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太平記を歩く。 その28 「陶器城跡」 大阪府南河内郡河南町

大阪府堺市にある陶器城跡を訪れました。

ここは現在、「東陶器公園」という児童公園になっています。


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公園奥にフォンスに囲まれた森のような一角があります。

ここに案内板が設置され、高さ2mほどの土塁跡が保存されています。


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フェンス越しの写真じゃわかりづらいですね。

直に見ると、結構立派な土塁です。


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案内板です。

その説明によると、陶器城は鎌倉時代の終わり頃、北条氏の家臣・陶器左衛門尉の居城だったそうですが、元弘3年(1333年)1月15日、楠木正成一族による河内国・和泉国の北条氏掃討作戦の一環として、攻め滅ぼされました。

このとき陶器氏も滅亡したとされます。

また、正平6年・観応2年(1351年)には南朝方の和田助氏淡輪助重が、北朝方の籠もる陶器城を攻めています。

その後の陶器城の歴史はよくわかっていないようです。


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フェンス内には、堺市指定保存樹となっているクスノキの巨木が聳えます。


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樹齢がどのくらいかわかりませんが、あるいは、往時を知っているかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-17 19:16 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その27 「二上山城跡」 大阪府南河内郡太子町と奈良県葛城市の境界

奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる二上山の山頂にあったと伝わる二上山城跡を訪れました。

旧令制国名でいえば大和国と河内国の国境にあたり、元弘2年(1332年)に楠木正成が築いたとされる楠木七城のひとつとする説がありますが、確証はありません。

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金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がラクダのコブのように並ぶ山で、現在は金剛生駒紀泉国定公園の区域に指定されています。


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二上山への登山ルートは複数ありますが、神戸から来たわたしは、山の西側、つまり大阪側から登ります。


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このあたり一帯は「万葉の森」と名付けられて公園整備されています。

河内郡太子町といえば聖徳太子ゆかりの地として、8世紀頃の古代遺跡が数多くあります。


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登山道は険峻なコースと整備されたハイキングコースがありますが、この日の往路はハイキングコースで。


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登山道途中にある石切場跡

奈良県明日香村にある有名な高松塚古墳の石山は、ここで採れた二上山凝灰岩が使用されているそうです。


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ここから、岩屋史跡を経由するコースを選びます。


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ここが、その岩屋遺跡

この遺跡は奈良時代の石窟寺院跡で、間口7m、奥行き5m、高さ6mの石窟です。

中央に建つ蔦が絡んだ石造りのものは、三重の塔です。

ここは、奈良時代に藤原豊成の娘・中将姫にまつわる逸話が残る場所ですが、長くなるのでまた別の機会に。


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岩屋跡に設置された年表看板では、「楠木正成が河内七城のひとつ二上山城を創る(弘安九)」と断定しています。


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岩屋跡の向かいには、樹齢約600年と言われる杉の巨木が横たわっています。

根回り約8mのこの杉は、最近までその樹勢を保っていたそうですが、平成10年(1998年)の台風で倒れてしまったのだとか。


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こちらの看板には、樹齢千年と書かれています。

あるいは、二上山城が築かれた当時を知っていたかもしれません。


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岩屋を後にすると、さらに山頂を目指して登ります。


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途中、ふり返ると、西に「その24」で紹介した嶽山城(龍泉寺城)跡が見えます。


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拡大します。


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登山を初めて約40分、標高474mに雌岳山頂につきました。

この日は10月30日の小春日和で、山頂は多くのハイカーさんで賑わっていました。


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山頂にある万葉の句碑


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山頂から見た北西の眺望です。

空気の澄んだ日は神戸の六甲山系まで見えるそうですが、この日は霞んで見えませんでした。


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拡大すると、あべのハルカスが見えます。


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南側には金剛山系が連なります。


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西側には奈良県飛鳥地方が一望できます。

なるほど、河内国から大和国をほぼ360度近く見渡せるわけですね。

正成でなくとも、ここは拠点として抑えておきたい場所です。


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しかし、二上山城があったとされるのは雄岳の山頂。

そのまま北側尾根伝いに雄岳を目指します。


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雄岳山頂近くまで登ると、土塁跡らしき遺構と思われる地形が見られ始めます。


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標高517mの雄岳山頂につきました。


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本丸跡と思われる山頂は、東西に細長い削平地となっています。


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こちらは、山頂に鎮座する二上神社


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二上山城は楠木正成が築いたと言われる説の他に、室町時代初期に河内国守護となった畠山氏高屋城の支城として築いたという説もあるそうです。


