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太平記を歩く。 その104 「楠木正成首塚(杜本神社)」 大阪府羽曳野市

大阪市羽曳野市にある杜本神社にも、楠木正成首塚があると聞いて訪れました。


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神社入り口には、「水分神社併楠公遺物陳列場」と刻まれた石柱があります。

「水分神社」とは、「その21」の稿で紹介した千早赤阪村にある建水分神社のことだと思いますが、「楠公遺物陳列」というのは、正成の首ってことでしょうか?


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鳥居をくぐって丘の上にある本殿を目指します。


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こちらは拝殿です。


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由緒書きには、たしかに「大楠公首塚」が紹介されています。

それによれば、河内に送られてきた正成の首を、この地に密かに隠して敵の目を逃れたとあります。


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拝殿横の小さな鳥居をくぐります。


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その奥に、さらに小さな鳥居があります。


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その奥にある小さな祠には、「南木神社」と書かれています。

「南木神社」は、千早赤阪村の建水分神社境内にある、楠木正成を祀った最古の神社です。

その横に、隠れるように五輪塔が見えます。


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どうやらこれが、「大楠公首塚」のようです。


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たしかに、かなり古いもののようですね。


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花立には、「楠公御墳前」と刻まれています。


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まあ、英雄であればあるほど、この種の伝承は数多く存在するものですが、それにしても、楠公さんの首ってどんだけあんねん!って感じですね。

ほとんどキングギドラ八岐大蛇状態です(笑)。


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ちなみに『太平記』とは無関係ですが、楠公首塚のすぐそばに、奈良時代の左大臣・藤原永手の墓があったので、せっかくなので掲載しておきます。

どんな人物かは、調べてください(笑)。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-13 16:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その103 「楠木正成首塚(観心寺)」 大阪府河内長野市

楠木正成廟所「その94」で紹介した神戸市の湊川神社にありますが、前稿で紹介した大阪府河内長野市にある観心寺には、正成の首塚があります。


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こちらが正成の首塚です。

石碑に刻まれた「非理法権天」の文字は、「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


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まるで天皇陵のような厳かさです。


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門扉には、楠木家の家紋「菊水」があります。


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墓石は五輪塔です。

高さは1mほどでしょうか?

特に立派なものではありません。


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湊川の戦いに敗れ、弟・楠木正季と差し違えて自刃した正成の首は、一時、京都の六条河原に梟首されますが、その後、足利尊氏の命により、ここ観心寺に届けられて首塚として祀られたといいます。


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『太平記』巻16「正成首送故郷事」では、正成の首が届けられたときのことを、こう伝えます。


貌をみれば其ながら目塞り色変じて、替はてたる首をみるに、悲の心胸に満て、歎の泪せき敢ず。今年十一歳に成ける帯刀、父が頭の生たりし時にも似ぬ有様、母が歎のせん方もなげなる様を見て、流るゝ泪を袖に押へて持仏堂の方へ行けるを、母怪しく思て則妻戸の方より行て見れば、父が兵庫へ向ふとき形見に留めし菊水の刀を、右の手に抜持て、袴の腰を押さげて、自害をせんとぞし居たりける。


父・正成のあまりにも変わり果てた姿を見た11歳の嫡男・楠木正行は、父の形見の刀で自害しようとした・・・と。

これを見た母・久子は急いで駆け寄り、こう叱責します。


「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。


「栴檀は双葉より芳し」とは、大成する者は幼いときから人並み外れてすぐれているということ。

つまり、楠木正成の息子ともあろう者が、この程度のことで何を血迷っているのか・・・と。

有名なくだりですね。

母は強し。


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傷んで読みづらいのですが「詠楠木正成卿歌短謌」と刻まれているようです。

正成関連の歌を集めた碑でしょうか?


