が居住するという条件がついていた。そんな関係だったからか、勝豊はあっけなく降伏、秀吉方に寝返る。すべてが秀吉の思惑どおりに事が進んでいった。

 さらに同じ12月、秀吉は岐阜城織田信孝も降伏させて三法師の身柄を確保、安土城に織田信雄と三法師を迎え、自身はその後見役として、天下の実質的な支配者としての地歩を固めた。この報を聞いた勝家は、人員を総動員して兵道の雪を取り除き、いよいよ出撃の準備にとりかかる。お市たちが勝家のもとに来てから、半年余り経った時期だった。ドラマのように、ようやく家族としての絆ができはじめていた頃だったかもしれない。

 「娘のことを気になさることはございませぬ。」
 「娘たちのことだけではない。わしも・・・いや、わしが行きとうはなかったのやもしれぬ。」
 「勝家さま・・・?」
 「平穏で、心安らかな暮らしを知ってしもうたからのう・・・。」
 一般に、勝家の最大の不利は、雪深い北陸の地にあって、兵を容易に動かせなかったことにあったといわれる。しかし、お市やお江たちにとっては、幸せなひとときを過ごせた“恵みの雪”だったのかもしれない。そして、鬼柴田といわれた猛将、勝家にとっても・・・。しかし、無情にも雪の季節は終わろうとしていた。勝家も、かくも不思議な生き物に戻らねばならない。武士ゆえ、男ゆえ。


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by sakanoueno-kumo | 2011-03-07 02:22 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(86)  

江~姫たちの戦国~ 第8話「初めての父」

 お江たち三姉妹の新たな父、柴田勝家は、大永2年(1522年)、尾張国愛知郡上社村で尾張国守護斯波氏の流れをくむ柴田勝義の子として生まれたと伝わる。しかし、諸説あり定かではない。織田信長の父・織田信秀の家臣として仕え頭角を現し、信秀の没後は、嫡子の信長ではなくその弟の織田信行に家老として仕えた。やがて勝家は、信長を排除し信行を織田家後継者にしようと画策するも、弘治2年(1556年)8月、信長との戦いに敗れ、剃髪して降伏した。その後、信行が再び謀反を企てた際には、勝家はこれを信長に通報、信行は自刃に追いやられた。

 信行の死後、勝家は信長の家臣となる。しかし、一度は信長に刃を向けた身、最初は警戒され、主だった戦には参戦できない時期を過ごす。そんな中、与えられた少ないチャンスに勝家はすべて先鋒として武功をあげ、その勇猛さから次第に信長の信頼を得るところとなり、いつしか信長の天下統一に向けての片腕となっていった。そして朝倉氏滅亡後、信長麾下の佐々成政不破光治佐久間盛政前田利家らを率いて、長きにわたって越前を支配していた加賀一向一揆を平定。その功により、越前国北ノ庄(現在の福井県福井市)を与えられ、織田家中で最も多くの領土を有するようになる。能力重視の信長配下の中で、最も代表的なサクセスストーリーとして誰もが羽柴秀吉を思い浮かべるが、勝家とて決して平坦な道だったわけではなく、努力で掴んだ織田家筆頭家老の地位だった。

 柴田勝家といえば、“鬼柴田”と異名からも想像するように、武骨な武闘派の武将をイメージしがちだが、統治能力にも長けた人物だったようで、善政を敷き、領地をよく治めたといわれる。だからこそ、織田家で最も多くの領地を与えられたとも考えられているらしい。また、最初に刀狩をしたのは秀吉ではなく、勝家だったという説もあるとか。勝家は回収した刀を、新しい農具や釘などに代えていた、などという話も残っている。武勇においても、行政面においても、信長の天下統一に欠かせない人物だったようだ。

