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花燃ゆ 第33話「花となるために」 ~革命成立~

 高杉晋作を中心に立ち上がった反乱軍は、日に日に勢力を増していき、やがて藩政府軍を圧倒。椋梨藤太を首領とする俗論党は、政権運営の後ろ盾となる軍事力をほぼ失います。こうなると、あとは革命軍の連戦連勝、政権交代は時間の問題となるのですが、ここで登場するのが中立の立場をとる集団で、そのほとんどが萩の上士団のなかからあらわれ、かれらは自らを「鎮静会議員」と称しました。中立といっても、その主張は晋作ら反乱軍と変わらず、諸隊が武力に物をいわせた過激派というのに対し、鎮静会議員たちは、事の荒立てずに穏便に鎮静させようという調停勢力でした。その数は革命軍が勢力を増すのと並んで膨れ上がり、絵堂・大田の戦いで藩政府軍が敗れたあとは、約200人に及んでいました。ちなみに、「議員」という呼称が日本史に初めて登場したのは、このときだそうです。

 鎮静会議員の代表者たちは、内戦の終息をはかるべく和平交渉に動き始めます。そのなかには、吉田松陰の実兄・杉梅太郎(民治)もいました。梅太郎は温厚篤実を絵に描いたような人物だったといわれ、調停役にはもってこいの存在だったのでしょうね。梅太郎らは元治2年(1865年)1月16日に萩城に赴き、藩主・毛利敬親に対して、反乱軍の主張をのむよう諌言します。

 一方で、反乱軍が占拠する山口には、香川半介、桜井三木三、冷泉五郎、江木清治郎の4名が和平交渉の使者として赴きます(ドラマでは、このメンバーにも梅太郎が入っていましたが)。そこで彼らは、藩主の説得を約束するとともに、ひとまず萩には突入しないよう休戦を促します。ところが、その帰路、彼らは和平を良しとしない藩政府軍の刺客に襲撃され、香川、桜井、冷泉は絶命、江木も深手を負います。

 これを知った晋作らは激怒し、休戦勧告を無視して海上からさかんに空砲を放ち、藩政府を威嚇します。また、これまで中立的立場をとってきた鎮静会議員の主張もどんどん過激になっていき、「藩政府の首領、椋梨藤太、岡本吉之進らを罷免せよ」と、もはや反乱軍の別働隊のような働きをはじめました。こうなると、藩主・敬親も彼らの要求を無視できなくなり、とうとう椋梨らは罷免され、俗論党は藩の中枢から追放されます。革命は成りました。

 罷免された椋梨ら12名は萩を脱出して石州津和野藩領まで逃げ、吉川監物を頼って岩国に向かおうとしましたが、途中で捕らえられて萩に護送されました。そして同じ年の5月、かつて松蔭や晋作が投獄されていた野山獄にて処刑されます。死に際して椋梨は、「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と懇願したといわれ、他の者が切腹の刑を申し付けられるなか、椋梨だけが斬首だったといいます。

 「あの人は城から逃げたのではない。ただ、己が巻き込んだ者たちを逃がしてやりたかったのです。そういう人です。」

 椋梨の妻・美鶴が、寿に言った台詞ですが、あるいは、そうだったのかもしれませんね。ほころびが出ても秘書の責任にして生き残ろうとする現在の政治家とは、雲泥の差です。

 その潔さでいえば、藩主・毛利敬親もまたそのひとりで、佐幕派に推戴されたことを公式に後悔し、「すべては自分の不徳不明により起こったこと」と、封建時代の大名としてはおよそ異例の諭告文を、藩内の士民に対して発しています。敬親のような藩主だったから、長州は革命集団たり得たのでしょう。

 で、主役の美和についてですが、ちょうどこの時期に誕生した毛利家の世子・興丸(のちの毛利元昭)の守役を務めた、と彼女の関連本などに記されているだけで、その奮闘ぶりなどは一切わかりません。正直、どうでもいいかな・・・と(笑)。