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本丸跡の東側の一段下がった二ノ丸跡と思われる場所には、大津皇子があすます(異説あり)。


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大津皇子は天武天皇(第40代天皇)の第3皇子で、天武天皇の死後、皇位継承争いのなかで謀反の疑いをかけられ、24歳の若さで自刃に追い込まれた悲劇の皇子です。


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現在は宮内庁の管理下にあり、中に入ることはできません。


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下山は険峻なコースを選びました。


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道中にある鹿谷寺跡

鹿谷寺は8世紀に造られたとされる凝灰岩の岩盤を掘り込んで作られた大陸風の石窟寺院です。


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中国大陸には敦煌龍門石窟など、数多くの石窟寺院が見られるそうですがが、奈良時代にまでさかのぼる本格的な石窟寺院は、日本ではここ以外には知られていないそうです。


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写真は寺跡の中心にある十三重の石塔


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その奥の岩窟の壁には、線刻の三尊仏坐像がかすかに浮かんでいます。


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さて、今回は太平記と直接関わりのない稿でしたが、ずいぶん長くなっちゃいました。

これで、金剛山系の正成に関連する城跡は、全て制覇したと思います。

が、シリーズはまだまだ続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-15 22:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その26 「平石城跡」 大阪府南河内郡河南町

前稿で紹介した持尾城跡から直線距離にして1.5kmほど北上したところに、平石城があります。

平石と書いて「ひらいわ」と読みます。

ここも、楠木家ゆかりの城跡です。


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写真中央に見える小高い山の頂きに城跡があります。

稲穂がきれいですね。


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集落のいたるところに案内板が設置されていますので、迷うことはありません。


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民家の間を抜けて入山します。


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山頂に近づくにつれ、土塁跡堀切跡などの遺構に目を奪われます。


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山頂へは入山してから15分ほどで登れます。


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二の丸跡から本丸跡への登り口です。


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本丸跡です。

細長い構造になっています。


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石柱と案内板が設置されています。


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案内板の説明によると、平石城は、この地の豪族・平岩茂直が、楠木正成赤阪挙兵に応じて築いた城だそうです。

元弘元年(1331年)赤阪城攻略にむかう北条幕府軍は、平石峠を越えて大和国から河内国に進入しますが、茂直はこの城にたてこもって防戦したそうです。

前稿の持尾城と同じく平岩氏の城だったようですが、持尾城は楠木正成が築いた城で、平石城は平岩茂直が築いた城と説明されていますね。

両城は目と鼻の先ですから、同時進行で築いたのでしょうか。


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また、『太平記』巻34によると、時代は下って正平14年(1359年)、足利勢が河内国に攻め入ったときには、正成の三男・楠木正儀17ヶ所の城を整備してこれを防いだと伝わりますが、この城も17支城のひとつとして修築され、平岩茂直の子・平岩茂幸が防戦したそうです。


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本丸跡には、その平岩茂直の墓碑があります。


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他にも、平岩氏一族のものと見られる墓碑が複数立ち並んでいます。


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ここを訪れたのは夏真っ盛りの8月7日。

本丸は木が生い茂って景色は見えませんでした。


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下山して集落の奥から似た西側の景色です。

向こうに見えるのが嶽山城(龍泉寺城)

稲穂がきれいです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-11 21:16 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その25 「持尾城跡」 大阪府南河内郡河南町

前稿で紹介した嶽山城(龍泉寺城)から千早赤阪村を挟んで6kmほど北西にある、持尾城跡を訪れました。

ここも、元弘2年(1332年)に楠木正成が築いたと伝えられる城です。


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持尾地区は道が狭く車を停める場所がないと聞いたので、途中で車を置いて歩きます。


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こんな誘導サインがあるので、すぐにわかります。


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ここから西側の眺望です。

右に見えるのが某教団の平和の塔、左に見えるのが嶽山城(龍泉寺城)のある嶽山です。


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嶽山の拡大です。

山頂に見えるのが「かんぽの宿」です。


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前方に見えるのが、持尾城跡のある山(丘?)です。

標高336mあります。


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集落全体が坂道しかありません。


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二ノ丸跡らしき削平地に、眞念寺という小さなお寺があります。


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同じく二ノ丸跡には、磐船神社という古い神社が鎮座します。


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その向かい側に、本丸跡に登る登城口があります。


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その側に設置された説明板。


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本丸跡です。

小さな石碑と説明板が設置されています。


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説明板によると、持尾城は元弘2年(1332年)に楠木正成が築いた城のひとつで、平岩氏がたてこもって戦ったといわれるそうです。

大和国から河内国へ進入する北条幕府軍の様子がよく見えるため、のろし台の役割を果したのではないかと思われるそうです。


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本丸跡はそれほど広くなく、小さな砦のような城だったのではないでしょうか?