 信長の死後、勝家は明智光秀討伐に参戦できなかったこともあり、前話の清洲会議では羽柴秀吉にイニシアティブをとられ、織田家筆頭の地位を秀吉に奪われることとなる。一般に、それ以前から勝家と秀吉は性格が合わなかったともいわれ、小説などでは信長の生前から二人の不仲が描かれることが多い。しかし実際にはそれを裏付ける史料は残されていない。そもそも木下藤吉郎という名で活動していた秀吉が、天正元年(1573年)頃から名乗った“羽柴”という姓は、柴田勝家の“柴”と、もうひとりの重臣・丹羽長秀“羽”を一文字ずつもらったものだといわれている。少なくともこの頃はまだ、秀吉にとって勝家は大先輩にあたる人物で、尊敬する存在だったのではないだろうか。勝家にしても、まさか将来、名字の一文字を与えた人物と対峙することになろうとは、夢々思わなかったことだろう。そしてそれが、自身の最後の戦になろうとも・・・。

 そんな勝家のもとに嫁いだ、お市の方。前話の稿でも述べたとおり、この結婚は信長の三男・織田信孝の仲介だったという説や、近年では秀吉の仲介だったという説が有力になっているそうだが、結婚の理由については、どれも想像の域をでない。勝家にはこのとき正室はいなかった。お市が初めての正室だったという説もあるが、これも定かではない。正室はいなかったものの側室は複数いたという話もあるが、これも明確ではないようだ。武勇にも行政面にも優れた勝家だったが、そっち方面は不器用な男だったのだろうか。

 いずれにしても勝家にとっては60歳を過ぎてからの結婚。理由はどうあれ、彼にとって美貌で知れたお市とのこの結婚は、信長の横死の知らせ以上に「青天の霹靂」だったのではないかと想像する。彼は、二回り以上離れた新妻と3人の娘たちをたいそう大切にしたとか。勝家にとってお市は、“眩いほどの奥さん”だったのだろう。
 「多少なりとも、それがしに、想いを寄せてもらいたいのでございます。」
 このような台詞を勝家に吐かせたのは、いかにも女性脚本家らしいメロドラマの世界ではあるが、とはいえ、私がもし勝家の立場なら、天下の情勢など忘れて、妻と残り少ない余生を穏やかに過ごせたら・・・などと思ったかもしれない。60歳といえば、人生50年の当時でいえば明らかに余生。武勇で知れた勝家といえども、わずかでも、そんな想いが心をよぎっていたとしても、何ら不思議ではない。

 しかし、そんな想いを世情は許すはずがなかった。
 勝家とお市の穏やかな日々は、1年と続くことはなかった。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-28 02:32 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(2)  

江~姫たちの戦国~ 第7話「母の再婚」

 「中国大返し」という奇跡を起こした羽柴秀吉が、主君・織田信長の仇である明智光秀を打ち負かした「山崎の戦い」から半月後の、天正10年(1582年)6月27日、尾張・清洲城において織田家後継者ならびに遺領の分配を決めるための、織田家家臣重役会議が開かれる。世にいう「清洲会議」である。

 会議の列席者は、柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興。もうひとりの重臣である滝川一益も本来ならば列席すべきだったものの、関東での北条氏との戦いに敗れ、敗走中のため会議に間に合わなかった。また、後継者候補の当事者である信長の次男・織田信雄、三男・織田信孝も、この時すでに、お互い後継者候補と自負して対立は表面化していたようで、清洲城には来ていたものの、この会議には列席していなかったらしい。

 会議に臨むそれぞれの立場をいうと、柴田勝家は「本能寺の変」が起こったとき北陸で上杉家と対峙しており、信長の弔い合戦には参加できなかった。羽柴秀吉は上述したとおり明智討伐の功労者。丹羽長秀や池田恒興は織田家の尾張統一以前からの古参の家臣で、秀吉と共に明智討伐に参戦していた。勝家は織田家筆頭家老という立場であったものの、ひとり明智討伐の功がない、不利な立場にあった。