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墓所横に建てられた忠魂塔です。


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寺領には、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)陵もあるのですが、また別の機会に紹介します。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-11 22:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その102 「観心寺」 大阪府河内長野市

大阪府河内長野市にある観心寺を訪れました。

ここは、観心寺は楠木正成一族の菩提寺で、正成の少年時代の学問所だったという伝承もあります。


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山門横では、正成の騎馬像が迎えてくれます。

神戸の湊川公園の騎馬像よりは小振りなものです。


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逆光の撮影なのでわかりにくいですが、精悍な顔をしています。


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観心寺の寺伝によると、大宝元年(702年) に役小角によって開かれ、当初は雲心寺と称したとされますが、天長4年(827年)に空海がこの地を訪れ、「観心寺」の寺号を与え、その一番弟子の実恵が実質的な開祖となった寺院です。


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国宝の金堂です。

14世紀に入ると、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は当寺を厚く信任し、建武の新政成立後(1334年ごろ)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営のを出し、 現在の金堂ができたそうです。


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金堂は「折衷様建築」の代表作といわれているそうです。

寺院建築には、鎌倉以前から寺院建築として用いられた地震に強い「和様」、鎌倉時代初期にに東大寺再建にあたって採用された大形建築に対応できる「大仏様」、同じく鎌倉時代初期に禅宗と共に日本に伝わった「禅宗様」があるそうですが、「折衷様」は、その良いとこ取りをした建築様式のことをいうそうです。

かつては折衷様のことを「観心寺様」とも呼んだほど、この金堂が折衷様を代表する建物なんだそうです。


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金堂は大阪府下最古の国宝建築物といわれているそうで、これまで、17世紀はじめの豊臣秀頼の時代、江戸時代中期、明治の初め、昭和の初めに修理が行われ、昭和59年(1984年)に昭和大修理が行われ、現在に至っています。


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こちらは、重要文化祭の建掛塔です。

正成は報恩のため三重塔の建立に着工したと伝わりますが、延元元年/建武3年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」で正成が戦死したため工事はストップし、“建掛(たてかけ)”の塔として今に残ってと伝わります。


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のちに屋根の小屋組みと茅葺の屋根が架けられたそうです。

たしかに、これ単体のお堂と見るには、やけに屋根が大きくてアンバランスな気がしないでもないです。

でも、正成が死んでも、その子供たちが遺志を継いで完成させることはできたはずなんですけどね。

境内には、楠木正成の首塚と伝えられる場所がありるのですが、続きは次稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-10 21:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その101 「真光寺」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある真光寺を訪れました。

一遍上人が中興の開祖として知られる同寺ですが、「湊川の戦い」の戦後、足利尊氏楠木正成供養を行ったと伝わる寺でもあります。


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正成の首は前稿で紹介した阿弥陀寺の石の上で首実検が行われたあと、京の六条河原1日だけ晒されますが、その後、尊氏はここ真光寺において正成の大供養会をとりおこない、首は正成の本拠地である河内の水分に届けさせたと、『太平記』は伝えます。

正成と袂を分かつことになった尊氏でしたが、かつての戦友の死を、決して粗末に扱わなかった点、尊氏も思うところがあったのかもしれませんね。


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現在の境内には、その歴史を知らせてくれる史跡はありません。


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真光寺はたいへん大きなお寺で、一遍上人が没した寺だと伝わります。

境内の一角には一遍上人の廟所があり、五輪塔は国の重要文化財に指定されています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-09 23:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その100 「阿弥陀寺(楠木正成首改め石)」 神戸市兵庫区

神戸市兵庫区にある阿弥陀寺にやってきました。

ここには、湊川の戦いに勝利した足利尊氏が、討死した楠木正成首実検を行ったと伝わるがあります。


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本堂です。


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境内の一角に、池を松が囲んだ庭園風の場所があります。

その池の中央に、大きな石があるのですが、これが「楠木正成首改め石」だと伝わるものです。


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説明板によると、池中の大石は、平清盛が魚を供養するために建てた魚の御堂礎石とも伝えられますが、延元元年/建武3年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」に大捷した足利尊氏が、須佐の入江の奥にあった魚の御堂で、楠木正成の首あらためをしたとも伝えられます。