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石碑の横にはあずまやが建てられています。


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本丸跡から見る西の眺望です。

樹が邪魔だなあ。


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ここからも、嶽山城(龍泉寺城)が見えます。


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遠く北西には、大坂市街地が見えます。

高く聳えているのはあべのハルカス


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こっちは南西の眺望。

千早赤阪村方面です。


さて、次回も楠木ゆかりの城跡です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-03-10 18:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その24 「嶽山城(龍泉寺城)跡」 大阪府富田林市

烏帽子形城から北西に4kmほどのところにある嶽山城跡にやってきました。

ここは、富田林市にある標高278m嶽山山頂にあり、その中腹に龍泉寺があることから、龍泉寺城とも呼ばれています。

ここも、元弘2年(1332年)に楠木正成が築いたとされる楠木七城のひとつに数えられます。


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嶽山山頂へは車で登れます。

現在、山頂には「かんぽの宿富田林」があり、城の遺構らしきものはほとんど残っていません。


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かんぽの宿の建物北側にテニスコートがあるのですが、その裏手に石碑があるというので、行ってみました。


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茂みのなかに入っていくと・・・。


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ありました。


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「楠公龍泉寺城」と刻まれた石柱です。

楠公没後600年祭記念として昭和15年(1940年)に建てられたそうです。


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築城時の龍泉寺城は、正成の弟・楠木正季の居城だったと伝わり、正季は楠木龍泉とも呼ばれます。

正季は正成とともに湊川の合戦で命を落とします。


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『太平記』巻34によると、正成の三男・楠木正儀の時代にも戦場になったようです。

詳しくは上の説明板をお読みください。


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嶽山山頂から東を望むと、金剛山、葛城山が聳えます。

ここを訪れたのは夏真っ盛りの8月6日、今にも雨が振りそうな空ですが、このあと、強烈なゲリラ豪雨に見舞われました。


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せっかくなので、中腹の龍泉寺にも立ち寄りました。


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寺伝によれば推古天皇2年(594年)に蘇我馬子が勅命を受けて建立したとされます。


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天長5年(828年)淳和天皇により寺は再建され、勅願寺として龍泉寺医王院の寺号を賜ったそうで、東西両塔が建てられ、大小25の塔頭が立ち並ぶ大寺院となったといいます。


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しかし、山頂に楠木正成が城を築いたことで戦火に巻き込まれ、ほとんどが焼失しました。

龍泉庭園は、国指定の名勝となっています。


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南河内には楠木正成ゆかりの城はまだまだあります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-03-09 21:56 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その23 「烏帽子形城跡」 大阪府河内長野市

千早赤阪村の隣、河内長野市にある烏帽子形城跡にやってきました。

ここは、元弘2年(1332年)に楠木正成上赤坂城支城として築城したといわれ、楠木七城のひとつとされています。


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烏帽子形城跡は国の史跡に指定されており、城跡公園として整備されています。


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城跡は標高182m烏帽子形山の山頂にあり、北と西は断崖でその足元には石川、東側は河岸段丘が広がり天見川に落ち込んでいます。

したがって、東西北の三方は川に囲まれ、南方のみを開けた構造で外堀の役割を果たしています。
ここは京と堺と高野山を結ぶ東高野街道西高野街道高野街道に合流する地点で、河内国から和泉国へ抜ける河泉街道、紀伊国とを結ぶ九重道、大和国へは大沢越えの道などが分岐しており、交通の要衝でした。


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登城道は公園整備されているので歩きやすく、15分ほどで本丸跡までたどり着きます。

ただ、勾配は結構キツイです。


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見事に土塁跡が残ります。


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本丸跡です。

それほど広くはありません。


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本丸跡に設置された復元予想図です。


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築城時は、楠木正成の部将・高向氏が籠もって戦ったと伝わります。

その後、応仁の乱以後は守護畠山氏の持城となり、たびたび戦場となります。

天正年間には橘長治が城主となり、大阪夏の陣後の元和3(1617年)に廃城となります。


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本丸跡から見た北側の眺望です。

ここからも、某教団の平和の塔が見えます。


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二ノ丸跡です。

本丸跡はそれほど広くありませんでしたが、二の丸跡は結構な広さです。


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めちゃめちゃ立派な堀切跡です。


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とにかく、遺構の保存状態が良好で、THE城跡・・・といった感じです。