 その勝家は、「山崎の戦い」の総大将だったことを理由に信孝を後継者に推した。しかし、秀吉がこれに反論。三男の信孝が次男の信雄を差し置いて後継者となるのは問題があるとし、さらに、信雄はすでに北畠氏へ養嗣に、信孝も神戸氏へ養嗣に出されていることもあり、信長と共に落命した嫡男・織田信忠の忘れ形見で信長の嫡孫でもある、三法師(後の秀信)を推した。これに池田恒興、丹羽長秀共に賛同。一説には、秀吉は長秀や恒興を事前に根回しして抱き込んでいたともいうが、その真偽はわからない。しかし、根回しがなくとも秀吉の主張は筋が通っていた。そもそも織田家の家督は、信長存命中にすでに長男の信忠が継いでおり、その嫡男である三法師が後継者となることは、当然の道理だったのである。それでも勝家は、三法師が幼いということを理由に信孝を推し続けたが、秀吉には明智討伐の功という強みもあり、結局は秀吉の前に屈し、後継者は数え3歳の三法師で決定、信雄と信孝の二人はその後見役として決着を見る。会議が終わって新しい“上様”に拝礼ということになり、三法師を抱いた秀吉の前に、ひとりひとりが来て平伏した。秀吉は軽く頷いて礼を返していたが、それはあたかも、秀吉が礼を受けているようだったという。

 こうして会議は、秀吉の思い通りに進んだ。「本能寺の変」から「中国大返し」、「山崎の戦い」までは、天が秀吉の天下取りに味方した偶然ともいえるが、ここからはまぎれもなく、秀吉の知略謀略を尽くした天下取りが始まる。

 この「清洲会議」以降、織田家における秀吉と勝家の立場が逆転した。信長の弔い合戦に遅れを取り、後継者争いに負け、さらに会議のもうひとつの議題であった信長の遺領配分においても、河内や丹波、山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡の長浜城を得るにとどまり、事実上、織田筆頭の座を秀吉に奪われたかたちとなった。しかしこの後、そんな勝家のもとに、信長の妹・お市の方が嫁ぐことになったのである。

 ドラマ第1話の「小谷城落城」で、お市の夫・浅井長政が落命したのが天正元年(1573年)。通常、この時代は、主人亡き後は出家して夫を弔うことがほとんどだったが、まだ若かったお市は出家ぜず、9年間、3人の娘と信長の庇護のもと暮らしていたという。そのお市に着目した信孝が、織田家における秀吉の発言力が増すことを抑えるために、勝家との間を仲介した、というのがこれまで言われてきた説で、今回のドラマでもその説をとっていた。秀吉はお市に思慕していたものの、お市は「小谷城落城」以来、秀吉を毛嫌いしており、秀吉牽制のため勝家に嫁ぐことを決意した・・・と。このことによって、秀吉の「勝家憎し」の感情が、さらに増した・・・とも。

 しかし近年では、秀吉の仲介を伺わせる書状が見つかったことから、勝家とお市の結婚は秀吉が仲介したものという説が有力となっているらしい。となれば、上記のお市の決意も秀吉の感情もすべて否定され、結婚の理由も???となる。秀吉はなぜ、自身にとっては不利となるような結婚を仲介したのだろうか・・・。また、お市はなぜ、9年間も再婚することのなかった我が身を、このタイミングで勝家に捧げたのだろうか・・・。

 理由はいろいろ想像できる。信長の妹を嫁がせることによって、勝家の反秀吉の強硬姿勢を緩めるための懐柔策・・・いわゆる、手土産のようなもの・・・とか、もしくは、後継者争いや遺領配分など、あまりにも秀吉の思い通りにことを運びすぎたことにより、織田家内での反感を買うことを懸念し、彼の支持基盤を固めるためのカムフラージュ・・・とか、あるいは、秀吉が力を持つことを快く思っていないお市を、いずれは衝突することになるであろう勝家のもとに嫁がせ、一緒に葬り去ってしまおうと画策した・・・などなど。どれもこれも憶測の域をでないが、お市の側にしてみれば、いくら女性に結婚の自由がなかった時代とはいえ、旧主君の妹君。断ろうと思えば断れたはず。このタイミングで嫁ぐ決意をしたのは、織田家の行く末を案じた上で、勝家という人物が最も信頼できると判断したから・・・と、考えるのが一番合点がいく。そして、秀吉の台頭を快く思っていなかったという話も、案外本当のことだったのではないだろうか。

 そんな政略結婚だったにも関わらず、お市と3人の娘にとっては意外にも幸せな日々が待っていた。しかしそれは、ほんの束の間にすぎなかった・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2011-02-21 02:11 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(4)