 そして時代は、いよいよ慶応年間に入ります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-17 19:55 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第30話「お世継ぎ騒動!」 ~第一次長州征伐の決着~

 ドラマは奥勤め話が中心ですが、当ブログは頑固に世情中心で進めます。

 正義党井上聞多が闇討ちに遭い、周布政之助が自刃すると、椋梨藤太を中心とする藩内保守派の俗論党がいよいよ主導権を握ります。これにより、井上が進言して決定していた武装恭順の方針はまたたく間に却下となり、幕府に対して徹底的な恭順を藩是とします。しかし、それでも当初の幕府征長軍はあくまで強硬姿勢を崩さず、特に会津藩などは、長州藩の領地をすべて没収して東北のどこかの3万石程度の小さな領地に押し込んでしまえ、といった厳罰論を唱えていました。もし、そうなっていたら、その後の歴史はずいぶんと変わっていたでしょうが、ここで征長軍総参謀長となった薩摩藩西郷吉之助(隆盛)が登場します。このとき西郷が示した腹案は、「長人(長州人)を以って長人を処置させる」という寛大案でした。

 このときの西郷の心中については、後世にさまざまな解釈をよんでいます。薩長同盟はまだ1年以上先のことですが、いずれ長州と手を結ぶかもしれないことを想定して布石を打った、という見方や、西郷はこのとき既に幕府の末路を予見していた、とか、あるいは、すでに西郷は雄藩の連合政権を着想していた、などなど、どれも結果を知っている後世から見た解釈という感じもしますが、いずれにせよ、ここで戦争して長州藩を叩くのは得策ではないと考えたのでしょうね。ここで下手に恨みを買うより、長州人自らに裁いてもらった方がいい。長州藩内部がもめていることを知り、それを利用したわけです。西郷はこの時期から、巨大な政治家としての手腕があらわれはじめます。

 あと、この少し前に、西郷と幕臣の勝麟太郎(海舟)が面会していたことも、大いに影響したんじゃないかと言われています。勝はこのとき、幕臣の身でありながら幕府中枢の悪態をさんざんについた上で、雄藩諸侯の合議制による共和政治の構想を西郷に吹き込んだといいます。西郷はこの会談で大いに目からうろこが落ちたようで、珍しく興奮した手紙を大久保一蔵(利通)宛に送っています。長州藩内で俗論党と正義党がもめている同じ頃、長州藩の運命は思わぬところで変わり始めていたということです。

 西郷は自身の長州処分案が採用されると、さっそく岩国藩主吉川経幹を仲介にし、長州藩代表に次のような降伏条件を提示しました。

 一、藩主親子の蟄居謹慎
 二、禁門の変を指揮した三家老の切腹
 三、それに従った四参謀の斬刑
 四、三条実美ら五卿を九州太宰府へ移す
 五、山口の新城を破壊する


 長州藩の政庁は萩城でしたが、文久2年(1862年)に行われた文久の改革によって藩主妻子の帰国が許されると、山口に新たな藩主居館が作られました。しかし、本来は大坂夏の陣後に制定された一国一城令により、各藩とも城は1か所しか許されていませんから、これは明らかに幕法違反でした。ましてや、山口はかつて関が原の戦いに敗れて広島城を失った毛利家が、山口を居城建設候補地として幕府に申請するも許可されず、僻地である萩に押し込められた歴史があります。だから、幕府側としては五の条件は当然なんですね。しかし、文久の改革で参勤交代が廃止されて以降、どの藩も江戸には少しの外交官だけを置いて藩士を帰国させており、そのため、城はキャパオーバーだったことは確かでしょうね。そこで、ドラマの奥女中リストラ話につながるわけです。やっとドラマに沿うことができました(笑)。

 切腹した家老は、福岡越後 国司信濃 益田右衛門介の3人。しかし、これにて一件落着とはいかず、これを皮切りに椋梨藤太は政敵を次々と粛清していきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-27 16:13 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第29話「女たちの園」 ~袖解橋の変と周布政之助の死~