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城跡公園内には、烏帽子形古墳もあります。

6世紀後半から7世紀にかけてのものと考えられているそうです。


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烏帽子形山の東麓には、烏帽子形八幡神社があります。


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楠木一族の楠小二郎という人物が創祀したものと伝えられ、その後、しばらく荒廃していましたが、烏帽子形城が廃城となった元和3年(1617年)、楠木一族の後裔といわれる甲斐荘喜右衛門正保が改修したそうです。


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本殿は国の重要文化財に指定されています。


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本殿の向かいには「楠公武威松」と刻まれた石碑と、古い切株が祀られたがありました。


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説明板によると、楠木正成が湊川の戦いに出陣の折、武運を祈願して植えたとされる老松の巨木「楠公武威の松」がこの場所にあったそうですが、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れ、樹齢約600年の寿命を閉じたそうです。

その老木を輪切りにして祀ったのが、これだそうです。


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ガラスが反射して、写真ではよくわかりませんね。


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さて、次稿も楠木七城のひとつを訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-03-08 20:38 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その22 「寄手塚・身方塚」 大阪府南河内郡千早赤阪村

千早赤阪村森屋地区の丘陵地にある墓地のなかに、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の建武の新政の成立後楠木正成が元弘元~3年(1331~1333年)に起きた千早・赤阪の戦いでの戦死者を弔うために建立したと伝えられる五輪塔が2基あります。

そのひとつは、味方の霊を弔った「身方塚」、そしてもうひとつは、敵の戦死者を弔った五輪塔で、「寄手塚」と呼びます。


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上の写真は「身方塚」です。


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総高137.3cmだそうで、五輪塔の下には蓮華の花をかたどった反花基壇を設けています。


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そして、こちらが敵方を弔った「寄手塚」

総高182cmあり、「身方塚」よりひと回り大きなものとなっています。


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「寄手」とは、敵軍の兵士のことを指しますが、正成はあえて「敵」という表現を使わず、「寄手」という表現を使って魂を静めたといわれます。

また、味方の兵を弔うための身方塚よりも、寄手塚の方が大きいのも、敵に敬意を表したものといわれています。

これらのことから、楠木正成の人柄の良さをうかがい知ることができると伝わります。

ただ、無粋なことをいえば、これらが本当に正成が建立したものかどうかは、定かではありません。


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寄手塚・身方塚から望む景観です。

右が金剛山、左が葛城山です。

五輪塔が建てられた700年前も今も、ここからの眺めはそれほど変わってないんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-03 20:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その21 「建水分神社・南木神社」 大阪府南河内郡千早赤阪村

前稿で紹介した「奉建塔」のすぐ近くにある「建水分神社」を訪れました。

「たけみまくりじんじゃ」と読みます。

難しい読みですね。

ここは、楠木氏の氏神として崇拝された神社です。


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その社伝によると、建水分神社の始まりは崇神天皇(第10代天皇)の時代に遡り、2000年以上の歴史があるとされています。

祭神はその名のとおり水を司る神で、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池を作ることが勧められましたが、このとき、金剛葛城の山麓水分神が祀られたのに始まるそうです。


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かつては現在の場所から北に約100mの水越川のほとりにあったそうですが、楠木正成鎌倉幕府軍との戦火に巻き込まれ、荒廃してしまいます。

そのため、建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在の場所に本殿、拝殿、鐘楼などを再建したそうです。


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鳥居の扁額は、もともとは楠木正行によって奉納された後醍醐天皇宸筆といわれる木額ものがあったそうですが、表面の文字が摩滅したため、宝永2年(1705年)に金銅製にて模造されたものだそうです。

揮毫は、時の前大納言・葉室頼孝によるものだとか。


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急な階段の上に社殿が見えます。


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本殿は重要文化財に指定されているそうですが、一般に参拝できるのは、ここ拝殿前まで。


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また、同じ境内には、摂社の南木神社(なぎじんじゃ)があります。

祭神は楠木正成。

「南木」は、「楠」の偏と旁をバラしたものですね。


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建武3年(1336年)5月25日、正成が湊川の戦いで討死すると、翌・延元2年(1337年)に後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)自ら正成の尊像を彫り、建水分神社の境内に祀ったのが始まりと伝わります。

楠木正成を祀る神社は各地にありますが、ここ南木神社が最古だそうです。


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その後、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)より「南木明神」の神号を賜ったそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-02 20:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その20 「奉建塔」 大阪府南河内郡千早赤阪村

「楠公生誕地」碑から南へ徒歩3分ほどのところに、楠公没後600年祭記念として昭和15年(1940年)に建てられた「奉建塔」があると聞き、訪れてみました。


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丘の上の森の上に、白い雲に突き出るように塔の頭がのぞいているのがわかるでしょうか?


