タグ:楠木正季 ( 4 ) タグの人気記事

 

太平記を歩く。 その105 「楠木正季・和田和泉守重次の墓(寶國寺)」 大阪府和泉市

大阪府和泉市にある寶國寺にやってきました。

ここに、延元元年/建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いで、兄・楠木正成と刺し違えて自決した弟・楠木正季の墓があります。


e0158128_17042859.jpg

自決後、兄・正成の首級は京都六条河原で晒された後、足利尊氏の命で河内国の観心寺に届けられ、首塚として祀られたと伝えられますが(参照:その101)、正成に殉じた者たちがどうなったかは伝わっていません。

普通に考えれば、兄と一緒に弟の首も京都六条河原に晒され、その後、楠木家の菩提寺である観心寺に送られたと考えるのが自然だと思うのですが、観心寺に正成の首塚しかないことを思えば、正季の首は、違うルートで葬られたことになるのでしょうか?

でも、じゃあ、なぜ和泉国の寶國寺なのか、はっきりした理由はわからないようです。


e0158128_17054091.jpg

手前の細長い墓碑と、その向こうの低い自然石の墓石と、どちらが正季の墓石かわかりません。


e0158128_17085523.jpg

細長い墓石の裏を見ると、「楠木正成弟和田二郎正季 嫡子和田和泉守重次 墓碑」と刻まれています。

和田二郎とは、正季の改名。

和田和泉守重次という人物がわからないのですが、「嫡子」とありますから、正季の息子ということでしょうか?


e0158128_17093234.jpg

自然石の墓石の台座には、「和田墓」と刻まれています。


e0158128_17104006.jpg

『太平記』によれば、死の間際、「人間は最後の一念で善悪の生を引くが、九界のうちどこに生まれたいか?」という兄・正成の問に対し、弟・正季が「七生までただ同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ」と答えたというくだりは有名ですね。

吉川英治の小説『私本太平記』でも、兄より忠誠心の熱い男に描かれています。

兄の首塚はたくさんありますが、弟は、こんなところにひっそりと眠っていたんですね。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-08-16 23:23 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その95 「廣厳寺」 神戸市中央区

「その92」「その93」「その94」で紹介した湊川神社から400mほど北上ところに、廣厳寺という寺院があります。

ここは別名「楠寺」とも呼ばれ、楠木正成菩提寺となりました。

正成は「湊川の戦い」を前にしてこの寺に参り、明極禅師と問答して大いに悟って戦いに臨んだと伝えられます。


e0158128_21233057.jpg

また、正成と弟の楠木正季自刃したのも、ここ廣厳寺の塔頭だったとも言われます。

戦歿地としては「その92」で紹介した湊川神社本殿裏がありますが、実際には、このあたりということだけで、詳細な場所はわかっていないのでしょうね。


e0158128_21233428.jpg

もはやこれまでと観念した正成は、部下を布引方面に逃した後、湊川北の民家に入って小屋に火をかけて自刃したと伝えられますが、その民家というのが、ここ廣厳寺の塔頭だった・・・と。


e0158128_21233869.jpg

その後、当寺は一時、荒廃しますが、延宝年間に千巌宗般が荒廃この寺を再興。

そのとき、千巌は水戸黄門で知られる徳川光圀が楠公を追悼する建碑の意向があることを知り、強く請願したと伝えられます。

境内にある石碑には、たぶんそのことが書かれていると思います(スミマセン、読解できません)。

現在、徳川光圀が揮毫した「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑は、前稿で紹介した近くの湊川神社にあります。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-07-29 08:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その93 「楠木正成戦歿地」 神戸市中央区

前稿で紹介した湊川神社の本殿の裏に、何やら特別な場所といった感じの一角があります。

近寄ってみると、「楠木正成公戦歿地」と刻まれています。


e0158128_20232418.jpg

延元元年/建武3年(1336年)5月25日に起きた「湊川の戦い」で、足利尊氏の弟・足利直義軍と戦った楠木正成は、激戦の末、弟の楠木正季と共に自刃して果てますが、ここがその場所だったということでしょう。


e0158128_20253916.jpg

「戦歿地」玉垣に囲われていて、門が閉ざされています。

中を参拝するには社務所への申し出が必要です。

なんとも厳かな雰囲気で、まるで天皇陵のよう。


e0158128_20321010.jpg

説明看板によると、正成はこの地で、一族郎党60余人と共に自刃したとあります(『太平記』では73人全員が自刃したと記されている)。


e0158128_20322285.jpg


『太平記』によると、楠木軍は総勢700余りで、足利尊氏・足利直義両軍に囲まれてからは、前方の直義軍に向かうのが精一杯で、三刻(6時間)ほどの間に16回もの激戦がくりひろげられ、「その勢次第々々に滅びて、後わずかに七十三騎にぞ成たりける」と、楠木方はとうとう73人になってしまったと記されています。