尊氏は、かつての戦友であり好敵手でもある正成の首と、この石の上で対面したんですね。

その後、この石は福岡藩主・黒田長政神戸別邸にあったそうですが、やがて屋敷は兵庫の絵屋の鷹見家にゆずられ、さらにその後、同寺に寄贈されたそうです。


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石の表面が一部赤くなっているのは、楠木正成の・・・ではなく、第二次大戦における神戸大空襲の折、石が焼けたためだそうです。


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あと、湊川の戦いには無関係ですが、境内には、元和6(1620)年に徳川幕府によって進められた大坂城再築普請に参加した加藤肥後守忠広清(清正の長男)の、石場を示す刻印石がありました。


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小さなお寺なんですが、平清盛、足利尊氏、楠木正成、黒田長政、加藤忠広と、各々の世代で歴史に名を刻んだ諸将たちと、深く関わった阿弥陀寺でした。




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by sakanoueno-kumo | 2017-08-08 23:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その96 「阪本城跡(大倉山公園)」 神戸市中央区

前稿で紹介した廣厳寺のすぐ北に、大倉山公園という市民憩いの場があるのですが、ここに、かつて楠木正成が築いた阪本城があったといわれているそうです。


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阪本城が築かれたのは、建武年間(1334年~1338年)だったと考えられているそうですが、詳しいことはわかっていません。

ただ、時期的に見て、「湊川の戦い」に何らかの役割を果たしていたと考えられるでしょうね。


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公園は高台になっており、現在は高層の建物によって遮られていますが、かつては海まで広く見渡せていました。

攻防戦にはもってこいの場所といっていいでしょう。

城といっても、たぶんのようなものだったでしょうから、あるいは、正成軍は野戦に敗れて阪本城に逃れる途中、このすぐ南の湊川神社か廣厳寺あたりで自刃して果てたのかもしれません。


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また、時代は250年ほど進んだ天正8年(1580年)、織田信長に反旗を翻した荒木村重が最後に籠城した「花隈城の戦い」のとき、織田軍の池田恒興がこの地に陣を布いたと伝わります。

時代は違えど、戦の砦となり得る場所は同じだったということですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-01 23:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その95 「廣厳寺」 神戸市中央区

「その92」「その93」「その94」で紹介した湊川神社から400mほど北上ところに、廣厳寺という寺院があります。

ここは別名「楠寺」とも呼ばれ、楠木正成菩提寺となりました。

正成は「湊川の戦い」を前にしてこの寺に参り、明極禅師と問答して大いに悟って戦いに臨んだと伝えられます。


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また、正成と弟の楠木正季自刃したのも、ここ廣厳寺の塔頭だったとも言われます。

戦歿地としては「その92」で紹介した湊川神社本殿裏がありますが、実際には、このあたりということだけで、詳細な場所はわかっていないのでしょうね。


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もはやこれまでと観念した正成は、部下を布引方面に逃した後、湊川北の民家に入って小屋に火をかけて自刃したと伝えられますが、その民家というのが、ここ廣厳寺の塔頭だった・・・と。


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その後、当寺は一時、荒廃しますが、延宝年間に千巌宗般が荒廃この寺を再興。

そのとき、千巌は水戸黄門で知られる徳川光圀が楠公を追悼する建碑の意向があることを知り、強く請願したと伝えられます。

境内にある石碑には、たぶんそのことが書かれていると思います(スミマセン、読解できません)。

現在、徳川光圀が揮毫した「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑は、前稿で紹介した近くの湊川神社にあります。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-29 08:19 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その94 「楠木正成墓所(湊川神社内)」 神戸市中央区

前稿前々稿で紹介した湊川神社の境内には楠木正成の墓所があります。


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墓所の入口門です。


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墓所です。


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この正成の墓は、正成の死から350年以上経った元禄5年(1692年)に、水戸黄門の呼び名で知られる徳川光圀によって建てられたものです。