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青空が美しいですね。


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ここは、1~2月には約5万本のニホンスイセンが咲く「スイセンの丘」になるそうで、春には、桜の名所としても知られているそうですが、わたしが訪れたこの日は初夏の7月3日。

かろうじてアジサイが綺麗でした。


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で、丘の上に建つ「奉建塔」です。

ど、ドでかい!!


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奉建塔は徳島県の画家で楠公崇拝者であった森下白石という人が発起人となり、全国の小、中、青年学校の児童生徒、教師などから、当時の金で10余万円の寄附を集めて建設したそうです。

塔の高さは43尺(約13m)あり、これは、楠木正成戦死した年齢に因んでいるそうです。

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塔柱および基礎は鉄筋コンクリートで、その表面には花崗石を積み、その重さは最大1300貫(4876kg)あり、当時の技術では相当の難工事だったようです。

工事着手は昭和11年(1936年)1月、竣工は昭和15年(1940年)5月15日でした。


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上部の「菊水」は楠木家の家紋。

その下に刻まれた「非理法権天」の文字は、「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


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塔の下段には、頼山陽『日本外史』による楠公をたたえる句(漢文)が刻まれています。


「大楠公於笠置奉答後醍醐天皇之辞」(大楠公笠置に於いて後醍醐天皇に奉答するの辞)


時代は折しも第二次世界大戦に向けて緊張しはじめていた時期、皇国の忠臣として崇め奉られていた楠木正成の没後600年祭は、国民の精神高揚のために大いに政治利用されたであろうことは想像に難しくありません。

この塔が教育者たちの寄付でできたという事実も、当時の教育機関の事情を知ることができます。

戦後、日教組が頑なに左翼的思想に傾倒していくのも、こういった歴史があったからなんですね。

この「奉建塔」は、楠公関連史跡というより、昭和の皇国史観の史跡といえるでしょうか。


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「奉建塔」の建つ丘の上から南を望みます。

青空と緑が美しいですね。

左に見える山が、山頂に上赤坂城跡のある山です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-03-01 19:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その19 「楠公産湯の井戸」 大阪府南河内郡千早赤阪村

前稿で紹介した「楠公生誕地」碑のすぐ近くに、「楠公産湯の井戸」と呼ばれる古い井戸跡があります。

その伝承によれば、楠木正成がこの地で生まれたとき、この井戸の水を産湯に使ったのだとか。


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青々とした稲の絨毯のなかに、「楠公産湯井北エ一丁」と刻まれた石柱があります。

石柱はかなり古いもののようで、この伝承が昔から存在したことを物語ってくれています。


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こちらには、千早城跡にあったものと同じ藁人形を模したブリキの人形が。


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田畑の間の谷底に井戸があるようで、観光客用にヒノキで作られた階段が設置されています。


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井戸には屋根が作られています。


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で、これがその伝承の井戸です。

いまも水が湧き出ています。

何の変哲もない、ただの古い井戸です。

石垣はきっと、当時のものではないでしょう。


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当時、井戸は集落ごとに共同で使われていたでしょうから、正成の産湯というよりも、この一帯で生まれた赤子の産湯は、おおかたこの井戸の水を使っていたのでしょう。

だから、正成がこの地に生まれたのであれば、ここが産湯だった可能性は十分にあるでしょうね。

『太平記』では、楠木正成は河内国金剛山の西、赤阪村水分(みくまり)山の井で生まれたと伝えており、楠木氏は橘諸兄の後裔としています。

吉川英治『私本太平記』でも、正成の生まれは水分としていますね。


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ただ、前稿でも述べたとおり、そもそも正成の生誕地は諸説あって、ここ水分の地に生まれたことを立証する史料はなにもありません。

もっとも、そう言ってしまえば身もふたもないんですけどね。

この地が楠公さんの生誕地とうたっている以上、ここは楠公産湯の井戸と言っていいでしょう。

まあ、話のネタですね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-25 00:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)