もはやこれまでと観念した正成は、部下を布引方面に逃した後、湊川北の民家に入って小屋に火をかけて自刃したと伝えられます。


e0158128_20323811.jpg

伝承によれば、まず部下たちが念仏を十回唱えて一度に腹を切り、その後、正成、正季兄弟が刺し違えて果てたといいます。

『太平記』によれば、死の間際、「人間は最後の一念で善悪の生を引くが、九界のうちどこに生まれたいか?」という兄・正成の問に対し、弟・正季が「七度生まれ変わっても朝敵を倒したい」と答えたというくだりは有名ですね。


e0158128_20324227.jpg

以下、『太平記』巻16「正成兄弟討死事」原文。


正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。


e0158128_20324607.jpg

この「七生滅賊」の逸話に、後代に「報国」の意味が加わって「七生報国」となり、先の戦時中のスローガンとなりました。

正成、正季兄弟が本当にこのような会話を交わしたかどうかはわかりませんが、600年後、まさか自分たちの言葉が、国民を死地に送り込むための呪文になろうとは、夢にも思わなかったことでしょう。



「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-07-27 00:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その24 「嶽山城(龍泉寺城)跡」 大阪府富田林市

烏帽子形城から北西に4kmほどのところにある嶽山城跡にやってきました。

ここは、富田林市にある標高278m嶽山山頂にあり、その中腹に龍泉寺があることから、龍泉寺城とも呼ばれています。

ここも、元弘2年(1332年)に楠木正成が築いたとされる楠木七城のひとつに数えられます。


e0158128_17525831.jpg

嶽山山頂へは車で登れます。

現在、山頂には「かんぽの宿富田林」があり、城の遺構らしきものはほとんど残っていません。


e0158128_17543678.jpg

かんぽの宿の建物北側にテニスコートがあるのですが、その裏手に石碑があるというので、行ってみました。


e0158128_17544018.jpg

茂みのなかに入っていくと・・・。


e0158128_17555449.jpg

ありました。


e0158128_17581111.jpg

「楠公龍泉寺城」と刻まれた石柱です。

楠公没後600年祭記念として昭和15年(1940年)に建てられたそうです。


e0158128_17581459.jpg

築城時の龍泉寺城は、正成の弟・楠木正季の居城だったと伝わり、正季は楠木龍泉とも呼ばれます。

正季は正成とともに湊川の合戦で命を落とします。


e0158128_17581976.jpg

『太平記』巻34によると、正成の三男・楠木正儀の時代にも戦場になったようです。

詳しくは上の説明板をお読みください。


e0158128_17594272.jpg

嶽山山頂から東を望むと、金剛山、葛城山が聳えます。

ここを訪れたのは夏真っ盛りの8月6日、今にも雨が振りそうな空ですが、このあと、強烈なゲリラ豪雨に見舞われました。


e0158128_18074804.jpg

せっかくなので、中腹の龍泉寺にも立ち寄りました。


e0158128_18075132.jpg

寺伝によれば推古天皇2年(594年)に蘇我馬子が勅命を受けて建立したとされます。


e0158128_18075324.jpg

天長5年(828年)淳和天皇により寺は再建され、勅願寺として龍泉寺医王院の寺号を賜ったそうで、東西両塔が建てられ、大小25の塔頭が立ち並ぶ大寺院となったといいます。


e0158128_18090445.jpg

しかし、山頂に楠木正成が城を築いたことで戦火に巻き込まれ、ほとんどが焼失しました。

龍泉庭園は、国指定の名勝となっています。


e0158128_18090858.jpg

南河内には楠木正成ゆかりの城はまだまだあります。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

太平記を歩く。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

[PR]

by sakanoueno-kumo | 2017-03-09 21:56 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)