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墓碑に刻まれた「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字は、光圀公の揮毫だそうです。

裏面にはの遺臣・朱舜水の作った賛文が刻まれているそうです。

この墓碑建立の実務を担当したのは、あの「助さん」でお馴染みの佐々宗淳だったとか。


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この墓碑の建立によって、正成の名声は大いに宣揚され、180年後の幕末勤王思想の力強い精神的指導力となりました。

西郷隆盛坂本龍馬木戸孝允など幕末の名だたる志士たちのほとんどが、この墓前を訪れ、至誠を誓ったといいます。

そのとき志士たちが詠んだといわれる歌の一端を紹介すると、


「七たびも生き返りつつ夷(えびす)をぞ攘(はらわん)こころ我忘れめや」 吉田松陰

「湊川にてみなと川身を捨ててこそ橘の香しき名は世に流れけん」 久坂玄瑞

「桜井のその別れ路もかかりけむいまのわが身に思ひくらべて」 入江九一

「日頃ながさん私の涙、何故に流るるみなと川」 吉田稔麿

「月と日の昔を偲ぶ湊川流れて清き菊のした水」 坂本龍馬


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上の写真は裏面の賛文の写しです。

幕末、あの吉田松陰はこの拓本を松下村塾に掲げて志士の教育にあたったといいます。


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墓所の側には、光圀公の像があります。

何となく東野英治郎さんに似てるように思うのですが、気のせいでしょうか(笑)?

そうそう、今秋はじまる新しい『水戸黄門』では、武田鉄矢さんが黄門様を演じるそうですね。

武田鉄矢さんといえば、大河ドラマ『太平記』における楠木正成。

こんなところにも繋がりがあろうとは。


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この水戸光圀が作り始めた『大日本史』が、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)や楠木正成を正統化し、正義と認定したせいで、それに反逆した足利尊氏逆賊となりました。

その思想が、幕末の足利三代木像梟首事件を生むわけです。

現代ではその歴史観は見直されつつありますが、それでも、今なお天皇家の正統は南朝とされたままであったり、少なからずその名残は残っているといえます(ちなみに、現在の天皇家につながる血筋は北朝のものです)。


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銅像の横に立つ頌徳碑の文は、徳富蘇峰の文によるものだそうです。

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光圀が墓碑を建てる以前からも、正成の墓所と伝わる塚はあったようで、そこに、同所(坂本村)を領していた尼崎藩主・青山幸利が塚に松梅を植え石塔を安置して墓標としたと伝わり、その後、光圀が墓碑を建てたあとも、尼崎藩主は代々、灯籠を寄進しており、常夜灯の油料も藩が下付していたそうです。


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それが、写真の石灯籠です。


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こちらは尼崎藩桜井松平家5代・松平忠名の寄進。


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こちらは7代・松平忠寶


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こちらは8代・松平忠誨


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こちらは10代にして尼崎藩最後の藩主・松平忠興の寄進です。


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傷まずにすべてきれいに残っているあたり、ちゃんと手入れを怠らずに管理してきたことがわかります。


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『太平記』巻16「正成兄弟討死事」は、最後にこう結びます。


智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。

(「智・仁・勇」の三つの徳を持ち合わせた人間が、死をもって人としての道義を守った例は、いにしえから今に至るまで、正成ほどの者はいない。そんな正成兄弟が共に自害を遂げたことは、今の後醍醐天皇が結果として国を追われ、逆臣が横暴な権威を振りかざすこととなる、その前触れだったのだろう。)


正成が稀代の英雄とされたのは、『大日本史』以前からだったようですね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-28 00:21 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その93 「楠木正成戦歿地」 神戸市中央区