 高杉晋作らの働きにより四ヵ国連合との講和は一応の決着をみましたが、そこへ追い打ちを掛けるように、幕府から長州征伐の軍令を受けた35藩による約15万の大軍が長州に進撃してきました。これにはさすがの長州藩も震え上がります。それでなくても四ヵ国連合艦隊との戦いでダメージを受けているのに、これ以上、幕軍に攻められら長州藩は潰れてしまう・・・そんな状況下で、藩上層部は幕府に泣訴哀願して一意恭順するという方針を主張します。いわゆる保守派、佐幕派である椋梨藤太を首領とする俗論党の台頭です。

 これに対し、高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔など強硬論である正義党の主張は、表面的には恭順を装い、ひそかに幕府との戦争準備を整える、というものでした。時勢もこの頃になると、かつて長州藩過激派を代表していたビッグネームたちはことごとく非業に斃れ、第二級の存在であった井上や伊藤が、にわかに正義党の顔になりつつありました。伊藤は松下村塾門下でしたが、井上はそうではありません。

 元治元年(1864年)9月25日、幕府に対して、恭順か、武装恭順かを決める最後の御前会議が、朝から山口の藩庁で開かれました。伊藤は身分が低いために会議には出席できず、晋作は四ヵ国連合との講和談判のあと身の危険を感じて潜んでいたため、井上が正義党の代表としてただひとりで会議に臨みました。その席で井上は数時間にわたって弁じ立て、ついに藩主・毛利敬親をして武装恭順の方針を決するに至らせます。同席者のほとんどが敵というなかで、たいしたもんですね。井上の弁説の持つ説得力はよほどのものだったのでしょう。

 しかし、藩主は井上の弁説を受け入れましたが、同席者皆が納得したわけではありませんでした。一意恭順を主張する俗論党の者たちにしてみれば、「井上は藩を滅ぼそうとするやつ」・・・という見方でしかなくなります。当然ですよね。たったひとりで藩主を説得してしまったわけですから、同席していた俗論党は敗北感に打ちひしがれたでしょうし、「井上は邪魔だ」という空気がわいてきた違いありません。井上が藩庁を退出したのは、この日の午後8時すぎ。その帰宅途中、俗論党の放った刺客に襲われ、ずたずたに斬られてほとんど一命を失わんばかりの瀕死の状態になります。ところが、幸運にも芸姑からもらったを懐に入れていたために急所がはずれていたのと、駆けつけた所郁太郎という医師の機転で、畳針を用いて傷口を縫い、一命をとりとめました。後年の本人曰く、あまりの苦痛から兄に「介錯を頼む」と告げたところ、老母が血だらけの身体に抱きついて兄を制止した、と語っています。所郁太郎と母がいなければ、明治の元老・井上馨はいなかったかもしれません。

 井上は奇跡的に助かりましたが、同じ夜、正義党の首領である周布政之助が命を落とします。切腹でした。周布はこの時期、山口の大庄屋・吉富藤兵衛宅に身を寄せていましたが、吉富家の者たちは数日前から周布に自刃の気配があることを察して監視していたといいますが、この日の深夜、皆が寝静まったのを見届けたあと死装束に着替え、庭に出て腹を切りました。享年42歳。その理由はいたって明白で、防長の国難に立ち至った責任を一身に引きうけてのことだったのでしょう。

 「藩を固くひとつに結び立ち向かうこと。そのためには礎がいる。これまでの全ての責めを負い、己をなげうってくれるものが・・・」

 周布を訪ねてきた椋梨の台詞ですが、あるいは、そんなやりとりもあったかもしれませんね。俗論党に政権を獲られた以上、どのみち椋梨は周布を政治裁判にかけて処刑したでしょう。そんなを晒すまえに、自らを処する道を選んだのかもしれません。実に党首らしい潔さといえます。遺書辞世の句が残っているのか調べがつかなかったので、小説『世に棲む日日』のなかの一文を引用します。

 「人ハ死スベキトキニ死セザレバ、カエッテ恥シメヲ受ク」

 現代でも数年前に政権交代がありましたが、あのとき敗北したどこかの党の上層部たちとは雲泥の差ですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-21 17:26 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(2)  