前稿で紹介した湊川神社の本殿の裏に、何やら特別な場所といった感じの一角があります。

近寄ってみると、「楠木正成公戦歿地」と刻まれています。


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延元元年/建武3年(1336年)5月25日に起きた「湊川の戦い」で、足利尊氏の弟・足利直義軍と戦った楠木正成は、激戦の末、弟の楠木正季と共に自刃して果てますが、ここがその場所だったということでしょう。


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「戦歿地」玉垣に囲われていて、門が閉ざされています。

中を参拝するには社務所への申し出が必要です。

なんとも厳かな雰囲気で、まるで天皇陵のよう。


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説明看板によると、正成はこの地で、一族郎党60余人と共に自刃したとあります(『太平記』では73人全員が自刃したと記されている)。


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『太平記』によると、楠木軍は総勢700余りで、足利尊氏・足利直義両軍に囲まれてからは、前方の直義軍に向かうのが精一杯で、三刻(6時間)ほどの間に16回もの激戦がくりひろげられ、「その勢次第々々に滅びて、後わずかに七十三騎にぞ成たりける」と、楠木方はとうとう73人になってしまったと記されています。

もはやこれまでと観念した正成は、部下を布引方面に逃した後、湊川北の民家に入って小屋に火をかけて自刃したと伝えられます。


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伝承によれば、まず部下たちが念仏を十回唱えて一度に腹を切り、その後、正成、正季兄弟が刺し違えて果てたといいます。

『太平記』によれば、死の間際、「人間は最後の一念で善悪の生を引くが、九界のうちどこに生まれたいか?」という兄・正成の問に対し、弟・正季が「七度生まれ変わっても朝敵を倒したい」と答えたというくだりは有名ですね。


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以下、『太平記』巻16「正成兄弟討死事」原文。


正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。


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この「七生滅賊」の逸話に、後代に「報国」の意味が加わって「七生報国」となり、先の戦時中のスローガンとなりました。

正成、正季兄弟が本当にこのような会話を交わしたかどうかはわかりませんが、600年後、まさか自分たちの言葉が、国民を死地に送り込むための呪文になろうとは、夢にも思わなかったことでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-27 00:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その92 「湊川神社」 神戸市中央区

前稿で紹介した湊川公園から直線距離にして800mほど東にある湊川神社を訪れました。

ここは「湊川の戦い」討死した楠木正成を祀る神社で、境内には正成の墓所があります。


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湊川神社の創建は比較的新しく、明治元年(1868年)、明治天皇(第122代天皇)が正成の忠義を後世に伝えるために神社の創建を命じ、明治5年(1873年)に創建されました。


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全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、「別格官幣社」に定められた第一号神社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) にここ湊川神社が定められたのに始り、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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正門には、楠木氏家紋の菊水が。


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現在の社殿は、第二次世界大戦空襲によって焼失したものを、昭和27年(1952年)に復興新築されたもので、様式は権現造に似た八棟造りとされ、鉄筋コンクリート造で建てられており、戦後の新しい神社建築様式としての代表的な建物と言われています。


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本殿は三つの御扉が見え、三座に分かれ祀られているそうです。

中央の御扉の奥には主神の正成、向かって右には正成夫人、向かって左には嫡男の楠木正行と、正成と刺し違えて自刃した弟の弟の楠木正季以下、一族十六柱と、楠木兄弟と共に自刃した菊池武吉が祀られています。


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社殿内には、「非理法権天」旗印が見えます。

「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


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境内の参道横には、「大楠公御一代記」と題した大きな紙芝居調の看板があります。


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お時間の許す方は、しばし、ご覧あれ(笑)。


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撮影禁止だったので写真はありませんが、境内にある宝物殿にも、正成ゆかりの品々が多数展示されていました。


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5年に一度行われている「楠公武者行列の巡行」のイベントが、来年(平成30年)5月に行われるそうです。


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かつては皇国史観バリバリ国粋主義に政治利用された神社でしたが、現在は、わたしたち神戸市民のあいだでは「楠公(なんこう)さん」と親しみを込めて呼ばれています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-25 22:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)