花燃ゆ 第10話「躍動!松下村塾」 ~長州藩の二大政党制~

 今話は松下村塾四天王のひとり、吉田稔麿を主役とした話でしたね。どうやら、しばらくは塾生の一人にスポットをあてて物語を展開していくようです。ドラマでは地味で平凡なキャラに描かれていましたが、その秀才ぶりは高杉晋作久坂玄瑞に勝るとも劣らないもので、謹直重厚な人物だったといわれます。晋作や玄瑞と同じく明治維新を見ることなくこの世を去ることになるのですが、同じ塾生で明治の元勲になった品川弥二郎に言わせると、「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」と語ったといいます。に恋心を抱いていたというのは、もちろんドラマの創作ですけどね。もっとも、杉家と吉田家は徒歩数分という近さだったそうですから、幼い頃から顔見知りではあったでしょうけどね。

 そんな稔麿の江戸行き祝の酒席に、酔った周布政之助長井雅楽が乱入していましたが、ここで、長州藩の政治について少しふれてみたいと思います。

 政論好きで理屈っぽいと言われていたのが長州藩ですが、その藩風は、早くから二大政党が存在したことにあると言われています。この物語の舞台より30年ほど前に藩政の実権を握った村田清風という人物は、その卓越した政治的識見と実行力で徹底的な藩政改革を行い、財政、軍事、学制などを一変させました。清風が改革に乗り出すまで、長州藩は慢性的な借財に苦しみ破産寸前だったといいますが、清風はあらゆる荒療治でこの財政難を数年で立て直したといいます。

 しかし、急速な改革は当然ながら抵抗勢力を生み、やがて大勢の恨みを買って清風は失脚します。すると今度は、清風の反動政治家的な立場の坪井九右衛門という人物が藩政を担い、清風が行った改革事業の多くを元に戻してしまいます。それで問題が生じると、また清風系の官僚が起用されて再改革に着手します。そんなこんなで、自然、長州藩は、村田清風を祖とした革新派(正義党と、坪井九右衛門を祖とする保守派(俗論党)の両党ができ、二大政党が抗争しながら繰り返し政権交代していくという、現代のアメリカ議会のような形ができます。今の日本ですら、なかなか二大政党制が確立しないことを思えば、当時の長州はかなり進んでいたといえるでしょうか。のちの初代内閣総理大臣・伊藤博文から、現在の安倍晋三首相まで、実に8人もの総理大臣を出した山口県の県民性は、この時代の藩風からきているのかもしれません。

 で、物語のこの時期、その村田清風の流れを受けた革新派の党首が周布政之助で、一方の保守派の党首が、松蔭と松下村塾に冷たい椋梨藤太となっています。椋梨は坪井のあとを受けて政務を担っていましたが、嘉永6年(1853年)の黒船来航によって改革派の周布が政務役筆頭となり、政権を奪取します。しかし、吉田松蔭黒船密航事件が起きるや、翌年に政務役を辞任。ドラマのこの時期は、椋梨率いる保守派が与党、周布の改革派は野党でした。その後も政権交代を繰り返しながら、やがて改革派が尊王派となり、保守派が佐幕派となっていきます。

 歴史の結果を知っている後世の私たちは、高杉晋作や桂小五郎を重用した周布の方が正しく、彼らを弾圧しようとした椋梨をダークなイメージで見がちですが(ドラマでも、そのように描かれていますが)、実際には、それぞれの政治的立場での政論に則った行いであり、この時点では、どちらが正しいというものではなかったわけです。何より、この時代の彼らの政権交代というのは、そのままを意味する場合もあり、実際に椋梨も周布も、こののちの政局の中で、二人とも命を失うことになります。文字通り、命を賭けた政治だったわけです。その意味では、現代の政治家とは比べものになりませんね。2年前、政権を奪還した安倍晋三首相は、坪井九右衛門と血縁にあたります。アベノミクスに命を賭けているか・・・ぜひ聞いてみたいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-09 21:32 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)